Ａｃｔ．１０ 明かりを灯すもの −アカリヲトモスモノ−
ウラル山脈ナロドナヤ山中 ライの研究所
早朝だというのに、厨房の中は湯気で暖かい。
「相変わらず、早いアルね」
そこへ、扉を開けて入って来たのは、００６であった。
「ん？ あぁ、張大人か。おはよ」
それに気付いたチアフルが、振り向く。そして、ワゴンの上にあった皿を流しに移しながら言葉を続けた。
「ま、医療センターは24時間体勢だからね。ちょうどさっき、夜番の連中に食事させたとこ。それを言うなら司令室もだけど」
「……ジョーの様子は、どないアルね」
エプロンをして冷蔵庫に向かいながら、００６が尋ねる。毎朝の台詞。
「ん……。相変わらず…最低の状態だよ」
あれ以下の状態があるとは思えないのが唯一の救いかな。そう言って、チアフルは肩をすくめた。これもまた、毎朝変わらない言葉。
「どう転んでも、あれより悪い状態なんて、無い……。ホント、そう思う。
死ぬにしろ、発狂するにしろ……今よりはマシだろうさ」
心なしか力を込めて皿を洗いつつ、チアフルは言った。
あれから、既に半月が過ぎていた。
００９とタイラントの二人がライの一党に『保護』されてから。
あの日以来、ライ達は００９の治療に全力を上げている。そのかいあってか、容体は徐々に安定しつつあった。
しかし。
直接的な命の危険そのものは遠ざかったものの、予断を許さない状況に変わりはなかった。
００９は、相変わらず、食べることも飲むことも出来なかった。悪夢にうなされ続け、僅かでも体力が回復すれば、悲鳴と絶叫をあげて暴れ続ける事で、それを使い果たしてしまう有様だった。そうして体力を使い果たした後も、悪夢は絶え間無く００９を襲い、狂気の縁へと追い立てていくのだ。
この間、ライは００１の協力を得、一日に一度、００９と同調し、その精神を深い眠りへとつかせていた。これは、ライと００１、特にライにとって、非常に危険な作業だった。一瞬でもコントロールを失えば、ライは発狂する。万一そうなった場合、ライと同調している００１も、無事では済まない。そして、それだけの危険を冒しても、００９に与えられるのは、結局、僅か数時間の休息だ。それ故、協力を求められた時、００１はかなり躊躇した。だが、疲れ果てた００９を回復させる為に出来る事は他に無く、また、僅か数時間であろうとも、消耗しきった００９には、悪夢に苛まれずに済む眠りの時間が、本当に必要だった。実際、これをしなければ、流石の００９も、正気を保ってはいられなかっただろう。
けれど。００１は、ついに眠りの時間に入ってしまった。ライ一人では、００９との同調はできない。最早、誰にも手助けは出来なかった。
次に００１が目覚めるまでの半月。果たして００９が発狂せずに居られるのか。それは、誰にも判らなかった。一つだけハッキリしている事は、この半月を乗り切れれば、恐らく００９は悪夢の無限地獄から逃れられるだろう。だが、もし乗り切れなければ、半月後に００１が目覚めても、総ては手後れで、最早００９が正気を取り戻す事は無いだろう。という事だった。
既に、００１が夜の時間に入って二日。
００９は、正気と狂気の狭間で、未だ、激烈な死闘を続けていた。
「よく……持ってるよ」
あんな状態で。正気と狂気の狭間。生と死の狭間。その境界上で。
「もしこれで、ジョーが助かったとしたら、それは……」
「奇跡…アルか？」
そういう００６に、チアフルが首を振る。
「違うな。奇跡ってのはさ、もうちょっと安易なモンだよ」
あの状態から立ち直ったとしたら、それはもう『奇跡的』なんて表現では追いつかない。そう、チアフルは言う。
「ともあれ、もしもジョーが立ち直る事があるとしたら……。その昔、おっちょこちょいな女の子が開けちまった災厄の詰まった箱の底に、『希望』てのがあったって話しも、あながち嘘じゃないって事だろ。俺はずっと、アレは絶対ガセネタだって…そう思ってたけどさ」
どこか嘲笑を含んだ声音に、００６が目をしばたたかせた。
「チアフルはん……」
この男は、普段は能天気な程に明るいくせに、時折、ぞっとする程に昏い瞳をする事がある。
（…一体…何があったんアル…？）
そういう瞳を見る度に、００６は不安になる。恐い訳では無い。無論、最初の頃はそういうチアフルが恐かった。だが今では、チアフルの事が心配だった。普段の明るさとは、余りに対照的過ぎて。
（ワテに…何かしてやれる事って無いんアルかね……）
その００６の内心を知ってか知らずか、チアフルは不意に明るい声で言った。
「…っと…急ごうぜ、張大人、そろそろ……」
と言って時計を見上げる。
「うげげげげ！ もうこんな時間じゃないか！」
そう言う所へ、扉が開く。
「よぉ！」
入ってきたのは００７だった。
「おはよーさん」
「おはよ。あのさ、悪いけど、皿洗いしてくれる〜？ 今朝はちょっと遅れ気味なのよ〜」
両手をあわせるチアフルに、００７が頷く。
「拙者に御任せあれ！」
そして、００６を見る。
「…どーしたぁ？ 張大人」
「え…あ……いや、何でもないアルね。ちょっと、メニューを考えてたアルよ」
声を掛けられ、００６は慌てて首を振った。
（考えても、仕方ないアルね……）
望まれもしないのに、他人の心に踏み込むのは、考えモノだ。
（けど……。ワテ、チアフルはんのコト、友達思ってるアルね。だから……）
自分に出来る事があるのなら、言って欲しい。そう想う００６であった。
そうこうしている内に、００５と００８も厨房に顔を見せ、チアフルが内心で密かに『厨房会議』と呼んでいるメンバーが揃う。
「コップは？」
「もう用意したアルね。皿を出して欲しいアルよ」
「おーい、トースト焦げるぞ〜」
「火火火！ 誰か止めてくれ、早くっ！ ふきこぼれるって！」
「あわわわわ！」
などなどなど。
チアフルと００６の指示の下、不器用ながらも朝食の準備を手伝う００５、７、８の姿は微笑ましくもある。
「えーと、司令室に詰めてるのはハインリヒだっけ？ で、交代は？」
「拙者でござるよ」
チアフルの問いに００７が応じる。
「グレートは、あっちでハインリヒと一緒に食うだろ？」
「おう」
「博士の所は、ワテが持ってくアルよ」
「りょーかい」
００７と００６の其々へ頷きつつ、チアフルはテキパキとワゴンの上に皿を乗せていった。
「っしゃ〜。んじゃ、こっちのワゴンは司令室に。こっちは食堂な。アイラニには連絡したから、あとは奴に任せてくれればいい」
「了解」
００８と００７がそれぞれワゴンを押して厨房を出て行く。それを見送り、チアフルは壁の電話を取った。内線でライを呼び出す。
「……ライ？ おはよ。朝食の時間だぜ。……あん？」
電話の向こうの声に耳を傾け、チアフルは舌打ちした。
「だぁめ！ 食えってぇの。え？ だめだめだめ！ いーかぁ〜、とにかく、ちゃんと食べなかったら、怒っちゃうよ〜。わぁった？ ……そーそー。じゃね！」
受話器を置いて、溜め息を吐く。
「ったくも〜」
「どーしたアル？」
尋ねる００６にチアフルが口をヘの字にして、訴える。
「……『食いたくない』ってさ。食わなきゃ死ぬってコト、まさか、知らないんじゃねーだろなぁ？」
ホント、世話が焼ける上司だぜ、とチアフルは肩をすくめた。
そんなこんなで一通りの事が済み、自分達の段になる。
ワゴンの上に色々と乗せつつ、チアフルは００６に尋ねた。
「俺等は…下の菜園にするか？」
「それが良いアルよ。落着くある」
チアフルの問いに００６が頷く。
「ん。じゃ、ジェロニモ、あっちのテーブルとか出しといてくれるか？ あ。このワゴン持ってってくれる？」
「わかった」
答えて、００５が出ていく。入れ違いに００８が戻ってきた。
「お疲れ〜。んじゃ、他人の世話は終わり。あとは、俺等の番だよ。下の菜園にしたけど、いい？」
「無論。あそこ、好きだよ」
チアフルの問いかけに００８が答える。
「ジェロニモが準備しに行ってくれてるから。で……」
そこでチアフルはちょっと言葉を切り、００８を見た。
「あ…あぁ……」
００８が困ったようにチアフルを見る。
「……フランソワーズは、俺が連れに行く……けど……。ジェットは……」
その様子にチアフルが溜め息を吐いた。
「相変わらず…か？」
「ああ。部屋に閉じこもりっきりで…さ……」
「しゃーねーなぁ……」
カリカリとチアフルが頭を掻く。まぁ、毎日毎食の事なのだ。
「ホント、食わなきゃ死ぬってコト知らねー訳でも、ないだろーに」
溜め息を吐き、チアフルは言った。
「わぁった。ジェットの分は、俺が持ってくよ」
「悪い…毎日……」
謝る００８にチアフルは首を振った。
「いいって。結局、俺が好きでやってるんだからさ」
自分が作ったのを他人に食べさせたいんだよ〜。と笑うチアフルに、００８は深く感謝した。
☆
「ジェット〜、出てこ〜い！」
どかどかと扉を叩き、チアフルが叫ぶ。
だが。応えは無い。
（……ったく……）
軽く溜め息を吐き、チアフルは宣言した。
「出てこないんだったら、踏み込むからなっ！」
沈黙。
（やれやれ）
そして、チアフルは扉を開けた。鍵はかかっていない。というか、チアフルが分解してしまったのだ。鍵をかけて部屋に閉じこもり、どうあっても開けようとしないジェットにしびれをきらして。その残骸は、今でも扉の脇に積んである。『どーにかしろよ』というエレスに、チアフルは『そのうちまた付けるから』と言ったきりで、未だにそのままになっているのだった。
「朝飯の時間だっての！ まったくもー。毎日毎食、手間かけさせないでくれよな！」
言いながら、チアフルがワゴンを部屋の中に引っ張り入れる。そして、ベッドの上に転がったまま動かない００２に近付いた。
「ジェット……」
「……ほっといてくれ」
「あのね〜。放っといたら、ちゃんと食う訳？」
「……食べたくないんだ」
「食べなきゃ、死ぬんだぜ？ まさか、知らない訳じゃないだろ？」
「んな事くらい、知ってる。だから、ほっといてくれ」
「それは、ほっといたら食うって意味？」
「……食べたくない」
「あの〜さぁ、ジェット。それってば、むちゃくちゃ矛盾してるって」
「うるさい」
堂々巡りの押し問答。けれど。
（…ま、いい傾向だよな）
半月前に比べれば、と思う。当初は、もう何一つとして喋らなかったのだから。こうやって、会話をするようになっただけでも、格段の進歩だ。
（もうちょい…って感じなんだけどもなぁ〜）
駄々をこねているような口調は、００２が、かなり立ち直ってきている事の現れでもあった。かつての、何を言っても素通りしてしまうのに比べれば。
（でも…なぁ……）
そろそろ、本格的に立ち直って貰わなければならない。カティサックを中心として密かに進めている、ある計画の為には、００２を含む００ナンバーの力がどうしても必要なのだ。そして、その計画の実行は、恐らくここ数日の間だろう。
もう、時間が無いのだ。
（どうすっかなぁ……）
とはいえ、計画実行に００２が必須という訳ではない筈だった。多分、００２抜きでも、可能は可能だろう。
（うーん………）
人数は多い方がいい。全員が想いを一つにしてくれるのが最も望ましい。というカティサックの意見を思い返して、チアフルは唸った。
（ああぁったくも〜！）
なんだってカウンセラーでも無い自分がこんな事を！ と思う。
（……そりゃ…人手が無いからに決まってっだろーが、まったく）
自分の愚痴に自分で答え、チアフルは溜め息を吐いた。
「あのさ、ジェット」
呼びかけて、ちょっと言葉を切る。
「俺には…俺達には、さ……ジョーは助けられないんだ」
００２の肩が微かに震える。
「もう……多分、どうしようもない。あと一日か二日か……そのくらいだろうって話だ」
そこでチアフルは迷った。言うべきかどうか。
（……言っちまう…か……？）
危険な事をしようとしている自覚はある。こういう事は、経験のあるカウンセラーがやるべきことだ。間違いなく。
（素人療法は大怪我のモト…ってね……）
けれど。
時間が無い。人手も無い。他に方法が無い。あるのかもしれないが、判らない。
（…ったく……。ナイナイ尽しとは、このことだよな）
唇を噛み、覚悟を決める。
（どう転んでも駄目だってんなら、気の済むようにするのが一番…てな）
そして、言葉を続けた。
「あのさ。ジョーには、もう、助かる気は無いみたいなんだ。今、ジョーは正気と狂気の狭間で苦しんでるけど、ジョーが発狂せずにギリギリで持ちこたえてるのはさ、苦しむ為なんだよ。ただ……ただ、苦しむ為だけに…正気を保ってるんだ……」
はぁ、と溜め息を吐く。
