「昼食をお持ちしました」
そう言いながら、アイラニがパンと飲み物と食器類を入れた籠を片手に室内へと入ってきた時、ライは、執務机で書類に目を通しているところだった。
掛けられた声にアイスブルーの瞳が上げられ、それから、傍らの時計に向かう。
「……あぁ、もう昼か」
どこか疲れたような声音。それに、アイラニが微かに苦笑して。
「ご一緒してもよろしいですか？」
「ん？ あぁ、構わんよ」
頷くライに軽く礼をすると、アイラニは部屋の奥側に置かれているミーティング用のテーブルに歩み寄り、その上を手早く片付けると持っていた籠の中の物を出して、てきぱきと準備を整えた。

「どうぞ……」
「すまんな」
促されたライが立ち上がってテーブルに着く。その向かい側にアイラニが座り、コーヒーを注いで。
湯気を立てるカップに手を伸ばして一口飲み、そして、ライは天井を仰いだ。
「……うへぇ……」
口をヘの字に曲げ、思いっきり眉根を寄せる。
「ホントにこんなの飲んでるのかよ。……ひょっとして、アイツって味音痴？」
一応は周囲を憚って小声でそう言う『ライ』に、アイラニが溜息を吐いて。
「まぁ、否定はしませんけれど」
明日か明後日にはタイラントが戻ってきます。それまでの間ですから我慢してください……と、こちらも小声で言うアイラニに、００７……それは勿論ライに化けた００７だった……は、ヤレヤレと溜息を吐いた。

ウィッチが攫われた日の深夜、チアフルと合流した００９は、ドルフィン号に戻ると即座にその機首を中東へと向けた。
チアフルはといえば、ドルフィン号に着くなり解析用の各種機材が置いてある部屋の場所を００６に尋ね、『ちょっと調べる事があるから。パイは食べといてくれよな。あ、俺の分はもう取ったから、あと全部食べていいぜ』と言うなり、そのままその部屋に閉じ篭ってしまって。
あまりの事に呆気にとられた００７達だったが、しかし、００９から、チアフルが帰宅した時は既にウィッチは誘拐されていて、敵も立ち去った後だったという事と、その敵が残して行ったと思われるナイフがあり、チアフルはそれを調べているのだと聞かされれば、確かに、今ここで自分達と話をするよりも遺留品だというナイフの解析をすべきだろうと判断せざるをえず。
かくして一同は、パイを食べ交代で休憩を取りながら、一路中東を目指したのだった。

そして。
ドルフィン号を飛ばすこと数時間。
夜明けの薄明が砂漠を照らす頃、ドルフィン号は簡易診療所の近郊に辿り着いた。
勿論、そのままドルフィン号で乗りつける訳にはいかないので、少し離れた丘陵地帯へと行き、谷の奥まった辺りに着地させる。それから、００３が簡易診療所の様子を慎重に『見て』いる間に、００６、７、９の三人でドルフィン号に簡単なステルス処理を施したシートを被せて。
そうこうしている間に簡易診療所の様子を一通り確認した００３が、今のところ Neo Black Ghost の手は及んでいないらしいと告げる。
そこで一同は、どうしたものかと暫し額を突き合わせたのだった。
チアフルは未だ解析部屋から出て来ない。従って、何か判った事があるのかどうかは不明。だが、そろそろ日本を立つ前にアイラニに告げた、『早ければ１０時間後、遅くとも１５時間後』になる。近くに来ている事を通信で報せても良いが、敵の動きが全く判らない今、それも良策とは思えない。
かくして、鳥に化けた００７が簡易診療所へ潜入し、アイラニと会って状況を確認することにしたのであった。

