何人もの軽い足音。衣擦れの音。
短い電子音が、規則正しいリズムで鳴り続けている。まるで心臓の鼓動のように。
（………？）
００９は、ぼんやりと目を開いた。
白っぽい風景が目に入るが、焦点があわず何も判らない。
自分がどういう体勢でいるのかも判らず、それが判らない事すらも判らず、００９は再び目を閉じた。

「覚醒しつつあるようです」
スタッフの声に、ウィッチは００９の顔を覗き込んだ。
ゆっくりと瞼が上がり、茶の瞳が現れる。
けれど、焦点が全くあっていない。
目の前で軽く手を振ってみるが反応は無く、再び瞳が閉じられる。
軽く肩をすくめ、ウィッチはスタッフの方を振り返った。
「脳波は？」
「ほぼ、覚醒パターンですが……」
「そう……」
そう言うと、ウィッチは００９の頬を、軽く叩いてみた。
「００９…」
「………」
「…００９？」
「…ぁ…？」
微かな声。そして、再び茶の瞳が開かれる。
それを覗き込み、目の前で手を動かしつつ、ウィッチは再び呼びかけた。

誰かに呼ばれているような気がして、００９はゆっくりと目を開いた。
（………？）
ぼんやりとした視界で、何かが動いている。
（な…に……？）
ゆっくりと焦点が合い、ぼやけていたものの輪郭がハッキリしてくる。
「００９？」
呼びかけられ、そして、００９はゆっくりと瞬きをした。
（……？）
見覚えの無い、白衣姿の女性が、そこに居た。
（…ここ…は……）
徐々に周囲の様子が頭に入ってくる。
白い天井。白い壁。薬品の匂い。白衣姿の女性。
どうやら病院かそれに類する所らしい、と００９は思い至った。
（僕は……）
それにしても、自分は一体どうしてこんな所に居るのか、と思う。
（…みんな…は……？）
身を起こそうとし、００９はハッとした。
（……あ…！）
手足に感じる金属の枷。首にも同じような感触を感じ、００９は自分がベッドに寝かされた状態で拘束されている事に気付く。
（………）
目を閉じ、考え、目を開く。
そして、００９は言った。目の前に居る、白衣姿の女性を睨み付けて。
「ここは、何処だ？ お前は何者だ？ 俺を…どうするつもりだ？」
その鋭い眼光に、しかし、怯む様子も無く、白衣姿の女性は軽く頷いて言った。
「…結構。正気のようね」
「………」
「ここは、Neo Black Ghost 本部。私は医療センター長のウィッチ。あなたの治療を依頼されてね。……生命維持機能は、１００％治療が完了しているわ。それ以外については、生命維持機能との絡みで直してしまったものもあるけれど、あえて完全にはしていない。今のところ、その必要は無いでしょうからね。ま、痛かったりはしない筈よ。それと、加速装置はスイッチを切らせて貰ってるわ。……何か質問は？」
「………」
「無いんなら、私の仕事はここまでよ」
そう言うと、ウィッチは少し間を取って００９が何も言わないのを確認し、踵を返した。

目隠しをされた上で厳重に縛り上げられ、かなりの人数に取り囲まれ、００９は医療センターから別の部屋へと連れて行かれた。
ウィッチからは、痛かったりはしない筈だと言われたものの、それは、じっとしていればの話。歩かされれば、応急処置しかされていない傷は激しく痛む。ろくな休養も与えられていない００９は、苦痛に耐えるのが精一杯で、自力で歩くことは、ゆっくりならともかく、兵士達が要求する速さで歩く事は、難しかった。
だが、兵士達はそんな事にはお構い無しで、結局、００９は殆ど引きずられるようにして、連れて行かれた。
椅子に座らされて両手両足を固定される。
兵士達らしき足音が部屋から出て行き、扉の閉じる音が続く。
そして。
００９は、目隠しをされたまま、室内に取り残された。

（………）
静まり返った部屋。
それが、何かを思い出させる。
目隠しの隙間から洩れてくる光が、室内に明かりが点いている事を示していて、００９には、それがありがたかった。
静寂。
（……お…ちつけ……）
唇を噛み、自身を叱咤する。
（…ここは…敵の本拠地なんだぞ……！）
この状況下で、次に敵が何をするか。そんな事は考えなくても解る。
だから。
（…おちつくんだ。……大丈夫…僕は……）
大きく息を吸って吐き、ギリっと歯を食いしばる。
（…絶対に…屈するものか……奴等の思い通りになど……絶対に……！）
絶対にならない。００９は低く呟いた。

