ジョーの視界の中で、二人のフランソワーズが踊っていた。
実体のフランソワーズと……そして、鏡像のフランソワーズ。
二人は、当然の事ながら、まるで双子のようにそっくりで、一瞬の遅滞も無く、ただ左右が違うだけの、同じステップを踏んで踊る。
軽々と優雅に。
重力を感じさせない、その動き。
柔らかに舞う、蜂蜜色の髪。
くるりと弧を描いて回り、ふわりと宙を跳ぶ。鏡像のフランソワーズも宙に舞う。
あの背中には、羽根があるに違いない。
ジョーは、そう思う。
いつだって、そう思うのだけれど。どうやっても見えないのだけれど。それでも、どうにかして一目その羽根を見られないものか…と瞳をこらす。
そんなジョーの努力にも気付かず、フランソワーズとフランソワーズの鏡像は、艶やかに踊り続ける。
鏡には、映るかもしれない。
ふとそう思い、ジョーは鏡の中のフランソワーズを見た。その背中の、羽根のあるべき場所を。
けれど。
どんなに目こらしても、羽根は見えない。飛んでくる銃弾すら見切れる筈の目が、あるに違いない羽根を捉えられない。
そして、ジョーは苦笑する。
（見える訳…ない……か）
これを見るには、特別な『目』が必要なのだ。
穢れを知らぬ、純真無垢な瞳。
あるいは、真実を映す特別な鏡。
（いずれにしろ……）
自分は純真でも無いし、無垢とは尚更に程遠い。伝説とは要するに作り話で、だから、そんな鏡だって、ある筈が無い。
（…無理な話、だよな）
そう思い、苦笑する。
伝説を作り話だと決め付けるところが、純真無垢でない何よりの証拠だろうな、と。
ジョーの瞳の中で、二人のフランソワーズは踊り続ける。

不意に、フランソワーズが動きを止める。
すらりとした伸びた脚。
ほっそりとした腰。
丸い肩の先に続く、しなやかな腕。
滑らかに動いていたそれらが、ピタリと止まる。
動から静へ。
空気のすべてがガラスに変わったかのように、世界から音が消え去る。
永遠の瞬間……
…そして。
フランソワーズの体から、ふっと力が抜ける。
凍り付いた一瞬が過ぎ去り、世界に音が戻って来て、ジョーは思わす息を吐いた。
フランソワーズがジョーの方へと向き直る。
優雅に一礼。
「……ありがとう、ジョー」
フランソワーズの言葉に、ジョーは微かに首を振って、微笑んだ。

着替えをしに奥の部屋へフランソワーズが行き、ジョーは、椅子に座ったまま、室内を見るとも無く見ていた。一人には広すぎる空間を。

稽古場は、勿論、決して狭くはない。
そして、一面を占める鏡が、もともと狭くない部屋を、更に広々と見せる。
フランソワーズが踊っていた間、広々としたその空間には、華やかな活気が満ちていた。彼女がそこに居る。ただそれだけで、すべての色が鮮やかだった。
けれど。
彼女が奥の部屋へと去って行った途端、部屋の様相は一変した。
ガランとした空間は、ただ、むやみに広く。
床も壁も、妙にくすんだ色合いで。
空気は、妙にひんやりとして、薄ら寒い。
肩をすくめて部屋を見回し、ジョーは眉をひそめた。
鏡。
部屋の一面を占める鏡に、一人の少年が映っていた。
明るい栗色の髪。
茶の瞳。
椅子に座ってこちらを睨んでいる、その少年は……勿論、ジョー自身だ。
「………」
視線を逸らし、そちらを見ないようにする。
けれど。
何となく気配を感じるような気がして、ジョーは鏡の方をチラリと見遣った。
鏡の中の少年も、こちらを横目でチラリと見る。
慌てて目を逸らし、ジョーは体ごと鏡に背を向けた。
（………）
しんと静まり返った部屋。
時計の音すらしない。
そして。
不意にジョーは立ち上がると、くるりと振り返り、鏡の中の少年に歩み寄った。
手を伸ばせば触れられそうな距離にまで近付き、そこで止まる。
鏡像の少年も、そこで歩みを止める。
昏い茶の瞳がこちらを睨み据えていて、ジョーは唇を噛んだ。
鏡はキライだ。
いや、鏡だけではない。水面、ガラス窓、写真……。
自分の姿を映すもの。その総てが、嫌なのだ。
（………違う……）
つと手を伸ばして鏡に触れかけ、その手を止める。
（…お前が……）
お前が嫌いだ。