「カティサック達が言うにはさ、ジョーは自分で自分を苦しめてるんだ…って。『仲間』を裏切った自分には、狂うことも許されない。命がある限り、苦しみ続けるべきだ…って。……それが、未だにジョーが狂わないでいる理由なんだよ。助けようが無いんだ。ジョーは、自ら望んで悪夢に苛まれているんだから」
何であんなに苛烈な性格なんだ、と想う。もう少し弱ければ、救われるのに。
「……ジョーはもう、誰にも助けを求めてなんかいないんだ。あんた達にも……。自分は『仲間』からも見捨てられた…って…そう思ってるんだよ。見捨てられている筈だって、そう思い込んでいるんだ」
沈黙。
そして、チアフルは尋ねた。
「……そうなのか？」
００９は、もう、お前達に見捨てられたのか？
答えを待たず、チアフルは部屋を出て行った。
☆
研究所地下の一画。そこには、光あふれる『菜園』があった。様々な野菜類やスパイス用のハーブが植えられ、土の香りと草の香りが漂っている。
チアフルが、その技術力の限りを尽くしたここは、壁と天井が無ければ、とても室内（しかも地下）とは思えない。空調によって気温湿度がコントロールされ、微かな風まで吹いている。足元の土も、まぎれもなく本物で。室内を照らす明かりは、なんと、本物の太陽光だ。光ファイバーケーブルと鏡とを使い、研究所の配管を利用して、地上から太陽光を取り入れているのだ。
呆れる００６に、チアフルは自慢気に言ったものだった。
『いや〜苦労したよ。なにせ、太陽は刻々と移動する訳だし、季節によって高度も違うしさぁ。三年かかったよ。まぁ結局、１００％太陽光ってのは上手くいかなくて、人工照明も併用してるんだけど。でもさ。やっぱり、植物は太陽光で育てた方がいいよね〜』
そう言ってチアフルは笑ったのだった。
その菜園の一画に、テーブルと椅子を持ち出し、００５はてきぱきと朝食の準備を整えていた。
そこへ、ワゴンを押した００６がやって来る。
「はいは〜い、準備、おーけーアルか？」
「ああ。できてる」
答える００５に頷き、００６はサラダやパンの盛られた皿を机の上に並べ始めた。
程なく００８が００３を連れて来る。ぼーっとしている００３を椅子に座らせ、スープを注ぎ分け始めたところへ、チアフルが入って来た。
「……ジェット…は……？」
躊躇いがちな００８の質問に、チアフルが小さく肩をすくめる。
「…そっか……」
控えめな嘆息。
「さ、食べよーぜ」
かくして。
００３、５、６、８とチアフルは、遅めの朝食をとるのであった。
☆
（ジョー……）
ゆっくりと、００２は寝返りを打った。天井を眺め、チアフルの言葉をぼんやりと考える。
『００９は、もう、お前達に見捨てられたのか？』
そんな事は無い。
（俺は…ジョーの奴を…見捨ててなんか……）
信じていた。いつだって、心は一つだと、そう想っていた。
（見捨てられたのは、俺の…俺達の方だ……）
冷たい瞳で００９は言った。『確かに俺は００９だし、お前たちの仲間だ』『だが、それも昔の話だ』と。
（……違う…）
それが００９の本心からの言葉で無かった事は、判っている。ライが語ってくれた。最早、死は免れられぬものと覚悟を決め、一人で闘う決心をした００９が、自分達を悲しませない為、あえてそんな態度をとったのだと。怒りを掻き立て、憎しみを掻き立て、それによって自分自身の死を悲しませないようにする為に。
（判ってる……判ってる……判って…る……）
結局、自分は何がショックだったのだろう。と００２は思う。
（ジョーの奴が…裏切った事……か？）
けれど、それを責めてどうする？ 責められないだろう。それを言うのなら、自分達も責められるべきだ。『何故、助けに来てくれなかったのか』と。
（そう…だよ……）
不意に００２はハッとした。
（ジョーの奴は…一度も……）
そんな事を口にはしなかった。ディグの基地から脱出する時に、００４が００９を置き去りにした事についても。バイスの基地から救出された後も。そして、今回も。『何故、自分を置いて逃げたのか？』あるいは『何故、もっと早く助けに来てくれなかったのか？』と、そうなじられても、文句は言えない立場なのだ。自分達は。
（なのに……アイツは何も言わない……）
敵に捕らえられた００９が、どれ程の苦痛を味わう事になったか、それは、想像を絶する。バイスの基地から救出された直後の００９の有様を思い返し、００２は唇を噛んだ。あれほどの重傷を負ってなお００９は生きていた。それが意味する所は、あまりにも明白だ。
そして。
ライは言った。『クワイトが００９に情報を吐かせるのに要した時間は、僅か一日足らずだ』と。そう。あのバイスの拷問。瀕死の重傷にまで追い込まれたあの拷問。４日以上に渡ったあの拷問ですら屈しなかった００９が、僅か一日も耐えられなかったのだ。
ライによれば、００９がクワイトに服従を誓わされるまで、およそ一週間だったそうだ。『だが』とライは続けた。『００９にとって、本当の地獄はそれからだった』と。
クワイトの副官として、Neo Black Ghost 幹部として、自らの意に染まぬ行動を取らなくてはならない日々。逆らうことは許されず、逆らえば、即座に苦痛を与えられ……。耐え切れなかったが為に屈した苦痛に、耐えられる訳が無い。自らの意志で自らの心を裏切る行動をとる事を強制され、苦痛に脅え、脅える自分を嫌悪し……。
それでも、００９は自分達の事を想っていたのだ。自分達に『００９を助けられなかった』と後悔させない為。Neo Black Ghost を倒す役を、自分達だけに押し付けない為。その為に、死を選ぶことも狂気の道を辿ることも自らに許さず。自分達がNeo Black Ghost 本部を襲撃した時は、共に戦いさえしたのだ。司令室の機能を破壊し、動力炉を破壊し……。
だが。００９はその事も黙している。
「……何で…だよ……」
００２は低く呟いた。
何故、何も言ってくれないのか、と思う。責めてくれていい、なじってくれてもいい、本部の破壊に協力してやったのだと、そう言ってくれれば良いじゃないか！ ００２は思う。
（何で、黙ってるんだよ！）
目を閉じ、目を開く。
嘆息。
「馬鹿か…？ 俺は……」
自嘲気味の呟き。
（ジョーが…そんな事、言う訳…あるかよ……）
００９に他人を責める事が出来るだろうか？ 言えば相手が苦しむと判っている事を言うだろうか？
答えは、否だ。
（そうだよ……。そういう奴なんだよ……。そういう奴じゃないかよ、ジョーは）
それが判っていて。
「俺は…何をやってるんだ？」
苦笑。
（ジョーの奴が他人に甘いのも、何でも自分で背負おうとしちまうのも……）
今に始まった事ではない。長い付き合いの自分が、何故、その事を忘れていたのか。他人を責める事なぞできない性格の００９に、自分は何を要求していたのだろうか、と思う。
「……ったく………」
濡れた笑い。
あれから何日、自分はこうしていたのだろうか？ と思う。部屋に閉じこもり、何も食べたくないと駄々をこねてチアフルを煩わせ、自分の気持を考えようとすらせずに。
（そうだよ……俺は結局、ジョーが……）
自分に手を差し伸べてくれる事を、望んでいたのだ。『何で、もっと早く助けに来てくれなかったのさ』と、００９の方から切り出して欲しかったのだ。後ろめたくて、とても自分からは言えないから。そして『僕は大丈夫だよ』だから『気にしなくていいよ』と。そう言ってくれる事を、望んでいたのだ。
（結局、ジョーの甘さに頼ってる…だけじゃないか……）
こんな自分に００９が助けを求める気にならなくても、何の不思議も無い。
（けど……）
その結果、自分は……自分達は、００９を失うのか？
助けを求めることすらせず、苦しみながら緩慢に死んでいく００９を、ただ黙って見てるというのか？
「……くそっ…！」
何をやってるんだ、と思う。今、００９の手を掴まなくて、どうするのだ。
こんな所で、何もせずに呆然としてる場合じゃない。こうしている間にも、００９は確実に死へと近付いているのだ。
００２はベッドから飛び起きた。立ち上がり、そして、傍らに置かれたワゴンに気付く。
チアフルが持ってきてくれた朝食は、いい加減、冷え切っていた。
だが。
（……感謝…しなくちゃな）
『食べなければ死ぬんだぞ』と言い続けてくれたチアフルに。まったく当然の事を主張し続けた彼を、自分は無視し続けた訳で……。
椅子を引き寄せて座り、トーストに手を伸ばす。
（５分だ）
とにかく５分で食べて、医療センターに行こう。自分にできる事があるのかどうかは判らない。
だが。
伝えなくては、と思う。
『お前は見捨てられてなんかいない』と。そして『俺達を見捨てないでくれ』と。
☆
「ちょっと待て」
カティサックの言葉をライは遮った。唇を噛み、睨み据える。
この男に対して、こんなあからさまな感情を、ましてやテレパスである自分が、向けてはいけない事くらい、百も承知だった。
しかし。カティサックの話の内容は、落着いて聞く事など、到底、無理なものだった。
「……そんな…そんな危険な事を、許可できるとでも思っているのか！」
正気か？ と思う。そして、隣に立つレッサートに視線を移した。
「レッサート、何故、止めない！」
お前の役目じゃないのか？ というライの抗議を、だが、レッサートは無視した。
「許可を求めているのでは無いのですよ、ライ」
カティサックが、静かに言う。そして、レッサートがその後を引き取った。
「ライ。我々は思い付きで言っているのではありません。ここ半月の間、何度も検討し、準備もしてきました。無論、００１とも討議を重ねました。彼も納得し、総てを承知しています。これが、最後の手段であろう、と。そして、これを実行に移すタイミングについては、００９の治療を担当する我々が判断する、という点についても」
「だが…！」
「無論、危険は承知しています。けれど、他に方法は無い。これが……本当に、最後の賭けです」
カティサックは、エンパスだ。
ごく弱い、接触エンパス。触れた相手と感情を共有する事ができる。
だが、制御力の弱いカティサックは、しばしば、自分の感情と相手の感情とを区別できなくなってしまう。そうなると、カティサックは相手の感情を感じ、相手はカティサックの感情を感じるようになる。自他間の『壁』がなくなり、お互いの感情が一つにまじりあってしまうのだ。
これは、カティサック本人にとっても、相手にとっても、厄介な状態だ。混乱するし、危険でもある。
だが。
今回の計画は、そんなカティサックの制御力の弱さを利用しようというものだった。『壁』を作れないカティサックが、自分と相手の感情を一つにまぜてしまうのを利用し、カティサックを『通路』とする事で、００９に、００ナンバー達と感情を共有させようというのだ。
「００９の恐怖の源。その一つは『孤独』です。誰にも助けを求められない、それが彼を絶望させている。そして、『仲間』を裏切った自分は、許される事無く苦しみつづけるべきだと、彼はそう思っている。そうですね？ ライ」
レッサートの問いかけに、ライは頷いた。
「００９は自分自身に絶望している。その絶望が深すぎて、もう、助けを求める事すら考えていない」
誰がが手を差し伸べてやらなくてはならない。だが、誰でもいいという訳では無い。
「００ナンバー達の感情が、００９に対して肯定的であるのならば。その感情を００９に共有させる事ができれば。そうすれば、あるいは……」
００９は、自分を許すことができるかもしれない。
「危険だ！」
とライは口を挟んだ。
「カティサック、お前の制御力では、００９の感情に巻き込まれて、発狂しかねない。それに加え、００ナンバーとの間の感情の通路になろうなどと……！」
カティサックのやろうとしている事、それ自体は、難しい事でも何でもない。００ナンバーと００９の両方に触れれば、放っておいてもカティサックは両者を繋ぐ『通路』になってしまうだろう。だが。そうやって双方の感情がカティサックの中を通り抜けた時、本人が無事で済むのか？ また、００９の感情が００ナンバー達に伝わったら、００ナンバー達が発狂しかねないのではないか？
「危険すぎる！」
「では、他に何か手段が？」
ライの叫びに、レッサートが静かに答える。
「………」
そう言われると、ライとしても黙るしか無かった。
「結局、００９を救えるのは００９自身でしかないのです。けれど、彼は今、闇の中に居ます。もう、どんな光も見えていない。誰かが…明かりを灯してやらなくてはならないでしょう。その明かりが彼に届くかどうか。それ以前に、００ナンバー達がその『明かり』たり得るのかどうか、そういう問題はありますが」
レッサートが静かに言い、カティサックに視線を送る。
