（本当に、気付いていないのだろうか？ それとも……）
岩陰に身を隠して気配を探りつつ、００９は前方の岩山に視線を走らせた。
遠目には岩壁としか見えないそれも、ここまで近付けば、明らかに人工物だと判る。
つまり、目の前にある、岩山に見えるそれこそが、Neo Black Ghost の施設なのだ。
これ程まで近くに来ているにも関わらず、未だに、迎撃の兵士一人出て来ない。どう考えても妙だった。
気付かれていない訳が無い、と００９は思う。仮にここが軍事拠点ではない単なる研究施設だとしても、あの Neo Black Ghost の施設に、外部からの侵入者を発見する為の警戒網が無い訳はない。自分はとっくに発見されている筈だ。
（とにかく…なるべく気付かれないように侵入して……まずは動力部を破壊して、それから博士と皆を探して……）
考えただけで気が遠くなりそうな難事業であった。それを、たった一人でやらなければならないのだ。しかも、助けるべき仲間達は皆 Neo Block Ghost の操り人形にされているのである。
（それでも、やらなければ……）
その時。
殺気を感じた００９はハッとして振り返った。
（ハ……ハインリヒ…！）
引金にかけた指が一瞬ためらう。それで十分だった。
バシッ……
あっと思った時は既に遅かった。銃が弾き飛ばされ、耳元を銃弾が掠める。
「手を挙げろ。死にたくなかったらな」
「……ハインリヒ……」
００９がため息のように言う。一番最後に捕らえられた００４が、まだ、正気であることを、切に望んでいたのだ。せめて二人ならば、何とかしようもあるのではないかと、そう思っていたのだ。
しかし。
（遅かったか……）
「手を挙げろ」
００４が重ねて言う。
唇を噛み、左右に視線を走らせる。
（……駄目…か……）
いつの間にか、００９は仲間達に取り囲まれていた。全員が、手に銃を持ち、ピタリと自分を狙っている。
どうしようも無かった。彼等と戦う事など、出来ない。
嘆息。
そして、００９はゆっくりと両手を挙げた。

肩で荒い息をしつつ、００９は薄く目を開いた。視界がぼやけて焦点が定まらない。
（…くっ……）
首を振り、頭の中の靄を追い払う。
（…こ…れが…… Neo Black Ghost の…催眠装置…か……）
しかし、どうやら自分には効かないらしい、と００９は思う。かなりの不快感はあるものの、意識を集中させていれば耐えられない程ではない。
ふと重圧感が失せ、００９はほっと息を吐いた。
（とりあえず…諦めた…のか……？）
どうやら装置のスイッチが切られたらしく、何も感じない。
遠くで言い争うような声が聞こえるが、未だ半覚醒状態の００９にはその意味は取れなかった。
（……やれやれ……）
とはいえ、いつ再開されるか判らないから、気を抜く訳にはいかない。
呼吸を整えつつ、００９は辺りの気配を探った。

「効かない、だとぉ？」
この役立たずが！ と低く吐き捨て、バイスは目の前に立つ研究員を睨み据えた。
「……はい…。先日も申し上げましたが、この催眠装置は未だ未完成でして、効く人間と効かない人間とがいるのです。００９は、その効かない部類の方らしく……」
「御託はいい！」
説明の言葉を遮り、バイスは研究員に詰め寄った。
「お前…まじめにやってんだろうな？ え？」
思わず身を退こうとする研究員の胸倉に、バイスが手を伸ばす。
と。
「あんまり、うちのスタッフを苛めないで貰いたいな、バイス」
背後から声をかけられ、バイスは内心で舌打ちした。
（…ちっ……）
伸ばした手を引っ込め、振り返る。
そこに、麦藁色の髪とアイスブルーの瞳をした男が居た。
この研究所の所長であり、組織上級幹部でもある、ライ。つまり、今、この研究所に居る者の中で、唯一人、バイスより地位の高い人間。そのライが、後ろに副官を従えて立っていた。
（誰かが…呼びやがったな……）
バイスは、ライもライの部下たちも、全く信用していなかった。表立って組織に反抗する様子は無いものの、ライの部下である研究員達は、概ね従順さに欠けていた。また、ライ自身も、上級幹部であるにも関わらず、こんな小さな研究所の所長に任じられていて、本部への出入りさえ（表向きはもっともらしい理由を付けられてはいても）、事実上、禁じられているのだ。それはつまり、組織にとって邪魔な人間だという事に他ならない。バイスはそう考えていた。そんな奴等が信用できる訳が無かった。
（だいたい、研究員連中ってぇのは、大概がゴチャゴチャと御託を並べて、出来る事もやりやがらねぇ。本当は出来るのに、何だかんだ言って手を抜きやがるモンなんだ……）
自分の配下だったら、鞭の二三発でもくれてやって、もうちょっと協力的にしてやるところなのだが、流石にここではそうもいかない。やって張り倒すくらいで、それもライの居るところではまずい。
だから、わざわざライを呼ばないでおいたのだ。
（ったく……）
さっさとぶん殴っておくべきだったか、とバイスは内心で毒づいた。
「レッサート…」
剣呑な事を考えいてるバイスを横目に、ライは立ち竦んでいる研究員に声をかけた。
「…は…はい……」
「その様子では、００９には効かなかった…か？」
「は…い……ライ…様。……データを検討してみなければ…ハッキリとは申し上げられませんが、恐らく、調整という程度では対処不能だと思われます。もっと抜本的な改良が必要かと……」
やや上擦った声で応えるレッサートの言葉をライが遮る。
「…わかった。取り急ぎ、データの整理をしろ。細かい話は、それを見ながら聞こう」
「承知致しました」
そう答え、レッサートが丁重に一礼する。それへ『行け』というように軽く手を振り、ライは改めてバイスに相対した。
「解決しそうな問題であれば、早急に何とかさせよう。それでいいな？ バイス」
ライの言葉に、バイスは無言で頷いた。

「ところで……」
つと視線をバイスの背後に移し、ライは問いを発した。
「…アレはどうするんだ？」
そこには、椅子に縛り付けられ、頭のあちこちにコードを繋げられた状態でぐったりしている、００９が居た。
ぴくりとも動かない００９を睨み、バイスが内心で呟く。
（……催眠処置ができないとなると、どうやって００１とギルモアの居場所を喋らせるか…だな……）
これが自分の基地であれば、話は簡単だ。拷問室に連れて行って痛めつけてやるのだ。そうすれば、半日か、長くても一日もあれば『頼むから喋らせてくれ』と言ってくるようになる。だが、生憎とここは自分の基地では無かった。
そして、もっと重要な問題があった。今のバイスはある人物のシナリオに沿って行動しているのだ。そのシナリオには、バイスにとっては残念な事に、００９を拷問するという選択肢は無い。
（…ったく……）
忌々しいが、シナリオに外れる行動をする訳には行かなかった。何しろ……
（…シナリオライターは、あのクワイトなんだからな……）
それに逆らうという事は、自分の死刑執行書にサインをするに等しい。しかも、考え得る最低な死に方より更に悲惨な死に方をする事になるのは、間違いない。
どんなに不本意であろうとも、逆らう訳にはいかなかった。
（まったく……なんだって、俺がこんな損な役回りをっ！）
苛々しながら００９の方へと歩を進めつつ、バイスはライの問いに答えた。

「とりあえず、尋くことがあるんでね。どうせ答えないだろうが、一応は、尋いてみます」
ぶっきらぼうな口調。
「なるほど」
頷くライをチラリと見遣り、そして、バイスは００９の前に立った。

近付いて来る足音を捉え、００９は身構えた。無論、その体はぴくりとも動かない。
（……一つ…二つ……三つ……。三人、か）
うち二つは三歩程離れた辺りで止まり、最後の一つが目の前までやって来る。
一瞬の沈黙。
そして。
不意に顎を掴まれ、００９は顔を上げさせられた。
「おい、００９。意識があるのは判ってるんだ。気を失ったフリをしても、無駄だ」
バイスが語気粗く言い、平手で頬を叩く。
乾いた音。
「目を開けろ！」
そう言ってバイスが再び手を振り上げた、その時。
ゆっくりと、００９は目を開いた。
「…っ……」
鋭い眼光に、思わずバイスが身を退きかける。その自分の反応に舌打ちし、バイスは振り上げた手を、思い切り振り下ろした。
空を切る、微かな音。
自分に向かって振り下ろされて来る手を、００９が恐れ気も無く見詰める。
そして。
手が頬に触れる一瞬だけ軽く目を伏せて平然と受け、再び目を開くと、００９はバイスを見据えた。
「………」
沈黙。
「キサマ……」
ゆっくりとバイスは言った。
「…自分の立場が解ってるのか？」
「………」
００９は答えない。それを忌々し気に睨み、バイスは言葉を続けた。
「まぁいい。いずれ嫌でも解らせてやる。とりあえずは……質問に答えろ。素直に吐いた方が身の為だって事くらいは、解っているだろうな？」
そこで言葉を切り、バイスは００９を見据えた。
「００１とギルモアは、何処にいる？」
（！？）
ほんの一瞬、僅かに目を細め、そして、００９は静かに言った。
「他の皆から聞かなかったのか？」
「もちろん尋いた。催眠処置をしてな。だから嘘はつけない。しかし、奴らの言ったポイントには、何も無かった。００３を誘拐して以来、おまえ以外に００１とギルモアに直接会った者はいないそうだな？ だとすれば……」
バイスの台詞に、００９は内心で安堵の溜め息を吐いた。
（よかった。イワンと博士は無事だ。ということは今頃は………）
００１が無事ならば、希望はある。少なくとも、絶望的な状況ではない。００１が目覚めれば、形勢を逆転する事は可能に違いない。
黙ったままの００９に、バイスは声を荒げて言い募った。
「眠っている００１と老いぼれ爺いの二人が、おまえ達の誰にも行き先を告げずに姿をくらます筈が無い。起きているときならいざ知らず、眠っている時の００１は只の赤子だ。おまえ達が居なくては、何かの時に対処しようが無い。だから、必ずおまえ達の誰かが行き先を知っている筈だ。そして、その『誰か』というのが００９、おまえだ」
「結構な推理だが……残念ながらハズレだな」
「……００１が目を覚まして、助けに来ると思っているんだったら、そんな甘い期待は捨てた方がいいぞ」
００９は、眉一つ動かさずに平然としている。それへ、バイスは冷笑を浮かべ、言葉を続けた。
「組織の全拠点には、対ESPフィールドが張ってあるんだ。たとえ００１が目覚めたところで、お前が何処に居るかなんぞ、決して判りはしない」
しかし、００９は黙ってバイスを見返しただけであった。

