Ａｃｔ．１２ 夜明け −ヨアケ−
ウラル山脈ナロドナヤ山中 ライの研究所
００９の悲鳴が聞こえる。ベッドに転がって天井を見詰め、タイラントはそう想った。
それが気のせいだというのは、無論、判っていた。自分にはクワイトやライのような能力は無い。この場に居ない者の声が聞こえる事など、ある筈は無い。
だが。
今この瞬間にも、あの地下牢で、００９が悲鳴をあげさせられているのは、間違い無い。そう思い、タイラントは溜め息を吐いた。
あれから、既に三ヶ月が経っていた。
Neo Black Ghost は、拠点のほぼ総てを失い、今や壊滅寸前だった。
タイラントと００ナンバー達は、迅速かつ徹底的に、Neo Black Ghost の各拠点を叩いた。残っているのは、Neo Black Ghost のモノなのか、各上級幹部の私的なモノなのかが微妙な、ほんの幾つかの施設のみ。
圧勝だった。
（……ジョー………）
だがそれも、００９の力があったからなのだ。
これだけの短期間の間に、何故、Neo Black Ghost の拠点の殆どを破壊出来たのか？
それは、情報があったからなのだ。組織の極秘情報を、００９が持ち出していたからなのだった。
あの時。
クワイトに命じられ、００９が彼等の『世界』に属さないものを排除した、あの時。
Neo Black Ghost の戦闘部隊で使われている手信号を使い、００９はタイラントにメッセージを送ってきたのだ。
あの状況下で、よくそんな余裕があったものだ、とタイラントは想った。驚異的だ、と。
００９の示した単語は三つ。
『機密』
『受渡』
『軍医』
ライの研究所へ戻るドルフィン号の中でその意味を考え、そして、タイラントは医療センターのエストラを訪ねた。
００９から何か預って無いか？ と尋ねたタイラントに、エストラは記憶チップを差し出した。
エストラによれば。００９のしていたマントを体に固定する為の、プロテクターの様なものに隠しポケットがあって、その中に入れられていたのだそうだ。００９はその場所をエストラに教え、もし自分が死んだら、これを００ナンバーの誰かか、タイラントに渡してくれ、と言ったのだという。
『中を見なかったのか？』と尋いたタイラントに、エストラは頷いた。『見ないでくれ、と言われましたから』と。それに、とエストラは苦笑した。『それどころじゃなかったですからね。正直、あなたに言われるまで、すっかり忘れていました』と。
それから。
暫し逡巡し、００４に事情を説明して一緒に内容を確認し、タイラントは仰天した。無論、００４も。
それは、Neo Black Ghost が保有する各拠点についての詳細なデータや、組織上層部の人事情報等の、超極秘資料だった。
『どうやってこんなモノを！』と言う００４に、タイラントは答えた。『職権乱用…ってヤツだな』と。
訝しげな瞳をする００４に、タイラントは Neo Black Ghost 幹部であった時の００９の地位について説明した。クワイトの副官に与えられる、絶大な権限について。
『それを使えば、こんな情報を入手するくらい、簡単な事だった筈だ』と。
その言葉に呆然としつつ、００４はタイラントに尋ねた。
『たとえ権限があったとしても……コピーなんかして、大丈夫だったんだろうか？』と。
それへ、タイラントは答えた。
『大丈夫だっただろう』と。
仮にバレたとしても、コピーして持っていただけであれば、処刑されるような事は無かった筈だ。そう言い、タイラントは唇を噛んだ。『万が一、上級幹部会議で問題にされたとしても、クワイトが庇えば、誰もジョーに手出しは出来ない。そして、クワイトは絶対にジョーを庇って不問に付させただろう。ただ……』
そう言ってタイラントは００４を見た。
『ただ？』と００４が問い返す。
『……ただ…もしそんな事になったら、ジョーは……死んだ方がマシだ…と、何万回も思う程の目にあわされただろう。クワイトは、間違いなくそうしただろう。勿論、ジョーはそれを…十二分に承知してて……覚悟の上だったろうさ。……ジョーは…コレを入手するのに、死ぬよりも遥かに大きい危険を……冒した事になる』そう言い、タイラントは唸ったのだった。信じられない事をしやがる、と。
（ホント……勝てねぇ…よ……）
そう呟き、タイラントは寝返りを打った。
結局、何もできなかった。００９は自分で自分を助け、そして、他人をも助けた。仲間達を助け、ライを助け、ウィッチを助け……。
（…クワイトをも……助け…た？）
命を助けたのは、間違いない。結局、００９がああしなければ、クワイトを殺す以外の道はなかっただろう。そして、成り行き上、ウィッチも死に、ひょっとするとライと、ウィッチを殺した誰かも、死んだかもしれない。
誰一人殺さずに解決しようとすれば、確かにアレしかない。そして……。
（ジョーは、死ねない……いや、死ぬ訳には…いかない……）
そうなのだ。
最終的に、００９が発狂せずに生きて戻ってこなければ、本当の意味で全員が救われた事にはならないのだ。
（……ジョーが帰ってこなければ、００ナンバー達は、救われない……）
だが。
死なない、発狂しない、という事は苦痛と恐怖に苛まれ続けるという事に他ならない。死ぬか発狂するかすれば、それから開放される。
けれど。００９は、自らがそうする事を、決して許さないだろう。
（ホント…信じられない事を……しやがる………）
勝ってくれ。
そう想う。
（お前は…きっと、勝つ）
００９は言った。『大丈夫。僕は、勝つ。また会おう』と。
（そうだよ……ジョーは…勝つ……絶対に…勝つ……）
そして、帰ってくる。約束通りに。
（ジョーは約束を破るような奴じゃない。……待ってるぜ……）
その日まで。
☆
クワイトとウィッチと００９が『向こうの世界』に消えてから、六ヶ月後。
一機の飛行機が、ライの研究所を目指して飛んでいた。
それは、Neo Black Ghost の連絡艇だった。
けたたましいサイレンが研究所内部に響き渡る。
「何事だ！」
全員が動きを止める。そこへ、司令室に詰めていたタイラントの声で館内放送がかかった。
『Neo Black Ghost の連絡艇だ！ 一機！ こっちに向かってきてる！』
その台詞を最後まで聞かずに、全員が司令室に走った。
「なんだ？ 攻撃？ 一体……」
「だけど一機だぜ？」
「撃ち落とすか？」
「いや…様子を見た方が……」
そこへ、雑音交じりの通信が入った。
『…か…ないの………イ……タイ……ト……ディ……誰…』
「連絡艇からだ！」
アイラニが通信器に飛びつき、周波数を合わせる。
『誰か、いないのかい？ ００ナンバーの誰か、ライ、タイラント、ディグ……』
「ウィッチの声だ！」
タイラントが叩き壊しそうな勢いで送信スイッチを押し、マイクに向かって噛み付かんばかりにして叫んだ。
「いるぞ！ タイラントだ！ 一体……」
『あぁ…よかった……着陸の誘導をして。それから、ライかエストラか、誰でもいいけど…手術の用意』
「なんだって？」
『着陸の誘導と、緊急手術の用意よ！ 早くおし！』
有無を言わさぬ口調に、ディグが慌ててコンソールに駆け寄る。
左目を微かに細め、遠くを見るようにしていたライが口を開いた。
「エストラ、緊急手術の用意だ」