そうやって００７が簡易診療所を往復し、００３の見立て通り、未だ Neo Black Ghost の襲撃を受けていないという事が確認されたのが、その日の昼少し前になる頃。
何はともあれ、こちらは間に合ったと００９達が胸を撫で下ろしているところへ、解析部屋からチアフルが出てきたのだった。
何か判ったのか？ と尋ねる一同に、チアフルは『未だ途中』と軽く肩を竦め、逆に、『んで、今、どーなってんの？』と訊いてきて。とりあえず、簡易診療所から数キロの場所に居ることと、簡易診療所へは未だ Neo Black Ghost の手は及んでいない事を伝えると、チアフルは暫し黙り込んだ後、こう言った。
『とりあえず、ライをドルフィン号に連れて来ちゃいな。但し、不自然じゃないように。すぐには理由が立たないってんなら、とりあえず、グレートを身代わりにして。それで、なるべく早いうちに、ライが不自然なくあそこを離れたって事になるようにするんだ』
そこで言葉を切り、宙を睨んで。それから、チアフルは更に言葉を継いだ。
『あと、ここは近すぎるから、移動。少なくとも６０キロっくらいは離れた方がいい』
ホントは１００キロ以上は離れたいトコだけど、そこまでやっちまうと相手の出方によっちゃまた色々面倒だから……と、それだけ言って再び解析部屋に戻ろうとするチアフルを、００９が慌てて引き止めた。
『一体、どういう事だい？』と問う００９を振り返ったチアフルの瞳に、その場の全員が凍りつく。
およそ人らしい感情の欠落した、昏い黄玉の、ガラスの瞳。
言葉を失った００９を無感動に眺め、チアフルは言った。
『あそこの全員を護るのはムリ。患者まで含めてここに収容するのも逃がすのもムリ。今できんのは、あそこに居る連中のうち、誘拐されて一番困るヤツを、とりあえず保護する事だけだ』
ウィッチが誘拐された今、次に誘拐されて困るのは……今現在、敵の手にあるウィッチを一番困らせる事になるのは……ライだ、とチアフルが言う。
『だから、ライを保護する。それ以外の連中は、敵にこっちの関係者だと気付かれないように、仮に気付かれても利用価値が低いと判断されるように、そう仕向けるしか現時点では手が無い。こっちが護れば、あっちは仕掛けてくる。巻き添えにするのを避けるには、距離を取るしかない』
もっとも、もう手遅れかもしれないケドな。それだけ言って、チアフルはその場を後にし、再び解析部屋に閉じ篭ったのであった。

そして、その日の夜。
夜陰に紛れてライと、それからもう一人、カティサックが簡易診療所を抜け出してドルフィン号に向かった。
００７がチアフルの意見をアイラニに伝えた結果、タイラントが戻って来た後で、その護衛のもと二人が正式に簡易診療所を離れる…という段取りにする事になった為、それまでの数日間、ライの不在を気付かれないよう００７がライの身代わりになる。一方のカティサックは、普段からあまり頻繁には旧ウラル研究所の関係者以外の前に姿を見せないので、タイラントが戻るまでの間くらいならば、周囲の人間が気をつけて振舞っておきさえすれば、不在に気付かれることは無いだろうという事で、身代わりは無し。
ドルフィン号は、二人を収容したところで即座に飛び立ち、夜明け前に簡易診療所から６０キロほど離れた地点へと移動して。
相変わらず食料を取りに時々出てくる以外は解析部屋に閉じ篭りっきりのチアフルと、『大丈夫だ』と言いながら何を聞いても上の空、歩けば壁に激突するか何も無い床に躓いて転ぶかのライを抱え、当面できることと言えば、タイラントの帰着と残りのメンバーの参集と、そして、チアフルが専念している解析の結果が出るのを待つくらいで。

