Ａｃｔ．９ 闇を歩く −ヤミヲユク−
ウラル山脈ナロドナヤ山中 ライの研究所
会議室に、重過ぎる沈黙が垂れ込めていた。
００９とタイラントを一室に監禁したところで、睡眠中の００１を除く００ナンバー達と、ディグ、ライ、そしてアイラニは会議室に集まった。対策を協議する為に。
だが。
誰もが席に着いたまま、口を閉ざしていた。
言うべき言葉が見つからないのだ。
いや、言いたい事はいくらでもあった。
『一体、ジョーはどうしてしまったのか』
『ジョーをどう扱えばいいのか』
『これから自分達はどうすべきなのか』
言葉にするまでもなく、それらの疑問は会議室の中を渦巻いている。
けれど、その問いに答えられる者は居なかった。
ディグがライを見、ライが僅かに首を振る。
溜め息を吐き、ディグは天井を仰いだ。
「ジョーに…会わせて……」
不意に００３が言う。俯いたまま、震える声で。
「………」
誰も何も答えない。
「お願い……私…私、ジョーと会って、確かめたいの！ 彼が本当に……」
鳴咽。
「…本当に……」
その先を続けられず、００３は首を振った。
「ジョーは、そんな人じゃないわ！ そんな……」
濡れた瞳を上げて、００４を見る。
「そんな筈、無い！ お願いよハインリヒ。私をジョーに会わせて、二人だけでっ！」
悲痛な訴え。
「………駄目だ」
００３から視線を逸らしたまま、００４は言った。感情を押し殺した低い声で。しかし、キッパリと。
「どうして……どうしてなの、ハインリヒ！」
「危険だ」
「あなたは……！」
ガタンと椅子を蹴立てて、００３が立ち上がる。
彼が私達を裏切ったと思ってるの？ 本気でそう思ってるの？ そう言いたげな、青い瞳。憤りと哀しみを込めた視線が００４を射る。
「……あなたという人は…っ！」
００２がハラハラしながら００４を見る。けれど。
（ハインリヒの言うことは…まぁ…もっともだよ……けど……けど……）
そんな言い方ってあるかい？ と思う。が。じゃあ、何と言えばいいかと問われても答えは無く、結局、黙って成り行きを見るしかない００２であった。
燃えるような瞳で００４を睨む００３。それを見ようとせず、沈黙を続ける００４。険悪な空気。
それを破ったのは、００６だった。
「フランソワーズ、落ち着くアルよ。ハインリヒだって、ジョーが裏切った本気で思ってなんかいないアルね。でも、今のジョー、普通じゃないアル。それは確かアル。きっと、正気ないアルね。フランソワーズの事、わからないかもしれないアル。それ、危険ね。そんなジョーとフランソワーズ二人にして、もし何かあったら、ジョーが正気取り戻した時、大変なコトに成るアル。判るアルか？」
００６の言葉に、００７がすかさず同意を示した。
「…そ…そーだよ。そーに違いないぜ、フランソワーズ。ほら、以前、俺等だって催眠術にかけられた事があったじゃないか！」
「あ……」
００３の体から、ゆっくりと怒りの気配が退いていく。
「多分、何かそういう手で、ジョーは俺達の事が判らなくなってるんだよ。きっとそうだって！ だからさ、もうちょっと様子を見て……な…？」
ぱた…と００３は椅子にへたり込んだ。両手で顔を覆う。
「……そう…ね……」
ふぅ、と誰かが息を吐く。
と。
突然、会議室の扉がノックされた。
一同が目を見交わす。
扉から一番近い所にいる００８が、代表して返事をする。
「どうぞ？」
扉を開け、入ってきたのは。
「どーもー！」
チアフルだった。
ライ配下のロボット工学者にして、自称厨房担当。圧倒的な陽気さが身上のイタリア男は、能天気な笑顔を振り撒きつつ手を振ると、扉を大きく開けてガラガラとワゴンを引っ張り入れた。その上には、ティーカップとポット。ラベンダーの仄かな香りが漂う。
「ハーブティーなんだけど、嫌いなヒトっている？」
虚を衝かれて顔を見合わせる一同を尻目に、チアフルはテキパキとカップにラベンダーティーを注ぎ、配って歩いた。
会議室をぐるりと一周して配り終えると、ポットを００４と００２の間に置く。そして、言った。
「あのさぁ〜。悪いんだけど、フランソワーズか張大人、貸してくんないかなぁ？」
「？」
「エレスの奴が風邪ひいちまってさ、厨房、俺だけなの。このままだと、夕飯が遅くなりそーでさ……駄目？ 重要会議中？」
００４は答えない。というか、あまりに唐突な展開に、心がついていっていなかった。
そこへ。
「私が…手伝いにいくわ」
００３が言った。
「そりゃ助かる！」
諸手を挙げてバンザイするチアフルに苦笑し、００３は００４を見た。
「ハインリヒ…私……」
ちょっと言葉を切る。
「…私、多分、冷静じゃないって思うの。冷静になれる自信もないの。だから……ここにいても、出来ることは…無いと思うし……居ない方が…いいんじゃないかって………」
００４がゆっくりと視線を動かし、そして、会議室に集まって以来初めて、００３を見る。
「………フランソワーズ……」
けれど、何を言っていいのか判らず、００４は再び視線を逸らした。
（あぁ…そう…よね……）
不意に００３は悟った。
（……私だけじゃないのよね……）
皆、動揺して動転して、どうしていいか判らないのだ。
「ごめんなさい……」
そう言って立ち上がり、００３は扉に向かった。
「えーと……」
しんみりとなってしまった空気にチアフルが首をすくめる。
「……んじゃま、借りてくわ。あんがとね〜！」
殊更に明るく言うと、チラリとライを見、チアフルはワゴンを押して会議室から出て行った。
扉が閉じたところで、誰からともなく溜め息が漏れる。
沈黙。けれど、それはこれまでのような重苦しい物では無かった。何となく、チアフルの毒気に当てられたような感の一同が、苦笑混じりに目を見交わす。
「それにしても……」
カップを取ってラベンダーティーを一口飲み、００７が言った。
「…エライ絶妙なタイミングだったよなぁ〜」
「そーアルねぇ、でも、助かったアルよ」
そう言う００６に００８も同意する。
「まったくだな」
それをぼんやりと眺めていた００４が、静かに視線を動かした。
「……どう…やった？」
「………」
「あんただろ、ライ」
どう考えてもタイミングが良すぎる。お前が何かをやったんだろう？ と００４はライを睨んだ。
「やらない方が…良かったか？」
００４とライのやり取りに、００６達が黙った。目を丸くして、視線を見交わす。
ライの問いに、００４は溜め息を吐いた。正直言って、助かったのは事実だ。
だが……。
「好意だけでやった訳じゃない」
何？ と眉をひそめる００４にライは肩をすくめた。
「……というか、八割は自分の為だ。悲しみの思考ってのは、ブロックが難しいんだ。特に、強い悲しみってのは…な。だから、ああいう状態の彼女に……近くに居て欲しくないんだ」
「…なる…ほど……」
判ったような判らないような。まぁ、テレパスというのは、そういうものなのか？ と００４は曖昧に頷いた。
「で？」
それはそれとして、質問に答えろ、と００４はライを睨んだ。
「…ああ……」
ライが苦笑する。
「どうやったか、か？」
「そうだ」
「まさかとは思うが、俺達に教えてない内線通話チャンネルとかが、あるんじゃないだろうな？」
目一杯の不信を込めた声音。それへライが首を振る。
「そんなモノは無い」
「じゃあ、どうやったんだ」
「俺は、テレパスだ」
００４が眉をひそめる。
「まさか、テレパシーで連絡した、とか言うんじゃないだろうな？ あんた、前に言ったよな。『俺には、テレパシー能力を持たない相手に対しての送信は、できない』と」
「ああ。だが、その能力がある奴になら、思考を送れる」
「……なんだって？」
ライを睨み付ける。という事は、ライ以外にテレパスが居るという事ではないか。
（そんな話は…聞いてないぞ！）
「テレパスじゃない。エンパスがいる。力はごく弱い。直接触れた相手の感情しか関知できない。それでも、俺の思考を受ける事くらいはできる。せいぜい基地の中くらいしか届かないが」
００４は憮然とした。
「何故、黙ってた」
「黙ってはいない」
「俺は知らなかったぞ！」
「００１に言った。で、００１が『あえて知らせなくてもいいだろう』と言ったんだ」
「………」
００１の名前を出されると、００４としても黙るしかない。特に、こういったＥＳＰ絡みは００１の分野だ。
嘆息。
「……なら…いい……」
「悪いな。力の弱いエンパスってのは、結構辛いんだ。特に、制御力の弱いエンパスってのは、な。制御力が強ければ、クワイトのように、自分の感情と他人の感情を区別できるからいいんだが、弱いエンパスにはそれができない。自分の意志に関わらず、他人の感情に巻き込まれちまう事がある。そうなっても、制御力が弱いから自分から『切り離す』事ができない。自分の感情と他人の感情が入り交ざり、酷く混乱してしまって……だいぶ危険なんだ。エンパスだと知られる事で必要以上の興味を向けられると、巻き込まれる可能性が高くなる」
だから、『誰なんだ』とは聞かないでくれ。そう言うライに、００４は頷いた。
「……さて…」
ラベンダーの香りが全員を包んで、なんとなく落ち着いた気分になったところで、００４は口を開いた。
会議室内に緊張が走る。
「とにかく、ジョーが……『敵』と名乗っている以上、こちらとしても、そういう対応を取る。これについて何か意見は？」
００５が００８を見、００８が００７を見、００７が００６を見……。
「そ…それは、仕方ない思うアルけど……」
そして、００６は００２を見た。
「その……ジョーの奴が催眠術にかかってるとか、そういう可能性ってのは…どうなんだろな？」
「低い…と思う」
００２の問いにディグが答えた。
全員の視線が、ディグに集まる。
「以前、あんた達に使った催眠装置があるだろ。あれ、それなりの最新作だったんだ。だが……」
「ジョーには、効かなかった」
００４が言うのへ、ディグは頷いた。
「ああ。あの後どのくらいの改良が加えられたかは判らないが……」
その辺どうなんだ？ とディグがライを見る。
「催眠…か……」
ライは眉根を寄せた。
「悪いが、俺は心理学者じゃない。……何とも言えないな。一応、レッサートに確認を取ってみるか？ 奴が心理学者だ」
そう言い、ライが００４を見る。その視線に少し考え、００４は頷いた。
「……ああ。だが、後で良い」
００１が目を覚ませば、催眠術かどうかは判るだろう。もし、そうだとしたら解く事だって可能な筈だ。そう言い、００４は全員を見回した。
沈黙。
誰も何も言わない。
（……くそっ！）
結局、自分が言わなくてはならないのか？ と思う。そして、００４は言った。
「そんな事より、早急に確認しなけりゃならない事がある」
そこで一旦言葉を切り、拳を握り締め、続ける。
「例の連絡艇の行き先だ。アレにはクワイトが乗っていた。そう、だな？」
ライを睨む。
「ああ」
「Neo Black Ghost の総裁は、奴なんだろう？ 奴を倒さなけりゃ、連中を倒したことにならない、そうだな？」
「ああ。あの様子から推察するに、向こうには本部を放棄するつもりがあったようだ。という事は、既に移転先がある…と考えた方が、無難だろう。実際の移転作業がどのくらい完了していたか、はともかくとしても」
「な…るほど……」
ライの言葉に００２が頷く。そして、で？ というように００４を見た。
「仮に本部の放棄が計画的で、かつ作業が完了していたと仮定しても、今は移転直後だ。完全に体勢を整えるには、多少の時間はかかるだろう。移転作業が不十分なら尚更だ。だから。ここで一気に畳み掛けて、決着をつける」
「まぁ、そうすりゃ、一安心ってもんだよな」
００７が頷く。そこへ００８が口を挟んだ。
「待てよ。そりゃハインリヒの言う通りだけど、場所は判るのか？ アファオ山中の本部を見つけるんだって、あんなに苦労したのに……」
