ささやかではあるが賑やかなパーティが終わって、数時間後。時計の針は、間もなく日付が変わることを示していた。
皆それぞれの自室に引き上げ、片付けが終わったリビングには、もう、誰も居ない。
だが。
そこに、今、足音も無く滑り込む人影があった。

人影は、先刻までのパーティの主役、ジェット。
ジェットは、薄暗がりの中でゆっくりと歩を進めると、テーブルの上に飾られた花瓶にそっと手を伸ばした。
挿された花を、一輪、引き抜く。
そして、静かにリビングを後にした。

建物の外に出て、大きく息を吐く。
そして、ジェットは空を見上げた。
月の無い漆黒の夜空。
チラチラと瞬く、無数の星々。
それを、黙って見上げる。

パーティの間、誰も彼等のことを口にはしなかったが、そのことは、勿論、全員が知っていた筈だ。
知っていながら話題に上らせなかったのは、自分の気持を慮ってのことだろうか…とジェットは思う。
普段ならそういう気遣いをされるのは、どちらかといえば煩わしく思うのだが、しかし、今回ばかりはありがたかった。
（いや……）
もしかすると、自分だけでなく、皆が、話題に上らせられない程の衝撃を受けていたのかもしれない。
そうであっても、驚くにはあたらない。
それ程までに、それは、衝撃的なニュースだったのだから。

自分がアメリカ人なのだと思う事は、普段、あまり無い。
生身の体と一緒に、故郷への想いも失った。
だいたい、生身だった頃にしたって、故郷の地には良い思い出など無かった。
くだらない、ろくでもない、どうしようもない、そんな事ばかりだ。
それでも。
あの国に何かがあると、他の国の時とは少し違う風に、心が揺れる。
特に今回は、それだけじゃない。
あの国で生まれたひとりとしてだけでなく。
人類の一員として、そしてまた、その人類が生み出した科学の、些か後ろ暗い産物である『００２』としても、想いは、ひどく複雑だった。

ゆっくりと歩を進め、崖の端に立つ。
そして、改めて空を振り仰ぐと、ジェットは地を蹴って宙に身を投げた。
オレンジの髪が踊り、痩身がくるりと一回転して。
次の瞬間、足のジェットに点火。
空を踏みしめ、天を目指す。
耳元を風が唸りを上げて過ぎ去り、海と大地とが、瞬く間に遠ざかる。
握った花を両腕で庇いながら、ジェットはひたすら飛び続けた。

地平線が円くなり、上昇速度が徐々に鈍くなる。
見上げる星々は、大気を介した揺れの無い、硬質の輝きを放っていて。
絶対零度の宇宙が近い、地球の大気の端。
薄蒼の光に包まれたその場所に、ジェットは、ついに辿り付いた。
ゆっくりと辺りを見回す。
勿論、何がある訳でもない。
どんなモノも、この場所に留まることなど、出来ないのだから。
この自分にしても、そう長い時間を、ここで過ごせはしない。

ただ、ここへ来たかった。
彼等が最後に見ただろう風景の中に。
それでどうなる訳でも無いのだが。

どこまでも蒼いだけのそこに漂いながら、ジェットは何となく溜め息を吐いた。
ここに来たからといって、それで、どうなるという訳でもない。
そんな事は判っていた筈だった。
判っていて、その上でやって来た筈なのに、やりきれない気持が増すばかりで。
ふと、手に持っていた花へと視線を落とす。
そして、ジェットは再び溜め息を吐いた。
大分庇って持って来たつもりだったのだが、案の定、花はボロボロになってしまっていた。
（当然…か……）
大地の頚木を引き千切らんばかりの勢いで、飛んだのだ。
地上に咲く花が、その衝撃に耐えられる筈も無い。
だが、そうしなければ、ここには来られず……
三度溜め息を吐き、そして、ジェットは飛び上がった。
（…わっ……）