かくして、敵の出方が全く判らぬまま、００３、６、９の三人は、交代で周辺を警戒しつつ、暫しの休息を取ることとなったのであった。

「明日か、遅くとも明後日には、タイラントが戻ってきますから」
声をひそめたままアイラニがそう言うのへ、００７がパンを齧りつつ小さく頷く。
「わぁってるよ。にしても、早いトコ帰ってきてもらわないと……」
この書類の山、どーしろってんだよ…と嘆く００７に、アイラニが苦笑した。
「半分くらいは最終チェックだけの筈なので、目を通さなくても大概が大丈夫の筈です。もっとも、時々はミスがあるんですが……何しろ、皆、ライが最後に見ると思っているもので、忙しい時はノーチェックで回してくる事もありますからね。でも、今日分以降は、皆も承知で出してくるので、問題は無い筈です」
「で、残りの半分は？」
「残りの半分は、分類するところまでお願いできれば、後で、私とエストラとレッサート、あとエレスあたりに手伝ってもらって……それで何とかします」
「了解……。しっかし、アイツの事務処理能力って、化け物じみてねぇ？」
各々が別の仕事を持ちながらとはいえ、代理をするのに何人がかりだよ……と嘆息する００７に、アイラニがクスリと笑う。
「そうですね。読むスピードは速いですし、内容を理解するのも早い。そういえばエストラが、新しく考案した術式の説明をしていたら、半分までの説明で結論を理解されて OK を出された、と驚いていたこともありましたね」
「そりゃ、テレパスだからでないの？」
そう言う００７にアイラニが首を振る。
「そういう訳じゃないですよ。勿論、『読んだ』のは確かでしょうけれど、でも、それと理解は別です。一応は専門分野の話とはいえ、込み入った話を、一度聞いただけで総て理解できますか？ OK を出していいかどうかが判断出来る程に？」
そう言われ、００７が腕を組んで考え込む。
（……例えば、我輩が、シェイクスピアの新解釈を聞かされて……で、一度聞いただけそれを総て理解できるか……というような感じかねぇ……？）
そう考えてみると、答えは否だ。たとえ１から１００まで総て事細かに説明されたとしても、ある程度の時間をかけてじっくり考えなくては、多分、理解できないだろう。その新解釈を世に問うて良いかどうか？ などと訊かれたとしても、Yes とも No ともその場では言いようが無いのは、まず間違いない。
「……確かに、そりゃ凄いな」
しみじみと答える００７に、アイラニがほんの一瞬だけ嬉しそうな瞳をして。けれど、つと目を伏せると、どこか沈痛さの漂う声音で言葉を継いだ。
「とにかく優秀ですよ、ライは。こんな事になっていなければ……ノーベル賞くらい、取ってたんじゃないでしょうかね……」
「え……。あー、うん。まぁ……」
そうだな、とも、そうでもないだろ、とも答えられず、００７が天井を仰ぐ。
やや気まずい沈黙。
それを振り払うように、アイラニが籠のパンを示し、殊更に普通の声で言った。
「もう少し召し上がりますか？」
それへ、００７が軽く頷いて。
「あー。うむ。そうだな、もう少しだけ、貰おうか」
返答を受けたアイラニが、薄焼きのパンを一枚取り出すと、テーブルに置いた皿から肉や野菜を取ると慣れた手つきで間に詰めて。
「……どうぞ」
差し出されたそれを受け取り、００７は溜息を吐いて呟いた。
「ちょっと、過保護じゃねぇの？」
「こうでもしないと、パンだけを齧られてしまいますので」
食事中も、大概、上の空で何事かを考えていますからね、と事も無げに言うアイラニに、００７が呆れたような眼差しを向ける。
「あんたさぁ、よくもまぁ何年もアイツの副官やってるよな」
「幸いなことに、そう言われる事が多いですね」
「はぁ？」
今ひとつ意味の通らない返答に、００７が首を傾げる。それへ、大真面目な顔でアイラニは言葉を継いだ。
「だから、何年も彼の副官をやっていられます。成り代わってやろうという人が誰も居ませんから。幸いなことです」
「……はぁ……」
何だか良く判らないが、とにかく、本人は現状に満足してるという事らしい。そうであるなら、それは喜ばしい事な訳で。
（ま、人それぞれの人生、か……）
そう呟き、００７はそれ以上の追求を諦めた。

その日の夜。
ドルフィン号内の会議室に、解析部屋から出てきたチアフルと、００３、６、９の三人が居た。
ギルモアは、『諸君に任せる』と言って００１を抱えて自室に。ライは、多少なりとも落ち着いては来たものの、現時点では未だウィッチの誘拐に関する話を聞くのは勧められないというカティサックの判断によって、ドルフィン号の一室に。カティサックは、『必要ならば後で聞かせて下さい』と言ってライの付き添い、という訳で。
集まった一同を無感動な瞳で一瞥し、チアフルは面白くも無さげに口を開いた。

