難民キャンプの郊外にある簡易診療所。治療を求めてそこを訪った者が最初に案内されるのは、入口近くにある受付棟だ。
受付棟には警備部の者達が待機していて、患者が持参した紹介状の内容を確認し（大概の患者は難民キャンプにある医療テントを経由して来るため、簡易診療所と医療テントのスタッフ達が相談して定めた書式の紹介状を持っており、それを見れば医学知識の無い警備部のメンバーでも判断ができるようになっているので）、しかるべき診療科へと案内していく。医療テントからの紹介状を持たずに直接この簡易診療所に来た患者の為には、当番の医師が待機しており、受付棟の一角にある部屋で簡単な問診を行った上で、各診療科への案内を警備部員に指示する。また、怪我や病気の度合いが軽度で、この簡易診療所での継続的な治療を必要とする程では無いと判断された場合には、当座の処置をその場で施し（あるいは薬を処方して渡し）た上で、その診察記録を規定の書式にしたため、次回以降の診察が必要な場合には、それを持って医療テントの方へと行くよう告げる事もあった。
そのような訳で、たとえ案内棟と言えど、その一角では診察が行われる事もあり、そして、簡易診療所を置いているそもそもの目的から、重い症状の者が訪れて来ることが殆どでもある為、広々とした室内は、概ね整然とした静けさに包まれているのが常であった。
だが。
その案内棟が、今、騒然とした空気に包まれていた。

広々とした室内の、ほぼ中央辺り。そこに、警備部員や医療担当者、そして、おそらくは患者の付き添いや見舞い客だろう、そういった者達が作る困惑しきった人の渦があった。
渦の中心には、二人の男。
一人は、夜露に濡れた麦藁色の髪にアイスブルーの瞳をした、白衣姿のロシア人。言うまでも無い、この簡易診療所の責任者であり、本来であれば、この場所の秩序を回復させるべき立場である筈の、ライ。
それに相対しているのは、やや赤味がかった派手な金の長髪を、一体どうやってしたものか、バリバリに逆立てて固めている、青い瞳の若いアメリカ人。星条旗がでかでかと描かれた馬鹿でかい真っ赤なトランクを傍らに置き、長身に紺青のジーンズと漆黒の革ジャンパー（しかも、その背中には大胆な色使いのトロピカルなイラスト付き）という出で立ちは、どこからどう見ても申し分が無い程、この場では浮きまくっている。
その青年の胸倉に掴みかかり、噛み付かんばかりの勢いで、ライが何事かを喚き散らしていた。

