Act.11 決着 −ケッチャク−
  ウラル山脈ナロドナヤ山中 ライの研究所 〜 ヒマラヤ山中 バイスの基地跡
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「さて……」
そう言い、004は会議室に集まった一同を見回した。
「……俺達は、何をもって決着とするかを…考えなくてはならないと思う」
ライ、アイラニ、ディグ、タイラント、002、007そして、008。それらを順番に見つつ、004は言葉を続ける。
001は睡眠中、003は009の付き添い、005と006は司令室に詰めている為、ここには居ない。現時点ではこれといった動きは見えないものの、Neo Black Ghost が健在であり、自分達の居場所が知られているこの状況下なのだ。いつ襲撃を受けたとしても、おかしくない。それ故、全員が会議室に集合する訳にもいかず、こうなったのである。
「既に、ライやディグ、タイラントから話を聞いて、俺は…俺達は…… Neo Black Ghost を『消滅』させる事が、事実上、不可能だという事を知った。だが、奴等をこのままには出来ない。たとえ、再び奴等が目覚める日が来るのだとしても、今の奴等をこのまま放置しておくつもりは……少なくとも俺には、無い」
同意を示す沈黙。
そして、ライが口を開いた。
「Neo Black Ghost の機能を停止させる為には、少なくとも二つの条件を満たす必要がある。一つは、Neo Black Ghost としての技術力・軍事力を失わせる事。もう一つは……クワイトを倒す事…だ……」
唇を噛み、ライが言葉を続ける。
「ハッキリ言って、クワイトを倒さなければ、Neo Black Ghost の技術力や軍事力を失わせる事すら覚束ないと思う。それに、もし総ての基地と研究所を破壊できたとしても、クワイトが生きていれば、Neo Black Ghost は速やかに再建されるだろう。何しろ奴は……僅か数年で、殆ど何も無い状態から今の組織を築きあげたのだからな」
その手腕は恐るべきものだった、とライは言う。
「それに……」
と、ディグが口を挟む。
「ライやタイラントの話を総合すると……今回の一件は、総てクワイトによって仕組まれた事みたいじゃないか……」
その言葉に004が頷いた。
「ああ。最初にフランソワーズが攫われてから、今、ジョーが俺達の元に戻って来るまで……これが総てクワイトのシナリオなんじゃないかと、俺は疑っている。俺達は…クワイトの手の上で踊らされていただけかもしれない…と」
その事は、ライやタイラントの話を其々に聞かされ、全員が薄々疑っている事でもあった。
「…やっぱ……そう…なのか…?」
002が誰へとも無く問う。それに、タイラントが答えた。
「最初からかどうかは、知らない。だが、いくつか不審な点はある。例えば……クワイトは、バイスがジョーを拷問した時の映像記録を持っていた。あんた達がジョーを救出した段階で、バイスの基地は陥ちてる。それなのに、どうしてそんな物がクワイトの手にあったのか……。それから、ディグがバイスの基地から脱走した一件も……考えてみれば妙だ。言っちゃ悪いが、生身のディグがろくな武器も持たずに脱出できる程、基地の警備体勢が甘い訳が無い。まして『009』を捕らえている状態で、だぞ」
タイラントの言葉にディグが頷いた。
「ああ。あの時は、それどころじゃ無かったから深く考えなかったが……確かに、変だ」
「一番不可解なのは、クワイトがジョーをあんた達の所に帰らせたって事だ。クワイトは、俺に言った事がある。ジョーは自分のおもちゃだってな。そのおもちゃを、奴が手放すとは…とても思えない」
タイラントはそう断言した。
「もっとも、クワイトの行動は、不可解じゃない事の方が珍しい。けど奴は、絶対に、無意味な行動はしない。どんなに妙に思えても、奴の行動には必ず意味がある。とはいえ……その『意味』ってのは奴にとっての意味だから、普通の人間には理解できない事の方が多いが……」
そう言って、タイラントは首を振った。
「という事は……今のジョーの状態も、クワイトの思惑通り…なのかな……?」
008がタイラントに問い掛ける。それへ暫し考え、タイラントは頷いた。
「…多分……。クワイトがジョーに付けさせてたリングの話は…しただろ?」
自分の額を指差しつつ言うタイラントに、ああ、と008が頷く。
「クワイトはジョーからそれを取り上げた。あれが無ければジョーがどうなるか、それはクワイトが一番良く知っていた筈だ。遠からずジョーが発狂するだろう事っては、判りきっていた筈だ。けど……クワイトはジョーに『暫しの自由を与えてやる』って言ったんだろ?」
タイラントがライを見る。
「ああ。009の『記憶』によれば」
その答えに頷き、タイラントは言葉を続けた。
「って事は、クワイトはジョーをもう一度…どういう形でかはともかく…手元に取り戻すつもりだったって事になる。あの時のジョーの状態からすると、放っておいたら、よく持って一週間…というところだったろう。だが、その間にこの基地には何の攻撃もかけられていない。……って事は……」
「今の状態は…結局、奴の思惑通り…ってぇ事か……」
002が言い、タイラントが頷いた。
「そう…思う」
沈黙。
「やれやれ……とても手におえない相手だぜ」
どーするよ? と007が004を見る。
004の答えは端的だった。
「どうもこうも無い。倒す。それだけだ」
「いやまあ……そりゃそーだけどよぉ……」
どうやって倒すかが問題なんじゃないの? と口の中でごにょごにょ言いつつ、007が黙る。
「まぁ、何にせよ、だ。手順としては、まずクワイトを倒し、その上でNeo Black Ghost の基地や研究所の類を総て叩く…と、そうなるよな」
002の言葉に004が頷いた。
「となると……まずは、クワイトの居場所か」
008が言う。
「それについては…何か……?」
視線を向けられ、ライが唇を噛んだ。
「…ライ……」
呼びかける声に答えず、ライが目を閉じる。肩で息をし、ライは呻くように言った。
「……あの時…クワイトは言った。『かつての仲間の下へ、帰らせてやろう』と……そして……」
ライは歯を食いしばった。009の『記憶』を、ライは自分の記憶のように思い出す事ができる。けれど、それは同時に009のものである苦痛と恐怖を自分のもののように感じる事でもあった。
だが。
(く…そ……)
クワイトの行き先を知っているのは、009と、その記憶を伝え受けた自分の二人だけだ。だから、そのどちらかが、言わなくてはならない。
(俺が……)
自分が言わなくては、とライは思う。
たとえ『自分の事にように』思い出せたとしても、それでも他人の記憶であると判っている分、自分はまだ耐え易い。その自分にとってでさえ、これほどの苦痛を伴うのだ。これを009に思い出させ、クワイトの行き先を言わせるのは、酷すぎる。
だが。
(…く…そ…っ……)
クワイトの言葉。その指し示す場所。それを思い出す事は、圧倒的な苦痛と恐怖とを伴う。
巧妙だ、とライは思った。
(…こっちに…テレパスが居る事を…承知の上での……)
テレパスには、思考を読まれる人間が『考え』ていない事は読めない。だから、009がその場所の事を考えなければ、ライには(おそらく001にも)それが何処かを知る事はできないのだ。その場所の事を考えようとしただけで、ライですらこれだけ混乱するのだ。009だったら、どうなるか。そんな思考を読んだとしても、何が何だか判らないだろう。
言おうと思っても言えない。恐怖のあまり。さりとて、テレパスが読み取る事もできない。パニック状態の思考から意味のある事を知るのは、不可能に近い。
(…生半可な…ブロックよりも……タチが悪い……)
テーブルの端をきつく掴み、ライは無理矢理舌を動かした。
「…クワイトは……言った…『おまえ…の……」
頭を振る。
「……それは…つまり……その…場所は…っ……」
それ以上は言えない。どうしても言えない。それが何処を指すのか解らない。いや、解っている筈だ。だが、解りたく無かった。その場所の事を考えたく無いのだ。
「ライ様! ライ様っ!」
がくがくと肩を揺さ振られ、ライはハッとした。
「……あ……。アイラ…ニ…?」
大きく息を吐き、回りを見回す。
心配気な一同が自分を見ていた。
「あ……」
目を閉じて頭を振る。そして目を開き、ライはもう一度溜め息を吐いた。
「……すまん……」
「大丈夫…か…?」
心配そうな004に、ライは小さく頷いた。
「ああ……なんとか……」
「一体全体、どうしたんだ?」
不思議そうな002を見、ライは唇を噛んだ。
「……解らないんだ…いや、解りたくないんだ……」
「?」
「クワイトは確かに、009に行き先を言った。直接的に『どこ』と言った訳じゃない。だが、009には解った。解った筈なんだ。そして、009の『記憶』を共有した俺にも……」
だが、言えない。とライは言った。
「その事を……考えたくないんだ……」
ライが首を振る。
「……それを考えるのは、ものすごい苦痛と恐怖を伴う。俺には……とても……耐えられない……」
嘆息。
「すまん……」
「いや…その……」
002が困ったように一同を見回す。
暫しの沈黙。
そして、ライは言った。
「少し…時間をくれ……何とか…できないか……レッサート達と…相談してみる」
それへ、004が頷いた。
「悪いが……頼む……。あんたが…そうって事は……」
「ああ…」
004の言わんとする事を察し、ライが唇を噛む。
「……009に…尋くのは…やめてくれ……」
あまりに酷すぎる。
そう言うライに、一同は頷いた。



「結論から申し上げますと、ライは知りません」
数日後。再び会議室に集まった一同に向かって、カティサックは言った。
「え?」
002が目を丸くする。
「そりゃ一体……?」
「『同調』による記憶の伝達は、基本的に、『総て』を伝えます。ですから、本当なら、ライは知っている筈なのです。ですが……」
と、カティサックは言葉を続けた。
「009の『記憶』はあまりにも過酷です。その総てを知るという事は、ライ自身が009が受けた拷問を体験するに等しい。ですが、それはライに耐えられるものでは到底ありません。ですから、本当にその『総て』を伝え受けていたら、ライは発狂していた筈なのです」
だが、ライは発狂していない。それは何故か。
「ライは『壁』を作る事で、自分の精神を守ったのです。それ故、ライは発狂を免れました。つまり、ライの許容量を越えるような記憶は、その壁に阻まれて、ライには伝わらなかったという訳なのです」
「……なる…ほど……」
002が感心したように頷く。
「ライ自身には、どこが抜けているのかは判らないようです。ですが、ライの持つ009の『記憶』には断片的に抜け落ちている部分があります。『こんな事があった』というような大まかな記憶だけで、詳細が無いものがあるのです。丁度、恐ろしい体験をした人が、その事を忘れてしまう事があるように……」
そう言って、カティサックは口を閉じた。
沈黙が室内を覆う。
(……という事は……)
腕組みをし、004は唇を噛んだ。
(……ジョーに尋くしか…無い……てぇ事か……)
「役にたたなくて…すまん……」
沈痛なライの声に、004は首を振った。
「いいや…」
「そうだよ、あんたはよくやってくれたよ、ライ」
002が言い、同意を求めるように007を見る。それへ応えて007がこくこくと頷いた。
再び沈黙。
と。タイラントが口を開いた。
「ようするに、ジョーに尋くしかない。そういう事だろ?」
全員がハッとする。
「…そう…です……」
苦しげに、カティサックが答える。
それへ頷き、タイラントは席を立った。
「…タイラント…?」
真っ直ぐに004を見、タイラントは言った。
「俺が、ジョーに尋いてくる」
「なっ?」
その言葉に、002が立ち上がる。
「……ちょ…ちょっと待てよ!」
それへ視線を移し、タイラントは静かに言った。
「誰かが、尋かなきゃならない。そうだろ?」
「そ…そ…そんな……」
回りを見回すが、誰も何も言わない。訳の判らない怒りに任せて002は机を叩いた。
「そんな事を尋いたら、ジョーはっ!」
「この間のライの状態から推測するに、酷く苦しむ事になる…だろうな」
004が静かに言う。
「ハインリヒ!」
非難するような002の叫びに、004が溜め息を吐く。
「だがな、ジェット。ジョーしか知らないのなら……それしか無いだろ」
「ちょっと待てよ……」
あまりの事に002が椅子にへたり込む。
「……待てよ……ジョーは……。やっと…やっと、どうにか物が食べられるようになってきたんだぜ? 昼のうちなら、そんなに悪夢を見ずに眠れるようになってきて……。でも、夜は……一晩に何度も悪夢を見て、悲鳴を上げて……」
知らない訳じゃないだろ? と呟くように言う。
「そのジョーに……そんなの……酷すぎるぜ……」
不意にタイラントが動いた。つかつかと002に歩み寄り、胸倉を掴んで引きずり立たせる。
「…な……」
呆然とする一同を尻目に、タイラントは言った。
「お前、それでもジョーの仲間かよ!」
激しい口調。
「一体、何年あいつとつきあってるんだ! え? この状況をジョーが知ったら、何て言うと思う? 『思い出したく無いから尋かないでくれ』とでも言うと思うのか?」
「……あ……」
「ジョーが苦しむから尋ねたく無い? で? それで、クワイトを野放しにして、Neo Black Ghost は好き放題やらかすってか? それを知ってジョーがどう思うかも判らないのか? ジョーにとって一番苦痛なのが何か、それも判らないのかよ、お前は!」
「………」
タイラントに睨み据えられ、002が絶句する。
そして。
大きく息をし、タイラントは002の胸倉を掴んでいた手を放した。
目を閉じ、目を開き、004を見る。
「俺が……尋きに行く。……いいだろ、004……」
タイラントの言葉に、004はゆっくりと頷いた。
「……そう…だな……。多分、俺に尋かれるより……その方が、ジョーも気が楽だろう……」
自分や00ナンバーの誰かが尋ねれば、009は自分が『言えない』事そのものに対して罪悪感を持ちかねない。『何故、仲間に問われて言えないのか』と。クワイトの居場所について思い出す事に対する苦痛に加え、仲間に対して情報を教えられない自分自身に対して苦痛を感じかねない。
だが。と004は言う。お前はいいのか? お前も辛い思いをする事になるだろう、と。
その言葉に、タイラントは軽く嗤って見せた。
「もう、慣れた。……クワイトのおかげで…な」