「判る」
え？ と全員が００４を見る。
「クワイトの乗っていた連絡艇だ。あの行き先が、次の本部だ」
はぁ、と全員が息を吐いた。
「んだよ。それじゃー、判ンねーのと一緒じゃないかよ」
００２が肩をすくめる。
「何故だ？」
それへ００４が尋き返し、００２は目をしばたたかせた。
「は？ ……何故だ…って、そりゃー判らないからだろ、あの連絡艇が何処に向かったのか、なんて。それとも……」
ぐるりと一同を見回す。
「…誰か、知ってるのか？」
その問いかけに、不意に００８が声をあげた。
「あ……」
００４を見る。
「ハインリヒ……」
視線がぶつかり、００８は自分の考えが間違っていなかった事を理解した。
（……な…んて…こった……）
額に手を当て、息を吐いて天井を仰ぐ。
「ジョー…か……」
「え？」
００２が戸惑った様に００８を見る。
「…あ……」
「……ああ……」
００６が００７と顔を見合わせた。
「けど…そりゃ…ちょっと……ナンなんでは……？」
００７が口の中でもごもご言いつつ００４をチラリと見、そのまま黙る。
（な…んだぁ〜？）
何も思い当たらない００２が、眉根を寄せて００４を見る。
だが。
００４は答えたく無かった。
その様子を戸惑ったように見、そして、００８は００２を見た。
「ジョーだよ」
「？」
「ジョーが、知っている筈なんだ。あの連絡艇の行き先を。何故なら……」
流石にその先を言えず、００８が黙る。
その台詞をライが引き取った。
「…何故なら、００９は『クワイトの副官』と名乗っているからだ」
「あ……！」
「Neo Black Ghost では、上級幹部の『副官』というのは特別な意味を持つ。護衛であり腹心であり、代理人でもあるんだ。つまり。組織内の掟に従えば、００９はクワイトの居ない場所では、クワイト本人と同等の扱いを受け、同等の権限を行使する事が許されるんだ。その『副官』たる００９が、クワイトの行き先を知らない筈は無い」
「ちょ…ちょっと待てよ！」
００２が叫ぶ。だが、それを無視してライは言葉を続けた。
「ただ……。これはあくまでも、クワイトが００９を本当に『副官』として扱っていた場合の話だ。名目だけ与えて、実状が伴っていない可能性もある。何とも言えない。確認するには、本人にあたるしかない」
「待てっつってんだろ！」
ダン！ と００２が机を叩く。
「それは、尋問するって事か？ ジョーを？」
敵として？ 敵の捕虜として？ と００２がライを睨む。
だが、ライは答えない。
殺気を含んだ沈黙が、室内を覆う。
と。
「ライ博士言ってるは、そういう事。ハインリヒ考えてるも、同じ事。違うか？」
００５がゆっくりと言い、００４を見る。
「ああ」
ぶっきらぼうに００４が答える。
００２は絶句した。
「…って…め……そん…な……」
その００２を００４が睨み据える。震える程に固く拳を握り締め、そして、言う。
「他に、何か手があるのか？」
肩で息をし、ギリ…と歯を食いしばって、言葉を続ける。
「俺達の目的は、何だ？ 俺達は Neo Black Ghost と戦ってたんじゃないのか？ 俺達の目的は、奴等を倒す事じゃなかったのかっ…？」
「だからって……」
００２に返す言葉は無かった。
「ジョーに…協力して欲しいんだ……奴等を倒す為に……」
低く、００４が呟く。
それを、全員がハッとしたように見詰めた。
「判ってる……。ジョーの奴が……奴等に屈するしか……なかったって事は……判ってる。他に…道が無かった……だろうって事は……判ってる……。だから、せめて………」
その先は、もう、言葉にならなかった。
キッカケが欲しい。再び００９を仲間として受け入れる為のキッカケが。
００９が、たとえ『Neo Black Ghost 幹部』としてであっても、自分達に対して協力的な態度を取ってくれれば。態度を軟化させてくれれば。そうすれば、もう以前の関係には戻れなくても、それでも、敵対関係から離れ、新しい関係を築いていける。少なくとも、その模索はできる。
（魂まで売り渡した訳じゃ…ないだろう？ ジョー……）
そうの筈だ。そうであって欲しい。
００４は切に願った。
「と…ところでさ」
気まずい沈黙に耐えかねて、００８が口を開いた。
「あいつ……あの、タイラントって奴。あいつは一体、何者なんだろうな？」
一時でも００９の話題から離れたかったのと、実際問題として疑問だったのと、その二つが半々の気分で００８は言った。
「タイラント、だと？」
ディグが尋きかえす。
「知ってるのか？」
問われ、ディグは曖昧に頷いた。
「まあ……一応。噂だけだがな」
００８がライを見る。
「あなたは…知ってますか？」
「いや……」
ライがアイラニを見ると、アイラニは小さく頷いた。
「……名前だけですが……基地の警備兵から」
「まぁ、ライが知らないのは無理もない…かな。名が知れてるのは、戦闘員の間での話だし……」
ディグが頷く。
「どんな奴なんだよ」
全員を代表するように、００２が尋く。
「……俺だって、実物に会った事は無い。まさかアレがタイラントだとは……」
注目する００ナンバーを見回し、ディグは『噂だからな』と念を押し、口を開いた。
「タイラント…てのは、戦闘員の間じゃあ、結構前からそれなりに名前が知られていた奴だ。下っ端からの叩き上げで、本人の希望で強化手術を何回もし、今じゃあ、組織内でも屈指の戦闘用サイボーグと言われてる。一番最後の強化手術では、本部の医療センター長が自ら執刀したってんで、当時はかなり話題になった。ここ暫くは……もう五年くらいになるか？ ……クワイト付戦闘部隊の隊長を任じられてる」
そこで一寸言葉を切り、多少逡巡して、ディグは話を続けた。
「性格は、冷酷にして非情。命令すれば、無抵抗の人間でも平然と殺すって話だ。戦場で負傷した部下を『足手まとい』と言って殺したという噂もある。ホントかどうかは知らないが、奴の部隊では、ある程度以上の負傷者が帰ってきた事が無い……のは事実だ。無論、奴が送り込まれる所ってのは大概が激戦区だから……」
重傷者が生還できないのは不思議じゃないんだが、とディグは付け加えた。
「なんてゆーか……００９とは全く正反対だよ。噂に聞く、タイラントって奴は」
一同を見回して、ためらいがちに言う。
「まぁ、噂ってのはえてして誇張されがちだし……。それに、奴は自分から捕まってきたって言うんだろ？ さもなきゃ殺せって言って……。噂に聞くタイラントって奴は、間違ってもそんな事をするような奴じゃないぜ。生き延びる為なら何でもするっていう話なんだ。そういう奴が、そんな事するかな？ 生き延びるってのを第一に考えるんだったら、とっとと逃げてると思うんだけど……」
結局、役に立たない情報で悪い、とディグは溜め息を吐いた。
☆
「ねぇ、チアフルさん……」
「んー？」
バターで小麦粉を炒めつつ、００３は言った。
「さっき……私を…連れ出しにきてくれたんでしょ？ 厨房の人手が足りないなんて、嘘よね」
「………」
チアフルが目を丸くする。それを振り返り、００３はクスっと笑った。
「ライ博士の命令？」
「っちゃ〜……。バレバレかよ……ちぇ」
嘆息。
「そーなのよ。上司の命令なのよ、カンベンな」
上目遣いに見るチアフルに００３は首を振った。
「いいの。助かったわ…私も……皆も……」
鍋の中に少しづつ牛乳を入れて混ぜながら、００３は言葉を続けた。
「……こうしてると…少し落ち着くの……」
チアフルは何も言わない。
「よく…こうやって、ホワイトソースを作ったわ……ギルモア博士の研究所で……。そうするとね、ジョーが来て、鍋を覗き込んでね、じーって見てるのよ。ものすごく不思議そうに……」
濡れた笑い。
「それで言うのよ『ホワイトソースってこーやって作るんだねぇ』って……」
牛乳を注ぐ手が震える。
「何度やっても、不思議そうに見てるのよ……子供…みたい…に………」
カタン…とフランソワーズの手から、鍋をかきまぜていたヘラが離れた。
チアフルがゆっくりと歩み寄り、００３に代わって鍋をかきまぜにかかる。
「ご…ごめんなさい……私……」
「いや……」
頭を振る。
「ごめんな……。俺さ…なんてゆーか、慰めようがなくってさ……。『ジョーは大丈夫だよ』って…そう言ってやれればいいんだけどさ」
００３がハッとチアフルを見る。その横顔は、いつもの陽気な男のそれではなく……。
昏い瞳。
（あ……）
いつも場違いなまでに明るいから、すっかり忘れていたけれど、この男もまた Neo Black Ghost の科学者なのだ。ロボット工学が専門だと言っていたから、戦闘用ロボットや、それに類するものの開発に携っていた筈だ。どんな経緯でここに来る事になったのかは知らないが、望んで来たにせよ、攫われてきたにせよ、ここに来てからの生活は、平穏とは程遠かっただろう。自らの生み出した兵器によって、何処かで誰かが死んでいく。その事を、己の手が血塗られている事を、知る者なのだ。
その男が言うのだ。『大丈夫だ、と言ってやれない』と。それはつまり、００９が大丈夫ではない、という意味だ。
婉曲な言い方ではある。だが、その言葉が真に示す意味に気付かないでいられる程、００３は愚かでは無かった。不幸な事に。
（……ジョーは………）
沈黙。
「でもまぁ……」
不意に明るい声でチアフルは言った。横に立つ００３にニパっと笑いかける。
「……幸不幸は自分の心が決めるモノ。よーするに、何事も気の持ちようってね」
そして、エプロンのポケットから玉ねぎを取り出すと、キョトンとしている００３に手渡した。
「ホワイトソースは俺がやるからさ、玉ねぎ刻んでよ。もー、ぎったんぎったんに！ すんげー泣けるぜ〜」
その言葉に、００３が思わず吹き出す。
「そ…そーね……じゃ、そっちはお願いね。……この前みたく、焦がさないでね」
「…いや……あれはぁ………」
天井を仰ぎ、００３を見、チアフルは溜め息を吐いた。００６との話に夢中になって、気がつけばブラックソースができていた……というのは、あまりにも間抜けな実話だった。
「スミマセン。気をつけます。はい」
☆
ロックの外される、微かな音。それだけで、タイラントは飛び起きた。
（来た…な……）
００９と扉の間に立つ。
一方の００９は、椅子に座って目を閉じたままピクリとも動かない。勿論、眠っている訳では無い。眠ることなど出来ない。だから、物音には当然気付いている筈だ。それ故、タイラントは００９に声をかけることはしなかった。
ゆっくりと扉が開き、まず、００４が入ってくる。続いて００８が中に入り、二人は扉の左右に分かれて立った。
それから、００２、００６、００７が入って来て、最後に００５が入って来ると、扉を閉めてその前に陣取る。
（……大勢で来やがって………）
タイラントが内心で呟く。緊張のあまり乱れそうになる呼吸を抑え、タイラントはチラリと００９を見た。
００９は、先刻までと全く変わらず、椅子に座ったまま軽く目を閉じていた。緊張なぞ微塵も感じられないその様子に、タイラントは畏敬の念すら抱く。
（流石…というか……）
何も変わったことなど起きていないかのような、余裕たっぷりの態度は、見上げたものだった。既に丸二日近く、一睡もしていなければ、一滴の水すら口にしていないのに。
（…すげぇよな……）
こいつの気力は底無しか？ そう思いかけ、タイラントは内心で首を振った。
（……んな訳あるか……）
もう限界の筈だ。いや、とっくの昔に限界なんか越えている筈だ。それでも、残る気力の総てを振り絞って、平静を保っているのだ。
（何故…そこまでする……？）