「ちょっと、退いてくださいっ！ 通してくださいっ！ 危ないですから、皆さん離れてっ！」
そう叫びながら人垣を掻き分け、渦の中心へと駆け込んで来たのは、アイラニだった。転び出るようにして二人の間に割って入ると、些か乱暴にライの両手を掴み、アメリカ人青年の胸元から引き剥がす。
「ライ、ライっ！ 落ち着いてくださいっ。一体全体、これは何事ですかっ？」
「こっ…こいつっ……こいつがっ……妹がっ……」
そこから先は、訳の判らない早口の単語の断片で、どこの国の言葉やらも判然としない。全く要領を得ないライの様子に、事情を聞き出す事を早々に諦めたアイラニは、アメリカ人青年の方へと向き直った。
「失礼ですが、ライのお知り合いの方ですか？」
「いんや、初対面。ちっとばっかり、俺のダチを探しに来ただけ」
「……ダチ……？」
一体何の話だ？ と首を傾げるアイラニを見下ろしながら、青年がオーバーアクション気味に肩をすくめて見せて。
「俺のダチがよぉ、エカテリーナって娘と駆け落ちしちまってさー」
「は？ エカテリーナ？ エカテリーナ…って……」
何やら不穏な気配を感じたように、アイラニが眉根を寄せる。その様子を気にする風も無く、青年は言葉を継いだ。
「どーこ探しても見つからないモンでさ、ひょっとして、その娘の兄貴ンとこにでも居るかと思って、それで、ここまで来たってぇワケさ」
「あの、エカテリーナ……？ それって、ま…さか……？」
そう言い、アイラニが額に手を当てて考え込んだ隙に、再び、ライが青年へと掴みかかる。
「……きっ、きさまっ、エカテリーナをっ、エカテリーナがっ、エカテリーナが、かっ、かっ、かっ、駆け落ちっ、駆け落ちっ？ 駆け落ちだとぉっ？」
「ライっ、落ち着いてっ」
慌ててアイラニがライを押し留めようとする。揉み合う二人を見下ろしながら、青年は大げさに溜息を吐いて見せた。
「だーから、さ。俺じゃねーっての、エカテリーナって娘と駆け落ちしたのは、俺のダチだって……」
「エカテリーナァーっ！」
絶叫とともに、ライがアイラニを押しのけて青年に殴りかかろうとする。
「ちょっ、ちょっとっ。落ち着いて、落ち着いてください、ライっ」
どうにかしてアイラニがライを抑えようとするが、しかし、ライはといえば、最早、完全な錯乱状態で。両手を闇雲に振り回しているものだから、危ないことこの上無い。
「ライ、ライっ！」
アイラニの必死の呼びかけも、果たして、その耳に届いているかどうか。
「……ぁあもぉっ。……すみませんっ」
これは処置なしだ、と判断したアイラニが、振り回される手を避けながらそう言うなり、素早く拳を繰り出して。
「……っ」
鳩尾に一発。
途端にライの動きと叫びがピタリと止まる。
次の瞬間、ガクリと崩れ落ちた体を抱えるようにして支え、アイラニはヤレヤレと溜息を吐いた。
そして。
「……お、おい……？」
いきなりの行動に流石に驚いたのか、目を丸くして絶句している青年を見上げ軽く頭を下げる。
「大変失礼致しました。申し訳ありませんが、彼の部屋まで一緒に来て頂けますか？」
そちらで詳しいお話を伺いたい。そう言うアイラニに、青年が目をぱちくりさせつつも頷いて。
「あ…あぁ、勿論、俺は構わないぜ？」
「では、こちらへ……」
そう言ってライを担いで歩き出そうとするアイラニの元に、やっと我に返った備部員達が、わらわらと駆け集まって来た。ライを担ぐアイラニの傍に寄り、手を貸そうとする。
だが、その者達へ、アイラニは首を振った。
「結構です。皆さんは、早急に、この場を何とかしてください」
今の騒ぎの間、案内を待つ患者達は皆、放ったらかし状態なのだ。もし一刻を争うような状態の者が居たら大変だ。即刻それを確認し、速やかに各診療科へと案内するように、とアイラニが言う。
「皆さんの対応に、患者の生命がかかっているのです。確実に、丁寧に、素早く。よろしいですね。お任せしますので、よろしくお願いします」
キッパリとした言葉。それへ、警備部員達が目を瞬かせて。次の瞬間、互いに目を見交わして大きく頷きあい、足早に散って行く。
それを見送り、そして、アイラニは、改めて傍らに立つアメリカ人青年の方へと視線を送った。
「すみません。こちらへどうぞ……」
そう言うアイラニに、青年が、一瞬だけ案内棟の中を見渡し、頷いて。

ライを担いだアイラニと、真っ赤なトランクを持ったアメリカ人青年が、案内棟の奥にある扉を開き、出て行く。
最早、それに注意を払う者は居なかった。

簡易診療所の一角にある、ライの執務室。
ライを担いだアイラニが扉を開いて室内に入り、その後ろにアメリカ人青年が続く。アイラニが部屋の隅にある古びたソファーへとライを運んで行き、その間に青年が扉を閉じて。
閉じられた扉の前に佇み、青年が外の気配を伺うように目を細める。
暫しの沈黙。
やがて、青年がアイラニを振り返った。問いかけるような瞳へと小さく頷いて見せる。
それを確認したところで、アイラニが大きく息を吐いた。ゆっくりと立ち上がり、笑みを浮かべて。
「お久しぶりです、ジェット。名演技でした」
００２……アメリカ人青年は、勿論、００２だった……が、ニヤリと笑いながらウィンクを返す。
「あんたもな、アイラニ」
二人はどちらからともなく歩み寄ると、がっちりと握手を交わした。