「何にせよ、他に方法は無い。最終的にどうなるかは判りません。ですが、私達は試みてみるつもりです」
そう言って、カティサックは話を締めくくった。
沈黙。
ライが深い溜め息を吐く。
そして。
「……わかった……」
唇を噛み、カティサックを見る。それから、レッサートに視線を移し、ライは言った。
「…最善と信じる事を…してくれ……」
☆
「ジェット〜、お〜い！」
どかどかと扉を叩き、チアフルが叫ぶ。
だが。例によって、応えは無い。
（……ったく……）
「こらー！ 踏み込むぞっ！」
沈黙。
（はぁ〜……）
やっぱり、やめときゃ良かったかな？ そう思いつつ扉を開け、室内に足を踏み入れる。
（？）
誰も居ない。
「…ジェ…ット……？」
慌てて部屋の中を見回す。
しかし、００２は居ない。
「あちゃぁ〜」
面倒な事になった。とチアフルは頭を抱えた。
（…やっべ〜……）
この切羽詰まった時に、と思う。
「やっぱ…まずったよなぁ……」
あんな事を言わなければ良かった、と思ったが、今更、仕方が無い。
（探さなけりゃ……）
そう思って部屋を飛び出した途端、全館放送が流れた。
『おーい、チアフル〜。どこに居るんだよ〜』
エレスの声。
（あわわわわ〜！）
焦って部屋の中に戻り、内線の受話器を取る。
「エレス？ わりぃ、何？」
『カティサックが呼んでる。例の件だ』
全館放送した時の、のほほーんとした口調からは比べようも無い程の、緊迫した声音。
（げげ！）
ついに来たか、と思う。
「……了解。医療センター？」
『いや、３番会議室』
「判った」
そう言って受話器を置きかけ、チアフルは慌てて言葉を続けた。
「あ！ 待った…あのさ、エレス。ジェットを探しといてくれっかな？」
『は？』
「いやその…色々あってだなぁ〜」
言いかけたチアフルの言葉をエレスが遮った。
『００２なら、もう会議室に居るケド？』
「あ、そ……って………。はいぃ〜？」
ちょっと待て！ と思ったが、そんな事を言ってる場合では無かった。
「わ…判った」
そう言うと、チアフルは受話器を置き、３番会議室に走った。
「わりぃ〜、遅くなって〜……」
会議室に駆け込みつつ、チアフルは集まっている一同を見回した。
正面にカティサック。その左右に、レッサートとエストラ。一つ間を置いて、タイラント。その正面に００４。そして。
（ジェット……）
００４の隣には、００２が座っている。
（あの〜……？ どーなっちゃってんだよ、まったくよぉ〜）
溜め息を吐くように思うが、今はそんな事を詮索している程の余裕は無い筈だ。００９の容体を考えれば、カティサックとレッサートだけでなく、エストラまでもが医療センターを抜けてきているのは、危険極まりない。無論、それだけ重要な打ち合わせだからなのだが、それ故に、無駄話をしている場合では無かった。
「ディグとライは？」
手近な椅子に座りつつ尋ねる。その質問に、まず００４が答えた
「ディグは司令室だ。無人にする訳には、いかないからな」
引き受けてくれたんだ。ほんと、いくら感謝しても足りない。そう言って、００４は小さく首を振った。
「ライは……」
レッサートが続ける。
「…我々に任せる、と」
「そ…か……」
乗り込んできて、反対演説するかと思ったと言いたげなチアフルに、カティサックが苦笑した。
「もう、反対はされましたよ。けれど、我々は許可を求めるつもりは無い、と言ったので……」
「……フテ寝しちゃったか？」
「いえ。『最善と信じる事をしてくれ』と」
チアフルが目を丸くする。
「へぇ……。ライにしちゃ。上出来な返事じゃん」
「ええ。それ程、事態は切迫してる…という事でしょう。それは、ライが一番よく判っている筈ですから」
そう答え、そして、カティサックは一同を見回した。
「さて。時間がありません。始めましょう」
無論、誰にも異存は無かった。
「では……」
カティサックに視線で促され、エストラが口を開いた。
「…まずは、００９の体力的な状態について、私から言っておきます」
一呼吸し、淡々と続ける。
「結論から言って、あと一週間……。それが、この計画の物理的な期限と考えて下さい。勿論、サイボーグ体は、もっと持ちます。恐らく、一年でも二年でも。しかし、生身の部分は、もう限界です。あと一週間以上この状態が続いたら……」
元通りの生活が出来るまで回復するかどうか、それは保証できない。そう言って、エストラは口を閉じた。質問は？ という様に一同を見回す。だが、言葉を発する者は居ない。それへ軽く頷き、エストラはレッサートに視線を送った。
「……それでは、具体的な計画について、私から説明します」
レッサートが口を開く。
「端的に言って、００９を助ける事は、最早、不可能です」
「な…！？」
立ち上がりかける００２を００４が抑える。
「絶望している人間を助ける方法は、ありません。この計画の目的は、その絶望を、取り除く事にあります」
「そりゃ…どういう…？」
００２が低く呟く。
「００９の絶望の原因は、突き詰めれば……」
と言って、レッサートは００２と００４を見た。
「…『仲間』であるあなた達との『絆』を失った……失った、と彼が想っている事にある。私達は、そう考えています。正確に言えば、絆を失うに足る事を自分が行った為、自らその絆を放棄した……そういう事だと思われます」
そこで言葉を切って息を継ぎ、レッサートは説明を続けた。
「こういう場合、本来ならば、長い時間をかけ、徐々に心の傷を癒していくしかありません。ですが。今はもう、その時間がありません。肉体的にも限界が近く、また、悪夢にうなされ続け、正気すらも危うい。そこで……」
レッサートがカティサックを見る。小さく頷き、カティサックがその後を引き取った。
「……そこで。００９に、彼が仲間との絆を失っていないのだという事を、直接、伝えようと、思います」
「……一体…どうやって……？」
カティサックの言葉に、００２と００４が戸惑ったように顔を見合わせ、尋き返す。
「私が、あなた達と００９を繋ぐ、『通路』となります」
「え？」
「私は……」
ここで、さすがにカティサックは躊躇した。だが、これを言わなければ話が進まない。
「…私は、エンパスなんです」
びっくりしたような表情の００２に、カティサックが苦笑する。
「すみません。黙っていて……。でも、私の力はとても弱いので、相手に触れなくては、感情を知る事ができません。だから、こうしていても、あなたの感情が判る訳では無いんです」
そして、００４に視線を移す。
「知って…いましたか？」
カティサックの問いに、００４は首を振った。
「いや。微弱なエンパスが一人居る、というのはライから聞かされていた。ひょっとして…あんたじゃないか、とは……思ってたが」
「そうですか」
鋭いですね。そう言って笑い、カティサックは話を戻した。
「私の能力についての細かい説明は省きます。とにかく、私には、感情を伝える力があります。それによって、あなた達の感情を００９に伝える事ができます。但し、あくまでも感情のみです。ここが、重要な点です」
そう言って、カティサックは言葉を切った。
「……ひとつ、伺います。００４、００２。あなた達は……理由はともあれ、自分達を裏切った００９を許し、受け入れる事ができますか？ 彼を仲間と認める事ができますか？ 迷うこと無く、彼の総てを肯定できますか？」
突然の質問に、００２が目をぱちくりさせる。
「…００２…？」
「え…と……」
「００４…？」
「………」
二人を見詰め、カティサックは言葉を続けた。
「先程も申し上げましたが、伝わるのは純粋に『感情』のみです。思考は伝わりません。これは…ある意味、非常にやっかいです」
言葉では嘘をつける。思考でも、自分をごまかすことができる。しかし、感情はごまかせない。カティサックはそう言った。
「あなた達の中に、００９に対するマイナスの感情があれば、それも総て、彼に伝わります。今の状態の彼が、あなた達の中に自分に対する否定的な想いが…たとえ僅かでも…あると知れば、結果は致命的なものになるでしょう」
そして、とカティサックは続ける。
「００９があなた達の感情を知るように、あなた達も彼の感情を知る事になります。彼の感情は、今、とても混乱しています。彼と感情を共有するという事は、彼の深い絶望を……僅かの時間とはいえ、自分の感情として感じる事になります。これは、かなり危険です。その絶望に捕らえられれば……最悪、発狂する可能性もあります」
そして、カティサックはレッサートを見た。頷いて、レッサートが話をまとめる。
「賭けの要素が大きい事は、認めざるを得ません。リスクは大きく、成功の保証は無いです。しかし、我々にできる事は、もう、これ以外……ありません」
そこでレッサートは言葉を切り、００２と００４を見、言った。
「睡眠中の００１を除く、００ナンバー全員に協力を要請します。ただ……。先程カティサックが申し上げましたように、あなた達の中に００９に対する否定的な感情が僅かでもあれば、協力して頂く訳にはいかないのです。ですから、それについては、事前にカティサックが『接触』し、判断させて頂く事になります。その辺の事情も加味し、要請を受けて頂けるかどうか、考えて下さい」
そこで言葉を切り、レッサートは付け加えた。
「なるべく、早いうちに」
☆
「なぁ……」
医療センターへ戻る道すがら、タイラントは隣を歩くカティサックに問い掛けた。
レッサートとチアフルは、００２と００４と共に、００ナンバー達との協議に向かい、エストラは「先に行きます」と言う時間も惜しげに、医療センターへ走って行ってしまった。だから、他には誰もいない。気にかかっていた事を問いただすには、絶好だった。
軽く首を傾げてこちらを見る黒い瞳をまじまじと見、タイラントは言った。
「カティサック……あんた…言ったよな、ジョーが００ナンバー達の感情を共有すれば、００ナンバー達もジョーと感情を共有する事になる…って」
「ええ」
「で、僅かの間であっても、ジョーの深い絶望を自分の感情として感じれば、最悪、発狂するかもしれない…って」
「……ええ」
タイラントの言わんとしていることを察し、カティサックが内心で溜め息を吐く。
その様子を見、タイラントは天井を見上げた。
「覚悟の上…ってか……」
「タイラント？」
カティサックが不思議そうにタイラントを見る。それを横目で見、タイラントは言った。
「そうなんだろ？ あんた自身も危険だ。いや、ジョーと００ナンバー達との両方の感情があんたの中を通るから、危険は二倍とも言える。けど、それを承知の上でやろうってんだろ？ で……」
嘆息。
「自分は覚悟の上で危険を冒す訳だから、それを言って００４達を煩わせるには及ばない…とか思って、あえてその件については触れなかった……違うのか？」
「その…通り……ですが……」
驚いたような目をするカティサックに、タイラントは苦笑した。
「何だよ」
「いえ……。よく…判りました…ね……」
「エンパスでもテレパスでも無いのに、か？」
カティサックが頷く。
「別に、特別な事じゃない。だいたい、大概の人間は、エンパスでもテレパスでも無いんだぜ。それでも、人間はお互い解り合ってる。……まぁ、単なる気のせいという場合もあるが……」
そこで言葉を切り、タイラントは首を振った。
「ジョーが助かる為に、あんたが犠牲になったりしたら……」
００９は、また苦しむだろう。そう言うタイラントを、カティサックがまじまじと見る。
「そこんとこを、考えてくれよ。ジョーは……ほんとに、どーしようもなく、他人に甘い奴なんだよ。ほんと…ちょっと信じられないくらい……」
その先を続けられず、タイラントは唇を噛んだ。
沈黙。
「……わかりました」
カティサックが静かに言った。タイラントを見る。
「すみません。ちょっと……考えが足りませんでした。リスクを回避する努力が…足りなかったように思います」
そして、カティサックは立ち止まった。
「私は、少しライと話をしてきます。エストラに、そう伝えておいて頂けますか？」
「あ…ああ」
戸惑ったように頷くタイラントに、カティサックが微笑う。
「……００９があなたと一緒に居たがっていた理由が、よく解りました」
「え？」
「あなたは優しい。彼に負けず劣らず」
助かります。そう言うと、呆然としているタイラントをその場に残し、カティサックはライの部屋へと向かった。
☆
（どーなってるアル？）
００６の無言の問いかけに、チアフルは小さく首を振って答えた。
（…俺にも、さっぱり……）
小さく『お手上げ』ポーズをして見せる。