「ねぇ、ジョー……」
緑に囲まれた病室のベッドで、うつらうつらとまどろむ009の傍らに座り、003は独り言のように言った。
「…ん……?」
目を閉じたまま、009が返事ともつかない声で答える。
「私……私ね…あなたと…戦う覚悟だったのよ……」
今考えると馬鹿みたいね、と003は笑った。
「……あなたが……あなたが、平和の敵になるのなら、私……あなたを倒さなきゃって……」
「フランソワーズ……」
ゆっくりと009が目を開く。そして、ふっと笑った。
「君は…ほんとに強いね……」
「ジョー……」
009を見詰め、そして、003は首を振った。
「…いいえ……そんな事ないわ……。だって、そう思っていたのに……いざ、あなたを……あの服を着たあなたを見た時……私は……何もできなかったんですもの……」
何も出来ず、呆然としてただけなのよ、と003は言う。それへ微笑みかけ、009は言った。
「でも…フランソワーズ…もし……もしも、僕が本当に狂ってしまって……人々を苦しめるようになったら……きっと、君は僕を止めてくれたよ……そうだろう?」
「それは………」
003は目を閉じた。
考える。何の感慨も無く、罪も無い人を殺す彼を。冷たい瞳で戦火を見下ろす彼を。自分の愛した彼が命懸けで守って来た筈の、歴史に名を刻む事も無い人々のささやかな幸せ。それを踏み躙って何の痛痒も感じない彼を。
それは、冒涜的な光景だった。これまでの年月、彼が悩み苦しみながら守ってきたもの。それが一瞬で破壊されるのを、黙って見ていられるだろうか?
目を開き、003は頷いた。
「……ええ……。私は……ジョー、あなたが守ったものを壊す者と…戦うわ。それが……たとえあなたと同じ姿をしていたとしても……」
「うん……」
009がにっこりと笑う。
「…それでこそ『003』だよ……」
「でも……。その事を考えるのは、とても恐いのよ……もし…もし、本当にそんな日が来て…そして、あなたを倒したとして……」
その後、自分はどうしたらいいのか。どうなってしまうのか。
震える003に、009が手を差し伸べる。
「ジョー……」
その手を取って、003はそっと頬に当てた。
「大丈夫だよ」
009が言う。
「君にそんな事はさせない……絶対に………」
僕が狂ってしまったら、君はきっと、僕を止めてくれるだろう。だからこそ。
「だからこそ……僕は耐えられたんだと思う……」
君がいてくれて良かった。
そう言って、009は微笑んだ。

扉をノックする小さな音。
それに、003は壁の時計を見上げた。
交代の時間までは、もう暫くある。エストラが診察に来る時間でも無い。
(何かあったのかしら…?)
やや不安に思いつつ、003は返事をした。
「どうぞ」
それに応じてそっと扉が開く。
「……タイラントさん……」
「悪い……」
そう言って室内に入り、タイラントは扉を閉めた。
「…何か…あったんですか……?」
タイラントの回りに漂う緊張した空気を察知して、003が顔を曇らせる。
(まさか……敵が……?)
けれど、襲撃を受けているのなら、もっと大騒ぎになっていてもおかしくは無い。 と言う事は、敵から通信が入ったとか、悪いニュースが入ったとかだろうか?
不安気な003にタイラントは軽く首を振った。
「いや、そういう訳じゃない。ちょっと…ジョーに話しがあって……」
「ああ…そうだったんですか」
003はほっと安堵の息を吐いた。
「邪魔して…すまない……」
「え…? …あ……いえ…そんな……」
そう言われ、003は自分が009の手を握ったままだった事に気付いた。慌てて、けれどそっと、009の手を置き、立ち上がる。
「私、席を外した方がいいでしょう?」
「ほんとに…すまない……」
「いえ…そんな……」
そして009を振り返り、003は微笑んだ。
「じゃあ、ジョー……」
「うん……」
009が頷く。
そして、003はそっと部屋を出た。

003が出ていった扉を暫く見詰め、それから、タイラントはゆっくりと009を振り返った。
(……ジョー……)
そこには、つい先刻までの柔らかな瞳をした少年は、最早、居なかった。
タイラントが唇を噛む。ひょっとして、009には自分の話が何か、薄々判っているのではないか、と思う。
「ジョー…」
溜め息のように呼びかけ、けれど、タイラントは質問の言葉を唇にのぼらせる事ができなかった。
(……くそっ……)
何をやってるんだ、と思う。自分から引き受けておいて。
拳を握り締め、タイラントは覚悟を決めた。
「ジョー。尋きたい事があるんだ」
そう言って一呼吸つき、続きを言おうとする。その瞬間。
「わかってる」
009が言った。静かな声で。
一瞬、言葉を失ったタイラントを見上げ、009は続けた。
「行き先…だろ?」
流石に『クワイトの』と名前を言う事は出来ず、それだけ言って009は唇を噛んだ。
「あ……」
端的に切り込まれ、タイラントには返す言葉も無かった。
(ジョー……)
沈黙。
そして、009がふと視線を逸らした。
「……いつか…誰かが……尋きにくると……」
覚悟はしていた。そう言う009を、タイラントは驚愕の瞳で見下ろした。
「だって…そうだろう……。倒さなけりゃ…………を……っ…………」
「ジョー!」
弱々しく首を振って喘ぐ009の肩を、タイラントが慌てて掴む。
「ジョー……」
乱れがちな呼吸。小刻みに震える体。クワイトの事を考える、その事が、009にとってどれ程の苦痛と恐怖を伴うか。それを知らないタイラントでは無い。
クワイトはどれ程の苦痛を009に与えた事か。その名前を耳にするだけで恐怖に震える程に、クワイトは009を苛み続けたのだ。
けれど。
尋かない訳にはいかない。その名を口にしない訳にはいかない。
「ジョー……」
そして、タイラントは言った。
「…何処に居る……クワイトは……」
その瞬間、009の瞳が恐怖に見開かれた。呼吸すらもできず、全身を強ばらせ……。
悲鳴をあげて、009は激しく身悶えた。

「ジョー! ジョー! しっかりしてくれ!」
「……ぁ……あ……っ……」
虚ろな瞳から涙が零れ落ちる。震える唇。恐怖の表情。タイラントは唇を噛んだ。
駄目なのか、と思う。クワイトの刻み付けた恐怖は、この先ずっと009を苛み続けるのだろうか、と。
(いや……)
その自分の思いを、タイラントは自分で否定した。
(ジョーが助け出されてから、どれだけだと思ってるんだ?)
まだ一ヶ月程度。クワイトの下にいた時間よりも遥かに短い。
(そうだよ……まだ……)
たったそれだけの時間しか経っていないのだ。体力の回復すら十分ではない。
(時間をかければ……)
そう、レッサートは言った。時間をかければ、時が記憶を風化させていく。その助けを借りながら、ゆっくりと癒せば。そうすれば。いつの日か、苦痛や恐怖を伴わずに、クワイトの事を考えられるようになるだろう、と。
だが。
今そんな時間は無かった。そうやって009の心が癒えるのを待つ間にも、クワイトが何処で何をしているか。
何処で、は判らない。しかし。何を、は明白だ。
(誰かを苦しめているか…その準備をしているか)
クワイトのする事と言えば、いずれにしろ、そのどちらかなのだ。
それに、とタイラントは思う。
009がここに居る事は、判り切っている。クワイトにその気があれば、兵を率いてここに来る事だって出来るのだ。そうなったら……。
(そんな事になったら……)
所詮は研究所に過ぎないここで、どれだけ持ち堪えられるか。Neo Black Ghost の全戦力を投入されたら、陥落は時間の問題だろう。それ以前に、クワイトが来たと判ったら、009はどうなるのだろうか? その名を聞いただけでこの有様なのだ。その姿を直接見、その声で命じられたら……。
逆らえないのではないか。そう思い、タイラントは唇を噛んだ。
(くそっ……)
「ジョー!」
しっかりしてくれ、と必死で呼びかける。
「…ぅ……ぁ……」
009は、歯を食いしばり、肩で息をして、恐怖と戦っていた。その姿を、タイラントは黙って見詰め続ける。
「ジョー……」
助けを求めるように伸ばされた手を掴む。
「……大丈夫だ……お前は…大丈夫だ……お前は負けない……お前は……」
009に言っているのか自分に言っているのか判らないまま、タイラントはそう呟き続けた。

「…タイ…ラント……」
苦しげに喘ぎつつ、009が呼びかける。聞き取れない程小さい、掠れた声。だが、それを聞き逃すタイラントでは無かった。
「ジョー?」
問い返す。
「みんな…に……言ってくれ……僕が……」
そこで低く呻き、009は言葉を続けた。
「僕が…みんなを…連れて……行く…と……」
(え?)
「な…んだって…?」
(連れて行く? ジョーが? それは……)
「僕が…ドルフィン号を操縦して……行く…と……」
「ジョー!」
あまりの台詞にタイラントが叫ぶ。
「ちょ…っと待て、ジョー。それは……」
(自分も行く、という意味か? クワイトの所へ?)
愕然とするタイラントを、009はゆっくりと見上げた。
苦痛と恐怖を映した、けれど、強い意志を秘めた瞳。
「タイラント…僕が……僕自身が…決着を付けなきゃならない……そう…だろう…?」
「ジョー……」
(……『まさに天性の戦士』か……)
クワイトの言葉を思い出し、タイラントは唸った。確かにそうだ。ジョーは、あくまでも闘う事を選ぶ。
「…わかった……」
タイラントの答えに小さく頷き、009は更に言葉を続けた。
「…だけど……タイラント……」
「?」
009が俯いて身を震わせる。その肩に手を置き、タイラントはじっと待った。009が落ち着きを取り戻すのを。
長い沈黙。
そして、009は掴んでいたタイラントの腕を一層強く握り、囁くように言った。
「…けど……君には…今……教える……」
(な…に……)
「だ…から……」
009が顔を上げる。泣き出しそうな瞳。
「だから……一緒に…来て…くれ……僕が……ちゃんと…………の所に…行く…ように……」
土壇場で、逃げ出さないように。
「ジョー……」
一瞬息を飲み、けれど、タイラントは即座に了承した。
「ああ……約束する」
「ごめん……」
「謝るなよ」
「他の皆には……」
「黙ってる。その時まで」
それでいいんだろう? そう問うタイラントに、009が頷く。
「ただし」
とタイラントは言葉を継いだ。
「…ただし……ジョー…お前が……」
ギリ…と歯を食いしばり、タイラントは続けた。震えそうになる声を抑えて。
「……お前が、奴の名前を口に出来たら、だ」
「な……」
思わず009が身を引く。恐怖に脅えた表情で。だが、タイラントはそれを許さなかった。腕を引き寄せ、顎を掴んで視線を捕らえ、たたみかける。
「それが条件だ。奴の名を聞くだけで脅え、それを口にする事すら出来ないお前が、どうやって決着を付ける?」
「………」
009は答えられない。
「言え。その上で…居場所を教えるんだ。できない、とは言わせないぜ、ジョー」
タイラントの言葉に009が弱々しく首を振る。恐怖に見開かれた瞳からは涙が零れ落ち……。けれど、タイラントには引き下がる気は無かった。
(そういう事だろう…? ジョー……)
009が自分で言ったのだ。『君には、今、教える』と。それはつまり、問い詰めろという意味だ。タイラントはそう理解した。
実際、クワイトと本気で対決するつもりなら、名前を聞くだけで半狂乱になっていたのでは、どうにもならない。だからと言って、クワイトを倒すのを先延ばしにはできない。それが009に判らない筈は無い。
(そう…だよ……ジョーは『いつか誰かが尋きにくると、覚悟はしていた』と……)
そう言ったのだ。
(……と言う事は……だ)
009の答えは、あらかじめ用意されていたものだろう。ずっと前から、009は自分自身がクワイトと決着を付けようと、そう心に決めていた筈なのだ。
(多分……)
とタイラントは想う。
(……あの時、この研究所から『脱走』した、あの時。ジョーは……クワイトを倒しに行くつもりだったんだろう……)
本当に、信じられない精神力だ、と思う。
だが。その精神力をもってしても、一人ではクワイトに立ち向かえないのだ。その事が解っているからこそ、009は言ったのだろう。自分が逃げ出さない様に一緒に来てくれ、と。
(いいぜ……ジョー……お前が望むのなら……)
俺がお前を追いつめてやる。そう、タイラントは思う。
(そうすれば…お前は……)
自身の心に刻まれた恐怖とだけ闘えばいい。逃げ出さないようにする事に、気力を使う必要は無い。
「さあ……言えよ……」
悲鳴をあげる009を押さえつけ、タイラントは言い募る。
「…言えよ…ジョー……クワイトの、居場所だ……」
「…ゃ……ぁ……っ……!」
逃れようともがきつつ、けれど、タイラントを掴んだ手を009は放さない。
相反する行動は、そのまま、009の葛藤を表しているかの様で。
「ジョー……」
低く呟き、タイラントはその手をきつく握った。