「初めて来たけど、うまくやってるみたいじゃないか。まだ、たった４年半だろ？ あんたの手腕は流石だよ。受付に居た連中の教育も、えらく行き届いてるし。俺みたいな、あからさまに不審なヤツにも、ものすごく丁寧で、素早い対応だったぜ？」
「恐縮です。まだまだ課題は山積してますけれど、そう言って頂けると嬉しいです」
こんな時でなければ、色々と見てもらって意見を頂きたいところですが…とアイラニが苦笑して。
「あなたが毎年送ってくださる絵本は、子供達だけじゃなく大人達にも大人気なんです。かなりの冊数になってきたので、いっそ図書室を作ろうかという話が持ち上がっているんですよ。できれば、それについても意見を伺いたいところなのですけれど……。まぁ、この件が片付いてから、ですね……」
「片付くさ、すぐに」
だんだんと呟きになって行ったアイラニの言葉に、００２が力強く応える。
「……ジェ…ット……？」
「片付くさ。片付けちまやぁ、いいんだ。なーに、所詮は残党だろ？ ぱぱーっと、な？」
「そう、うまくいく…でしょうか……」
ウィッチの誘拐、タイラントの未帰還、不安材料には事欠かない。そう考えて表情を曇らせるアイラニに、００２が笑顔を向ける。
「そんなに心配するなよ。何とかなる！ 何とかしちまやぁいいんだ。これまでだって、結局、何とか出来てきたんだし。な？」
明るい口調。それへ、アイラニが微かに笑った。
「そう…でしたね……」
勿論、言うほど簡単には行かない事など、００２とて十二分に承知している筈だった。いや、アイラニなどより遥かに多くの戦いを経験してきた００２の方が、事態の深刻さに対する理解は深い筈で。それなのに、何とかなる……何とかする、そう軽々と断言する。
（……強い……）
恐ろしいまでの明るさ。これこそが、００ナンバー達が、幾度となく圧倒的な戦力差を覆してきた、その原動力なのか。そうアイラニは想う。
「今回は、俺達だけじゃない、あんた達だって居る。楽勝さ」
よろしく頼むぜ、と００２がアイラニの肩を叩いて。
そして。
「……っと、そういやぁ主演男優は、なにやってんだ？」
首を傾げて言いながら、００２はソファに寝かされている『ライ』へと歩み寄って行った。

「おーい、いつまで寝てんだよ。第二幕があるんだろ？ おい、グレート」
「……う…うーん……」
その声に、ライ……『ライ』に化けた００７……が低く唸る。
「おーい」
「大丈夫ですか？」
覗き込む００２とアイラニの視界の中で、００７がゆっくりと身を起こした。
「うー……」
億劫そうに身を起こし、００７が大きく息を吐く。
「……すみませんでした。手加減しなくて良いということでしたので……」
思いっきりやってしまいました、と恐縮するアイラニに、００７が首を振る。
「いや、それで構わないんだけど……。でも、流石だねぇ、見事な一発だった……」
あんたが生身だと思って油断した、と００７が苦笑する。
「これでも、一応は戦闘員ですから……」
一通りの心得はありますので、と言うアイラニに、００７が頷いて。
「そりゃそうだよな。ライの護衛だもんな。ホント、ライは恵まれてるぜ」
ボソボソと言いながら立ち上がると、００７は壁の時計を見遣った。
「……そろそろ、案内棟の騒動も収拾がついた頃合かな……？」
「そうですね……。えぇ、多分、概ね常態に戻っている頃かと」
００７の視線を追って時計を見遣り、アイラニが頷く。
「よし。それじゃあ、第二幕と行きますかねぇ。……ジェット、そっちは？」
声を掛けられ、いつの間にか持ち込んだトランクを開けて何やらゴソゴソとやっていた００２が振り返る。
「おう。チアフルに手順は教わって来たからな。組み立てまでは俺でも何とかなる。最終チェックにエレスを呼んで貰えれば、それで問題無いぜ」
そっちは予定通りに第二幕を頼むわ。そう言う００２に、００７が頷いて。そして、手早く白衣を脱ぎ捨てるとニヤリと笑った。
「……んーじゃまぁ、チアフルの初監督作品、グレート・ブリテン小劇場、第二幕『タイラントの帰還』と行きますか」
尤も、まずは見つからないように簡易診療所の敷地外に出ないとならないけどもな。何しろ昼間だし、一番面倒なのはソコだなぁ、と溜息を吐いて。
「例のモノ、エレスに作って貰えたか？」
問いかける００７に、アイラニが執務机の引き出しから紙片を取り出した。
「はい。これです」
「……どれどれ……。うーん、なるほどな……とすると……」
受け取った紙片の上に、００７が素早く視線を走らせる。
それは、簡易診療所の地図。その上に、この時間帯で予想される各場所の通過予想人数が記されている。昨夜、各人の作業予定と過去の諸々の記録を元に、エレスが算出したものだった。
「……よし」
何とかなりそうだ。呟きつつ頷くと、紙片をアイラニに戻す。そのまま窓際に歩み寄って細く開き、外の様子を伺って。
「行けそうだな」
言うなり００７の輪郭がブレた。床に落ちた服の下から這い出てくるのは砂色の蛇。
「じゃあ、３０分後くらいを目処でやるわ」
「おぅ」
「わかりました」
応える００２とアイラニに鎌首をもたげて見せ、そして００７は窓の隙間から這い出て行った。

