母国グランプリ
by necromancer

　ウォームアップ・ラップを終え、ジョーは自分のグリッドにマシンを停めた。
　軽く息を吐き、まっすぐに前方を見詰める。
　その視界の中に、他のマシンは無い。
　そう。
　ここは、ポール・ポジション。
　ゴールと、そして勝利に、最も近い場所だ。
　（今日は…絶対に勝つ。勝ちたいんだ、絶対に…！）
　何故ならば。
　ここは日本、すなわち、ジョーの母国なのだ。
　母国レースでの勝利。それは、世界を転戦するレーサー達にとって、特別な意味があるものだ。
　とはいえ、ジョーはハーフだったし、日本という国に何か特別な思い入れがある訳では無かった。いや、どちらかといえば半分だけ日本人である…半分しか日本人ではない…ことで嫌な目に遭った事の方が、実は多いような気がする。
　だから、日本でのレースという事に、ジョー自身は、特別な想いなど抱いていなかった。勿論、『勝ちたい』という気持ちはいつもと変わらなかったが。
　けれど。
　チラっとピットの方に視線を送る。
　そこには、ストップウォッチを構えてスタートを待つ、ジョーのチームスタッフ達が居た。

　今週の火曜日。
　一足先に日本に来ていたジョーは、鈴鹿でチームスタッフと合流した。
　「ジョー、オマエは日本人だったよな？」
　合流するなり取り囲まれてそう言われ、ジョーは面食らった。
　「一応…そう…だけど……？」
　質問の意図が汲み取れぬまま不審気に答えるジョーとは対象的に、スタッフ一同は、そうかそうかと上機嫌で頷きあう。
　「……えーっと……？」
　戸惑い気味のジョーに、スタッフの一人が言った。
　「母国のグランプリってのは、やっぱり、特別なものだからな」
　と。
　「…母国…グランプリ…？」
　考えた事もなかった。
　勿論、母国グランプリの重要性…というか、チームスタッフやドライバー達にとって、それがどういう意味を持つのか…を、知ってはいた。例えばイタリアのレースで、イタリア人ドライバーが妙に気合が入っているのを見れば、「あぁ、母国だからな」と自然に思い至るくらいに。
　しかし。
　自分がそんな気持ちになった事は、これまで一度も無かった。
　そうやって盛り上がっている他チームのスタッフやドライバー達を、微笑ましく…また羨ましく…想いはしたものの。
　（…母国……か）
　そもそも自分にとって『母国』とは何処なのか？ それすらも、よくわからない。確かに『日本人』だという事になってはいるものの、それはこの体に流れる血の半分だけで。
　（…その『血』だって……もう、殆ど流れてなんか、いやしない）
　そう想い、自嘲気味に笑う。
　「どうした？」
　不思議そうに尋ねられ、ジョーははっとした。
　「え…？ いや…その……」
　咄嗟に誤魔化す言葉がみつからず、けれど、流石に考えていた事をそのまま言う訳にもいかない。
　「その……僕はハーフだから、『母国』って言ったって、半分だけ…だよ」
　気の無い調子でそう言って、軽く肩をすくめてみせる。
　ところが。
　「なんだそんな事か…」
　そう答えて、男は笑った。
　「何も問題ない。お前には母国グランプリが二回ある…ってだけだ」
　いい事じゃないか、と。
　「え？」
　思わずきょとんとするジョーに、大きく頷いて言葉を続ける。
　「お前は日本語を使うし、日本に家をもってるんだろ？ その上、半分はちゃんとした日本人ときている。だったら、今回のレースは間違いなく、お前の母国グランプリだ」
　そうと確認できたら呑気にしている場合じゃないぞ…と、男はスタッフ一同を見回した。
　同意を求めるように。
　途端にあがる、賛同の声。
　そして。
　「まぁまかせておけ」
　「必ず勝たせてやるからなっ」
　「今日のトコロはゆっくり休んでおけよ」
　などと口々に言いつつ、スタッフ達は一斉に散っていき……
　後には、きょとんとしたままのジョーが残されたのであった。

　そして。
　お祭り騒ぎのハイテンションと、シビアな緊張感が絶妙に混ざった雰囲気の中、チームスタッフ達は、その言葉通りの仕事をしてくれた。
　勿論、いつだってキッチリと仕事をしてくれてはいる。何しろプロなのだから。
　けれども。
　彼等の『母国グランプリ』にかける熱意は、凄まじかった。
　些細なミスの一つもなく、秒単位でマシンのセッティング作業を進め、手の空いたスタッフが他チームの動きをチェックして、クリア・ラップが取れるタイミングをはかり……普段なら、予選時間中に三回も出られたら上出来なタイムアタックを、なんと四回も可能にしてくれた。
　特に、最後の一回。
　予選終盤になってジョーの暫定ポールが覆された途端、物凄い勢いでマシンの再セッティングをし、時間ギリギリでコースに出してくれたのだ。
　「一発勝負のセッティングにしてある。思いっきり踏んじまえ！」
　との言葉と共に。


　今、ジョーの前には誰のマシンも無かった。

　負けられない。
　譲れない。
　今日は、絶対に。
　（何故って……）
　レッド・シグナルが点灯する。
　（…何故って、今日は僕の……）
　エンジンの咆哮が一気に高まる。
　真っ直ぐに見詰める茶の瞳の中で、レッド・シグナルが消えて。
　グリーン・シグナル、点灯。
　その瞬間。
　ドライバー全員が、一気にアクセルを踏み込み、グリッド上に並んだマシンが、一斉にスタートした。

　『島村ジョー、絶妙のスタートっ！』
　実況のアナウンサーの叫び声が鈴鹿の空に響き渡る。
　それを打ち消さんばかりの大歓声。
　青空に突き抜けるその声が、桜の枝を震わせ、エンジンの轟音すら圧倒して。
　口元に微かな笑みを浮かべ、ジョーは呟いた。
　（…僕の…母国グランプリなんだからね……）
　誰にも前は走らせない。
　たとえ、一瞬でも。


　そして、鈴鹿サーキットに新たなるレコードが刻まれる。
　勝者の名とともに。

　F-1 Grand Prix in JAPAN, Winner Joe Shimamura.

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