相手は００ナンバーサイボーグ。今でこそ敵となってしまっているものの、本来は仲間の筈。実際、彼等が Neo Black Ghost 本部を襲撃した時、００９は司令室を破壊する事で、密かに彼等を助けているのだ。
だが、その事を００９は黙っている。タイラントも口止めをされた。理由を尋ねるタイラントに、００９はただ『頼む』と言っただけで……
そこでタイラントはハッとした。そんな事を考えている場合ではない。
「待てよ」
自分の脇を抜けて００９に近付こうとする００２の前に、両手を広げて立ち塞がる。
行く手を阻まれた００２は、やむなく立ち止まるとタイラントを睨んだ。
「……退いてくれ」
短く言う。無論、タイラントに退く気は無かった。
「退けって。俺等が用があるのはジョーだ。お前じゃない」
「何の用だ」
「……何って、聞きたい事があるんだよ！ だから……」
「尋問か？」
「……」
一瞬、００２が言葉に詰まる。００２としては、尋問などというつもりはさらさら無い。だが、そう言われれば返答に窮する。
「そ…そーじゃない。ただ、教えて欲しいことがあるんだ！」
「だったら、俺に尋け」
「……尋いたら…答えるのかよ？」
「それは、質問によるな」
「んだとぉ〜？」
ふざけるな、と言いたげな００２にタイラントが言葉を続ける。
「知らない事は答えられない。知ってる事でも、教えられない場合もある」
「てめぇ〜…」
００２とタイラントのやり取りを、ハラハラしながら後ろで見守っていた００６と００７は、ここに至って慌てて行動を開始した。
「ジェット！ ちょっと待つヨロシ！」
「落ち着けって！」
今にもタイラントに殴りかかりそうな勢いの００２を、左右から腕を掴んで引き止める。だが、００２はその手を邪険に振り払った。
「放せよ！」
「ジェット〜」
「放してくれよ！」
「暴力反対アルね」
と、その時。
「タイラント…」
静かな声。全員の動きが、ピタリと止まる。
００９だった。
相変わらず椅子に座って目を閉じたまま、００９は言った。
「……下がっていろ」
（ジョー！）
振り向いたタイラントが、一瞬、何か言いたそうに口を開きかける。
だが。
大きく息を吐くと、タイラントは黙って００２達の前から退いた。横に移動し、００９と００２達の双方を視界に収められる位置に立って腕を組む。
それを軽く睨み、それから、００２は００９に視線を移した。
（……ジョー…）
歩を進め、００９の前に立つ。その後ろに、おっかなびっくりといった感じに００６が続き、００７は少し離れた所に立ち止まると、００２達とタイラントを交互に見遣った。
（ジョー……）
００２は躊躇った。何と声をかければいいのか判らない。
数呼吸の間。
と。見下ろす００２の前で、００９がゆっくりと目を開いた。顔をあげ、００２を見る。
「……っ…！」
その瞳に、００２は言葉を失った。凍てついた、冷笑すら込めたその瞳。
唇に微かな嘲いを浮かべ、００９は言った。
「質問とやらを、言ってみるがいい」
ぞっとする程に冷たい声音。
「…あ……」
００２が思わず後退る。
「……どうした？」
クッと００９が嗤う。
「…ジョー……」
掠れた声で言い、００２は首を振った。
（信じられねぇ……これが……ジョー…なのか…？）
明るい栗色の髪も、茶の瞳も、優しげな顔立ちも、小柄な体も、声も、何もかもが、間違いようも無く００９だった。
だが。
その瞳に宿る光。その声で語られる言葉。その顔に浮かぶ表情。それらは、全くの別人だ。
（嘘…だろ……？）
嘘だと言ってくれ！ そう００２は想う。
「あ…あのぉ〜…その…ワテらの尋きたい事っちゅーのは…そのぉ〜……」
黙り込んでしまった００２をチラチラと見上げつつ、００６が口を開く。
「……その、な。クワイト…ちゅー人の、行き先アルよ……」
『クワイト』という名前に、タイラントがビクリとし、慌てて００９を見遣る。
しかし。タイラントの心配をよそに、００９は瞬き一つしなかった。
内心で安堵の息を吐きつつ、改めて感心する。
（まさしく…鉄壁の自制心……だな……）
その名を耳にするだけで、いっそ哀れな程、動揺を隠せなかった筈なのに。
「……知ってたら…教えて欲しいアルね……」
「知って、どうする？」
００９の問い。それに、やっと我にかえった００２が答えた。
「ぶっ倒す！」
拳を握り締め、００２は唸るように言葉を続けた。
「奴が、Neo Black Ghost の、真の総裁なんだ！ 傀儡の総裁を立てて、それを影で操ってたんだ！ だから、奴を倒さなけりゃ、奴等を倒した事にならないんだ！ だから……」
その言葉に、００９が、一瞬、目を細める。ほんの一瞬。
「…知ってるか？ 奴の行き先をっ！」
「……ああ」
（なにっ？）
００９の返事にタイラントが目を丸くする。
（…知って…る……のか…？）
「どこなんだ！」
００２が勢い込んで問う。
それへの返答は、嘲笑に満ちていた。
「教えるとでも思っているのか？」
馬鹿にした嗤い。
「…なっ……」
全員が凍り付いた。
タイラントとて例外ではなかった。
（…な……ば…馬鹿かっ…？）
何を考えているんだ？ と想う。
（言うつもりが無いんなら、最初から『知らない』って言えばいいだろう？ なのに……『知ってる』でも『教えない』って……）
頭が痛い。
（…そりゃお前…『問い詰めて下さい』って言ってるのと同義だぞ？）
この連中が拷問なんぞをするとも思えないが、それにしても、間抜けな答えだ。
（どーするつもりなんだよ…まったくよぉ……）
だが。タイラントの内心をよそに、００９は余裕たっぷりだった。
「質問は、それだけか？」
冷たい視線を００６に向ける。
「…あ…あの……あの………」
凍てついた瞳に射すくめられ、００６が震え上がる。それを暫し眺め、そして００２に視線を移す。
（……ジョー……）
００２もまた何も言えず、ただ呆然としているだけであった。
沈黙。
そして、００９はゆっくりと言った。嘲りを込めた、冷ややかな口調で。
「……ならば、出て行くがいい」
最早言葉もない００２達を見向きもせず、００９は再び目を閉じた。
取り付く島も無い、とはまさににこの事だった。全員が呆然としたまま、何も言えずに立ち尽くす。
その様子を眺め、タイラントは唸った。
（すっげ〜……）
気迫だけで相手を黙らせている。これでは、どっちがどっちを捕らえているのかサッパリ判らない。
（…にしても……ジョーの奴、こんな特技があったとは、ね）
あの台詞。あの口調。あの目線。あの嗤い。
（……そっくり…だぜ……。クワイトに……）
名演技だった。流石はクワイトの『副官』といったところか。
（けどよ……）
この先、一体どうするつもりなのか？ この状況下で００ナンバーと対立しても、何も良いことは無い。状況が悪化するだけで。
（…何を考えてるんだよ……）
いずれにしろ、タイラントはどこまでも００９に付いて行くつもりだった。たとえ行き着く先が地獄であろうとも。
だが、しかし。
（一体…どうしようってんだ？）
００９は、破滅に向かって突き進んでいる様にしか見えない。それも、自らの意志で。無論、付き合うにやぶさかでは無いタイラントではあった。
それでも。
救われる道を目指して欲しい。そう願わずにはいられなかった。
☆
結局、何をどうする事もできず、一同は会議室に引上げて来てしまった。
途方に暮れたような、深い沈黙。
「どう…する……？」
長い長い沈黙の後、００８がゆっくりと言った。
「…イワンが起きるのを……待つ…か？」
００４は何も言わない。俯いたまま、ただ黙している。その隣に座る００２はと言えば、もう放心状態で、何も耳に入っていない様子だった。
軽く溜め息を吐き、００８は００６に目を向けた。その視線に００６が首を振る。
「もー、どうしたらいいか判らないアルね。イワン起きるの待つヨロシ」
「けど…よぉ……」
躊躇いがちに００７が口を開く。
「…その……イワンが起きれば解決…する……のかなぁ……」
どういう意味だ？ というような００８の視線に、００７が言いにくそうにする。
暫く逡巡し、結局、００７は口を開いた。
「あの…な……あの……。ジョーの……あの状態って……催眠術によるもの……なのかなぁ……」
上目遣いにチラチラと００４と００２の方を伺いつつ、００７は言葉を続けた。
「…いやその……つまり……催眠術のせいで俺達の事が判らなくなってる…てんだったら…いいんだけど……。その……もし…そうじゃなくって………」
そこで言葉を切る。唇を噛み、００７は意を決した。ここまで言ってしまったら、もう最後まで言うしか無い。そう思い、半ばヤケクソ気味に続ける。
「……ジョーが正気で、自分の意志で……ああいう態度を取ってるんだったら……もしそうだとしたら、イワンが起きても、問題は解決しないと思うんだ」
言い終え、００７は周囲を見回した。誰も何も言わない。
（…うーん……）
駄目だこりゃ、と何となく思う。誰かが……例えば００２あたりが……激昂するかと恐れていたのだ。
けれど、００２は反応しない。というよりも、何も聞こえてないようだった。００４もまた、相変わらずで。
小さく息を吐き、００７は００６を見た。その視線に００６が首を振る。
「判らないアル……判らないアルよ……」
００８に視線を戻す。そして、００７は少しほっとした。
「どう思う…ピュンマ……」
尋ねる００７の言葉に、００８は眉根を寄せた。
「……正直言って……わからない…な……」
先刻の面会では、結局、ろくに話をしていない。というか、会話自体が殆ど成立しなかったのだ。
「もっと……よく…話をしてみないと……」
その言葉に００５が頷く。
「そう…思う……」
そして００４を見、００５は言葉を続けた。
「ハインリヒ……。俺達、ジョーと、もっと話し合う、必要ある、思う。クワイトの居場所、聞くは重要。それ判る。俺も思う。だけど、ジョーの心どこにあるか。それ確かめる必要ある。そう思う。どうか？」
００４がゆっくりと顔を上げて００５を見る。
けれど、何も言わず００４は再び俯いた。
それへ声をかけようとする００８を、００５が手を上げて制する。
（……？）
不思議そうな目をする００８に、００５は黙って首を振った。
「ハインリヒ。俺達、ジョーと話、してみる」
許可を求めるのではない、単に意志を伝えるだけの口調。それに、００４がハッとする。
（…ジェロニモ……）
見返した００４の瞳に、００５は静かに頷いた。
その様子に、００４がほっと息を吐く。ふっと気が抜け、同時に苦笑が込み上げて来た。
（……見抜かれてる…か……）
決断を下すことに疲れた自分を、００５は見抜いているのだ。
（…ったく……この俺としたことが……）
情けない、と思う。
（だがまあ……）
今は嘆いたり反省したりしている場合ではない。出来ることを、やるしかないのだ。
そして、００４は言った。
「俺も行く」
「ハインリヒ……」
心配気な００５に頷き返し、００４は言葉を続けた。
「だが、その前に。全員、少し休んだ方がいい。一時間でも」
とにかく気を静めて、落ち着いて話をする体勢で臨んだ方がいい。００４が言い、一同は、つかの間の休息を取る事となった。
☆
「ワテら、これからどーなってしまうんアルかねぇ……」
多少の休息を取るようにと言われたものの、部屋に戻って一人になるのも嫌で、かといって仲間の誰かと一緒に居るのも何となく気が進まず、研究所内をウロウロした挙げ句、００６は厨房に来ていた。
調理の手も止まりがちで、何だが訳の分からない形の餃子を作りつつ、既に二桁回目の溜め息を吐く。その隣りでシチューの鍋をかき混ぜていたチアフルが、とうとう口を開いた。
「あのさ、張大人。あんた、本気のホントの大真面目で、ジョーが裏切らないって思ってたのか？」
「そ…そりゃー」
「心の底から？ 本気で？」
「それはその〜」
