「なぁ、ハインリヒ。一体全体、何だってジョーの奴、写真に撮られるのをあんなに嫌がるんだろーなぁ？」
何の脈絡も無い唐突な問い。勿論、ジェット的には脈絡があるのだが…それは当人にしか判らない脈絡だ。こういう場合、普通の人間であれば、『何だって突然そんな事を言い出すのか』と尋き返すところだが、ハインリヒの反応は違っていた。
「さてな」
雑誌のページから視線を上げないまま、気の無い調子で即答する。
いいかげん長い付き合いで、こういったジェットの唐突な発言には慣れっこなのだ。いちいち真面目に相手なぞしてられない。
そのハインリヒを、ジェットは軽く睨み付けた。
「おまえな、少しっくらい考えてから返事してくれよな」
「考えたところで判らん。だったら、考えても仕方あるまい」
至極もっともな意見である。
だが、ジェットは、全然、納得しなかった。
「そーじゃなくてよぉ、お前がどう思うのかが聞きてぇんだよ」
「わからん」
またもや即答。
「………」
さしものジェットも二の句が継げなくなる。それを上目遣いにチラリと見、再び紙面に視線を落として、ハインリヒは言った。
「本人に尋けばいいだろう？」
沈黙。
沈黙。
沈黙。
（……？）
ただならぬ気配に、ハインリヒが顔を上げる。
「……ジェット…？」
そこには、目を丸くして自分を凝視しているジェットが居た。
何やらとてつもない不安を感じる。眉根を寄せてジェットを見、それから、軽く手を上げると、凍り付いている瞳の前でヒラヒラと動かしてみる。
だが、反応は無い。
嫌な予感がした。
「…まさかとは思うが……」
言いかけた台詞を、しかし、ハインリヒは最後まで言う事ができなかった。
「……そっか……そうだよな！」
膝を打ってそう叫ぶなり、ジェットが立ち上がる。
そして。
「サンキュー、ハインリヒ！」
イキナリそう言うと、ハインリヒの持っていた雑誌を払いのけてその手を掴み、凄まじい勢いで上下に振り、次の瞬間、部屋を飛び出して行ったのであった。
「………」
開け放たれたままの扉を眺め、床に落ちた雑誌に視線を移し、ハインリヒは溜め息を吐いた。

フランソワーズが大切にしている、鉢植えの草花。じょうろを持って、その一つ一つに慣れない手つきで慎重に水をやっているジョーの耳に、不意に切羽詰まった叫び声が飛び込んできた。
「ジョー！」
呼ばれて振り返り、そこでジョーは身を強ばらせた。息せき切って駆けてきたのはジェットで、その雰囲気はタダゴトでは無い。
（ま…まさか、博士に何か……？ そ…それとも、フランソワーズにっ？）
ギルモアは海外の知人宅を訪問中。フランソワーズは友人のバレエ公演を応援しに行くとかで、やはり海外に出かけている。ここの所、これといった事件も無かったから大丈夫だと思っていたのだが……。
（……甘かった…のかっ？）
ギルモアの方には、荷物持ちを兼ねてジェロニモが付いて行っている。だが、フランソワーズの方は、一人で出かけたのだ。ジョーは『一緒に行く』と言おうかどうしようか悩んだのだが、ぐるぐると考えているうちに、フランソワーズから『博士と私が居ない間、鉢植えの水を…お願いしてもいいかしら？』と言われてしまい……青い瞳に見詰められ、何を考える間もなくジョーは頷いていた。『勿論だよ、フランソワーズ！』と言って。
だが。
（…やっぱり、付いて行っていればっ！）
思わず深く後悔しつつジェットを見、ジョーは言った。
「何が…起きたんだい？」
緊迫した声音。
だが。
その手に持ったピンクのじょうろと、そこからじょじょじょ〜…と盛大に流れ出し続ける水が、緊迫感を見事にブチ壊していた。