既にどれ程の時間が経ったのか。
009には勿論、009だけを見続けているタイラントにも、それは判らなかった。
カティサックを通じて、医療センターのスタッフに話は行っている。それ故、009がどれ程泣き叫ぼうとも、誰も様子を見にすら来ない。定期的に行われている診察の時間だってとっくに過ぎているだろうに、誰も入って来ない。
「言えよ……」
もう、何度目になるか判らないその言葉を、タイラントが言う。
気力も体力も、もう殆ど使い果たしてしまったかのような009が、苦しげに喘ぐ。
それでも。
タイラントは退かない。退く訳にはいかない。
「……言うんだ…ジョー……」
口を開きかけては閉じる。それを何度繰返した事か。
けれど。
ついに009がその名を口にする。
「……ク…ワイト……は………っ……ぁ……」
「クワイトは?」
首を振り、掠れた悲鳴を上げる009を、タイラントは容赦無く問い詰めた。
「ちゃんと言え、最後まで。……クワイトは、何処に、いるんだ?」
震える肩に手を置き、タイラントが呟くように想う。
(……もう……限界…か……?)
自分だって、かなり辛い。まして、009は……。
(くそ……俺が先に音を上げてどうする!)
「ジョー……」
唇を噛み、タイラントは009を抱き寄せた。そして、言う。
「言える筈だ。お前はクワイトと決着を付けるんだろう? そのお前が、奴の居場所を言えない筈が無い。違うか?」
微かに頷く気配。
そしてまた、沈黙。
荒い息。震える体。
ゆっくりと、009が顔を上げる。
目を閉じて唇を噛み、目を開いて宙を睨む。
「……くっ…………」
歯を食いしばって息を吐き、009は再び口を開いた。
「…クワイト…は……っ………」
タイラントは何も言わず、ただ、009を見詰める。
「………バイス…の…基地………」
大きく息をし、009はタイラントを見上げた。その瞳に、タイラントが息を呑む。
(ジョー……!)
それは、あの瞳だった。
タイラントが初めて009を見た時。あの時と同じ、強烈な意志を秘めた、何者にも屈しようとしない、強い瞳。
そして、009は言った。
「クワイトは、バイスの基地にいる。その、地下に……」
(…な…ん…だって…?)
「クワイトは言った。『お前の恐怖が始まった場所。私はそこに居る』と。その言葉が指し示す場所は……」
荒い息を吐き、それでも009は言葉を続けた。
「…バイスの基地…その……地下牢、だ」
それが限界だった。
悲鳴は最早、声にすらならなかった。総ての気力と、そして体力をも使い果たした009が、弱々しくもがき、そして気を失う。
それをベッドに横たえ、タイラントは内線の受話器に手を伸ばした。
一回目のコールが鳴り終わりもしないうちに、応えがある。
「終わった……」
そう言ったところで、手から受話器が滑り落ち……。
タイラントの意識もまた、そこで途切れた。



(約…9時間……か……)
ベッドに寝かされたままぼんやりと天井を見上げ、タイラントは呟いた。
それは、009がクワイトの居場所を口にするまでに要した時間だ。そんなに長い時間よく持ったと思い、そんなに短い時間でよく言えたと想う。

医療センターの一室。
倒れたタイラントが気付いたのは、この部屋だった。目を覚まして暫くボーっとしていたところへエストラがやって来て、一晩はおとなしくしているように、と言い渡された。9時間というのは、その時にエストラから聞かされた。
(そうだよ……)
最初は自分がクワイトの名を口にしただけで、半狂乱になっていたのに。
脅え、慄き、泣き……けれど、圧倒的なまでの恐怖を捻じ伏せて、009は言った。
(ものすごい精神力…だよな……)
これまでに何度そう思ったか判らない。それでも。改めて思う。凄まじい、と。
(しかも……)
問題の『クワイトの居場所』が、あんな所だとは!
よく009がそれを口にできたものだ、と今更ながら思う。
バイスの基地。それは確かにクワイトの言う通り、009にとって『恐怖が始まった場所』だ。
(だが……)
本当に、そこなのか? と思う。バイスの基地は、放棄されたのだ。そんな所に居るのだろうか? クワイトが?
考える。常識的には、有り得なそうな話だ。00ナンバーに場所を知られ、あまつさえ襲撃を受けて放棄した場所なのだ。バイスの基地は。そんな場所に本部を移すとは、考えずらい。
(常識的には……か……)
ふん、と嗤う。クワイトと常識。これほどかけ離れた組み合わせも、そうそう無いだろう。
(クワイトは…冗談をやるような奴じゃない……)
実は、嘘をついた事も無い。少なくともタイラントは、クワイトが嘘をつくのを見た事も聞いた事も無い。信じられないような事や、正気とも思えないような事を言いはする。必要な事を言わなかったりもする。だが。クワイトの言う事はいつでも本気だし、本当の事だった。だから余計に始末が悪いとも言える。
(クワイトがそう言った以上、奴はそこに居るんだろう……)
『私はそこに居る』とクワイトは言ったという。つまりそれは、そこに来いという意味に違いない。
(確かに……)
とタイラントは思う。今の009の状態、とにもかくにも立ち直りつつある、この状態。これがクワイトの予想通りなのだとして……そして、クワイトが一旦00ナンバーの元へ帰らせた009を再び支配下に置こうと考えるのなら……。
(ジョーと再会するのに…あそこは、絶好の場所だろうな……)
009にとっては、あまりにも不利。クワイトにとっては、圧倒的に有利。
(やる前から…勝負がついてるようなものだ……)
009がクワイトに対する恐怖を克服するのは、ただでさえ、並大抵の事では無い。
タイラントは、最低ラインとして『クワイトの名前を口にできる事』を要求した。そして、009は、どうにかそれをクリアした。
(…だが……)
とタイラントは思う。
(今のジョーが…クワイトに会ったら……)
それが『バイスの基地の地下牢』などという特殊な場所で無いとしても、果たして、平静を保てるだろうか?
(……十中八九…無理だろうな……)
言いなりになる所まではいかないかもしれないが、とても戦えないだろう。
まして、それがバイスの基地の地下牢であったら。
(辿り着くだけで……すべての気力を使い果たしちまうだろう…な……)
そう思い、タイラントは舌打ちした。
(なるほど……そういう事かよっ……)
よく考えてやがる、と唸る。
(つまり…00ナンバーのところに戻ったジョーが……バイスの基地の地下牢に、自分から行ける程度までは立ち直るだろう…ってのが、クワイトの読み……か)
もし009がそこまで立ち直れなかったとすれば、話はもっと簡単になる。
(その場合は、クワイトはここに…来ればいい)
009の前に姿を見せるだけでいい。それだけで、009は屈するだろう。恐怖のあまり。
しかし。
もし、009がそうなったとしたら、クワイトは興味を失うに違いない。クワイトは009が逆らおうと試みるからこそ、手元に置きたがるのだ。
(…『クワイトは逆らわれる事を嫌う』か……)
クワイトを知る総ての者の認識。だが、それは誤りなのだ。
(奴は、逆らわれる事が好き…なんだ……正確に言うなら、逆らおうとする程の気力がある奴を屈させるのが。だから……)
バイスの基地の地下牢にすら来られず、何を言わなくてもクワイトの前に屈するようであれば、もう009に興味は無いのだ。そして。もし来られるようなら、クワイトは圧倒的に有利な状況下で、009に再び恐怖を思い出させ、自分への服従を強制できる。あの場所では、009がどう頑張っても、クワイトに逆らう事は不可能だ。できる訳が無い。
(すべて……思い通り…かよ……)
冗談じゃない、と想う。
(そうは…させるか……絶対に……)
これ以上クワイトの思い通りにさせるか、とタイラントは唇を噛む。
(ジョーは…一人でお前と対峙する訳じゃないんだぞ……)
仲間達が共に行くのだ。
大丈夫だ。
自分に言い聞かせるようにそう思い、タイラントは目を閉じた。



タイラントの要請で、会議室には00ナンバー全員が(無論、009と睡眠中の001を除いて、だが)集まっていた。
それは、009の『みんなに言ってくれ』という言葉に起因していた。タイラントが004にそう言い、全員を集めるようにと依頼したのだ。
そして。
タイラントは009の言葉を全員に伝えた。『自分がドルフィン号を操縦して、みんなを連れて行く』という言葉を。それから少し考え、009が自分にはその場所を言った事を話す。口止めされた事も含めて。
「何にせよ、ジョーは自分で決着を付ける事を…望んでいるんだ」
そう言ってタイラントが口を閉じ、会議室は沈黙に覆われた。
「………」
まさか009が『行く』と言うとは。それは全く、タイラントにとってさえ、予想外の事態だった。
「どう……する…よ……」
002が問いかけとも付かない調子で呟くが、それに答える者は居ない。
誰もが困惑していた。
009にクワイトと闘う意志があるという事は、喜ぶべき事だろう。
だが。
「あの…さ……タイラント……」
躊躇いがちに007が口を開いた。
「…その…率直に言って…どうなんだろう……ジョーは……クワイトと会ったら……」
「平静でいるのは……難しいだろうと、思う」
「そ…っか……そうだよな……」
007が頷く。それを横目で見つつ、008は言った。
「でも、ジョーには場所を教える気は無いんだろう?」
「そうだ」
タイラントの答えに002が口を挟む。
「けどよ、タイラント。お前は知ってるんだろ? その場所を、さ」
「ああ」
そう肯定し、タイラントはすかさず言葉を続けた。
「だが、俺は教えないからな。ジョーに、そう約束してるんだから」
「う…」
002が黙る。それへ、006が声をかけた。
「それならいい案があるアルね。ライはんに頼めばいいアルよ。ライはんはテレパスという訳でアルからして……」
なるほど! と答える007と006を睨み、タイラントは断言した。
「そんな事をしてみろ。ライの命は無いからな」
「……え……」
「ライが言う前に、殺す」
「そ…そんな乱暴な……」
007が目を剥く。それに構わず、タイラントは更に恐ろしい事を平然と言った。
「001だって、同じだからな」
どうやらそう言おうとしていたらしい006が、慌てて口を手で塞ぐ。
(無茶苦茶アルよ〜)
目で訴える。が、タイラントはそんな事に構う気は無い様だった。
(……はぁ………)
何となく、全員が視線を宙にさ迷わせる。
と。
「タイラントさん……」
不意に003が口を開いた。全員が、ハッとする。
その視線を集め、けれど気後れする様子も無く、003は言った。
「ジョーが…そう言ったのよね? 自分が連れて行く…って……」
ゆっくりとした口調。それへ、タイラントは頷いた。
「ああ…そうだ……」
小さく頷き、そして、003は一同を見回した。
「だったら…もう、それについて考える事は無いんじゃないかしら?」
「…え……?」
003の言葉に00ナンバー一同が目を丸くする。
「フランソワーズ……?」
「敵の…Neo Black Ghost の、真の総裁であるクワイトの居場所はジョーが知っている。そして、私達を連れていってくれる。だったら、それで十分じゃないのかしら? 私達が考えるべきは、その他の……いつ行くのかとか、誰が行くのかとか、その間この研究所の守りをどうするのかとか……そういう事ではないのかしら?」
一語一語を噛み締めるように、003は言う。それを見、一同を見回し、タイラントは唸った。
(……強い……)
003が009に特別な感情を持っているだろう事くらい、いかなタイラントでも気付く。だから、009が苦しむ事に最も心を痛めているのは、003だろうと思う。009がクワイトと対峙すればどうなるか、その想像だって付く筈だ。
にもかかわらず。
(ジョーの希望…というか決意を……無条件で受け入れようというのか……)
それも、003だけが。他の00ナンバー達が戸惑う中で。
(………?)
何となく既視感を感じ、タイラントは内心で首を捻った。何となく、覚えのある状況。
(何…だ……?)
だが。物思いに沈みそうになるタイラントの思考は、004の言葉で引き戻された。
「わかった」
「ハインリヒ?」
007が問い返す。それを見、004は言葉を続けた。
「フランソワーズの言う通りだ」
「お…おい……ちょっと……」
「俺達は、全員で戦う。そうだろう? その『全員』には、ジョーも含まれる。違うのか?」
「あ……」
「ジョーがクワイトの所まで、連れて行ってくれると言うんだ。だったら、俺達はその先の事を考えればいい。ジョーが一人で、クワイトと戦うという訳じゃない。俺達が…ジョーを含む俺達全員が、クワイトと戦い、決着を付けるんだ」
そうじゃないのか? と004が問う。
002が007を見、007が006を見、006が008を見、008が005を見……そして、全員が頷いた。
「そうだぜ」
「その通りだよな」
「異議無しアルね」
「そうだよな」
「ん」
それを確認し、004が言う。
「…よし。なら……まずは、ドルフィン号の点検を……」
「俺が引き受ける。ピュンマ、ジェロニモ、手伝ってくれよ」
002の言葉に005と008が頷く。
「頼む。それから、ここの守りについては……張大人とグレート…」
「了解アルね。チアフルはんとディグはんに、相談してみるアル」
「私は…」
と003が口を挟む。
「……用意するものがあるわ……」
「?」
その言葉に一同が訝しげな目をする。それへ、003が笑う。
「重要なものよ。ジョーの……」
その先を、しかし、003は言わない。
「……ああ……」
なるほど、と004が頷く。
「なんだよ…ハインリヒ」
教えろよ、と言う002に006が声をかける。
「ワテ、判ったアルね。フランソワーズ、流石アル。いいトコ気付くアルね」
「なんなんだよ」
「ジェット、ニブイアルね〜」
「んだとぉ?」
「騒ぐな!」
一喝し、004は003に言った。
「その件は、任せる」
「ええ」
「俺は…とりあえず、エストラと相談してみる」
いつ、についてはそれから考える。そう言って、004は話を締めくくった。



