その時ウィッチは、前々から気になっていた論文をひとつ読み終え、関連した幾つかの論文を参照しながらアレコレと思索を巡らせ、思いついた幾つかのアイディアの断片をメモに書き留め、そのメモを幾度か読み返しつつ思いついたことを総て書き足し終えたところだった。
誰にも邪魔される事なく心行くまで思考の海に沈んで考えに耽ったおかげで、すっかり満足した気分になって現実に戻ってくる。ふぅと溜息を一つ吐き、それから壁の時計を眺め、そこでやっと、ウィッチは、自分が随分と長い時間、思索に耽っていた事に気付いた。
気付いた途端、喉の渇きを意識する。
机の端へと視線を遣れば、コーヒーカップがあった。しかし、その底には僅かな水分も無く、乾いた茶色いシミがあるっきり。もっとも、カップの隣に置かれた保温ポットの中には、恐らく、一杯分くらいのコーヒーは残っている筈だった。些か生ぬるくなっているにせよ。
以前だったら、あるいはこれが思索の途中の小休止であったなら、ウィッチは、躊躇なくポットに残るコーヒーを注いで飲んでいただろう。冷めていようが何だろうが、ようは飲めれば良いのだから。
だが。
今のウィッチは、そんなものを飲む気になど、とてもなれなかった。

その理由が何かと言えば、突き詰めれば一つしかない。
チアフルだ。
飲食物に対して特に拘りを持たないウィッチとは正反対に、チアフルは、細々とした拘りを山ほど持っていた。飲み物についてだけでも、その拘りは生半なものではなかった。
水とコーヒーとそれ以外、あとはアルコールの含有率、そのくらいしか飲料の識別基準を持っていなかったウィッチと違い、チアフルは、水の種類に始まり、コーヒーの銘柄やブレンドに挽き方、あるいは茶葉やハーブの種類に効用と、呆れるほどに様々な拘りを持っていて。それらにもとづき、朝昼晩の時間帯や季節に天候、あるいは、食事のメニューやシーンを勘案し、その時々で何を飲むべきかを総合的に判断し、決定を下しているようなのであった。
その拘りっぷりに、当初は呆れ果てていたウィッチだったのだが、自分自身に特に拘りがある訳でなく、いずれにせよ、飲み物を用意するのはチアフルの方だった事もあり、放っておくことにしたのである。
だが。
そうやって出されたものを飲んでみれば、確かに悪くなかった。
味は勿論、温かさ冷たさも丁度良く、身体に馴染む。それ故、何らかの文句を言う必要が生じたことは一度も無く、その結果、いつの間にか、その時々に併せた飲み物を飲む事が、ウィッチにとっても当たり前の事になってしまっているのであった。

（……やれやれ）
人間は習慣の生き物であるとはよく言ったものね、などと思いつつ、誰にともなく溜息を吐いて立ち上がる。
そして。
チアフルが居る筈のリビングへ向かおうと自室の扉を開いた、その時。
不意に、素っ頓狂な叫び声が家中に響いた。

「ぃーやっほぅーっ！ できたできたっ、俺天才っ！」
どだだだだ…と、階段を踏み抜きそうな勢いで、チアフルが駆け上って来る。
扉を開いた体勢で動きを止めているウィッチの前に、つんのめりそうな勢いで駆け寄ってきたチアフルは、その勢いのままウィッチの両手を取ると、上下に振りながら周囲をぐるぐると廻り始めた。
「やったっ！ かんぺきっ！ もぉ、もぉ、もぉっ……っ！ 凄いよ、ホントにっ！ ひゃっほうっ！」
「……どうしたの？」
周囲をぐるぐる廻るチアフルに併せて体を回転させながら、ウィッチが問う。それへ、チアフルは満面の笑みで応えた。
「ほらほら、この間上手くできないって言ってたアレさっ、できたんだよ！ まさに今なう！ やっと！ ついにっ！」
「あら、そうなの。それは良かったわね」
アレとは一体なんのことだったろうかと内心で首を傾げつつ、ウィッチがとりあえず頷く。
それへ、チアフルは嬉しそうに目を輝かせた。
「だろっ？ だろっ？ もぉ感激だよ、やっぱり、俺天才っ！ あはははははははははーっ！」
ウィッチの手を掴んでいた両手を離して天に突き上げ、チアフルが高笑いをする。それから、はっとしたように手を打った。
「……っと、こうしちゃいられない。早速みんなに報告しなくっちゃ！ ライだろ、張大人だろ、それからジェットにも！」
そう言って指を折りつつ踵を返し、駆け出そうとしたチアフルの腕を、ウィッチは素早く掴んだ。
「その前に」
「へ？」
「その前に、まずは祝杯をあげるべきじゃないかしら？」
チアフルが目を瞬かせ、そして、大きく頷く。
「そっか、そうだよな！」
俺としたことが、うっかりしてた。そう言い、チアフルがキッチンへと走る。その後ろを、ウィッチはのんびりと追い掛けた。

「それじゃあ、成功を祝って」
グラスを掲げてウィッチが言う。
「ありがとうっ！」
それへ、チアフルが応え、満たされた液体を飲み干す。
「……はーっ！ うまいっ！ やっぱり、俺って天才だなーっ！」
嬉しそうに頷くチアフルを眺めつつ、ウィッチもグラスに口をつけて。
「じゃ、俺、みんなに連絡するから……」
「どうぞ。早く知らせてあげなさいな」
「うんっ！」
よぉし…と、腕まくりをしつつ受話器を取るチアフルに、ウィッチは微かな笑みを浮かべた。

（……それにしても。“アレ”って、結局、何なのかしらねぇ……）
次々と電話をかけてはハイテンションで喋りまくるチアフルを眺めながら、ウィッチは内心で首を傾げる。
ここ最近の会話を思い返してみても、特に、思い当たるモノは無い。
（………）
チアフルの横顔を眺めつつ暫し考えを巡らせ、そして、ウィッチは内心で軽く肩を竦めた。
（まぁ、いいわ……）
“アレ”が何なのか、確かに多少気になりはするものの、そんなものは大した問題では無い。
ソファの背に凭れ、ゆっくりとグラスを口元に運ぶ。
美味しいものを飲みながら、浮かれたチアフルを眺めるというのは、悪くない。

今日は、なかなかに有意義な一日だった。
そんな事を思いつつ、ウィッチは楽しげにグラスを傾けた。