タイラントの視界には、一面に広がる血の海があった。
そこに浮かぶ茶色の島々は、無数の死体。
父親、母親、兄、姉、弟、妹……。
血の泥濘に足を取られそうになりながら、必死で逃げる。
（……あ…れ……？）
裸足の感触。視点は不思議なほど地面に近く、全力で走っている筈なのになかなか前へ進めない。
何だってこんなに体が重いんだ？ と思い、不意にタイラントは納得した。
（……あぁ……そうか……）
これは夢だ。あの日の夢。
（だとすると……）
呟いて、振り返る。あの日と同じように。

振り返ったそこに、ナイフを振りかざした男が居た。逆光で顔は判らないが、殺意に満ちた瞳だけは、はっきりと見える。
次の瞬間、不意に男の首がガクリと仰向いて。
そして、その喉元から鮮血が迸った。
青く晴れ渡った空に、真っ赤な血が吹き上がる。
それがタイラントの頭から、雨のように降り注いで。
冷え切った身体に、まとわりつく血がひどくあたたかくて、何故かほっとする。
ただ立ち尽くして見上げるタイラントの視界の中で、首を掻き切られた男がゆっくりと倒れ、その後ろに立っていたもう一人の男の姿があらわになった。
手に持っているのは血に染まったナイフ。
髪の先から滴り落ちるほど、全身に返り血を浴びて。
「……よぉ、生きてるか？」
陽気に問われ、タイラントは無意識に頷いた。
「そうか……」
そのまま暫し黙って、男がタイラントを見る。何かを考えているかのような、気遣わしげな瞳。
「……生きたいか？」
不意にそう問われ、タイラントは目を瞬かせた。言われた意味がよく判らず、ただぼんやりと男を見上げる。
「お前の家族は全員死んだ。生き残ったのはお前だけだ。運が悪かったな」
淡々と、だが容赦なく、男は事実を告げる。
「どうする？」
生きたいか、それともこの場で家族と共に死にたいか、そう男が問う。
「……ぁ……」
答えられないタイラントを静かに見下ろしていた男の瞳が、不意に鋼の色を帯びて。
次の瞬間、ナイフが閃いた。
自分の喉元へと振り下ろされるそれに、タイラントが目を見開く。
向けられた、明確な殺意。
殺される。
そう思った瞬間、咄嗟に身体が動いた。
本能のまま必死で飛び退き、ナイフを持つ男の腕に飛びかかって噛み付く。
口の中に広がる血の味。
力の限り噛み付いたまま視線を上げ、唸り声をあげながら男の冷たい瞳を睨む。
刹那の静寂。
不意に男の視線がふっと和らいだ。
口元に浮かぶ微かな笑み。
そして、男が言った。
「……なるほど。お前の選択は、よくわかった」
最初にかけられたのと同じ、陽気な声。
「……？」
言われた意味が解らず固まっているタイラントに、男が苦笑して。
「とりあえず、放してくれよ」
そう言われ、タイラントは噛み付いていた腕を外した。
鍛えられた腕にクッキリとついた歯形。目を細めてそれを見下ろし、それから、男はタイラントに視線を戻した。
「俺と来い。お前に生きるための手段を教えてやる」

その日。
鮮血を浴び、彼の手を取ったその時。
その瞬間に自分の人生が始まったのだ……とタイラントは想う。

ぼんやりと目を開き、タイラントは天井を見上げた。
（久しぶりに……思い出したな……）
あれは自分が８歳の時だから、もうだいぶ昔のことだよな、とタイラントは思う。
親兄弟を全て殺され、自分自身も殺される寸前だったタイラントは、一人の男に助けられ、それから二年後、自ら志願して少年兵となり、自ら望んでその男が率いる部隊に配属され、そして、彼と彼の部下達から戦場で生き抜くための全てを教えられたのだった。
戦場から戦場へと渡り歩いた十代の数年間。その頃に教わった戦うためのあらゆる術が、今のタイラントを支えていると言っても過言ではない。
けれど、Neo Black Ghost に身を投じて以来、タイラントはその事を殆ど思い出さなかった。そんな事を思い出さなくても、骨の髄まで叩き込まれた戦いの技は、常にタイラントの身を護り、他の追随を許さない程の卓越した戦士として周囲の者達を圧倒した。
（……隊長……）
低く呟いて、寝返りをうつ。
タイラントが彼の事をまるで思い出さなかったのは、半ば意図的に忘れようとしていたからで、その理由は勿論、タイラント自身には判っている。
（あの人は……俺の所為で……死んじまった……んだよ…な……）
彼に見捨てられたと思ったタイラントは、仲間を裏切り、敵に情報を喋った。
その結果、部隊は全滅、彼は敵の手に落ち……処刑されたのだ。
だが。
（……隊長……。あなたは…俺を……）
見捨てたのか、そうでは無かったのか、本当は、どうだったのだろう？ それを確かめる術は無い。
「………」
溜息。
（……なぁ、ジョー……どう思う……？）
心の中で００９に問いかけて。
そして、タイラントはまた溜息を吐いた。
この話を、タイラントは未だ００９にはしていない。
（……こんな話、お前にしても……いいのかな……）
聞いて欲しいような気がする。けれど、どうやって話しだせばいいのか、まるで判らない。
改まってするような話でもないし、だからといって雑談ついでにする話でも無いだろうと思う。
（だいたい、なんだって俺はジョーに聞いて欲しいんだ……？）
答えが欲しいからだろうか？ だが、００９は彼とは違う。
（そうだよな。ジョーは……あの人とは違う。違うけど……）
００９は、タイラントが心の底から信頼でき、尊敬でき、命すら預けられると思った、二人目の人物だった。そして、一人目の人物こそが、幼かったタイラントの命を助け、戦場で生き抜く術を教え、タイラントの裏切りによって死んだ、かつての上官なのだ。