鼻先に、突然、花束が現れる。
色とりどりの小さな花々と、瑞々しい翠の枝を、小さな貝殻を通した紐で結わえた、花束。
同時に、声。
頭の中に直接響く、聞き慣れた声。
＜フランソワーズと、ジェロニモと、ピュンマからだよ＞
「イワン…！？」
＜それから……＞
花束の隣に、グラスに注がれた琥珀色の液体と、陶器の皿に盛り付けられたチーズが現れる。
＜ハインリヒと、張々湖と、グレートから……＞
続いて現れたのは、真新しいノートにペン。
＜これは、ギルモア博士から。科学をする者には、やっぱり、これが必要な筈だから…って言ってね＞
「…そっか……」
次々と現れる手向けの品々に、ジェットがきゅっと唇を噛む。
気をつけないと、泣き出してしまいそうで。
と。
＜……ジェット……＞
不意にイワンが、妙に言いにくそうなテレパシーを送ってきた。
「……なんだ？」
＜うん……その……。ちょっと妙なモノが行くけど、驚かないで欲しい……＞
「は？」
不可解な言葉にジェットがそう応じた途端、そこにそれが現れた。
大きなボウルに山盛り積まれた、氷。
「なんだこりゃ？」
＜ジョーから…なんだけどね。……その…『成層圏は、暑いから』ってさ＞
「はぁあ？」
暑い？ とジェットが首を傾げる。
宇宙に近いここは、暑いどころか寒い。
目の前に浮かんでいる花も酒も、イワンの作るシールドに包まれていなければ、一瞬にして凍り付いてしまうだろう。
それなのに。
「……暑い…？」
（ジョーのヤツ、なに考えてんだ？）
そう呟き、そして、ジェットはハッとした。
「………暑い……。あつい、か」
目を閉じ、クッと笑う。
「……熱い、ね」
確かに…とジェットは呟いた。
＜……ジェット…？ ……その、ジョーは、結構、動転してたみたいでさ……＞
届けようかどうしようかと思ったんだけれど……と言うイワンに、軽く手を振って。
「いい。意味は、判った」
目を細め、ジェットは氷をひとつ掴んだ。

確かに、成層圏は『熱い』。
自分とジョーは、あの時、二人でそれを体験した。

「こんなもんじゃあ、間に合わねぇだろ……ったくよ……」
苦笑。
けれど、おろおろしながら、とりあえず、ボウル一杯に氷を詰めているジョーを想像すると、どうにも笑えてきて。
手に持った氷片を、くるくると弄びながら、ジェットは円い地平線を見遣った。

地球は、まるで、情の深すぎる女だ…とジェットは思う。
その懐から離れていこうとするモノを、手を延ばして引き止める。
そこから飛び立ったものが戻って来れば来たで、骨まで溶かす程に熱い口付けで迎える。
二度と再び手放すまいと、その熱い腕で、きつく抱き締めて。
（いい…女、なんだがな……。けど……）
永遠にその懐に抱かれている訳にはいかない。
女は女でも、母なのだから。
薄い蒼のヴェールを纏ったその姿を見下ろし、ジェットは呟いた。

＜そろそろ…いいかな……？＞
送っても…とイワンが問う。
それへ、ジェットが頷いて。
「あぁ……やってくれ」
その言葉と同時に、イワンはシールドを解いた。
花束と、琥珀色の液体を満たしたグラスと、チーズの盛られた陶器の器と、ノートとペンと、ボウル一杯の氷とが、ふわりと凍りつき、大気の中へと流れ溶けていって……
それを見送りながら、ジェットもゆっくりと高度を下げ始めた。

ゆるやかに近付いてくる、大地。
青い青い海。
その懐へと舞い戻りながら、ジェットが問う。
「なぁ、イワン。俺達は……人類は、いつか……」
もっと強い翼を手に入れて、飛び立てるだろうか？
果てしない謎を解く為に、旅立てるだろうか？
＜ああ……勿論……きっと……＞
その日は来る…とイワンが言う。
＜科学が、謎を解く為だけに使われる……そんな日が、来るさ……＞
争う為でなく、尽きぬ謎を解く為に。
この地球の故郷である、宇宙の姿を知る為に。
「そう…だよな……」
自分達は、今は未だ、母なる彼女の懐で、喧嘩ばかりしている子供だ。
けれど。
いつか、遠いそこへ、行く日が来るだろう。
彼女の故郷。
そして、自分達の、本当の、遠い故郷へ。

夜空に星が輝く限り、そこへの夢は、終わらない。