出撃準備が着々と整っていく中、一番難航したのは……人選だった。
00ナンバーは、誰も彼もがクワイトと決着を付けたがっていた。
ライも行く事を望み、そうなるとアイラニは付いて行くと言い張った。
いつもなら留守司令を引き受けてくれるディグも、今回に限っては行きたがった。
タイラントに至っては、自分が人選の対象となる事そのものを拒否する有様だった。
(頭が痛い……)
004が悩む。
だからと言って、希望者全員で行くという訳にはいかないだろう。そうなれば、この研究所は殆ど無防備に等しくなる。それはまずい。いっそのこと、本当に全員で、誰一人ここに残さず、行くか? と思い、004は溜め息を吐いた。
(いっくらなんでも、ドルフィン号にそんな乗れるかっての……)
置いていくなら、まず、誰だ? そう考える。
(まずは……ライ…か)
出撃希望者の中では、唯一の非戦闘員だ。
(ライが残るのであれば、アイラニも残るだろう)
そう思う。そこで、004は、ライの説得を試みる事にしたのだった。



チアフル自慢の地下菜園。ライを探しにやってきた004は、そこでライを見つけた 。だが。
「あ。ハインリヒ。丁度いいところに……」
声をかけようとした途端、007から先に声をかけられてしまう。
「?」
菜園の一画に設えられたダイニングセット。そこには、007の他に、006とチアフルとタイラント、そしてライが居た。珍しくアイラニが居ない。
「……どうした?」
何となくホッとした調子で手招きする007。その様子に首を傾げつつ、004はテーブルに歩み寄った。
「どうした?」
「それが…その…アル……」
緊迫した、が、険悪という訳でもない雰囲気。黙り込んでいるライとタイラント。頭を抱えているチアフル。
まあ座れよと007に言われ、とりあえず椅子に座る。006がポットから紅茶を注ぎ、004の前に置いた。
「…すまん……」
一口飲み、一同を伺う。そして、004は再び問い掛けた。
「で?」
だが、006と007は顔を見合わせてライとタイラントの方を伺うばかり。チアフルは『俺パス』という様に軽く手を振る。ライは沈黙したまま身動ぎすらしない。
(…ったく……何だってんだよ)
内心で溜め息を吐き、004は指名した。
「で? 説明しろよ、タイラント」
ゆっくりと、タイラントが004を見る。それからチラリとライに視線を向け、タイラントは口を開いた。
「ウィッチ…て奴の話は…したっけか?」
「…? ……ああ、本部の医療センター長だという…?」
「そうだ。ここ暫く……もう何年になるかな。6年か7年か…もっとか……? とにかく、もう大分長い間、本部の医療センター長を勤めている奴だ。俺のサイボーグ体の強化手術をしてくれたのもウィッチで……ジョーが Neo Black Ghost 本部に居た間は…まぁ、主治医みたいなもんだった。生体学者にして医師で……クワイトの…」
そこでタイラントは言葉を切った。クワイトの、何だろうか? と思う。
(部下…じゃないよな。友人…か?)
それも違うような気がする。
「…まぁ、組織内で唯一、クワイトと対等に話ができる……人物だ」
「………」
それで? という様に004はタイラントを促した。
「で。その、ウィッチが……」
「………だ…」
ライがぼそぼそと言う。
「は?」
聞き取れず、004が眉を潜める。
「なんだって?」
「……妹…だ……」
「………え?」
聞き間違いか? と思い、004はタイラントを見た。
「妹、だそうだ」
004の困惑を見て取って、タイラントが駄目押しをしてやる。
「は…?」
どういう反応をしていいのか判らず、004は黙り込んでしまった。
沈黙。
「……いつ…判った…んだ…?」
「さっき」
004の問いにタイラントが答える。
「なんで…また……?」
漠然とした問いかけ。それへ、タイラントが問い返す。
「そりゃ、『何で今まで判らなかったのか?』って意味か? それとも『何で判ったのか?』って意味か?」
「……両方…かな……」
「ライ……」
タイラントに促され、ライが深い溜め息を吐く。
「……俺と…クワイトの経緯は…前に話したよな」
「ああ」
「あの時…言わなかった事がある。あと…若干、不正確だった事が」
「何?」
「俺には……妹が一人いた。妹のエカテリーナは俺と三つ違いで…当時は医学生だった」
嘆息。
「あの話をした時、俺は、『当時の俺には、知能の発達が阻害された友人がいた』と、そう言ったと思う。で、その『友人』に、俺は、脳手術を施した…と」
004が頷く。その『友人』こそが今のクワイトなのだ。
「だがそれは…『俺の友人だ』というのは……不正確なんだ」
「?」
「……正確に言うなら、そいつは俺の友人では…なかった。妹の……恋人だったんだ」
「え?」
「クワイトは……俺が『クワイト』にしてしまう前のあいつは、妹の恋人だったんだ」
あまりの展開に、004は言葉も無くライを見詰めるばかりだった。
「俺は…当時の俺は、妹が、何だってそんな馬鹿な男とつきあっているのか、全く理解できなかった。妹は…俺が言うのもなんだが、頭が良かった。あちこちの研究室から誘いを受けるくらい、頭が良かった。その妹が……どうしてあんな奴が好きなのか、俺は全く理解できなかった。だが……。妹が本気だって事は、俺には判った。皮肉にも、テレパスだった俺には……。妹は奴と…一生を共にしたいと、大真面目で考えていた。俺はそれが……」
ライが俯き、唇を噛んだ。
「それが……嫌だったんだ」
沈黙。
「……だから、俺は…あの男に……ガモ博士のレポートを俺に見せてくれた男に…協力を約束した時、奴を連れて行った。それは……脳手術で奴の知能を常人並…あるいはそれ以上…にできるかもしれないと、そう思ったからだった。だが、それだけじゃなかった。俺は、妹の側に…奴を置いておきたくなかったんだ。俺が奴を連れて行けば……そうすれば、妹は…そのうちに奴を忘れるだろうと……そう……思った」
深い溜め息を吐き、ライは首を振った。
「だが…妹は……追って来た……。俺をか…あるいは…クワイトをか……。どちらを追って来たにしろ……」
行き着くところは同じだったのだ。
長い沈黙。
「……それが…ウィッチ…なのか…?」
004の問い。
「…多分……間違いない…と……思う……」
ライが答える。
004はタイラントに視線を移した。
「さぁ…俺は…何とも……」
そう言って首を傾げ、タイラントは言葉を続けた。
「ただ……確かに…似てる…と思う。そう言われれば……髪の色も目の色も……ウィッチの方がどっちもライより明る目の色合いだが……」
良く似ている、とタイラントは言う。
ウィッチの瞳は光を透かした氷山の色。ライのそれは月光に照らされた氷山の色。ウィッチの髪は日溜まりの麦藁色。ライのそれは夜露に濡れた麦藁の色。光の当り具合で色合いが変わっても、それは同じ物の色だ。
「なる…ほど……で…?」
何故、今になってそれが? と004が問う。だが、ライは黙ったままだ。それを見遣り、今度はタイラントが答えた。
「……さっき、俺がここで…006達と話をしてたらライが来て……で、ウィッチのイメージを『見せて』欲しいと…言ってきたんだ。気になる事があるから…って。ジョーに同調した時にウィッチの映像を見て…それで……」
もしや、と思ったんだそうだ。そうタイラントは言った。
「で。別の人間の目を通したイメージでも確認してみたい、と」
「………ライは、その『ウィッチ』に会った事は無かったのか?」
「無かったそうだ。ウィッチが本部の医療センターに来たのは、ライが本部から出て行った…というか追い出された…後だったから。タイミングが良かったのか悪かったのか……」
そう言って、タイラントは肩をすくめた。
「で、だ。問題は…ていうか、問題になるだろう事ってのが……」
004を見、タイラントは言葉を続けた。
「今のウィッチの居場所なんだ」
「?」
「ライによれば…というか、ライの中のジョーの記憶によれば、クワイトはウィッチを連れて行ったそうだ」
「なに?」
「アファオ山中の本部からクワイトが逃げた時、ウィッチを…ウィッチだけを、連れて行った…そうだ」
「なんだって?」
「だから、ウィッチは今、多分、クワイトと一緒に居る……」
どうする? とタイラントに問われ、004は絶句した。
「どう…って……」
そんな事を言われても、と思う。
「ライの話を聞いて…何となく判った。ウィッチの行動が……」
タイラントが言う。何が判ったんだ? と言いた気な004を見返し、タイラントは続けた。
「ウィッチとクワイトの関係…てのは、有名な謎だったんだ」
そしてタイラントは二人に纏わる『伝説的』な逸話を語った。クワイトがウィッチに『直属の部下にならないか?』という誘いをかけ、ウィッチがそれを断った…という逸話を。その時にウィッチが『あんたの頼みなら、何でも聞いてあげる』と言ったという話を。
「……ウィッチは、多分、クワイトを……」
今でも好きなのではないか? それ故に、クワイトの望みは総て叶えると…そう言い、そう行動しているのではないか? 003が009の『自分がクワイトと決着をつけたい』という、一見無謀とも思える希望…というか決意を、無条件で受け入れようとするように……。
沈黙。
「……で、だ。俺達はクワイトを倒す。それはいい。だが……」
タイラントはライを見遣り、004を見た。
「…ウィッチが…邪魔をしてきたら……どうする?」
答える者は居なかった。



003の差し出したもの。それを見て、009は息を呑んだ。
「フランソワーズ……」
「ギルモア博士とエレスさんとレッサートさんに協力して貰って……」
造ったのよ、と003が笑う。
「……ありがとう…。ほんとに……」

手の上にあるのは、布の塊。
無論、普通の布では無い。
様々な特殊加工を施され、そして、服の形に縫い上げられている。
色は、赤。そして、黄色。
血と命の赤。
陽光と希望の黄色。
それは、00ナンバーのチームカラーとでも言うべき色だった。



決戦日と定めたその日まで、あと3日。

難航していた出撃メンバーの人選は、001が目覚めたところで、あっさり片付いた。
全員で行けばいい。001はそう言った。『ココ ノ マモリ ハ ボク ガ ヒキウケル』と。
確かに。
001は、目覚めてさえいれば、00ナンバー全員が束になったよりも強い。たとえ Neo Black Ghost 全軍の襲撃を受けたとしても、持ち堪えられるだろう。最悪、全員をテレポートで移動させる事も可能だ。
『タダシ』と001は続けた。『くわいと トノ ケッチャク ハ キミタチ デ カナラズ ツケテ クレタマエ』そっちの手助けは一切できないのだから、と001は言った。『ソレト ボク ガ ヨル ノ ジカン ニ ハイル マエ ニハ カナラズ モドッテ キテ クレ ヨ』そうじゃないと、とても困る。
勿論、異存のある者は居なかった。

そして今、出撃前の最終段階の打ち合わせをする為、この研究所に居る全員が、会議室に集まっていた。
居ないのは、司令室に詰めている001。そして、009と彼を呼びに行ったタイラントだけだった。



服を手に取り、009はしみじみとそれを眺めた。
(もう一度……これを着る事になるなんて……)
思ってもいなかった。
(……いや、違う……)
009は苦笑した。
(『できないと思ってた』だ……)
そう。もう二度と『009』として戦う事はできないと、そう思っていたのだ。
目を閉じる。
深呼吸を一つ。
そして、009は服に袖を通した。

微かに素材の香り。
着慣れた感触。
サイズは、勿論、以前のものと全く同じだった。ボタンの位置も、何もかも。
目を瞑ったままで服を身につける。それは造作も無い事だった。
指が覚えているから。
マフラーを結ぶ。
そして。
一瞬、躊躇い、009は目を開いた。