「言っちゃ悪いけどさぁ、張大人。もしも、本気でそう思ってたんだったら、そりゃー馬鹿だぜ？」
「………」
「どれだけ経った…って思ってんのさ」
チアフルの指摘に、００６は不承不承頷いた。
「だろ？」
沈黙。そしてまた一つ、妙な形の餃子が皿に積まれる。それをチラリと見、内心で溜め息を吐きつつ、チアフルは口を開いた。
「あのさぁ、張大人。今まで黙ってたけどさ。…ってのは、ライから不用意な事を言わないようにって念押しされてたからなんだけど、ジョーが裏切らないって思ってたの、あんたらだけなんだぜ？ こっちの、ライ配下のメンバーは、全員、こうなるのを予想してたよ」
だから、誰も驚いちゃないだろ？ とチアフルは００６を見た。
「俺はさ、というか俺等はさ、見た事ある訳。バイスの拷問ってのを」
驚いたような目をする００６に苦笑し、チアフルは言葉を続けた。
「見せられるんだよ。記録映像をさ。オドシの為、だろうね。組織を裏切ったら、こうなるぞ…って」
チアフルが目を閉じて唇を噛む。
そして。ゆっくりと目を開き、００６を見、チアフルは言った。恐ろしく静かな声で。
「ハッキリ言って、滅茶苦茶だぜ。アレやられたら、俺だったら５分で裏切るね。一発で殺してくれるんだったら、もう、何でも喋るよ、絶対に」
苦しげに息をつく。目を伏せて頭を振り、チアフルはシチュー鍋に視線を戻した。
「だから、裏切られても文句無い……ていうか、裏切って欲しいよ。あんなのに耐えてくれなくって、いい」
火を止めて蓋を閉め、隣の鍋の様子を見る。
「あんた、バイスの基地からジョーを助け出しに地下牢まで行ったんだろ？ 見たんだろ？ それでも、ジョーに『裏切るな』って言う訳かい？」
「それは……」
００６が俯く。
バイスの基地の地下牢から助け出された、あの時の００９は、とても生きているとは思えなかった。だが。それでも００９は生きていた。
（それはつまり……）
死なせて貰えなかった、という事なのだ。苦痛を味あわせる為に、あえてとどめをささず、いたぶられ続けた、その結果なのだ。
「死ねって事でも無いんだろ？ 死ぬな裏切るなって……すんげー残酷な事言ってるんだって、判ってんの？ それってさ……苦しみつづけろって、そういう意味なんだぜ？」
００６は言葉も無かった。
「そこまで要求すんだったらさ、殺してやれよ。今すぐ、裏切者として」
あまりといえばあまりな台詞に、００６が飛び上がる。
「…チ…チアフルはん…それは……」
言いかけた言葉は、しかし、口の中に消えた。自分を見詰める、鋭く昏い瞳に射すくめられて。
００６が再び俯く。怖かった。
沈黙。
やがて。チアフルが、ふぅ、と息を吐く。
「…わりぃ……」
ぽん、と００６の肩を叩く。
「ホント、悪かったよ……カンベンな……。あんたの気持も考えずに、勝手なこと言っちゃってさ。……あの〜…怒った…？」
その言葉に００６が恐る恐る顔を上げる。そこにはいつもと変わらない、明るい瞳の男がいた。
「…あ……」
「ごめんな。ほんとに……」
謝るチアフルに、００６は首を振った。
「そんな事無いアル……。チアフルはん言った事は、重要な事アルよ……」
そうだ、と００６は内心で頷く。自分の事ばかり考えている場合では無い。
（……ワテ…ちょっとジョーに頼り過ぎアルね……）
死なないで欲しい。裏切らないで欲しい。戻って来て自分達の先頭に立って欲しい。考えてみれば、ものすごく過剰な要求だ。
（それに……００２や００４にも……ちょっと、ワテ、頼り過ぎ或アルよね。そうアルよ。『これからどうなるのか』じゃ無いアルね。ワテが『どうするか』考えなきゃ駄目アルよ）
ほんの少し、明かりが見えたような気がする。００６はそう思った。
☆
会議室の中を覆う沈黙は、その名を『絶望』と言う。
最早、手のつけようがない事態に、すでに困惑を通り過ぎ、誰一人として言葉も無かった。
溜め息すら出てこない。
沈黙は重く、そして苦かった。
あれから三回、００ナンバー達は００９と『面会』した。情報を得る事は二の次として、とにかく、００９の心がどこにあるのか、それを知る為に。
その結果は、絶望的なものだった。
００９は正気だった。あの状態を『正気』と言うのであれば。
とにかく、００９は催眠術にかかっている訳でも、００ナンバー達の事を忘れている訳でも無かった。その事は、認めるしか無かった。
『俺達の事を忘れたのか？』と尋ねる００２に、００９はハッキリと言ったのだ。
『忘れてなぞいない。確かに俺は００９だし、お前たちの仲間だ』
ぞっとする様な冷たい声音。微かに嗤い、００９は言った。
『だが、それも昔の話だ』
お前たちに付き合うのは、もう飽きた。馬鹿馬鹿しい、と００９は嘲笑う。
『俺達が命懸けで戦って、それで世界は変わったか？ Black Ghost を倒して、それで世界は平和になったのか？』
誰も答えられない。それを見回し、００９は嗤った。
『答えは、“否”だ。違うか？ Black Ghost が滅びた後には、Neo Black Ghost が現れた。仮にこれを倒したとしても、再び同じ事が起きるだけだ』
ニッ…と００９が嘲う。
『いい加減、馬鹿な真似は止める事にしたんだ』
どうせ放っておいても人間は殺し合いをする。ならば、それを適当にコントロールする方が、話が簡単だ。実体の無い“悪”を相手に命懸けで戦い続けるなんぞ、愚か者の所業に過ぎない。
『本当に“悪”を根絶やしにしたいのなら……』
言葉も無い一同を見回し、００９は言い切った。
『全人類を滅ぼせばいい』
冷たい瞳。楽し気な嗤い。
それはもう、彼等の知っている『００９』では無かった。
「ジョーは……」
不意に００２が言い、全員の注目を集める。その視線の中、００２は唸るように言葉を続けた。
「……ジョーは……死んだ」
誰もがハッと身を固くする。
「アレはもう……ジョーじゃない……」
拳を握り締めて机に叩き付け、００２は吠えた。
「ジョーなんかじゃない！ アイツは……アイツはっ……」
「敵だ」
激昂する００２の言葉に、００４の冷たい声が重なる。
全員が息を呑む。
けれど。
それはまた、全員の心の中にあった言葉でもあった。
００９は死んだ。
もう、そう考えるしか無かった。
今いるのは、００９と同じ姿形をした、『敵』。そう理解する以外に、どうしようも無かった。
☆
「僕は…ここから逃げる」
低く言い、００９はタイラントを見た。その瞳に、ほんの一瞬、すがりつくような色が浮かび、次の瞬間、００９はハッとしたように目を伏せた。
「……君は…ここに残った方がいい……」
微かに震える声。
「彼らは…君を殺したり傷つけたりしないよ……。ここに居れば……」
「ジョー」
タイラントは００９の言葉を遮った。
「俺はお前に付いて行く」
００９が顔を上げる。泣き出しそうな瞳の奥に苦しげな影が揺れ、００９は再び俯いて首を振った。
「駄目だよ……。僕なんかと一緒に来たら……」
言葉が続けられず、００９は唇を噛んだ。本当は、一緒に来て欲しい。一人になるのは、どうしようもなく恐ろしかった。孤独は、恐怖の記憶と直結している。
それを振り払うように、００９は首を振った。
（……駄目だ……これ以上は……！）
自分には行き場が無いのだ。行き先ならば、ある。クワイトの居るところだ。そこが、００９の目指す場所。
だが。
このザマで辿り着けるかどうか。仮に辿り着けたとしても……。
（僕に……奴が倒せる…か……？）
その名を思い浮かべるだけで、こんなにも震えてしまうというのに。
それでも。
（……倒さなくては！ 奴を…！）
クワイトこそが、真のNeo Black Ghost 総裁だったという。そうであるなら、クワイトが生きている限り、Neo Black Ghost は速やかに再編されるだろう。無論、クワイトを倒したとて、いずれまた新しい組織が生まれるのは、まず間違いない。かつて Black Ghost が滅び、時を経て Neo Black Ghost が生まれたように。
だが。とにかく、今の敵を倒さなくてはならない。未来の敵を考える前に。
（クワイトを倒せば……現時点での Neo Black Ghost は滅びる）
そうしたら、死を望んでも許されるだろうか？ 許されないまでも……。
（奴を倒せば、いずれにしろ僕は……）
死ぬ事になるだろう。どれくらい苦しまなくてはならないのかは解らないが。眠ることも食べることも飲むことすらできなければ、いかにサイボーグと言えども、いずれは死ぬ。
覚悟はできている。できている筈だ。
クワイトに屈し、Neo Black Ghost に屈したあの時から、考えて考えて考えたのだ。どうするべきか。どうやって罪を贖うべきか、を。
そして、００９は自らに二つの任務を課した。この二つを達成するまでは、決して死なないこと。狂わないこと。たとえ何があっても。どんな目にあわされようとも。それを自らに固く誓った。
その一つ目は、どんな形であれ、仲間の……かつての仲間の下に戻ること。そうしなければ彼らは、この自分を助けられなかった事を、ずっと悔やみ続けてしまうだろうから。
そして二つ目は、必ず Neo Black Ghost を倒すこと。完全に倒す事は無理としても（それが、事実上不可能である事を、皮肉にも Neo Black Ghost 幹部となる事によって００９は知った）、総裁を倒し、Neo Black Ghost としての機能を破壊する。各地に、現在の上級幹部をトップとする組織は残るが、連携を失えば、そして、Neo Black Ghost の軍事力と技術力とを失えば、そうそう大きな事はできないだろう。
（それに……）
と００９は想う。
（…彼等がいる……）
今はもう共に戦えない『仲間』達が。後事を総て託してしまう事になるのは心苦しいが、しかし、もう自分にはそれ以上の事は出来そうも無い。
（……ごめん…みんな……）
最後まで共に戦うと、そう誓ったのに。自分にとって、そして仲間達にとっても、それは最も重い誓いだった筈だ。それを破る自分を、００９は許すつもりはなかった。
ともあれ。
今、一つ目は達成された。二つ目も、その半分は達成されたと言ってもいいだろう。本部を失い、Neo Black Ghost は半壊状態だ。残るは、真の総裁であるクワイトを倒すことだけだった。
俯いたまま黙り込む００９に、タイラントは心の中で溜め息を吐いた。
（一人で背負い過ぎだぜ…ジョー……）
他人に対してはとことん甘いくせに、自分自身に対しては果てしなく厳しい。
（……事情をすべて話せば……そうすれば、００ナンバー達だって納得するんじゃないのか？）
勿論、それなりに苦悩はするだろう。頭では解っても、心が納得するには時間がかかるものだ。
それでも。
結果的に彼らは事実を受け入れ、００９の裏切を許すだろう。おそらく。
（結局、ジョーは本当には屈していない……）
それが判らない訳はない、とタイラントは想う。かりにも００９の仲間であるのならば。
（だが……）
００９の方には、そんな気は一切無いらしいく、あくまでも『敵』として振る舞っている。冷酷に振る舞い、心無い台詞を叩き付け……。まるで、彼等の心の中にある、以前の自分のイメージを消そうとしているかのように。
（そう…なんだろうな。多分……仲間達に、『変わってしまった』と、『以前のお前じゃない』と、『俺達の知っているジョーは死んだ』と……そう思わせたいんだろ……？）
そうやって、彼等の仲間であった『かつての自分』を、自らの手で葬り去ってしまう事が、００９の目的なのだろう。
（そうすれば、お前が死んでも、彼等が哀しみはしないから……といった所なんだろうな。お前の考えは……）
