日本。ギルモア研究所。
平穏な一日の最後の数時間を、リビングのソファーに座ってホットレモネードを飲みながら、旅行雑誌の温泉特集ページなどを眺めて過ごしていた００３は、突如として響き渡った警報に息を飲んだ。
（……これ…って……。エカテリーナ……っ！）
ギルモア研究所に向けて放たれる急報はいくつかあるが、その種類毎に鳴らされる警報は区別されている。そして。今この瞬間に鳴り響いた警報は、それがウィッチの家から放たれたものであることを示していた。
傍らに置いていたゆりかごから眠っている００１を抱き上げ、研究所内を『見回し』て００９とギルモアの居場所を確認する。
（よかった…博士は、未だ地下の研究室。ジョーは、もう司令室に行ってる……）
小さく頷いて自分も地下の司令室へと向かいつつ、００３は周囲の音に耳を傾けた。だが、これといって不審な音は『聞こえ』ない。
（とりあえず……ここは未だ大丈夫、なのかしら？）
勿論、移動しながら軽く『聞いて』みただけなので、細かい音までは聞き分けられない。司令室に落ち着いたら、改めて周囲を『見て』みる必要がある。
（とにかく、イワンを安全な場所に移さないと……）
つい二日程前に『夜』の時間に入ったばかりの００１は、今、完全に無防備なのだ。勿論、余程の事が起きれば目を覚ます可能性はあるが、当人の命が危険に晒されることが、その『余程の事』に含まれるのかどうかは未だに不明確だし、敢えて確かめたいとも思わない。
だから、何はともあれ、まず、００１を安全な場所に移す必要がある。
（……『見る』のは、それから……）
そう呟きながら００３は００１を抱きしめて廊下を走った。

司令室に駆け込めば、そこでは既に００９がコンソールの前に座って、データの確認作業をしていた。恐らく、警報が発される元になった急報が、間違いなくウィッチの家からのものであるかをチェックしているのだろう。急報はノイズに偽装されているのだが、そのため、様々な条件が重なった場合には、本当のノイズと区別が付かなくなることがある。しかし、それによって急報が見落とされてしまっては困るので、疑わしい場合は警報が発されるようになっているのだった。従って、誤報である可能性もあるのだが……
（そういう訳では、無さそう…なのね）
司令室の一隅に置いてあるゆりかごに歩み寄りながら００９の横顔を見遣り、００３は唇を噛んだ。そっと００１をゆりかごに寝かせ、一つ息を吐く。
そして、００３は改めて研究所の周囲に『視線』を向けた。
（………）
周囲一帯をぐるりと『見渡し』ながら、不審な音がしないかを『聞く』。
地上、空中、地中。
何一つ見逃すことも聞き逃すことも無いように、素早く、しかし確実に、辺りの様子を探る。しかし、変わったモノも、変わった音も、何も無かった。
（とりあえず……ここは未だ、大丈夫……）
何はともあれ、自分達には多少の猶予が残されているということだ、と００３は思う。尤も、その猶予がどの程度のものなのかは判らないのだが。
『視線』を室内に戻し、００９を見遣る。その気配だけで索敵の結果が判ったのだろう、００９の肩から僅かに力が抜けて。
と。
司令室の扉が開いてギルモアが入ってきた。
００９の様子を見遣り、小さく首を振る。
「博士……」
そっと００３が声をかけると、ギルモアはゆっくりとそちらに歩を進めた。

「どう…なんじゃね？」
そう００３に問いかけながら、００１のゆりかごが置かれている台の隣に設えられている、自分用の椅子へとギルモアが座る。それへ、００３は静かに答えた。
「ここは未だ大丈夫です。警報の方は、ジョーが確認中ですけど……でも……」
「来るべきものが、来た……という訳かね……」
「えぇ。そうだと思います」
そこへ、００９が振り返った。
茶の瞳が、一瞬、ギルモアを見て。それへギルモアが小さく頷き、００９は００３へと視線を移した。
「フランソワーズ、張大人に連絡をしてくれ。一時間後に、グレートと二人で、南沖の一番近いポイントで合流できるかを、訊いてほしい。僕は……ライのところに、連絡をしてみる」
「わかったわ」
それ以上の説明は、必要無かった。
（……エカテリーナ……）