（ま…まぁ、この場合、助かるアルけど……）
（そりゃ、まぁ…ね）
しかし、これが今朝まで部屋に閉じこもって、食事すらしようとしなかった人間か？ とチアフルは余りの展開に、目眩すら感じていた。
「俺達は、ジョーを見捨ててなんかいない。そうだろっ！」
異様なまでの迫力で力説する００２に、一同がこくこくと頷く。
「それを……ジョーに……俺は…っ！」
「お…落ち着けよ…ジェット……」
００７がおそるおそる００２に声をかける。その００７の両腕を、ぐわしっ！ と掴み、００２は更に力説し続けた。
「違うのかっ？ ジョーを、ジョーをっ……」
「あわわわわ〜」
絞め殺されかねない勢いに、００７がじたばたする。
その００２の肩を、００４が叩いた。
「ジェット。放してやれ」
「ハインリヒっ！」
００７の腕を放し、今度は００４に掴み掛かりそうな００２の両腕を、００４は先手を打って掴み、とにかく椅子に座らせた。
「いいから、レッサートの説明を皆に最後まで聞かせろ」
有無を言わさぬ口調。それに目をしばたたかせ、そして、００２は大きく息を吐いた。
「…あ…ああ……スマン……」
それを見下ろして溜め息を一つ吐き、００４はレッサートを振り返った。
苦笑。
「悪い。続きを…頼む」
「はい」
軽く頷き、レッサートは説明を再開した。
「御解りいただけましたか？」
一通りの説明を終え、レッサートは一同を見回した。
肯定の沈黙。
それへ小さく頷き、レッサートは言葉を継いだ。
「先程も申し上げましたが、時間的制約があります。協力して頂けるのであれば、早い方がいいのです。ですが……」
一斉に返答をしそうな勢いの一同を手をあげて制し、レッサートは言った。
「…ですが、多少の時間をかけてでも、自分の感情を整理して頂きたいのも事実なのです。気持の整理をし、００９を受け入れられるという確信を持って、臨んで頂きたいのです。そして、できれば、全員の想いを一つにして欲しいのです」
それが、危険を少なくし、成功の可能性を多くする、唯一の手段なのだ。とレッサートは続けた。
そして。
「とりあえず……５時間は、あなた達からの返答を受け付けません。良く考え…というより、心を落ち着け、感情を整理して下さい。そして、なるべく明るい気持になって欲しいのです」
闇を照らす『明かり』となれるように。
そう言うと００４に軽く頷き、レッサートは医療センターへと戻って行った。
☆
「ジョー……」
微かに目を開いた００９に、タイラントがそっと声をかけた。苦しげに喘ぎつつ、００９が視線を動かす。
「……ジョー…」
昏い瞳。苦痛と恐怖と絶望を映し、それでも、僅かながら正気の光を宿した。けれど。その瞳も、すぐに閉じられてしまう。衰弱しきった００９は、もう意識を保っている事さえ難しい。
「…ぅ……ぁ……っ…」
掠れた悲鳴をあげ、弱々しくもがく。唇が微かに動くが、もう、言葉にはなっていない。
だが。
タイラントには、解る。
（……『やめてくれ』……だ……）
決して聞き入れられない哀願。この言葉を、００９はもう、何千回、何万回くりかえしたか判らない。現実のクワイトに。そして、悪夢の中のクワイトと、恐らくは、バイスに。
（……くそっ…！）
この言葉を口にする事が、どれだけ屈辱的な事か、とタイラントは想う。拷問者に対してこれを言うことは、すなわち、屈するという事に他ならない。クワイトは何度、００９にこの言葉を言わせただろう。
（そして……）
何度、それを一蹴した事か。
どれ程の葛藤の末に、００９がこの言葉を唇にのぼらせたか。それが判って居ながら。
（いや…判っているからこそ……！）
追い詰め、追い堕とし、助けを求めさせ、その手を振り払う。そうやって、００９の心に絶望を刻んでいったのだ。
（……ちくしょう…！）
何で、自分には００９を助ける事ができないんだろうか、と想う。どれだけ願っても。
「……くっ…」
視界が微かにぼやけ、タイラントは唇を噛んだ。
（何を…泣いてるんだよ、俺は…っ！ 苦しんでるのは…ジョーであって、俺じゃないだろ！）
そう、自分を叱咤する。
けれど。込み上げてくる想いは押しとどめようようがなく、ぱたり…と涙が零れ落ちてしまう。
その時。
「タイラント」
不意に声をかけられて、タイラントはギクリとした。
（あ……００４……）
声の主に思い当たり、舌打ちしつつ、慌てて目元を拭う。
（ちっ…嫌な奴が……）
最低なタイミングで来やがって、と内心で悪態を吐く。
タイラントは００４と折り合いが悪かった。００４の方がどう思っているかはともかくとして、タイラント自身は００４が嫌いだった。
００４の００９に対する視線。自分の『仲間』なんだという態度。それが、タイラントは嫌だった。勿論、それは事実な訳で、レッサート達の意見でも、００９が意識している『仲間』というのは００４を含む００ナンバー達な訳で、００９自身がそう認識している以上、タイラントにはどうしようもなく……。
過ごしてきた時間や経緯や諸々を考慮すれば、００９にとっての『仲間』が彼等だというのは、タイラントも判っていた。結局の所、自分は００９と同じ側に立つ人間ではない。そう、タイラントは思う。
だが。
そう思えば思うほど、タイラントは００４を嫌った。００４が００９の様子を見に現れるのが、我慢ならなかった。
それは、ある種の嫉妬だったのかもしれない。
（……やれやれ……）
あからさまな警戒と『お前なんて大嫌いだ』と言いた気な雰囲気に、００４が内心で苦笑する。
タイラントが００４を嫌っているのとは反対に、００４はタイラントに対して好意的だった。
無論、最初からそうでだった訳では無い。むしろ、最初の頃は事ある毎につっかかってくるタイラントを、００４も嫌っていた。
だが。ディグから言われた言葉がキッカケになって、００４のタイラントに対する見方は１８０度変わった。
『なんだって、アイツはいちいち突っかかってくるんだよ！』と苛々しながら言う００４に、ディグは言ったのだ。呆れたように。そして、面白がるように。
『判らないのか？ ００４。拗ねてるんだよ、タイラントは』
意味が解らずに不審気な表情をする００４に、ディグは言った。
『００９とタイラントの間に何があったのかは、俺には判らない。けどな、タイラントは…何ていうのか……００９に惚れ込んでる。心酔してる…って言った方がいいかもしれない。とにかく、００９の為なら死んでもいいって勢いだ』
そこでディグはちょっと言葉を切った。軽い溜め息。
『それなのに、００９が考えているのは、お前達の事だけ。ああ、勿論、タイラントの事を無視してるってんじゃないさ。００９はタイラントを友だと思ってるだろう。けどな、それとは別なんだよ。お前達と００９の関係は。単なる『友』なんかじゃない。もっと強い絆がある。心の兄弟であり、共に死線をくぐり抜けてきた戦友であり、固い誓いで結ばれた同志でもある。ようするに、００９にとってはお前たちは特別なんだ。特別すぎる程に。だけど……』
何ていうのかなぁ、とディグが頭を掻く。
『俺もそうだからさ、タイラントの気持は何となく判る。ようするに、俺もタイラントも、００９に『仲間』とは認められていない。所詮は…と言うのも語弊があるが、結局、俺は…俺やタイラントは、００９にとって、あくまでも『守るべき相手』であって、『共に戦う仲間』ではない。お前達を見ると……その事が、判っちまうんだよ』
自分達が００９と共に戦う仲間になれない事くらい、俺もタイラントも判ってる。過ごしてきた時間も、立場も、何もかもが違う。
だが。
判ってるからこそ、お前達を見る度に、それを再確認させられるのが辛い…って事もある。
『まぁ、その辺の気持が自分で整理できなくて、それが、お前への反撥になってるんだろ』
大目に見てやってくれよ。と言ってディグは笑ったのだった。
そう言われて改めてタイラントを見ると、いろいろと納得できた。
００９を見る心底心配そうな表情。こちらを見ようともしない憮然とした表情。捨てられた小犬を思わせるような。自分自身も酷い有様だというのに、ただひたすら００９の事を心配している。
００４は苦笑した。
（なんていうか……）
似ている、と思う。
（……ちょっとひねくれたジョー…って感じだな）
考えてみれば、初めて会った時にも、そう思った。Neo Black Ghsot 本部でだ。『殺すか、連れてくか、どっちかにしてくれ……』と言った時の瞳を見て、００４は思ったのだ。００９に似ている、と。
（…にしても……）
嫌われたもんだ、と００４は内心で溜め息を吐く。
（ま、仕方ないか……）
そう思い、００４はタイラントに声を掛けた。
「少し、休んだ方がいい」
タイラントが泣いているのに、無論、００４は気付いていた。けれど、なるべくタイラントの方を見ないようにして、それに気付かないふりをする。
「………」
答えは無い。
暫く待っても、タイラントが何も言わないので、００４はもう一度言った。
「タイラント。少し休め。カティサックも心配している」
「………いい」
長い沈黙の後、不機嫌な声が返って来る。
「俺に構うなよ！ 俺は…俺は、ジョーの側にいる！」
００４の方を見もせずに、タイラントは激しい口調で言った。
「……タイラント…」
００４が、その肩に触れる。
瞬間。
凄まじい勢いで、タイラントは飛び退いた。
「触るなっ！」
一気に壁際まで下がり、身構える。それはまるで手負いの獣のようで……。
「タイラント……」
００４は溜め息を吐いた。
「お前の気持は、判る……」
「判るものか！」
言いかけた００４の言葉をタイラントが遮る。
「判るものか……お前に……！ っ…く……」
唇を噛み、タイラントは俯いた。目を閉じ、肩で息をして、なんとか気持を落ち着けようとする。けれど。
（ち…くしょっ……！）
昂ぶった感情は、荒れ狂う嵐のようで、制御できない。
（……ジョー…！）
自分は一体どうしてしまったのだろうか、と思う。なんだってこう、すぐに泣きそうになるのだろうか、と。
（しかも、００４なんかの前で！）
悔しくて情けなくて、余計に泣けてくる。
（ちくしょうっ！）
「タイラント……」
突然、驚くほど近くで声がして、タイラントは目を開いた。歪んだ視界に床と、自分の足と、そして……。
（あ……）
やっとタイラントは、自分が、何時の間にか床にうずくまっていた事に気付く。視界の端にひっかかっていたのは、００４の肩と腕だった。自分の隣に膝を付いている。
「…な……ななな………」
驚きのあまり、言葉が出てこない。
「すまん……いや……そうじゃない……」
００４が呟くように言う。
「……お前の気持が、俺に判る訳ない。だが……とにかく、少しでもいいから、休んでくれ。頼むから……」
タイラントが顔を上げ、驚いたように００４を見た。
だが、００４の方は、タイラントを見てはいなかった。僅かに横を向いて視線を逸らし、タイラントの泣き顔を見ないようにしている。
「あ……」
００４の横顔を見、そして、タイラントは急いで目元を拭った。
「わ……わかったよ……」
努めて憮然とした声で言い、立ち上がる。何となく気まずい。
「ちょっとだけ……寝る……」
そう言うと、タイラントは足早に部屋から出て行った。
（……ジョーよ……）
タイラントの背中を見送り、００４は心の中で呟いた。
（タイラントは…ほんと……いい奴だよな……）
悪夢の中をさ迷う００９を見下ろし、唇を噛む。
（……俺は…俺達は……どうして、タイラントを見て…判らなかったんだろうな……。タイラントの、お前に対する態度を良く見れば……そうしていれば、お前の嘘なんて、すぐに判っただろうに……）
タイラントはいつも、００９を心配そうな目で見ていた。００９が自分達に対して頑なな態度を取り、嘲笑交じりに冷酷な台詞を口にしていた時も。何か言いたそうな目で、００９をじっと見ていた。
今思い返せば、それが判る。あの時のタイラントの視線に込められた叫びも。
「……ぅ………ぁ……」
掠れた呻きを洩らし、００９が喘ぐ。だが、００４には、見ている事しかできない。
（…ジョー……）
唇を噛み、ただ、００９を見詰め続ける。
何もできずに。
そうやって００９を見続けながら、００４は無意識にポケットの中を手を入れて、ある物を握り締めていた。
小さな四角い物。Neo Black Ghost 内部で使われている、記憶チップ。
それは、タイラントがクワイトから渡されたもので、そのタイラントが００４に投げつけた物だ。『お前にジョーの何が判る！』という叫びと共に。
（確かに……お前の言うとおりだ……）
００４は見た。記憶チップに記録された映像を。