応えを待って扉を開け、そこで、タイラントは動きを止めた。
部屋の中には、真紅の戦闘服に黄のマフラーを垂らした少年が、やや俯き加減に立っていた。
「……ジョー…」
明るい栗色の髪をしたその少年が、ゆっくりと顔を上げる。
澄んだ茶の瞳が、真っ直ぐにタイラントを見る。
(これが……)
このいでたちを見るのは、初めてでは無い。けれど。捕らえられ、厳重に縛り上げられ、十重二十重に取り囲まれた状況下での姿は、本来の姿とは言えないだろう。
それ故に。やはりこれは、タイラントが初めて見る、009の『本来の姿』だった。
(……これが…『009』…か……)
Black Ghost が生み出した、試作サイボーグ。それまでに造られた試作ナンバーのデータを反映させ、当時の技術力を結集して造ったと言われる、限りなく完成品に近いサイボーグ。悪名高き『裏切者』たる00ナンバー達のリーダーであり、Neo Black Ghost 内で『最強の敵』と呼ばれた、009。
それが、タイラントの目の前に立っていた。
「…タイラント…?」
戸惑ったような声で呼びかけられ、タイラントはハッとした。
「あ……。準備は…できてるみたいだな」
「うん」
009が頷く。
「…どうか…した? 僕…どこか変…かな…?」
「いや…」
不安そうに聞かれ、タイラントは慌てて首を振った。
「そうじゃない……その……何ていうのかな……」
苦笑。
「変な言い方だが…『これが009か』と。そう…思った」
「え?」
「初めてなんだよ。お前が……00ナンバーの服を着たトコを見るのは」
「あ……ああ……」
そうか、と頷く。
(タイラントに最初に会ったのは……)
Neo Black Ghost 幹部の正装を着せられた直後だった。そう。もう二度とこの服を着る事は無いと、そう思った時だったのだ。
(あれから……どのくらい経ったんだろう…?)
もう長い間、あの黒い服を着ていたような気がする。けれど、初めてそれを着させられた時は、まるで昨日のようにも思えて……。
「ジョー……」
軽く肩に手を置かれ、009はハッとした。
「大丈夫…か……?」
心配気な声。
「ご…ごめん……」
それを見下ろして、タイラントは小さく溜め息を吐いた。
(本当は…まだ……)
とても闘える状態じゃない、と想う。無論、現在の主治医であるところのエストラから、許可は出ている。『サイボーグ体としては、十分、戦闘に耐え得る状態です』という、非常に含みのある表現での許可ではあるが。
だが。
これは、009自身が望んだ事なのだ。
であるならば。
「しっかりしてくれよ。お前は……『009』なんだろ?」
「あ……」
009がタイラントを見る。
「会議室で、皆がお前を待ってる」
「うん」
頷き、そして、009は笑った。



会議室の扉が開く。
その向こうに009の姿を見た、その時。
誰からとも無く、全員が立ち上がった。

扉を開け、009は会議室の中に足を踏み入れた。
正面に、004とライ。左側にはギルモアや003をはじめとした、懐かしい面々。右側には、ここ一ヶ月と少しの間、ずっと自分の治療に当たってくれたエストラ以下の医療センタースタッフ達と、ディグやチアフル他の面々。
それら一同が、立ち上がって自分を迎えてくれる。
「ジョー」
正面の004が、自分とライの間の席を示す。
タイラントに軽く背中を押され、009は半ば呆然としたまま、歩を進めた。

009が正面に立ったところで、004とライを除く他の者達が席に座る。
「ジョー」
「…ハインリヒ……」
何を言えばいいのか判らない、というような瞳で009が004を見る。それへ笑いかけ、004は言った。
「殆どの準備は終わってる。あとは、最終チェックの段階だ」
その言葉に軽く瞬きし、そして、009は頷いた。それから、ライに視線を移す。
「ライ……ありがとう」
「……009、俺は……」
何か言いかけようとするライへ、009は首を振った。
「君も君の仲間も、最善と信じる事を…そして、出来る限りの事を、してくれた。そうだろ?」
その事に。感謝を。

そして、009は一同を見回した。
Neo Black Ghost と闘う者達を。
「みんな……」
全員が、009を見る。
つと目を伏せ、息を吐き、瞳を上げる。
「…決着を、つけよう。……クワイトを倒し、Neo Black Ghost を、眠りにつかせよう」
永い眠りに。
009の言葉に、全員が頷く。
それへ頷きかえして、009は笑った。
大丈夫。僕達は絶対に勝つ、と。



微かに聞こえるのは、エンジンの鼓動。
考えてみれば、自分はサイボーグで、体の殆どは機械なのだ。その意味では、自分とドルフィン号もまた、兄弟のようなものかもしれない。
懐かしい操縦席に座り、009はそう想う。

「最終チェック、完了。全機構異状無し。いつでもオッケーだ」
002の言葉に頷き、003は管制室へ通信を送った。
「こちらドルフィン号、発進準備、完了しました」
『りょ〜か〜い』
臨時管制官のチアフルが、あっかるい声で応える。
『…あ、ちょと待ってね〜』
がさがさというマイクを擦ったような音。そして。
『諸君……』
ギルモアの声が、ドルフィン号のコクピットに響いた。
『…諸君……どうか…無事で……』
それ以上言えず、ギルモアが黙る。
「大丈夫アルね博士。全員一緒アルよ」
「心配しないでくださいよ」
「キッチリ、決着つけてきますって」
006、008、002が口々に言う。そして。
「ジョー……」
「……うん」
003に促され、009が口を開いた。
「博士…」
『……』
「…いってきます」
『………気をつけてな…』
「はい…」
再びガサゴソという音がして、チアフルにマイクが戻される。
『え〜っと、臨時気象観測班のエレスから報告』
そこで言葉が途切れる。
スピーカーの向こうから、ん? なんだ? という呟き。何やら紙を広げるような音。
『っと……きた…は…? じゃない、北半球は……概ね、晴……アジア地方に雲……アラスカでは雨の模様……オーストラリアは……晴れるでしょう?』
なんじゃこりゃ、とチアフルが呟く。後ろで誰かがごちゃごちゃ言う気配。
『あ…ああ、ごめん。裏側を読んでたわ。……えーと、上空は晴天。高度1万4千以上には若干の乱気流アリ。注意のこと、だって』
「……了解…しました」
003がくすくす笑いを堪えて応答する。
『他に質問は〜?』
チアフルの問いに003が一同を見回す。
「……ないわ」
『オッケー。んじゃ、管制室よりドルフィン号へ、発進を許可します』
「了解」
応えて、003が009を見る。それへ頷き、009は操縦幹を握った。
前方を見据える。
そして。
「ドルフィン号、発進」

轟音。
加速度。
周囲の構造物が一気に後方へと流れ去る。
視界が開け、そこは空。
大地を後にして、蒼天へと駆け上る。
藍い大気がドルフィン号を包み込み……。
大きく反転。進路は、南。
地上で最も高い山を擁する、ヒマラヤ山脈へ。
クワイトの待ち構える、あの場所へ。

乱気流を抜け、水平飛行に入ったところで、009はオートパイロットをセットした。
これで、何か無い限り、あと数時間でヒマラヤ山脈近くに着く。着いてしまう。
(………)
操縦幹からそっと手を放し、009はほっと息を吐いた。
オートパイロットは、否応無く、ドルフィン号をクワイトの居場所に近づけて行く。それは恐い事だった。だが。操縦幹を握っていたら、発作的に違う方向に機首を向けてしまいそうな気がする。それを考えると、黙っていても目的地に近付く…近付いてしまう…というのは、ある意味で、安心でもあった。少なくとも、方向を変えようとしてしまう自分と闘う必要がないのだから。
「ジョー……」
009が操縦幹を手放したところで、003は席を立って声をかけた。
「…少し…休んだら…?」
その言葉に009は首を振った。
「大丈夫だよ……」
と。003がクスっと笑う。
「そう言うと思ったわ……」
(え…?)
何となく不穏な空気を感じて009が振り返る。
見上げた視線の先には003。その003の視線の先には……。
「すみません。タイラントさん……」
「ああ……」
003の視線に頷き、タイラントが近付いてくる。
「…タイラント……?」
「おとなしく、彼女の言う事を聞くか? それとも……」
担いで行こうか? とタイラントが笑う。
それを、ちょっと拗ねたような目で見上げ、003を見、そして009は溜め息を吐いた。
「……ジェット。あと、頼む……」
「ほいきた」
ニヤニヤしながら002が応える。それへ『君まで…』と言いたげな視線を送り、009は立ち上がった。



009をベッドに座らせると、タイラントはカップを取り、チアフルが保温ポットに入れて持たせてくれたラベンダーティーを注いだ。
「ほら」
渡されたカップを009が黙って受け取る。
気持を落ち着けてくれる、柔らかな香り。それを胸一杯に吸い、一口飲む。そうすると、自分が思ったより疲れていた事に気付く。
(……緊張…してたんだな……)
しみじみと思い、003や皆の思い遣りに感謝する。
「ごめん……」
「ん?」
「僕は…やっぱり…疲れてるみたいだよ……」
溜め息を吐きつつ言う009に、タイラントは苦笑した。
「そんなん、見りゃ判るって」
「……そう…だね……」
そうだったんだろうな。と思い、009は頷いた。
「判ったんだったら…寝とけ」
「うん……。オートパイロットの設定地点が近付いたら……」
「起こす。…というか、誰かが起こしに来るだろう」
何しろ、行き先はお前しか知らないんだからな。そう言うタイラントに頷き、009はカップのラベンダーティーを飲み干した。空になったカップをタイラントに渡し、ベッドに横になる。
「大丈夫だ」
一瞬、心配気な瞳をする009に、タイラントは笑いかけた。
傍に居る。お前を一人にはしない。
「…ありがとう……」
そして、009は目を閉じた。



「ジョー……」
柔らかな声が、自分を呼ぶ。
「…ジョー……」
(……あ…?)
優しい、心地よい声に誘われるように、009はゆっくりと目を開いた。
「…フラン…ソワーズ……?」
「起きられる?」
「…あ…うん……」
頷いて、009は身を起こした。
そこへノックの音。003が応えると、扉が開く。そして、湯気の立つ皿とカップを乗せたトレイを持ったタイラントが入ってきた。
「起きたか?」
「ええ」
答える003に頷き、タイラントは壁に取り付けられている簡易テーブルを、片手と片足で器用に広げ、その上にトレイを置いた。
「粥と饅頭とジャスミン茶だそうだ」
少しづつだから食べとけ、とタイラントが009に言う。
「君達…は…?」
「俺と003は、交代で食べてきた」
「他の皆も交代で食べたわ」
タイラントと003が交互にいう。
「設定地点まで、あと小一時間といったところだ……」
15分前になったら、また来る。それで良いか? と尋ねるタイラントに009は小首を傾げ、そして頷いた。
「うん。それでいいよ」
「判った。……じゃあ、あとは頼む」
「ええ」
微笑む003に頷きかえし、タイラントはコクピットに向かった。



ドルフィン号を着地させ、エンジンを止め、009は立ち上がった。
振り返らなくても、全員の驚きがひしひしと伝わってくる。
「こ…こは……」
「……ま…さか……」
「…何…で……」
囁きとも呻きともつかぬ、声。声。声。
それへ、ゆっくりと振り返り、009は言った。
「ここだ」
と。

暫くの間、一同は声も無かった。
驚愕のあまり、身動き一つ出来ず、ただ呆然と立ち尽くす。
その様子を見回し、009はさりげなく動いた。
足音も立てず、けれど、ごく自然に、タイラントへと近付く。一時的に思考が麻痺している一同は、その009の動きを見てはいなかった。見えてはいたけれど。
そうやって移動し、タイラントの前に立つと、009は静かに言った。
囁きのような声で。
「…ごめん…」
(?)
何が言いたいのか判らず、タイラントが眉をひそめる。
「試させて欲しいんだ……僕に……」
(……え…?)
首筋に冷たい気配を感じる。
「…クワイトが…」
殺気。
「…倒せるか……」
鬼気迫る、その気配。
(……あ…)
それは……。
(…まさかっ…)
009は、一人で挑むつもりなのだ。クワイトに。
そう悟った瞬間。009の腕を掴もうと、タイラントは手を伸ばした。
だが。
「ジョー!」
ふっと影が揺らめき、タイラントの手が空を掴む。
そして。
009の姿は、掻き消す様に視界から消えた。
加速装置だ。
「馬鹿野郎っ!」
タイラントが焦って後を追おうとする。
だが。
「ジェロニモっ!」
004の叫び声。間髪入れずに005がタイラントの腕を掴み、取り押さえた。
「何しやがるっ!」
タイラント吠える。
「放せっ! あいつを一人で行かせるつもりかっ!」
怒鳴るタイラント。それへ、004が負けじと叫び返した。
「俺達を置いて行くつもりかっ!」
「う……」
睨み合い。
「……くそっ!」
争っている場合では無い。
歯を食いしばり、タイラントは大きく息を吐いた。
(……やられた………)
009のこの行動は、計算づくの行動だ。そう思う。突発的な行動では無い。行き先を、自分にだけあらかじめ教えておいたのも、他のメンバーには着く瞬間まで秘密にしておいたのも。何もかも、計画的な行動だ。009は最初から、そのつもりだったに違いない。
(ったく……手に…負えねぇ……)
クワイトを倒せるか、試させて欲しい。009はそう言った。だが。
(駄目だったら、どうするんだよ!)
そもそも、圧倒的に不利なのに。
(…くそっ)
とにかく、追わなくては。一刻も早く。全員で。
唇を噛んでそう思い、タイラントは言った。
「目的地は、地下牢だ。ジョーが前に閉じ込められてた、あそこだ。場所が判るのは…?」
「俺とディグ、あと、張大人」
余計な事は一切尋かず、008が手早く答える。
それへ頷き、タイラントは額に手を当てた。一呼吸して、考えを纏める。
こちらの人数。予想される敵の戦力。どう配置される? 相手はクワイト。定石は通用しないだろう。
(……普通なら、大兵力を伏せるところだ。今度こそ一網打尽にする為に。しかし、それだけの戦力を動かすのは、クワイトには出来ない。現場の指揮を執る者が居ない。……となると……)
全く配置されていない可能性が一番大きい、タイラントはそう考える。
(……無論、最低限の索敵は必要だ。何しろ袋小路へ向かうんだ……)
退路を断たれるのだけは、避けたいところだ。
内心で頷き、そして、タイラントは口を開いた。
「よし……まずは、三隊に分れて索敵をする。常識的に考えて、ここが本部という事は無い筈だ。だが、俺達が来るのが予想されているのは間違い無い。ガードロボットや兵士が伏せてある可能性はある」
先にそれを確認しておかなければ、危険だ。そう言って一同を見回し、タイラントは続けた。
「008は、005、ライ、アイラニを連れて北側から、006は、002、007を連れて南側から、それぞれ突入し、状況を確認。連絡は密に。その間に、ディグ、004、003は地下牢へのルートを確保。罠を張るなら、そこだろうからな。俺は006達と一緒に行く」
何か質問は?
素早く視線が交わされ、全員が頷く。
「よし……。間違っても掴まったりしないように、十分気を付けてくれ」
「ああ」
「わかってるって」
「行くぞ!」
そして一同はドルフィン号を飛び出した。



