「タイラント」
ヒマラヤ基地に到着したところで、バイスはタイラントを呼んだ。
「はっ」
「お前は、この連絡艇で本部に戻り、ドクター・クワイトに、００９の護送が終了した事を報告しろ」
「了解しました」
敬礼するタイラントへ、もう興味を失ったかのように、バイスは軽く頷いた。
その脇を、麻酔で眠らされた上、更に厳重に縛り上げられた００９が、兵士達に運ばれていく。
それを見るバイスの嬉しそうな瞳に、タイラントは内心で肩をすくめた。
（……悪趣味だぜ……ったくよ……）
必要ならば拷問も辞さないというのは理解できるが、そのどこが楽しいのやら、と思う。
（…００９…か。……まったく、不運な奴だな……）
よりによって、バイスに拷問される羽目になるとは。なるべく早く吐いちまうんだな、そうすれば……と思い、タイラントは小さく首を振った。
（駄目…か……）
組織に敵対した者は、嬲り殺しにされるのが不文律だ。情報を吐いたところで、楽に死なせて貰える保障は無い。しかも、バイスにとって、拷問というのは、半分以上、趣味なのだ。
（まぁ……早く死ねるように、祈っといてやらぁ……）
そう呟き、タイラントは踵を返した。

「……ぅ…」
低く呻き、００９は目を開いた。ぼんやりとした視界に、コンクリートの床が映る。
（……ここ…は……？）
「…っ……」
手首と両肩の鈍い痛みに、００９は、自分が両の手首だけで吊り下げられた状態であるらしい事に気付いた。
（………）
呼吸を整え、気配を探る。しかし、薄暗い室内に居るのは自分だけのようだ。
そこで、００９はゆっくりと顔を上げ、油断無く辺りを見回した。
それから、右手を見上げる。
（…なる…ほど……）
手首に枷が付けられ、その枷から、ワイヤーが右斜め上に向かって伸び、天井に取り付けられた滑車のようなものに巻き付いていた。その滑車でワイヤーを巻き上げて、高さを調節したりするのだろう。
左手を見上げると、同じように手首に枷が付けられ、そこからワイヤーが左斜め上の天井に向かって伸び、右と同じ様な滑車に巻き付けられている。
見下ろせば両足首にも枷が付けられ、こちらは床の金具に繋がれていた。
（………）
００９は大きく息を吸い、そして、渾身の力を振り絞って、右手を引いてみた。
と。バネを引っ張ったような感触があって、僅かにワイヤーが伸びる。だが、それだけだった。足の方も試してみるが、結果は同じ。
（…まぁ……引き千切れるようなものに繋いだりは…しないか……）
軽く溜め息を吐き、それから、００９は改めて室内を見回し、唇を噛んだ。
この部屋は、どう考えても、拷問をする為の部屋だ。その為に設えられた部屋なのは、まず間違いない。そう思う。勿論、自分を拷問する為に作られた訳では無いだろう。
（……こんなものを……！）
こんな部屋を作って、ここで、一体、これまで何人の人を、酷い目に…それこそ死ぬような目に…あわせてきたのだろうか、と想う。
（……こんな事をしてっ…こんな卑劣な手段で、人の心を…踏み躙って…！）
ギリ…と歯を食いしばる。
（それで…人の心が…支配できるものか…！）
やってみるがいい、と００９は呟いた。
（こんな方法で、僕の心を変えさせられると思うのなら……！）
足元の床を睨み据え、そして、００９は目を閉じた。