扉の開く音。
室内に入ってくる足音。
扉の閉まる音。
そして、鍵をかける堅い音。
（……一人…？）
ゆっくりとした足取りで、その何者かが近付いてくる。
足音は、００９の左側を抜けて前に回り、そこで止まった。
沈黙。
００９は、足音から予想される、その人物の方向へと顔を向けた。目隠しをされたまま、キッと睨む。
と。
くっ…と男が嗤った。
「なるほど。……手のつけようのない強情者…という噂も、まんざら嘘ではなさそうだな」
足音が近付いて来て、不意に目隠しが外される。
一瞬、光に眉をひそめ、そして、００９は目の前に立つ男を睨み付けた。
白衣を纏った大柄な体躯。
短く切った銀の髪。
妖しい光を放つ、藍の瞳。
口元に薄笑いを浮かべ、男は００９を楽しげに眺める。
それから、ゆっくりと言った。
「……最初にいくつか教えといてやろう。ウィッチから聞かされただろうが、おまえは今、Neo Black Ghost 本部にいる。総裁以外、誰も…ここに居る者でさえも、ここの座標は知らない。従って、助けは来ない」
００９は無表情である。
「次に、おまえの処遇だが……この私に任されている。つまり、私は、いつでも好きな時に、おまえを殺す権利を持っている」
相変わらず、００９の表情に変化はない。男は更に続けた。
「最後に……おまえの命を握っている私の名を、教えといてやろう。クワイト、だ。忘れるなよ」
そして、クワイトは、暫し、黙った。
「さて……」
後ろで手を組んで、００９の周りを大きく円を描くように歩きながら、クワイトは喋り始めた。
「…００９なぞさっさと殺してしまえ、というのが幹部会議の意向だ。確かにおまえは組織の敵だ。その上、手に負えん強情者だ。しかし……殺してしまうには、あまりにも惜しい。何故か判るか？」
言葉を切り、少々間を取る。だが、００９は何も言わない。そこで、クワイトは言葉を継いだ。
「……理由は二つある。一つは、おまえの知っている他の００ナンバーの情報。おまえ達に関する情報は少ない。何せ、Black Ghost を筆頭に、おまえ達と戦った組織は、ことごとく壊滅しているんだ。資料の残ろう筈が無い。辛うじて生き残った者達の証言や、崩壊した基地跡に焼け残った僅かな書類だけが、おまえ達を知る数少ない資料だ。これでは、らちがあかん。正確な情報が必要だ」
そう言い、クワイトは００９の真後ろで足を止めた。
「さて、もう一つの理由だが……」
くるりと向きを変え、反対方向に歩く。そして、００９の正面にまわると、再びクワイトは歩みを止めた。
「……試作品とは言え、確かにおまえは優れた戦士だ。無論、サイボーグとしての能力のみに話を限定すれば、当然、今のサイボーグより数段劣る。だが、サイボーグは人間だ。ロボットではない。従って、性能イコール戦闘能力ではない。もしそうであれば、とうの昔に００ナンバーは始末されている筈だ。だが、おまえ達は……いや、おまえは、勝ち続けてきた。性能においてはるかに優るサイボーグを相手に。それは、何故か？」
クワイトはつっと００９に歩み寄ると、顎に手をかけて顔を上向かせ、その目を覗き込んだ。００９がキッとクワイトをにらみ据える。ニヤリとクワイトが嗤った。
「この“目”だ」
楽しげに、クワイトが言う。
「この、目。これを見れば判る。おまえには、戦士としての資質が備わっている。真の戦士は、希だ。殺すには惜しい」
そこでクワイトは００９の顎を捕らえていた手を放した。
「……と、いう訳で我々としては、おまえに協力をしてもらいたいのだが……？ どうだ？」
クワイトが言葉を切り、００９を見遣る。即座に００９は答えた。
「誰が、おまえらに協力なぞするかっ！」
吐き捨てるように言う。
「そうすると、力ずくで……という事になるが…？」
「たとえ力ずくだろうが、何だろうが、きさまらの言いなりになぞ、ならんっ！」
くくくっ……とクワイトが嗤った。実に楽しげに。
「…そうこなくては、な………」
暫しの沈黙。クワイトが椅子の周囲を歩く、コツコツ…という音だけが室内に響く。
不意に、クワイトが００９の真後ろで止まった。室内がしんと静まり返る。 不気味な沈黙。
ニタリとクワイトが嗤う。そして、口を開いた。
「地下牢の居心地は…どうだった？」
その言葉に、００９はギクリとした。ビクリと身を堅くし、次の瞬間、慌てて全身の力を抜き、平静を装おうとする。
けれど、それは無理な注文だった。
００９は、ほんの先刻、意識を取り戻したばかりで、その前は、地下牢に居たのだ。地下牢の中で、死ぬほどの苦痛に苛まれていたのだ。
「…どうした？」
からかうようなクワイトの言葉に、００９は唇を噛んだ。
あの時の、あの苦痛と恐怖を、忘れる事など出来る訳がなかった。そもそも、忘れる為の時間なぞ、どこにも無い。００９の意識の上では、地下牢で過ごした『あの時間』と『今』とは、殆ど直結しているのだ。
目を開いても閉じても、変わらぬ闇。
自分の息遣い以外、耳に入る音も無い静寂。
その中で、たった一人で苦痛が訪れる『その時』を待つ恐怖。
じわじわと襲ってくる苦痛。
のたうつ度に、杭を打ち込まれた傷口が抉られ、更なる苦痛が全身を貫く。それでも、悲鳴をあげてのたうち続ける以外に為す術は無く、激痛に気を失う事すら、ままならない。
気力も体力も、最後の一滴まで絞り取られ、最早、もがく事も叫ぶ事もできなくなり、それでもなお、絶え間無く苦痛に苛まれ……
（……っ…）
押し寄せる記憶を振り払おうと、００９は拳を握り締めた。
その様子を楽しげに見つつ、クワイトは正面にまわる。そして、暫しの間００９の様子を眺めると、不意に歩み寄った。顎に手をかけて強引に上向かせ、その目を覗き込む。
ニタリと嗤い、そしてクワイトは言った。
「もっと良く思い出させてやろうか？」
「……な…に…？」
００９は息を飲んだ。背中に冷たいものが流れる。
「そ…そんなこと…できるわけ……」
反論する声がふるえる。
「ない、と言い切れるかな？」
残忍な笑みを浮かべるクワイトに、００９は言葉に詰まった。心臓の鼓動が激しくなるのが、自分でよく判る。
（まさか……そんな…事が……）
できる訳がない。そう思う。
「確かめさせてやろう」
クワイトはそう言うと、すっと右手を上げ、
パチン…
と指を鳴らした。と、同時に、一瞬、室内が真っ暗になる。次の瞬間、００９の座っている椅子を中心とした、半径２メートル程の空間が、丁度スポットライトで照らしたように、パッと明るくなった。
その、光と影の境の辺りにクワイトが立つ。
「良い夢を、００９」
楽し気な嗤い。そしてクワイトは、もう一度右手を上げ、指を鳴らした。
その途端、００９の頭の上に取り付けられていた幻覚装置が、作動を開始した。