何かが始まってしまった。そして、最初のターゲットがウィッチとチアフルだった。
今、判っているのはそれだけ。
（無事でいて……）
祈るように想いながら受話器を取り、００３は張々湖飯店へと回線を繋いだ。

オーダーストップまで、あと１０分というのに、張々湖飯店の店内は客で賑わっていた。
そこへ、電話のベルが鳴り響く。
「電話っ！ 誰か取るアルよーっ！ 出前の依頼だったら、まず品切れを伝えるアルよっ！」
今日は無くなった材料が多いから、もう作れないメニューが沢山ある、と００６が言う。
その言葉に威勢良く返事をしながら、アルバイトの一人が受話器を取って。そして、嬉しそうな声で二言三言答えると、００６を振り返った。
「張大人！ フランソワーズさんからですよーっ！」
「なぬ？ こんな時間に、どーしたアルかね？ ワテ、今、手ぇ放せないアルけれども……」
鍋を振りながら首を傾げる００６の横を、００７が擦り抜けて。
「俺が出よう」
そう言って受話器を取った。

「よーお、麗しの姫君〜。どうしたんだよ、こんな時間に。ジョーと喧嘩でもしたか？ 拙者が慰めてしんぜようか？」
冗談交じりの台詞を言った００７だったが、しかし、次の瞬間、息を呑んで。
「……わかった、あぁ……そうだな。一時間か……何とかする。あぁ、じゃあな」
それだけ答えて受話器を置くと、００７は素早く００６の傍に寄った。
「店じまいだぜ、張大人」
その言葉に００６の眉がピクリと動く。
「……何処アル？」
短い問い。それへ、００７も短く答えた。
「チアフル」
その瞬間、００６が鍋を叩きつけるように放り出す。
「……ぅわっとぉっ！」
ゴトクの上で勢い良く跳ね、そのまま床に転がり落ちそうになった鍋を、００７が危ういところで掴む。
「ちょっ、大人……って、わぁっちっちちちちち……っ！」
素手で掴んだ鍋の熱さに思わず取り落としそうになり、あわあわと空中に放り上げ受け止めしている００７を尻目に、００６はホールの方へと転がるように出て行ってしまって。
どうにか鍋をゴトクの上に置き、００７はほっと胸を撫で下ろした。
「 ……っと、はーやれやれ」
ふぅ、と息を吐いたそこへ、ホールの方から００６の叫び声が響いてくる。
「もう店じまいアルね！ ワテの大親友が、一大事でアルからしてっ！ お代は要らないアル、今すぐ帰って欲しいアルねっ！！！」
叫び声にドタバタと走り回る足音が重なり、更に、椅子を引く音や困惑した客の叫び声が続き、００７は片手で目を覆って天井を仰いだ。
「おいおいおい……」
だが、呑気にしている場合では無い。
とりあえず、客の相手は００６に任せることにして、００７は裏の事務室へと走った。

事務室に駆け込んだ００７は、ロッカーの隅に用意してあるトランクを引っ張り出すと、蓋を開け、中身にさっと視線を走らせた。
トランクの中に入れてあるのは、自分と００６の防護服に、スーパーガンが二丁。数種類の通貨で用意してある幾許かの資金。大きめの封筒が一通と、そして、ごく些細な私物。
（……よし、と）
『こういう時』がいつ来るかも判らないから、日頃から準備は万全で。いざその日が来たとなれば、それが心強いのは確かだが、しかし、物悲しくもある……と００７は軽く溜息を吐く。
だが。
いつか来ることが判っているのなら、備えないのは馬鹿というもの。
（ま、仕方ないさ……）
小さく呟くと、トランクの中から封筒を取り出し、蓋を閉じる。そして、ゆっくりと立ち上がると、その封筒を机の上に置いた。
（悪いな……）
自分達の事情を何一つ知らない、封筒の表書きの人物に、内心で小さく詫びて。
（……あとは、頼んだぜ……）
封筒の中には、やむにやまれぬ火急の事情によって取り急ぎ旅立つ旨と、後事を総て頼むことへの謝罪とをしたためた手紙。そして、張々湖飯店に関する諸々の書類が入れてある。この手紙を受け取る人物は、決して長くも深くも無い付き合いの知人ではあるが、彼が、憤り呆れ文句を言いつつも、結局、何とかしてくれるだろうことを００７は確信していた。そう考えながら、こうしたことを幾度と無く繰り返してきた所為で、そういう人間を見る目だけは確かになったよなぁ、と苦笑して。
（なんだかな……）