扉の開く音。
瞼の裏に光を感じ、００９は部屋の明かりが点けられた事を知る。
続いて、足音。ひとつは覚えがあるが、残りは、聞き分けられない。恐らくは兵士達だろう、と００９は見当を付けた。
その、聞き覚えのある足音が００９の前にやって来て、止まった。
「００９……」
バイスの声。だが、００９は反応しない。
（相変わらず強情な奴だ！）
舌打ちし、そして、バイスは軽く手を挙げた。
（……え……？）
微かなモーター音と共に、両手が引き上げられて行く。
（…あ……）
手首の枷に繋がれたワイヤーが、巻き上げられているのだ。
「…っ……」
このまま引っ張り続けられれば、四肢を引き裂かれる。無駄とは思いつつ、００９は両腕に力を込め、手首を引くワイヤーを引っ張った。弾性のあるワイヤーは僅かに伸び、引き裂かれる苦痛が、ほんの少しだけ和らぐ。だが、いくら弾性があるといっても限界はあるし、ワイヤーを引き続けるには、かなりの力が必要だ。
（…く…そ……！）
「ほぉ」
その様子を見ていたバイスが笑みを浮かべた。
「気が付いたか？ そのワイヤーは、思いきり引っ張れば多少は伸びる。まぁ、せいぜい頑張ってみることだ」
バイスがそう言う間にも、ギリギリとワイヤーは巻き取られている。００９は、渾身の力を込めて、それに抵抗した。だが、少しでも力が緩めば、たちまち四肢を引き裂かれる苦痛に襲われる。
「…ぅ……く……」
バイスが手を下ろし、ワイヤーの動きが停まった。けれど、００９は力を緩める訳にはいかない。
「さて」
バイスが舌なめずりをする。
「まぁ、最初はこのくらいにしといてやろう。……喋りたくてしょうがない気分にさせてやるぞ、００９」
００９は答えない。が、それはバイスにとっては予想済の反応だった。００９正面の壁際まで下がり、部下に合図をする。
それを受けて、三人の兵士が動いた。一人は００９の前に。残る二人は、左右に別れ、後ろに。
三人が定められた位置に着いたのを確認し、バイスは端的に命じた。
「やれ」
と。
まずは正面側に立つ兵士が鞭を振り上げ、振り下ろす。
パシィという軽い音と同時に、一瞬、電撃が走る。
「…っ…ぅ……！」
その衝撃と痛みにワイヤーを引っ張る力が弱まりかける。が、００９は何とか持ちこたえた。そこへ、左背後に立つ兵士が二撃目を加えた。
焼けるような熱さが背中に弾け、００９の集中力が途切れかける。
「く…ぁ……！」
そこへ、すかさず右背後の兵士が三撃目を加えた。一瞬、頭の中が空白になり、ふっと意識が飛びかける。その途端。
００９は悲鳴を上げた。
引っ張り返す力が弱まった途端、ワイヤーは容赦なく００９の手首を引き上げる。引き裂かれるような苦痛が飛びかけた００９の意識を引き戻した。
「…ぁ……」
しかし、００９に息をつく間は無かった。再び正面の兵士の鞭が飛び、続いて背後に立つ兵士が鞭を振り上げる。途切れる事の無い鞭の雨が００９に降り注ぐ。
その様子を、バイスはじっと見ていた。

休みも与えられず、一体どれほどの時間がたったのだろうか。視界が霞み、頭がもうろうとしてきたところで、やっと小休止が与えられた。
とはいえ、それは鞭を打つ手が止められただけであって、００９には休む事は許されなかった。気力と体力とを振り絞って両手首を引き上げるワイヤーの力に対抗しなくてはならないからだ。
激しくあえぎつつ、必死でワイヤーを引いている００９にバイスがゆっくりと近付いていった。髪をひっ掴んで顔を上げさせる。
「どうだ？ そろそろ、喋らせて欲しくなったか？」
００９がうっすらと目を開く。強烈な意志を秘めた瞳。
「………」
暫し、にらみ合いが続いた。
「……強情な奴め」
吐き捨てるようにバイスが言う。そして、００９の髪を掴んでいた手を放すと、左手を軽く挙げた。
（…な…に……！）
「ぐ…ぅ……」
手首を引くワイヤーが、ゆっくりと引き上げられていく。渾身の力を込めて引っ張り返すが、それにも限界がある。只でさえ、消耗しているのだ。
バイスが手を下ろし、ワイヤーの動きが止まる。そして、再び００９の髪を引っ掴んで顔をあげさせた。
「どうした？ 喋りたければ、聞いてやるぞ？」
歯を食いしばって苦痛に耐えている００９にバイスが問い掛ける。００９は微かに目を開くと、バイスを睨み返した。
「……それが答えか…」
ふん、と嘲笑い手を放す。そして、バイスは部下に続行を命じた。

