「おいっ、お前ら聞けよっ、大っニュースだぞっ！」
そう叫びながら兵士の一人が食堂に駆け込んで来た時、タイラントは、食堂の一隅で所属小隊の幾人かと一緒にカードゲームを（教えて貰いながら）していたところだった。
食堂には、タイラントが所属する小隊のメンバー達の他にも、同じく非番の時間にあたっている他の小隊の者達もパラパラ居て、その全員が、一斉に動きを止めて入口へと視線を向ける。興味に若干の非難が混ざった視線。それを浴びながら、駆け込んできた兵士は、興奮した調子で言葉を継いだ。
「聞いて驚けっ、医療センター長による、全サイボーグの一斉点検が行われるんだっ！」
ところが。
高らかに告げられた言葉への反応は、極めて冷淡であった。
「はぁ？」
「ンだそりゃ」
「今更、なんだよ……」
「そのドコが大ニュースだよ、くっだらねぇ」
一同が、口々に文句を言いながら溜息を吐く。
興味を失ったかのように視線を逸らし、一瞬前までやっていた事……ゲームやら読書やら雑談やら……へと戻る者達に、入口前に立った兵士は大声で呼びかけた。
「だーっ！ お前ら、ヒトの話は最後まで聞けっ！ 聞かねぇと後悔すっぞ！ そこっ！ 寝るんじゃねぇっ」
パンパンと手を叩き、はい注目、とばかりに声を張り上げるその様子に、一同が半ばうんざりしつつも再び視線を戻して。
全員の視線が漏れなく集まったのを確認し、その兵士は言葉を継いだ。
「いいかっ、新医療センター長による全サイボーグの一斉点検が行われるんだっ」
「それはもう聞いた」
改めて言われた言葉に一部から不満の声があがる。だが、別の兵士がその言葉を遮った。
「……ちょっと待て、今、『新』医療センター長って言ったのか？」
驚きを孕んだ問いかけ。その途端、室内の空気が変わった。
「え？ 新って、つまり変わったってことか？ いつの間に医療センター長が変わったんだ？」
「あのクソ野郎はどーしたんだよ。クビなのか？」
「クビはいいけど、後任って誰だよ？ アイツよりマシな腕のヤツなんて、この基地に居たか？」
「どういうコトだよオイ……」
今まで興味なさそうにしていた者達が、俄かに色めき立つ。それを見回し、入口に立っていた兵士は大きく手を振り回した。
「静かにしろっ。ソレを今から教えてやるっつってんだ！」
その叫びに食堂内が、今度こそ、しんと静まる。
「……つい半日前のことだ。あのクソ野郎が、命令違反でブッ殺されて、医療センター長が変わったって話だ。後任の医療センター長として任命されたのが誰かってぇとだな……」
思わせぶりに言葉を切り、食堂内をぐるりと見回す。
「聞いて驚けっ！ なんとっ、あの、元本部の医療センター長、ウィッチなんだっ！」
（えっ！？）
タイラントが思わず驚愕の表情で息を飲む。
だが、それ以上に周囲の兵士達の反応の方が激しかった。
「えーっ！」
「マジかーっ！」
「一体、どういうことだよっ！」
「万歳っ！」
「助かったっ！」
全員が一斉に立ち上がり、口々に何事かを叫びながら大騒ぎを始める。それはまさに、蜂の巣を突いたかのような有様で。
故に、タイラントの驚愕の真の理由は、誰に気付かれることも無かった。

騒然となった食堂内。立ち上がり、興奮した調子で口々に何事かを叫ぶように言い合う兵士達の中で、タイラントは呆然と立ち尽くしていた。
（なんなんだ？ どういうコトだ？ 何でウィッチが医療センター長に？ ってか、そもそも何でウィッチがココに居るんだ？ つーか、その……えーっと？ つまり、なんだ？）
何もかもが衝撃的で、訳が判らない。事態を理解しようにも、一体どこからとっかかれば良いのか、その見当すらつかない。
（ど…どう……すれば……？）
狼狽しつつ必死で考えを巡らせるタイラントの脳裏を、断片的な言葉が過ぎった。

『データだ。データさえ集まってりゃ、後で色んなコトを計算できる。だから、どんな些細なデータだって、とにかく集めとくんだよ』
簡易診療所で消費される各種物資の分量や、部屋ごとの人の出入り、果ては通路を通る人の数に至るまで、無意味としか思えないデータをひたすら集め続けるエレスは、そんなものが一体何の役に立つのかと不思議がるタイラントに、そう答えた。
『ナニ ガ 起キテルカ ヲ 判ル ニハ、アル程度 ノ 量 ノ 情報 ガ 必要ニナル。ダカラ、少シデモ 気ニナル コト ガ アレバ、ドンナ 些細 ナ 事 デモ、必ズ ボク ニ 報告シテ クレタマエ。イイ ネ？』
００ナンバー達と共闘することになった、その初めの時、タイラントは００１から何度も念押しされた。
『情報というのは、石とは違う。行けば拾えるというものではない』『情報を掴むってのは、飛んでる鳥を捕まえるようなモンだ。目の前に飛び出してきたら、とにかく撃ち落とせ。どうやって喰うかを考えるのは、それからだ』
ずっとずっと昔、そう言ったのは、あれは、隊長のルシファーだったか、それとも、副隊長のミシュアルの方だっただろうか？