「…は…はい……でも…」
一体誰の？ と問いたげな瞳。サイボーグである００９の緊急手術の準備と、生身であるウィッチやクワイトの緊急手術の準備では、用意するものは自ずと異なる。
「００９だ。微かに…感じる……。ほんとに微かに……」
かなり危険な状態だ。そう言うライに、エストラは頷いた。
「わ…わかりました」
司令室を飛び出し、医療センターに走る。それを見送り、ライは次の指示を出した。
「それと、担架を離着陸口に」
「俺がやろう……００５一緒に来てくれ」
００８が言い、００５と共に駆け出して行く。
『…誘導に乗ったみたいよ……』
ウィッチの緊張した声がスピーカーから聞こえてきた。それへ、ディグが返事をする。
「一番左の緑のランプがついてるか？」
『……ええ…』
「よし。オッケーだ。もう、何も触らなくていいぞ」
『判ったわ』
ほっとしたようなウィッチの声。それへ、離着陸口で待っていると伝え、ディグは立ち上がった。
「行こう。離着陸口だ」
☆
連絡艇が緩やかに着地すると、入り口が開く間ももどかしげに００８と００５は中に駆け込んで行った。
「…はやく……」
ウィッチが手を振って指し示したその先に……。
「ジョー…｣
駆け寄り、そして、００５と００８は絶句した。動きが止まる。そこへ、ウィッチの声が飛んだ。
「何してんの！ 早くおし！」
叱咤され、慌てて担架に乗せる。
「とにかく、早く……」
運ばれていく００９を見送り、ウィッチがほっと息を吐く。そして、連絡艇の壁に寄りかかると、そのままずるずると床に座り込んだ。
その側に００４が近付く。
「一体……」
「クワイトが、死んだ。ジョーの勝ち……よ」
「おいっ！」
００４が慌ててウィッチを抱え起こす。
「…あ…あたしは…大丈夫……ちょっと疲れてる…だけだから……」
「だが……」
「判ってるわよ、あの後どうなったか知りたいんでしょう？ 全部、話すわ。けど、一度だけよ。だから、聞きたい……連中…を、全員、集めて…頂戴……。私は……どこにも……行かない…か……ら……」
そのままぐったりとなったウィッチを抱え、００４は立ち上がった。
「どうした？」
ディグが近付いてきて問う。
「気を失った……。クワイトは、死んだそうだ。あの後どうなったかは、一度だけ、全部話す…そうだ」
「一度だけ……」
多分、二度は喋りたくない程に酷い話なんだろう、と００４は思った。
☆
医療センターは、てんやわんやの大騒ぎだった。運び込まれた００９の有様に、エストラ以下のスタッフは青ざめた。生きているのが不思議な程の、それは酷い有様だった。とにかく手術室に運び込み、止まりかけの生命維持機能を外部に繋ぎ替える。
けれど。それとても、一時凌ぎにしか過ぎなかった。サイボーグ体のあらゆる部品は、もうどうしようもない状態だった。生身の部分も、治癒可能なギリギリの線を、今にも越えそうな有様で。しかも、損傷しているサイボーグ体の部分が、生身の部分に負荷をかけ、状況を悪化させていた。
一刻も早く損傷部品を切り離し、まずは生身の部分を守らなくてはならない。その上で、サイボーグ体部分を修理し、再び生身の部分と繋げ直す。００９を助けるには、そうしなくてはならなかった。理屈としては。
だが、とエストラは思う。手の付けようが無い。どこから手を着けていいのかすら、判らない。
（…あまりに…複雑だ……）
勿論、エストラとて何人ものサイボーグ兵を手がけた経験を持つ。００９が Neo Black Ghost 本部から救出された後、暫くは主治医として治療を行ったりもしていた。
しかし。Neo Black Ghost 本部から救出された時、００９のサイボーグ体は、完璧に整備された状態だった。問題があったのは生身の部分で、それも、疲労と衰弱、及び神経系（特に左肩）の炎症くらいだったのだ。だから、００９のサイボーグ体を、その内部構造を、見るのは初めてだった。
見て、愕然とする。
エストラの知る、Neo Black Ghost のサイボーグ兵達の体は、生身よりも単純化されていた。不要な機能を間引き、構造を単純にすれば、部品の製造も簡単になるし、サイボーグ化手術も容易だ。当然、メンテナンス時の手間も減る。『商品』である以上、それは必要な条件で、それ故、エストラの知るサイボーグ体もそれだった。
けれど。００９のサイボーグ体は、生身よりも、遥かに複雑だった。生身の部分と生体部品、そして機械部品とが複雑に絡み合って、目眩がする程に精密に、かつ、芸術的なまでに精巧に、組み上げられたものだった。
そしてそれが、目茶苦茶に破壊されているのだ。
（手が……出せない……）
エストラは唇を噛んだ。構造の理解は、どうにかできる。けれど。迂闊に手を出せば、ダメージを与えてしまう。
「ギルモア博士を…呼んで下さい……急いで……」
傍らのスタッフを見、エストラは言った。
だが。
駆けつけたギルモアも、００９の有様を見て絶句した。
「とても……無理じゃよ……」
ここまで目茶苦茶にされてしまっていたのでは、自分でさえも、もう、手が出せない。
「それに……」
とギルモアは言った。
「この状態の００９を直すと言う事は、もう一度、００９のサイボーグ体を造るに等しい。今の私に、そんな細かい作業は……」
とても出来ない。そう言って、ギルモアは椅子に座り込んで頭を抱えた。
「……すまない……私には…もう……そんな力は無いんじゃ……」
００９を造った時。その時の自分は、良くも悪くも、最高の状態だった。もう一度は出来ない。そう言って、ギルモアは嘆息した。
ギルモアが立ち去り、残されたエストラ達は途方に暮れた。
「どう…しますか…？」
問いかけるスタッフに、エストラは答えた。
「……やるしか…ないでしょう……私達で……」
このままでは、いずれにしろ００９は助からない。ならば……。
と、エストラが覚悟を決めた、その時。
手術室の扉が開いた。
「私がやるわ」
そこに立って居たのは、ウィッチだった。
「異存は？」
立ち尽くすエストラ達一同を見回し、ウィッチは短く問い掛けた。
「…それは……」
顔を見合わせ、そして、エストラが答える。
「……無論、ありません。ですが……」
出来るのか？ と言いたげなエストラの視線に、ウィッチは嘲った。
「ナメないでもらいたいわね。私を誰だと思ってるの？」
確かに、とエストラは想う。ウィッチは Neo Black Ghost 本部の医療センター長であった人物であり、また、タイラントのサイボーグ体の製作者でもある。そのタイラントから聞いた話では、００９の怪我を治療した事もあるという。
そして今、００９が、こんなに酷い有様であるにもかかわらず、どうにか死なずに済んでいるのも、ウィッチの処置があっての事なのだ。
「……お任せ…します」
そう言うエストラに、ウィッチが断固とした口調で言い返した。
「冗談じゃない。手伝いなさい」
一瞬、目を丸くし、そしてエストラが言う。
「すみません。……では、指示を御願いします」
それへ頷き、ウィッチは次々と用意すべき物を挙げていった。
☆
００９の手術は、一ヶ月近くにも渡って、断続的に続けられた。
損傷部品の切り離しに約二日。生体部品の修理に三日。それと平行してミーティングが繰り返され、修復不能な機械部品や生体部品の製作について、綿密な打ち合わせがなされた。