（しぶとい……）
もはや悲鳴をあげる力も無く、肩で荒い息をしながら、時折低い呻きをもらす００９を見据え、バイスは唸った。
既に、四日目。クワイトから『絶対に殺すな』という指示を受けているから、それなりの手加減をしてはいる。サイボーグだから、生身の人間よりは苦痛を感じずらいだろう。だが、とバイスは思う。
最初の頃は押し殺していた悲鳴が抑えられなくなり、その悲鳴が絶叫に変わり……それでも、００９は何一つとして喋ろうとしなかった。哀願の言葉ひとつ洩らさず、ただ、強い意志を秘めた瞳でキッと睨み返すばかりで。
けれど。
ついに００９は、一切の反応をしなくなった。
意識はあるらしいが、苦痛のあまり混沌としているようで、何を言っても、何をしても、反応をしない。
（……やりすぎた…かな……？）
部下にワイヤーを緩めるよう指示し、バイスは考え込んだ。
喋ることも出来ないのでは、尋問のしようがない。それに、もうすぐ四日目が終わる。そろそろ時間切れだった。
（…ち……っ）
忌々しいと思っても、この状態ではどうしようもない。
（結局…クワイトのシナリオ通り…かよ……）
『四日以内に、００９から００１とギルモアの居場所を聞き出せたら、後は好きにして良い』
クワイトからの指令書には、そう書かれていた。
『無理だろう』とも。
（ち……まったく…！）
ぐったりとなっている００９を見据え、バイスは毒づいた。
（仕方無い…シナリオ通りの茶番劇を…やってやろうじゃないか）
だが、とバイスは訝しく思う。
（クワイトの野郎は、一体、何を考えてやがるんだ……？）
本当に、００１を倒すのが目的なのだろうか？ それにしては、シナリオに解せない部分がある。
（……本当に、００１を倒すつもりなら……００９も含め、００ナンバー全員を殺しまうべきだ。そうすれば、月に半分は、００１は完全に無防備になる。その間に探し出して殺っちまえばいい。それなのに……クワイトは００９を殺すなと言う。『絶対に殺すな』と……）
何故だ？ そう思い、バイスは唇を噛んだ。
（…あいつ…ひょっとして、遊んでるだけじゃ…ないだろうな…？）
そうであっても、シナリオ通りに事を運ばねばならない。
内心で呪いの言葉を吐き散らしつつ、バイスは部下達を振り返った。

ゆっくりと００９は目を開いた。先刻までの苦痛が嘘のように、痛みが無かった。
（一体……どうしたんだ…？）
そこへ、バイスの声が響いた。
「どうやら薬が効いてきたらしいな」
不意に髪を掴まれ、顔を上げさせられる。
「感覚神経、特に痛覚系を麻痺させる薬を打った。そんなに長時間は持たないが、な」
成る程、それで痛みを感じなくなっているのか、と００９は納得する。
「さて、００９。いいかげんに喋ったらどうだ？ これが、最後通告だ。もう、おまえは長くは持たん。おとなしく吐けばよし、吐かなければ……地下牢送りだ。一発で楽に死ねるか、何日かかかってのたうちまわりながらじわじわと死ぬか、おまえの返答次第だ」
００９は答えない。しばし沈黙が続いた。
（なんっつー強情な奴だ！）
バイスが吐き捨てるように呟く。そして、憎々し気に００９をにらみつけつつ、部下に命じた。
「００９を地下牢に連れて行く。縛り上げろ」
「はっ」

目隠しをされ、厳重に縛り上げられた００９は、左右から腕を持つ兵士達に引きずられ、地下牢へと連れて行かれた。
エレベーターで一番下まで降り、更に階段を降りる。途中いくつか扉をくぐり、十数分かかって地下牢の前につく。そこで００９の目隠しが外された。
目の前の頑丈な鉄扉がゆっくりと開けられる。兵士の一人が手に持っている明かりが、かすかに地下牢の中を照らした。
岩肌そのままの床と壁。天井は見えない。隅の方に見える黒い塊は、過去ここで死んで行った人の成れの果てであろうか……。００９はぞっとした。地下百数十メートルの重苦しい空気が恐怖心をあおりたてる。