執務室には、先刻のデータを携えたレッサートと、その上司にあたるカティサックとがやって来ていた。００９に対する催眠処置についての報告と、対応策の協議の為だ。少なくとも、表向きは。
ライの副官であるアイラニが、外に立つ見張りの兵士に、重要会議をすると告げて鍵をかける。
振り返って一同を見回し、アイラニは問いを発した。
「お飲み物は、いつも通り…でよろしいですか？」
「ああ」
それへライが軽く頷く。
「では…私が、チアフルに連絡しておきます。どうぞ……」
そう言って、アイラニが奥の部屋へ続く扉を開け、一同はぞろぞろと移動した。

執務室の奥の部屋に移動し、アイラニが扉を閉めて鍵をかけ、そうして一同は、誰からともなくほっと息を吐いた。
この部屋には盗聴機が仕掛けられていない事が確認されている。また、バイス達がこの研究所に来てからは、念の為に電波撹乱装置まで設置してあるし、何よりもバイスの部下を一歩たりとも踏み込ませていない。
研究所中にバイスの部下達が闊歩している現在、この部屋は、ライの一党が安心して話のできる、唯一の場所であった。
「やれやれ……」
「…流石に、疲れますね」
「まったくだ」
ソファに座り、苦笑しあう。
「チアフル達が、一日に三回も盗聴機位置情報を流してくれてるんですけど……もう、とても覚えきれないですよ……」
そう言うカティサックにレッサートが同意する。そして、ライに視線を移し、言った。
「疑われてますね…かなり」
「…ああ」
固い声でライが答える。
「……今回の件、どう思います？ やはり…罠、でしょうか？」
「………」
唇を噛んで宙を睨み、ライは首を振った。
「…判らん。だが……」
「今を逃したら、もう永遠に機会が訪れないかもしれない…と？」
その言葉にライは頷いた。
「あぁ。これ以上の状況は望めないと…そう思う。だが……」
ふと言葉を切り、ライは溜め息を吐いた。
「…だが、な。この状況をお膳立てしたのは……クワイトだ」
「なんですってっ？」
「まさかっ？」
絶句する二人を交互に見、ライは低く言った。
「…そうなんだ。間違い無い。バイスの思考を読んだ。奴は、クワイトから指示を受けている。００ナンバーを捕らえる為の作戦も、この研究所を拠点に選んだのも、総てクワイトの策なんだ」
沈黙。
「……問題は、俺がテレパスだいう事を、クワイトが知っているのかどうか、だ。知っていて、あえてここを拠点として選んだのなら、間違いなく罠だろう。そうでないのなら……」
仮にそうでないとしても、やはり罠の可能性は高い。そう思い、ライは唸った。

ライとその一党は、Neo Black Ghost の中にあって、その打倒を目指す、科学者達の一団だった。
かつて Black Ghost にギルモアと００ナンバー達が居たように、Neo Black Ghost の中にも、甘言に騙されて、あるいは無理矢理に攫われて、組織の一員となった者は少なくは無かったのだ。そうやって連れられて来た者達の多くは、組織のあまりの強大さに恐怖を抱き、絶望し、逆らう意志を放棄して、言われるがままに働く、只の駒に成り下がっていった。
しかし。
組織が強大である事を知って、なお、抵抗の意志を失わない者。強大である事を知ったが故に、逆に、何とかしなくてはならないと気付いた者。そういった者達も、多くは無かったが、居たのだ。
ライは、時間をかけて、それらの者達を自分の配下に集めた。上級幹部としての特権と、テレパスとしての能力を最大限に利用し、怪しまれないように細心の注意を払いつつ。
そうやって集めた者達が、ライの副官であるアイラニや、今ここに居るカティサックやレッサート達なのであった。
けれど。
疑惑を持たれるのは、やはり、やむを得ない事だった。決定的な証拠こそ掴まれなかったものの、ライとその配下の者達が、組織内にあって極めて異質な一団である事は、多くの幹部達が感じていた。いかに隠そうとも、両者の本質的な違いから生じる違和感は、拭いようがなかった。
最高幹部会議は、ライの処分を巡って大いに紛糾したが、結局、処刑という決定が下される事は無かった。それは、仮にも上級幹部を『疑わしい』というだけで処刑するのか？ という理由からだった。その続きは誰も口にしなかったが、上級幹部達の想いは同じだった。つまり、『疑わしいだけで上級幹部を処刑するような前例ができれば、次は、自分かもしれない』と。
皮肉な事に、上級幹部達の自己保身が、ライを助けたのだ。
かくして。ライは本部を追い出され、この研究所の所長に任じられたのであった。

「……まぁ、それはそれとして、だ」
考えても判らない事に関わっている程、今は余裕が無い。そう言って、ライはレッサートを見遣った。
「どうなんだ？ 本当に００９には…効かなかったのか？」
半信半疑の問いに、レッサートが深く頷く。
「えぇ。本当に、です。バイスの前で手抜きをするほどの度胸は…ありませんよ」
無論、科学者で無いバイスには、目の前の手抜きを見破る事は不可能だ。だが、データを持ち帰られて本部にいる研究チームに解析されれば、手抜きがバレるのは必至だ。そうなれば、手抜きの理由を追求されるのは間違い無いし、その役目をバイスが買って出るだろうという事も、まず間違いない。そして。『組織きっての拷問屋』と呼ばれるバイスの『追求』がどういう形で行われるかなど、考えなくても判るが、考えたくない。
「そう…か……」
小さく息を吐き、ライは頷いた。
「…まったく…聞きしに勝る精神力だな」
「えぇ」
「……まいったな…」
腕を組んで唸るライに、カティサックが問いかける。
「あなたの方はどうだったんですか？」
それへ、ライは首を振った。
「駄目だった」
「本当ですか？」
カティサックが目を丸くして、レッサートと顔を見合わせる。
「あなたに…『読む』事ができない相手がいるなんて……」
「あぁ、そんな奴はまず居ないと…同じテレパスが相手だって、表層思考を読むくらいならできるだろうと……思ってたんだが」
嘆息。
「駄目だったんだ。完全に、ブロックされていて……」
まるで金属の壁に囲まれているように、何をしても駄目だったのだ、と言うライの言葉を、カティサックとレッサートは驚愕の瞳で聞いていた。
「……そう…ですか……」
沈黙が室内を覆う。
「…困りましたね……」
「ああ……」

ノックの音。少しの間があって、ゆっくりと扉が開く。その向こうに、明るい金髪に黄玉色の瞳をした男が居た。イマイチ暗いライ一党の中にあって、無敵の明るさを誇るイタリア男。この研究所の兵器開発室長を任じられているロボット工学者にして、自称厨房担当。チアフルであった。
「はぁ〜い、おっまた…せ……？」
ガラガラとワゴンを引っ張って室内に足を踏み入れたところで、チアフルは目をしばたたかせた。
「……どったの？」
重い沈黙に包まれた一同を見回しつつ、とにかくワゴンを室内に引っ張り入れ、扉を閉める。
とりあえずカップにラベンダーティーを注いで一同に配り、そして、チアフルはライを見遣った。
「んで？」
「……困ってるんだ」
ぶっきらぼうに言うライに、チアフルは、大きく溜め息を吐いた。
「んなコトは見りゃ判るっての」
「………」
黙り込むライに肩をすくめ、レッサートを見る。
「例の催眠装置…００９には効かなかったんです」
「へぇ」
そりゃ凄い、とチアフルは目を丸くした。
「更に、００９の思考を読む事も出来なかったそうなんです」
「……んだってぇ？」
目をぱちくりさせて、チアフルはライを振り返った。
「まじ？」
「……あぁ」
「ほぇ〜。そりゃまた、凄いじゃん」
「それで困ってるんだ」
「は？」
ライの言葉にチアフルが首を傾げる。それを睨み、ライは言葉を続けた。
「００９は、一人でここに乗り込んできたんだぞ」
「仲間がとっつかまってるんだから、しょーがないだろ？」
「で、アッサリつかまったんだぞ！」
「だって、００９の仲間が迎撃に出たんだろ？ そりゃ、しょーがないだろうよ」
仲間とは戦えないって思ったんだろう。それを非難してどうする？ そう言うチアフルに、ライは怒鳴った。
「だったら！ 何だって一人で来るんだ！」
「何だって…って、仲間は捕まっちゃってるんだから、しょーがねーじゃんかよ」
「００１はどうしたっ！」
「あ……そっか……」
虚を衝かれたようにチアフルは黙った。
「そーいや…そうだよな」
「だろう？」
ライが力説する。
「００１はまだ捕まってないんだ。そして、こっちに捕まった連中が、催眠処置をされてるってるのも、００９には判ってる筈なんだ。これまで何回も、催眠処置をされた仲間を見せてるんだから！」
イマイチ乗り気ではないバイスを言いくるめ、催眠処置の終わった者を、残りの００ナンバーの捕獲に向かう部隊に混ぜたのは、００９に状況を教える為だったのだ。そうすれば、圧倒的に不利な状況を悟って、００１を連れて来るだろうと、そう考えたからなのだ。
それなのに。
「どうして一人で来るんだっ？ 馬鹿なのか、あいつはっ！」
「……うーん………」
俺に言われてもなぁ、とチアフルは頭を掻いて周囲を見回した。
「……どー思う。カティサック……？」
「さぁ……」
「…レッサート……？」
「そうですねぇ……」
レッサートが首を傾げ、そして、言った。
「…ひょっとして、００９は００１がこちらに捕われていると思っていた…のでは？」
「なんだと？」
ライがレッサートを見る。
「そんな…馬鹿な……」
「勿論、証拠もないし確信だって無いですよ。でも、そう考えれば００９の行動も納得できませんか？ ライ。既に、全員が捕獲されてしまっていて、自分しか残っていないと、００９がそう認識していたのであれば……彼の、あの無謀とも取れる行動も、ある程度、納得できます」
「な〜るホド……」
その言葉にチアフルが頷いた。
「…それだ！ そーだよライ、そーに違いないって。いや流石は心理学者！」
パチパチと拍手するチアフルを、ライは物凄い目付きで睨んだ。
「仮にそうだとしても！ 問題は、全然、片付かないんだ！」
「あ…。あー……ま、そっか……」
「というよりも、余計、厄介なのではありませんか？」
静かに指摘するカティサックの言葉に、ライは再び深い溜め息を吐いた。
「そうなんだ…。それで困ってるんだ」