（そう……だ。とにかく……）
とにかく、今は、集められる限りの情報を集めるべきだ。何が起きているのかを考えるのは、それからだ。
（……そうだよ。……それに、今なら……）
見回せば、食堂内に居る兵士達の誰も彼もが興奮し、浮き足立っている。今のこの状況下なら、面識の無い相手にも声をかけ易いし、普段ならそう簡単には喋らないような事についても、ひょっとしたら、口を滑らせてくれるかもしれない。
（考えるのは、後回しだ……っ）
何でもいいから、今は、訊けるだけの事を訊き出さなくては。そう思い、タイラントは、とりあえず一番近くに居る兵士へと視線を向けた。

「全員、整列ーっ！」
ざわざわした室内に、当番兵の号令が響く。勤務開始前に行われる、恒例の小隊ミーティング風景。
号令に従って、一同が、先刻の衝撃の余韻を引きずりつつも、班毎に並ぶ。タイラントもまた、自分の班の列に並んだ。
とはいえ、未だ興奮醒めやらぬ者達は、隣や前後の者同士でつつきあっては、流石に小声でではあったものの、何事かを言い合い続けていて、小隊長が正面に進み出ても室内のざわめきは静まらない。
「そこっ、静かにしろっ。そっちもっ……そこの奴っ、前を向けっ」
当番兵が何度も声を張り上げては注意を繰り返し、室内が次第に静かになっていく。
その有様を列の中から眺めつつ、タイラントは内心で溜息を吐いた。

（……はぁ。……胃もたれって、こーゆーのを言うのかなぁ……）
先刻の騒動の中、タイラントは、とにかく可能な限り沢山の者に声を掛けては質問した。食堂内を歩き回り、自分の班以外の者や別の小隊に所属している者など、通常の行動内では接点が少なく話をする機会が無さそうな者に狙いをつけ、肩を掴んで呼び止めては質問しまくった。
タイラントの目論見通り、興奮状態に陥った兵士達は、一面識も無いタイラントが相手でも大して気にする風も無く、訊いたことや訊いてないことを、事実も憶測も感想もごちゃまぜにして、ほぼ一方的に喋ってくれた。その為、答えの多くは極めて断片的で、予備知識の殆ど無いタイラントが聞いてすぐ理解できるようなものは少なかったが、考えるのは後回しにし、とにかく気になった言葉を捕まえては片っ端から尋ねて歩いたのであった。
その甲斐あって、食堂に所属小隊の勤務時間の始まりを告げる放送が響く小一時間後には、驚くほど色々な話が聞けていたのだが、しかし、それらの情報のあまりの雑多さに、タイラントは体重が一気に数倍になってしまったかのような疲労を感じていた。
（なんかもぉ……）
頭の上に分厚い本を何十冊と積み上げられたような、あるいは、身体の前後に水をなみなみと満たした桶を括りつけられたような、喩えるならそんな感覚。迂闊な歩き方をした瞬間、何もかもが零れ落ちそうな気すらする。
（……隊長……。こんなに沢山、俺ひとりじゃ、喰いきれないです……）
集められるときに集められるだけの情報を集めろ、どうやって喰うかを考えるのはそれからだ、と、その昔ルシファーの部隊に属する少年兵だった頃、何かの折に言われた気がするが、しかし、こんなに雑多な情報が山と集まっていたのでは、自分ひとりでは、どうにもならない。
（ハインリヒかアイラニか、せめて、チアフルあたりが居てくれたらなぁ……）
思わず現実逃避しそうになり、タイラントは首を振った。今は、そんなことを考えている場合ではない、と気を取り直す。
（でもまぁ……）
つい暫く前までの、右も左もわからない状況は、かなり改善された。とりあえず理解できた範囲だけでも、かなり状況が掴めたと言って良い。
特に、この基地内の大まかな勢力の構図が判ったのは大きかった。