静寂。静寂。静寂。
気の遠くなるような、静寂！
暗黒。暗黒。暗黒。
果てしのない、暗黒！
ここは、地下百数十メートルの、地下牢！
（あ………）
００９が息を飲む。
その瞬間。
激痛が全身を駆け巡った！
あげた筈の叫び声が、喉元に届く前に消える。
奥歯を噛みしめて苦痛に耐えようとした途端、体が全く動かないことに気付く。
（……げ…幻覚だっ…！）
００９は必死でそう思った。
だが。
体を刺し貫く杭の感触も。
背中に触れる、冷たい岩の感触も。
息を吸う度、吐く度に、杭を打たれた傷口から、広がる鮮烈な苦痛も。
総てが、あの地下牢で味わった、そのままだった。
寸分違わぬ激痛が、全身を貫く。
紛れもない、死ぬ程の苦痛が！
００９は悲鳴をあげた。

クワイトが、チラリと時計を見た。そろそろ１０分になる。ニッと嗤うと、装置を止めた。
００９がはっと我にかえり、大きく息をつく。そこへ、クワイトが声をかけた。
「どうだ？ ００９。いい夢だったか？」
００９はゆっくりと顔をあげた。呆然とクワイトを見る。
「な…なにが……？」
「この装置はな…」
と言って、クワイトは００９の真上を指さした。
「……この下に立つ者に、その者の記憶に一番鮮明に刻みつけられている記憶を再現し、それを再体験させる。今のお前の場合は、地下牢での体験が再現された筈だ」
００９は答えなかった。クワイトが楽しげに、嗤う。
「まぁ、いいだろう」
そして、クワイトはつっと右手をあげ、指を鳴らした。
再び、装置が作動する。
００９は悪夢の中へ引き込まれた。

振り上げられる電磁鞭。それが自分に向かってくる。
ビシッ……
全身に激痛が走る。鞭が空を切る音。そして、再び激痛が駆け抜ける。
全身に広がる疲労感。焼けるような苦痛。そして……
暗転。
気付けば、そこは地下牢。暗闇と静寂。孤独。
全身を貫く苦痛に、悲鳴もあげられない。冷たい恐怖。体の芯まで凍り付くように寒いのに、熱い激痛が全身を切り裂く。悲鳴をあげたつもりなのに、声が出ない。息が苦しい。それなのに、何故死ねないのか？
（…ぁ……ぁ…ぁ…ぁぁあああっ！！）
必死でもがく。だが、体に力が入らない。
全身に広がる疲労感。
底無しの恐怖。
（う…うそ…だ……！ …これは、ゆめ…だっ……）
だが、その叫びは、押し寄せる激痛の前に、粉々に砕かれ……
耐えられない程の苦痛と恐怖に、００９は絶叫をあげた。

クワイトが装置を止め、００９がはっと我にかえる。
「さて……」
肩で息をする００９を眺めながら、クワイトは口を開いた。
「…そろそろ、事情が判ってきただろう。たとえ幻覚と言えど、その苦痛は、本物だ。死ぬことはないが、死ぬ程の苦しみを味わうことは出来る。どうだ、００９。もう一度悪夢を見たいか？」
００９は、ぞっとした。もう、たくさんだった。
「……我々に協力するか？」
クワイトが言う。その瞬間、００９は自分を取り戻した。顔を上げ、キッとクワイトをにらみ据える。
「Ｎｏ！」
くっくっくっ……とクワイトが嗤った。
「そうでなくてはな。……そうでなくては、面白くない」
そして、すっと右手をあげ、パキッと指を鳴らした。