ライ一党の人数は、決して少なくはない。かつて Black Ghost を滅ぼしたギルモアと００ナンバー達が、僅か１０人であったのに比べれば、人数的には、圧倒的に多い。
しかし。
現在の Neo Black Ghost は、かつての Black Ghost とは比べ物にならない程に、強大な組織だった。いくら００ナンバー達より人数が多いと言っても、僅かに数十人。これでは話にもならない。
しかも。
ライの副官であるアイラニを除けば、全員が科学者なのだ。ギルモア一党が、ギルモアを除けば、全員が戦士であったのとは全く逆の状態で、銃を取って戦えば、ものの数分で全滅するのは、間違い無かった。
無論、死を恐れてはいない。組織に逆らう事を決意した瞬間から、命を賭す覚悟はある。だが。ライ一党の目的は、Neo Black Ghost を倒す事なのだ。共倒れるならばまだしも、自分達が全滅するだけというのは、困るのだ。
何故ならば。
かつて、Black Ghost が目的とし、失敗した、世界征服。
Neo Black Ghost は、それを成し遂げた。ごく限られた者達を除く、世の人々が、何ひとつとして気付かぬうちに。
そう、世界は既に、その爪に掴まれてしまったのだ。
戦乱を起こして国を滅ぼすも、内乱を煽って政権を交代させるのも、今や、Neo Black Ghost の思いのままであった。人類の歴史を、そのシナリオを、Neo Black Ghost は、好きなように綴る事ができるのだ。血の赤で。
にもかかわらず、人々はその事実を知らない。何も知らぬまま、 Neo Black Ghost の書いたシナリオに踊らされ、愛するものを失い、あるいは愛するものを残して死ぬ。Neo Black Ghost を倒さない限り、世界から戦乱の絶える時は、もう、二度と来ないのだ。
無論、Neo Black Ghost が滅びても争いが絶える事は無いだろう。だが、争いの為の争い、回避出来た筈の戦争、仕組まれた戦い、それは無くなる。
だから。
ライ一党は、Neo Black Ghost を倒さずに全滅する訳には、いかなかった。それが不可能であれば、せめて、誰かに後事を託さなくてはならない。
その『誰か』として考えられるのは、００ナンバー達しか居なかった。
どうにかして００ナンバー達と合流する。合流できないまでも、最低限、Neo Black Ghost の存在と、それに関する情報を渡す。
それが、ライ一党の当面の目標だった。
だが。それは容易な事では無かった。００ナンバー達が何処に居るのかすら判らぬまま、時だけは過ぎ……。
しかし。
今、この研究所には００ナンバー達が居た。００１を除く全員が。
但し、捕虜として。

「００１が頼りだったんだ……」
そう言って、ライは溜め息を吐いた。
この状況下では、バイスに徹底的に疑われているこの状況下では、００ナンバー達を助ける訳にはいかない。うかつな動きをすれば、それを口実として、バイスは、この研究所にいる研究員を皆殺しにしかねない。第一、００ナンバー達が催眠処置から覚めてくれない事には、話をしようにも、どうにもならない。
仮に、００ナンバー達の催眠処置が解け、バイスに気付かれずに接触するチャンスがあったとしても。それでも、問題はまだある。表向きは Neo Black Ghost の構成員として振る舞っているこの状況下では、おいそれと彼等に信用しては貰えまい。だが、悠長に説明や説得ができる程の時間が取れるとは、思えない。そんな余裕など無い。
「…００１と…『接触』できれば……」
「えぇ。それさえ出来れば、一瞬…なんですけれどもね……」
呟くライに、カティサックが頷く。
テレパスであるライと、同じくテレパスとしての能力を持つ００１とが『接触』し、精神を重ねる『同調』をする事ができれば、一瞬で総ての事情を伝えられる。『同調』による記憶の伝達には、誤解の余地は無い。百万言を費やすより確実に、総ての情報を伝える事ができる。そうやって００１に伝える事が出来れば、最悪、その直後に全滅しても、一応、目的は達成された事になる。
だが。
その為には、００１に、ここへ…最低限、この研究所を覆う対ESPフィールドの中へ…来て貰わなくてはならない。この研究所を覆っている対ESPフィールドは強力で、ライ如きのESPでは、まるで歯が立たない。おそらく、００１ですら、破る事は不可能だろう。対ESPフィールドを切る事も考えたが、長時間に渡って切ったままという訳にはいかない。気付かれる前に００１と接触できれば良いが、出来なければ大変だ。バイスは原因を徹底的に調査するだろうし、そうなれば、早晩、誰かが意図的にやったとバレるだろう。その先は、考えたくも無い。
故に、ライ達は、００９に００１を連れて来て欲しかったのだ。
だが。
００９は００１を連れて来なかった。
００１の居場所を喋らないのは当然としても、ライが読む事すらできない。
これでは、００１に連絡の取りようが無い。
だが、００１がここを発見する事は、不可能だろう。誰かが知らせに行かなくてはならない。しかし、どこへ知らせに行けば良いのか？
「くそっ……厄介なっ……！」
溜め息と共にそう呟き、そして、ライはチアフルに視線を向けた。
「どうにかして、００９に近づけないか？」
「……無理…だと思うぜぇ」
チアフルが首を振る。
「…バイスの部下連中がもう厳重に警戒してて、００９を閉じ込めてる部屋のある区画にすら、近付けないんだからさ」
「食事を運ぶとかなんとか…」
「やってみたんだけどな…駄目だっだ。食事どころか、水をやる気も無いらしい」
「……あの部屋への抜け道とかは、無いのか？」
お前の管轄区だろう？ とライが問う。それへチアフルは肩をすくめた。
「無いって。考えてもみろよ、ライ。あの部屋は、爆発物系の実験室なんだぜ？ 抜け道なんてある訳ないだろ？ 作るんだって一苦労だよ。周囲に何重の防護壁を張り巡らせてあると思ってんの？」
入るには、扉からしか無い。だが、その扉でさえ五つもあり、その一つ一つをバイスの部下達が厳重に警戒しているのだ。
「しかも、あの部屋って空気が抜けるんだぜ？ 多分、そうしてると思うな」
閉じ込められている００９や、警備をしている兵士達はサイボーグだから問題無い。だが、生身の自分達には近づけない。
「俺達、無茶苦茶疑われてるモン。００９の近くなんか、ぜってー寄らせてもらえないと思うぜぇ」
１００万歩譲って近付かせて貰えたとしても、絶対に監視付きだろう。内緒話なんて不可能だ、とチアフルは言う。
「……まぁ…そうだろうな……」
深く溜め息を吐き、ライは天井を仰いだ。

（………？）
周囲の物が妙に歪んで見えるような気がして、００４は目をしばたたかせた。
（…俺…は……？）
何だってこう霧が立ち込めているのだろうかと訝く思いつつ、周囲を見回す。
（……いや…違う……）
霧がかかってるのは、自分の頭の中だ。不意にそう思い当たり、そして……。
「っ……」
頭を振り、目を擦り、００４は我にかえった。
（ここは……？）
見慣れない部屋だった。
殺風景な部屋の中に椅子が７つ。その一つに自分が座っていて、残りの６つには……
（……ジェット…フランソワーズ……ジェロニモ…張大人…グレート…ピュンマ……）
００１と００９を除いた仲間達が座っていた。皆、一様に虚ろな瞳で、身動ぎすらせず、黙って座っている。
いや。
００５だけが、微かに頭を振って、何かを振り払おうとするような動きをしていた。
「…ジェロニモ……」
００４は、まだ自分のものではないかのような体を無理矢理動かして立ち上がると、００５の側に行った。
「……ジェロニモ……大丈夫…か…？」
「…ん……？ ……ハ…イン…リ…ヒ……？」
００５が眉根を寄せてじっと００４を見、ゆっくりと呟いた。
「……ここ…は…？」
「…判らん……」
そう答え、そして００４は首を振った。
「いや……判る…… Neo Black Ghost の、研究所…だ」
頭の中の靄が消えて行くにしたがって、色々な事が思い出されてくる。
００３が行方不明になった事。それを探しに出た００６と００７が帰ってこなかった事。００９に連絡を取った事。００２と００８を呼んだ事。００５には連絡が取れず、００８の証言から Neo Black Ghost の復活を疑った事。ドルフィン号との連絡が取れなくなった事。黒い潜水艦を追って陸路で北を目指し、やがて、疑惑は確信に変わっていった。次々と仲間達が捕らえられ……。
（そう…だ……）
そして、自分も捕まった。
この研究所に連れて来られ、実験室のような部屋に連れて行かれ、椅子に座らされて、頭にコード類を山程付けられた。
それからの出来事は、総てがガラス越しのようだった。考える力、感じる力が凍り付いたかのように、何を見ても何を聞いても、何も感じず何も思わず、言われるがままに行動した。
（……や…ばい……）
自分は、自分達は、命じられるままに００９を捕らえた。その筈だ。まるで他人の記憶のようだが、確かに現実だ。夢などでは無い。
自分が、００９を撃った。手に持った銃を弾き飛ばした。
ハッキリ思い出せる。
００９が自分を見、溜め息を吐いて、両手を挙げた。それを、克明に思い出す事ができる。
（ち…っくしょ……）
００４は唇を噛んだ。