小さく首を振って事務室を出ると、そこに、口をヘの字に引き結んだ００６が立っていた。
「こっちはいいぜ」
「………」
そう告げると、００６が無言のまま頷く。それを確認し、００７は００６の前を通り抜けると裏口へと向かった。
素早く扉を開いて左右を確認し、裏通りへと出る。そこで暫し立ち止まり、００７は、振り返って名残を惜しんでいるだろう００６を待った。
そうしながら何となく周囲を見回せば、最終電車が着いたのか、細い裏通りの隙間から見える大通りを、足早に通り過ぎていく何人もの人の姿が目に入る。家路を急ぐ、どこか疲れた足取りの人々。取り立てて変わったところなど何も無い、ありふれた日常の風景。
（かくして、忙しない休暇は終わりぬ……か）
渦中にある時には、ただ煩いばかりの張々湖飯店の喧騒が、それが終わる瞬間にはいつも、何とのどかで平穏な日々だっただろうと思えるのは、人の愚かしさの成せる業か……と呟いて。
ふっと隣に並んだ気配に、００７が視線を動かす。
そこには、丸い背中を精一杯伸ばした００６が立っていた。
「グレートはんっ、行くアルよ」
「……おうっ」
鼻息も荒く言う００６に、００７が軽い調子で答え、そして、二人のサイボーグ戦士は仲間達と合流すべく駆け出した。

中東。
難民キャンプからやや離れたところに、元 Neo Black Ghost ウラル研究所のスタッフ一同が開設した、簡易診療所があった。
難民キャンプ内には、勿論、各国からやってきた医師団によって運営されている医療テントがあるのだが、難民キャンプの郊外にあるこの簡易診療所は、医療テントでは扱いきれない、感染症などを防ぐための隔離が必要となるような重傷を負った者や重篤患者、脳腫瘍を始めとした難しい病気にかかった者、精神に深すぎる傷を負ってしまった者などを主に担当している。つまり、日常の健康管理や軽度の怪我病気は医療テントで、個々に異なる手厚い処置が必要な重い怪我や病気の者は簡易診療所で……という訳で、この分担と日々の綿密な連絡体制、医療スタッフの行き来やローテーションなどによって、いわゆる『かかり付け医』と『中核病院』というニ軸の医療体制を実現しようとの試みが行われているのだ。
とはいえ、４年半に渡る紆余曲折を経てもなお問題は尽きず、両医療拠点のスタッフ達は、日夜様々な努力と工夫改善とに余念が無かった。

その難民キャンプ郊外の簡易診療所の一角。警備部が詰所として使用している部屋で、夕食のパンを齧りつつ夜間警備メンバーへの申し送り事項を取り纏めているのは、元 Neo Black Ghost 上級幹部ライの副官、アイラニであった。
ライ一党の中にあって唯一人の戦闘員であったアイラニは、現在、この簡易診療所で警備部の責任者を勤めている。
紛争地帯と隣接し、周辺で戦闘が起きることもあれば、テロリストや盗賊団のひとつやふたつも出ようかというこの地域において、警備部の果たす役割は医療水準の維持に欠かすことの出来ないものだった。何しろ、医薬品を始めとした諸々の物資運搬時の警護から、医師や看護士などの医療従事者が移動する場合の護衛、果ては簡易診療所そのものの警備防衛に至るまで、医療スタッフが安心して各々の務めに専念できるか否かは、ひとえに警備部の働きにかかっているのだ。
運搬中の医薬品が略奪されれば診療に差し支えるし、医師や看護士に対する誘拐や殺傷などは、断じて許す訳にはいかない。それらを未然に防ぐだけでも大変な事なのだが、その上、この簡易診療所のメンバーには、もう一つ、いつか来るであろう Neo Black Ghost の復活についても警戒を怠る訳にはいかないという事情もある。更に、医療に携わる人手はいくらあっても足りない有様だったので、医学知識が無くても可能な諸々の雑事……診察や面会を求める者達の受付や、薬剤物資の在庫管理、果ては掃除洗濯から食事の炊き出しに至るまで……つまりは簡易診療所の運営業務の殆どが、今や、警備部の担当範囲となっていて。
それゆえ、警備部の責任者であるアイラニは、医療スタッフ達とは別の意味で、日夜多忙を極めていた。