そして、知った。バイスが００９に何をしたのかを。
あの拷問の後、００４達は００９を救出した。００９は、それは酷い有様だった。瀕死の重傷を負い、生きているのが不思議なくらいだった。
（なのに……）
その００９の有様を見ていて、自分達は気付かなかったのだ。００９の精神的ダメージに。そして。００９が、何故それを黙っていたのかにさえも。
（……『お前にジョーの何が判る！』か……。返す言葉も無いぜ……）
☆
００３は、長い間、霧の中で立ち尽くしていた。
途方に暮れて。
自分が何を望めば良いのか、判らずに。
（ジョー……）
変わらないままの彼であって欲しかった。正義を信じ、他人を信じ、戦いを嫌い、それでも、誰かの為、何かを守る為に戦う。優しくて、傷つきやすくて、けれど、誰よりも強い。
（そんなあなたが……）
好きだったのだ。
傍に居て守ってやらなくてはと思わせるのに、気が付けばいつも自分が守られていた。どんな激しい戦いの中でも。ふと不安に襲われた時、見回せば、自分を見詰める彼の視線があった。『大丈夫だよ』と頷く瞳が。
けれど。
変わらぬままであったが故に、今、彼は絶望の中に居る。変わらぬままでありつづけたが故に、変わらぬままでいられなかった自分自身を許す事ができずに。
そして。もう、そう遠くはない未来に、彼は死ぬ事になるのだ。
（私は……）
何を望めば良かったのだろう？ 何を祈れば良かったのだろう？
『変わらずに』いてくれる事か。それとも『生きて』いてくれる事か。
両方は叶えられない。彼の前にあった選択肢は、二つに一つだったのだ。
前者は絶望と死に至る道。後者は堕落と狂気に至る道。
彼が再び Neo Black Ghost の手に落ちてから、あの降伏勧告の映像を見るまでの間、００３はただひたすらに、彼が生きている事を祈っていた。生きていてくれれば、それだけでいい、と。
だが。
あの降伏勧告の映像は、願いには代償が必要だと言う事を、００３に見せ付けた。
彼は変わってしまった。Neo Black Ghost は彼を生かし続ける代わりに、その心を殺したのだ。００３はそう思った。
そして。
別人のような態度で、正気とも思えない台詞を淡々と口にする彼の姿に、００３は思った。もし彼が、自分の…自分達の守ろうとしているものの敵となるのであれば……自分は彼を倒さなくてはならない、と。
その日から本部を襲撃する日までの間、００３は、あの映像が何かの間違いである事を祈りつづけた。嘘であって欲しいと。あれは偽者で、本物の彼は変わらぬまま。そうであって欲しいと。
けれど。現実は甘くなかった。彼は『敵』として自分達の前に立った。
もう何も考えたくなかった。彼を倒さなくてはならないと、そう考える事は、恐ろしい事だったから。
だから、ライの話を聞いた時、００３は安堵した。やはり彼は彼だったのだ、と。変わらないでいてくれた、と。しかし、それ故に彼が自らに絶望し、苦しみながら死ぬ事を望んだのだと知った時、００３は、何もかもが足元から崩れていく音を聞いた。
そう。どちらを望んでも、結局、彼は死ぬのだ。
だとしたら、自分は何を望めば良かったのか？
彼を失う事が避けられないのであれば。
心が死んだ彼に、自分がとどめを刺す事を望めば良かったのか？ それとも、心を守り通して死んで欲しいと望めば良かったのか？
答えが解らず、００３は霧の中で立ち尽くしていた。
彼が死んだら自分も死のうと思い、けれど、彼はそれを悲しむだろうと想う。彼の居ない世界で生きる事など出来ないと思い、彼が守った世界を守らなくてはとも想う。彼に生きて欲しいと思い、彼が『敵』となるのであれば倒さなくてはならないと想う。
想いは定まらず。自分の願いが判らず。何をする事も出来ず、呆然としたまま、虚ろに日々を過ごした。
そして。
レッサートの言葉が、００３に一条の希望を与えてくれた。
（……ジョー……。私は…私達は……あなたを………）
必ず連れ戻す。絶望の淵から。闇を照らす明かりとなって。
誓いは破られてはいない。絆は失われてはいない。彼が彼である限り。
００３は顔を上げ、歩き始めた。
☆
医療センターの一室を借りて眠っていたタイラントは、きっちり三時間で目を覚ました。戦場暮しの間に身に染み付いた技で、一時間だろうが二時間だろうが、たとえ三十分でも、計ったように眠り、起きられる。目覚しなぞ必要無い。目覚めれば即座に臨戦態勢だ。
ベッドから降りて軽く体を動かす。だるさは余り改善されていないが、気分は悪くない。
扉を開け、廊下に踏み出し、そこで、不意にタイラントは動きを止めた。
（？ な…んだぁ……？）
視界の端に、緑色の、何やらわさわさした塊が、角を曲がって消えていくのが映る。チラリとしか見えなかったが、あれは、どう考えても……
（……植物……だよな……）
それも、低木といった感じの。
首を傾げる。
（疲れてるのか？）
そう思い、タイラントは首を振った。
（んな訳ないだろ……）
短時間とは言え、睡眠を取ったばかりなのだ。まぁ、ひょっとして、まだ目が覚めていないという可能性はあるものの。などと考えつつ、タイラントはその緑の塊が消えた角に足を向けた。
角を曲がると、閉まりかける扉が目に入る。
何となく歩み寄り、扉を開け、タイラントは絶句した。
医療センター内の一室であるそこは、かなり広目の部屋だった。恐らく、大勢の負傷者か病人が出た時に、相部屋の病室として使ったりするのだろう。本来は。
だが。今、その部屋の中にはベッドは一つも無かった。というよりも、とても病室とは思えない異様な光景が展開していた。
（？？？）
室内には、緑があふれんばかりに植えられていた。いや、まさに植えられつつあった。
（な……な…にをやってるんだ……？）
理解不能の光景に、タイラントの思考が完全に停止する。
と。
「起きたのか」
声をかけられて、タイラントはぎくしゃくと横を向いた。
「…００…４……」
そこに立っていたのは００４で、作業用のエプロンをしてシャベルを持っている様子が、全くと言っていい程に似合っていなかった。
これは一体何の真似だ？ と言いたかったのだが、言葉が出てこない。
だが、００４の方はそんな問答をするつもりは全く無い様だった。
「起きたんなら、手伝ってくれ」
シャベルを渡され、思わず受け取ってしまう。
「ここのを……」
と壁際に置かれたダンボール箱を指差し、００４は言った。
「…あっちの壁に沿って植えてくれ」
「………」
タイラントがダンボール箱を見る。そこには緑の葉が揺れていた。
「スペアミントだそうだ」
００４はそう言うと、それで説明は十分だとばかりに、呆然としたままのタイラントを放って、自分の作業を再開してしまった。
（……なんなんだ……？）
見回せば、００４以外にも００７や００８、そしてタイラントは名前を知らない研究員らしき男達が、せっせと室内の緑化に勤しんでいる。
（……なんだってんだよ…？）
そうして居る間にも、扉が開いて、００５が緑満載のダンボール箱を置き、出ていく。
（…………）
タイラントは、渡されたスコップを見た。室内を見回す。
溜め息。
そして、言われた作業に取り掛かった。
☆
タイラントが作業に参加してから一時間程で、室内は見事な程の箱庭と化した。
「なかなかに、いい出来だよな」
００７が室内を見回し、満足そうに頷く。
「ああ。突貫作業にしちゃ、上出来だろう」
００８がそれに同意する。
「…一体…どういう事なんだ……？」
尋ねるタイラントに、００４が不思議そうな顔をした。
「お前が言い出し…じゃなかったのか？」
「はぁ？」
思いっきり不審気なタイラントに、００４が頭を掻こうとし、手が土だらけなのに気付いて止める。
「……じゃあ、俺の誤解か？ ……カティサックが、お前から『００９を助ける為に誰かがダメージを受けたとしたら、結局、００９は救われない』って言われたって。それで……」
部屋に植物を入れてくれと言われたのだ、と００４は言う。タイラントは頭を抱えた。
「なんだ…そりゃ……」
確かにカティサックにそのような事を言った。だが、それと病室の緑化の関係が、全く判らない。
そのタイラントの質問に、００４は首を振った。
「俺にも判らん。俺は、てっきりお前が判ってるんだと思ってたんだが……」
と。
不意に部屋の扉が開いた。
「お茶の用意、できたアルね〜」
顔を覗かせたのは、００６だった。部屋を見回し、驚きの声をあげる。
「終わったアルかね！ 見事アルね〜」
感心したように頷き、そして、一同を促した。
「ささ、手を洗って隣の部屋に行くあるよ。フランソワーズがケーキ切ってるアルね。……お茶しながら、最後の打ち合わせ、するそうアル」
「……わかった…」
一同は顔を見合わせ、頷きあった。
☆
部屋の中にはケーキと紅茶の甘い香りが漂ってた。
テーブルを囲むのは、００２から００８までの００ナンバー一同と、タイラント、カティサック、レッサート、ライ、アイラニ、チアフルの計１３名。
和やかな雰囲気の一枚下には、緊迫感が漂う。
（ま…無理も無い……よな……）
一同をこっそりと見回し、チアフルは内心で呟いた。
「…さて……」
ついにレッサートが口を開き、室内の空気が一瞬にして張り詰める。その様子にカティサックが苦笑した。
「あの…すみません。御気持は解りますが、なるべくリラックスして頂けますか？」
「あ……」
その言葉に、一同は顔を見合わせた。
「…ああ……」
そして、息を吸ったり吐いたり、あるいは手を握ったり広げたり、各々の方法で緊張をほぐそうと試みる。それを一渡り見回し、カティサックはレッサートに頷いた。
「……では、これから何が起きるか、それからあなた達に何をして頂くかを、簡単に説明します」
そう言うと、レッサートはヘッドホンのような物を取り出した。
「まず、００ナンバーの皆さんには、これを着けていただきます。これは、催眠装置の一種で、あなた達の意識レベルを下げ、半覚醒状態にします。これは、カティサックとの『接触』をやりやすくする為です」
そこで言葉を切って息を継ぎ、レッサートは話を続けた。
「それから、あなた達はお互いに手を繋いで、想いを一つにするようにしてください。００９の事を想ってください。彼に…彼に伝えたい『想い』を、強く自分自身の中に感じるようにして下さい。そして、光とか太陽とか…そういったイメージを想い浮かべるようにしてみてください」
ふむふむ、と００ナンバー一同が頷く。それを見回し、レッサートはカティサックへ視線を送った。
「その間に、私は…」
カティサックが話を引き継ぐ。
「……最初にライと『接触』をします。その上で、あなた達と『接触』し、最後に００９と『接触』して、『通路』を開きます」
そう言って、カティサックはタイラントを見た。
「私の制御力は弱い。ですから、私が単独で『通路』に成る事は、あなた達にとって大変危険です。無論、私自身も。そこで、ライに手伝って貰う事にしました」
イマイチ事態が判らない一同を見回し、カティサックは言葉を続けた。
「ライの制御力はとても強いのです。無論、私はエンパスで彼はテレパスですから、扱う『力』の種類は異なります。しかし、最低限の制御……００９の方からあなた達の方へ流れる感情の流れを抑えたり、私の精神を保護したり、必要な場合に『接触』を切ったり……はできます」
「そんな事が…？」
可能なのか？ というタイラントの問いに、ライが頷いた。
「ああ。先刻、実験してみた。カティサックがやるよりは、かなり安全にもってけると思う。カティサックの制御力は弱いが、力そのものは俺よりずっと強い。力の種類が異なるから微妙な制御は出来ないが、基本的な事ならなんとかなりそうだ」
なるほど、と一同が頷く。
タイラントが少し安心したように息を吐き、カティサックがそれへ軽く頷いた。
「００９との接触に成功すれば、あなた達の『感情』は一瞬で伝わります。あとは……彼次第です」
一同を見回し、レッサートが話をまとめる。
「何か、質問はありますか？」
その問いに、００４が軽く手をあげた。
「何でしょうか？」
「下らん質問なのかもしれないんだが……植物の意味は？」
躊躇いがちな問い。それへ、カティサックが答えた。
「心を安定させる為です。植物の存在は、気持を落ち着けます。植物の香りやその気配が、人の心を落着かせるのです。命の気配…とでも言えば良いでしょうか？ それは、『絶望』とは対極的なものです」
効果自体は微弱だが、少しでも成功の可能性を高めたい。そう言うカティサックに、００４はなるほどと頷いた。
と。
不意に内線通話の呼び出し音が響いた。アイラニが立ち上がり、受話器を取る。