一方のジェット。
本人に尋けばいい。この、あまりに単純明快かつ簡単な事実に、何故、今まで気付かなかったのか！ と狂喜乱舞して研究所中を駆け回り、リビングで鉢植えに水をやっているジョーを見つけて声を掛けた途端、やたらと緊迫した調子で返事を返され、ジェットは大いにうろたえた。
「……ジョ…ジョー……？」
たたらを踏んで立ち止まり、不審気に目をしばたたかせるジェットに、ジョーが重ねて問う。
「博士に何か？ それとも……」
流石にその先を言うのが恐ろしく、ジョーは黙ったままジェットを見据える。
「…え……？」
その鬼気迫る瞳に気圧されて、ジェットは思わず身を退いた。そこでジョーが手に持ってるじょうろと、そこから流れ出ている水に気付く。
（あ……）
じょうろから流れ出した水は、当然、床に落ちて行き……カーペットは水浸しだ。
（…あ〜あ……）
シミになるんじゃないか？ などと、ぼんやり思う。
そこへ。
「ジェット！」
苛立ちを含んだ声が飛んできて、ジェットは飛び上がった。
見れば、滅多にお目にかかれない程に剣呑な表情のジョーが、じょうろを構えて自分を睨み据えている。殺気さえ感じられる視線に、ジェットはジョーが構えているのが銃じゃなくてじょうろで良かった…と、思わず安堵してしまった。
「ど…どうしたんだよ…ジョー……」
とりあえず言ってみる。それへ、噛み付かんばかりの勢いでジョーは言い返した。
「どうした…って、それは僕の台詞だよっ」
血相変えて駆けて来て……。博士かフランソワーズに何かあったんじゃないのか？ それとも、何か大変な事件が起きたのか？ と詰め寄るジョーに、ジェットは思いっきり首を振った。
「そ…そんな事無い！ 何にも無い！ 本当だ！」
「………」
（…くそっ！ 一体、俺が何をしたって言うんだ？）
ドアを破りかねない勢いで駆け込んで来れば、ジョーでなくとも何が起きたかと思うだろう。だが、ジェットの方は、そんな事には思い至らない。
（…そっ…そうか！ フランソワーズが出かけっちまってるんで、機嫌が悪いんだなっ！）
しまった。だったら、今日、尋くのはやめておくんだった！ と深く後悔する。
（だいたいハインリヒの野郎、ああいう事は早く言ってくれりゃいいんだ。それとも、もっと後でか）
よりによって、こんな日に言わなくても…とジェットは自分が話を振った事をすっかり忘れ去って、内心でハインリヒに文句を並べ立てた。
だが。
そんな事よりも、今は目の前のジョーがジェットにとっては問題だった。
不機嫌なジョーなんて、まず見た事が無いから、どう対処して良いのか、見当も付かない。
（…てゆーか、不機嫌を通り越して怒ってる…んじゃないのか……？）
怒ったジョーなんて、ますます見た事が無い、と思う。いや、敵に対して怒りを燃やすところなら、ごく希に見はするが……。
（お…俺は敵じゃないぞっ！）
そうだ。だから大丈夫だ。大丈夫に違いない。大丈夫であって欲しい。大丈夫…なのか？ 考えれば、だんだん不安になってくる。
（……普段、大人しい奴ってのは、一端キレると恐いって言うし……）
大体、ジョーはその昔『不良』とかゆーのだったと言うではないか。『不良』というのは、ジェットが聞いた話では、ジャパニーズ・マフィアの構成員だとか。
（…いや違う、ニンジャの末裔だったっけか？ でもって、一つ人の世の生き血を啜ってお宮参り……をするんだったっけ？）
日本に対する妙な知識がぐるぐると頭の中を駆け巡り、どんどん恐い考えになっていく。
（…ヤバイ…本格的にヤバイ……）
逃げよう。
ジェットがそう思った、その時。
「ジェット？」
「ぅわ！」
不意に腕を捕まれ、ジェットは硬直した。もう駄目だ、と思う。
「…どうしたんだい？」
（……え…？）
いつもと変わらない物柔らかな口調。心配気な茶の瞳に、ジェットは我にかえった。
「あ…あぁ」
はぁ〜と息を吐くジェットを、ジョーが不思議そうに見上げる。
「一体…どうしたんだい？ 何か事件があったという訳じゃない…んだったら、何をあんなに慌ててたんだい？」
「いや…その……」
そこでジェットはハッとした。
「ジョー……」
足元に目をやる。その視線を追ってジョーも床に目を向け……。
「あ……」
息を呑んで、絶句する。
そこには、見事な水溜まりができていた。

「で？」
「…いや…まぁ何だ、人には触れられたくない過去…ってぇのがあるだろ？」
したり顔で言うジェットに、ハインリヒは軽く肩をすくめた。
「ようするに、尋かなかった訳か」
「………」
ふん、とハインリヒが笑う。
「…んだよ……」
何か言い返したそうなジェットを視線でいなし、ハインリヒは部屋を出ていった。
「…ちぇ……」
何となく舌打ちし、乱暴にソファーへと座る。そして、傍らに置かれた雑誌を手に取ると、気の無い調子でページを繰った。

「え？」
唐突な問いに、ジョーは目を丸くしてハインリヒを見た。
「……写真に撮られるのが嫌いなのは何でか…って……？」
「あぁ」
「うーん……」
腕を組んで考え込む。
「…別に理由は無いんだけど……チョット恥ずかしいから…かなぁ…」
「恥ずかしい？」
「うん」
写真を撮られるという事は、誰かがカメラを構えてるという事で、カメラを構えてるその誰かは、当然、被写体であるところの自分をじっと見ているという訳で……。
「注目されるのって…その……ちょっとテレちゃう…だろ…？」
「……なるほど……」
まぁ、らしいっちゃらしいか、とハインリヒは納得した。
「…何で突然そんな事を尋くんだい？」
不思議そうにジョーが問う。
「べつに。ちょっと、尋いてみたかっただけだ」
（俺じゃなくてジェットが…だかな）
内心の呟きは、しかし、言葉にはしない。
「ふぅん……」
そこへ、電話が鳴る。何となく釈然としない表情のジョーは、その音にハッと時計を見上げた。
「きっと、フランソワーズからだ！」
受話器に手を伸ばすジョーの頭からは、もう、今のやり取りは消え去っていた。
「もしもし？ ……フランソワーズ？」
嬉しそうなジョーの声に小さく笑みを浮かべつつ、ハインリヒは考える。ジェットに教えてやろうかどうしようか、と。
（……ま……頼まれもしないのに教えてやる事も無い…か）
どうせ、すぐに忘れるだろうしな、と思う。

その頃。
暫くは雑誌を眺めていたジェットだったが、ハインリヒの読むような雑誌がジェットに面白い筈も無く……ソファに座ったまま寝こけていた。
暫くして目を覚ましたジェットは、ハインリヒの予想通り、ジョーの写真ギライについての疑問など、すっかり忘れ去っていたのであった。