009は、ひたすら走った。
走って。走って。走って。
崩れかけた壁を蹴り崩し、廃虚と化した基地の中に突入する。
通路を走り抜け、エレベーターの扉を破り、竪穴を飛び降りる。
再び通路を駆け、階段を駆け降り、通路を駆け、扉を開ける。
階段を降り、通路を抜け、再び扉。
開けて、階段を降り、扉を開けて、階段を降りる。
階段を降り、階段を……。
「……っ……」
何時の間にか加速装置を止め、009は歩いていた。
明かり一つ無い闇の中。
足元の感触は石。
地下牢は近い。
「…く…っ……」
壁に手を付き、009はついに歩みを止めた。肩で荒い息をつく。
目を閉じ、唇を噛んで、壁に爪を立てる。
(行か…な…くちゃ……)
クワイトを倒しに。
(……何を…してるんだ…!)
こんな所で立ち止まってどうするのだ? あと少し。すぐそこに、倒すべき『敵』が居る。それなのに。
(行く…んだ……!)
あと、もうほんの少し。
けれど。
だからこそ、進めない。
膝が震える。
「くっ……」
ふらりとよろめくと、009は壁に背を凭れ、激しく喘いだ。
(…おちつけ……)
大きく息を吸っては吐き、必死に気持を落ち着けようとする。
(おちつけ……)
大丈夫だ。自分は一人では無い。皆が一緒なのだ。
(すぐに…来る……皆が……)
置いて来てしまったけれど、タイラントには地下牢だと言ってある。地下牢までの道は、006と008とディグが判るだろう。一度来た事があるのだから。
すぐに、仲間達が追って来てくれる。それは間違いない。
(だから……)
その前に。今の自分が、クワイトに立ち向かえるかどうか、それを試したかった。
倒せなくてもいい。そこまでは望まない。
だが。
立ち向かえるのだという確信が欲しかった。

クワイトを倒す。
それは仲間達全員の目的であり、それを実行するのが自分である必要は、無い。009にもその事は判っていた。重要なのは、クワイトを倒す事であって、誰が倒すかは、些末事だ。
けれど。
クワイトに立ち向かえないまま、仲間達がクワイトを倒してしまったら。そうしたら。自分はこの先ずっと、クワイトの影に脅え続けてしまうのではないだろうか?
だから。せめて…倒せないまでも、せめて、立ち向かえるのだという確信が欲しかった。
そうでなければ、もう二度と、自分は闘えなくなってしまうのではないか?
009はそれが恐かった。
目を開き、壁から離れて立つ。
(大丈夫だ)
これは、自分の我侭だ。勝手な行動なのだ。
にもかかわらず、ここまで来て、先に進めないと言うのか?
唇を噛み、顔を上げる。
(行くんだ……)

一歩一歩を確かめるように、009は階段を降りて行った。
全神経を集中し、闇の中を進む。
その009の研ぎ澄まされた感覚が、不意に何かの気配を捕らえた。
(?)
空気が微かに震える。背後から、何かが物凄い勢いで、自分に向かってきているのだ。
(……敵…!)
振り向ざまに銃を抜く。
だが。
(…速いっ!)
その『何か』は、更にスピードを上げると、一気に間合いを詰めてきた。
繰り出された拳を間一髪で躱し、引金を引く。牽制半分の一発は、予想通りに外れ、石壁に当たって光を散らす。
その一瞬の閃きが闇を照らし、敵の姿を浮かび上がらせた。
(な…っ!)
009が、目を見開く。
驚愕。
我が目を疑って立ち尽くした、その瞬間。
敵の一撃をくらい、009は吹っ飛ばされた。
「……うぁっ!」
体勢を立て直す間もなく階段に落下し、そのまま一気に転がり落ちてしまう。
幸いにも、残った段数は少なく、すぐに平らな床に辿り着いた。壁にぶつかって止まり、痛みに呻く。
けれど、呑気に痛がっている場合ではない。迫ってくる敵の気配に、009は慌てて立ち上がった。
だが。
(…扉……)
壁だと思っていた背後のそれが、扉だという事に思い至った瞬間、再び009の動きが鈍る。扉。その向こうは……
地下牢だ。
(あ……)
恐怖が四肢を縛る。
その瞬間。
敵の一撃をモロに食らい、009は壁に叩き付けられた。
「……ぐぁっ…!」
視界に白い火花が散り、半呼吸の間、意識が飛ぶ。
それだけで、敵にとっては十分な時間だった。
009の腕を片手で掴んで後ろに回し、もう片方の腕を首に回して動きを封じる。
(……っあ…!)
逃れようともがくが、パワーの差が有り過ぎて、どうにもならない。
そして。
敵は009を押え込んだまま、扉を蹴った。
ギギ……
扉の開く、重い音。
(…あ……)
009の動きが止まる。
(……や……)
地下牢の中は、何処から照らしているのか、微かに明るかった。その幽かな光に、床と壁がうっすらと浮かび上がっている。
009を抱えたまま引き摺り、敵は地下牢の中に歩を進めた。
(…や…だ……っ…)
009が弱々しくもがく。辛うじて床に触れている足に力を入れ、引き摺られないように抵抗する。
だが、何の効果も上がらない。
そして。
首に回された腕が緩んだかと思うと、009は正面の壁に突き飛ばされた。
たたらを踏んで壁に手を付き、震え上がる。
そう。
この壁。この壁に杭で磔られ、永遠とも思える、地獄のような時を過ごしたのだ。
「…や……あ………」
首を振って後ろに退がる。もう、戦うどころではない。
だが、敵はそんなことにはお構いなしだった。
009の肩を掴んで振り向かせて壁に叩き付け、喉元と肩とを掴んで押さえ込む。
背中に当たる壁の感触。目の前にある、敵の顔。
(……バイス……)
そう。その敵は、バイスだった。
目を見開き、そして、009は掠れた悲鳴をあげた。

悲鳴が途切れ、静寂が辺りを包む。『バイス』は、009を壁に押さえつけたまま、ピクリとも動かない。009は口を利く事もできず、目を見開いたまま固まっていた。
と。
くくく……。 低い嗤い声が闇を震わせた。
(……あ………)
聞き間違いようのない、その嗤い。009の全身が、どうしようもなく震えだす。
足音が、近付いてくる。
嫌という程に聞き覚えのある、足音。
見たくなかった。
けれど。
009の目は、本人の意志を裏切って、その足音の聞こえてくる方を見た。
薄闇。
その向こうから、白いものが近付いてくる。
ゆっくりと。
そして。
「……久しぶりだな、ジョー」
ぞっとする程に酷薄な声。この上も無く楽しげな口調。
銀の髪。藍の瞳。白衣を着たその男は、無論。
「…クワイト……」
009の手から、銃が滑り落ちた。
硬い音が響く。
その様子を満足気に見、ニタリと嗤うと、クワイトはゆっくりと言った。
「“クワイト”?」
からかうような口調。
009がビクリと身を震わせる。
クワイトの言いたい事は、考えなくても判った。『クワイト』ではないだろう? 『クワイト様』と言わなくてはならないだろう? と、そう言っているのだ。
けれど。
歯を食いしばり、気力を振り絞って、009はクワイトを睨み返した。
009の必死の抵抗を、クワイトは楽し気に眺める。
沈黙。
無言の闘い。
009が苦しげに喘ぐ。どうしようもない恐怖が全身を絡め取り、一杯に開かれた瞳から、涙が零れ落ちてしまう。『バイス』に押さえつけられていなければ、とても立っていられなかっただろう。

長い沈黙の後、クワイトは言った。
「まぁ…いいだろう……」
楽し気な口調。
そして、つと009を押さえつけている『バイス』に視線を移した。
「よく…できているだろう? アルグに作らせたんだ。お前を模擬戦に協力させてやった、その見返りとして……な」
くくく…と嗤い、009を見る。
「気に入ったか?」
「………」
009は答えられない。ロボットだと判った安堵を感じる事さえできない。
その様子を眺め、クワイトは009の方に一歩踏み出した。
「さて……」
狂気の瞳が009を見詰める。
「…尋いておかなくては、な」
楽しくて仕方が無い、というような口調。ぞっとする程に冷たい嗤い。
壁に押え付けられ、それ以上後ろに退がりようが無いにもかかわらず、009は必死で身を退こうとした。
恐怖。
圧倒的な恐怖。
呼吸さえもできず、悲鳴さえもあげられない。
(…や……だ……)
弱々しく首を振る。
(や…め……)
苦痛が。感じる筈の無い苦痛が、全身に広がる。
ある筈の無い杭が体を貫いて、壁に磔られているかのような錯覚に陥る。
悪夢が。
徹底的に刻み付けられた悪夢が、009の心を縛る。
「ジョー……」
クワイトが言う。
「…お前の上官が誰か……思い出させて欲しいか?」
(や……や…め……っ)
限界だった。
薄闇。
冷たい壁の感触。
重苦しい地下牢の空気。
その総てが、あの日のあの時を思い出させる。
絶望的なまでに激しく死を望み、なお叶えられなかった、苦痛と恐怖の時間。
繰返される悪夢。
闇を支配する、クワイトの狂気の瞳。
その瞳が、009を見詰める。
心の色を見透かす瞳が、愉悦をたたえて嗤う。
絶望が心を染め上げ、なけなしの気力も尽き果てる。
「…や…めて……く……」
009が哀願の言葉を口にしかけた、その時。
「そこまでだ。クワイト」
鋭い声が、闇を切り裂いた。
クワイトがゆっくりと扉の方を振り返る。銃を構え、ピタリとクワイトに狙いを定めて立っているのは……。
「ライ…か」
クワイトがニタリと嗤う。
ライの隣には灯りを掲げたアイラニ。そして、その後から00ナンバーとディグ、タイラントが続く。そして、素早く左右分かれると、壁に沿ってぐるりと半円形にクワイトを取り囲んだ。
「エカテリーナ……。出てこい。そこに居るのは判っている。その悪趣味なロボットに009を放させろ」
ライが低く言う。
と。『バイス』が壁に押さえつけていた009を放し、一歩下がるとピタリと動きを止めた。009ががくりと膝をつき、肩で息をする。
そして。
軽い足音と共に暗闇の中から白衣を着た女性が現れた。
それは、ウィッチだった。

