深海。
そこは、地上の喧騒から切り離された、静寂に満ちた世界だ。
深海と深宇宙は、どこか似ているのだろうか？ と、サイボーグ００８ことピュンマは、ふと、そう思う。
大地のはるか彼方、重力のくびきを引き千切り、父なる太陽すら小さな点としか見えない遠い宇宙の果てと、大地を抱く母なる海の、その深い懐の内とは。

光とどかぬ海の底。
けれど、ここはやはり、命の海だ。
透き通った細い触手を揺らめかせ、深海の生物たちがピュンマの視界を横切る。
ゆっくりと、ゆっくりと。
微かな海流に乗って、進んでは戻り、戻ってはまた進む。気の遠くなるような時間をかけて、ふわり、ふわり…と。
ピュンマが、そっと手を動かす。
すると、それに応えるように、細い触手が揺れて。
仄かに輝く命の光。
ただ純粋に、生きるモノ達。

深海の時は、まどろみながら、たゆたうように流れる。
地上の諍いも、悲しみも、怒りも、何も、ここには決して届かない。
すべては太古のままに、ただ静かにゆらめくだけ。
誰も呼びに来ることのできない、この深海で、このままずっと居ようか？
母なる海の腕に抱かれ、静寂の中、ただ漂いながら。
このままずっと、ここで……？

何度も繰り返した問い。
答えはいつも同じ。
いつかそうするとしても、それは『今』じゃない。
今はまだ、『その時』ではないから。

（……また来るよ……）
静かにそう言って、ピュンマは『空』を見上げる。
深海の『空』、すなわち、遥か上方の水面を。

彼らの静寂を乱さないように、最初はゆっくりと。
やがて、徐々に速度を上げ、海の中をピュンマは飛ぶ。
彼にしか出来ない方法で、彼方の『空』を目指して。
その先に居るモノ達を目指して。

前方に見えてくる、チラチラと瞬く微かな光。
陽光にしては弱すぎる、その光。
それは―――

満月。
海の蒼と空の藍の中天から、望月は天地を照らす。
雲ひとつ無い夜空に散る星達も、今夜は遠慮がちだ。
控え目に、けれど、月を寂しがらせないように、星達はチラチラと瞬く。
だが、月と星とは違う。同じ夜空に輝いていようとも、それは全く別のものだ…と、サイボーグ００４ことハインリヒは呟く。
同じ空に見える月と星は、しかし、同じ瞬間に存在している訳ではない。
今、この場所で、ただ一瞬、その放った光が重なっているだけで。

不意に、海面に映る月が揺れた。
遠く響く微かな水音。
宙に散った飛沫が、キラキラと煌く。
まるで地上の星のように。

ゆらめく月の真中に小さな人影を認め、ハインリヒは微かに笑う。
（……戻ってきた…か……）
そっと手を上げて軽く振れば、応えるように水飛沫が上がった。
もう少し泳いでいる…という仕草。
小さく頷き返し、ハインリヒは浜辺へと視線を移した。
そこには―――

焔。
呼気と共に吐き出された炎が、乾いた枝を包む。
細い先端に残った枯葉が、パリパリと音を立てながら燃え上がって。
光と熱が辺りを満たし、身体を包み込む。
このぬくもりは、人間が生きるに必要不可欠で、けれど、この同じ炎が人間を殺しもする。
あらゆる道具もまた同じなのだ…と、サイボーグ００６こと張々湖は思う。

どうして人間は、ほどほどのところで満足できないのだろう？
どんなにおいしい料理だって、おなか一杯詰め込んだら、それ以上は食べられない。
持ちきれないほどの財宝を手に入れたら、何処へも出かけられない。
財宝を護って一生を過ごしても、死んでしまえば、結局、手放すことになるのに。
どうして人間は、十分なものを持っていてさえ、他人のものを奪いたがるのだろう？

（……おいしい料理を独り占めしたい気持ち、それは判るけどネ……）
けれど、友達と分け合って一緒に食べれば、もっとおいしいだろうと思う。
一人より二人。二人より三人。三人より……
もし世界中の人達に分けてあげられたら、独り占めより嬉しいに違いない。
（喧嘩しないですめば、それが一番と思うネ……）
呟いて溜息を吐き、張々湖は顔を上げる。
炎の向こうには―――

岩。
長い風雨にさらされたその表面は、ざらついていて、けれど滑らかだった。
仄かに残る、潮と太陽の香り。
それに背を預け、サイボーグ００５ことＧ・ジュニアは焚火を見詰める。

かつて人間は、こうやって火を囲み、その温もりを分け合っていた。夜の冷たさと、闇の中に潜む牙から、人間を護ってくれる火を。
火の与えてくれる恩恵は、皆で分かち合うものだった。
それは、ごく当たり前のことだった筈なのだ。