悪夢。
現実。
クワイトの問い。
そして、悪夢。
もう、何回これが繰り返されたのか。
回を追う毎に、苦痛は、より鮮明に再現されていく。「幻覚だ！」という叫びも空しく掻き消え、００９には、もはや、耐えることしか出来なかった。だが、いつまで耐え続ければいいのか。死ぬまでか？ しかし、これは幻覚なのだ。死ぬ程の苦痛を味わおうと、これは幻覚なのだ。死という安らぎが訪れることは、決して、ないのだ。
（永遠に……？）
自分が屈さねば、永遠に、この苦痛が続くのか？
答えは……。
不意に苦痛が失せた。
「…ぅ……」
荒い息をつき、目を開く。
現実に戻ってきたのだ。
「どうする？」
クワイトが楽し気に問う。
俯いて荒い息を吐き、００９は唇を噛んだ。
（…い…や……だ……）
これ以上は耐えられない。そう思う。けれど、Neo Black Ghost に屈するなど…したくなかった。
「００９？」
冷笑を含んだクワイトの声。
すっと手を挙げる気配。
（…あ……！）
００９が思わず顔を上げ、クワイトを見る。縋り付くような、その瞳。
沈黙。
「……どうした？」
嘲笑を含んだクワイトの問いに、００９はハッとした。
（…僕は……）
自分が何をしようとしていたのかに気付き、００９は目を伏せた。唇を噛む。
（……駄目…だ……）
けれど、もう、耐えられる自信が無い。
（…もう……これ以上……）
どうしようもない恐怖に、震える。
それでも。００９はあらんかぎりの自制心を掻き集め、沈黙を守った。
その様子をクワイトが暫し楽しげに眺める。
そして。
つっと右手をあげ、指を鳴らした。

激しい苦痛を伴った地下牢での記憶が、００９に襲いかかる。００９は、それに対して為す術が無い。既に体力は底をついていた。休ませて欲しかった。呼吸がままならず、あえぐ。それでも、苦痛は絶え間なく襲って来る。苦しみの絶叫が口をつく。もう限界だった。これ以上は耐えられない。これ以上続けられたら、苦しんで、苦しんで……挙げ句の果ては狂い死にするだろう。
「や……や…やめ…て…くれっ……やめてくれっ！！」
００９は叫んだ。
クワイトが装置を止める。そして、ニタリと嗤った。
「我々に協力するか？」
皮肉っぽい口調の問い。００９は、一も二もなく頷いた。
「何でも…なんでもする……だから……だから、助けてくれ…！ もう……もう…やめてくれっ……！！」
震える声で、哀願する。クワイトはニヤッと嗤った。
「よかろう」
そして、インターフォンで兵士を呼び、００９を適当な牢に放り込んでおくよう命じた。

数時間の休息の後、００９は兵士達に取り囲まれ、再びその部屋に連れてこられた。
先刻と同じように００９を椅子に縛り付けると、兵士達は出て行く。
００９は、一人、部屋に取り残された。
静寂。
（………）
心臓の鼓動が耳元で聞こえる。
（……っ…）
００９は俯いて唇を噛んだ。
恐怖。
それが、００９の心に爪を立て、体を震えさせる。
もうすぐクワイトが来て、自分を尋問する。尋ねられる事は、判っている。仲間についての情報だ。
だが。
（…嫌…だ……）
言いたく無い。だが、言わねば……。
（………）
耐えられない。それはもう、嫌という程、解った。
（…もう…一度……アレ…を……やられたら……）
狂う…と、思う。いや、いっそ狂ってしまいたいと、そう思う。
（……み…んな……！）
と。
不意に、背後で扉の開く音がした。
（…！）
００９がビクリと身を固くする。
扉の閉まる音。
鍵をかける、堅い音。
そして、近付いてくる足音。
足音の主が誰か、一瞬で判る。
（…クワイト……）
足音が正面で止まり、不意に、室内の明りが消え、次の瞬間、椅子の周囲だけが明るくされる。
（…あ……）
００９はぞっとした。
沈黙。
クワイトがニタリと嗤う。そして、言った。
「では……００９、質問に答えて貰おう」
身を固くしている００９を見下ろし、クワイトが楽し気に言葉を続ける。
「言いたくなければ、構わない。その時は……」
クワイトがすっと右手をあげ、その気配に００９がはっとする。
次の瞬間、００９は悪夢の中に居た。
全身を駆け巡る激痛。暗闇。孤独。これが永遠に続くのではないかという…恐怖。
００９の喉元から悲鳴があがる。
その途端、クワイトが装置を止め、００９は我にかえった。
「…ぁ……っ……」
時間にして僅かに数秒。だが、００９にとっては、永劫にも等しい。
荒い息を吐いて、身を震わせる。その様子を楽し気に眺め、クワイトはゆっくりと００９に歩み寄った。顎を掴んで顔をあげさせ、うっすらと涙の浮ぶ茶の瞳を覗き込んでニタリと嗤う。
「質問に、答えるか？」
からかうような口調。００９は微かに頷いた。
「よかろう」
クワイトが顎を掴んでいた手を放し、くるりと背を向ける。
００９はほっと息を吐くと、俯いて唇を噛んだ。
（…どこ…まで…喋れば……？）
相手は納得するだろうか、と思う。
何も喋らない訳にはいかない。とても耐えられない。だが、総てを喋らずに済ますくらいなら、できるだろうと思う。相手が納得すれば、それでいいのだ。自分が総てを明かしたかどうかが、判る訳は無い。重要なのは、相手が総てを聞き出したと思う事だ。
ぐったりとした風を装いつつ、内心で考えを巡らせる。
その００９の正面に、クワイトは椅子を持って来て座った。
沈黙。
俯いたまま、００９が上目遣いにクワイトの様子を窺う。
くっ…とクワイトが嗤った。
「…たいした気力だな、００９」
（……？）
ニタリと残忍な嘲笑を浮べ、クワイトは言った。
「ひとつ、教えといてやろう」
（…？）
「私はな、エンパス…すなわち、共感能力者なのだよ」
（え…？）
思わず顔を上げ、００９がクワイトを見る。その瞳を真っ直ぐに覗き込み、クワイトは言葉を続けた。
「他人の感情を……見る事ができる」
（なっ……！）
「テレパス…読心能力と違い、エンパスは思考を読む事は出来ない。だから、お前が何を考えているのかは、私の能力では判らない。だがな……」
楽しげに嗤う。
「だが、利点もある。どんなに強固なブロックでも、感情の色は隠せない。お前が嘘を言っているのか、本当の事を言っているのか、総てを隠さず話したのか、あるいはまだ何かを隠しているのか……私には手に取るように判る。『何を』隠しているのか、知る事は出来ないがな」
（……！）
「能力としては、テレパスより不便だが…その分、吐かせる楽しみはある」
００９が呆然とクワイトを見る。その瞳に嗤い掛け、クワイトは言った。
「私の質問に対して、僅かでも拒絶の感情が浮んだら…即刻、悪夢の中に墜とす」
「…な…っ！」
「答えを考えるのはいい。いくらでも待ってやろう。だが、誤魔化そうとする『感情』が見えたら……」
クワイトがすっと右手をあげ、そこで手を止める。
「…あ……」
恐怖に目を見開き、００９は硬直した。
「…ゃ…あ……やめっ……やめてく……」
その瞬間、００９は悪夢の中に居た。