しかも、その警備部を構成するのはどんな面々なのかといえば、エレス以下の元ウラル研究所兵器開発室メンバーと、そして、難民キャンプで生活する者達から募った有志で、つまりは基本的に非戦闘員。勿論、結局のところ、現在の警備部が担当している業務の殆どは、武器のいらない事務作業や力仕事だったから、それで問題は無かった。また、いかにも『警備部』らしい業務についても、難民キャンプからの有志メンバーの中には軍人上がりの者も幾人かは居たし、こういった状況の国の民であるから、武器の扱いや戦いにも（少なくともエレス達よりはずっと）馴染んではいたから、それなりに頼りになった。
だが。威嚇や小競り合い程度ならともかく、本格的な戦闘をするような事態を想定すれば、些か……いや、かなり……心許ないのもまた事実で。
それ故、結局のところ、アイラニが純粋に『戦力』として頼りにできるのは唯一人、元 Neo Black Ghost の戦闘員である格闘戦用サイボーグ、タイラントだけなのであった。
ところが。
困ったことに、そのタイラントが、実は、アイラニにとって密かな頭痛の種だった。

（……いや、別に彼が悪い…という訳じゃ、ないんだけど……）
一応、警備部の責任者はアイラニで、タイラントは警備部所属ということになっているから、アイラニが上司でタイラントはその部下ということになる。
タイラントが担当するのは、主として特に貴重な医薬品の搬送や医師達が移動する際の護衛で、そのスケジュールを組むのも指示を出すのも、上司であるアイラニの役目。そして、タイラントはアイラニの指示に従って、きちんと自分に与えられた職務を果たしていた。
だから、問題など何も無い筈なのだ。
それなのに。
（なんというか、その……。どうにも……やりにくい……）
思わず溜息を吐き、アイラニは天井を見上げた。
最初のうちは、お互いが慣れていないだけなのだろうと思っていた。だが、あれから４年半。当初の違和感は一向に薄れず、むしろ強まっているような気すらして。
（それは多分……）
自分がタイラントの『上司』であって『上官』では無いからなのだろう、というのがここ最近になってアイラニが辿り着いた結論だった。
その観点でタイラントの行動を改めて思い返してみれば、確かに、指示には従うものの、指示した以外の事柄について何か行動を起こす場合、事前に相談をしてきたり許可を求めてきた事は全く無かった。勿論、実際に行動に起こす前には必ず連絡をしてきたし、事後の報告も欠かした事は無い。だがそれは、逆に言えば、タイラントにとっての自分は、行動を起こす前に相談したり、ましてや許可を求めるような相手では無いということで。
とはいえ、そうやってタイラントが独自に考えて動いてくれるのは、多忙なアイラニにとっては、極めて助かる事であった。特に、周辺状況の偵察などはタイラントに任せきりにしているが、そのおかげで、公式なルートで入ってくる情報に比べ質量とも遥かに充実した正確な情報が、常に手元に揃うこととなって。それが、物資の輸送や人の移動に関係する安全確保をどれだけ楽にしていることか、とアイラニは思う。
つまり、問題は何も無い筈なのだ。
だが。
（何だろうな……。結局、僕には……彼を扱いきれない、という事か）
苦笑交じりにアイラニはそう呟いた。
これといって問題が無いにもかかわらず、どうにもやりづらいと感じずにはいられない。それは要するに、自分の度量の問題なのではないか？ 有能な部下に対する、ある種の焦燥。自分が上位に立つことに対する不安。平たく言うなら、劣等感のようなものではないだろうか？ とアイラニは考える。
実際、タイラントがこの上下関係をどう思っているのかがアイラニには全く判らず、それがまた、居心地の悪さを助長してもいる。
とはいえ。
（とにかく、指示には従っていてくれているんだ。それで良しとしなくて、どうするんだよ……）
諸々の事情を考えれば、タイラントと自分のポジションを入れ替えても意味が無い。
一応は戦闘員の数に入るとはいえ、所詮は生身の人間に過ぎない自分と、サイボーグ（しかも、現存するサイボーグとしてはおそらく最強スペック）であるタイラントとでは、戦力としての差がありすぎる。タイラントなら一人で行けば済むところを、自分が行くとしたら、それこそ何十人もの部隊を引き連れて出かけなければならないだろう。