「最初に言っとくけど、そんなにたいしたコトは判っちゃいないからな」
チアフルらしからぬぶっきらぼうな口調で言い捨てる。
そして、それへ頷く一同を見もせず、手に握ったナイフに視線を据えたまま、チアフルは言葉を継いだ。
「まず、このナイフの材質。材質としちゃ合金なんだけど、その合金のレシピは、Neo Black Ghost が加速装置付のサイボーグ用に開発した特殊鋼のものと同じだった」
でもって…と言って、ナイフを目の前に掲げると、刃の部分を指し示す。
「この刃の部分の加工。普通の人間が使うナイフって、大概、ココんトコの……」
と言いながら、刃の縁を指でゆっくりとなぞって。
「この部分にさ、エッジってゆーのかね、ようは刃を造るわけなんだけどさ。コレには、それが無いんだよね」
他の部分に比べれば薄くなっていて、一応は刃の形状を成してはいるものの、普通の人間が普通に切って物が切れる程の刃ではない、とチアフルは言う。
「勿論、サイボーグが使うってんなら話は別」
そうであれば、これで十分。むしろ刃こぼれの心配が無い分、こっちの方が良い、と言い足して。
「それから、この柄」
今度は刃の方を持って柄を振って見せながら、チアフルは更に言葉を続けた。
「絶対とは言い切れないケド、でも、大概の場合、ナイフの柄ってのは、持ちやすくする為に、刃とは別の、もうちょっと滑りにくい別の材質にするんだよね。でも、こいつは刃と柄が一体でさ。で、その代わりに、こうやって滑り止めの溝が彫ってある」
細かな溝が幾重にも掘られたその柄を、チアフルが睨み据えて。
「何でこんなコトしてるのかって理由は色々あるんだろうけどさ。ま、少なくとも俺の知る限り、Neo Black Ghost が開発していた材質の中には、ナイフの柄に適し、かつ、加速装置に耐えられる材質っての、無かったんだよね。だから、加速装置付のサイボーグに使わせようと思ったら、こういう造りになっちまう、と」
つまり、とチアフルはつまらなさそうに言葉を継いだ。
「このナイフの持主は、Neo Black Ghost の、加速装置付のサイボーグ…ってワケだ」
チアフルが口を閉じ、室内がしんとなる。
Neo Black Ghost の復活。それは、ある程度は予想し覚悟していた事態ではあったが、こうやって改めて証拠と共に突きつけられると、その衝撃は計り知れず。
しわぶきひとつ無い室内。
そこへ、再びチアフルの声が響いた。
「判ったことは、他にもある」
「……え？」
思わず目を瞬かせた一同を、やはり見向きもせず、チアフルはナイフを睨んだまま言葉を続けた。
「このナイフ、かなりの人数の血を吸ってる」
「……っ」
「柄に彫られてる溝をさ、全部調べたわけ。隅っから隅まで」
どこか狂気を孕んだ昏い瞳に、一同が息を呑む。けれど、チアフルはそれに頓着する様子も無い。
「すんげーちょっとづつだけだったケドさ、血液の成分が残ってて。んで、それを調べたんだけど、それが、どーにも、一人二人ってカンジじゃ無さそうでさー」
口調は軽いのに、その声音はひどく平板で。
「それから、もう一つ。コイツの溝の中から面白いモノが見つかったんだよねー」
ふっとチアフルが視線を上げる。
深淵を映した黄玉の瞳が、００９を見据えて。
そして、チアフルは言った。
「このナイフの持主な、案外、近くに居るかもよ？」
「……え…？」
唐突な言葉に００９が目を見開く。
それへ、チアフルは言った。おそろしく静かに。
「鉱物がさ、見つかったワケ。中東の、この辺りの砂漠に特有の鉱物がさ」
００９だけでなく、その場の全員が、息を呑む。
その一同を睥睨し、チアフルが、口調だけは軽く、けれど淡々と、言葉を続ける。
「一粒だけだけどさー、見つけちゃったんだよねー。俺にこんなモノ残してくなんて、そいつ、何考えちゃってるんだろーねー」
ひょっとして俺のコト舐めてくれちゃってるのかなー…と、どこまでも抑揚の無い口調で言う様は、その軽い言葉とは裏腹に、狂気にも似た殺気を孕んでいて。
沈黙。
言葉も無い一同を、暫し、チアフルが見渡す。
そして。
不意にチアフルが、にぱっと笑った。
その笑みは、常の、陽気なイタリア男そのままで。
「えっと〜」
呆然としている一同を困ったように見回し、チアフルは頭を掻いた。
「まぁ、なんだ。結局のトコロ、判ったのはそんだけなのよ。時間かかった割に、たいした情報じゃ無くてゴメンな」
その、あっかるい調子もまた、常と変わらぬチアフルそのままで。
「てな訳で、俺、ちょっと疲れたから、何か食って寝るわ。悪ぃケド、そんな訳で、後、ヨロシク〜」
ヒラヒラと手を振り、けれど、もう片方の手にはナイフをしっかりと握ったまま会議室を後にするチアフルを、００６が心配気に見送って。
だが、誰も何も言わず、言えず、チアフルはそのまま会議室から出て行ってしまった。