何とか全身の違和感が消えた所で、００５と００４は、残りのメンバーを正気付かせようと、声を掛けたり頬を叩いたりしてみた。だが。誰も反応を示さない。
「どうやら…かなり深く催眠にかかってるらしい…な……」
「ん…」
「どう…したもんかな……」
扉には外から鍵が掛けられている。無論、壊すのは簡単だが、そうやって外に出れば、自分達が催眠処置から覚めたのがバレてしまう。催眠に陥ったままの仲間をパラライザーで眠らせて、担いで逃げる事も考えたが、二人で五人を連れて行くのは難しい。
（それに……ジョーは、どうする……？）
００９はここに居ない。と言う事は、と００４は思う。
（今頃は、催眠処置をされてる…か？）
処置が完了したら、この部屋に連れて来られるかもしれない。だが、そうなると二人で六人を連れて行かなくてはならないから、更に大変だ。
（くそっ……）
００４は内心で舌打ちした。
（…あとは、イワンが目を覚ましてくれるのを待つしかない…か……）
催眠処置をされた後、００１とギルモアの行方を尋ねられた。つまり、あの二人は未だ捕まっていないに違いない。幸い自分は行き先を知らなかったし、他のメンバーも知らないだろう。知っているのは、恐らく、００９だけだ。００１が目覚めるまで、あと数日。その間、どうにか逃げ切ってくれれば……。
そう思い、００４は首を振った。
（駄目…だな……）
００１は眠っている。と言う事は、ギルモアは、一人で Neo Black Ghost の追手に対処しなくてはならないのだ。それは無茶な注文だった。何処に居るかは判らないが、発見されたらおしまいだ。そして、００９の催眠処置が終了すれば、居場所を知られてしまう。
（くそっ…！ どうしたらいいんだっ？）
００４は頭を抱えた。
その時。
『……ハインリヒ…？』
不意に声が聞こえ、００４はハッとした。００５を見る。００５も、目を見開いて００４を見ていた。
『…ジョ…ジョー……！』
その声は、００９だった。脳波通信機を使って呼びかけてきているのだ。
『ど…何処に……』
『落ち着いてくれよ、ハインリヒ』
何処にいるんだ？ 無事なのか？ ００１や博士は？ と一気にまくしたてようとする００４の言葉を、００９は遮った。
『……』
とりあえず、００４が黙る。
『このチャンネルは、傍受されてるかもしれない。だから気を付けて。イワンと博士は、多分、無事だと思う。僕には催眠装置は効かなかったんだ。……そっちの状況を、教えてくれる？』
『全員ここに居る。だが、正気なのは俺とジェロニモだけだ』
『逃げられそうかな？』
『……難しい…と思う……二人で五人を連れては行けない。第一、お前は……』
『…ジョー…な…の……？』
『フランソワーズ！』
不意に割り込んできた声に、００４は００３を振り返った。さっきまでピクリとも動かなかった００３が、今、額に手を当てて弱々しく首を振っていた。
「わ…たし……？」
苦しそうな００３の傍に００５が膝を付き、そっと背中を撫でる。
そこへ、００９の声が響いた。
『これで、三人で四人を…って事になったね……』
『ちょ…ちょっと待てよ、ジョー！』
お前はどうするんだ、と００４が叫ぶ。
『僕は、ここに残る』
『な…んだって…？』
『ジョー？ どうして……？』
００４と００３が同時に言う。それへ、００９は静かに言った。
『お願いだよ、フランソワーズ、ハインリヒ…君達の気持は判る。でも…僕を助けるのは、無理だと思うんだ……』
『そんな…事が……』
理由になるか！ そう叫ぼうとした００４の言葉を００９が遮る。
『時間がないんだ。頼む…イワンと博士の事を、考えてくれよ……』
『………』
そう言われ、００４は唇を噛んだ。
『だが……』
『…フランソワーズ…僕を、見つけた…？』
『……え…ええ……』
不意に問い掛けられ、００３は小さく頷いた。
『じゃあ…判っただろう？ 僕を助けるのが、不可能に近いってことが』
『……えぇ……』
００３は頷いた。頷くしかなかった。
「…ハインリヒ……」
ゆっくりと００４を見、今にも泣きそうな顔で、００３は言った。
「……駄目…だわ……とても……とても……」
俯いて首を振る。
「最下層の、隔離された区画なの。ものすごい厳重な警備よ。部屋そのものが、何重もの壁に取り囲まれてるの。ジョーの所まで行ける通路は一本だけで、その間に扉が五つ。その一つ一つを、十人以上の兵士達が完全武装でガードしてる……。とても……近づけないわ……」
「そ…んな……」
『ハインリヒ…？』
『あ…ああ……』
『行って…くれるね…？』
『……わ…かった……だが…』
００１とギルモアの居場所を自分は知らない。そう言う００４に、００９は答えた。
『君は知っている筈だよ？』
『…な…に……？』
『君は、知っている筈だよ、００４』
一瞬、００４が眉をひそめ…そして、ハッとしたように目を細めると、答えた。
『……皆目見当もつかないな、００９……』
『……』
『…だが、探してみよう……』
『すまない…頼むよ……』
『判った……』
沈黙。
『フランソワーズ…』
不意に話し掛けられ、００３はハッとした。目を凝らし、そして、息を呑む。
『…ジョー……』
見える筈が無いのに。それなのに、００３の『視界』の中の００９は、顔を上げ、真っ直ぐに自分を見ていた。
『僕は、大丈夫だ。心配しないで……イワンと博士を…頼む……』
００９がふっと笑う。
それへ頷きかえし、００３は答えた。
『わかったわ…』

（気付かれて…いるのか…？）
カティサック達が会議を終えて帰り、アイラニもバイスの様子を伺いに司令室へと行き、一人になった執務室の中で、ライは物思いに沈んでいた。
（……クワイトは…俺がテレパスだと…気付いているのか…？）
そんな事がある訳が無い、とライは思う。
（俺がテレパスだと知っているのは、この研究所に居る俺の仲間達を除けば、あとは……）
故郷に居る筈の妹だけ。
だが、とライは思う。
（幸い…と言うべきか、唯一人、俺の身元を知っていた奴は…クワイトが殺してくれたからな）
従って、自分の身元は誰も知らない筈だ。身元が判らなければ妹に尋ねられる訳もない。無論、この研究所に居る自分の仲間から漏れた筈はない。そんな事になっていれば、すぐに判る。何しろ自分はテレパスなのだから。
従って、バレている訳はないのだ。
そう思い、そして、ライはふと宙に視線をさ迷わせた。
（……エカテリーナ…どうしている…？）
妹を残して家を出て十年以上。当時二十歳そこそこだった妹は、多分、結婚して、子供の一人も居るだろう。そうライは思う。
（そういえば、長い事……思い出しもしなかった…な）
まったく薄情な兄だ、と自嘲し、ライは唇を噛んだ。
（結婚…しただろうな…？ エカテリーナ……）
まさかとは思うが、未だに……
（…未だにアイツの事を忘れずに居たりは…してないだろうな？）
当時、妹が愛し結婚をも望んでいた男は、もう、居ない。
（………）
嘆息。
（…忘れている…だろうな…？）
人間の記憶なんて、いい加減なものだ。時が経てば風化する。目の前に居ない相手を愛し続けるなぞ、できる訳がない。失った事への悲しみだって、長くは続かない。
（決して消えないのは……憎しみだけだ……）
そして。それは、妹からは最も縁遠い感情だった筈だ。
そう。妹は自分とは違う。
（エカテリーナ…お前は……）
陽の当たる場所に居て欲しいと思う。
望んで闇に棲む事を選んだ兄とは違って。
かつては漠然と感じていただけだが、今はハッキリと解る。妹は自分とは違うのだ。
（……昼と夜…か……）
小さい頃によく言われた言葉を思い出し、ライは苦笑した。

ライと妹は、あまり似ていない兄妹だった。別々の場所でそれぞれと知り合った者が、長い間兄妹と気付かない事など珍しくもなかった。だが、並んで立った所を見て兄妹と気付かない者もまた、居なかった。
それは、髪の色と目の色が、本当によく似ていたからだ。
麦藁色の髪と、氷蒼の瞳。
なまじ、他に似たところが無いからか、この二つの類似点は際立っていた。
とはいえ、やはり微妙な違いはあって、それを評してよく言われたのが、まるで昼と夜のようだ、という言葉だった。
兄であるライは、夜露に濡れた麦藁色の髪に月光に照らされた氷山の瞳。一方の妹は、陽に照らされた麦藁色の髪に陽光を透かした氷山の瞳。同じ物に異なる光を当てたように、よく似ているのに違う、と。
それは容姿についての評であったものの、意外と本質を言い当てていたのかもしれない、とライは思う。
（人間の直感ってのは…案外、馬鹿にできないからな……）
内心でそう呟き、そしてライは唸った。
（……直感…か……）
眉根を寄せて考える。
（クワイトの…直感……か？）
特に理由がある訳でも、まして証拠がある訳でも無いが、クワイトは、直感的に、この自分がテレパスではないかと疑っているのか？ そう思い、ライは頷いた。
（…ありうる…話だ……）
クワイトに予知能力は無い。けれど、組織内では、予知能力があるのではないかと囁かれている。それは、驚く程に正確な先読みをしてみせるからだった。
Neo Black Ghost が設立されてから十余年。クワイトの『読み』は、一度たりとも外れた事が無い。何百手も先を読む卓越した頭脳と、そこから生み出される数々の陰謀は、その総てがシナリオ通りに進行した。避け得ない筈の人為的なミスでさえも、クワイトのシナリオを狂わせる事は無かった。なぜならば、それすらもが、最初からシナリオに組み込まれていたのだから。
こうして、クワイトはただ一人で Neo Black Ghost に世界征服を為さしめた。
各地に散る小規模な闇の組織を統合し、Neo Black Ghost の存在を巧みに隠しつつ、影で様々に陰謀を巡らせ、世界を手中に収めたのだ。Neo Black Ghost の軍事力や科学力の恩恵を受けて自らの欲望を満たしている、政界財界の要人達さえ、Neo Black Ghost の存在は知らないのだ。彼等は、たかだか数カ国程度の縄張りしか持たない、小さな（と言っても、彼等からすれば羨ましい程に強大な勢力なのだが）組織と取引しているつもりでいるのだ。互いにいがみ合う国同士や企業同士も、自分達の後ろ盾となっている組織と、敵の後ろ盾となっている組織とが、まさか同じ根から生えた別の枝だとは、夢にも思ってはいないのだ。
海千山千の筈の、世界中の陰謀家達でさえ、クワイトに踊らされているのだ。彼等はクワイトの存在すら知らず、そのシナリオに従って、間抜けな芝居をさせられているのだ。仮にクワイトの存在を知る事ができても、多分、その策略からは逃れられないだろう。人の心の裏を知る力を持つクワイトからは、どうやっても逃れる事は出来ない。
（奴を…倒さなくては……）
遥か昔から人類の歴史と共にあった『黒い幽霊団』。その永い歴史における、最凶にして最高の指導者。それが、クワイトなのであった。
（…奴を…あの悪魔を…この世に解き放った責任を…取らなくては……）
だから、クワイトを倒さずに死ぬ訳にはいかないのだ。
（その為なら…どんな犠牲をも……払う……）
そう思い、ライは唇を噛んだ。