「……久しぶりね。兄さん。もう、何十年ぶりかしら?」
ゆっくりとした足取りで現れたウィッチは、そのまま歩を進め、クワイトとライの間に立ち塞がった。
「何の真似だ……?」
「クワイトは殺させないわ」
「なんだと?」
ライがウィッチを睨む。
「お前は…お前は、コイツが何をしてきたのか、判ってるのか!?」
「判ってるわよ。兵器の開発。人体実験。死の商人の知恵袋。適当に口実をつけては他人をいたぶり苛み、それを楽しむ。そこにいる009にも筆舌に尽くし難い苦しみを与えた」
「…それが判っていて!」
「誰のせいだと思っているの?」
決して語気を荒げた訳では無い。けれど。そのウィッチの言葉は、ナイフのように鋭く、氷のように冷たく、死の宣告のように無情な響きを持っていた。
ライが言葉に詰まる。
「誰のせいだと思って? ねぇ。兄さん」
ウィッチが嗤う。
「あなたのせいでしょう?」
いっそ優しげなと言ってもいい口調で、ウィッチは言った。
「兄さん。あなたの思い上がりが、彼を『クワイト』にしてしまったのでしょう?」
「………」
ライは言葉も無い。
「彼は優しかった。無垢だった。純粋だった。そりゃ他人に比べて、ちょっとは頭が良くなかったわよ。難しい事は嫌いだったし判らなかった。だけど、そんな事はちっとも問題じゃなかった。彼は…地上に降りた天使のようだった。あらゆる邪悪なものは彼の興味を惹かなかった。彼の目に映るものは、本当に美しいものだけだった。私は……私は、そんな彼を本当に愛していたわ」
誰も何も言わない。まるで時が停まったかのように、身動き一つできずに、ただ立ち尽くしている。
「……けれど、あなたは違った。あなたは彼の良いところを少しも見ようとしなかった。小さい頃から天才と呼ばれたあなたにとって、彼はただの馬鹿でしかなかった。そんな馬鹿を妹が構ってること自体が、あなたには我慢のならない事だった。そして……あの日、あなたは彼をさらって行方を絶った」
ウィッチは言葉を切り、ふっと嗤った。
「私がどれだけ捜したか判る? 最愛の人と兄とを同時に失って、私がどれだけ哀しんだか……判る? 兄さん」
瞳をあげ、憎しみを込めてライを見据える。
「そして……そして、あなたが彼に何をしたか、その結果、何が起きたのか……それを知った時の、私の驚きと苦しみが判る?」
乾いた声。
「だから……だから、俺が奴を殺す。そして、すべてに決着をつける!」
うめくようにライが言う。それを弾き返すようにウィッチは答えた。
「そんな事はさせない」
両手を広げてライの前に立ち塞がる。
「もう二度と、あなたに彼を殺させはしない。あなたは一度、彼を殺した。天使のようだった彼を殺して、悪魔にした。そして、今、もう一度彼を殺すと言うの?」
「それ以外に方法があるのか? 奴を放っておけば、どうなると思う。また組織を再建し、再び人々を苦しめ、殺し、世界を混乱の渦に叩き込むだろう。そんな事が許されると思うのか? そんな悪魔を放っておけるか! 確かに…確かに奴がこんな風になったのは、俺のせいだ。俺の過ちだ。俺の…俺の浅はかさと愚かさの結果だ。だから……だからこそ、俺が、この手で決着を付ける! 退くんだ、エカテリーナ」
「嫌よ」
ウィッチの答えはにべもない。
「彼を殺したいのなら、まず、私を殺すがいいわ」
「な…に……?」
ライは我が耳を疑った。目を見開き、呆然と問い返す。
「………正気か?」
「あなたよりもよっぽど正気よ、兄さん。この世の悪魔を殺す? 決着を付ける?」
ふん、と嗤う。
「だったら、妹を殺すくらい簡単でしょう?」
「………」
ライが絶句する。
「結局、あなたは自分の事しか考えていない。最愛の人が、自分の兄に殺されるのを、黙って見てろと?」
「…エカテリーナ……。判ってくれ。奴を愛しているというのなら、これ以上罪を重ねさせない為にも……」
「『黙って殺させろ』って?」
くっとウィッチは嗤った。
「『彼を愛しているのなら』ですって?」
くっくっく…と喉元で嗤う。そして、ウィッチは堰を切ったように笑い出した。
「あは、あはははははははは!」
哄笑。
ふっと黙り、ウィッチは目を細めて兄を見た。
「兄さん。あなた、人を愛したことなんて無いのね」
さげずむような口調。
「私が愛しているのは彼なのよ。彼のすべて。彼という存在そのもの。彼がどんな人間だろうが、そんな事は関係無い。善にも悪にも、興味なんか無いわ。彼以外の総ては、私にとって、どうでも良い事なのよ」
ニィっと薄く笑みを浮かべ、ウィッチは言葉を続けた。
「彼が世界の敵だと言うなら、私も世界の敵になるまで。彼が悪を為すのなら、私も一緒に悪を為すわ。共に地獄へ堕ちられるようにね」
「………」
「さあ、どうするの? 私を殺してから彼を殺すか、このまま出ていくか。二つに一つよ」
沈黙。
アイラニの持つ灯りに照らし出された、白衣姿のウィッチと、その前で銃を構えたまま立ち尽くすライ。二人を取り囲む00ナンバー達も誰一人として何も言えず、何もできず、ただただ彫像のように立ち尽くす事しかできなかった。
静寂。
時の流れが凍り付いたかのように。

「みんな……」
その静寂を破ったのは、009だった。壁際にうずくまっていた009がゆっくりと立ち上がる。
「……出ていってくれ」
「ジョー!?」
唐突な台詞に全員が呆然とする。
「…一体……?」
「僕が、ここに残る」
ますます混乱する一同を尻目に、009は俯いたまま、ゆっくりと歩を進めた。『バイス』の横を通り抜け、クワイトの右前に立つ。
「クワイト……」
相変わらず俯いたまま、009は静かに言った。
「あんたの望みは何だ? 兵器売買で得られる莫大な富? 世界の支配? ……そうじゃないだろう…?」
クワイトが009の方に向き直る。
「……あんたの望みは、そんな事じゃない。兵器を開発したのも、Neo Black Ghost を復活させたのも、単なる手段。あんたの望みは……」
そこで009は言葉を切った。微かに肩が上下する。
「あんたの望みは、おもちゃを手に入れる事。好きなだけ苛み、苦痛と恐怖とを絞り取る……その為の人間を手に入れる事……。そうだろう?」
「…ああ……そうだ」
ニタリと嗤い、ぞっとするような声でクワイトは答えた。
「…だけど、人間はすぐに壊れてしまう。死んだり、発狂したり……だから、次々と新しい人間が欲しくなる。でも、人間を手に入れるのはそう簡単な事じゃあない。……だから、組織を作り、兵器を作って売り捌いた……」
「その通りだ」
「だから…もし、壊れないおもちゃが手に入れば……組織を作る必要も兵器を売る必要も、世界に戦乱を起こす必要も……あんたには、無い」
「そうだな。そんな事に興味は無い」
タイラントがはっと009を見た。
(…ま…まさ…か………)
握り締められた009の拳が震えている。
(……まさか…お前…!)
009に駆け寄ろうとする。しかし、タイラントは何かに縛られたように身動きすら出来なかった。
しんと静まり返った地下牢の中に、009の苦し気な呼吸が微かに響く。
009はゆっくりと顔を上げた。まっすぐにクワイトを見る。その瞳には、もう恐怖の色は無かった。強烈な意志をその奥に秘めた、瞳。
「僕が、あんたのモノになる」
全員が息を飲んだ。
「僕はサイボーグだ。そう簡単には死なない。ウィッチがいれば、まず、死ぬ心配は無いだろう。それに…少々の事では僕が発狂したりしないのは、あんたが一番良く知ってる筈だ。理想通りのおもちゃだろう? あんたがここから一歩も出ず、外の世界に干渉しないと約束するのならば、僕があんたのおもちゃになろう。あんたが、死ぬまで」
「ば…馬鹿な!」
ライが叫ぶ。
「何を言ってるのか、判ってるのか! 正気の沙汰じゃないっ!」
それを009は軽く手を上げて制した。クワイトの目を見詰めたまま。
「僕は、誰も死なせたくない。誰も殺したくない。ほんとうに、他にどうしようもないので無い限り……」
「…009……」
ライは、もう何と言っていいのか判らなかった。
「どうだい? クワイト。悪い取り引きじゃないと思うけど」
「ふむ……」
クワイトが嗤う。
「なるほど。私はここから一歩も外に出ない。外とも連絡をとらない。つまり……外の世界から、私は消えてなくなる、という訳だな」
「そう。あんたの世界は、ここだけ。何部屋あるのか知らないけど、この地下の区画だけ。世界の住人は、あんたと、ウィッチと僕の三人だけ。外の事は知らない。考えない。存在しないものとする。その条件を受け入れるというのなら、僕はあんたに望むものをあげるよ。あんたに服従し、どんな命令にも従う」
「…つまり、お前から好きなだけ苦痛と恐怖の感情を絞り取って良い、と」
「ああ」
「私が死ぬか……お前が死ぬか発狂するかして、この取引が無効になるまで」
「ああ、そうだ。でも、僕は死なない。その辺はウィッチがうまくやってくれるさ。そして、僕は発狂したりしない」
「そうかな?」
クワイトがニタリと嗤う。
「平静なふりをしているが、お前の心は震えている。脅えている。そんなザマで果たして耐えられるのか? ……この私が死ぬまで?」
嘲るような口調。だが009は視線を逸らす事無くそれに応えた。
「……確かに…怖いよ。心底脅えてる。……こうして、この場所に立っているだけで、どうしようもなく苦しいよ。……僕はここで…この地下牢で、死ぬ程の苦しみを味わった……。あの時の事は……」
ゆっくりと息を吐き、009は言葉を継いだ。
「…どうしても忘れられない……。逃げ出したいほど、怖いさ」
クワイトの目を真っ直ぐに見たまま、009は淡々と続けた。
「だけど。ライに妹殺しなんてさせたくない。あんたをこのままにして、また Neo Black Ghost を再建されるのを見逃すことも出来ない。あんたを殺して、ウィッチを哀しませるのも、嫌だ。あんたがこの取引に応じれば、その総てが回避される」
「なるほど……」
クワイトの狂気の瞳と009の静かな瞳とが、火花を散らす。
「僕を発狂させられれば、あんたの勝ち。あんたが死ぬまで僕が正気でいれば、僕の勝ち」
「……いいだろう」
クワイトがニタリと嗤って頷く。
つと009がひざまずいた。
「僕は…クワイト様に、絶対の服従を誓います」

「なんでだ……」
掠れた声でライが言った。構えていた銃を放り投げ、頭を掻き毟る。
「…どうして……なんでお前が……!」
他の者は、言葉も無い。
ひざまずいている009を見下ろし、クワイトはゆっくりと言った。
「……では、ジョー。最初の命令だ。この世界に属していない者達を……追い出せ」
「はい、クワイト様」
そう応じて009が立ち上がる。そして、ライ達の方に歩を進めると、静かに言った。
「みんな…出ていってくれ」
「…ジョー!」
「出ていってくれ、今すぐに。……僕が、クワイト様から『力づくで追い出せ』と命令される前に」
「……」
何を言っていいのか判らずに、全員が009を見る。
それを見回して、009はふっと笑った。
「大丈夫。僕は死なない。狂ったりもしない。しばらく行方不明になるだけだよ。居場所が判ってる行方不明ってのも変な話だけど……」
「…ジョー……」
「どのくらいかかるか判らないけど、決着がついたら、帰るから」
ディグが大きく息を吐き、頷いた。
「……わかった………」
「ディグ!」
非難するような004の声に、ディグが静かに言う。
「他に…俺達に何ができる? ウィッチを殺してクワイトを殺して、ついでにライも殺すか?」
「……そ…それは……」
004が言葉に詰まる。
「それとも、誰か009と代わってやれる奴が居るのか? ハッキリ言って、俺にはできん。俺が009と代わったら……まぁ、半日もしない内にクワイトの勝ちだろうな」
ディグの言葉に004がうなだれる。
(……俺だって……似たようなもの…だろうな……多分……)
タイラントから見せられた、バイスの拷問の映像を思い出す。あんな目にあって、どうして屈さずにいられたのかと、思った。自分だったら到底耐えられないだろう、と。だが、これから009が受けるであろう責めは、あれですら生ぬるいと思える程のものだろう。そして、それが延々と続くのだ。助けが来るあても無く、死ぬこともできず。何年かそれとも何十年か、クワイトが死ぬまで……。
「他に…誰か何か…?」
ディグが言い、ゆっくりと00ナンバー一同を見回す。口を開くものは居ない。
一人一人を順々に見、誰も何も言わないのを確認し、ディグは頷いた。
「では、ここから出るんだ。これ以上009を困らせるな」

ディグに促されて00ナンバー全員が部屋の外に出る。その後ろに、放心状態のライを半ば抱えるようにしてアイラニが続く。
「タイラント、君もだ」
自分の側に寄って来て、出て行こうとしないタイラントに、扉の方を見たまま009は言った。
「…俺は……」
「言っただろう? この世界の住人は、三人だけだって」
「だけど…! 考え直せよ、ジョー! どんな目にあわされるか、判ってるのか!?」
「わかってるさ」
「ジョー!」
タイラントが009の正面に回り込んで、その視線を捕らえる。
「だったら……」
「判ってる。だから、出ていってくれ、タイラント」
歯を食いしばり、一語一語区切るように009は言った。
「僕が苦しむのを見て苦しむ君を見るのは…耐えられない……」
(…あ……)
「頼む。僕と、ウィッチとクワイトの三人だけにさせてくれ。自分以外の誰かが苦しむのを見せ続けられたら……耐えられる自信は、無いんだ……」
「…ジョー……」
言うべき言葉が見つからず、タイラントは009を見る。
と。
(…?)
009がゆっくりと瞬きをする。二回。
タイラントは、さりげなく俯いた。
二呼吸分の沈黙。
「出ていってくれ、タイラント」
もう一度、009が言う。
「………わかった……」
低く答え、そして、タイラントは扉の外に向かった。