（この基地には、いくつかの派閥がある……）
それ自体は、特に珍しいことではない。タイラントがかつて配属された幾つかの Neo Black Ghost 基地でも、そういった派閥は必ずあったし、それを言うなら、Neo Black Ghost 自体が、ある意味では派閥の集まり……ようするに、上級幹部達の各々が一つの派閥を形成しているようなものだった。
（ここの派閥の筆頭は、まぁ当然だけど、基地司令ダクシャ派。で、その次が、副官ソレイユ派、と。解任された…ってか殺された医療センター長はダクシャ派で、後任の医療センター長『ウィッチ』を任命したのが、副官のソレイユってクソガキだった……と）
つまりこの騒動は、基地司令ダクシャ派と副官ソレイユ派との派閥闘争の一環ということなのだろう。タイラントはそう考える。
（どーやら前任の医療センター長ってのが、超不人気だったらしいからなぁ……）
殺されたという事に対する怒りや反発の声はまるで無く、むしろ、ザマミロいい気味だといった歓迎の声ばかり。その上、後任の医療センター長が、あの『ウィッチ』だというのだから、兵士達の盛り上がりっぷりは尋常では無かった。
（まぁ、ウィッチはな……。人気っていうのとはちょっと違ったけど、でもな……）
一般的な意味での『人気』で無かったのは確かだが、しかし、本部の医療センター長だったウィッチに対してサイボーグ兵達が寄せていた信頼は、崇拝や忠誠に限りなく近いほどに、絶大なものだった。
（……何てったって、命がかかってる訳だしな……）
生身と異なり自然治癒することが無いサイボーグにとって、ほんの僅かな整備不良でも命取りになりかねない。特に量産タイプの一般兵の場合、定期的なメンテナンスを前提としていることもあり、生命維持に直接関係しない部分の部品については、耐久性が下げられていたり故障に対応した多重化が省かれていたりした為、些細な整備不良が大きな不調を引き起こす可能性があった。
勿論、実際に重大な不調が引き起こされるケースは極めて稀で、事例は少なかった。しかし、いくら少なかろうと、そういった事例があったのは事実であり、また、万一その不調が戦場で表面化した場合、それによって生死を左右されるだろう事は間違い無く、使い捨ての駒にすぎないサイボーグ兵達にとって、それは切実かつ現実的な恐怖だった。
故に、一点でも疑わしいチェック結果があれば、問答無用で医療センター長権限を行使して該当兵の原隊復帰を差し止め、徹底した原因の究明と対策をするウィッチは、サイボーグ兵達からすれば、まさしく守護神とでも言うべき存在だった。
その『ウィッチ』を連れてきて、この基地の医療センター長に任命したのだ。兵士達の間での副官ソレイユの人気はあっという間に急上昇。これまでは特にどの派閥を支持している訳でもなかったという兵士ですら、『あのクソガキ、やるじゃないか』『これからは、ソレイユ様って呼ばなきゃな』などと言う有様で。この一事だけでダクシャ派とソレイユ派の力関係が変わったと考えるのは早計過ぎるが、しかし、看過できない大きな要因であることは間違いないと思われた。
今のところタイラントは、どの派閥にも属していないし、特に勧誘されてもいない。話を聞いてみた限りでは、基地内の全員がいずれかの派閥に属しているという訳でも無いようだったし、おそらく、新入りということで様子を見られているというのもあるのだろう。だが、今後どこかの派閥から声を掛けられないとも限らない。中立を保つにせよいずれかに与するにせよ、こういった力関係や人気の有無を知っておくことは必要で。特に、情報収集が目的の場合、誰がどの派閥に属しているかについては、細かく気を配っておかなければならない。
従って、こういった情報が得られるきっかけとなった、今回のこの騒動は、極めてありがたかった。
そう考え、それから、タイラントはもう少し切実な問題に意識を向けた。