「はい……。はい、解りました」
短く答え、アイラニが受話器を置く。
「エストラからです。準備は整った、と」
レッサートが頷き、そして、一同は立ち上がった。
☆
００９は闇の中に居た。
全身を貫く苦痛は、自分の一部となってしまったかのようだった。鮮烈な苦痛に、絶え間無く苛まれる。一時も止む事の無いその苦痛に、もう悲鳴すらあげられない。
『やめてくれ』
必死の哀願に返される嘲笑。
『頼むから…もう……』
目の前に立つ白衣の男に懇願する。
『……なんでも…するから……』
けれど。男は冷酷な嗤いを浮かべるだけで。
絶望。
そして、男が背を向ける。
『…待って…くれ…！』
孤独への恐怖が心を切り裂く。
閉じられる扉。
暗闇。
『…助けて…くれ……』
もう、動くこともできない。
全身に打ち込まれた杭で壁に磔られ、悲鳴すらあげられない。
『……助け…て…くれ……』
誰も居ない地下牢の中で、苦痛に苛まれ続けるのは、死よりも恐ろしかった。
『…た…す…け…て…くれ……』
暗黒に向かって、必死で訴える。
その呟きに、不意に冷たい声が答えた。
『そんな資格があるとでも？』
『あ……』
００９はハッと顔を上げた。
黒いブーツ。黒いズボン。踝まで届く黒いマント。僅かに銀があしらわれた黒い服。栗色の髪と、昏い茶の瞳を持つ少年が、目の前に立っていた。
その少年が、無表情に言う。
『お前に、そんな資格があるのか？』
助けを求める資格があるとでも言うのか？ と。
冷酷な声音。
『……あ………』
００９は息を呑んだ。
つと手が伸ばされ、喉元を掴まれる。
『…っく……』
吐息すら塞がれ、００９は弱々しくもがいた。
『お前は裏切者だ』
冷たい瞳に見据えられる。凍り付くような視線。
『苦しめ』
酷薄な口調で、黒衣の少年は言う。
００９は喘ぐことすらできない。
不意に銀の光が閃いた。
（あ……）
それは、鋭利なナイフ。
脅える瞳にそれを見せつけ、そして、黒衣の少年は無造作にそれを００９の胸に突き立てた。
激痛。
けれど、喉元を押えられている００９は、悲鳴をあげることもできない。
『この程度で死にはしない』
刺したナイフが引き抜かれ、再び突き立てられる。
『苦しめ、裏切者』
お前には、死ぬことも狂うことも許されない。
黒衣の少年は、無表情にナイフをふるう。一片の感情すら映さない瞳で。
『助けは来ない』
当然だろう？ と黒衣の少年は、初めてわらった。残忍な嘲笑。
『お前は仲間を裏切ったのだから』
そのお前が、一体誰に助けを求めるというのだ？
（……あ………）
お前は見捨てられたのだ。かつての仲間から。
『裏切の代償だ』
当然だろう？
００９に、返す言葉は無かった。
永遠に続くかと思われる闇の中で、永遠に続くかと思われる苦痛に苛まれ、どれ程の時間が過ぎたのだろうか？
遠くに、微かな明かりが見えた。
ぼんやりとした、小さな小さな明かり。
それが、こちらへ向かってくる。
最初はゆっくりと。それから、急に速度を上げて。
まるで、吸い寄せられるように自分に向かってくる。
（……あ…？）
その暖かな光の球は、００９の目の前に来て停まった。
やわらかな光を放つそれは、綿毛のようにふわふわしながら、浮いている。
（…ああ……）
きれいだ、と００９は想った。
あたたかな日溜まりを思わせるような、その光。
とても懐かしい、それ。
誘われるように手を伸ばしかけ、そして、００９はハッとしたようにその手を止めた。
（……駄目…だ……）
こんなきれいなものに手を触れる事が、自分に許されるのか？
（それに……）
きっとこれは幻だ。そう想う。手を触れようとした瞬間に消える、儚い幻に違いない、と。
手を伸ばし、そして、指が触れる瞬間にこの光が消えたら……。
その絶望は耐え難いものだろうと想う。
何度も何度も絶望を味あわされたけれど。それでも、慣れる事なんてできない。
これ以上の苦しみは無いと、何度そう思っても、それはあった。今味わっている苦しみが、たとえどれ程耐え難いものであっても、それを上回る苦しみは、必ず、あるのだ。
その事を、００９は骨の髄まで叩き込まれた。
だから。
伸ばしかけた手を下ろし、静かに目を閉じる。
すぐにか、あるいはもう暫くしてからか、いずれにしろ、この光はいつか消える。一瞬で消えてしまうのか、徐々に遠ざかっていくのか、それは判らないけれど。
消えるところを見たくはなかった。
だから、目を閉じる。
限りなく懐かしい気配のするこの光から目を逸らす事は、とてもとても辛いことだったけれど。
それでも。
いつ取り上げられるか、という恐怖に苛まれるのに比べれば、自分から手放す方が、まだマシだ。
そう想い、００９は目を閉じた。
痛いほどの哀しみに唇を噛みつつ。それでも。
不意に暖かな温もりを手に感じ、００９は目を開いた。
（あ……）
信じられない光景に、呆然とする。
手の中に、その光があった。
暖かい感触。そこから、すぅっと苦痛が退いていく。
（…あ……）
ゆっくりと胸元に手を引き寄せ、それを抱きしめる。
（あぁ……）
流れ込んでくる、懐かしい温もり。優しく暖かく力強い光が、全身を満たす。
（そう…だよ……）
不意に００９は思った。
（どうして、みんなが僕を見捨てるなんて…そんな事を想ったんだろう？）
彼等が、そんな事をする筈が無いのに。
（…いつだって……みんなは僕を見守っててくれたじゃないか……僕が間違った事をしても…怒ったり呆れたりしながら……それでも、いつだって許してくれたじゃないか……）
やれやれ、と溜め息を吐き。
しょうがないなぁ、と苦笑し。
それでも、『しっかりしてくれよ』と言って、笑ってくれる。
そう。
彼等に『仲間』を見捨てる事が出来る訳が無いのだ。
（僕は…なんて……馬鹿だったんだろう………）
仲間達が自分に向けてくれる、あの光を無視することが、どうしてできたんだろうか、と想う。
そして、００９は振り返った。
闇の彼方。はるか遠くに、出口の明かりが見える。閉ざされた世界だと想っていた。だが、出口はあったのだ。
そう。背を向けていたから、見えなかっただけで。
自分は、出口に背を向けて、ここまで歩いて来たのだ。
（遠い……）
なんて遠くまで来てしまったんだろうか、と００９は思う。
（戻らなくちゃ…）
皆が待っている。心配して。
けれど、疲れ切った体は言う事を聞かず、とてもあんな遠くまで行けそうも無い。
（……どうしよう）
悲しくなる。
すると、胸に抱きしめた明かりが広がり、００９を包み込んだ。
周囲の闇が退き、日溜まりのように暖かな空間ができる。
苦痛と恐怖が遠ざかり、暖かな手が００９を眠りへと誘う。
『おやすみ…』
そんな声を聞こえたような気がする。
『連れていってはあげられない……自分の力で歩かなくてはならない……だから……』
大丈夫。心配しないで。
優しい手に髪を撫でられ、００９は目を閉じた。
誘われるままに、眠りに落ちる。
苦痛も恐怖も無い、安らかな眠りへ。
☆
００３は、ゆっくりと目を開いた。
（……ジョー……？）
確かに、彼を感じたような気がする。ほんの一瞬だったけれど。
「目、覚めたか？」
不意に声をかけられ、００３はハッとした。
「…ジェロニモ…？ ……私……」
「大丈夫か？」
心配そうな声音に、００３は呆然と００５を見上げた。自分がどういう状態なのか、イマイチ把握できない。
ふと視界から００５が消える。
（私……？）
目を閉じ、目を開く。ゆっくりと記憶が戻ってくる。
と。
扉の開く音がして、視界に黒髪の男が現れた。
「大丈夫ですか？ ００３。私が解りますか？」
問われて頷く。
「……カティサック…さん……」
そう答え、二三度瞬きし、００３は総てを思い出した。
「あ…！ ジョーは！ …ジョーは……？」
不安に慄く青い瞳をじっと見、カティサックはゆっくりと言った。
「大丈夫…に、なりつつあります」
「え？」
曖昧な答えに００３は首を傾げた。
「あれから、三日経っています」
（そんなに…経っているの……）
驚く００３にカティサックは言葉を続けた。
「あなたの感情が、一番深く００９と重なったからだと思います」
ライは、００９からの感情の逆流をかなり防いだものの、総てという訳にはいかなかった。その結果、重なりの深い者ほど精神が疲れ、長い間眠ってしまったようだ。そうカティサックは説明した。
「……００９の容体は、少しづつ好転しています。相変わらず悪夢に苛まれてはいますが、彼自身が、その状況を打ち破ろうとしています。水を飲むことも…できるようになりました」
「…あ……」
安堵のあまり、００３は目を閉じ、両手で顔を覆った。
（よかった……）
その様子を見、少し躊躇い、そして、カティサックは言葉を続けた。
「けれど、本当に大変なのは、これからなんです」
その言葉に００３が顔を上げる。
「彼は、自分自身の奥深くに植え付けられた恐怖と、闘わなくてはならないのです。あなた達の支えが必要なのは、多分、これからだと思います」
カティサックの言葉に、００３は深く頷いた。
☆
「落ち着けよ、ジョー……」
ベッドの上に上半身を起こして座り、俯いている００９を見下ろし、タイラントは言った。
「…あ……」
縋り付くような瞳。それへ苦笑する。
「緊張する事、ないだろう？」
「で…でも……」
そこへ、ノックの音が響いた。
００９がビクリとする。その肩に軽く手を置き、タイラントが返事をする。
そして、扉が開いた。
００３が目覚めてから２日。
その日、００９がライの一党に保護されて以来初めて、００ナンバー達が意識のある状態の００９と面会する事になった。
扉を開け、一同が病室内に入ってくる。
７人分の足音。その一つ一つが懐かしい。
けれど。００９は顔を上げる事が出来ず、俯いたままシーツを握り締めていた。
「……ジョー…」
タイラントが気遣わし気に声をかける。
と。
一つの足音がベッドに近付いてきた。タイラントの手が００９の肩から離れる。
そして。
俯いた視界に、ほっそりとした白い手が入って来ると、シーツを握り締めている００９の手に触れた。
「……ジョー……」
限りなく懐かしい、その声。
（あ……）
手。手首。腕。肩。ゆっくりと視線を動かし、顔を上げ……。
「…フラン…ソワーズ……」
涙をたたえた青い瞳が、自分を見ている。
「……ジョー……」
もう一度呼びかけ、００３は微笑んだ。
「………よかった……」
「ごめん…心配かけて……」
掠れた声で言う００９の言葉に、００３はゆっくりと首を振った。
「そんな事……」
それ以上は、もう言葉にならない。
と。
「そうだよ、ジョー」
「謝るのは俺達の方だよ」
「……みんな……」
声をかけられ、００９は顔を上げた。
そこに、仲間達が居た。
「ジョー……」
呼びかけられる。もう二度と、そうやって呼びかけて貰える事など、無いと想っていた。
（帰って…来たんだ……）
自分の居場所へ。限りなく懐かしい、仲間達の下へ。
タイラントは、ゆっくりと後ろに下がった。そっと壁際にまで下がり、そこから００９と００ナンバー達の様子を見る。
（………）
軽く息を吐き、唇を噛む。
見たくなかった。
（ジョー……）
低く呟き、首を振る。
（……判ってた…事…じゃないか……）
００９は自分とは違う、と。自分は００９の『仲間』では無いのだ、と。
けれど。
見ていたく無かった。
そして、タイラントは壁に沿ってそろそろと移動した。気付かれないように扉の所まで行き、そっと廊下に滑り出る。
音を立てないように扉を閉め、ふぅ、と息を吐くと、タイラントは歩き出した。
☆
行く当ても無く研究所内をぶらぶらと歩きつつ、タイラントは物思いに沈んでいた。
（……あんな…顔…するんだな……）
００９が、００ナンバー達に向けた笑顔を思い出す。安心しきった透明な笑み。
（考えてみれば……ジョーの笑い顔なんて…見た事なかったよな……）
せいぜい苦笑くらいで。あとは、クワイトを真似た嘲笑と冷笑。
そう考え、タイラントは苦笑した。
（当たり前だろ……）
『敵』の本拠地に居て、拷問の果てに屈させられ、望みもしない地位を与えられ、意に染まぬ命令に従わなくてはならなくて……。
（それで、笑ってられる訳ないだろ？）
Neo Black Ghost 本部での時間は、００９にとって、一分一秒が拷問に等しかっただろう、とタイラントは思う。
そして。
（俺は……ここから出て行った方が…いいんだろうな……）
内心で呟き、タイラントは唇を噛んだ。
（その方が……）
いいに決まっている。Nek Black Ghost 幹部として過ごした時間は、００９にとって忌むべき記憶だろう。自分は、その記憶の中に存在しているのだ。自分を見れば、００９は思い出さない訳にはいかない。あの日々を。