全身を駆け巡る激痛に悲鳴をあげ、息が続かずあえぐ。必死でもがいても、どうにもならない。
（…や…やめ…て…くれ……！）
助けを求めて叫ぼうとする。だが、声を出す事ができない。全身が自分の物でないかのように重く、意のままにならない。感じられるのは苦痛だけ。辺りは闇。そして静寂……。
（……た…すけ…て……）
泣きながら叫ぶ。けれど、それが声になっているのかどうかすら判らず、００９は恐怖と絶望に震えた。

「…ぁ……」
ふっと苦痛が失せ、００９は息を吐いた。
「……あ……」
現実に戻ってきた事を知り、安堵のあまり泣きそうになる。
「さて……」
そこへ、クワイトの嗤いを含んだ声が掛けられた。
（…！）
００９が身を固くする。
その様子を楽しげに見遣りつつ、クワイトは言葉を続けた。
「…最初の質問だ」

それは、果てしなく拷問に近い尋問だった。
クワイトの質問に対し、僅かでも『答えたくない』と思えば、その瞬間、悪夢の中に墜とされた。
００９は、努めて何も考えないようにしようとした。クワイトの質問に対し、何も考えず、何も思わず、とにかく最低限の事を答えようと。
けれど、それは無理な事だった。
特に、仲間達一人一人の経歴や、サイボーグ体の性能、得手不得手等を尋ねられれば、反射的に『嫌だ』と想ってしまう。それを制御する事など、不可能だった。
だが。その、ほんの一瞬の、反射的な拒絶すらも許さず、クワイトは容赦無く００９を悪夢の中に突き落とした。
そして。そうやって悪夢の中に墜とされた後、どれくらいで許されるかは、クワイトの気まぐれ次第なのだ。
一切の抵抗は無駄だった。問われるままに答える以外、００９に出来る事は無かった。

「よかろう……。では、休ませてやろう……」
十数時間ぶっ通しで責めたて、あらいざらい吐かせたところで、クワイトはそう言った。００９が、安堵のため息をつく。そして、ふっと気を失った。
それへ嘲りの嗤いを浮かべ、クワイトは言葉を継いだ。
「…休めるものならば、な」
そして兵士を呼び、００９を独房へ入れておくよう命じた。

「うわああぁぁっ…！」
自分のあげた叫びで００９は目を覚ました。肩で息をし、唇を噛む。
（どうしたら…どうしたらいいんだ……！？）
一体、これで何度目になるのか判らない。だが、眠れば必ず悪夢にさいなまれた。クワイトに強制的に見させられた、あの、悪夢に。
眠りたくなかった。眠れば、必ず悪夢を見、恐るべき苦痛を味わう羽目に陥るのだ。しかし、００９は疲れ果てていた。眠りたかった。何も考えず、ただ、眠りたかった。
すぅっと眠りに引き込まれかけ、慌てて頭を振る。それでも眠気は襲ってくる。疲労の極に達しているのだ。当然である。
眠らないのも苦痛。眠っても苦痛。一体どうしたらいいのか。
そして００９は絶望的な思いで、再び眠りに落ちた。恐るべき悪夢の待つ、眠りへと。