「いいかしら？」
そう言って、００３は００４と００５を見遣った。
「あぁ」
「ん」
短く答える二人に頷き。００３は銃を構えた。
扉の脇の壁の中を『見て』、施錠状態を制御している部分から、司令室の監視パネルへ向かって伸びる配線を、慎重に狙う。
（落ち着いて…大丈夫よ……私だって『００３』なんだから……）
そう自分に言い聞かせ、ゆっくりと息を吐き、狙点がズレないように息を詰め、引き金を引く。
バシッ……
壁から煙が上がり、００３の『視界』の中のコードが焼け切れる。
すかさず司令室の方へ『視線』を送り、００３は頷いた。
「…大丈夫みたい」
「よし」
００４が頷いて、００５を見る。それに応え、００５は扉に手を掛けた。
一瞬、何かが弾けるような音がしただけで、扉はアッサリと開く。
００２を半ば引き摺るように背負った００４が廊下に出る。その後ろに、左肩に００８を、右肩に００７を乗せ、左手で００６を掴んだ００５が続いた。
最後に００３が出て、扉をキッチリと閉じる。
そして。
「こっちよ」
銃を構え直し、００３は先頭に立って歩きはじめた。

（罠じゃないだろうな……）
００３の能力があったにしろ、余りにもアッサリと離着陸口に近付けてしまった事に、００４は首を捻った。いくら研究所とはいえ、もう少し、警備の兵士が居ても良さそうなものだと思う。
その疑問を口にした００４に、００３は硬い声で答えた。
「罠なんかじゃないわ……研究所内のどこにも、それらしい動きは無いもの。警備の兵士は……」
そこで言葉を切って、唇を噛む。
「…警備の兵士の殆ど総てが…地下の、ジョーが閉じ込められている区画に…居るのよ……」
「…あ……」
そうか、と００４は想う。
（Neo Black Ghost の奴等も…まさか俺達が…ジョーを置いて逃げるとは……思っていないんだ……）
催眠装置の効かなかった００９は、いずれにしろ厳重に警戒しなくてはならない。しかし、それを言うならば、自分達の催眠処置が解ける可能性もあるのだ。だから、本来なら、自分達の方にも警備の兵士を付ける必要がある筈だ。だが、と００４は思う。
（ここは研究所だから、ガードロボットや兵士が大勢居る訳じゃない。造りだって、軍事拠点とは違う。まして、外から攻められるのではなく、中で俺達に暴れられたら……）
Neo Black Ghost 側としては、たまったものではないだろう。こういう場合、中途半端に戦力を分散させるのは不利だ。どこか一個所に戦力を集中し、そこを拠点とするのが利口なやり方で、本来なら、司令室にでも戦力を集めるところだろう。
だが。
今の場合、司令室を守る事に、あまり意味は無い。何故ならば。
（…何故なら、俺達はこの研究所を破壊する事よりも、逃げてイワンと合流する方を優先させるから……な）
だから、司令室に戦力を集中させても、それは無駄になる。
ならば何処に？
その答えが、今の Neo Black Ghost の布陣なのだった。
どちらにしろ、催眠装置の効かない００９は、閉じ込めておく必要がある。００９の戦闘力を考えれば、当然、厳重な警備が必要だ。
ならば。
そこに戦力を集中させてしまえば良い。
（そうすりゃ…仮に俺達が催眠処置から覚めて逃げ出しても…ジョーを助けに行ったところで……再び捕まえられる……って訳だ）
そう思い、００４は舌打ちした。
（だから…だからこそ、アイツは…ジョーは……）
自分を置いて逃げるように、と言ったのだ。それが、それだけが、唯一、Neo Black Ghost の裏をかく方法だから。
（だが…！）
そうやって裏をかかれれば、Neo Black Ghost 側は怒り狂うだろう。そして、その怒りの矛先が向くのは……。
（…ジョー……）
間違いなく、００９だ。
そして。００９が、００１の行方も、逃げおおせた自分達の行方も、その総てを知っている筈だと、Neo Black Ghost 側は思うだろう。事実、そうなのだから。
しかし。
００９に催眠装置は効かない。
尋かれたところで、００９は答えない。
Neo Black Ghost の連中はどうするだろうか？
それで諦める訳が無い、と００４は思う。出し抜かれた怒りもあいまって、恐らく……
（…くそっ！）
００４は唇を噛んだ。
残して行きたく無かった。残された００９がどうなるかを考えれば。
だが。他にどんな方法があるというのだ。
００１は、自分達００ナンバーにとって、切り札であると同時に、最大の弱点でもある。起きている時の００１は最強だが、眠っている間は全くの無防備なのだ。
そして。
００１は強すぎる。まさに、人知を超えた力を持つのだから。
故に。
さしもの Neo Black Ghost も、００１だけは、捕らえれば目覚める前に殺すだろう。もし００１が目覚めれば、閉じ込めておく事など、絶対に不可能なのだから。
従って。
００９と００１。このどちらを優先して助ける必要があるかと言えば……。
（……イワンだ……）
それが００９の判断であり、その判断が正しい事は、００４としても、認めるしか無かった。

「右側がいいわ。燃料も十分、すぐにでも発進できる状態よ。機内には誰も居ないわ」
離着陸口を『見て』００３が言う。
「よし…」
００４が頷き、担いでいた００２を床に寝かせた。００５が００７を下ろし、代わりに００２を肩に担ぐ。そして、００３が００７を抱え……
「大丈夫か？ フランソワーズ…」
問い掛ける００４に、００３は頷いた。
「えぇ…あそこまでくらいだったら…なんとか……」
流石に連絡艇の周囲には兵士達が居る。従って、どうしても戦闘をしなくてはならない。人数比から考えて００３に任せるのは無理だった。だが、００２を抱えたままでは流石の００４も戦えない。そこで、００２を００５に預け、代わりに００３が００７を運ぶ事にしたのである。
「ちょっとの間だから、頑張ってくれ……」
「大丈夫よ」
答える００３に頷き、そして、００４は息を整えた。
「一気に走れよ」
「わかったわ」
「ん」
一瞬の間。
そして、００４は飛び出した。

背後で銃声と罵声とが飛び交う。それを聞きながら、００３は００７を引き摺り、連絡艇を目指して走った。
耳元を銃弾が掠めるが、気にしない。
（…当たる訳…ないわ…！）
大丈夫だ。絶対に。
根拠はないが、そう思うしかない。
（……あと…少し……）
息が切れる。腕が痛い。だが、とにかく走る。
そして。
ついに連絡艇に辿り着く。
扉を開けて中に入り、００７を放り出す。００５が後に続き、担いできた００２、００６、００８を連絡艇の中に放り込んで、００４への援護射撃を開始する。
それを振り返る事すらせず、００３はコクピットへと走った。

コクピットに駆け込んで操縦席に座り、００３は目の前のコンソールを見回した。
無数の計器とスイッチに、唇を噛む。
だが、自分がやらなくてはならないのだ。最低限、発進させる所までは。
（落ち着くのよ……）
基本はドルフィン号と変わらない筈だ。そして、そのドルフィン号を操縦する００９を、自分はいつだって見ていたではないか。
（そうよ…ジョーは……）
目を閉じて、深呼吸を一つ。
（ジョーは……）
以前に一度、教えてくれた事があるのだ。こんなに様々な計器やスイッチがあるのに、どうして迷わないの？ と尋ねた自分に、００９は言ったのだ。『そんなに難しくなんか無いんだよ』と。はにかんだように笑って。『発進するくらいだったら、君にだってできるさ』と。離陸してしまえば、あとはオートパイロットがある。着陸が一番難しいけれど、でも、広いところに降りるのなら簡単だ。『戦闘飛行じゃなければ、全然、難しくなんかないよ』と。
そして……。
（…『これが始動スイッチ』……）
記憶の中にある００９の言葉を聞きながら、００３はつと手を伸ばした。
（……『そうしたら、こっちを確認して……』……）
コンソールの上に視線を走らせ、計器を確認する。
（…『ＯＫだったら、今度はこのスイッチを……』……）
００３の指が次々とスイッチを弾き、それにつれて、コンソール上のランプが点灯していく。
エンジンの唸りが壁を震わせ……
（……『ほら…発進準備はこれでＯＫ。あとは……』……）
操縦幹を握り、スロットルに手を掛ける。
そして、００３は、キッと前方を見据えた。
『ハインリヒ…！ 発進…できるわ！』
脳波通信機で呼びかける。
『…大丈夫か…？』
『ええ…乱暴になるかもしれないけど、とにかく……行けるわ！』
二呼吸の間。そして……
『…今…扉を閉めた…行ってくれっ！』
『了解！』
そう答えると同時に、操縦幹をしっかりと握り、００３は思い切りスロットルを引いた。