そんなに仲間が大切なのか？ とタイラントは思う。自らを憎ませる事によって、哀しみや苦しみを忘れさせようとする程に。その為に自分が傷ついても構わないと、そう想う程に。
（……だが。彼等から憎しみを向けられるようになれば……）
今度こそ、００９は完全に孤立する。帰る場所も、心の支えも、何もかもを失う。
（そして……）
いずれにしろ、００９はもう長くは持たない。持つ訳が無い。
（……一人で死ぬ…のか？）
多分、そのつもりなんだろうとタイラントは思った。
（ジョーの考えそうな事だぜ……まったく……）
他人の為でさえ、自らを犠牲にする事を躊躇わない００９なのだ。ましてや仲間の為であれば、どんな事でもするだろう。
（それを黙って見てられるかよ！）
タイラントは低く呟いた。
「俺は、どこまでもお前に付いていく。たとえ地獄の果てまででも」
タイラントがきっぱりと言う。００９は何と答えていいのか判らなかった。ただ、タイラントをじっと見る。泣き出しそうな瞳で。
その目を見かえし、タイラントは笑った。
「そんな顔するなよ、ジョー。お前の仲間と違って、俺には地獄行きの資格は十分あるんだからな」
自嘲。
「俺が本当はどんな奴か……俺がどう生きてきたかを知れば、お前は俺を殺したくなるくらい怒るだろうよ」
それでも多分、００９は怒るだけで自分を殺しはしないだろう。タイラントはそう思い、笑った。
☆
扉の左側の壁に背中を付けて立ち、呼吸を整えると、タイラントは００９に向かって小さく頷いてみせた。
（……いつでもいいぜ…）
キ…キン……
黒いマントが閃き、甲高い音が、一瞬だけズレて、二回。
目の前の扉に切れ目が入る。左下から右上へ、右下から左上へ。
それは一瞬の事だった。
（……す…げぇ……）
こうして改めて目の前で見せられると、思わず見惚れてしまう程の、鮮やかな技。
００９が扉の右側に転がり込み、背中を壁に付ける。
二呼吸分の、間。
物音も声もしない。つまり、外に見張りは居ないと考えていいだろう。
それを確認し、今度はタイラントが行動に出た。
素早く扉の前に飛び出す。そして、両腕を胸の前で組むと、扉に付けられた切れ目の中央に、そのまま突っ込んだ。
まるで紙で出来ているかのように、扉はあっさりと壊れる。
タイラントはそのままの勢いで前方に一回転すると、向かいの壁に背を付けて立ち、素早く左右に視線をくれた。
左手は行き止まり。右手は長い廊下。人影は無し。
右方向の廊下を油断無く見据えたまま、タイラントが小さく頷く。
その途端、視界に黒い影が走る。
００９だ。
間髪を入れず、タイラントはその後に続いた。
黒い服を着た二人が、殆ど足音も立てずに走る様子は、まるで影が動いているかのようだった。
左右に分かれて壁際を駆け、角にさしかかると壁に張りついてピタリと止まる。００９が一瞬目を閉じて気配を探り、軽く手を挙げる。その瞬間、タイラントが飛び出し、一呼吸おいて００９が続く。
そうやって誰にも会わずに幾つもの角を通り抜け……。
不意に００９が止まった。壁に身を寄せ、手の平を下にして、僅かに横に動かす。
その指示にタイラントは速やかに従った。
００９の真後ろに付き、同じように壁に張り付く。
不意にドアが開くような音がし、調子っぱずれな『サンタ・ルチア』が聞こえてきた。
足音は、一人分。００９には聞き覚えの無い足音だ。
（……ここの研究所の…者…か……）
小さ目のローラーが転がる音。陶器が触れあうような、澄んだ軽い音。
食器をワゴンに乗せてどこかに運ぶ途中、といったところか？ と００９は見当をつけた。
そっと右手をあげて、タイラントに合図をする。
『一人』
『捕獲』
『出口』
Neo Black Ghost の戦闘部隊で使われている手信号。タイラントは瞬時にその意味を理解した。
（……相手は一人……捕まえて…出口を聞く、か）
了解の意を伝える。
（……それにしても……）
と、こんな場合なのに、タイラントは感心した。
（こんなモノ、よく覚えてるなぁ……）
戦闘員である自分はともかく、幹部である００９には覚える義務は無かった筈だ。無論、幹部の中でも『戦闘員』の数の内である者については覚える事が推奨されてはいたが。
（…ったく。ホント、律義っていうか……）
もっとも、Neo Black Ghost を敵に回して戦うにしても、こういったモノを知っていれば、それなりに有利な訳で……。
（抜け目が無い…とも言える…か……）
何にせよ勝てない相手だ、とタイラントは内心で肩をすくめた。
☆
（ん…？）
目の前を黒い影が横切ったような気がして、チアフルは目を擦った。正確には、擦ろうとした。
その時既に、チアフルは両手を後ろに回して押えられ、口を塞がれていた。
（…んぎゃ〜！）
驚きの余り、悲鳴すらあげられず、暴れる事すら思い付かず、ただ目をぱちくりさせる。
その目の前に、一人の少年が現れた。
栗色の髪。茶の瞳。長いマントを垂らした黒い服は、チアフルにとっては、見慣れないモノという訳でもない、Neo Black Ghost 幹部の正装。
（ななななな〜？）
パニックに陥るチアフルの目を、茶色の瞳が静かに見る。
「驚かせて、すまない。出口を教えて欲しいんだけど」
丁寧な口調に、やっとチアフルが落ち着きを取り戻す。そして、目の前に居るのが誰かを悟った。
（……ジョー…だ……）
本物に会うのは初めてだが、例の降伏勧告の映像で見て、知ってはいる。それに、現在、この研究所に居る人間は少ない。その総てをチアフルは知っている。知らないのは、タイラントと００９だけなのだ。
「大丈夫？ 俺の言うこと、聞こえてる？ 出口を、教えて欲しいんだ」
硬直しているチアフルを心配気に見詰め、００９はもう一度言った。
（え…っと……）
忙しく瞬きをし、チアフルは言葉の意味を考えた。音の羅列が単語として理解され、単語の連なりが文を成す。
（…出口を…教えてくれ…だっけ……？）
理解した。そして、その事を伝える為に、チアフルはこくこくと頷いた。
００９がチアフルの背後に視線を送る。
と。口を塞いでいた手が放された。
「出口は、どっち？」
「えと…えとその……」
動転のあまり、イマイチうまく言葉が出て来ない。
「その……そこの角を左に曲がって……えとえと……突き当たりの……」
そこまで言いかけた時、００９が不意に手をあげた。
「ごめん。ちょっと黙って」
言われるままに、口を閉じる。
「……ジョー…？」
突然、背後から声がして、チアフルは飛び上がりそうになった。落着いて考えれば、その声はチアフルの腕を押えている何者かの声で、だから驚くような事でも無いのだが、その時のチアフルには、落着いて考えるような余裕は無かった。
「……気付かれた」
短く、００９が言う。それへ、タイラントは軽く舌打ちした。
とは言え、だいぶ時間が経ってる。すぐに気付かれなかっただけでも僥倖と言わねばならないだろう。
「００６が、近くにいる。００７と００８も……００４は司令室だから、まだこっちに来るには時間がかかるだろう」
何で判る？ と訝しげに見るタイラントに、００９は微かに笑った。こめかみの上に指を当てる。
「脳波通信機だよ、僕の周波数も、皆と同じなんだ。ずっと切ってたんだけど、もしかして…と思ってスイッチを入れといたんだよ」
なるほど、とタイラントは納得した。だが。それに気付かないとは……。そのタイラントの内心を察してか、００９が苦笑する。
「だいぶ、動転してるみたいだね」
今のうちに急ごう。００９がそう言うのへ、タイラントは頷いた。
☆
「この向こう？」
尋ねる００９に、チアフルは頷いた。
「判った……」
チラリと００９がタイラントに視線を送る。それだけで言いたいことを了解したタイラントは、チアフルを抱えたまま、００９から距離を取った。
脱走を００ナンバー達に気付かれた所で、００９は方針を変えた。最初は、チアフルに出口を尋ねるつもりだった。だが、自分達の脱走に気付いた００ナンバー達が出口を固めるのは、自明。そこへ向かえば、衝突は避けられない。そうなった時、怪我をさせずに済む自信は無かった。
そこで、００９は出口へ向かうのを止め、出口を作る事にしたのだ。
キ…キキン……
甲高い音とともに、００９の正面の壁に、三角形が描かれた。
００９がタイラントを振り向く。それと同時に、タイラントが、抱えていたチアフルの背中を軽く押して００９の方に押し遣った。たたらを踏むチアフルを００９がふわりと抱き止め、くるりと背後に回る。ほんの一瞬で、００９とタイラントはその位置を入れ替えた。
壁の三角の前に立ったタイラントが、息を整え、両の拳を一気に繰り出す。
重い音。
そして、壁に穴が開き、外の空気が吹き込んできた。
出来上がった穴から外を見、タイラントが頷く。地面までの距離はかなりあるが、飛び降りられない高さでは無い。その向こうには壁も何も無く、針葉樹林へと続いている。
「行けるぜ」
００９を振り返ると、タイラントはそう告げた。
呆然とするチアフルの視界の中で、タイラントが壁の穴から外へと飛ぶ。続いて００９が壁の切れ目に手をかけ、チアフルを振り返った。
「ごめん……。ありがとう」
そして背中を向け、００９はタイラントの後を追った。
☆
「あ………」
どのくらい呆然としていたのか、チアフル自身、よく判らなかった。
長い間、壁に空いた穴から外を見続け、そこから吹き込んでくる風に手が冷たくなり、やっと、チアフルは我にかえった。
「…あぁ……」
はぁ、と息を吐く。
カリカリと頭を掻き、チアフルは呟いた。
「…なんだよ……」
首を振り、溜め息を吐く。
「……なんだよ。ぜんっぜん屈してなんか、いないじゃんかよ……」
あの００９のどこが、Neo Black Ghost に屈したっていうんだよ、と思う。
（こいつぁ……）
厄介な事になりそうだ。そう思い、チアフルは唇を噛んだ。
（違う。もう、厄介な事になってる）
嘆息。
（……俺達はどーやら、ジョーを過小評価してたみたいだな）
チアフルが、正確に言うならば、チアフルを含むライの一党が、想定していた状況と、事態はだいぶ異なっている。それも、面倒な方向に。
（……００ナンバー達に、Neo Black Ghost に屈してしまったジョーを、どう受け入れさせるか…がポイントだと想っていたんだが……）
チアフルの見たところ、表面上はどうあれ、００９は Neo Black Ghost に屈してはいない。しかし、ここから脱走してしまった事から推察するに、００９には『仲間』の００ナンバーと和解するつもりも無いようだ。
（一人で…戦うつもり……か…？）
あのタイラントという奴が一緒だから、正確に言えば、二人でという事になるのかもしれないが。そう思い、チアフルは溜め息を吐いた。
（うーむ……）
どうすりゃいいんだ？ と頭を抱える。
（こりゃ…俺の許容量を越えてるぞ……）
早いところ、ライと話をしなくては、とチアフルは思った。
☆
「ジョー！」
研究所から脱走し、針葉樹林に逃げ込んで、どのくらい走っただろうか？ ついに力尽きて倒れる００９の体を、タイラントは素早く支えた。
一睡もせずに既に三日目。その間、一口の食べ物も一滴の水も、００９の喉を通ってはいない。当然、栄養剤も点滴も何も無く……。
その状態で、あの立ち回りをやったのだ。
（限界…だよな……）
タイラントは唇を噛んだ。小さく首を振る。
（…いいや……限界なんて、とうの昔に超えてる……）
００９をここまで支えていたのは、気力のみ。しかし。それも、ついに使い果たしてしまった事だろう。
苦しげに喘ぐ００９を手近な木の根本に座らせる。そして、タイラントは途方に暮れた。
「ジョー……」
どうしてやる事もできない。ただ、見ている事しか……。
黙って隣に座り、タイラントは空を見上げた。
夜の気配。
（くそっ……）
この状態で夜になれば、闇に包まれる事になる。