いつからだろう？
人間が火を支配し、道具として使うようになったのは。
それを使って、互いを傷つけるようになったのは。
（……火を飼い馴らすことなど、決してできはしない……）
火は自然の力。
人間の友になってはくれても、人間に仕えることなど有り得ないのだ。

（人間は、火を軽んじた…だから、火は、人間を傷つけるようになった……）
いつの日にかもう一度、人間が火と友になれるだろうか？
焔が命を奪わなくなる日は、来るのだろうか？
争いが無くなり、人間と自然が和解できる日が……？
その日が来ることを、Ｇ・ジュニアは切に祈る。
大地に。
天に。
そして―――

人間。
それがこの地球に生まれたのは、宇宙の歴史からすれば、ほんの最近のこと。
地球の生物の歴史からしても、人間の登場など、ごく最近の出来事で。
にもかかわらず、この人間という生物ときたら、山は削るわ海は埋めるわ、手前勝手にやりたい放題ときている。それとも宇宙の広大さに比べれば、この人間の営みも、ほんの些細なことなのだろうか？ と、サイボーグ００７ことグレートは思う。

確かに地球は広いし、宇宙は更に広い。
その広大な宇宙の片隅の、小さな惑星の上で、狭い陸地のあっちこっちに線を引いていがみあうなど、滑稽な話だ。
（ほんとにまったく、馬鹿馬鹿しいったら……）
溜息交じりにグレートは首を振る。

けれど。
どんなに宇宙が広かろうが、人間が暮らせる星は地球だけで。
どんなに地球が広くても、その大半は海で。
僅かな陸地の上で、人間はいがみあう。
（これは悲劇か……あるいは喜劇と言うべきか……？）
どちらにせよ、現実は変わらないのだが。

勝手に舞台が用意され。
望みもしないのに立たされて。
おろおろする間に幕が上がる。
演じられる、血生臭い芝居。
命がけの即興劇。
興行は世界を巡り、売上は天井知らず。

いい加減この芝居に、幕を引くべきだ。
そろそろ飽きても、いい頃じゃないのか？
そうだろう？ と呟きつつ、グレートは浜辺を見る。
そこには―――

波。
寄せては返す、白い波頭。
月光に照らされた砂浜に、点々と続く足跡。
踝まで洗われながら、踊るように歩いて行くのは、サイボーグ００３ことフランソワーズ。
つま先でくるりと回り、ふわりと宙を跳ぶ。
波音を伴奏に、ゆるやかなステップでフランソワーズは踊る。

踊ることが好きだった。
踊ってさえいられれば良かった。
他のことは何一つ、考えることすらしなかった。
不幸な人達が居ることなんて、考えてもみなかった。
理不尽に殺される人達のことも、考えてもみなかった。

知らないことは罪。
けれどそれは、幸せでもあるわ。
全てが『見える』ようになった今、私はそう思うの。
ささやかな幸せを望むことは、罪なんかじゃない。
小さなその明かりを護ることが、一番大事だ…って。

亜麻色の髪がさらさらと宙を舞う。
しなやかに動く手足。
薄い影が砂の上で躍る。
降り注ぐ月光。
繰り返し歌う波。
疲れを知らぬ妖精のように、フランソワーズは踊り続ける。
それを見護るのは―――

「何ヲ シテ イルンダイ？ 博士」
そう言われ、ギルモアは振り返った。
「大丈夫ダ。今ハ、何ノ危険モ無イ」
疲れているのだから、休まなくては駄目だ…とテレパシーで語るのは、サイボーグ００１ことイワン。
「それは…わかっておるんじゃが……」
「ダッタラ、眠ルンダ。眠レナクテモ、トニカク、休ムンダ」
休息が必要なことは、判っている筈だろう？ と言うイワンに、ギルモアが微かに頷く。
「……それは勿論、わかっておる。……すまなかった……」
溜息のようにそう応え、ギルモアは歩き出した。
扉に手をかけ、そして、イワンを振り返る。
「……何かあったら……」
「判ッテイルヨ、博士。必要ナ時ニハ、勿論、起コス」
その返答に頷き、ギルモアはその場を後にした。

ベッドへ向かうギルモアの心を、精神の手を伸ばし、イワンは追う。
ぐるぐると回る悔悟の言葉を、そっと宥めながら。
やがてギルモアの意識が眠りの波に包まれ、イワンは手を離す。
（僕達ニハ、アナタガ必要ナンダ。博士）
色々な意味で…と、イワンは呟くように続けた。

仲間達の心を、ひとつひとつ、イワンはなぞる。
強い絆で結ばれた兄弟達の、その色とりどりの想いを。
（……大丈夫……僕達ハ、マタ戦エル……）
ひとつの終わりは、次の始まり。
いつか来る『その時』まで、昼と夜は続くのだ。
だから―――

まだ、君達が眠る時ではない。