その男は、陽気で、冷徹で、容赦がなく、文句無しに最強の戦士であり、部隊を統率する卓越した指揮官でもあった。
彼は戦場で生まれ育ったのだという噂で、鮮血の味と匂いが一番落ち着くんだと言い、よく敵の返り血に濡れたままで寝てしまっては部下達を呆れさせていた。けれど、確かにそうやって眠っている時が一番安らいで見えたのは事実で、だから皆、呆れながらも放っておいたものだった。
敵にとっては、恐怖と憎悪の対象。
彼に従う隊の者達にとっては、絶対的な信頼と忠誠の対象。
そして、その他の味方にとっては、最も厄介な任務を課すことのできる捨駒のような切札であり、憎悪にも似た畏怖の対象でもあった。
彼の率いる部隊は、何度となく人員の殆ど失うような壊滅的な被害を出しながらも、一度も任務を失敗したことが無く、従って、彼のターゲットとなることは間違いなく死を意味していた。
それ故なのか、彼の敵は彼を『ルシファー』と呼んだ。
ルシファー。
悪魔、あるいは、冥府の王……と。
敵だけでなく味方の中にも、密かにそう呼ぶ者もいないではなかったが、彼の前では誰もその名を口にしなかった。
何故ならば。
ある時、彼に最も多くを命じながら、彼を最も蔑んでいる男が、彼をそう呼んだ時、彼は笑ってこう答えたのだ。
『俺の敵は俺をそう呼ぶな』
ところでお前は俺を何と呼ぶ？ と。
その愉しげな瞳に、相手は言葉を失ったという。

（あの人の話をしたら、ジョーは……）
彼の死を悼むだろうか？ 彼のために泣くだろうか？
（そういや、俺……あの人の為に泣いたこと、無いよな……）
捕獲されたという話を聞いても。
過酷な拷問を受け、自力で歩くこともできなくなり、処刑場まで引きずって連れて行かれたと聞いても。
そして、誰一人として助けに現れず、それなのに陽気に笑いながら殺されたのだと聞いても。
何を聞かされても、心は痛まなかった。
自分を見捨てた彼がどうなろうと構わなかったのか、それとも……
（……信じてなかった……のかもな……俺は……）
彼が敵の手に落ちたり、ましてや殺されたりするなど、何かの冗談だとでも思っていたのかもしれない。
だが。
（あの人は……死んだ。俺の所為で……）
あぁそうか、と不意にタイラントは思う。
（多分、俺はジョーに……怒って欲しいんだ……）
なんて馬鹿な真似をしたんだと詰め寄って欲しい。そうすれば、彼の死が現実のものだと思えるような気がするから。
（……ったく、俺はほんとに……）
甘い、とタイラントは苦く笑った。

彼方まで続く砂の大地が、暁の薄明に照らされている。
ほの蒼い東の空に、ひときわ明るい星がひとつ。その隣に、細い細い月。
部屋を抜け出したタイラントは、ひとりその様を眺めていた。

（……隊長……）
神は居ない、と彼は言った。
神が居ないのだから、天国も地獄も無い。
死の先は無だ、と。
（あの人は死んだ……もう、何処にも居ない……）
だから、今更何を想っても遅い。
泣いて悔いたところで、死者が戻ることは無い。
そして。
（……隊長。俺にとって、あなたは憧れで、目標だった……。あなたみたいになりたいと……想ってた……）
だが、それこそが間違いだったのではないか？ とタイラントは思う。
本当に彼のようになりたいのなら、彼に憧れ、ただ追いかけていたのでは駄目だ。
それでは永遠に追いつけない。
（だからですか……？ だから、あなたは俺を……）
切り捨てた。
この先は自分で行け、と。
（そうだよな、あの日までの俺は、何もかも教えてもらって……護ってもらって……甘やかされてた……）
あのまま彼の元に居たら、自分は甘え続けて、ただ彼に従うだけの駒になっていただろう。
（でも、隊長……あなたには、その方が……都合が良かったんじゃないですか？）
自分自身の手でゼロから育てた、自分を崇拝し、その意のままに動く駒。それがひとつ手元にあれば、何をするにも便利だっただろうに。
（……結局あなたは……俺にだけは甘かった、ってことですか……？）
わからない。
ただの気まぐれだったのかもしれない。
だが。
（感謝、してます……隊長。だからやっぱり俺は、あなたの為には泣かない……）
そう思い、苦笑して付け加える。
（……あなたの話をしたら、ジョーは泣くかもしれませんけどね）
目を閉じ、目を開き、タイラントは遥か東を見遣る。
（ジョー……俺は、お前に付いていく）
だがそれは、００９のようになりたいという意味ではない。
（俺は俺として、お前の隣に立ちたい……）
だからこそ、自分はもっと強くならなくては、とタイラントは思う。

鮮やかな朝焼け。
一日の始まりを告げる風。
地平線から零れる金の陽光に目を細め、大きく伸びをする。
（さぁて……と）
今日の予定は何だったかな？ と呟きつつ、タイラントは踵を返した。