その為に、ギルモアが呼び出され、ついには００ナンバー達もが医療センターに呼び寄せられる。
００９を『元通り』にする事に、ウィッチは徹底して拘った。根掘り葉掘りギルモアを問い詰めて、当時の設計図の再現を試み、ギルモアの記憶が曖昧な部分に関しては、その基となった００ナンバーのサイボーグ体部分を分解し、構造を確認しようとする有様だった。
あまりと言えばあまりな協力要請に、００ナンバー達は絶句した。
だが、ウィッチは大真面目で、有無を言わせる気なぞ微塵もなかった。その鬼気迫る迫力に押され、００ナンバー達はその要請に応じたのだった。
結局。
００２、００４、００８の三人は、数日に渡って医療センターに釘付けにされ（後に００２は『ありゃ、立派な監禁だぜ』とぼやいたものだったが）、数回に分けて各部を分解／組立されたのだった。
やっとの事でウィッチから解放された三人は、ほうほうの体で地下菜園に逃げ込んだ。
だが、その彼等に向かってタイラントは、くったりとして言った。
「あんたらなんて、まだマシな方だよ。俺なんてなぁ〜、部品を取り上げられたんだぜ？」
そう言うタイラントに、００２は目を丸くした。
「後で返すから、貸しとけって。なんでも、造るには時間がかかるけど、それが無いと困るんだと」
カンベンしてくれよ、と嘆くタイラントに、００２はしみじみと言った。
「正気の沙汰じゃないぜ、まったく……」
それへ、００４が言う。
「とはいえ、たいした腕前だってのは、確かだな。ギルモア博士も感心してた」
まぁな、とタイラントが頷く。
「腕は良い。そりゃ間違いない。ただ……」
エストラ達は大変だろうな、とタイラントは苦笑した。
「ウィッチは、診療を受けるサイボーグ兵達からは絶大な信頼を寄せられてたけど、医療センタースタッフからは、無茶苦茶恐れられてたからな」
「何でだ？」
００８が問う。
「噂によれば、ウィッチはどんな些細なミスも見逃さないし、どんな僅かな手抜きも許さない、完璧主義者だ…って話だ。……もっとも、恐れられてはいても、憎まれたり恨まれたりはしてなかったようだけどな」
まぁ、キッツイ性格だって事だ。そう言うタイラントに、００８はなるほど、と頷いた。
「確かに……。言う事に容赦が無い…って言うか……」
「…身も蓋もないって言うんだよ、あーゆーのはよ」
００２が言葉を挟む。
「……そうだな」
確かに、と一同は溜め息交じりに同意したのだった。
００９のサイボーグ体を、完全に元通りにする。この事については、かなりの激論が戦わされた。
現在の技術をもってすれば、以前よりも優れた性能を持つように造る事は十分に可能だ。また、今回の一件を考えるに、生身のままが残されている感覚神経系を、多少は、間引いた方がいいのではないか？
そう言う者達に対し、ウィッチは断固として『元通り』にする事を主張した。
『上げて良いのは、部品の信頼性と耐久性だけよ』とウィッチは言った。性能を上げたり、まして感覚神経系を間引くなど、言語道断だと。1mg の重さの違いですら、許さない。ウィッチはそう宣言した。
『忘れないで。私達がしている事は、あくまでも００９の治療なのよ。新しいサイボーグ戦士を作ろうとしている訳ではないわ』
自分達が勝手に手を加えたら、それはもう『００９』では無くなってしまう。ウィッチはそう言った。
『治療が済んで、ジョーの意識が戻って…その上で、彼が望むのであれば、感覚神経を間引くんでも、リミッターを付けて一定以上の刺激が伝わらない様にするんでも、何でもするわよ』
とにかく００９が希望する事が絶対条件だ。本人の意識の無い間の勝手な真似は許されない。ウィッチはそう断言したのであった。
設計図の完了した部品を製作しつつ、生身の部分の経過を観察し、部品が揃い、生身部分にも問題が無いと判断したところで、ウィッチは００９のサイボーグ体を再構築する作業に取り掛かった。
これがまた、恐ろしく時間と手間のかかる作業だった。
一回の手術が一日以上に渡る事も、度々あった。
エストラ以下の『助手』達は、ウィッチの指示もあって、三交代で休息を取った。だが。ウィッチ自身は、開始から終了まで、手術室を一歩も出て来ないのが常であった。数時間毎に自分で自分に栄養剤の投与をするだけで。それは、驚くべき集中力だった。
僅かの間に、ウィッチはエストラを含む医療センターの全スタッフから、絶大な信頼を寄せられるに至っていた。
それは、神業にも等しい鮮やかな腕前が主原因ではあったが、スタッフに対する態度や、００９の治療に対する真摯さ故でもあった。
確かに、ウィッチは傍若無人で不遜な人物だった。徹底した現実主義者で、妥協を許さない完璧主義者でもあった。特に、００９の治療に関しては、徹底的に、一切の妥協を許さなかった。
だが。
ウィッチは融通がきかない訳でも、冷酷でも、まして非情でも無かった。
明晰な頭脳と卓越した腕前。冷たそうに見える言動や、支配的な声音が、ウィッチを冷酷非情な人間であるかのように錯覚させる。しかし、よくよく考えてみると、ウィッチは決して無茶な事を言わず、極めて合理的で公平だった。誰に対しても公平に突き放した態度と口調で、適切かつ的確な指示や助言を与える。
なるほど、とエストラはしみじみ納得した。
確かに、本部の医療センター長として、これ程までに適した人物は居なかっただろう、と。
その才覚と技量は、兄であるライをも越えているのではないだろうか、と。
☆
かくして。総ての手術は終了した。
タイラントから取り上げられていた部品も、無事に戻された。
最後の手術が終了してから三日、ウィッチは００９の容体を厳しくチェックした。しかし、問題は見当たらなかった。
そして。その日、ついに、ウィッチは全処置の終了を宣言したのだった。
「あとは……」
スタッフ一同を見回し、ウィッチは言った。
「…体力の回復を待つだけよ。００９の意識が戻るには、まだ一両日はかかるでしょうけどね」
何か懸念のある者は？ とウィッチが問う。スタッフ達はお互いに顔を見合わせた。ウィッチの処置は完璧すぎるほどに完璧で、容体をチェックする為の項目も、恐ろしく細かかったから、もう、何も言う事は無かった。
「……いいえ」
エストラが代表して答える。それへ頷き、そして、ウィッチは言葉を続けた。
「では…エストラ」
「は…はい…？」
「ここのセンター長は、あなただったわね？」
「え…？ ええ、まぁ……一応は……」
ウィッチの意図が判らず、エストラは首を傾げた。
「悪かったわね」
「え？」
きょとんとするエストラからスタッフ一同に視線を戻し、ウィッチは言った。
「指示に従ってくれて、ありがとう。感謝するわ」
一同が呆然とする。
そして。
「…ウィッチ…！」
エストラが駆け寄る間もあらばこそ、ウィッチはその場に倒れた。
☆
「よぉ」
ぼんやりと目を開いたところで声をかけられ、ウィッチはゆっくりと瞬きをした。
（……タイラント…？）
眉根を寄せて考え、そして、ウィッチは言った。
「ジョーの容体は？」
タイラントが苦笑する。
「…ったく……」
まずは患者の心配かよ、と想う。そして答えた。