閉じた扉を三人が暫し見詰めて。
やがて、ゆっくりと００６が立ち上がった。
「……ワテちょっと、カティサックはんと、話、してくるアルね。ヨロシアルか？」
そう問う００６に、００９が小さく頷く。
「そう、だね。うん。それが良いと思う」
悪いけど頼むよ、と言う００９に００６が頷いて。
「任せるアルね。カティサックはんは、チアフルはんのコト、いつも心配してはったアル。それに、専門家でもアルからして、きっと良い案があるアルね……」
そう言い、００６が会議室を後にする。それを見送り、そして、００９は溜息を吐いた。
「……ジョー？」
「うん……」
沈黙。
チアフルの座っていた席を、００９が、黙ったままじっと見詰めて。
「……あのナイフ、チアフルに渡さなければ…良かったのかな……」
不意に呟くようにそう言った００９に、００３が首を傾げた。
「どうして？ チアフルさんがあのナイフを調べてくれたから、色々な事が判ったのよ？」
「うん……。それは、そう…なんだけど……。でも……」
ナイフを見詰めるチアフルの瞳。その、狂気を孕んだ昏い瞳。
「あれをずっと持ってたら、そのうち、チアフルが狂っちゃいそうな気がして、さ……。考えすぎ、かな……」
そう言ってぎこちなく笑う００９に、００３が暫し考えを巡らせるかのように宙を見詰めて。
「……フランソワーズ？」
訝しげに問う００９に視線を戻し、００３は言った。
「私は……私には、逆のように思えるわ、ジョー」
「逆？」
「えぇ。あのナイフは……ウィッチに繋がっている。今のところ、彼女を見つけ出す、唯一の手がかりだわ。もしかすると、それを持っているから、チアフルさんは正気を保てている……のかもしれない、って」
私の方こそ、考えすぎかしら？ と言う００３に、００９が目を瞬かせて。
「いや……。うん、君の言う通りかもしれないね」
きっとそうだよと言う００９に、００３がクスリと笑う。
「どっちも違うかもしれないわよ、ジョー」
「え？」
００９が虚をつかれたように目を見開く。それをじっと見詰め、００３は静かに言った。
「大丈夫だと思うの。チアフルさんは……」
「………」
「だって、彼は……」
そう言って見詰めてくる００３に、００９が、あぁ、と頷いて。
「そうだね。彼は、一人じゃない」
「えぇ」
ふわりと笑って頷き、そして、００３は言葉を継いだ。
「それに、彼、そんなに無責任じゃ無いわよ」
（……そうでしょう？ ねぇ、エカテリーナ……）
だから、大丈夫。
００３が、そう心の中で続けて。
「そう、だね……」
それへ、００９がどこか遠くを見詰め、小さく頷いた。
「……大丈夫だよね、チアフルは」
「えぇ」
そう答える００３に頷き、それから００９は軽く瞳を閉じた。
チアフルは大丈夫。それは自分の心配すべき事ではない。
（……僕が、考えるべき事は……）
これからどうすべきか？
（……とはいえ……）
当面、少なくとも、ここ数日間は、特に出来ることは無い。
「とりあえず、皆が来るのを待つしか無い……かな」
自分に言い聞かせるように言う００９に、００３が頷いて。
「そうね。待ちましょう、皆が来るのを」
チアフルの言うように、ウィッチを誘拐した敵がこの辺りに居るのであれば、尚更、全員が揃う前に迂闊な動きはできない。
それは判っていたが、しかし、もどかしい。
小さく溜息を吐き、００９が問う。
「皆が来るまで、あと、どれくらい…かな……」
「そうね。一番早いのが、タイラントさんかしらね？ 早ければ明日、遅くとも明後日という話だもの……」
「そう、だね……。とりあえず、タイラントだけでも戻って来てくれれば、大分、心強いかな」
彼ならこの辺りの地理にも詳しいし、ライに化けた００７を簡易診療所から脱出させて、こちらに合流させることもできる。そう言う００９に、００３も頷いて。
「そうね。彼が戻って来てくれれば、大分、助かるわ」
「うん。明日か、明後日……か」
とりあえず、それまでは何も起きない事を祈るしかないね、と苦笑して。
そして。
（……タイラント……。君は、今、何処に居るんだい？ 早く……）
早く戻って来てくれよ、と００９は小さく呟いた。