悲鳴にも似た、エンジンの咆哮。
床と壁がビリビリと振動し、椅子の背に押し付けられる。
見開いた瞳の中で、離着陸口の壁が、一気に後ろに流れ去る。
青い空が視界に広がり……
『…ジョー……！』
『……心配…な…で…フラ…ソワ…ズ……く…は……』
あっという間に、脳波通信機の電波は届かなくなる。
（…ジョー……）
コクピットの扉が開き、００４が入ってくる。
００４は、必死で前を見詰めて操縦幹を握り締めている００３に歩み寄ると、その肩を叩いた。
「…よく…やってくれた……あとは俺が……」
「えぇ…お願い……」
頷いて立ち上がり、００４が操縦幹を握ったのを確認したところで、００３はその場に座り込んだ。
「…ジョー……」
両手で顔を覆い、泣き崩れる。
泣いたら『見る』事ができない。だが。もう暫くは『見る』必要は無い。
００３の鳴咽を背中で聞き、００４は呟いた。
（ほんとに…よくやってくれたぜ……フランソワーズ……）

けたたましい警報が司令室に鳴り響き、バイスは眉根を寄せた。
「何事だっ？」
しかし、その問いに対する答えは返ってこない。
司令室内のオペレーター達は、一体何が起きたのか判らぬ様子で、コンソール上に視線をさ迷わせている。
（ったく…）
これだから研究所の警備兵は…と思い、バイスは立ち上がった。
バシッ…
と机を叩き、一喝する。
「どこで警報が鳴ってるんだっ！」
「あ…あの……あ……えと……離着陸口です……」
「…な…んだとぉ…？」
まさか、と思う。
「離着陸口の映像を出せ！」
「…は…はいっ……」
苛々するような数秒間。
そして。
スクリーン上を一瞬ノイズが埋め、次の瞬間、管制室から離着陸口全体を見下ろした映像が映る。
（…あんの…野郎どもが…っ！）
映像の中では、今まさに００５が連絡艇の中に入ろうとしているところであった。
スクリーンを見据えつつ内線の受話器を引っ掴み、バイスは、地下の００９を閉じ込めている区画を呼び出した。
「そっちは、どうなってるっ？」
『……は…？』
噛み付くようなバイスの問いに、しかし、兵士は呆然とした調子で答えた。
『…い…異常ありません…が……』
「な…にぃっ？」
思わず受話器を見詰める。
（馬鹿な……）
「本当に、何も無かったのか？」
『はぁ……』
何を言われているのか判らないといった風の返事。
「００９がちゃんといるかどうか、確認しろ！ すぐに！ いいなっ！」
そう叫ぶと、バイスは通話を叩き切った。
（くそっ…！）
スクリーンを見上げ、舌打ちする。連絡艇のエンジンは、もう、始動している。扉の所で００４が銃を乱射し、そして……。
００４が扉を閉め、次の瞬間、連絡艇が発進する。
バイスは拳を握り締め、机に叩き付けた。
（逃げられた……）
追手をかけようにも、この研究所には戦闘機など無い。
（…ちっくしょう……！）
と。
内線の呼出音が鳴る。掻っ攫うように受話器を取り、バイスは問うた。
「どうなんだっ！」
『居ます…』
「…なんだと…？」
『００９は、ちゃんと居ます……』
「中に入って、確認したんだろうなっ？」
『無論です』
「………」
（…置いて行った…だと…？）
『バイス様？』
兵士の問いかけを無視して受話器を置き、バイスは宙を睨んだ。

「バイス様。連絡艇から通信です」
オペレーターの言葉に、バイスは眉根を寄せた。
「なに？ ００ナンバー共からか？」
「いえ…別の連絡艇で……この研究所に向かって来てます。本部からの伝令です……」
「……誰だ？」
「えー……タイラントです。ドクター・クワイト付の戦闘部隊隊長で、バイス様宛の命令書を預かって来ている……との事です」
「………」
タイミングが良すぎる、とバイスは思う。
（…まさか…００ナンバー達が００９を置いて逃げたのも……クワイトのシナリオ通り……なのか……？）
まさか、と思う。
「…バイス様。あの…連絡艇が、着陸許可を求めているのですが……」
おどおどと言うオペレータを睨み、バイスは言った。
「阿呆か？ さっさと許可を出せ。で、その伝令をここに来させろ」
「はっ！」

連絡艇から降り立ったところで、タイラントは首を傾げた。
（……？）
騒然とした雰囲気。空気に焦げたような匂いが交ざっている。
（これは……銃撃戦が…あった…？）
とすると、００ナンバー達が逃げたのだろうか？ そう思い、タイラントは内心で肩をすくめた。
（ま、俺には関係無いがな……）
自分に与えられた任務は、命令書をバイスに渡す事だ。その後は、バイスの指示に従うように言われている。
そこへ、一人の兵士が近付いてきた。
「タイラント、というのは…？」
「俺だ」
「来い。司令室へ案内するように言われている」
「判った…」
短く答え、タイラントは兵士の後に続いた。

「ドクター・クワイト付戦闘部隊隊長の、タイラントです。バイス様宛に、これを預かって参りました」
型通りの敬礼をして記憶チップを差し出すタイラントに、バイスは軽く頷いた。
「ご苦労」
記憶チップを受け取ると、バイスは傍らのコンソールに備え付けられた再生用のスロットに差し込んだ。署名を照合し、間違いなくクワイトからである事を確認する。
そして、バイスは文書をディスプレイに表示させた。
（………）
ザッと流し読み、改めてクワイトの恐ろしさを実感する。
（すべて…奴の……シナリオ通り…か）
「…タイラント」
「はっ」
「お前は、００９を護送する部隊に加われ、との事だ」
「了解ですが…護送先は…？」
「俺の基地だ」

「なんだと？」
バイスの言葉にライは思わず問い返した。
「この研究所は、放棄するように…と」
「一体、何故……誰が…！」
「００ナンバーに位置を知られた為に放棄するようにという、最高幹部会議の緊急決定だそうで……先程、伝令が来たんですよ」
何と言っていいか判らずに、ただ黙しているライに嘲笑を向け、バイスは言った。
「俺は、００９を護送して、一足先に自分の基地に戻りますんで。研究所放棄の指揮は、よろしく御願いします。戦闘員連中は俺の基地で引き取りますから、貴方は研究員を連れて、北海基地へ移動してください」
「………」
「俺は言われた事を伝えてるだけなんでね。抗議は、最高幹部会議の方へ御願いしますよ」
そう言い、馬鹿丁寧に一礼すると、バイスはさっさと踵を返した。

（……厳重なこった……）
００９を護送する部隊の列に交ざって研究所の下層に向かいつつ、タイラントは内心で呟いた。
タイラントと共にバイスに従っている護送部隊の面々は、全員が完全武装だ。
だが、タイラントは、一応、銃を持ちはしたものの、いつも通りだった。
格闘戦用のサイボーグであるタイラントは、特に武器を必要としない。それに、タイラントのサイボーグ体は、本部の医療センター長自らが制作した、フルオーダーのものなのだ。一般兵士に使われている量産型のサイボーグ体とは、根本から違う。加速装置も装備されており、性能的には００９のサイボーグ体を遥かに上回るのだ。
（…俺一人居りゃあ…十分なのによ……）
だから、クワイトが自分をここに差し向けたのではないだろうか？ そう、タイラントは思う。
（まぁ…いいか……）
何しろ相手は『組織最強の敵』と噂される、００９なのだ。厳重すぎて困る事は無いだろう。
（…最強の敵…ねぇ……）
たかがテストナンバーが『最強』というのも噴飯ものだと思う。だが。
（……そんなに強ぇってんなら…一戦…やってみてぇよな……）
自分が勝つのは間違いないが、どの程度やるのかは、見てみたいものだ。そう思うタイラントであった。

分厚い扉を何回も通り抜け、一隊は、ついに最後の扉の前に辿り着いた。
「開けろ」
バイスが命じ、扉を警護していた兵士がそれに従う。
重い音を立てて、ゆっくりと扉が開いて行く。
（…どれどれ……）
タイラントは興味津々で、扉の向こうに目を遣った。
部屋の中央に、太い円柱が置かれている。高さは２メートル程。多分、本来はその上に爆薬を置いたりして、高所で爆発させた場合の実験等をするのだろう。
その円柱に、真紅の戦闘服に黄のマフラーを垂らした、栗色の髪の少年が縛り付けられていた。
（アレ…か……）
膝立ちの体勢で背中を円柱に付け、両腕は円柱の後ろに回す格好で縛められている。両足も多分、円柱の後ろで繋がれているのだろう。その上から更に、胸から腰までがロープでぐるぐる巻かれていた。
（…ほんと…厳重なこった……）
頭を垂れて俯いている００９の方へバイスが歩を進め、それに続いてタイラント達も室内に足を踏み入れた。
（…それにしても………ガキ…じゃねぇかよ……）
些か拍子抜けする。無論、タイラントとて『００９』が造られたのがいつ頃なのかは知っている。サイボーグが外見的な変化をしない事だって（何しろ自分自身サイボーグなのだから）よく知っている。
それでも。
（なんつーか……）
小柄な、どちらかと言えば細い体。膝を付いているから身長は判らないが、どう高く見積もっても、自分より頭一つ分は小さいだろう。体のラインも中性的で、まだまだ子供っぽい。
（…うーん……）
柱に縛り付けられてぐったりしている様子が何かを連想させるようで、タイラントは内心で首を捻った。
００９を眺め、考える。
東洋系と聞いているから、その所為もあるのだろうが、それにしても『男』には見えないよな、と思い……
（………あぁ…！）
自分が連想したのが何かに気付き、タイラントは危うく吹き出しそうになった。
（…生贄のアンドロメダ姫…だ……！）
たいそうな美貌の姫で、海の怪物の怒りを鎮める為、岸壁に縛り付けられ、生贄として捧げられたとか。
（……とすると、その怪物ってのが…バイスか？）
そう思い、タイラントは爆笑しそうになった。
（……ったく…いい加減にしてくれよな、コイツの何処が『最強の敵』なんだよ！）
やれやれ、と溜め息を吐く。
一応、こっそりと。