逆に、日々刻々と様々な状況が変わっていく中、それらを考慮しつつ物資運搬や医師達の移動スケジュールを立て、警備部メンバーのローテーションや担当の割り振りを決めるなどというデスクワークは、恐らく、タイラントには向かないだろう。
（だから、僕がやりにくいと思ってるというだけで、結局、今のこの状態が、一番、適材適所なのは間違い無い。それに……）
多分、タイラントの方は大して気にしていない筈だ、とアイラニは思う。

アイラニの目から見たタイラントは、あまり饒舌なタイプでは無く、実際、４年半経った今をもっても未だ、職務に関する事以外の個人的な会話をしたことは殆ど無い。では、人嫌いだったり付き合いを苦手とするタイプなのかと言えばそうでは無いらしく、警備部のメンバーが集まって雑談している時など、人の輪をぐるりと見回せば、大概、タイラントの姿がどこかにあった。
（ようするに、口下手というやつなんだろうな……。あとは、話せるような事が無い……とか）
詳しくは知らないが、タイラントは自ら望んで Neo Black Ghost の戦闘員になったのだという。ということは、それ以前の過去の経緯には、恐らく、そうそう気軽に他人に喋れないような様々な事があったのだろうとアイラニは推測する。その後の Neo Black Ghsot に居た頃の話に至っては、勿論、迂闊に他人に話すには危険すぎるものな訳で。となると、現在の職務に関係する話題以外、特に話す事が無いだろうことは、想像に難くない。
（それでも、自分から人の輪に入って行ってるんだから、どちらかといえば社交的……というか、人懐こいタイプ……なんだろうな）
そうやって他人と接している時の態度などを見ていると、タイラントは、嘘や隠し事にはあまり向かないタイプだろうと思われた。実際、気に入らない相手や嫌いな相手に対するタイラントの態度は、いっそ見事なほどに露骨な慇懃無礼で、それは相手の地位がどんなに高かろうが無関係だった。
（それに、ライ様も……）
タイラントについては、少々げんなりした風に、アイラニにこぼした事がある。
曰く、『うるさくて仕方がない』『読みやすいが意味が判らない』ということで、つまり、タイラントは口で言っていることと考えている事が常に殆ど同じなので、テレパスであるライにしてみると、肉声と心の声の両方で同じ内容がユニゾンで聞こえる為、どうにもこうにも『うるさくて仕方がない』と言うのだった。
また、ライが言うには、タイラントの精神構造は単純明快で極めて『読みやすい』のだが、しかし、そのロジックは、どうにも飛躍しすぎている事が多く、考えている事が読めても『意味が判らない』のだとか。
その言葉に、一体どういう事か想像できず首を傾げたアイラニに、ライはこう説明した。
『例えば、裏表のある奴というのは、大概、物凄く複雑な思考がやたらと長いテープみたいに繋がっていて、そうやって理屈をこねくり回している間に論旨をすり替え自分を騙し、心にも無い嘘を言ったりするんだ。これは極端な例だが、大概の人間は、そんな風に思考が幾つか連なった上で言葉や態度になって出てくるから、表層思考を読んでみると、言ってる事とは多少のズレがあるものなんだ。それが普通なんだ。それなのに……』
と、ライが深々と溜息を吐いて。
『あいつの思考は、とにかく間が殆ど繋がってない。いや、考える瞬間は繋がっている筈なんだが、あっという間にそれがバラバラになって消えてしまう。残るのは結論と、本当に断片的な考えの切れ端だけで、論理構造もなにも、あったもんじゃない』
あれでは裏表どころか、単純な嘘のひとつも吐けないだろう。
『あんなんで、よく Neo Black Ghost でやってられたもんだ』
などと自分の事を棚に上げて呆れるライに、アイラニは苦笑したのだった。

（つまり……）
タイラントが自分の指示に対して、特に嫌そうな態度を取ることも無く従っているという事は、自分が上司であることに対して、特に不満に思う事が無いからだと考えていい筈だ、とアイラニは思う。
（彼には裏表が無い、嘘をつくこともできなそうだ…と、ライ様が言うのだし、実際、彼を見ていて僕もそう思うし……）