００７扮する『ライ』と、謎のアメリカ人青年００２との騒動から小一時間。どうにか常態を取り戻した案内棟の入口に、砂色の一枚布を頭から被った男が現れた。のんびりとした歩調で歩きつつ、頭から被った布を取って周囲を見回す。それに気付いた警備部員の一人が、声を掛けながら歩み寄って行った。
「タイラント！ 随分と遅かったじゃないか。何かあったのか…？」
問いかける警備部員に、タイラントが頭を掻いて見せる。
「あー……まぁな。その、ちょっと気になる事があったんで、偵察に時間かけちまって……いや、結局、何でも無かったんだけどさ……」
「そうか。それなら良かった」
頷く警備部員から室内へと視線を送り、タイラントが言葉を継いだ。
「……ところでさ。何か、あったのか？」
ちょっと雰囲気が騒然としてるけど、と言うタイラントに警備部員が頷いて。
「あぁ。一時間っくらい前なんだけどもさ、ヘンなヤツが来て……」
やや興奮した口調で、それでも声を潜めて、警備部員は先刻の顛末を話し始めた。

「……という訳なんだよ」
「へぇ」
目を丸くして聞き入るタイラントに、一通りを語り終えた警備部員が軽く息を吐いて。そして、問いを発した。
「なぁ、タイラント。お前って、確か、ここに来る前からライと知り合いなんだろ？ ライに、妹なんて居たのか？」
その問いに、タイラントが天井を仰ぐ。
「……あー……」
「タイラント？」
「……うん。まぁ、居るのは確かなんだけど、さ……」
「？」
言い難そうなタイラントの様子に警備部員が首を傾げる。それを見遣り、タイラントは言葉を継いだ。
「見ただろ？ 妹の話になった時のライの様子。そりゃ駆け落ちしたって言われれば驚くだろうけどさ、でも、その……ちょっと反応が普通じゃ無い…って、そう思わなかった、か？」
「……あ、あぁ、それはな……」
確かに妙というか、尋常じゃ無い反応だった。そう言って頷く警備部員に、タイラントが深々と溜息を吐く。
「あの、さ。ライってさ、その…極度のシスコンなんだよ……。いや、シスコンなんて生易しいレベルじゃないかな……。とにかくさ、妹の話さえ出さなければ普通なんだけど、妹の話になった途端に……その、話にならないっていうか、おかしくなっちまうっていうか、錯乱するっていうか……。何なんだろうな、アレ……」
だから、ライの事を知る者達は、とにかく彼の前で妹の話を出さないよう、物凄く気をつけていたんだけど…と、タイラントがげんなりした口調で言う。
「あんま人聞きのいい話じゃないしさ。妹が居るって事を知らなけりゃ、誰かがうっかり妹の話をライに振る心配も無いだろ？ だから、ここに来た時に、ライに妹が居るってのは黙っておくようにしよう……って、アイラニ達とそう決めたんだ…けど……」
言い辛そうに言うタイラントに、警備部員が目を丸くして。
「……そう、だったんだ……。いや、でも……」
先刻のアレを見れば、それも判る気がするという言葉に、タイラントが困ったように笑った。
「あー……。でもさ。その……。アレ以外は普通だから。だからさ、えっと、できれば、その……見なかった事にして欲しいんだけど……」
「……判った。そうだな。うん。ライは、いいやつだしな……。皆にも言っておくよ」
躊躇いがちなタイラントの言葉に、警備部員は大きく頷いて請合った。
「うん。悪ぃ……。すっげー助かるよ」
タイラントが溜息交じりに頷き、それから、気分を変えるように頭をひとつ振る。
「……さて、と。じゃあ、俺、偵察結果の報告に行くよ。アイラニは、ライの部屋なんだな？」
「あぁ」
応える警備部員に軽く手を挙げて礼を言うと、タイラントは奥の扉へと向かって歩き出した。