二日が過ぎた。
００９は発狂寸前にまで追いつめられていた。眠れば苦痛にさいなまれ、さりとて眠らずにいるには疲労しきっていた。うとうとと眠りかけては飛び起き、うっかり眠っては自分の絶叫で目覚める。そんな状態が二日。そろそろ正気の限界であった。
ギィ……。
重い音を立てて扉が開き、クワイトが独房の中に入ってきた。
「気分はどうだ？」
ニタッと嗤って言う。
今度は何をされるのか、と００９はおびえた瞳でクワイトを見た。
「……だいぶ、まいっているようだな…００９」
そう言うと、クワイトはつかつかと００９に歩み寄った。００９が身を堅くする。
くっ…とクワイトが嘲った。
「そう、おびえなくてもいい。今日は、おまえのためになる物を持ってきてやったんだ」
そして、金の輪を取り出すと、００９の頭に被らせた。
「な…なにを…？」
震える声で言う００９に、クワイトがニッと嗤う。
「孫悟空の輪のようなものだ。少々、役目は違うがな。安らかな眠りが欲しければ、外すなよ。もっとも……そう簡単には、外せないがな」
唖然とする００９に、クワイトは残忍な笑みを送り、出て行った。

何者かに起こされ、００９は目を覚ました。深い眠りの底から、嫌々ながら現実に戻ってくる。それにしても、眠りというものがこんなにも甘美なものであったとはっ！ 今しばらくその快楽に身を浸していたかった。だが、何者かが執拗に目覚めを促すため、００９はその思いを断ち切って、ゆっくりと目を開いた。
「やっと起きたようだな」
目の前に立っているのは、クワイトであった。００９がはっと身を堅くする。
「どうだ？ よく眠れただろう…？」
ニタリと嗤って言う。確かに、よく眠れた。頷かざるを得ない。
「……そのリングにはな、レム睡眠もしくはノンレム睡眠を強制する働きがある。つまり、夢を見させたり見させなかったりできるのだ。だから、おまえは夢を見ずに眠れた訳だ」
ちょっと言葉を切り、そして、クワイトは言葉を継いだ。
「…さて、おまえの意識下には悪夢が植え付けてある。従って、そのリングが無ければ、おまえは決して安らかに眠ることはできん。もしリングをつけずに眠れば、必ず、悪夢を見る」
００９は息を飲んだ。
「ま…さか……」
弱々しく言う。クワイトはニタッと嗤った。
「では、試してみろ」
そう言うと、クワイトは００９の額のリングを外した。
「私に逆らわぬと誓えば、このリングをおまえにやろう。その気になったら、私を呼べ」
そして、クワイトは出て行った。

００９にとって地獄のような日々が始まった。クワイトの言葉通り、眠れば必ず悪夢にさいなまれた。しかも、一度甘美な眠りを味わった後だけに、その苦痛は一層耐え難かった。
一日、二日、三日……。
００９はよく耐えた。しかし、もはや先は見えていた。クワイトに屈する以外の道はなかった。
そして、三日目が終わる頃。
ついに００９は絶望に捕らえられた。クワイトの前にひざまずき、決して逆らわぬことを誓う。
それから三日三晩、００９はただひたすら眠りをむさぼった。