バイスが軽く手を振ると、両腕を左右から掴んでいた兵士達が動いた。
歩く力の無い００９を引き摺るようにして地下牢の中に運び込み、床に転がす。そして、後ろ手に縛られていた戒めを解くと、仰向けにした。
（…何…を……？）
００９がいぶかしむ間に、バイスが背後に控える部下を見遣る。それから、００９の傍にしゃがみ込んで瞳を覗き込むと、ニヤリと笑った。
「俺は親切だからな。お前が早く死ねるようにしてやろう」
何が言いたいのか判らず、それでも、００９はバイスを睨み返した。
その瞬間、左肩に衝撃を感じ、００９は息を呑んだ。薬のせいで痛みは感じないが、その衝撃は尋常ではなかった。
（な…に……？）
視線を動かして左肩を見ようとした途端、今度は右肩に同じような衝撃を感じる。
（………！）
それは、杭だった。金属の杭が両肩に一本づつ打ち込まれ、肩を突き抜けて床に刺さり、００９を文字どおり磔にしているのだった。
呆然とする間に、更に杭が打たれる。右胸に一本。左脇腹に一本。両足に一本づつ。それから、腕を広げさせられ、左右それぞれに一本づつ。
作業を終えた兵士達が００９から離れる。
それを確認し、バイスは言った。
「お前に打った薬は、あと２０分もすれば切れる」
一瞬言葉を切ると、笑みを浮かべてみせる。
「…そうすれば……どうなるか、は言うまでもないだろう？」
００９は何も言わない。
「急所は外してある。そう簡単には死ねないぞ？」
００９は答えない。悲鳴を上げる心をねじ伏せ、頑なな表情を保つ。
その様子を見下ろし、バイスは００９に銃を突きつけた。
「……最後のチャンスだ。吐け。そうしたら、一発で楽にしてやる」
沈黙。
睨み合い。
永遠とも思える数秒。
そして、バイスはゆっくりと言った。
「…せいぜい、苦しんで死ぬんだな」
残酷な嘲笑。
踵を返して出ていくバイスに、兵士達が続く。００９は唇を噛み、それを見ないようにした。
重い音を立てて扉が閉じられる。足音が次第に遠ざかり、ついに辺りは真の闇と静寂に包まれた。