明かりの一つもない闇の中で、００９がどこまで正気を保って居られるだろうか？ いや、その前に、既に疲労の極に達している００９は、どう頑張っても、睡魔に囚われる、そうなれば……。
避けようの無い時は、もう、そこまで来ている。
そう思い、タイラントは唇を噛んだ。
☆
「完全に…逃げられた…な……」
壁に造られた『出口』の前に立って、００２は呟いた。憤りと安堵とが入り交じった複雑な表情で。
「どう…するよ……ハインリヒ……」
いくら目を凝らしても、針葉樹林の中に動く影は見つからない。しかも、空は黄昏。これから捜すとなると、かなりの困難が予想される。
（それに……）
仮に捕らえる事ができたとして、それで、どうするのか？
００９の姿をした『敵』を、どう扱う？
それは、００ナンバー全員の思いでもあった。
沈黙。
そして、００４は言った。
「……放っておけ」
もう関係無い。そう言う００４に、一同は頷いた。
悲しみと、そして、安堵と共に。
☆
室内には、６人の人間が集まっていた。
この研究所の所長たる、ライ。
そのライに常に付き従う、副官アイラニ。
ライ配下のESP／対ESP関連兵器開発室長を勤める、カティサック。
同じく、ライ配下の兵器開発室長たる、チアフル。
研究所の医療センター長である、エストラ。
そして、元ゼムリャフランツァヨシファ島基地の司令、ディグ。
００ナンバーの姿は無い。
この集まりは、００ナンバー達も知らない、極秘の集まりなのであった。
「……てな訳なのよ」
００９とタイラントの『脱走』の一件についての話を終え、チアフルは一同を見回した。
「…なる…ほどな……」
ディグが頷き、大きく息を吐く。
「００ナンバー達の反応は、どんな感じ？」
チアフルの問いに、ディグは肩をすくめた。
「突き詰めると、概ね歓迎…かな。００９が居なくなった事で、ほっとしてる…ってところだ」
まあ、無理も無い反応だとは思う、とディグは感想を付け加えた。
「問題は……００９の意図、ですか」
そう言うアイラニを見、エストラは口を開いた。
「何にせよ、００９が００ナンバー達と対立する…もう少し限定するのなら、戦う…つもりが無い、というのは、間違いないでしょうね」
結局、今回の脱走劇では、一人の怪我人も出ていない。その理由は、００９が００ナンバー達と会うことを避けたからだ。それ故に戦闘が行われず、結果として怪我人が出なかったのだ。
「もし、００９にその気があれば、かなりの被害が出ていてもおかしくないと思います。それが出なかったと言うことは、要するに、００９にその気が無かったという事でしょう。和解するつもりはないが、対立するつもりも無い。じゃあどうするつもりかと言えば、それは…単独で戦う、という事なんだろうと、私もそう思います……」
そう言うエストラに、ディグは頷いた。
「ああ。俺も『一人で戦うつもり』というチアフルの見解は、当たりだと思うよ」
同意を示す、沈黙。
「で……」
と、チアフルがライを見る。
「俺達としては、どーするよ？」
「そう…だな……」
チアフルの問いに、ライは溜め息を吐いた。
かなり前から、ライ達はこうした密かな会合を何度も開いて、事態を検討し、展開を予測し、それに対する対処方法を話し合って来た。
そして。ついに００９が００ナンバー達と再会をする『その日』が訪れた。
事態の推移は、概ね、ライ達が予想した通りになった。
００９が裏切っているだろう、というのも。
裏切った００９を、００ナンバー達が受け入れられないだろう（少なくともすぐには）というのも。
そして、００９が００ナンバー達に対し、敵対的な態度を取るだろうというのも。
００９の性格から考えて、やむを得ない状況下であっても、仲間を裏切った以上、再び昔の関係に戻ろうとは考えないだろう、というのがライ達の予想だった。けれど。心の奥底では、かつての仲間達から受け入れられる事を望む筈だ。だが、状況が状況だけに、自分からそれを求めることは出来ないだろう。そう、ライ達は考えたのだ。
一方の００ナンバーの方も、裏切った００９を素直に受け入れる事はできないだろうと思われた。しかし、彼等もまた、心の奥底では００９との関係修復を望む筈だ。が、００９が自分達を『裏切った』という事実に対するショックをうまく受け入れる事ができず、難渋するだろう。それがライ達の予想であった。
これらを考え合わせ、ライ達は、主として００ナンバー側に手を貸し、彼等が事実を受け入れる手助けをする事にした。そうやって００ナンバー達が落ち着いて、００９を受け入れる余裕ができれば、あとは時間が解決するだろう。最初のうちはギクシャクする部分もあるだろうが、双方がそれを望んでいる以上、関係の修復は（たとえ緩やかであっても）いずれ達成されるだろう。そう考えていたのだった。
ところが。
００９は、かつての『仲間』に受け入れられる事を、全く望まなかった。
完全な敵対行動を貫き通し、あろう事か、００ナンバー達の元を去ってしまったのだ。
これは、ライ達の予想を越えた事態であった。
「ハッキリ言って、どうしたらいいのか、皆目見当も付かないな」
ライの言葉は全員の想いでもあった。
「まさか、００９があそこまで徹底した行動に出るとは…正直、予想していなかった。……甘く見ていた…と言えばそれまでだが……」
それにしても、あそこまで苛烈な性格とは、とライは首を振った。
「まぁ…な……」
ディグが頷く。
「仲間を『裏切った』ってのは、００９にとっちゃ、何よりも重い罪……なんだろうな」
もう二度と、許されないと思い詰める程に。そう言い、ディグが天井を仰ぐ。
「どう…します…？」
エストラの言葉に、カティサックが静かに言った。
「いずれにしろ、この状況で我々に出来る事は、無いでしょう」
「ま、ね」
チアフルが同意を示す。
「００９には戻ってくる気が無い、００ナンバーには連れ戻す気が無い。これじゃぁ、手の打ちようがないよな」
この先が思いやられるぜ、と首を振り、チアフルはバンザイをしてみせた。
「お手上げ」
最早、苦笑する以外に無い、一同であった。
☆
全身が自分の物では無いかのように、重い。空腹は、もう感じなくなって久しいけれど、渇きだけは、どうしても耐え難い。そして……。
「……っ…」
僅かに頭を振って、眠気を振り払おうとする。だが。もう、体の芯まで染みこんだ疲労は、００９から総ての気力を奪い去っていた。
眠ること。それは悪夢の中に堕ちる事と同義で、００９にとっては恐怖だった。けれど。最早、その恐怖でさえも００９の意識を繋ぎ止める役には立たない。
（…だ…め……だ……）
こんな所で眠ってしまっていい筈が無い。今、あの悪夢に捕らえられたら、もう、正気で居られる自信は無かった。確実に狂う。そう思う。
（……だ…め……だ……）
そんな事は、まだ許されない。クワイトを倒す前に狂うことなど、この自分には許される訳が無い。
それなのに。
００９は喘いだ。何とかして意識を保とうと、必死で目を開けようとする。手を伸ばし、何かを掴もうとする。
だが。手も足も、指一本ですら、もう自分の意志では動かせなかった。
（……だ…め………だ……）
滑り落ちる感覚。それに抗う力も無い。
冷たい恐怖が、足先から徐々に這い上がってくる。
（…い…や……だ……）
闇の手が、００９の目を塞ぐ。もう、何も見えない。
喉元を掴まれ、口を塞がれ、喘ぐことすらできなくなる。
（…や……）
恐怖に捕らえられ、けれど、もがく事も、悲鳴をあげる事すらできない。
そして。
正気の縁に辛うじて触れていた指先が離れる。
一瞬の浮遊感。
暗転。
最早、絶望を感じる事すら出来ず、００９は堕ちた。
苦痛と恐怖に支配された、悪夢の中へ。
☆
（俺は……何をやってるんだ……？）
眠りに落ちかける００９の頬を叩きつつ、タイラントは自問した。
（起こして…それで……何になる…？）
結局、眠らない訳にはいかないのだ。人間である限り、眠りは必要不可欠で。眠らずに居れば、結局、狂う。
（……眠らずに狂うか……眠って狂うか……）
どちらにしろ、結果は同じではないのか？
手を止め、００９を見下ろす。
「……ジョー……」
何もしてやれない。何一つとして、してやれる事が無い。
（……いや……）
一つだけ、ある。
その考えに、タイラントは唇を噛んだ。
（ある…たった一つだけ……俺にしてやれる事が……）
それは。
（……殺…す……）
この手で、００９を殺す。そうして、苦痛と恐怖に狂い死ぬ運命から救う。
自分になら、できる。無抵抗の００９を殺すなぞ、簡単な事だ。
格闘戦用サイボーグである自分のパワーをもってすれば。
一撃。
それで、決着がつく。
だが。
（……いいのか…？ …それで…いいのか……？）
死。それは不可逆の過程だ。死ねば、総てが終わる。その先は、無い。タイラントは神を信じない。そして、神が居ないのであれば、天国も地獄も無い。死の先は無だ。
それでいいのか？
死ねば、これ以上苦しむ事は無い。死ねば、二度と救われる事も無い。
勿論、この状況から００９が救われる可能性が、奇跡を求めるのに等しいことくらい、タイラントにも判っていた。
それでも。
（生きていれば…可能性は……０ではない……。たとえ限りなく０に近くても……）
死ねば、それは０になる。
それでいいのか？ こんな死に方をする為に、００９はここまで生きてきたのか？ そう思う。
（そうだ……死ぬ機会は…いくらでもあったんだ……）
クワイトに屈し、その副官として迎えられて以来、００９は銃を持つことを許されてきた。自殺しようとすれば、いつでもできたのだ。
しかし。
（…ジョーは…死を選ばなかった……）
ただひたすら耐え続けた。死ねば、総ての苦痛から逃れられる事が判っていて。心の中では、密かにそれを望んでいただろうにもかかわらず。
（……その結果、ここで……こんな所で、俺に殺される…ってのか？）
そんな事があっていい訳がない。そんな事は、この自分が許さない。
（そんな…事が……許される訳ないだろうっ？）
だが、どうすれば００９を助けられるのか。タイラントには判らなかった。
☆
暗闇を、苦悶の絶叫が震わせる。
最早００９の瞳に正気の光は無く、唇から零れる言葉も意味不明な叫びが殆どで、時折混ざる意味の判る言葉と言えば『やめてくれ』『助けてくれ』『なんでもする』そして『クワイト』と『バイス』。
泣き、叫び、哀願し、許しを請い、それでも悪夢の中の拷問者たちが００９を開放する事はない。現実にそうだったように。
ぐったりとなって鳴咽を漏らしていたかと思えば、突然悲鳴をあげる。どこにそんな力が残っていたのかと驚く程の激しさで身を仰け反らせ、必死で頭を振り、苦痛と恐怖の絶叫をあげつづける。そしてまた、それが途切れ……。
（……駄目だ……）
タイラントは呻いた。
助からない。助かる訳が無い。助かりようがない。
この状態はもう『生きてる』とは言えない。『死んでいない』というだけだ。緩慢に死んでいく、その途中にあるだけなのだ。
いっそ、この手で殺してやるべきではないのか？ 何度も繰返した自問。本当に、もう助かりようが無いのなら、苦しむだけ無駄だ。せめて、少しでも早く、苦しみの時を終わらせてやるべきなのではないか？
けれど。
（……できない……俺には……）
タイラントは唇を噛んだ。
（…殺したくない……死なせたくない……生きて…助かってほしいんだよ…！）
それが無茶な望みなのは判っている。
（くそ…っ！）
何を望んでいるんだ？ 奇跡を？ 神を信じない、この自分が？
だいぶ狂ってきやがった、と自嘲気味に思う。
だが。
神でもいい。悪魔でもいい。何でもいい。誰でもいい。
（…誰か…！）
悔い改めろというのなら、今すぐ悔い改める。命でも魂でもなんでももってってくれ。