控えめなノックの音に、チアフルは椅子に座ったまま溜息を吐いた。
とはいえ無視するのも憚られ、やむをえず、返事をする。
それに応えて扉を開け、室内へと入ってきた見知った気配に、チアフルは振り向かぬまま苛立たしげに溜息を吐いた。

「……で、誰の差し金？」
ぶっきらぼうな口調。それへ、カティサックが苦笑する。
「御挨拶ですね、チアフル。私には、友人を心配する資格は無いのでしょうか？」
冗談めかした言葉の奥に、紛れも無い哀しみを聞き取って、チアフルがまたも溜息を吐く。けれど、それは後悔の溜息。
軽く手を挙げて首だけで振り返り、チアフルは言った。
「悪ぃ、気が立ってんだ、勘弁な」
「そうだろうと思いましたよ」
カティサックがそう応えて笑い、チアフルの傍らに歩み寄りながら、片手に持った瓶を揚げて見せる。
「張大人秘蔵の老酒です。同郷のよしみで貰って来ました」
「それ、あんたの処方？」
未だ硬さの残る口調でチアフルが問えば、カティサックがクスっと笑った。
「まさか。ごく一般的な処方です。知らないんですか？ ヤケ酒というやつですよ」
「ヤケ酒……？」
目をぱちくりさせるチアフルを、カティサックが大真面目で見下ろして。
「そうです。いいですか？ 貴方の完璧な監視網を掻い潜って、まんまとウィッチを誘拐してのけたクソッタレが居る訳ですよ。これは十分、ヤケ酒を飲むに足るシチュエーションじゃないですか。これが飲まずにやってられるか！ という訳です」
「……はぁ……。クソッタレ、ねぇ……」
なんか、あんたの口から聞くと衝撃的だなぁ…と、チアフルが半ば毒気を抜かれたように呟く。
確かに、黒髪に黒目の東洋人であるカティサックは、骨格の線の細さもあいまって、やや大柄な女性のように見えなくもない。特に、イタリア人であるチアフルの目からすれば、知らなければ女性と言われても信じてしまうだろう程で。
その、男にしてはやや艶やかなカティサックの唇から『クソッタレ』などという単語が出てくると、どうにも調子が狂わずにはいられないチアフルであった。
「いやまぁ、俺、別に飲まなくてもやってられるけど……」
「そうですか？」
改めてそう問われ、チアフルは、頭を掻いた。
「いやまぁ……。そりゃ……」
正面切って尋ねられれば、自信を持って『やってられている』と断言できる状態ではない自覚はある。
「……えーと。まぁ、やってらんないっちゃ、やってらんない、かな〜」
チアフルの答えに、カティサックがにっこりと笑って老酒の瓶を示す。
「では、どうぞ。勿論、私もお相伴させて頂きますので」
「……え」
そのカティサックの言葉に、チアフルは内心で半歩ほど後ずさった。