恐ろしいまでの静寂。目を開いても閉じても、変わらぬ、闇。
５分経ち、１０分経ち、次第に恐怖心が大きくなっていく。バイスの言葉が頭から離れない。
『お前に打った薬は、あと２０分もすれば切れる。…そうすれば……どうなるか、は言うまでもないだろう？』
暗闇の中に閉じ込められた００９には、時間の経過を知るすべはない。『あと２０分もすれば…』とバイスは言った。残された時間は、あとどのくらいなのだろう？
（…考えたら駄目だ……）
考えまいと思う。
けれど。
バイスに薬を打たれる直前までの苦痛。全身を駆け巡る、あの、苦痛。
（…考えちゃ……駄目…だ……）
全身に穿たれた八本の杭がもたらすであろう、苦痛。
（……考え…ちゃ………駄…目………）
恐怖を振り払うように弱々しく首を振る。
けれど、暗黒と静寂は容赦無く００９の心を追いつめる。苦痛への恐怖が、００９の心を掻き乱す。
（……あと……どのくらい……？）
どのくらいで、その『時』が来るのか？
その問いは、何度振り払っても、００９の心を捕らえて放さない。
（…駄目だ……考えたら……）
一分、一秒、ゆっくりと時間が過ぎて行く。いつ来るか判らない、しかし、間近に迫った『時』が恐ろしかった。暗黒の闇の中で、たった一人で、苦痛の訪れる『時』を待つのがたまらなく恐ろしかった。その恐怖に神経が耐えられない。
喉元を締められているかのように、呼吸が苦しい。
「……っ……！」
頭を振り、必死で息を整えようとするが、それさえもままならない。
（…だ…れ……か……）
目を開けて、扉の方を見る。だが、そこにあるのは漆黒の闇のみ。
誰かいないのか、と思う。必死に目をこらし、耳を澄ませ、人の気配を感じ取ろうとする。
しかし。
聞こえるものは、自分自身の荒い息遣いのみ。見えるものは、闇ばかり。人の気配どころか、どんな生き物の気配もしない。
誰もいない。
五感の総てと、そして、００９の研ぎ澄まされた直感。その総てが、そう告げる。
誰もいない……すなわち、間近に迫った苦痛から逃れる術は無い、と。 そして……。
恐れていた『時』が来た。
ゆっくりと痛みが襲ってくる。
手足の先から、徐々に。
ゆっくりと、ゆっくりと。
痛みが次第に大きくなる。じわじわと苦痛が広がる。歯を食いしばって耐える。
「…ぅ……ぁ……」
苦痛が次第に激痛へと変わり、全身を貫く。
叫ぶ力も、もがく力も、もう残っていないと思っていた。その筈だった。 が。
「………ぐ…あ……あ…がああぁぁぁぁっ！」
総ての感覚が戻った時、００９は身をのけぞらし、絶叫をあげていた。
闇雲に頭を振り、激しくのたうつ。無論、００９を床に磔にしている杭は、そんな事では抜けはしない。むしろ、暴れる度に傷口が抉られ、更なる苦痛に襲われる。叫ぶこと、もがくこと、その行為そのものが、より激しい苦痛をもたらす。
それでも。００９は喉元から苦悶の絶叫をあげ、激しくもがきつづけた。
嵐のような激痛に翻弄され、もう、何を考える事もできなかった。自分の意志で自分の肉体を制御する事など不可能だった。体力の最後の一滴が失われるまで、苦悶の絶叫をあげてもがき続ける以外に、００９にできる事は無かった。
（…た…す…け……て……く…れ……！）
多分、今、バイスに問われれば、００９は何もかもを喋っただろう。一発の銃弾によって、この苦痛から開放してくれる事と引き換えに……。
けれど、この地下牢には誰もいなかった。
（……だ…れ…か……たす……けて……！）
助けを求める相手も、許しを乞う相手も、誰も。
漆黒の闇の中に、００９の苦悶の絶叫だけが響き続けた。

一体どれほどの時間が過ぎたのか、００９には全く判らなかった。全身を激痛が刺し貫いている。気力も体力も、最後の一滴まで絞り取られ、最早、悲鳴をあげる事もできず、もがく事もできない。それでも苦痛は００９を苛み続けていた。
「…ぁ……ぅ……」
浅く荒い呼吸を繰り返す。息をする度に、新たな苦痛が全身を駆け巡り、微かな呻きが唇から漏れる。もう、呼吸などしたくなかった。けれど、それは不可能な事だった。００９には、自分の意志で自分の肉体を動かす事は、もうできなかった。そんな力も、気力も、何も残されてはいない。
辺りは真の闇。そして静寂。たとえ敵であってもいい、人の姿が見たかった。たとえ嘲りの言葉であってもいい、人の声が聞きたかった。恐ろしかった。心細かった。「助けてくれ！！」そう叫びたかった。だが、声を出す力なぞ無かった。
００９に耐える力があろうが無かろうが、前と同じように、いや、それ以上に恐ろしい苦痛が襲ってくる。サイボーグであることを、これほど恨めしく思ったことはなかった。死ぬほどの苦痛を味わいながら、００９は死ねなかった。気を失うことすらままならぬ苦痛の中でさえ、機械仕掛の心臓は動き続けた。
苦しみながら死ぬ。これは恐ろしいことだ。だが、苦しみながら死ねないことは、もっと恐ろしいことだった。一分一秒でも早く死にたかった。死ねば、この恐るべき苦痛から逃れられる。死ぬことだけが００９にとって唯一の望みだった。だが、いつになれば死ぬことが出来るのか？ あと一時間か、それとも一日か。
（とどめを……誰か…誰か、とどめを刺してくれっ！！）
絶望的な願い。だが、それは声にすらならない。
そして、００９は真っ暗な地下牢の中、たった一人で苦しみ続けた。今すぐではないが、決して遠くない将来、死ぬことができる。そのことだけが、００９にとって唯一の希望であった。