「意識は戻った。エストラが言うには、とりあえず一安心だそうだ。まぁ、衰弱しきってるんで、殆どずっと眠ったままだけどな」
「そう……」
ウィッチが頷き、ほっと息を吐く。
「…よかった……」
「何か、食えそうか？」
そう問われ、ウィッチは軽く首を傾げた。
「食べた方がいいだろうけど……どのくらい眠ってたの？ 私は」
「二日ってところか」
「そう……。なら、まずは水とスープあたりからね……」
「了解」
苦笑混じりにそう答え、タイラントは立ち上がった。
☆
「最初に言っておくけれど、私がこの話をするのは一度だけ。もう二度としない。したくない。いいわね？」
会議室に集まった一同を見回し、ウィッチは言った。
「ああ」
００４が代表して頷く。
それを確認し、軽く息を吐き、そして、ウィッチは語りはじめた。
ウィッチは六ヶ月の間に起きた事を、事細かに語った。
クワイトの言った事。
００９の言った事。
クワイトのした事。
その総てを、ウィッチは淡々と語った。
あまりにおぞましい内容に、一同は言葉も無く、静まり返った会議室に、ウィッチの声だけが響き続ける………。
☆
「……四ヶ月を過ぎた頃から、クワイトには、徐々に余裕が無くなってきた。いや、その傾向は暫く前からあった。どんなに責めてもジョーが狂わない事に、クワイトは次第に苛立ってきたようだった。自分が苛立っている事そのものに苛立ちを感じているようだった。最初の日にジョーが言った『やりたいように行動しても、思い通りにはならない』という言葉通りになっているのだという事を、クワイトは感じていたのだと思う。けれど、それを認める事は負けを認める事だと、そう考えていたのだと思う」
抑揚の殆どない淡々とした口調で、宙の一点を見詰め、ウィッチは語る。
まるで、何も無い空中にその光景が見えているかのように。
「ある日、クワイトはふと私に言った『つまらん』と。『何が？』と尋ねた私にクワイトは憮然として言った。『わからない』と。思い通りにしているのに。ジョーを苛み、苦痛と恐怖の悲鳴をあげさせても、それを見ても、その感情を感じても、面白くないのだ、と。けれど、クワイトは他にやりたい事は無いと言った。外に出たいとも、全く思わない…と。ジョーを苦しめる事以外には、何一つとして望みが無いようだった。そして、その望みが叶えられているのに、満たされないと…そう感じているように私には思えた。そして、それが何故か解らず、解らないというその事が、クワイトを苛立たせているようだった」
ふと息を継ぎ、ウィッチは更に言葉を続けた。
「ジョーの方は、全く変わらなかった。肉体的にはかなりのダメージが蓄積されてきていたけれど、精神的な強靭さは微塵も揺らいではいなかった。クワイトが苛立ちを隠せなくなってくるのに従って、ジョーの方は…肉体的にはともかく…精神的には、余裕すら伺えるようになってきていた」
☆
「……六ヶ月目に入ったところで、クワイトは自分自身を見失ったようだった。自分が何の為に存在しているのか、判らなくなったようだった。殆ど何もせずに二日程を過ごした後、クワイトはジョーに言った。『私を殺せ』と。『私を殺して、仲間の元へ帰るがいい』と。けれど、ジョーは断固として、それを拒否した」
ウィッチはそこで溜め息を吐いた。
「それからが、大変だった。クワイトはジョーに自分を殺させる事以外、もう何も考えてはいないようだった。クワイトは言った。『お前は私を憎んでいる筈だ。殺したいと想っている筈だ』と。ジョーはそれを肯定した。けれど『でも、僕はあんたを殺さない。憎んでいるという事は、他人を殺す理由にはならない』と言って、クワイトを殺す事を断固として拒否した。クワイトは、ジョーの言う事が全く理解できないようだった。クワイトはジョーを責め苛んでは『私を殺しさえすれば、この苦痛から逃れられるのだぞ』と、そう言い続けた。ジョーはそれでも『嫌だ』と拒み続けた」
☆
「最後の一週間は、本当に地獄絵図だった」
乾いた声でウィッチが語りつづける。その瞳からは、壊れたように涙が零れ落ち続けていた。しかし、ウィッチの声は震える事もなく、激しくなる事もなく、抑揚のない平板なその口調からは、一切の人らしい感情が感じられなかった。うつろな瞳から涙が流れ落ているのにもかかわらず、宙の一点をぼんやりと見詰めたまま、淡々と語りつづける姿は、正気とも思えない。
「まるまる一週間、ジョーは、ほとんどずっと、悲鳴をあげっぱなしだった。クワイトの方も、何も飲まず何も食べず眠る事すらせず、ひたすらジョーを責めつづけた。一体、どっちがどっちを責めているのか解らない有り様だった。二人共、とっくに体力の限界に達していたから、それはもう、お互いに相手の気力を削り取りあってるようなものだった。クワイトはどんどん衰弱していった。当然だ。生身の体で一週間も飲まず食わず、その上眠りもしなければ持つ筈がない。けれど、私が手を出す事を彼は断固として拒んだ。だから薬を使って眠らせる事も、栄養剤をうつことすら私はしなかった。というよりも、もうその頃は、私はジョーだけで手一杯だったから、実際問題としてそんな余裕は無かった」
ウィッチは微かに首を振った。
「ジョーのダメージは深刻だった。クワイトは、生命維持に必要な機構には直接ダメージを与えはしなかったけれど、最早、そういう問題ではなくなっていた。どこもかしこもボロボロで、それが生命維持部分にも大きな負荷をかけていた。仕方なく、私は外部の生命維持装置をバックアップとしてジョーに繋ぎ、負荷を分散させ、とにかく機能の停止を阻止する事に全力をあげた。けれど、そうやって私が処置をしている間でさえも、クワイトはジョーに悪夢を見せて苛んだ。ハッキリ言って、どうしてジョーが死ななかったのか、私には解らない。いつ死んでもおかしくなかった。それ以上に、ジョーが狂わなかったのは脅威だ。屈さなかった事も……」
ゆっくりと瞬きをし、ウィッチは言葉を継いだ。
「ついにクワイトは立つ事すらできなくなった。それでもクワイトは、何とかしてジョーに自分を殺させようと、『殺す』と言わせようと、ひたすらジョーを責めつづけた。けれどジョーは『殺さない』の一点張りだった。そして、最後の日…」
一瞬、ウィッチの言葉が途切れる。けれど、それは本当に、一瞬の事であった。
「クワイトは私に言った。『もういい。もう、いらない。あんなおもちゃは、もう、いらない。ライの研究所に捨ててこい』と。それが彼の最後の言葉だった。クワイトは意識を失って、二度と目を開けなかった。２０分後に呼吸停止。その直後に心臓停止。クワイトは…死んだ」
静寂が会議室を包む。
「私はジョーの傍に行ってその事を告げた。それを聞いてジョーは微かに目を開けて頷き、意識を失った。信じられない事だけれど、ジョーは狂ってはいなかった。正気だった。それから私はロボットを使って、ジョーを連絡艇に運んだ。バックアップの生命維持装置を運び込む事は出来なかったから、ここに着くまで果たしてジョーが持つかどうか、全く確信が持てなかった。けれど。あのままあそこに居たとしても、状態が悪化するだけで、良くなる事があるとは思えなかった。一刻を争う状況だったから、私は総てをそのままに、連絡艇を発進させてこの研究所へ向かった……」
ゆっくりと息を吐き、ウィッチは一同を見回した。