だから。
（……出て…行こう……）
ここに居ても、もう何もできる事は無い。００９は仲間達の元に戻った。本当の意味で。
（もう……俺の居場所は……無い……）
無論、００９も００ナンバー達も、自分を追い出したりはしないだろう。それはタイラントにも判る。しかし。
（ジョーの心には…俺の居場所は…無い……）
むしろ、忘れるべきなのだ、とタイラントは想う。Neo Black Ghost 幹部として過ごした日々を、記憶の彼方に押しやってしまうべきなのだ。それが可能なのであれば。
その為には、自分の存在は邪魔だ。タイラントはそう想う。
（忘れて…くれ……）
自分の事もクワイトの事も、バイスの事も、恐ろしい拷問の事も、総てを忘れて、本来の姿に戻って欲しい。タイラントは、そう願う。
（結構……短い間だったよな……）
渦中にいる時には、永遠に続くのではないかと、恐怖したものだった。いつまでこんな事が続くのか、と。
勿論、００９にとっては、今思い返したとしても、永遠にも等しい時間だろう。だが、タイラントにとっては。
（俺にとっては……）
００９は、タイラントが心の底から信頼でき、尊敬でき、命すら預けられると思った、二人目の人物だった。一人目は、もうこの世に居ない。タイラントを手酷く裏切った、その男は。
かつて。
タイラントがまだ生身だった頃。
まだ十代の少年兵だったタイラントは、今はもう思い出せない何かを守る為、自ら志願して、戦いに身を投じていた。
その頃のタイラントには、父とも兄とも慕う、師であり上官でもある男がいた。まだ二十代半ばのその男は、卓越した頭脳と戦闘能力とを持ち、部隊を統率する有能な指揮官でもあった。その男が率いているが故に、タイラントの属していた一隊は、無敵を誇り、敵からも、味方からさえも、畏れられていた。
彼は、タイラントにあらゆる事を教えてくれた。銃の扱い、格闘技、陣の張り方から兵の動かし方、作戦を立てる上での事細かな策略に至るまで、戦場で生き抜く為の総てを。
そして、裏切りの苦さも。
運命のあの日、彼を庇って敵弾に倒れたタイラントは、部隊から置き去りにされた。
『お前みたいに馬鹿正直な奴の好意を得ておくのも、時には役に立つな』
そう言って嘲い、男はタイラントをその場に残し、部隊を率いて去って行ったのだ。
信じられなかった。
自分の身に何が起きたのか、タイラントには理解できなかった。
そして。
タイラントは一命をとりとめた。
皮肉にも、敵の手によって。
けれど、それは勿論、好意からでも何でもなく、情報が欲しかったからだった。
容体が安定したタイラントは、当然のように尋問を受けた。
タイラントの部隊によって甚大な被害を被っている敵は、タイラントを手酷く扱った。
だが。
タイラントがあっさりと総てを吐いたのは、それだけが理由ではなかった。
見捨てられたのだという事実が、抵抗の意志を失わせていた。
自分が何を守りたかったのか、もうタイラントには判らなかった。
生き延びてやる。
それだけが、タイラントの目的になった。
だから、暫くして、タイラントがかつて所属した部隊が壊滅した、という話を聞かされた時も、何の感慨も無かった。『お前の情報のおかげだ』と言われても。
部隊は散り散りになり、指揮官だった男は捕らえられ、処刑されたという。捕獲から処刑までの間に何があったか、それは言うまでも無い事だった。その事を考えても、タイラントの心は何の感傷も感じなかった。ざまみろ、と想っただけで。
処刑は、厳重な警戒下で行われた。逃げ散った部下達が助けに来るのではないか、と思われたので。
だが、誰一人として助けに現れる者はなかった。
処刑に立ち会ったある将校が、その事を皮肉ったところ、彼は『部下の掌握には自信があるんだ』と言って笑ったという。それが、彼の最後の言葉だったそうだ。
（……ちっ…）
嫌な事を思い出した、とタイラントは舌打ちし、そして、ふと立ち止まった。
（………）
何かがひっかかる。
長い間、タイラントはこの事を考えないようにしていた。
だが。
（……部下の…掌握…には…自信がある……？）
その話を聞かされた時、タイラントは嘲った。部下を掌握している筈の男が、何故、見捨てられるのか？ と。
負け惜しみかと嗤い、いい気味だと想った。自分を見捨てた男が、今度は仲間に見捨てられて死ぬのだ。運命の皮肉に、昏い喜びを感じた。
しかし。
（…そう…じゃ…ない……）
処刑場の警戒は、極めて厳重だったという。二重三重に罠を張り巡らせていた、と。助けることは、不可能に近い状態だったのだ。助けに来れば、殺されるか、掴まるか、そのどちらかなのは、まず間違い無かった。殺されずに捕われたとしても、最終的に処刑されるのは間違い無く、いずれにしろ自殺行為だったのだ。
（……『来るな』…と……言った……？）
例えば、００９なら。間違いなくそう言うだろう。と、タイラントは想う。
（そう…だよ…な……。ジョーだったら……）
自分を助けに来れば殺される、と思えば『来るな』と言うだろう。
ストレートにそう言うか、それとも……。
そして、タイラントはハッとした。
００ナンバー達に『捕虜』として捕らえられた時の、００９の態度を思い出す。
自分を憎ませて、見放させようとした、あの態度を。
（あ……）
それが、あの男と重なる。
『お前みたいに馬鹿正直な奴の好意を得ておくのも、時には役に立つな』と嘲って背を向けた、あの時の態度と。
（……ちょ…と…待て……）
思わず壁に背中を付けて寄りかかり、タイラントは額に手を当てた。
考えたことが無かった。
あの時の、彼の態度と言葉の意味を。
だが。
（もし…仮に……）
あの場で彼が自分を見捨てなかったら、どうなっていただろうか？
治療を担当した敵の医師によれば、かなりの重傷だったという。『あの場で処置をしなけりゃならなかった』と医師は言った。つまり、自分は動かす事が出来ない程の怪我だったのだ。
だとすれば。彼が自分を見捨てない選択をすれば、部隊はあの場から動けなかった事になる。そうなれば、取り囲まれて……。
（全滅…した……？）
彼の部隊は、敵に思われている程の大人数では無かった。機動力が売りの、どちらかと言えば、少数精鋭の部隊だった。特定の拠点を守るのは、得手不得手以前に、果てしなく不利だった。
（…そう…だよ…な……）
今まで『何故、見捨てたのか』と、そればかりを想い恨んでいたが、よくよく考えれば、自分を見捨てないという選択は、部隊の全滅を意味していたと言っても、過言では無かったのだ。
一人の部下の命と、残る全員の命。
そして無論、部隊には、成し遂げなくてはならない任務があった。
指揮官たる彼は、それら総てを秤にかけて選択をしなければ成らない立場にあった筈だ。
手持ちの戦力。敵の動き。任務。
迷う時間は、勿論、無い。
自分なら、どうした？
（ジョーなら……どうした…？）
敵が来る。それもすぐに。その事は、判っていた筈だ。
そして。敵が、負傷している『敵兵』を見つけた時、情報を得る為に、手当てをするだろう事は、予想できた筈だった。その『敵兵』が、名にしおう、あの男の部隊に所属する者であるならば。
何しろ、彼の部隊は謎に包まれていたのだ。指揮官たる彼についてはもとより、部隊規模やその編成も、敵には（そして味方にも）ろくに知られていなかった。そういった情報が洩れないよう、彼とその部下達は、常に細心の注意を払っていたのだ。
だから。
部隊から犠牲を出さず、かつ、タイラントの命を助けるには、その場に置き去りにして敵に発見させるのが、最も妥当な方法だった。息のあるうちに発見されれば、敵は、タイラントの命を助ける為に、手を尽すだろうから。
だが。
そうやってタイラントが一命をとりとめる事は、部隊についての情報が敵の手に渡る事を意味する。当然だ。その為にこそ、敵はタイラントを助けるのだから。命を助けた後、敵がタイラントを尋問するのは間違いない。
（そう…だよ……）
だから、あの場面での最良の選択は、タイラントを殺す事だった筈だ。
そうすれば、犠牲は最小限で済み、残る者は速やかに移動して任務を果たせる。タイラントが敵に情報を喋る事を心配する必要も無い。
それなのに、彼はタイラントを殺さなかった。
その上、あんな捨て台詞を残していった。
あんな事を言ったのでは、タイラントが敵に助けられた後、躊躇う事無く情報を喋ったとしても、不思議でも何でもない。何しろ、味方から『裏切られた』のだから。
既に自分を『裏切った』かつての味方を『敵』に売るのに、罪悪感を感じる訳が無い。
そして。速やかに情報を喋れば、そんなに酷い目にあわされる事も無いだろう。
（……わざと…なのか……？）
タイラントは呆然と想う。
（そう…なのか……？）
考えた事も無かった。
だが。
タイラントは助かった。敵の手によって。そして、タイラントから得た情報によって、部隊は散り散りになり、彼自身は捕らえられ、処刑された。
しかし。死亡が確認されたのは、彼の他には数名の腹心だけで、それ以外の者については、結局、行方が判らなかったという。数日に渡る激しい戦闘の中、いつの間にか部隊は散って行き、気付いた時には、戦っている者は彼と数人の腹心だけになっていたのだそうだ。
無論、捕らえた彼から聞き出した情報を元に、残党狩りの部隊が各地に差し向けられた。が、その総ては空振りに終わったとか。つまり、彼がでたらめな情報を教えて撹乱し、その結果、部下達は悠々と逃げ散った、という訳なのだ。
（そう…だよ……。ほぼ全員が…助かっている……）
彼自身と、側近とも言うべき数名の部下を除けば、結果的に、全員が助かっている。
（ちょっと…待て……。そう…なのか？ そうだったのか？）
彼は死んだ。だから、それを確かめる術は無い。
総てが彼の計算通りで、自分は裏切られた訳ではなかったのか？
それとも、やはり自分は裏切られたのか？
それを知る事は、永遠に出来ない。
しかし。
もし、総てが彼の計算だったのだとすれば。タイラントの命を助ける為の、彼の策略だったのだとすれば。では、自分は今まで何をやっていたんだ？ と思う。
（これじゃあ……）
なんの事は無い、００９の態度に騙され、『敵』と思い込まされていた時の００ナンバー達と同じだ。００４に『お前にジョーの何が判る！』などという啖呵を切る資格なぞ、無い。
（ひょっとして……俺は…馬鹿…か…？）
いや、馬鹿だ。間違いなく。
ずるずると座り込む。
（ジョー……お前に…会わなけりゃ……）
こんな事を考えもしなかっただろう。タイラントはそう思った。
００９にとって、仲間の存在が闇を照らす『明かり』であるように、タイラントにとっては、００９の存在こそが、闇を照らす明かりだった。
（俺は……見捨てられた訳では無い……）
確かめる事はできないが。
けれど。
そうならば。
そうであるならば。
自分は、一体、何をやってきたのだろうか？
あの日からの自分は。
力だけを求めて戦いに明け暮れ、自ら望んで Neo Black Ghost の一員となり、サイボーグ化手術を受け、敵を殺し、命令とあらば非戦闘員も殺し、時には味方をも殺し、ただただ戦って生き残る、その事だけを目的にして、戦場から戦場へと渡り歩いてきた。
強さ。
物理的な強さ。
それだけを追い求めて。
そして、その強さを確かめる為に、他人を殺してきた。
生き残る為なら、どんな卑怯な手段でも躊躇わずに使った。自分が生き残る為に味方を切り捨てる事も、当然のようにやってきた。
傷ついた味方を殺す事に、昏い喜びすら感じて。
（大馬鹿者…か……）
なんてこった、と想う。
（…俺は……）
どうしたらいい？
（……あの人だったら……）
あるいは、００９だったら。何と言うだろうか？ こんな自分に。
考える。そして、タイラントは苦笑した。
（……ジョーなら……多分、無茶苦茶怒って、呆れて、それから……『でも、もう解ったんだろう？ だったら、やり直しなよ』って言う…てなトコだろうな……）
００９は甘い。他人に対しては、とてつもなく甘い。
（あの人なら……どうだろうか…？）
判らない。だが、００９のような甘さは、彼には無かった。戦場に生まれ、自ら望んで戦いに身を投じていた彼は、自分にも他人にも厳しかった。そうでなければ、生き残れなかったから。だから多分、タイラントを殺さないという選択が、彼の人生で唯一の『甘い』選択だったのだろう。その結果、彼は死んだ。それについて、後悔はしなかっただろう。『当然の結果だ』と淡々と考えただろう。甘さは弱さであって、弱いものが死ぬのは、戦場の掟だったから。