本部の一角にある、大会議室。そこでは、臨時幹部会議が行われていた。
「……報告は、以上だ」
そう言って、クワイトは幹部一同を見回し、言葉を継いだ。
「…では、００９をここに呼ぼう」
居並ぶ一同が、かの有名なテストナンバーサイボーグの姿を見ようと、心持ち身を乗り出す。
クワイトがニタリと嗤って振り返った。
「来い、００９」
扉の影から、真紅の戦闘服に黄のマフラーを垂らした少年が歩み出て来る。まぶしい光に一瞬顔をしかめ、そして、００９はゆっくりと瞳を上げた。
すり鉢状に下から上へと高くなっていく座席。その底に、クワイトと００９が立っている。
（こいつらが、Neo Black Ghost 幹部……！）
鋭い瞳で、一人一人を睨むように見る。その、殺気を含んだ瞳に、幹部達が身を堅くする。前列にいた一人が、うわずった声で叫んだ。
「ド……ドクター・クワイト……な、なぜ、００９を縛っていないんですっ！？」
クワイトがニッと嗤う。そして、言った。
「その必要がないからだよ」
ざわめきが会議場を覆う。と、そこへ鋭い声が響いた。
「静まれっ！」
全員が、はっと正面の一番高い段に目を向ける。厚いカーテンの向こうに一人の男が座っていた。
（……あれが、総裁！？）
００９が内心で呟く。
勿論、その男が『総裁』と呼ばれる人物である事は間違いなかった。
初代総裁が、『不慮の事故』で命を落した後、その座を巡っての権力闘争を鮮やかな手腕で捌き、Neo Black Ghost を今日あるような強大な組織にしたのは、この『総裁』なのだ。
しかし。
ごくごく少数の者達だけは、この『総裁』が行った数々の策略や謀略が、本当はどこからもたらされたのかを知っていた。人の心理の裏を突き、鮮やかに騙し、騙されている事にすら気づかせず、意のままに動かす。それらの陰謀の総ては、銀の髪と藍の瞳を持つ白衣の男の、悪魔的な頭脳から生み出されたのである。
だが。
それは、今の００９には、知る由も無い事だった。
「クワイト……」
男はゆっくりと言った。
「説明してもらおうか」
クワイトが軽く礼をした。ニタリと嗤って一同を見回し、そして、００９に視線を向ける。
「００９……」
嘲りを含んだ口調。
「…そこに……」
と言って、クワイトはぞんざいに００９の前の床を指した。
「…ひざまずいて、Neo Black Ghost に忠誠を誓う、と言え」
００９がキッとクワイトを睨みつける。全員が息を飲んだ。
クワイトが、ピタリと００９の視線を捕らえ、ニタッと嗤う。
００９は、ほんの数秒間必死の抵抗を試み、そして、ゆっくりと目を伏せた。下唇をきつく噛み、目を閉じて、静かに膝を折る。
声にならないどよめきが会議場を包んだ。
「俺は……」
呻きともつかぬ声。
「…Neo Black Ghost に……」
００９はギリッと奥歯を噛みしめた。両手の拳をきつく握りしめる。最後の抵抗。良心の痛みに身を震わせる。しかし、クワイトに対する圧倒的な恐怖が、００９に言葉を続けることを強制した。
「……忠誠を……誓う…！」
絞り出すように言うと、００９は大きく肩で息をついた。絶望感に、目の前が真っ暗になる。もはや、二度と仲間の…いや、かつての仲間のもとへは、帰れない。後悔と自責の念に、００９は低く呻いた。
「いかがですかな？」
クワイトが言う。総裁は重々しく頷くいた。
「……よかろう…。しかし……」
「００９が逃げ出さないか、ということですかな？」
「そうだ」
くっ…とクワイトは嗤った。００９に歩み寄り、その髪を無造作に掴んで、顔を上げさせる。そして、その額のリングを一同に示した。
「これは、小型の催眠装置で、レム睡眠もしくはノンレム睡眠を強制するものです」
ぱっと手を放し、クワイトは言葉を継いだ。
「００９がバイスに拷問されたのは、ご存知ですね？」
『バイス』という単語にビクッと身を硬くする００９をチラリと見、クワイトが嗤う。
「００９の意識下には、その苦痛が植え付けられています。つまり、この装置を使って、強引にノンレム睡眠に落してやらない限り、００９は眠るたびに、死ぬ程の苦痛を味わうことになる訳です。このリングのエネルギーは、この基地のコントロール下にあります。従って、００９は決して一人ではここを出て行けない、と言う訳なのですよ」
そこでクワイトはちょっと言葉を切り、半信半疑の一同をぐるりと見回し、そしてゆっくりと残酷な笑みを浮かべた。
「このリングのもう一つの機能…レム睡眠を強制する機能を使えば、このリングをしないで眠った時と同じ悪夢を、見せる事も可能ですが……」
楽し気な嗤い。
「…ご覧になりたいかな？ ００９が一人でこの基地から出て行ったらどうなるか、を……」
００９が息を飲み、顔を上げ、クワイトを見る。恐怖の表情。
クワイトが００９の目を覗き込み、絶望と恐怖と苦痛とを映したその瞳に、残忍な嗤いを返す。
「…や…やめて…くれ……」
無駄と知りつつも、震える声で００９は哀願した。
「見せてもらおうか」
冷たい、総裁の声。クワイトがすっと左手首のコントローラに触れる。
次の瞬間。００９は、その場にくずおれた。

一瞬にして奈落の底に叩き落とされる。思い出すもおぞましい光景が目の前に再現され、そして、純粋な苦痛が００９に襲いかかってきた。
一撃目に歯を食いしばって耐え、二撃目で低い呻きを漏らし。三撃目で、ついに、００９は悲鳴をあげた。次からはもう、００９に為す術はなかった。悲鳴が絶叫に変わる。息が続かない。００９はあえいだ。

「いかがですかな？」
のたうちまわる００９を見下ろして、クワイトは言った。総裁が頷く。
「よかろう……とめてやれ」
クワイトがコントローラーに触れる。
００９の苦鳴がふっと途切れた。ぐったりとして、荒い息をつく。
「さて、総裁。ひとつお願いがあるのですが、お聞きいただけますかな？」
ニタリと嗤ってクワイトが言い、総裁が重々しく頷く。
「よかろう。何が望みだ？」
クワイトはニッと嗤うと、やっと呼吸を整えて身を起こしかけている００９を、ゆっくりと指した。
「……００９を、私の直属の部下として認めていただきたい」
「何とっ！？」
００９を含めた全員が息を飲む。
「頭脳、戦闘能力、共に申し分無い。そして何より、００９は決して逆らわん。理想的な部下だ」
００９が小さく唇を噛む。その様子をチラリと見遣り、クワイトは嘲った。
「危険ではないか？」
「何が、です？ 私が死んで一番困るのは、００９だというのに」
クワイトが嗤う。
暫しの間。
そして、総裁は決定を下した。もっとも、総裁がクワイトの望みを却下した事など一度も無い。だから、この決定は単なる儀式以外の何物でもなかった。
「いいだろう、クワイト。００９をおまえの直属の部下として認めよう」
クワイトが軽く礼をする。その様子を００９は絶望の瞳で見ていた。