「…後はあなた達の知っている通りよ。クワイトは死んだ。ジョーの……勝ちよ」
そして、ウィッチは口を閉じた。
☆
微かに氷の気配を感じさせる風が、陽に照らされた麦藁色の髪を、軽く宙に舞わせていた。薄氷の瞳が、眼前に広がる針葉樹林と、その向こうの空とを、ぼんやりと見る。
研究所の屋上。
その端に立つウィッチの姿を見つけ、００４は軽く溜め息を吐いた。
（……やっぱり…ここか……）
００９の全処置を終え、地獄の六ヶ月の顛末を語って以来、ウィッチは、よく、一人でここに立っていた。放っておけば、何時間でも立ったまま、空と森とを眺めていた。
（まぁ、無理も無い…か……）
考えてみれば、ウィッチは最愛の相手を失った直後なのだ。しかも。ここに居るのは、その相手を『敵』とした者達だけ。いや。この世界の何処を探しても、彼の死を悼む者は居ないのだ。ウィッチ以外に。
無論、ウィッチはその事を知っている。知っていて、それでもクワイトに付いて行く事を選んだのだ。『彼が悪を為すのなら、私も一緒に悪を為すわ。共に地獄へ堕ちられるようにね』そう言って。
（だけど……結局、クワイトは死に、ジョーは助かった……）
それは、ウィッチの行動の結果なのだ。
最愛の相手が隣で死ぬのを見つつ、ウィッチは００９の命を救う事に全力を上げた。自滅的な死へと向かうクワイトに対しては、何一つせずに。
それが彼女の愛の形なのだろうか？ と００４は想う。最愛の相手が、自ら望んで破滅に向かうのを、ただ黙って見る事が。
（……そう…なんだろうな……）
相手の総てを無条件で受け入れるというのが、ウィッチの愛し方だったのだろう。それは、かつて『クワイト』になる前の彼を、彼の在り方を、ライが否定した結果を目にしたからなのだろうか？ それ故に、もう二度と彼の一片たりとも否定しないと、そう想ったのだろうか？
（………）
小さく首を振り、００４は物思いを断ち切った。結局、他人の心は判らない。自分の苦しみが他人には解らないように、他人の苦しみは自分には解らない。
（……自分の苦しみは、自分だけのもの…か……）
「ウィッチ……」
ゆっくりと歩み寄りつつ、００４は声をかけた。
「…下の菜園で、チアフル達がお茶でもしなかって…言ってるんだが……来ないか？」
「……ありがとう」
００４の言葉に、ウィッチは静かに答えた。抑揚の無い、感情のこもらない口調で。
「せっかくだけど…私はいいわ……」
彼方の空を見たまま、ウィッチは言った。
「………」
話の接ぎ穂を失って、００４は小さく首を振った。毎回、この調子なのだ。決して邪険にする訳では無いのに、ウィッチの言葉にも態度にも、明確な拒絶があった。
まるで、透明な壁の向こうに居るようだ、と００４は想う。何を言っても、何をしても、その透明な壁に阻まれて、ウィッチには届かない。
嘆息。
「……そうか…」
仕方無く、００４は引き下がった。強引に連れて行く事もできた。やってみた事もある。けれど。何処にいようとも、ウィッチは一人だった。その瞳には、目の前にある現実ではなく、あの六ヶ月の光景が映っているかのようだった。
「…風邪をひく前に…中に入れよ……」
そう言って、踵を返す。
「…ありがとう」
抑揚の無い言葉が追ってきて、００４はもう一度、深い溜め息を吐いた。
踵を返して建物の方に踏み出し、００４は足を止めた。
（………）
考える。
そして……。
００４は、再び振り返り、ウィッチの方に歩み寄った。
隣に立って横目でチラリと見遣り、それから、００４はその視線が向く、彼方の地平線を見る。
沈黙。
隣に立つ００４に気付いているのかいないのか、ウィッチは身動ぎ一つせず、視線どころか注意すら向けない。ただ、地平線の彼方を見ているだけ。
どこまでも澄んだ、空を。
「……何を…見てるんだ…？」
００４が問う。
沈黙。
そして、ウィッチが答えた。
「………何も……」
再び沈黙。
こうしていると、色々な音が聞こえて来る。普段は気にしないような、微かな音が。
さやさやという木々のざわめき。
微かな風の音。
その音は、命の音だ。
動くものの音。
この大地が生きている証拠。
「……こうしてるのも…悪くないな……」
長い沈黙の後、ふと００４は言った。
（…悪くない……確かに………）
考えてみれば、こうやって何もせずにぼーっとした事があっただろうか？ 特に、ここ数ヶ月は、本当に激闘につぐ激闘の日々であった。ぼーっとする暇なんか、何処にも無かった。
００９を欠いた８人と、タイラント。この９人で…無論、留守司令ディグを始めとした面々のサポートはあったものの…戦ったのだ。息つく間も無い、ギリギリの闘いを。戦力では、圧倒的に不利な戦いを。
ただ、ひたすらに。
誰に頼まれた訳でも、誰に強制された訳でも無い。それは自ら望んだ闘いだった。生きる為であり、そして、守る為だった。この『世界』を。
だが。
そうやって守った世界を、自分は……
（…ろくすっぽ…見てなかったよな）
苦笑する。
勿論『俺がこの世界を守ったんだ』といった傲慢な気持は、唾棄すべきものだ。けれど、こうやって世界の鼓動を感じ、『これを守りたいんだ』という想いを新たにする事は、必要な事だと想う。そうでなければ、いつか、自分を見失うかもしれない。自分が闘う意味を。
（そうだ……俺は、戦いたいんじゃない……）
戦う為のサイボーグではあるけれど。その為の存在ではあるけれど。
と。
「……何を…見ているの……」
ウィッチの言葉が００４の物思いを遮った。
「…あ……」
そう尋ねられ、ハッとする。
（何を…？）
暫し考えて、００４は答えた。
「……何も……」
肩をすくめ、言葉を続ける。
「…悪い、さっきのは、愚問だったな……」
そう。その質問は、つい先刻、自分がウィッチに向けたものだった。『一体、何をやってるんだ？』と思って。
けれど、今。
ウィッチに問い返され、自分はその時のウィッチと同じ答えをしている。
「……確かに、ここに立ってるからって…何かを見るって訳じゃあ、ないんだな。目で見なくても…感じられる事が…あるんだな……」
くだらない事を尋いた。悪い。そう言う００４を、ウィッチはゆっくりと見た。
「……まったく……」
嘆息。
「？」
００４がウィッチを見る。
「…ウィッチ…？」
薄氷の瞳から涙が零れ落ち、頬を伝った。
「まったく……」
泣き笑い。
「…ジョーといい、あんたといい……どうしてそうなの。なんだって、そんなにお人好しなの……。ちゃんと判ってるの？ 私は『敵』なのよ？」
ウィッチの言葉に００４は目をしばたたかせた。
「そうなのか？」
「馬鹿！」
「違うのか？ あんたはジョーを、助けてくれたじゃないか」
クワイトが死んだ後、ここまで連れて来て、治療に全力を傾けてくれた。そう言う００４の台詞に、ウィッチが首を振る。
「それは、クワイトが『ライの研究所に捨てて来い』って言ったからだし、私が医師だからよ」
「けど。あんたには、ジョーを助ける理由なんて無かっただろ？」
そう言う００４を、ウィッチはキッと睨んだ。
「馬鹿にしないでちょうだい。私は医師なのよ。目の前に居る者を黙って死なせるなんて事が、できるとでも？ どんなに可能性が低くても、何もせずに死なせるなんて……した事…無いわ……」
そこで言葉を切り、ウィッチは俯いた。