だから、結局、問題は無い筈なのだ。
ただ、自分がどうにもやりにくいだけで……などとアイラニが考えていた、その時。
突如として呼出音が鳴り響いた。
（えっ？）
聞いたことの無いその音に、アイラニが飛び上がって周囲を見回す。
（この……呼出音……は……っ）
目を瞬かせ、音のしている方向を見遣る。
そこにあったのは、通常はまず使うことの無い、ギルモア研究所やウィッチの家との直通回線用として置いてある通信機だった。この通信機を使ったのは、これまでに僅か数回だけ。緊急の手術に関する医学的な助言が欲しいにも関わらず通常の電話回線がどうにも繋がらなかった、ほんの数回だけだ。そして、そのいずれもがこちらから向こうへ繋いだものであって、向こうから繋いで来たことは一度も無かった。
（……一体……？）
何があったというのだ？ と訝りつつも、アイラニは慌てて通信機へと駆け寄った。

「はい、アイラニです……」
『……あぁ……よかった……』
ほっとしたような口調。
少し高く柔らかな、どこか少年のような風情が抜けない、その声音は……
「ジョー？」
『あ…ごめん。そう、僕だけど。あの……タイラントは、居るかな？』
妙に焦った様子の００９を訝しく思いつつ、アイラニが答える。
「いいえ」
『えっ？ それは…どういうことだいっ？』
途端に緊迫した口調で詰問され、アイラニは思わず通信機から半歩ほど身を引いてしまった。
「え？ その……」
『アイラニ？ 一体、どういう事なんだい？』
一転して強い調子で畳み掛けてくるその声に、通信が音声だけだった事を感謝しつつ、アイラニは急いで言葉を継いだ。
「あの……。一週間ほど前に、難民キャンプに来ている医師の数名が帰国することになりまして。それで、彼らの護衛として……空港まで送りに行ってるんです……けど……」
『あぁ、そう……なんだ……』
ほっとした口調で答える００９に、アイラニもほっと息を吐いて。
『それで？ 戻ってくるのは、いつ？』
「昨日の夜、無事に空港まで送り届けて出国するのを確認したという連絡がありました。それで、戻りがてら、空港周辺からこちらまでの間の地域の治安状況を偵察してくるということで、着くのは４日後か５日後くらいになる予定だと、言っていましたが……」
『あと４日か…５日……？』
どこか呆然とした口調に、アイラニが一体どういう事なのかと問おうとする。が、それよりも早く、００９は次の質問を投げつけてきた。
『こちらからタイラントに連絡を取る方法は無いのかい？』
「…え？ いえ、それは……無いです」
特に通信機器を持ち歩かせている訳ではないので、向こうから連絡をしてこない限り、こちらから連絡を取る方法は無い。そう答え、そしてアイラニは続けて問い返した。
「一体、何があったんですか？」
その問いの答えは、しかし、別の問いだった。
『そこに……ライは、居る？』
「……？ いいえ。今日は、ライは夜勤なので、未だ寝ていると思いますが……」
もうすぐ起きる時間だし、用があるなら起こして来ましょうか？ と問うアイラニを、００９が慌てた口調で遮った。
『待ってっ！ 起こさなくていいからっ。というか……その……』
どうにも妙な００９の様子に、アイラニが眉根を寄せて。
（一体……？）
タイラントが居ない事に慌て、ライを呼びたくない……つまりはライに聞かせたくない……何か。それが指し示す事態とは、何か？
はっと目を見開き、そして、アイラニは静かに言った。
「ウィッチに、何かあったんですね？」
『……っ』
息を呑む気配。それを確かめた瞬間、アイラニは傍らのインカムを取って耳に着け、通信機の入出力をそちらに回すと同時に、難民キャンプ周辺に設置したささやかな監視システムのコンソール前へと走った。
『……あの…アイラニ……？』
バタバタした気配に戸惑ったような声で呼びかけてくる００９に、監視システムのコンソールに表示されるデータを流し見つつアイラニが答える。
「こちらの監視システムには、現在、特に異常は見当たりません。無論、相手が『連中』では、この程度の監視システムなど何の役にも立たないでしょうけれど」
その言葉に、通信機の向こう側の気配が揺らいで。
最悪の事態が起きた事を覚悟しつつ、アイラニは重ねて問うた。