「……さて」
そう言って、タイラントに扮した００７は、ライの執務室に集まった一同を見回した。
「ここまでは、チアフルの筋書き通りだな。という訳で、ここからの手筈を確認しておこうと思う」
００７の言葉に頷くのは、部屋の隅に置かれたソファーに座るアイラニ、扉に背を預けて立っている００２、そして、打ち合わせテーブルの椅子をライの執務机の脇に持って来て座っているエレス。
そのアイラニの隣にはカティサック、そして、エレスの隣にはライの姿があった。
「ってことで、エレス。『ライ』と『カティサック』の調子だけど……どう？」
００７の問いに応え、エレスが頷く。
「付け焼刃にしちゃ上出来だ。ジェットの組み立ても完璧。まぁ、見てな。まずは、『カティサック』の方な」
そう言いながら、腕に付けたコントローラに軽く触れる。
すると、アイラニの隣に座っていたカティサックが静かに立ち上がった。よくよく見れば若干ぎこちないながらも、危なげない足取りで室内をゆっくりと歩く。狭い室内をぐるりと一周し、アイラニの隣に戻るとソファーに座って。
「で、『ライ』の方」
動きを止めたカティサックに代わり、今度はライが立ち上がる。そして、やや俯き加減に歩きつつ、ブツブツと呟いた。
「……エカテリーナ………。いや、大丈夫だ……。エカテリーナ……。いや、大丈夫だ……」
「へぇ、『ライ』の方には台詞があるんだ」
感心したように言う００２に、エレスが苦笑しながら頷いて。
「まぁ、一応な。でも、台詞はこの二つだけだから、あとは周りの演技でうまく誤魔化してくれよな」
そう言いながらエレスが手首のコントローラーを見せ、操作を実演してみせる。
「……っと、まぁこんな感じだけど」
どう？ と問うエレスに、００７が大きく頷いた。
「いや、予想以上の出来だよ。チアフルのヤツ、コレを一日半で作ったんだよな？ 凄ぇなホントに」
「まあな。そりゃヤツの頭ン中には、この類のモノの設計図は山と入ってるだろうけど、でも、形にするのに一日半ってのは、確かに凄ぇ。俺がこっちで多少の調整をしなきゃなんないだろうって思ってたのにさ……」
その必要がまるで無いほど完璧に作って来やがって、とエレスが溜息を吐く。
「……チアフルのヤツ、そーとーキレてんな」
ボソリと呟かれたエレスの言葉に、一同が沈痛な面持ちで視線を交わす。しかし、今はそんな事を言っている場合では無かった。
「あー……。まぁ、とにかく」
場の空気を変えるように軽く咳払いをし、００７が言葉を継いだ。
「この先の手筈を確認しよう」
その言葉に一同が頷いて。
「……という訳で、アイラニ……」
００７がアイラニへと視線を送って促す。それを受け、アイラニが口を開いた。
「はい。まずは、夕方に各科の代表を集めた定例ミーティングがありますので、その場で、ライとカティサックがここを離れる事になった旨を連絡しようと思います」
おそらく夕方までには、この一件は皆に知れ渡っているだろうから特に説明の必要は無さそうだが、ライの妹が何者かと駆け落ちをしたこと、それを駆け落ち相手の友人が伝えに来たこと、それを聞いて以来ライの精神状態が極めて不安定になったこと、このままでは簡易診療所の所長としての業務を果たす事が困難とカティサックが判断したこと、経緯としてはこんな感じの説明をする予定だ、とアイラニが言う。
「そして、ここに居ても状況が改善するとは思えない為、とりあえずは、妹が駆け落ち前に暮らしていたアメリカへと行かせることになった。……と、これで良いですよね？」