「…私が…何もせずに死なせたのは……クワイト…だけ……」
呟き。
（ウィッチ……）
最愛の相手を、最愛の相手であるが故に、その望むままに死なせた。それは、医師としてのウィッチの信条からは外れる事で……。
もしも、ウィッチがクワイトの意志に反してその命を助けていたら、多分、００９は死んだだろう。いくらウィッチが手を尽そうとも、あの状態では、そう長くは持たなかった筈だ。
結局。ウィッチが、クワイトと００９の運命を決めたのだ。
「ウィッチ……。俺は…俺達は、あんたに感謝しているんだ。あんたがジョーを助けてくれた事に。けど…それは、あんたにとっては…最愛の相手を失う事だったんだよな……」
それに感謝されても、困るだろうな。そう言って００４は溜め息を吐いた。
「すまない…ほんとに……」
「…馬鹿……」
震える肩に手を伸ばしかけ、けれど、００４はその手を止めた。機械の手。それは手の形をした武器。
（………）
躊躇い。
と。不意にウィッチが手を伸ばすと、００４の腕を掴んだ。
（…え…？）
「まったく……」
引き寄せられる。
「…Black Ghost の連中も、手の抜き過ぎなのよ」
麦藁色の髪が００４の胸に触れて。
「……いくら試作サイボーグの被験体だからって…」
震える髪を、００４はそっと撫でた。
「…もうちょっとマシな奴を使うべきだったのよ」
押し殺した笑い。
「よりによって…こんな……お人好しの大馬鹿者を使うなんて……」
笑いと鳴咽とで震える肩を、００４はそっと抱き寄せた。
「…まったく……馬鹿ぞろいなんだから……」
☆
「具合は…どうなの？」
入ってくるなり、まずそう尋ねるウィッチに、００９は苦笑した。
「うん。大丈夫だよ……」
「そう？」
簡単に請け合う００９に、ウィッチが疑わし気な視線を向ける。
「本当に？ だるかったり、どこか痛みがあったり…しない？」
「うん」
「ほんの少しでも変な感じがしたら、即刻、エストラに言うのよ」
「うん」
００９が大きく頷く。それをじっと見詰め、ウィッチは息を吐いた。
「……なら、いいわ」
「それで？ 話っていうのは？」
ベッドサイドの椅子に座って、ウィッチは問い掛けた。
「あのさ…ウィッチ……。その…頼みが…あるんだ……」
「何？ 私に可能な事だったら…何でも言って頂戴」
ウィッチがキッパリと言う。それへチラリと視線を送り、００９は唇を噛んだ。
「あの…」
目を伏せて軽く息を吐く。そして、００９は瞳を上げ、真っ直ぐにウィッチを見た。
「…ライを……許してやって欲しいんだ……」
（……え？）
ウィッチは目を見開き、００９をまじまじと見た。その、澄んだ茶の瞳を。
「……ライが…クワイトにした事を考えれば……とても許せないだろうって……そうは…思うよ。けど……」
真摯な視線。
「けど…さ、ウィッチ。……ライは…その償いをしようと…ほんとに一生懸命にやってきたんだよ。カティサックや、チアフルや、エストラ達をここに集めて…彼等を守りながら……何とかして、自分やった事の償いをしよう…って……」
「………」
「決着は…ついた……。あんたには…辛い結果になっちゃったけど……でも、それは僕の所為で、ライの責任じゃない。だから……ライを、許してやって欲しいんだ。……今すぐは無理でも…いつか……」
そして、００９は口を閉じた。
ウィッチがゆっくりと俯き、溜め息を吐く。
「ジョー……」
額に手を当てて、首を振る。
「…駄目…かな……」
「違うわ……」
「え？」
「違うの……。そうじゃない……そうじゃないでしょうっ？」
不意に顔を上げて、ウィッチは叫んだ。
「な…なに？」
掴み掛からんばかりのウィッチの勢いに、００９が目を丸くする。
「…ウィ…ッチ……？」
「違うでしょ！」
「え？」
何がどう違うのか、００９にはサッパリ解らなかった。
「違うでしょ。私に頼むのは、そんな事じゃないでしょ？ もっと他に、頼む事があるでしょう？」
「？？？」
何が言いたいのか予想もできない００９は、ただただ目を丸くするばかりだった。
その００９を睨み付け、苛々とウィッチが言う。
「私が誰か判ってるの？ 私が何者か、忘れたの？ 私はっ…！ 私は生体学者にして医師なのよ？ Neo Black Ghost 本部の医療センター長だった人間よ？ 私がどれだけのサイボーグ兵士をこの手で造ってきたと思ってるの？ 今のあなたのサイボーグ体だって、私が造ったようなものなのよ？ 以前の体、そのままに！」
「……うん…ありがとう……それは勿論…」
感謝してるよ、と言う００９の言葉を、しかし、ウィッチは聞いていなかった。
「私があなたのサイボーグ体を以前とまったく同じように造ったのは、あなたの意志を確かめないで勝手な事をする訳にはいかないと想ったからよ。だから、『００９』のサイボーグ体を、忠実に再作成したのよ。けど！」
そこでウィッチは言葉を切り、息を継いだ。
「けどね。ジョー。私には、あなたのサイボーグ体を、もっと優れたものにする事が可能なのよ？ あなたが望むなら、もう二度とあんな目にあわされたりしないように、感覚神経を間引いて苦痛を感じずらくする事だってできるのよ？ 神経系にリミッターをつけて、一定以上の痛みを感じないようにする事だってできる。あるいは逆に、強度を落として、死ぬ程の痛みを感じるようなダメージを受けたら死ぬように……生身の人間と同じダメージで死ねるようにすることだって…できるのよ。あるいは…時間さえ貰えれば、機械部品の殆どを生体部品にして、生身と変わらない状態に近づける事だって、可能なのよ？ それなのに！」
息を切らせ、００９を睨む。
「…それなのに……あなたは何を言ってるの。他人の心配をする前に、自分の事を考えなさい！ 自分の為になる事を、望みなさいよ！」
「……ウィッチ……」
ゆっくりと瞬きをし、００９は笑った。
「…なんか…まるで魔法使いみたいだね……」
「そうよ。ことサイボーグに関しては……」
不可能な事なんて、無いに等しい。そうウィッチは言う。
「さぁ……あなたの望みは…何なの？ どうして欲しいの？」
「…うん……」
首を傾げて視線を宙にさ迷わせ、そして、００９は答えた。
「僕は…このままでいいよ」
「な…んですって？」
「このままでいいんだ。今のままで、僕は十分だよ」
絶句するウィッチを見返して笑う。
「痛みを感じなくなったら……僕は、自分が人間だって事を、忘れちゃいそうで…恐いよ。生身と同じ強度しか無くなったら、戦えない。戦えないのは…困るよ。だって、僕には守りたいものがあるから」
「……じゃあ。もっと強く……」
「今のままでも僕は十分に強い、クワイトはそう言ったよ」
「………」
「僕もそう思う。強すぎるよ、『００９』は。これ以上強くなっても、力を持て余すだけだじゃないかな？」
「ジョー……」
「それに、僕には仲間が居る。一人で戦う訳じゃない」
そう言う００９を見詰め、ウィッチは首を振った。
「何も…無いの？ 本当に？ 何も…自分の為に望む事は、何も無いの？」
「そう…だね……。僕には帰る場所だってあるし、待っててくれる人もいる。守りたいモノを守る為の力だってある。一緒に戦ってくれる仲間だって……。だから、あとは僕次第なんだ。僕が、この力をどう使うか。あとはもう、それだけなんだ。だから……」