「一体、何があったんですか？」

「……なるほど」
００９の話を一通り聞き（とはいえ、情報量が少ないので、ものの１分とかからずに話は終わったのだが）、アイラニは唇を噛んだ。
「急報が発報されたということは、ウィッチかチアフルのどちらかが操作をしたという訳で、その瞬間……つまり数分前までは、どちらかが無事だったのは、間違い無いですね」
『……あぁ』
その後どうなったかは判らないが、とアイラニが言うのへ００９が短く応えて。
「いずれにせよ、現地に行ってみるしか無い……というのは、仰る通りでしょう。それで。一時間後に張大人とグレート氏のお二人と合流されたとして、あちらへの到着は？」
『……多分、５時間後くらい…かな』
どんなにかかっても、６時間以内だろう…という００９の言葉にアイラニが頷く。
「判りました。こちらは……」
傍らのコンソールを叩いて、医療スタッフと警備部所属メンバーの勤務予定表に視線を走らせる。
「……大至急、全員に一報を入れます。そうですね……一時間以内には、全員に緊急事態が発生した事が伝わるようにします。それから、ここの警備は……これは、いつも通りにしておきます。エレス達に動いて貰って、監視体制だけは強化しますが」
『分かった。ウィッチとチアフルの状況が確認できたら……僕達も、そっちへ行く。他の皆にも、今、フランソワーズがそう連絡してる』
無論、ドルフィン号でそこに乗りつける訳には行かないから、離れた場所に隠して行くけれど……と言う００９にアイラニが頷いて。
「了解です。ただし……」
そこでいったん言葉を切り、アイラニは宙を睨んで言葉を継いだ。
「……ただし、こちらに来る前に、ここの様子を００３に十分『見て』貰うのを、くれぐれもお忘れ無きよう。あなた達が来る前に『連中』の襲撃を受けるような事があったら、我々は……無駄な抵抗はしませんから」
従って、この簡易診療所が Neo Black Ghost の手に陥ちている可能性も十分ある。その事を絶対に忘れないように、とアイラニは言った。
『……あぁ……。判ってる』
「もし、タイラントから連絡が入ったら、戻ってくるよりもあなた達との合流を優先させるよう指示します」
『………』
尤も、その指示にタイラントが従うかどうかは判らない…と考えつつ、アイラニは更に言葉を続けた。
「それから。ライのことは、どうか御心配なく。確かに、妹のこととなると理性が飛びがちな人ですが。でも……事態が事態です。いくらなんでも、倒れたり、逆上して飛び出したりするような事は無いでしょう」
『そう…かな。そうだと…いいけど……』
戸惑いがちな声で応える００９に、アイラニは大きく頷きつつ付け加えた。
「念の為、ライに話をする時は、カティサックに同席して貰います」
あの二人は長い付き合いだし、更に超能力者同士でもある。その上、カティサックは心療医だ。そのカティサックが居てくれれば、万が一の心配も要らない。そう言うアイラニに、００９が納得したように息を吐く気配があって。
『……判った。それじゃあ、僕達は出発するよ。とにかく急いで状況を確認して……そっちに行く。早ければ１０時間後、遅くとも１５時間後くらいには……』
「了解です。それ以上経ってもあなた方が来ないようなら……。まぁ、それはその時に考えます」
『……あぁ。じゃあ……また後で……』
「はい。お気をつけて」
そして、通信が切れる。
「………」
大きくひとつ息を吐いてインカムを外すと、アイラニは立ち上がった。
（……まずは、カティサック。それから、ライ様）
この二人に状況を伝えたらエレスを呼んで、全員へ伝達するための段取りを相談しなくては、と考える。
（エレスなら……）
各自の予定データをもとに一番効率の良い連絡順を弾き出すなど、情報工学者のエレスにかかればものの数分の業で。
実際、これまでにも数回、どうしても緊急で全員に連絡しなくてはならない事があったのだが、その際にエレスが５分で構築した緊急連絡網は、驚くべき速度での情報伝達を可能にしていた。
（よし……）
とにかく、事態は再び動き出した。最早、行動あるのみ。
そう呟くと、アイラニはカティサックが居るであろう部屋へと足を向けた。