とある扉の前でクワイトは立ち止まった。軽くノックして、扉を開ける。
「ウィッチはいるか？」
部屋の中で立ち働いていた白衣の男達が一斉に振り返り、一様に顔をこわばらせる。そのうちの一人が、クワイトの前へ飛んで来た。
「…こ、これは…クワイト様……ど、どうぞこちらへ…。ただ今すぐ、呼んで参ります……」
扉の右手奥にあるソファを示しつつ、仲間の一人に目配せをする。目配せを受けた男は、慌てて頷くと、奥の部屋へと走った。
クワイトが扉の外を向き、軽く手招きする。
「おい、００９。入れ」
うつむき加減に００９は部屋の中へ入り、扉を閉めた。
待つこと暫し。
奥から白衣を着た女性が出てくる。
麦藁色の髪に薄氷の瞳。
勿論、ウィッチだ。
「待たせたわね、クワイト……？」
誰もが恐れるクワイトに平然と話しかけ、そこで、ウィッチは黙った。クワイトの斜め後ろに立つ００９を見、それから、クワイトを見る。
「で？」
ウィッチに問いに、クワイトはニッと嗤って答えた。
「コイツの治療を頼みたい」
「…それは勿論、引き受けるけど……」
そういう事なの？ というウィッチの感情に、クワイトが答える。
「そうだ。もう、コイツは我々の敵ではない。組織に忠誠を誓った、いわば……」
そこで言葉を切り、クワイトは００９をチラリと見遣った。
「…我々の新しい仲間…という訳だ」
００９は俯いたまま頑なに黙っている。
「なるほどねぇ……」
暫しの、間。そして、ウィッチは尋ねた。
「最低三日は…預からせて貰うわよ？」
「あぁ」
クワイトが頷く。
「…それで、治療が終わったら、どこへ行かせればいいの？」
「連絡をくれればいい。迎えをよこす。……ああ、ついでにコイツにふさわしい服も見繕ってやってくれ。Neo Black Ghost の人間になったのに、いつまでも００ナンバー共と同じ服装をしてるもの、おかしかろう」
そう言うと、クワイトは立ち上がった。それへ、ウィッチが声をかける。
「で、この子の身分は？」
「私の直属の部下」
ウィッチが目を丸くする。それを後目にクワイトは出て行ってしまった。
「へえぇ〜」
感心したように、ウィッチが００９をしみじみと眺める。
「クワイトの直属の部下、ねぇ。こりゃぁ、驚いた」
そのウィッチの様子に、００９が不審げな表情をする。それに気付いて、ウィッチがくくっ…と笑った。
「あんた、状況が判ってないんだね。ま、無理も無いけど…クワイトの直属の部下ってのがどういう意味か、判ってないんだね」
「…どういう…意味……？」
「クワイトは、Neo Black Ghost 内では、総裁に次ぐ実力者なんだよ。要するに、ナンバー２さね。それほどの者であれば、副官だけでなく何十人って直属の部下を持っていて当然なんだ。現に、上級幹部達は、皆、何十人もの幹部を自分の直属の部下として持っている。そいつらには、たとえ総裁と言えど、直接命令をすることは出来ないんだ。要するに、私兵さ。ところがクワイトには、一人も直属の部下がいない。いらない…って言ってね。クワイト自体はああいう人間だから、皆に恐れられているけど、何せ、組織のナンバー２だ。ぜひとも自分を副官に…って言う奴は、少なくなかった。だけとクワイトはそういった輩を、全員、おっぱらっちゃったのさ。ところが、今、クワイトは、あんたを自分の直属の部下にしたって言った。クワイトの直属の部下はあんた一人。つまり、あんたはクワイトの副官って訳だ。……どうだい？ 事の重大さが、判ってきたかい？ あんたは、多くの幹部達が望んでやまなかった、組織ナンバー２の副官になっちまったのさ。あたしのような下っ端幹部が出られない、最高幹部会議にも同席できる身分だ。クワイトの居ない所では、その代理として組織ナンバー２の権限を行使できる。まったく…たいした出世だねぇ」
（な……！？）
００９は唖然とした。
ウィッチがニッと笑う。
「嬉しくなさそうだねぇ、００９。Neo Black Ghost の者ならば、泣いて喜ぶ出世だってのに……」
いやみっぽく言うウィッチに００９は答えない。
沈黙。
「…くっくっくっ……！」
不意に、ウィッチが笑った。
「たいした坊やだ。……まぁ、からかうのはこのくらいにしておきましょ。何せ、畏れ多くもクワイト様の副官殿だからねぇ。……ついといで」
そして、ウィッチはくるりと００９に背を向けた。

「目が覚めたね」
ウィッチの声。００９はゆっくりと目を開いた。白い天井が目に入る。
「起きて、そこに置いてある服を着てごらん」
そう言うと、ウィッチは出て行った。
傍らの机の上に、服が一揃い置いてある。００９は立ち上がり、服を手にとった。
黒に銀の模様が入ったブーツ。黒いズボン。黒い上着の立ち襟には銀糸の縫い取り。少し大きめの銀ボタン。銀のガンベルト。そして、くるぶしまで届く長い黒マントを肩から垂らす。
Neo Black Ghost 幹部の正装。
「似合うじゃないか」
上から下まで見て、ウィッチは満足気に頷いた。そして、銃を差し出す。
「ま、使うことはあまりないだろうけど、幹部には銃の私有が認められているし……それに、あんたはクワイトの護衛でもある訳だから、ね」
００９は黙って受け取ると、銃をホルスターに収めた。