確認するように言うアイラニに、００７が頷いた。
「そ。でもって、カティサックはライの付き添い、タイラントが護衛として一緒に行く。そして……」
言いながら、００７が００２へと視線を送る。
「……そして、駆け落ち相手の友人と名乗る謎のアメリカ人が、三人の案内役としてアメリカまで同行する、という訳だ」
００７の台詞を００２が引き取って締めくくった。
暫し、室内に沈黙が落ちる。
「無理ある…かなぁ……」
カリカリと頭を掻く００７に、００２が肩を竦めた。
「無理があろうが無かろうが、押し切っちまうしか無いだろ？」
何しろ、本当の事を言う訳にはいかないんだし。そう言う００２にエレスが頷く。
「それにだ。まぁ、あながち全部が嘘っぱちって訳じゃないんだからさ」
誘拐だろうが駆け落ちだろうが行方不明という点は同じだし、妹が行方不明になった結果ライが錯乱したのも、紛れも無い事実な訳で。
「ライがシスコンだってのもさ、嘘じゃない……というか、ぶっちゃけ、事実だろ？」
案内棟での００７の演技は、過剰どころか、むしろ、本物そっくりと言うべきだ、とエレスが肩を竦める。
「だからさ、何にも問題は無い」
断言するエレスに００７が苦笑交じりに頷いて。
「ま、そう…だな……」
「では、ライ一行の出発は明日の早朝ということで、それまでは、各自、持場に戻る……それで良いでしょうか？」
アイラニがそう言い、他に何か打ち合わせておくべき事は無いか？ と視線で問いかける。
「俺は、ライの客人ってコトでここに泊めて貰えばいいんだよな？」
確認するような口調の００２に、アイラニが頷いた。
「それで良いです。この隣の部屋に『タイラント』が寝場所を用意しますから」
「あと、食事場所とか、差し障りの無い範囲での案内も、俺がするぜ」
と『タイラント』こと００７が言う。
「おぅ、よろしく頼むゼ」
『謎のアメリカ人青年』こと００２が軽く手を挙げて。
そこへ、エレスが口を挟んだ。
「なぁ、出発は明日の早朝だよな？ チアフルんトコに持って行って貰うモノがあるから、出発前、なるべくギリギリに俺の部屋に寄ってくれよ」
「了解」
００７が頷き、他に何かあるか？ というように一同を見回す。
しかし、もう、口を開く者は居なかった。
「……では」
アイラニが言い、全員が頷いて。
一同は各々の持場へと散っていった。

翌早朝。
手の空いた夜勤明けの者達と、心配して早起きしてきた者達とが見送る中、ブツブツと何事かを呟きながら、ライが車に乗り込む。その後に、カティサックが静かに続いて。
「よぉ、朝っぱらから見送りサンキュー！」
アメリカ人青年が賑やかに手を振りながらやって来て、真っ赤なトランクを座席の後ろへと放り込むと、颯爽と乗り込んで。それを確認し、アイラニがタイラントへと声を掛けた。
「では、ライをよろしくお願いします」
「あぁ」
些か緊張した面持ちでタイラントが頷く。
「……じゃぁ、行って来る」
「ヘイ、レッツ・ゴー！」
助手席でアメリカ人青年が高らかに声を上げる。
それを合図にしたかのように、土煙を上げながら車が走り出して。
見送りの者達が一斉に手を振る中、車は遠ざかって行った。

かくして、『ライ』『カティサック』『タイラント』の三人は、謎のアメリカ人青年と共に、簡易診療所から旅立った。
その真相と、そして、この旅立ちが、本当は、無事戻って来られる保証の無いものである事を知るのは、アイラニを始めとする元ウラル研究所のメンバー達のみであった。