未だ成長の途上にあるかのような、男というには細い体。
明るい栗色の髪に、幼げな印象のある顔立ち。
その容姿は、どちらかと言えば軟弱そうな印象を、見るものに与える。
けれど。
茶の瞳が、その印象を見事に裏切っていた。
底冷えのする、昏い瞳。氷の刃のような、剣呑な光を含んだ視線。
それは……。
（…殺人者の目…か……）
『その目が気に食わない』と、今まで、何度、言われたことか。何人から、そう言われたことか。
無理もない、とジョーは嘲笑う。
（…俺だって…そう思う……さ）
目の前に立つ少年を睨み据え、ジョーは呟く。
こんな奴が彼女の隣に立っているなんて……許し難い、と。
（フランソワーズ……君は……）
どうして彼女は自分の隣に居るのだろうか？ 嫌じゃないのだろうか？ そう、ジョーは思う。
自分は良い。鏡を見なければ、自分の姿を見ずに済む。写真だって、撮られないように逃げ回っているから、ほとんど無い。仮に撮られたとしても、現像したものを見なければ良い。捨てる事だってできる。
何かに映さなければ自分の姿を見られない以上、見ずに過ごす事は、実はそんなに難しい事でも無いのだ。
だが。
彼女の場合は、そうはいかない。自分が傍に居る限り、彼女は見る事になる。この自分の姿を。
そして。彼女の瞳に映っているのは、今、自分の目の前に居る、コイツなのだ。
（……嫌じゃあ…ないのかい…？）

「ジョー？」
不意に声をかけられて、ジョーはハッと振り返った。
「…フランソワーズ……」
「どうしたの？」
そう言い、軽く小首を傾げる。青い瞳が真っ直ぐに自分を見る。その視線が辛くて、ジョーは軽く俯いて、小さく首を振った。
「…いや……何でも…ないんだよ……」
その言葉をどう解釈したのか、フランソワーズは、クスっと笑った。ゆっくりとジョーの方へと近付いて、その隣に立つ。そして、つい先刻ジョーがそうしていたように、つと鏡の方へと手を伸ばし、言った。
「鏡って…不思議ね」
「…え？」
「本当はただのガラスで、厚さなんてちょっとしか無い筈なのに。こうやって……」
とフランソワーズは鏡をじっと見る。
「…『目』で見れば、この向こうに何もないって判るのに。それでも……本当は、この向こうにもう一つの世界があるんじゃないかしらって…」
そう言って、フランソワーズが笑う。
「子供みたい…って思った？ ジョー…」
「え…？ そんな事ないよ！」
慌てて首を振るジョーに、フランソワーズは童女のように笑う。
「そう…？」
よかった、と安心したように言い、それから不意に真面目な表情になって、フランソワーズは言葉を続けた、
「でも…鏡って、本当に不思議だって思うわ。だって、鏡が無かったら絶対に見られないものが、見られるんですもの」
「え？」
何の事か判らず、ジョーが目を丸くする。そのジョーから鏡へと視線を移し、フランソワーズは囁いた。
「ほら……」
つられてジョーも鏡を見る。一体、何が見えるというのか？
（鏡が無ければ…絶対に見られない……もの…？）
ふと、フランソワーズの背中にあるに違いない羽根の事が、ジョーの脳裏を過ぎる。
その事を言っているのだったら、フランソワーズには見えるだろうけれど、自分には見えないと、そう想う。
果たして。
鏡に映ったフランソワーズの背中には、羽根なんて見えない。
（…やっぱり……）
クス…とフランソワーズが笑う。
「わかった？」
「………」
ジョーは答えられない。
「私とジョーが並んでいるところなんて、鏡が無ければ、絶対に、私には見られないもの。そうでしょう？」
「あ…！」
言われてみればそうだと思い、そしてジョーは息を呑んだ。
（…え……？）
フランソワーズの隣に、見慣れない少年が立っていた。
明るい栗色の髪。幼げな印象のある顔立ち。明るい茶の瞳。どことなく見覚えのある、この少年は、一体……
（……誰…だ…？）
何だかよく判らずに、ジョーは目を瞬かせた。
と、ちょっと驚いたような目をした少年が、瞬きをする。
（…僕……？）
勿論、それ以外に考えようが無い。
けれど。
「ジョー……？ どうしたの？」
絶句しているジョーに、フランソワーズが首を傾げる。
「なんだか、まるで……」
生まれて初めて、自分の姿を鏡で見たみたいよ？ そう言うフランソワーズに、ジョーは頷いた。
「うん……。なんか、そんな気分だよ……」
「ジョー？」
訳が判らずに不思議そうな目をするフランソワーズに、ジョーはクスクスと笑いだした。
「…な…なんでもないよ、ごめん……」
そう言って尚も笑い続けるジョーにつられて、フランソワーズも笑いだす。
（……なんだ………）
もう一度、鏡の方を見遣り、ジョーは想う。フランソワーズの瞳に映っていたのは、『アイツ』じゃなくて、『コイツ』なのか、と。
（コレなら…まぁ……）
及第点ってところカナ…と考える。
そして。
改めてフランソワーズを見て、ジョーは思った。
（…君が…僕を変える……。本当に不思議なのは……）
鏡じゃない。
（フランソワーズ、君の瞳…だ）