チアフルが思わず後ずさりしてしまったのには、勿論、理由がある。
ライ一党における一番の酒豪と言えば、誰もが名前を挙げるのがライだった。
だがそれは、表向きのこと。実は、知る人ぞ知る影の酒豪というのが居て、それが、カティサックなのだ。
チアフル自身は、その所以を体験した事は無いのだが、複数の人間から話は聞かされていた。もっとも、話をした当人達も記憶が定かでは無く、従って、その恐怖体験はうろ覚えのものに過ぎず、実際に何があったのか、その実態は全く不明なのだが。
しかし、それを語った者達は、誰も彼もが半泣きで。
それ故チアフルは、とりあえずカティサックと差し向かいで酒を飲むことだけは避けようと、堅く心に決めていたのだった。
とはいうものの。
（ま、いいか。ヤケ酒、だもんな……）
そう思うと、何となく全身の力が抜けるような気がして、チアフルは内心で苦笑した。
（そっか……）
どうやら自分は少々ヤケになっていたらしい。そう思い、改めて傍らに立つカティサックを見上げて。
（……さすがは心療医…ってトコなのかねぇ……）
カティサック自身がどう言おうが、また、本人にそのつもりがあろうがなかろうが、結局、その職業的特質というのは当人とは不可分のものなのだなと考え、そしてチアフルは内心で肩を竦めた。
（ま、そりゃそうか……）
職業があって人が居るのではなく、人が居てその職業があるのだから、それは当然の事。であるなら、尚更、最初に自分がカティサックに掛けた言葉は不適切だった、とチアフルは苦笑する。
（やっぱり、俺、ちょーっと駄目かもな……）
そう思い、チアフルは内心で溜息を吐いた。

「チアフル？」
暫し黙り込んだチアフルを、カティサックが心配気に見詰める。
「ん？ あぁ、いや……」
それへチアフルが首を振り、そして、扉の方へと視線を動かした。
「だったらさ。どーせなんで、ソコに居る人にもご一緒して貰っちゃおーかな。ど？」
そう言うチアフルに、カティサックが、流石に鋭いですねと苦笑して。
「張大人？」
「バレてたみたいですよ」
向けられた言葉に、ほんの僅かだけ開いていた扉の影から、００６が姿を現す。
「あの……。ワテその……」
チアフルを見、カティサックを見、それから、００６は後ろに回していた手を上に上げた。
「げっ」
「それは……」
００６の両手に一本づつ握られているのは、酒瓶。
「もー、コレで全部アルよ。また仕入れないと、駄目アルからして……」
心して飲んで欲しいね、と言う００６に、チアフルが天を仰いで。
「あんた等、それ全部飲む気かよ……」
「飲むのは貴方ですよ、チアフル。我々は、あくまでもお相伴するだけですから」
「そうアルね。チアフルはん、もぉ遠慮なく行くアルよ」
そう言いながら、さっさと封を切ってグラスに注ぎ始める００６に、チアフルが溜息を吐いて。
「………あーもぉ。わぁったよ、もぉ知らねっ」
どうせヤケ酒だ、じゃんじゃん行ってやる！ とグラスを取るチアフルに、カティサックと００６も倣って。
「では、どこかのクソッタレに！」
「クソッタレにっ！」
「まったくクソッタレ〜、アル！」
些か品位に欠ける台詞を、三人が高らかに唱和する。

かくして。
ドルフィン号の夜は、ゆっくりと更けて行った。