これ以上、何も望むものなんて無い。欲しい物は全部持ってるから。
「……望みじゃなくって、願いなら…あるよ」
そう言って、００９は笑う。
「世界が平和になって、皆が幸せになる事……。でもこれは、叶えてもらう事じゃないだろ？」
たとえ、本物の魔法使いが、どんな望みだって叶えてくれると言ったとしても。
これは願いであって、祈りであって、叶えて貰うものでは無い。世界中の総ての人に、そう願って欲しい。けれど、それを強制する事はできない。
「総ての人がそう想う日が来たら、その日が、Black Ghost の滅びる日だよ。そんな日は来ない…ってそう言うだろうけど……僕だって、そうかもしれないって思うけど……でも、僕はやっぱり、そう願うよ。願わずにはいられない。そして、その日が来るまで……」
闘う。
そう言って笑う００９に、ウィッチは深い溜め息を吐いた。
「………わかったわ……。気が変わったら、いつでも言って頂戴。私が生きている限り、いつでも……。まぁ、できれば…腕が鈍る前に」
「ありがとう」
「それから……。あなたの頼みは……」
唇を噛み、ウィッチは言葉を続けた。
「…判ったわ。でも……」
「今すぐじゃなくてもいいんだ……いつか……」
ライを許してやって欲しい。
その言葉へ、ウィッチは小さく頷いた。
「努力…してみるわ……」
☆
別れの日は、刻一刻と近付いていた。
Neo Black Ghost の施設は、その総てを破壊する。それが全員一致の方針だった。
００９が持ち出してきた Neo Black Ghost の極秘資料。それに記されていた拠点は、既にその総てを壊滅させていた。暫く間をおいて、それらの場所を再び見回る。残党が潜り込んでいないかどうか確認する為に。
ヒマラヤ山中のバイスの基地にも、００４、００２、００８とタイラントの四人が向かい、爆破作業を行った。クワイトの遺体は…ウィッチの希望で…そのままにされ、基地の残骸と共に地中深くに埋められた。
瓦礫の山が、クワイトの墓標となった。
そして。
今や、残された Neo Black Ghost の施設は、自分達が居るこの研究所だけであった。
００４達がそういった作業に奔走している間、００９の主治医たるエストラは、ウィッチと討議を重ねた。検査が繰り返され、激論が交わされる。
やがて、００９は起きる事を許され、研究所内を歩く事を許されるようになった。
普通の生活をする分には問題無いと判断されたところで、ウィッチは００９のサイボーグ体の性能テストに取り掛かった。それは、さしもの００９も辟易する程に詳細なものだったが、ウィッチは断固としてそれを敢行した。
適当なトコロで切り上げようと言う００９を睨み、ウィッチは言った。『性能を上げなくていい。下げないで欲しい。そう言ったんなら、前と同じ性能かどうか、ちゃんと確かめさせなさい』と。適当でいいって言えば良かった…と嘆く００９を、ウィッチは一喝した。『守りたいモノを守る為の力が、必要なのでしょう？』それは確かにそうだったから、００９に返す言葉は無く……。
結局、性能テストは一週間にも及んだのだった。
全テストが終了し（仕上げとして模擬戦闘が行われて、相手をしたタイラントが医療センターに担ぎ込まれ）、三日かけてテスト結果の詳細分析を行った後、ついに、エストラとウィッチは００９の『完治』を宣言した。
ちなみに、医療センターに担ぎ込まれたタイラントは、何の損傷も受けていなかった。単に気絶させられただけで。
それはつまり、００９が完全な状態にあるという事を意味していた。
『設計上の性能差がかなりあるタイラント相手に、怪我一つさせず勝てるんだから、まあ、大丈夫でしょ』
ウィッチはそう言って、００９の完治を認めたのであった。
かくして、この研究所を引き払う計画は、本格的に始動した。
運び出す荷物が取りまとめられ、データ類は破棄される。
破壊すべき物を集め、爆薬を仕掛けるべき場所の選定をし、必要な爆薬を用意する。
チアフルが断固として主張した為に、地下菜園の植物も運び出される事になり、これがまた一騒動だった。
協力を求められて気軽に応じた００２は、一日目でそれを後悔した。何しろ、総ての植物を、しかるべき場所…つまりは、それらの植物が野外で自生できる場所…へ運んで植えて来い、と言うのだ。『んな無茶な』と言っても、チアフルは聞く耳を持たなかった。『この辺に植えたって、あっという間に枯れちゃうよ、可哀相だろ？』と言われると００２としても頷くしかなく。結局、遠くへはドルフィン号で、近場は自分で飛んで、００２は世界各地に植物を植えて歩く羽目に陥ったのであった。
☆
「こんな所に居たのね」
声をかけられて、００９は振り返った。
「フランソワーズ…」
研究所の屋上。その出入口に００３が立っていた。
「何を…見ているの？」
そう尋ねる００３に、００９は苦笑した。
「何も……」
ただ何となく、空が見たくて。そう言って、００９は再び地平線の向こうに視線を向けた。
「長かったわね……」
隣に立って一緒に空を眺めつつ、００３は呟くように言った。
「…うん……」
「でも……」
「終わった……」
「…ええ……」
００３が頷く。
Neo Black Ghost は、完全に壊滅した。無論。消滅した訳ではない。自らの欲望のままに行動する者が居る限り、他人の苦しみを理解しない者が居る限り、平和を願わない者が居る限り……いつの日にか、黒い幽霊は再び目覚めるだろう。
けれど。
今は、つかの間の平和の時。
ふと空を仰ぎ、００９は言った。
「僕は…クワイトと出会えて…良かったって、思ってるよ」
「ジョー……」
信じられない、と言いたげな００３の瞳に笑いかける。
「今思えば…だよ。その時は…そりゃあ……」
なんでこんな奴が居るんだと思った。クワイトの存在そのものを呪い、出会った運命を恨んだ。
「でもね……。クワイトのおかげで、僕は…強くなれたと思う」
誰の心にも、闇はある。他人を憎む心。恐怖や欲望。それは、誰にでもあるのだ。
（そう…僕にも……）
それを見ないように、考えないように、そうしてきた。だが。
（それじゃあ、駄目なんだ……）
自分の中の闇を、弱さを、それを否定しても意味が無い。なくす事も出来ない。
クワイトは、００９が目を背けて来たそれらを暴き、そして、それに直面する事を強制した。
けれど。
それは、００９が闘うべき本当の『敵』の正体を知らせてくれる事に他ならなかった。
（そうだよ……本当の敵は……）
「ジョー？」
「あ…うん……」
心配気な声に、００９はハッとした。
「大丈夫？」
「……うん……ごめん……」
「そろそろ、中に入らない？ 日も傾いてきたし…」
そう言う００３に００９は頷いた。
「そうだね」
本当の敵は、総ての人の心の中に居る。心の闇に。
勿論、この自分の心にも。
（クワイトは…その事を……教えてくれた）
☆
そしてついに、最初の別れの日。
全員が一緒にドルフィン号に乗れない為、行き先別に、何回かに分けてここを発つ事になっていた。
その、第一陣の出発の日。
その日出発するのは、エストラ以下の医療センタースタッフと、ライとアイラニ、そしてタイラントであった。
行き先は、中東。