009は入り口の所まで進むと、全員を見回して、微かに笑ってみせた。
「大丈夫。僕は、勝つ。また会おう……」
最後に003を見、頷く。
「必ず、帰る。待ってて……」
そう言って、009は扉に手をかけた。重い鉄の扉を、ゆっくりと閉める。
徐々に徐々に、『この世界』と『向こうの世界』を繋ぐ扉が閉ざされていく。
ついに。扉が完全に閉じ……。
陽光の射す世界から、完全に切り離される。
(大丈夫だ……)
光なら、ある。
自分の中に。
(僕は…一人じゃない……)
きゅっと唇を噛み、009は振り返った。ウィッチの持つ小さな灯りに照らし出された光の輪の中に、クワイトと、ウィッチと『バイス』が居る。
震える心を叱咤して歩を進め、クワイトの前でひざまずくと、009は静かに言った。
「御命令通り、この世界に属さない者達を排除しました」
クッとクワイトが嗤う。
「ちょっと気に入らないが……まぁ、いいだろう。今回は大目にみてやる」
「ありがとうございます」
沈黙。
クワイトは目の前にひざまずく009を見下ろし、何か考え込んでいるようだった。
009もまた、その場にひざまずいたまま、黙している。
そして。
クワイトは、不意に言った。
「……009。一度だけ、チャンスをやろう」
クワイトらしからぬ、硬い声。
「今ならまだ間に合う。私を殺して、仲間の元へ戻っても……良いんだぞ?」
009がビクリとする。
(……あ……)
それは、魅惑的な言葉だった。
苦痛と恐怖の主たるクワイトを殺し、陽光溢れる世界へ戻る。闇の記憶を封印し、総てを忘れ、仲間達の元へ戻る事ができれば。そうすれば。一筋の光すら射さない地下で、この先ずっと…クワイトが死ぬまでの間ずっと…苦痛と恐怖にさらされ続けなくて済む。
そう。クワイトさえ殺してしまえば。
クワイトこそが諸悪の根源なのだ。彼がこれまでに行ってきた悪事を考えてみるがいい。それらは、どれ一つ取っても、死に値する罪だ。
殺せ……。
そう囁く自分の声を聞く。それが『決着』だ、と。簡単な事ではないか。銃を拾い、撃つ。ただそれだけだ。瞬きする程の時間も必要ない。サイボーグである、この、自分には。
(……クワイトを…殺す……)
その為に、ここまで来たのでは無かったのか?
だが。
不意に009は想う。
(…それで…いいのか?)
クワイトを殺してやりたい。それは偽らざる気持だった。クワイトが自分に加えた苦痛と恐怖とを思えば。この手でクワイトを惨殺し、復讐を果たしたいと想う気持は真実なのだ。
しかし。
殺す事が、決着なのか? 殺す事でしか決着をつけられないのか?
かつてクワイトは言った。『自分に苦痛を与えた相手を憎むのも、憎い相手を殺すのも、人間として当然の事だろう? 』と。確かにそれは正しい。自分に酷い事をした相手を憎む事。殺してやりたいと想う事。その心を止める事は、出来ない。
憎しみの心を持つ事。その事そのものを否定する必要は、無いと思う。否定しても、無駄だ。自分の心からは逃れられない。カティサックにも言われた。心の感じ方を制御する事は不可能だと。言葉では心無い事を言える。思考で自分を騙す事も可能だ。けれど、感情は。感情だけは、決して意のままにはならない、と。そう感じる事は、そういう存在だという事なのだ、と。感情を否定する事は、その存在を否定する事と同義なのだ。
『ですから…』と、カティサックは言った。『他人の苦しみを楽しいと感じる人が居たとしたら…あなたから見たらどんなに許し難くても…彼が本当にそう感じているのだとしたら、彼はそういう存在だという事です。それを変える事は、あなたにはできません。彼自身にも』と。カティサックの言う『彼』が誰を指しているのかは、無論、明白だった。だが、それについてはあえて触れず、カティサックは言葉を続けた。『だからと言って、感情のままに行動する事が無条件で許されるとは、私も、考えてはいません』と。
そうだ。
自分の感じる憎しみを肯定する事と、その憎しみのままに行動する事とは、別だ。
憎しみのままに行動する事と、欲望のままに行動する事の間に、一体どんな差違があるというのか? まして、この自分には容赦無く相手を殺す力があるのだ。心の求めるままにその力を揮う事は、自らの欲望の為に他者を犠牲にする事を躊躇わない Neo Black Ghost のやり口と、同じでは無いのか?
(闘わなくては……)
決着をつける為に。
真の決着を。

黙り込んだまま身動ぎすらしない009を、クワイトは奇妙な瞳で見下ろしていた。
009が一言も喋らなくても、エンパスとしての能力をもってすれば、その心に渦巻く想いが見える。凍り付いたかのように動かない体とは裏腹に、激しく荒れ狂う感情の波。クワイトには、それが見て取れるのだ。
激烈な葛藤。自問自答。渦巻く白い波とそれを切り裂く黒い稲妻と。
エンパスとしてのクワイトの感覚は、他人の感情を、色と音として捉える。
低音で響く苦痛の黒。
高音で掻き鳴らされる恐怖の銀。
規則正しいリズムを刻むのは、使命感の赤。
木々の騒めきにも似た愛情の緑。
強く弱く折り重なって緩やかに繰返される中音は、信頼の蒼。
それらが混ざり合い、あるいは反撥しあい、009の周囲で渦巻くのが、クワイトには見え、そして聞こえる。
パチパチとはぜる黄色は、決意。それが、閃いては消え、また閃く。
その決意がどちらに向かうのか? それによっては己の命が無いというのに。
楽しむ様子も、脅える様子も無く、クワイトは、ただ、009の葛藤を見続けていた。

「……のか…?」
長い長い沈黙の後、009は言った。掠れた声で。
「?」
ゆっくりとクワイトを見上げ、009がもう一度言う。ハッキリと。
「…恐いのか? この、僕が」
「……?」
クワイトが虚を衝かれたように、瞬きする。
「な…に……?」
009はゆっくりと言葉を続けた。
「あんたは、僕が恐いんだ。僕を発狂させられる自信がないんだ。そして……」
009は微かに笑った。
「……僕を発狂させられなければ、あんたはここで死ぬしかない」
この地下に閉じ込められたまま、二度と再び、外には出られない。闇の中で残りの一生を過ごすのだ。
「あんたは、それが恐いんだ。違うかい? クワイト」
009の言葉にクワイトは絶句した。
(……恐い…? この…私が…?)
『恐怖』の感情は、クワイトにとって、見慣れ聞き慣れた感情だった。誰もがクワイトの前ではその感情を纏っていた。今、目の前にいる009の周囲にも、無論、その感情が漂っている。
自分に対してその感情を向けない人間を、クワイトは一人しか知らない。それは、隣に立つウィッチだった。それが何故なのかは、長い間、クワイトにとって謎だった。だが今は、その理由も判った。ウィッチにはクワイトを恐怖する理由が無かったのだ。クワイトの総てを彼女は無条件で肯定していた。クワイトが殺そうしても、彼女はそれを無条件で受け入れた。『それがあんたの望みなら』と言って。銃を突きつけてみてもなお、その心に恐怖が浮かぶ事は無く、諦めすら無く、ただ静かで透明だった。
だが。
009は違う。009の心は明らかに乱れ、恐怖に慄き、平静とは程遠い。
にもかかわらず。自分を見詰める瞳には、苛烈なまでに強い光があった。
その眼光に、クワイトがたじろぐ。
(何を……?)
こいつは一体、何を言っているのだ? とクワイトは想う。
(…恐れて…いる、だと? 私が…?)
クワイトは『恐怖』というものを知らない。他人の恐怖は、馴染み深いものだった。だが、自分の中にそれを感じた事は無かったのだ。
だから、恐怖がどんなものなのか、それを自分の中に感じる事がどういう事なのか、クワイトには解らなかった。
不安定なものの上に立ったような感覚。これが『恐怖』なのだろうか?
009が次に何を言うか、予想できない。
これまで、誰に対してもそんな事は無かった。相手が誰であろうとも。感情の色を見さえすれば、次に何を言ってくるかの予想は容易かった。その予想が外れた事は無かった。
それなのに。
009の唇から出る言葉。表情。瞳に込められた光。
その総ては、クワイトの共感能力が捉えた感情の色からは程遠い。009の心は恐怖に脅え、恐れ慄いている。激しく乱れ、荒れ狂っているにもかかわらず。
理解出来ない事。
予測できない事。
その事に起因する、漠然とした想い。
それが、恐怖…なのだろうか? そうクワイトは考える。自分が今感じているもの。これが恐怖なのか? と。
「恐いんだろう? この、僕が」
009が言う。
クワイトは答えられなかった。何と答えればいいのか判らなかった。
「いいよ……一度だけ、あんたにチャンスをあげるよ。あんたが、自分の行いを反省して……その償いをすると…そう、約束するのなら……」
クワイトを真っ直ぐに見詰め、009は静かに言葉を続けた。
「…許してあげるよ」
(な……んだと……?)
「もう、二度と他人を苦しめたりしないと……あんたのその頭脳を、人々の幸せの為に役立てると…そう、約束するのなら…ね」
沈黙。
「……嫌だ…」
まるで駄々を捏ねる子供のような口調で、クワイトは言った。
「嫌だ。私は……私は、自分の好きなようにやりたいんだ。お前なぞ……すぐに発狂させてやる」
刺々しい口調は、これまでの自信たっぷりなクワイトからは、全く想像も出来ないようなものだった。
009が内心で苦笑する。
(なんだよ……)
当たり前の事だが、クワイトとて人間なのだ。自分とは依ってたつ処が違うだけで。
(いや…むしろ……)
自分の在りようそのものに振り回されている、ある意味では、弱い人間なのだ。
「どうしても?」
009が問い掛ける。
それを見下ろし、クワイトは苛々と言った。
「そうだ。私は…私は……やりたい事だけしか、したくない」
「…絶対に?」
「そうだ」
「他人である僕を、思い通りになんて…できないよ? 後悔する事になるよ、クワイト」
「後悔するのは、お前の方だ」
睨み合い。
そして。
「……いいだろう。なら……」
笑みを浮かべ、009は言った。
「…闘おう。やりたいように行動しても、思い通りにはならない……その事を、僕が、教えてやるよ」
暫しの沈黙の後、クワイトは答えた。
「……たいした覚悟だな、ジョー」
怒り故か、恐怖故か、その声が微かに震える。
「ならば…来い。狂う程の苦痛と恐怖を…与えてやる……。自分が苦しみから逃れる事以外、何も考えられなくしてやろう。そうすれば……お前は私の命ずるままに、どんな事でもするようになる」
そう言って、クワイトは嗤った。
「自分が苦痛から逃れる為に、お前は他人を攫ってきて私に差し出すようになる。そうさせてやる」
「不可能だよ、クワイト。他の誰かが苦しむくらいなら、自分が苦しんだ方がマシだ。僕がそう感じるのを変える事は…あんたにはできない」
それは、己の存り方そのものを賭けた、死闘の幕開けであった。



長い長い階段を上り、幾つもの扉を通り抜け、地上に出る。
そこには、眩しいまでの陽光があった。
「あ……」
誰からともなく吐息がこぼれる。今、009を残してきた世界とは全く違う、光と風。命の息吹とぬくもり。
けれど、それは一同の心を慰めはしなかった。
(ジョー……)
この世界。
陽光溢れるこの世界を守る為に。
誰一人死なせる事無く、この世界に仇為す者を排除する為に。
その為に、今、009は闇の中にいる。
「…あ……あああぁぁ…!」
ライが頭を抱え、絶叫する。苦悩の叫び。
「…ラ…ライ様……」
アイラニがうろたえるが、しかし、彼にもどうしていいか判らなかった。
と。
004がすっと動いた。ライの後ろに立ち、右手を振りあげてその首筋に軽く振り下ろす。
「………あ……」
ふっと叫びが途切れ、ゆっくりとライが前のめりに倒れていく。それを素早く前に回り込んで、004が抱きとめた。
「…っと……。ジェロニモ、頼む」
声をかけられ、呆然としていた005がはっとする。一瞬の間があり、それから005は頷いた。ライを引き取って、抱き上げる。それを横目で確認し、004は一同を振り返った。
(…ひでぇ有様だな……)
戦闘らしい戦闘など、行われていない。基本的には、地下牢まで行って帰ってきただけだ。それなのに、まるで不眠不休で一週間以上も戦い続けたかのように、全員が放心状態だった。004自身も例外では無い。総てを投げ捨ててどこかに逃げ込んでしまいたい。自分には何もできなかった。その事を認めたく無かった。
だが。
(…そんな事は、許されない……許さない。この俺が、絶対に……許さねぇ!)
009は戦っているのだ。今、この瞬間にも。
(親玉をアイツが引き受けてくれたんだ。残りの雑魚は……!)
自分達の仕事だろう。そう。終わってはいない。総てはこれから。
(決着を、つける。こっちはこっちで、決着をつけてやるぜ)
「…みんな……」
004の声に、一同がはっとする。静かな内にも何か凛としたものを秘めた声音に。
「……行くぞ!」
短く言いうと、004は背を向けて歩き出した。その後ろにディグとタイラントが続く。
一瞬の間。
そして、残りのメンバーも歩き始めた。
ドルフィン号に向かって。


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