連絡艇から彼女が降り立った瞬間、兵士達の間にざわめきが走った。
（あれは……）
麦藁色の髪。氷蒼の瞳。
その、陽光を透かした氷山を思わせる瞳が、離着陸口の中を一瞥する。
（…ウィッチ…？）
それは、Neo Black Ghost 本部の医療センター長であり、生体学者にして医師の、ウィッチであった。

本部の医療センターは、サイボーグ兵士の『生産』と『保守』を担当している部署で、それ故、下級幹部でありながら、戦闘員達の間でのウィッチの知名度は高かった。また、彼女は、その確かな技術力と、医療センタースタッフ達を取りまとめる高い統率力、そして何よりも、兵士達のサイボーグ体を『完璧』な状態に保つ為には、たとえ上級幹部や総裁が相手でも一歩も退かない断固たる姿勢を貫くが故に、サイボーグ兵達から、密かではあるものの、圧倒的な支持を寄せられていた。
とはいえ、ウィッチは決して人当たりが良い訳では無く、誰に対しても徹底的に傲岸不遜で容赦がなかった。職務を果たす上で必要と判断すれば、彼女は誰にでも命令したし、その支配的な声音に逆らえる者は居なかった。
無論、ウィッチの命令に従わなくても、殺されたり鞭打たれる訳ではない。現実問題としてのウィッチの地位は、ただの下級幹部。そんな権限はないのだ。
だが。ウィッチの怒りを買った者は、口を揃えてこう言った。あの、まるで壊れた部品を見るような目で見られるくらいなら、いっそ鞭打たれたほうがマシだ。せめて罵倒してくれれば、まだ救われるのに、と。真偽の程は確かでは無いものの、ウィッチから『あの目』を向けられ、すっかり落ち込んで、ついに世を儚んでしまった者が居るのだ……という噂は、戦闘員達の間に根強かった。
その、ウィッチが来た。
本部から離れる事が無い筈の、医療センター長が、一体、何をしにここまで来たかはわからない。
だが。
そんな詮索は、この際、どうでもよかった。
兵士達は目を見交わすと、慌てて駆け寄って行った。

「中に荷物があるわ。結構な量だけど、全部、降ろしといてちょうだい」
駆け寄って来た兵士達をチラリと見、ウィッチは当然のように命じた。
「は…はっ！ 承知しました！」
お互いに素早く目配せをすると、兵士達の内の三人がその場にとどまり、残りの者達が連絡艇の中へと向かった。
「あの…どちらへご案内致しましょうか？」
兵士が問い掛けるのへ、ウィッチが短く答える。
「バイスは何処？」
「…この…時間なら、司令室かと……」
「なら、そこよ」
「はっ！ では…こちらへ……」
一人が先に立ち、ウィッチが続き、もう一人が後ろに従う。最後の一人は、壁のインターフォンへと走った。
ウィッチの訪問を司令室に伝える為に。

目の前に立つ、白衣の女性。それを、バイスは絞め殺したそうな目つきで睨んでいた。
（コイツが……ウィッチ……か）
噂には聞いているが、本物に会うのは初めてだった。
（確かに…噂通り…いや、噂以上の、傍若無人ぶりだ……）

許可を得ずに司令室に乗り込んで来たかと思えば、開口一番、『あんたがバイス？ ００９は、生きてるんでしょうね？』ときた。
『何だ貴様は！』と怒鳴るバイスを恐れ気もなく見かえし、名乗る。
『本部医療センター長のウィッチ。クワイトに頼まれて、００９の回収をしに来たのよ』
まさかとは思うけれど、殺しちゃいないでしょうね？ と言うウィッチに、バイスは拳を机に叩き付けて言い返したのだ。
『当たり前だ！ 俺をナメてるのか！』
だが。
ウィッチは眉ひとつ動かさず、平然と答えた。
『結構。じゃあ、案内してちょうだい』００９の居る所へね、と。