扉のロックが外れる微かな音に、００９はハッと目を開いた。
（…来た…か……）
意外と遅かったな、と思う。００４達が脱出した途端、問い詰めに来るかと思っていたのに。
大きく息を吐き、指一本動かさぬままに全身で身構え、再び、目を閉じる。
その００９の耳に、扉の開く重い音が届き、それに大勢の足音が続いた。
（……ずいぶんと……大勢で来たな……）
数え切れない程の足音。カチャカチャという金属の触れ合うような音。それが左右に分れ、半円形に取り囲んで止まる。
そして、一つの足音が自分の目の前までやって来て、止まった。
（この足音は……）
まだ数回だが、しかし、聞き覚えがあった。
（……確か、バイスとかいう……）
「…００９」
声を掛けられ、その声音と口調に００９は内心で頷いた。
（やっぱりそうだ……）
どうやら、このバイスという男が指揮官のようだ、と００９は見当を付けていた。
（…指揮官直々に尋問…か……？）
００４達を逃がしたのが、よほど、癪に障ったのだろうか？ と考え、００９は内心で苦笑する。
（まぁ…それは、そうか……）
捕らえた『敵』を逃がして上機嫌な奴が、居る訳が無い。さて、何と言ってくるだろうか？ そう思いつつ、００９は沈黙を続けた。

（……まさか、寝てるんじゃねーだろうな？）
ピクリとも動かない００９を見下ろし、バイスは声を荒げて呼びかけた。
「００９！」
だが。００９は何の反応もしない。
（…この野郎……）
ナメやがって、と呟き、バイスは００９を蹴り飛ばした。
鈍い音。
栗色の髪が揺れる。
「………」
けれど、００９は何の反応も示さない。
（……なんつー強情な奴だ…！）
舌打ちし、バイスは再び口を開いた。
「００９……」
身動ぎ一つしない００９を見下ろし、言葉を続ける。
「お前の仲間は…逃げたぞ……」
「………」
「お前を置いてな。……薄情な仲間だよなぁ」
嘲笑。
「………」
「何とか言ったらどうだっ！」
相変わらず無反応な００９に、バイスが声を荒げた、その時。
ゆっくりと、００９が顔を上げた。

００９が目を開く。
その瞬間。空気が一変した。
（……あ……）
思わず後ろに退がりかけ、タイラントは危うい所で踏みとどまった。
（…な…ん……）
強い意志をたたえた、茶の瞳。それが、冷笑すら秘めて、周囲を取り囲む者達を見回す。
ギリ…と唇を噛んで体勢を立て直し、タイラントは００９を見詰めた。
（なんて目を…しやがる……）
敵の手に捕らえられ、厳重に縛り上げられて自由を奪われ、更に、完全武装の兵達に取り囲まれているにもかかわらず、微塵も臆する様子は無い。
（……確かに…）
これだけ厳重に警戒するのも頷ける、とタイラントは思った。
（もしも…視線で人が殺せるなら……）
さっきの一瞬で、自分達は全滅だったろう。そうでなくても、縛られてさえいなければ、あの眼光に射すくめられた数秒の間に、００９はこの場の半数以上を倒せたに違いない。
（何しろ…加速装置付だからな……）
それにしても、とタイラントは唸った。今、改めて００９見ると、このどこを見て『生贄のアンドロメダ姫』などという連想をしたのか？ と我ながら不思議に思う。
今見る００９は、人慣れぬ猛獣のようで、まったく剣呑だった。迂闊に触れれば、一瞬で切り裂かれかねない。
（……『最強の敵』…か…）
なるほど、とタイラントは内心で頷いた。

執務室の奥にある部屋に、五人の人間が集まっていた。

この研究所にある二つの研究室（兵器開発室とESP/対ESP兵器開発室）各室長の、チアフルとカティサック。
研究所付の医療センター責任者である、エストラ。
そして、研究所所長たるライと、副官のアイラニ。
要するに、ライ一党の中核を為す面々だ。
会議の名目は、研究所からの退去手順についての協議、であった。

「一体、連中は何を考えてるんだ！」
扉を閉じるなり、ライは叫んだ。苛々と部屋の中を歩き回る。
「ライ様……」
アイラニが困ったようにライを見、言った。
「あの…とにかく、お座りになってください……」
「そんな場合かっ！」
「…し…しかし……ライ様……」
その様子にチアフルが溜め息を吐いた。
「………ったく…」
頭を掻き、口を開く。
「あのさぁ。とりあえず、おちつけよ、ライ」
「なんだと！」
これが落ち着いていられるか！ と叫び返すライに肩をすくめ、チアフルが言う。
「んじゃさぁ、ライ。そーやって苛々してりゃあ、解決すんの？」
「………」
「まぁ〜、座れって」
大きく息を吐き、そして、ライはソファに座った。

「私達は、断片的にしか状況を把握していません。まずは、現状の説明をお願いします」
カティサックがゆっくりと言う。穏やかな光を湛えたその黒い瞳を見、軽く息を吐いて小さく頷き、ライは口を開いた。
「まず……００ナンバー達が逃げた」
「………」
「どうやら、００３、００４、００５の三人が催眠処置から覚めたらしい。その三人で、残りのメンバーを連れ、連絡艇を奪って脱出して行った。ただし……」
そこでライは言葉を切り、首を振った。
「…ただし、００９を残して……だ」
沈黙。
「その後…直後、と言ってもいいだろう。本部からの伝令が、連絡艇でやってきた。バイス宛の命令書を持って。その命令書は、勿論、クワイトからのものだ。表向きは、最高幹部会議が承認／発行した指令書という事になっているが……実際は、クワイトが勝手に書いているものだろう」
今回の一件そのものがそうなんだからな、とライは言った。

００ナンバーの存在は、Neo Black Ghost にとって、確かに厄介なものではあった。だが、切羽詰まった問題では無いというのも、確かだった。
既に世界征服を成し遂げた Neo Black Ghost にとって、たかだか九人のテストナンバーサイボーグと一人の老科学者なぞ、なにほどのものでもない。しかも、相手は自分達の存在すら知らないのだ。
放っておけばいい。
それが大方の意見だった。
とはいえ、００１の存在は、やはり問題だった。００１の能力は未知数だが、強大なのは間違い無い。もし、自分達の存在が００ナンバー達に知られ、００１がその全力で叩き潰しにかかってきたら……果たして対抗する事ができるのか？ そうなる前に、やはり先手を打って００ナンバー全員を叩くべきではないのか？
そういう意見は、組織内に根強かった。
だが。
では具体的な策を、となると誰もが沈黙してしまうのが常であった。
何しろ、００ナンバーに関する情報は少ない。判っているのは、九人である事の他は、大雑把な性能と被験体（つまり、サイボーグ化を受けた人間）の捕獲場所くらいだ。迂闊に近づいて気付かれては本末転倒だから、調査もままならない。
常識的に考えれば、たかがテストナンバーのサイボーグが、そんなに強い筈が無かった。人数も僅か九人。００１が眠っている事を確認した上で、最新型のサイボーグ兵の一小隊でも送れば、アッサリと決着が付く筈なのだ。
だが。Black Ghost を筆頭に、数々の組織が、そうやって、無策のまま００ナンバー達とやりあい、壊滅していった。性能的には００ナンバーを遥かに上回る筈の、最新の技術を投入して造った戦闘用ロボットやサイボーグ。その総てが、返り討ちにあっているのだ。
信じ難い事だった。理屈に合わない。だが、理屈に合わぬ事がこの世にある筈が無い。理屈に合わぬのなら、理屈が間違っているのだ。あるいは、データが。
かくして。００ナンバーは組織の公敵として認知され、周知が図られ、迂闊に手を出すな、との指示が徹底された。何年にも渡って地道な調査が行われ、けれど、大した成果も上がらず……
そんなある日。
最高幹部会議の席上で、クワイトがこう言った。
『００９が欲しい』と。
『それは構わんが、連れてこい、と言われても困るぞ』という総裁に、クワイトはニタリと嗤った。
『そこまでは言わん。策はある』
無論、誰にも異論は無かった。クワイトは Neo Black Ghost の総裁では無かったが、上級幹部達は皆、本当の総裁が誰かを承知していた。総裁自身さえも。
こうしてクワイトは、００９を捕獲する為に必要な（彼が必要と考える）あらゆる命令を、最高幹部会議の名で発する権限を与えられたのであった。