そして。もし、タイラントのその後の生き方を知る事が出来たとしても、彼は怒りも嘆きもしなかっただろう。やはり淡々と『あいつの人生だ』と言うだけで。
（ジョーは……強い……）
しみじみと、タイラントは思った。
数多くの死線をくぐり抜けて来てなお、他人の弱さを受け入れられる『甘さ』を失わないでいられるとは。
（……ほんと…お前は…強いよ……ジョー……）
側に居たい、と想う。
（だけど……）
これ以上、００９に負荷をかけてどうするんだ？ とタイラントは呟いた。
（もう、十分だろう？ え？）
自分はもう、十分過ぎる程に、００９に助けて貰ったではないか。そう、タイラントは想う。
（出て行くんだ。今、すぐに）
そうやって、タイラントが決心を固めた、まさにその時。
「タイラント」
不意に声をかけられ、タイラントは飛び上がった。
（なななっ…！）
焦って顔を上げる。
そこに立っていたのは、００４だった。
「何を…やってるんだ？」
（…え……？）
そう言われて、タイラントはハッとした。考えてみれば、ここは廊下だ。人の居ない廊下の端で、うずくまっていたのだ。傍から見れば、妙な光景だっただろう。
「…いや……」
なんとなく気まずい。
（…ちっ……）
憮然として、立ち上がる。そして、タイラントは思った。
（…丁度いい……）
００４に、出て行くと言おう。多分、００４は黙って行かせてくれるだろう。特に理由は無いが、そう思う。
けれど、タイラントが口を開くよりも早く、００４は言った。
「ジョーが呼んでる」
「え……？」
「それで、探しに来たんだ」
具合でも悪いのか？ と尋ねる００４に、タイラントは慌てて首を振った。
「いや……」
「なら、行こう」
そう言って００４が歩き出し、タイラントは何となくそれに従ってしまった。
☆
部屋の中には、先程と同じように００ナンバーが顔を揃えていた。
００４に促されて、タイラントは００９の傍に歩み寄った。けれど、なんとなくその顔を見るのが嫌で、俯いてしまう。
「…タイラント……」
掠れた声で００９が呼びかける。
「……ごめん…」
（？）
突然の言葉にタイラントが思わず００９をまじまじと見る。
「最初に…こうしなきゃいけなかったよね……。ほんとに…ごめん」
（？？？）
そう言うと、００９は００ナンバー一同の方に視線を移した。
「みんな……もう、知ってるとは思うけど、改めて紹介するよ。タイラント、だ。僕の……」
そこまで言って００９は言葉を切り、タイラントを見上げた。
「……友達…って言っても…いいかな…？」
００９の言葉にタイラントが目を見開く。
「…ジョー……」
少し不安気な瞳に、まっすぐ見詰められ、タイラントはうろたえた。
（俺は……）
そんな資格があるのだろうか？ この自分に。００９に『友達』だと言って貰えるような。
「…嫌…かい…？」
躊躇いがちにそう言われ、タイラントは慌ててそれを否定した。
「そ…そんな事無い。勿論…そう言って貰えるなら……嬉しい…よ……」
最後の方は口の中に消える。
その言葉に、００９はふと笑った。安心したような、透明な笑い。
そして。００ナンバー達の方に向かい、言葉を続けた。
「僕の…友達だ。彼が居なかったら、僕は生きてここに居なかった。それは間違いない。本当に……僕にとって、彼は命の恩人だ。いや…そんな言葉じゃあ、とても足りない。あそこで……」
００９はつと目を伏せて、唇を噛んだ。
「…あの… Neo Black Ghost 本部で、僕に味方する事が…どれ程の危険を伴う事だったか……。僕は……」
「ジョー、もういいから」
見かねたタイラントが、００９の肩に手を置き、言葉を遮る。
「…もう…いいから…さ……」
「でも…」
（僕は、君を…殺した…んだよ……）
「お前の所為じゃない……」
気にするな。そういう瞳に、００９は躊躇いがちに頷いた。
「…ご…めん……」
沈黙。
「……タイラントさん」
不意に声をかけられ、タイラントは顔を上げた。
「…００３……」
優しい青い瞳。その瞳が自分に微笑みかける。
「ほんとうに…ありがとう……。いえ、あなたは…あなたにとっては、勿論、当然の事だったんだと思います。彼の…ジョーの友達として、当然の事をしたのだから、私達に礼を言われるような事じゃないと、そう思われるでしょうね。お礼を言うのは、かえって失礼だというのは、承知しています。でも……」
にっこりと笑う。
「…ほんとうに、ありがとう。ジョーを守ってくれて。私達にできなかった事をしてくれて……」
すっと００３は手を差し出した。
「はじめまして。００３…フランソワーズです。どちらでも、お好きな方で呼んで下さい」
タイラントは目を丸くして、００３を見た。差し出された手を見、００３の顔を見る。
そして。
躊躇いがちに手を出すと、おっかなびっくり００３の手を取った。
「……タイラント…だ……」
「歓迎します。あなたを…１０人目の仲間として……」
☆
まだ半分クラクラした状態で、タイラントは００９が横たわるベッドの傍らに座っていた。思考がまとまらず、ぼんやりとする。
室内には、００９とタイラントの他は誰も居なかった。
ひとしきりの再会＆自己紹介シーンの後、やってきたエストラが、全員を追い払ったのだ。００９の体力的状態を考え、これ以上の話はまた後日にするように、と。付き添いとして誰か一人、というエストラの言葉に００９がタイラントを指名し、残りの者達は出て行った。
「……タイラント…？」
声をかけられ、タイラントはゆっくりと００９を見た。
「ジョー……」
「…ごめん。その…迷惑だったかな……」
「え…？」
「ハインリヒ……００４が言ったんだ。『タイラントは、出ていくつもりだろう』って。『行かせていいのか？』って」
（？）
「どこか…行きたい所が…あった…？ 僕と…僕達と一緒に居るのは……嫌だった…？」
「ジョー……」
心底心配そうな茶の瞳。それに見詰められ、タイラントは首を振った。
「いや……行く当てなんて…無い……。だが……なんていうか…俺には、お前たちと一緒に居る資格なんて……」
「そんな事…！」
言い募ろうとする００９に、タイラントが首を振る。
「お前は、俺の事を知らない。俺がどんな酷い奴か……」
「………」
「いや…知っても…多分、お前は態度を変えないだろう。そう思う。けど……」
そこで言葉を切り、タイラントは苦笑した。
「俺には…仲間なんて居なかった…いや、昔は居た…けど……」
裏切られた。そう思っていた。だが、ひょっとすると違ったのかもしれない。本当の所は、もう確かめようが無いのだが。そう言って、タイラントは溜め息を吐いた。
「お前に会わなけりゃ…そんな事、考えもしなかった……」
そっと手を伸ばし、００９の髪に触れる。
「感謝してる。お前は俺を助けてくれた。いろんな意味で」
「そんな……助けられたのは僕の方だよ」
そう言う００９にタイラントは笑う。
「お前は俺を助けた。俺はお前を助けた。お互い心の赴くままに行動して。つまりそれが……仲間だって事なんだろ。あるいは、友達だという」
違うのかな？ とタイラントが首を捻る。
「俺には、友達…なんてのは居なかった。だから、よくは判らない。だが……」
問うような瞳に、００９は頷いた。
「うん…そうだと、思うよ」
眠りに落ちた００９の横顔をぼんやりと眺めつつ、タイラントは溜め息を吐いた。
（それにしても……）
自分を引き止めるように言ったのが、００４だとは。
（何でだよ…）
邪魔じゃないのだろうか？ この自分が。００４には散々突っかかったし、あんなモノを渡したし……。
そう思い、タイラントは顔をしかめた。
（見た…かな……？）
クワイトから渡された記憶チップ。タイラントはそれを００４に渡した。記録された映像は、バイスの拷問記録で……。００４は、それを見ただろうか？ と思う。
（そりゃ…見ただろうさ……）
何しろ、『見ろ』と言って渡したのだ。
（………）
溜め息。
（何をやってるんだか……）
自分の行動が嫌になる。
衝動的で、考え無し。相手の気持を少しも考えず……。
（それなのに…）
どうして、００４は自分を引き止めようとしたのだろうか？ 放っておきさえすれば、目障りな奴が視界から消えたというのに。
００９を見る。そして、００４の自分に対する態度を思い返す。
（馬鹿か…？ 俺は……）
何時だって、００４は自分に気を遣ってくれていた。折り合いが悪いと思っていたのは自分の方だけで、００４はごく普通に接してくれていた。むしろ、さりげない優しさすら見せてくれて……。
（…ったく……）
苦笑。
（俺はやっぱり…お前達の仲間にゃ、不適格だよ……）
諦めでも自嘲でも何でもなく。それが事実なのだ。
（けど……）
暫く甘えさせてくれ。タイラントはそう思う。
（とりあえず、決着がつくまでは……）
そう呟き、タイラントは唇を噛んだ。
未だ、総ての決着が付いた訳では無い。クワイトを倒し、Neo Black Ghost を倒すまでは。
（それまでは……）
共に戦う。仲間として。
☆
「ほんとうに…ありがとう……」
ギルモアはそう言うと、００９の経過報告に訪れたエストラとレッサートに、深々と頭を下げた。
「……君達の…おかげだ……ありがとう……ほんとうに……」
「博士……」
戸惑うように視線を見交わし、レッサートが口を開く。
「どうか頭を上げて下さい、博士。私達は当然の事をしただけなのですから。それに、００９を助けたのは彼自身と、そして彼の仲間です。私達がした事は、ほんの手助けにすぎません……」
そう言うレッサートにギルモアは首を振った。
「いや……君達が居なければ、００９は助からんかっただろう……私は……」
何もしてやる事ができなかった。ギルモアが嘆息する。
「私は……」
目元を拭い、ギルモアは呟くように言った。
「…００９をサイボーグにしたのは私なんじゃ……。つまり、００９がこんな酷い目にあう事になったのも、もとをただせば…みんな……」
「……博士……」
沈黙。
それを破ったのはエストラだった。
「博士。……してしまった事は、取り返しが効きません。しかし、よくお考え下さい。博士がなさらなくても、結局 Black Ghost はサイボーグ兵を作る計画をおし進めたのではありませんか？ そして、ジョーでなくても他の誰かが００９になったのでは？ ……現に、今の Neo Black Ghost は、多数のサイボーグ兵士を擁しています。この私も、その中の何人かを……手がけています」
エストラの言葉にギルモアがハッとする。
「………」
「ジョーや彼の仲間達にとっては辛い事だったでしょうが、私は…私達は、００９が彼で良かったと思っています。彼のような強さを持った人間が００９でなければ、世界は容易く悪の手に落ちていたでしょう。……そして、博士。あなたの行動が、私達を導いてくれたのですよ」
「…エストラ…君…？」
「あなたと００ナンバー達の行動が、私達に道を示してくれたのです」
ギルモアを真っ直ぐに見、エストラは言った。
「私達ライに従う者の心の支えだったのは、博士と００ナンバー達が Black Ghost を倒したという……その逸話だったんです。あなたと００ナンバー達は、たった１０人で、Black Ghost を倒した。そして、その後もずっと、悪を為す者達との戦いを続けて……。その事が、Neo Black Ghost に捕らえられ、為す術もない私達に希望と勇気を与えてくれました。いつか、必ず…と。そう思い続ける事ができたのは、あなた達の行動があったからなのです」
そこでエストラが言葉を切り、レッサートが話を引き取った。
「願いは…かないました。少なくとも、戦いはじめる事は…できました。無論、私達に出来る事といえば、戦いのサポートをするくらいなのですが……。それでも。何も出来ず、ひょっとして何も出来ないまま終わるのではと怖れ、あるいは、何も出来ないままただ Neo Black Ghost の言いなりになるだけならばいっそ……と、絶望しそうになった日々からすれば………本当に、信じられない気持です」
「ですから……」
再びエストラが口を開く。
「どうか、私達に出来る限りの事をさせて欲しいのです。……私達は、皆、あなたの弟子のようなものですよ、博士。こんな弟子をとった覚えはないでしょうけれど……」
茶目っ気を含んだ微笑。
「今暫くは、私達、不肖の押し掛け弟子がやる事を、見守っていては…いただけませんか？」
そう言うエストラを見、レッサートを見、そして、ギルモアは今一度深く頭を下げた。
「ありがとう……」