いくら睨もうが全く動じる様子の無いウィッチに、忌々しげに唇を噛むと、バイスは立ち上がった。
「…付いて来い」
「何処なの？」
「地下牢だ」
「そう…」
軽く頷き、そして、ウィッチは傍らの兵士に命じた。
「連絡艇から下ろした荷物、地下牢に運んで頂戴」
「は！」
サッと敬礼すると、兵士は壁のインターフォンに走った。
その様子に、バイスが舌打ちをする。
（コイツ……）
自分が命じても、ここまでテキパキと動きはしない。
（……あとで、殴ってやる……）
内心で呟きつつ、バイスは地下牢へと向かった。

頑丈な鉄扉が開かれ、兵士達が掲げ持つライトが地下牢の中を照らす。
その微かな光に、床に寝かされ、何本もの杭で磔られている００９の姿が、ぼんやりと浮かび上がった。
兵士達、そしてバイスすらも、一瞬、立ちすくむ。それを尻目に、ウィッチは地下牢の中に歩を進めた。
００９に近づき、傍らに膝を付いて、呼吸を確かめる。
苦しげに上下する胸。唇から洩れる微かな呻き声。
（……どうやら…生きてはいるようね……）
そう呟いて小さく頷き、ウィッチは白衣のポケットから麻酔器を取り出した。００９の首筋に押し当てて、スイッチを押す。
それから、体に突き刺さっている杭の方に視線を移した。
かなり暴れたらしく、傷口の周辺は抉られたようになっている。そこに目を留め、そして、ウィッチは目をしばたたかせた。
（これ…は……？）
顔を上げ、未だに入り口付近で固まっている兵士達に声を掛ける。
「何してるの。明かり！ それと、私の荷物を」
「は…はいっ！」
鋭い声に飛び上がり、兵士達は慌てて動き出した。

傷口にとりあえずの応急処置をし、外部の生命維持装置をバックアップとして繋ぐ。それから、循環系のパイプを一部閉鎖し、生身のパーツとしては最も重要な、脳を含む部分を別の生命維持装置に繋ぎ直す。これで、脳は完全に独立した循環系に属するようになり、サイボーグ体のダメージの影響を受けなくなる。
杭に貫かれている部分の止血状態を再度チェックして、ウィッチは頷いた。
（太いパイプにはダメージがいってないし…これならまぁ、大丈夫でしょ）
そして、総ての機器が正常動作している事を慎重に確認すると、兵士達に杭を抜くよう指示をして、ウィッチは立ち上がった。
入口の扉に寄りかかって、腕を組んで不機嫌そうにしているバイスに歩み寄る。
そして、言った。
「たいした腕前ね、バイス」
「………？」
「ウチのスタッフでも、あぁまで見事に急所は外せないでしょうね」
医学知識でも？ と尋ねるウィッチに、バイスは残忍な笑みを浮べ、答えた。
「いや。実践の経験から、だな」
首を傾げ、そして、ウィッチは頷いた。
「なるほどね」
バイスがこれまでに拷問した人数は、ゆうに二桁に乗る。その中には、生身の人間も居ればサイボーグも居た。それらの者達を拷問し、殺した経験から、バイスはどうすれば相手が死ぬか、どうすれば死なせずに苦痛を与えられるかを知った、という訳なのだった。
「…ところで、ひとつ尋くけどねぇ」
薄氷の瞳にまじまじと見詰められ、バイスは眉をひそめた。
「……なんだ……」
不機嫌な声で答える。
チラリと００９の方に視線を送り、そして、ウィッチは言った。
「本当に、何も喋らなかったの？」
「………あぁ…」
バイスが忌々し気に答える。
四日もかけて拷問したにもかかわらず、何一つとして喋らせる事ができなかったというのは、バイスにとっては屈辱的な事だった。それを確認されるのは、面白くない。
けれど、そんなバイスの内心にお構い無しで、ウィッチは重ねて尋ねた。
「本当に？」
「くどいっ！」
もう一度尋いたら殴るぞ、と言いたげなバイスの怒鳴り声に、作業をしていた兵士達がビクリとし、顔を見合わせる。
「……信じられないわね……」
それを気にもせずに、ウィッチはしみじみと呟いた。
「何をごちゃごちゃとっ！」
信じられないのは俺の方だ、と内心で呟くバイスを見上げ、ウィッチは言葉を継いだ。
「…あの子、神経系が間引かれてないのよ？」
「……は？」
唐突な言葉に、バイスが目をしばたたかせる。
「ちょっと見ただけだから正確なところは判らないけど、恐らく、総ての神経系が、生身のままに残されているわ」
「………？」
それがどうした？ というような表情をするバイスに、ウィッチは言った。
「あの子はね、生身の人間と同じように苦痛を感じるのよ。普通のサイボーグと違って。だけど、サイボーグだから、生身の人間と違って、あんな……」
と、００９の方に視線を送る。
「…状態になっても、まだ生きている」
「……なん…だと……？」
「まったく…たいした精神力ね」
クワイトが欲しがる訳だわ。ウィッチはそう呟き、肩をすくめた。