「クワイトは、００ナンバー達が００９を置いて逃げる事を予想していた。そして、伝令に命令書を持たせて、ここへ来させた。タイミングも恐ろしいぐらいピッタリだ。命令書の内容は……」
軽く目を閉じて記憶を手繰りつつ、ライは言葉を続けた。
『逃げた００ナンバーは放っておけ』
『００９は、即刻、ヒマラヤ基地へ護送せよ』
『ウラル研究所は放棄』
『バイスは００９の護送部隊と共にヒマラヤ基地に戻る事』
『ウラル研究所の戦闘員は、ヒマラヤ基地へ、研究員は北海基地へ移動』
『研究所放棄の指揮はライに執らせる事』
『以上の事を、ライには口頭で通達し、その際、最高幹部会議の緊急決定と告げよ』
『ヒマラヤ基地に移送後、００９から００１の居場所を聞き出す事。期限は四日。殺さなければ手段は問わない』
「…まぁ、概ね…こんな感じだ……」
「なぁるほど…ねぇ……」
チアフルが頷き、口をヘの字にして腕を組む。
「完全に…クワイトのシナリオ通り……という訳ですか…」
エストラが言い、カティサックが頷いた。
「そのようですね……」
そしてライを見、言葉を続ける。
「クワイトのシナリオでは、我々は…どうするだろう、と？」
それに関しては何も？ という問いに、ライは頷いた。
「あぁ。俺達がどう出るだろう、とか…その場合はどうしろ、とか……そういった指示は、バイスには与えられていない。一刻も早く、００９を連れて自分の基地に戻れって…それだけだ」
「そう…ですか……」
溜め息。
「とにかく！ ００ナンバー達が、一体、何を考えてるのか、だ！」
低く、ライは叫んだ。
「００９を置いて行って……まさか、００９が捕らえられたのを知らない訳は、無いんだろう？」
ライの問いにカティサックは頷いた。
「えぇ。催眠状態から覚めても、その間の記憶は保たれます。彼等が００９を捕らえたのですから、当然、彼等には００９が捕われていることが判っていた筈です」
「だったら何故！ 置いて行ったらどうなるかくらい……考えなくても判るだろうに！」
「……助けに行ったらどうなるか…ってのも、考えなくても判ったから、じゃないのか？」
不意にチアフルが言う。
「…な…んだと……」
「言っただろ？ とてもじゃないけど００９にゃ近づけないって……」
軽く肩をすくめ、チアフルは言葉を続けた。
「…００３が正気に戻ってたんだろ？ 彼女に組み込まれた機能は、確か『目』と『耳』だよな？ 当然、それを使って研究所内を『見た』だろう。そうすりゃ、とてもじゃないけど００９に近づけないってのは、判っただろうさ」
「………」
「となると、００９を置いて行くしかないだろ？ しかも、バイスは警備兵の殆どを地下の００９を閉じ込めてる区画に集中させてんだ。他の場所の警備なんて、ザルも同然。００３の能力があれば、巡回の兵士の隙を縫って離着陸口に行くのは簡単って思っただろうな。で、実際、そうだった訳じゃん」
「な…るほど……」
エストラが掠れた声で言う。
「……バイスは００ナンバーが００９を置いては行かないだろうと思い、警備の兵力を集中した。００ナンバー側はそれを逆手に取って、まんまと脱出に成功した……００９を…犠牲にして……」
「そゆこと。結局、そうするのが、一番、合理的だろ？」
「だがっ！」
ライが叫ぶ。
「…００９はっ……」
「まぁ、拷問されるだろうってのは…覚悟の上だと思うぜ？」
サラリと言うチアフルを、ライが睨み付ける。
「そ…そんな事をっ！」
「じゃあ、聞くけどさぁ、ライ？ 全員で捕まってて…んで、どーすんのよ？」
「………」
尋き返されて、ライが言葉に詰まる。
「…だろ？ 唯一の方法なんだよ。もっとも……」
そう言って、チアフルは苦笑した。
「…かーなーり、思い切った手段なのは間違い無いよな。ひょっとすると、００９は死ぬかもしれないんだし……」
誰の策だか知らないが、物凄く冷酷だ。とチアフルは唸った。
「なかなか出来る事じゃない……。けどさぁ…ライ、俺はこれで判ったと思う」
「……？」
「何で、００ナンバー達が、これまで勝って来られたか、がさ」
ぐるりと一同を見回し、チアフルは言う。
「…誰だかは判らないけど、ものすげー指揮官がいる。００１以外にさ。確か…元軍将校なんて経歴の奴は居なかったよなぁ？ ってコトは天性のセンスってやつなんだろうけど……とにかく、いい度胸してるぜぇ」

「あ…あの……そうすると、我々としては…どう…？」
黙り込んでしまったライを気遣わし気に見遣りつつ、アイラニが口を開いた。
「そうですね……」
カティサックが静かに答える。
「…当面は、待つしか…ないでしょうね」
「待つ…ですか？」
アイラニが首を傾げる。
「えぇ。００１が…来るのを」
違いますか？ というようにカティサックはチアフルを見遣った。
「まぁ、そっかな？ ……とりあえず、俺等の仲間じゃない連中は、ちゃっちゃと北海基地に送っちまって、警備兵連中もヒマラヤ基地に追っ払って……」
そこで言葉を切り、チアフルはライの前で手をヒラヒラと動かした。
「お〜い、どったの〜？」
「…え…は……」
「ん〜？」
「……おまえは…」
ライがチアフルを睨む。
「お前は！ 何だって、そう明るいんだ！」
「へ？」
目をぱちくりさせ、そして、チアフルはにぱっと笑った。
「そ〜りゃ、俺にはラテンの熱い血が流れてるからだよ〜」
「ふざけるなっ！」
ライが怒鳴る。
「００９を、どうするんだ。このまま、バイスに連れて行かせるのか？ そうしたらどうなるか、判らないのか？ あのバイスに拷問されるんだぞ？ そして、その後は多分、クワイトに引き渡されて……奴にどんな性癖があるのかは、前にも言っただろうっ？」
「仕方ないだろ？」
「…お前はっ！」
「ライ様っ！」
ライがチアフルの胸倉に掴み掛かり、アイラニが悲鳴をあげて間に入ろうとする。それをカティサックが片手を挙げて制し、エストラが倒れかけたポットを素早く支えた。
「………」
ライが左目を細め、チアフルの黄玉色の瞳を覗く。
沈黙。
そして、ライはチアフルの胸倉を掴んだ手を放し、椅子に座り込んで深い溜め息を吐いた。
「……すまん…お前の……言う通りだな、チアフル………」
沈痛な声。
「確かに…００９を置いて行ったのは、彼等の判断だ。その結果への覚悟は…あるんだろうし、そうでないとしても……それは彼等の問題だ。そして……今の俺達には、００９を助けるだけの力は無い。ここで俺達が騒ぎを起こしても、勝ち目はない。結局、００９はバイスの基地に連れて行かれる事になる。そして、俺達が全滅すれば、００９が何処へ連れて行かれたかを、彼等に教えてやる事ができなくなる……」
重苦しい沈黙。
それを破ったのは、やはり、チアフルだった。
「あのさ、ライ。しょーがない事ってあるのよ。俺等が非力なのは、今更どーしようもない。だろ？ 大丈夫。なんとかなるって！ なんたって、カミサマは、ぜってー俺等の味方だって！」
「…なんで…そんな事が判る……」
「わかるさ！」
あっかるくチアフルは請け合った。
「カミサマってーのは、イイ奴なんだろ？ だったら、ぜってー俺の味方に決まってる！」
だって、俺ってイイ奴だも〜ん、と笑うチアフルに、ライはしみじみと言った。
「チアフル……お前、俺の専門を知ってるか？」
「へ？ ……専門？」
眉根を寄せて頭を掻き、答える。
「えーっと、確か……脳外科…だっけ？」
「そうだ。いいか、チアフル。脳外科医として言う。お前の脳はな」
「俺の脳は…？」
「お前の脳は、もう駄目だ。あと６０年もすれば、使えなくなる」
「えっ！」
チアフルは目を丸くして飛び上がった。
「…だからな。この一件が片付いたら、俺が……」
とチアフルの頭を指し、ライは言葉を続けた。
「…そこから取り出して、ホルマリン漬けにしておいてやる。そうすれば、１００年や２００年は持つからな」
「そ…そーお？ そりゃ、ありがたいけど……？？？」
イマイチ話が判らずに首を傾げるチアフルに、エストラは思わず吹き出した。その様子を、チアフルがきょとんとした目で見る。
「…え？ ……なに…エストラ？」
「…チアフル……あなた…だまされてます」
「そ…そーなの？」
「少なくとも、俺は、嘘は言っていない」
一同を見回して、ライは、そう断言した。

真っ直ぐに見据えてくる茶の瞳。
それが、優し気な少年の面影を一瞬で消し去る。
ゆっくりと瞬きをひとつ。
唇の端が僅かに弧を描いて笑みを刻む。
そして、００９は口を開いた。
「Neo Black Ghost も…意外と甘いんだな」
「な…んだと……」
バイスが思わず問い返す。
「目的の為に手段を選ばないのは、自分達の専売特許だとでも思っていたのか？ ずいぶんと……」
そこで言葉を切り、００９は喉元で笑った。
「…俺達をナメてくれたものだな」
「キサマ……」
００９を見下ろし、バイスが低い声で問う。
「……奴等がお前を置いて逃げたのは…そういう手筈だったんだ、とでも…言うのかっ！」
それへ、００９は嘲笑で答えた。
「………」
睨み合い。
沈黙。
そして。
ゆっくりと、バイスは言った。
「…なるほど。つまり、お前は、奴等が何処へ行ったのか、どうするつもりなのか、総て知っていると……そういう訳だな？」
００９は答えない。
残忍な笑みを浮べ、バイスは言う。
「これからどうなるか…判ってるんだろうなぁ？」
「勿論、判ってる……」
ニッと笑い、００９は言葉を続けた。
「…あんた等は、俺から何も聞き出せない。Neo Black Ghost は、滅びる」
「…な……」
その言葉に絶句し、次の瞬間、バイスは思い切り００９を蹴り飛ばした。
鈍い音。
だが。００９は、眉一つ動かさない。
余裕たっぷりの表情を憎々しげに見下ろし、バイスは言った。
「いいだろう。その言葉、よく覚えておくんだな。……すぐに、撤回させてやる」
そう言うと、バイスは背後に控える部下へ、軽く手を振った。
二人の兵士が進み出る。そして、一人が００９の髪を掴み、首を反らさせて押さえ付けると、もう一人が手に持っていた注射器を、その首筋に押しあてた。
空気が抜けるような、微かな音。
そして、兵士達は００９から離れた。
（麻酔…薬…か……）
すぅっと意識が遠ざかる。
「お前が安らかに眠れるのは、これが最後だ。せいぜい、味わっておくんだな……」
眠りに落ちて行く００９に、バイスは嘲笑交じりにそう言った。

轟音を立てて、連絡艇が飛び立っていく。
その様子を映し出すスクリーンを睨み、ライは唇を噛んだ。
（俺は……）
何と無力な事か、と思う。
（……人間というのは…どうして……己の命ですら贖えない罪を、犯す事ができるんだろうな……）
「ライ様……」
気遣わしげなアイラニの声に振り返り、ライは小さく頷いた。
「研究所放棄のタイムスケジュールは…できているか？」
「は…はい」
「よし。すぐに取り掛かれ」
「承知致しました」
敬礼し、踵を返すアイラニを見送り、ライは天を仰いだ。
（……賽は投げられた……あとは……）
最善と信じる事をするしか無い。
戦いは、始まったのだから。