結局、帰る場所も無い彼等は、医師の不足している難民キャンプへ行く事にしたのであった。アイラニはライの行くところであれば何処へなりとも付いていく構えで、タイラントは……。
「僕達と一緒に…日本に来る気はないのかい？」
そう尋ねる００９に、タイラントは苦笑した。
「そう言って貰えるのは嬉しいんだがな……。俺の故郷は、あっちの方だし……」
そこで言葉を切り、唇を噛む。
「なんていうか……決着を…つけなきゃならない事が…あるような気がするんだ」
何をどうすれば決着になるのかは、まだ判らない。けれど、何かしなくてはならないと想う。そうタイラントは言った。
「そ…っか……」
００９は小さく頷くと、タイラントを見上げた。
「タイラント……本当に、ありがとう」
「ジョー…？」
「君は…僕が一番苦しかった時に…僕を助けてくれた。もう二度と仲間の下に戻れないと想って…それでも闘わなきゃって想って…けど、闘える自信なんて無くて……絶望して、死にたくて、そう望む自分が嫌で……たった一人で闇の中に居た時に、君はずっと僕を支えててくれた。君がいなかったら、僕は死んでいた。……ありがとう」
「…ジョー……」
呟き、タイラントは首を振った。
「それを言うなら、俺だってそうだ。お前がいなけりゃ、俺だって…未だに闇の中にいただろうさ。他人を殺す事以外に、自分の存在意義を確かめる方法が無い……戦う機械のままだっただろうよ。だから……」
と、タイラントが苦笑する。
「…お前にゃ悪いけど、俺はクワイトの野郎に、ちょっとばっかり感謝してるんだ。結局、俺をお前に会わせてくれたのは…あの野郎だからな……」
それへ、００９は答えた。
「僕もだよ」
笑顔で。
「…兄さん……」
長い年月を過ごした部屋を後にして、離着陸口へと向かうライは、その途中の廊下で呼び止められた。
「……エカテリーナ……」
溜め息のように答え、ライは振り返った。
「……兄さん。私は…あなたを、一生、許さない……」
向けられた視線を受け止める事ができず、ライが俯く。
「…そう、想っていたわ」
「…エカテ…リーナ……？」
つと、ライが視線を上げる。その視界の中で、ウィッチはゆっくりと首を振った。
「けど……許すわ」
その言葉に、ライが呆然とする。
「それで、あなたの犯した罪が消える訳じゃない。でも……」
嘆息。
「でもね、兄さん。私には……もう、あなたに対して憎しみを掻き立てる事が…できないのよ」
「…エカテリーナ……」
「ジョーが……ジョーが、あなたに代わって償いをしてくれた。私の憎しみを…消し去ってくれた。だから……」
もう、憎しみを持ち続けられなくなってしまった。そう言って、ウィッチは苦笑した。
「まったく…たいした坊やだわよ、ジョーは……」
そう思わない？ と尋ねられ、ライは頷いた。
「ああ……そう…だな」
そこへ、全館放送が流れる。
『くぉら〜！ ライ、どこに居んの？ 遅刻だっての。発進できないだろー？』
チアフルの声。
それへ、ウィッチがクスリと笑った。
「まったく…時刻表がある訳でもないのに……」
そう言って肩をすくめ、ウィッチがライを促す。
並んで離着陸口へと歩きながら、ウィッチは話を継いだ。
「私は、とりあえず家に帰ってみるつもり。父さんと母さんがどうなったか、判らないけど……」
落ち着いたら、ジョーに連絡する事にしてあるから。そう言って隣を歩くライを見上げ、ウィッチは言った。
「…たまには、顔でも見せに来て頂戴」
「あ…ああ……」
「中東の方は、政情が不安定だから、十分に気を付けてね。ぼけっとしてて、流れ弾に当ったりしないように。……まぁ、アイラニが一緒なら、大丈夫だとは思うケド……。意外と間抜けなトコがあるからねぇ、兄さんは……」
心配だわ、というウィッチにライは言った。
「気を付ける。……エカテリーナ…お前も……元気で」
「ええ」
「すまなかった……」
「…終わった事よ……」
「そう…だな……」
☆
「は？」
チアフルの言葉に００２は目を丸くした。
「なんだって？」
「俺は、ウィッチに付いてくって言ったの」
「………」
絶句。
「…な…なんだってまた……」
呆然と問う００２に、チアフルは、にぱっと笑った。
「だぁってさぁ…。ウィッチってばもー、俺の好みにピッタリ〜！」
「は…？ ……あんな…キッツイ女の何処がいいんだ？」
お前、趣味悪いんじゃないのか？ そう問う００２の言葉を、しかし、チアフルは全く聞いていないようだった。
「一途で、ひたむきで、そして可憐……」
へらへらするチアフルを見、００２が唸る。
（…一途…？）
まぁ、クワイトを…あんな風になっても…ずっと想い続けたトコロは、一途…と言えなくも、無い。
（……ひたむき…？）
完璧を追求して一歩たりとも退かない様を、ひたむき…と解釈できなくも、無い。
（………可憐…？）
そこで００２は頭を抱えた。
（…わからん……）
何をどう見ると、あのウィッチが可憐に見えるのか？
溜息。
それに、と００２は思う。
「……あのなぁ…まぁ、お前がウィッチを気に入ったのは、まあ置くとしても……ウィッチの前彼…」
てのも妙な表現だ、と思いつつ００２は言葉を継いだ。
「…ってのは、あのクワイトなんだぜ？」
アレがウィッチの好みなんだぜ？ 太刀打ちできないって。そう言う００２に、チアフルは人差し指を立てて横に振って見せた。
「ちっちっち……イタリア男を舐めちゃ〜イカンぜ、ジェット〜」
へらへらと笑う。
「世界一ナンパな民族、ラテン系の情熱の炎で、あの氷のような彼女の瞳を、溶かしてみせようじゃあないかっ！」
（……駄目だこりゃ…）
００２が頭を抱える。その背中をバンバンと叩き、チアフルは言った。
「まーそーゆーワケで、彼女の事は、この俺にま〜かせて！」
勿論、その事に異存など、カケラも無い００２であった。
☆
未だ明けやらぬ蒼天に、キラリと輝く翼。
ナロドナヤ山中にあるライの研究所。その上空を、ドルフィン号が旋回していた。
「みんな…忘れ物は、無い？」
コクピットの中を見回して、００９が仲間達に問う。
お互いに顔を見合わせ、そして、全員が頷いた。
「…ああ」
「ない」
「ん…」
「いいアルね」
「大丈夫だ」
「いいよ」
「ええ……」
それへ頷きかえし、００９は起爆スイッチを手に取った。
「じゃあ……やるよ……」
目を閉じて、唇を噛み、目を開く。
そして。
カチッ……
微かな音。
ドルフィン号のスクリーンの中で、建物が、内側に向かって崩れ込んで行く。
それは、すべての終わりを告げる光景だった。
「終わった…な……」
００４が言う。
「うん……。でも……」
００９の応えに００２が苦笑する。
「俺達の『闘い』は、終わっちゃいない。そうだろ？」
「うん……」
一つの戦いは終わった。長く辛い戦いが。
「…帰りましょう……」
００３が言う。
「……そうだね…」
これはつかの間の平和。
けれど。
だからこそ。
平和な日々を享受しよう。
自分の守ったもの、守りたいもの、それを確認する為にも。
「…帰ろう」
頷いて、００９は操縦幹を握った。
上昇。
乱気流を貫いて、高度を取る。
翼の先から白い雲が生まれ、ちぎれて飛ぶ。
半円を描く地平線の向こうから、今日の太陽が、最初の光を投げかける。
大きく旋回、進路は南東。
目指すは、日本。