だから……。
（ジョーを…助けてやってくれ…！）
しかし、何も起きない。
（……そう…だよな……）
苦笑。
信じてもいない神が助けてくれる訳が無い。魂なんぞ、とっくに悪魔に売り渡している。それ以外のものは、遠い昔にすべて失った。
あとは命…くらいしかない。
失うものが何も無いというのは、こういう時に困るんだな、とタイラントは想う。
「……ははははは……」
乾いた笑い。
そして、タイラントは首を振った。
思考がまとまらない。何でだ、と思う。苦しんでるのは自分じゃない。００９だ。自分は何とも無い。眠れるし食べられるし飲める。屍山血河を築けと言われれば、すぐにだってやってやる。
そうじゃない。
明後日の方向にさ迷って行く思考を、引き戻す。
もっと現実的になれ。神だの悪魔だのの助けなんかを求めてどうするんだ。
考えろ。００９を助ける方法を。
００９が助かる為に、何が必要だ？
水と食料と眠り。もっと具体的に言えば、水分補給用の点滴と、栄養剤の注射と、クワイトの持っている金のリング。
このうち、最初の二つは近くに有る。ライの研究所だ。あそこに行けば、絶対にある。だが、どうやって手に入れるか。それが問題だ。
（……制圧する…か……？）
００ナンバー達を殺してもいいのであれば、不可能ではないかもしれない。自信は無いが。けれど、そうはいかないのだ。誰も殺さず、怪我もさせず、制圧する。そんな事は、どう考えても無理だ。
どうする？
目を閉じ、さ迷いがちな思考を取りまとめ……。
（……とりあえず、戻ろう）
タイラントは決心した。
とにかく、助けを求めるしかない。記憶が定かではないが、ライの研究所には、ＥＳＰ関係の研究をしてるチームがあった筈だ。だとすれば、心理学者がいる筈だ。それに。今はウィッチが努める本部の医療センター長は、以前はライだったという話だ。ライ自身も腕の立つ外科医だったらしい。誰かがウィッチを評して『まるでライのように見事な腕前』と言ったのを聞いた事がある。だとすれば、この、衰弱しきった００９をどうにかできる筈だ。少なくとも、ウィッチがしていた程度には、何とかしてくれる筈だ。
とにかく、専門知識を持った者の助けが必要だった。もう、この自分では全然手が付けられない。
００９が、ライの研究所から脱出した後、どこへ行って何をしたかったのかは判らない。だが、この状態ではどこへも行けないし、何もできない。
００ナンバー達がどう出るか判らない。ライ達が協力してくれるかも判らない。
だが。
（俺に出来る事は……何も無い）
出来るのは、００９を助けられる可能性を持った者のところに連れて行き、とにかく頼む事。それだけだ。
その頼みが受け入れられなければ、００９は死ぬ。
苦しみながら、緩慢に。
（ジョーが死んだら……その時は……）
殺す。
００ナンバー達もライ達も。クワイトもウィッチも、誰も彼も。００９を助けられなかった、世界中の奴等総てを殺す。もちろん、自分も。
（……皆殺しだ）
００９を背負い、タイラントは闇の中を歩く。
（…今…何時…なんだ……？）
ライの研究所から脱出したのが、夕闇の迫る頃だった。あれからどれくらい経ったのか。
月の無い夜。僅かな星明かりだけを頼りに、タイラントは歩を進める。
せめて、夜が明けて辺りが明るくなれば、とタイラントは切実に思った。
闇は００９を脅えさせる。眠れば悪夢に苛まれ、ふと目覚めて目を開けば、闇に脅える。殆どの体力を使い果たした００９は、背負って歩いているタイラントが難渋する程に暴れることはまず無かったが、それでも時折、狂ったようにもがく。そうなると、背負った状態でいるのは危険だった。地面の上に降ろすしかない。
そうやって、歩き、止まり、また歩く。
微かな星明かりでは、足元もおぼつかない。
それでも。
とにかく進むしかなかった。
もう駄目だ。もう限界だ。
タイラントはうめいた。
考えてみれば、００９に会ってから、何度、『もう限界だ』と思っただろう『限界を超えている』と。
それでも。
００９は驚くべき精神力で耐えてきた。一時の狂気に囚われても、必ず、正気の縁に這い上がってきた。
だが。
今度こそ駄目だ。
「……っく…」
タイラントが膝をつく。
（…くそっ！）
何をやってるんだ、と思う。止まってる場合なんかじゃない。一秒でも早く。一歩でも先へ。進まなくてはならない筈だ。
それなのに。
（……ち…くしょう…！）
息が苦しい。前が見えない。泣いているからだ。泣いている場合じゃないのに。
両手を突いて肩で息をし、何とかして落ち着こうとする。その背中から、ずるずると００９が滑り落ちる。振り返り、タイラントは００９を抱き起こした。
「……ジョー……」
暫く前から、００９は殆ど動かなくなっていた。それでも。浅く苦しげな呼吸は時に乱れ、微かな呻き声が上がり、僅かながらもその体は不規則に震え……。つまり、悪夢に苛まれているのだ。
「ジョー……」
肩を掴み、がくがくと揺さ振る。
「しっかり…しっかりしてくれ……！」
泣きながら訴える。
「…狂わないでくれよ……頼むから……！」
何を馬鹿な事を、と思う。こんなことをして何になる。
「ち…っくしょ……俺は……」
もう駄目だ。００９がじゃない。自分が。
どうしようもなく怖い。
闇が。
「あぁぁぁああああっ！」
００９を抱きしめ、タイラントは泣き叫んだ。
（……誰か…助けてくれ！）
闇の中に、乱れがちな足音。
００９を背負い、虚ろな瞳で、タイラントは歩き続けていた。
もう、自分が何処に向かっているのかも、よく判らない。
進まなくては。
ただそれだけを想い、タイラントは闇の中を歩き続けた。
朝は、未だ遠い。
☆
闇を切り裂く悲鳴に、ライは飛び起きた。
耳を澄ませる。
静寂。
自分の息遣い以外には、何の物音も聞こえてこない。
再び、悲鳴。
そして、ライは理解した。それが、耳に聞こえる声ではない事に。
（……００９…！）
不意に視界から室内の総てが失せ、目の前に闇が広がる。
銀髪の男。
恐怖。
扉。
白衣の裾。
苦痛。
石の壁。
銃。
葛藤。
白い部屋。
階段。
闇。
薄氷の瞳。
絶望。
断片的なイメージが駆け抜け、そして……。
バラバラのパズルが一つの絵になるように。ぼやけていた映像の焦点がピタリと合うように。ズレていた音が一つに重なるように。ライの精神の波長が、００９のそれに重なる。
その瞬間。
ライは、すべてを理解した。
（な…んてこったっ…！）
クワイトが００９に何をしたのか。００９が何故『仲間』達の元を去ったのか。そして今、どういう状態にあるのか。
その総てを、精神を重ねたテレパスだけに可能な方法で、ライは理解した。
「…っ……！」
流れ込んでくる００９の記憶。
物理的な痛みすら伴うそれにきつく唇を噛み、ライは傍らのコンソールに手を伸ばした。
緊急時用のスイッチを叩き押す。
『ライ様っ！？』
間髪をいれず、アイラニの声がスピーカーから飛び出してくる。悲鳴に近い声音。
『どうされましたっ？』
「こっちのメンバーで動ける奴を、全員起こせ。５分以内に俺のところに来させろ」
『はいっ』
何故と尋ねることすらせず、アイラニは即座に従った。
「くそっ…！」
ライは荒い息を吐いた。００９との同調は切れていない。切る訳にはいかない。これが。これだけが、あの針葉樹林の中から００９を見つけ出す為の、唯一の明かりなのだ。
次々と流れ込んでくる悪夢の光景に唇を噛み、ライはコンソールを操作して、ディグを呼び出した。
応えは、ライの予想よりも早かった。
深夜だというのに、呼び出してから２コール目で、ディグが出る。
『どうした？』
「悪い…すぐ……俺の部屋に……来てくれ……」
『ライ？』
「００９の命が…かかってるんだ……頼むから…すぐ……」
それに正気も、とライは想う。
ただごとではないらしい雰囲気を察したのか、ディグは、それ以上の問いを発する事なく返答をしてきた。
『……判った』
「すまない……」
それだけ言うと、ライは通話を切った。
☆
５分後。
室内に集まった一同に、ライは手短に言った。
「悪いが、今は細かい説明をしている暇が無い。必要な事だけ言う。指示に従ってくれ」
異論のある者は、居なかった。
「まず」
唇を噛んで息を整え、ライは言葉を継いだ。
「今、俺は００９と同調した状態にある。この精神波を手掛かりに、００９を見つけに行く。アイラニと、ディグ、カティサック、エレス、この４人は、俺に付いてきて欲しい」
指名された４人が頷く。
「次に、エストラ」
「はい」
「００９は、今、酷く危険な状態だ。脱水状態と極度の疲労とで、衰弱しきっている。細かい話は省くが、００９が何も食べられなくなって、既に半月以上だ。その間、Neo Black Ghost 本部に居た間は、点滴と栄養剤注射とでもたせていた。ここに来てからは、無論、そのどちらも打ってない。最後に処置を受けてから……」
目を閉じて、息を吐く。
「…ほぼ三日。その間、完全に飲まず食わずだ。かなり危険な状態だと思う。受け入れの準備を頼む」
「わかりました」
「それから、チアフル」
「はいな」
「俺達がドタバタすれば、００ナンバー達が黙っちゃいないだろう。だが、今は一刻を争そうんだ。早くしないと、００９の命に関わる。だから……」
「抑えとけ、かな？」
「そうだ。戻ってから、俺が説明するから、とにかく手出しをしないでくれ、と」
「また…難しいこと頼んでくれて……」
頷きつつ。チアフルがぼやく。
「残りの者は、適宜、エストラとチアフルの手伝いをしてくれ。以上だ」
☆
遠くから近付いてくるチラチラとした明かりに、タイラントは長い間気が付かなかった。光は瞳の中に入ってはいたものの、脳まで、脳の思考を司る部分にまでは、届いてなかったのだ。
明かりがかなり近付いたところで、やっと、タイラントが気付く。
（……？……）
しかし。悪夢の中をさ迷う００９を背負い、自らもまた現実から半分足を踏み外した状態で、壊れたロボットのように歩き続けるタイラントが、それが何かを考えるのにはかなりの時間を要した。
ぼんやりとしたまま歩き続け、近くで声がする頃になってやっと、タイラントはその明かりが何だろうか、と考えた。
（…あれ…は……？）
「こっちだ！」
人の声。草を踏み分ける音。
不意に眩しい明かりを当てられて、タイラントは目をしばたたかせた。
「いた！」
声。
光。
そして。タイラントは不意に、誰かが自分達を捜しているのだという事に思い至った。
（あ……）
「大丈夫か？」
「００９はっ……？」
何人かの声。
それに誘われるように、タイラントは手を伸ばした。
手近な何かを掴む。
「……て…やってくれ……」
「え？」
「ジョー…を……ジョーを…助けてやってくれ……」
それが誰なのか判らなかったが、タイラントは必死で訴えた。
「…頼むから…ジョーを……助けて…やってくれ……」
☆
「００９！」
暗闇の中。ライトが照らし出した先に、００９を背負って歩くタイラントの姿が浮かび上がる。それを肉眼で確認した瞬間、ライは走り出していた。
「…ラ…ライ様っ…！」
アイラニが慌てて後を追う。ディグとカティサックも、それに続いた。
（…ひでぇ……）
虚ろな瞳のタイラントに、ディグは思わず唸った。
呆然と立ち尽くすタイラントの背からアイラニが００９を降ろす。それを視界の端で確認し、ディグはタイラントに声をかけた。
「大丈夫か？」
ゆっくりと、タイラントがディグを見る。
そして。
不意に、タイラントはディグの腕を掴んだ。
「……て…やってくれ……」
「え？」
「ジョー…を……ジョーを…助けてやってくれ……」
必死で訴える言葉に、ディグは頷いた。
「大丈夫だ。ライが…何とかしてくれる筈だ。だから……」
言いかけ、ディグは溜め息を吐いた。