担架に寝かされた００９を、兵士達が運んでいく。それを見送り、そして、ウィッチはバイスに向き直った。
「じゃあ、私は００９を連れて本部へ帰るわ」
さっさと出て行け、と言いたげなバイスを見、ウィッチは言葉を続けた。
「…あと、クワイトからの伝言よ」
「……なんだと…？」
この上、まだ何かしろと言うのか？ とバイスが内心で悪態を吐く。
「この基地は、放棄しろって事よ」
「………」
一瞬、言葉の意味が飲み込めず、バイスは固まった。
（…な…んだと…？）
「じゃ、邪魔したわね」
ウィッチがくるりと踵を返す。呆然とそれを見送りそうになり、バイスはハッとした。
「…ちょ…ちょっと待て！」
「なに？」
振り返るウィッチを、バイスが睨み据える。
「それは…どういう意味だっ！」
「どう…とは？」
「この基地を放棄しろってのは…どういう意味だっ！」
唸るように叫ぶバイスに呆れたような視線を向け、ウィッチはその問いに答えた。
「どうって…？ 言ったとおりよ？ クワイトは、『バイスに基地を放棄するように伝えろ』って言ったのよ」
緊急時の為の退去手順はある筈でしょう？ 何か問題が？ そう言うウィッチに、バイスは怒鳴った。
「問題があるか、だと？ 無いとでも思ってるのかっ？ なんで、この基地を放棄しなけりゃならないんだっ？」
「００ナンバー達が攻めてくるからよ」
さらりと言うウィッチに、バイスは絶句した。
「…な…ん…だと…？」
何故、００ナンバー達にこの基地の場所が知られているのか？ いや、それ以前に、何故、そんな事が判るのか？
「さぁ、ねぇ？」
肩をすくめ、ウィッチは首を傾げた。
「そんな事は、クワイトに尋いて頂戴。私には判らないわ。でもね、クワイトの予想によれば、今から……」
そう言って、ウィッチは手首に付けた端末に視線を落した。
「…早ければ６時間後に、遅くとも１２時間以内には、００ナンバーがこの基地を襲撃しに来る…らしいわ」
「………」
半信半疑のバイスを見遣り、ウィッチはキッパリと言った。
「信じるかどうかは勝手。とにかく、命令は伝えたわ。命令違反をするつもりなら、好きにして頂戴」
言い捨てて去っていくウィッチの背中を見送り、バイスが拳を握り締める。
（…くそ！）
いい加減にしろ！ と想う。
（俺は、お前の部下じゃないんだぞ！ クワイト！）
だが。
命令に逆らったらどうなるか。それを考えれば、答えは決まっていた。
（…ちっ…！）
そして、バイスは司令室へと向かった。
基地放棄の指揮を執る為に。

８時間後。
ドルフィン号がやって来た時、そこには誰も居なかった。
基地は完全に放棄され、主要な部分は爆破されていた。
００４達は、廃虚となった基地を捜索し、手掛かりを探したが、何も見つけられなかった。