「…頼むから…ジョーを……助けて…やってくれ……」
どうやら、タイラントには全く聞こえていないらしい。
（と言うか……）
こっちも発狂寸前だな、と唇を噛む。
どういう経緯かは判らない。だが、タイラントは００９を助ける事以外、考えていないようだった。
（自分は二の次…か）
００９に負けず劣らずボロボロなのに。とディグは想う。
（…ったく……）
噂なんてちっとも当てにならない、とディグは低く呟いた。
アイラニが００９を地面に降ろす。その傍らにライは膝を付いた。
「００９……」
ここまで側に近付くと、００９から伝わってくる苦痛は、もう、耐え難い程だった。
だが。
ライがやろうとしている、ある事。それをするには、００９に触れなくてはならない。そうすれば、今以上の苦痛を味わう事になる。００９の苦痛を完全に共有する事になる。
それを受け入れ、それに耐え、その上で、自分の力をコントロールしなくてはならない。
（俺に……できるか…？）
歯を食いしばり、ライは想う。
しかし。迷っている場合では無かった。このままでは、００９は確実に、狂う。
迷いを断ち切る様に、大きく息を吐く。
「アイラニ…俺に、触るな」
短く言う。
そして。
ライは００９の額にそっと触れた。
物理的な接触をした瞬間。これまでとは比べようも無い程の濃密さで、あらゆる感覚が流れ込んでくる。
繰り返される悪夢。許容量を越えたストレス。精神的苦痛。肉体的苦痛。
００９の体験の総てが、濁流となって、ライの中に流れ込んでくる。
（…っく……！）
狂ったような悲鳴。助けを求める、００９の悲鳴。死への渇望。それに対する否定の声。絶望の呻き。暗闇への恐怖。脅えた叫び。後悔と自責。
流される。
狂気のような感情の渦に巻き込まれ、苦痛の記憶に翻弄され、ライが呻く。
集中力が続かず、コントロールが効かなくなる。
（……く…そっ……！）
００９の悪夢に巻き込まれ、ライが悲鳴を上げる。
荒れ狂う海の中で、もがいているようなものだった。これでは、何もできない。００９を助ける事も出来ない。多分、自分も狂う。
（…駄目…か……）
その時。
＜らい…！＞
小さな『手』がライの精神に触れる。
（あ……）
流れ込んでくる、大きな力。それが何かを考える前に、ライは行動を起こした。
触れている『手』から流れ込む力で自らを固定すると、精神の『手』を伸ばして、暴れ狂う００９をしっかりと捕まえる。そして、ライはそのまま一気に、深い眠りの底へと飛び降りた。
周囲の闇が遠ざかり、光も遠ざかり、総ての記憶と感情とが遠くなり……。ライの『手』の中で、００９がゆっくりと力を失っていく。
長い時間か、あるいは一瞬か。
ついに、光も闇も何も無い、深い深い眠りの『底』にライは辿り着いた。その場所に、００９をそっと横たえる。
それから。残る力の総てをかき集め、ライは『上』へと翔んだ。
差し伸べられる小さな『手』に掴まって、００９の心から抜け出す。
光と闇とがぐるぐると回り……。
＜……らい…？＞
呼びかける声。
＜ブジ カイ ……？＞
（…００１……）
助かった。
＜ムチャ ナ コト ヲ ……＞
溜め息交じりの思考。
（すまん…他に、方法が思い付かなかった……）
＜キミ ノ チカラ デハ キケン ダ トハ …… オモワナカッタ ノ カイ？＞
（思ったさ。だが……）
そうしなければ、００９は発狂しただろう。
＜フタリ トモ ハッキョウ スル トコロ ダッタン ダヨ！＞
（……怒っているのか？）
ライの問いに、００１は沈黙した。
＜……チガウ……。ボク ハ ………＞
戸惑ったような思考。
＜シンパイ シタンダ カラ ……＞
そういう事か、とライは笑う。
（……悪かったよ。だが、とにかく、助かった……）
＜…ウン……＞
００１はまだ何か言いたそうだったが、今は、そんな場合では無かった。
＜トニカク イソイデ じょー ト たいらんと ヲ ケンキュウジョ 二 ツレテ イコウ＞
受入態勢は万全だ。そう言うと、００１はライとの同調を切った。
☆
研究所は、騒然とした雰囲気に包まれていた。
深夜だというのに、全員が起き出し、あれやこれやに奔走している。尤も、奔走しているという言葉が当てはまるのはライの一党だけで、００ナンバー達については、右往左往していると表現すべきであった。
とにかく事情を説明しろと息巻く００２がチアフルと押し問答し、その傍らでは００６と００７がハラハラしつつ成り行きを見守る。
そうこうするうちに００１の泣き声が研究所内に響いたかと思えば、何事かと駆けつけた００４達の目の前で、００１はテレポートして何処へかと消えてしまう始末。
何もかもが不可解で、００ナンバー達には理解出来なかった。
結局。
『俺にも事情は判らない』『ライが、戻ってから説明するって言っていた』というチアフルの説得が功を奏したのか、００ナンバー達は会議室に集まり、待つ事にした。
実際問題、それ以外にどうしようも無かったのだが。
☆
会議室の扉が開いた途端、全員が注目した。
現れたのは、アイラニに半ば担がれるようにして歩いてくるライと、その横に浮かぶ揺りかご。勿論、その揺りかごの中にいるのは、００１だ。
三人を包む鬼気迫る雰囲気に、００ナンバー達の抗議の声は飲み込まれてしまった。
全員が、固唾を飲んで見守る。
その視線の中で、ライとアイラニはゆっくりと会議室の正面に進み（００１の乗った揺りかごが続き）、そして、アイラニがライを正面の椅子に座らせると、その後ろに立った。
００１の揺りかごが、テーブルの上、ライの左手側に着地する。
沈黙。
ゆっくりとライが顔を上げた。
疲れきった表情。苦痛を映したアイスブルーの瞳。
心ここにあらずといった風情で一同を見回すと、ライは口を開いた。
「００９と……」
掠れた声。
「…００９とタイラントは……保護した。現在、医療センターで…エストラ以下のチームが治療にあたっている」
目を閉じて苦し気に息を吐き、ライは言葉を続けた。
「タイラントの方は、十分な休養を取れば…多分、大丈夫だろう。だが……」
ライが唇を噛む。
「…だが……００９は……」
ちょっと言葉を切り、ライは苦し気に呻いた。
「……恐らく、一命はとりとめるだろう」
絞り出すように、ライは言葉を続ける。
「しかし……正気が戻るかどうかは…判らない。そして……仮に正気が戻ったとしても、何処までそれが持つかは……判らない。普通の生活ができるようになるのかも……全く判らない」
小さく首を振る。そして、ライは言った。
「恐らく…闘えるようには…ならないだろう……もう、二度と…！」
一体何を言われたのか判らず、００ナンバー達は、呆然とライを見詰めるばかりであった。
「総てを話すには…膨大な時間がかかる。それに……。言葉では、とても……伝えきれない……」
そう言って、ライは一同を見回した。
未だ、自分達が何を言われているのか、いまひとつ腑に落ちていない風の一同に、もどかしさを感じる。
言葉は無力だ。そう、ライは思う。
（『見せ』てやりたい……アレを……！）
自分が見た、００９の悪夢。その総てを、００ナンバー達にも見せてやりたい。そう思う。
そうすれば、総てが判る。一瞬だ。言葉なぞ必要無い。
ライ自身には、テレパスでは無い者に対し、意図的に『同調』して記憶を伝達できる程の力は無い。ただ、意に反して同調してしまう事はある。今回の一件もそうだ。一度同調をしてしまえば、ある程度のコントロールはできる。けれど、最も重要な『接触』を意図して行うには、ライの場合、相手にその能力がある事が前提になる。
だが、００１の力を借りれば、それは十分に可能だろう。
しかし。
（駄目だ……）
ライは、その破滅的な考えを追い払った。
（…そんな事をして……何になる……？）
それをすれば、００１にもあの光景を見せる事になる。あの悪夢に同調し、あの苦痛を感じさせる事になってしまうのだ。
それでは、先刻００１の力を借りる際に、００１が００９と同調するのを妨げた意味がなくなる。何故なら、００１を介して、ライと００ナンバーを『繋げる』事になるからだ。００９とライ、ライと００１、というような繋がり方をしていた先刻とは違い、００１はモロに『通路』になってしまう。総てが００１の中を『通る』事になる。
（……恐らく…００１は、耐えられないだろう………それに……）
００１以外の００ナンバー達にしてもそうだ。００９の悪夢に、果たして耐えられるだろうか？
『同調』による記憶の伝達は、本人がそれを体験するに等しい。そうして伝達された他人の『記憶』は、あたかも自分自身が体験したかのように『思い出す』事ができるようになる。どんな言葉よりも効率良く、克明に総てが伝えられるのだ。ここに、『誤解』の余地は無い。何もかもが正確に伝えられる。
この方法は、言葉を越えて知識や体験を伝えられると言う点に於いて、非常に便利だ。しかし、決して万能ではない。そうやって伝えられるモノを受け入れるだけの器が、相手に無くてはならないからだ。複雑な知識を瞬時に伝達する事は可能だが、それを理解する能力を持たない相手には、結局、伝える事はできない。
そして。
今回のような過酷な体験を伝える場合、この方法にはかなりの危険が伴う。相手が、それに耐えられるだけの強さを持っていなかった場合、結果は悲惨なものになる。
つまり。００９の体験を伝え受ける相手には、００９と同じ拷問に耐えられるだけの精神的強さが求められる。それが無ければ、おそらくは、発狂する事になるだろう。
（あるいは……俺のように、心に『壁』を作って、自分を守る事ができなければ……）
だが。テレパスで無い者が、そういった制御をする事は不可能に近い。そのライですら、物理的接触による完全な『同調』状態では、コントロールを失って、発狂しかけたのだ。
こんな危険な事を試みたがるなんて、どういうつもりだ？ とライは自問する。
（……どうやら、俺の正気も、少々アヤシイな……）
とにかく。
００ナンバーにそんな事をし、結果、彼等がそれに耐える事が出来なければ、精神的外傷を負った患者が一気に増える事になってしまう。既に、重傷の００９への対応で、スタッフは手一杯の筈だ。しかも、タイラントだって、決して放っておいていい状態ではない。
（…あの男も…かなりの精神的ダメージを、受けている……）
この上、患者を増やしたりしようものなら、手が回らないのは、まず間違いない。
何にせよ、重要なのは、そんな事ではない。
（そうだ……正確に伝えれば良い…というものじゃない……）
肝心なのは、００９が何を想い、何を求めたのか。それを判らせる事だ。必ずしも００９の苦しみを『知る』必要は無い｡何が起きたのかを知る事は、助けには成り得るが、それだけだ。
００９の心が彼等から離れたことは一瞬たりとも無かった。一番重要なのは、その事だ。それが判ってもらえればいい。そう、ライは想う。
そして。
（そして……。００９を……助けてやってくれ……）
そうなのだ。それだけは、００９の『仲間』である彼等にしか不可能な技だ。命を助ける事は可能だ。正気を取り戻させる事も、恐ろしく困難ではあるものの、可能性が０という訳では無い。
だが。
００９を『助ける』事だけは、できない。
（それができるのは……）
お前達だけだ、と想う。
結局、今日この時に至るまで、００９が、狂う事も完全に屈する事も無くいられたのは、『仲間』の存在があればこそ。今のライには、その事がハッキリと判る。００９の心の奥で、常に闇を照らし続けた明かり。それは『仲間』の存在だった。彼等の存在が無ければ、００９はとっくに総てを投げ捨て、狂気に堕ちていただろう。
だからこそ。
ライは、一同を見回した。
「………俺が『知った』事を、話す」
とにかく聞け。
そう言って、ライは話し始めた。