（問題は、だ……）
新しく医療センター長になった『ウィッチ』は、果たして本物のウィッチなのだろうか？
（もし、偽者だったら……）
状況次第では、かなり面倒なことになる。
（……そりゃ、一斉点検の内容によるし、その『ウィッチ』ってヤツの腕前次第ってのも、多分、あるんだろうけど。でも……）
通常、一般兵に加速装置は装備されていない。勿論、この基地の一般兵達もそうだろう。
加速装置の有無は外からは判らないから、簡単なチェックと性能テスト程度であれば、適当に誤魔化せる自信はある。
だが。
内部スキャンをされた場合、一般兵との違いが判ってしまうのではないだろうか？ こちらの性能がどこまでバレるかは、『ウィッチ』の知識量によって違うだろうとは思うものの、量産型で無い事は、気付かれてしまうような気がする。
もしそれに気付かれた場合、正規のルートでの配属でないこともあり、アレコレと詮索されるだろう事は、想像に難くなく、それはタイラントにとって極めて切実かつ厄介な問題だった。
（本物……だったりする、かな……？）
そうだったら助かるが、しかし、それは無いだろうな、とも思う。
（ウィッチのトコにはチアフルが作った監視網があるし、監視網と連動した防衛システムもある。そりゃ、どっちもチャチなものには違いないけど、でも、地下の避難場所はかなり頑丈な造りにしたって言ってたし……）
監視システムが警報を出し、防衛システムが動いて時間かせぎをすれば、その間に地下へ避難する事は、十分に可能だと思われた。そして、地下の避難場所が使用状態になると同時に、日本へと急報が放たれる。
（日本に連絡が飛べば、ジョー達が駆けつけるまで６時間もかからない。地下の避難場所の壁を破るには、少なく見積もっても１０時間は必要って話だったしな……）
チアフルは、そのあたりの計算を十分にした上で、諸々の設備を整えていた。必ず来る『その時』に備えて。
（だから、この『ウィッチ』は、偽者……）
そう考えて良い。
とはいえ、そうだとすると、今度はタイラントの方が困るのであった。
（いや、勿論、簡単な点検だけだってんなら大丈夫だけどさ……）
この基地にどれだけのサイボーグ兵が居るのかは判らないが、決して少ない人数では無い筈。従って、その全員を対象にするのなら、簡単な点検のみにする可能性は多分にある。
（でもなぁ……）
聞き集めた限り、前任の医療センター長はろくに点検も整備もしなかったらしく……それどころか、調子の悪さを訴えた者が相手にされなかったり、軽傷の者が修理不能として廃棄処分になったり、といった有様だったらしく……殆どの兵士達が、『ウィッチ』による念入りな点検が行われることを期待していた。今回の医療センター長交代劇がソレイユ派によるサイボーグ兵達の人心掌握……平たく言えば人気取り……という側面もあると考えれば、当然、簡単なチェックのみで終わらせたりはしないだろう。
（……いっそ、本物だったらなぁ……）
そうなら助かるよな、と思いかけ、そこでタイラントは慌てて首を振った。
（いやっ、それはマズイって……）
ここに居るウィッチが本物ということは、００９達が負けたということを意味する。経緯はともかく、負けてウィッチを連れ去られた、ということになるのだ。
（そんなコトが……）
ある筈など無いし、あって欲しい訳が無い。
だが。
（ってことは、だ……。やっぱり、この『ウィッチ』は偽者ってことに、なる、よなぁ……）
そう考えるしかない。
（となると……）
その偽者によって執り行われるサイボーグ体の一斉点検……しかも、それなりに念入りな……を、誤魔化す方法を、タイラントは考えなくてはならない。
だが。
（………）
空白。
その場にしゃがみ込んで頭を抱えたい衝動に駆られる。それを辛うじてやり過ごし、タイラントは内心で深い溜息を吐いた。
（……なぁ、ジョー……）
さりげなく遠くへと視線を向け、この場に居ない００９に問いかける。
（あのさ……。こういう場合ってさ……。どーすりゃいい…と、思う……？）
そう問いかけてみるものの、しかし、流石にこればかりは、仮に００９がこの場に居たとしても、どうにも対処できないだろうと思われて。
（あぁもぉ、いっそ……）
逃げ出してしまおうか？ そう考えるが、しかし、いくらなんでもそうそう簡単に脱走ができるとも思えない。
（あー。まぁ、ひと暴れして脱走…ってんだったら、ジョーが居てくれれば、凄くやりやすいだろうな……。ジョーと二人だったら司令室の制圧っくらい簡単だろうし、そうすりゃ……）
と考えかけ、タイラントは内心で溜息を吐いた。
（……ったく。ンなコト考えてる場合かよっ）
ここに００９は居ない。それなのに、もし００９が居たらなどという仮定の上での策を考えても、それは単なる時間の無駄でしかない。
（あぁっ、くそっ。もぉ、コレ、どーすりゃいいんだよ……）
最早、こういう事は苦手だなどと悠長な事を言っている場合では無かった。だが、目前に迫った難題を解決する案も無く、タイラントは眩暈がするような思いで天井を仰ぐ。
その上を、各班の分担を告げる小隊長の声が通り過ぎて行った。

「……勤務については以上だ」
いまひとつ上の空の一同を前に、小隊長が、各班の分担や注意事項等のお決まりの内容を一通り言い終える。
ひとつ息を吐き、そして、小隊長は手に持った端末へと視線を落とした。
その途端、室内が一気に静まり返る。端末を操作する音すら聞こえそうなほどの静寂。
どこか浮ついた、奇妙な緊迫感。
操作を終えた小隊長が顔を上げ、再び一同を見回して。
「もう知っているだろうが、連絡事項がある。医療センター長からの通達だ」
固唾を呑んで注目する一同から手元の端末へ視線を落とし、小隊長は読み上げるような口調で言葉を継いだ。
「通達。当基地に所属する全サイボーグ兵に対し、サイボーグ体の一斉点検を行う。各自、定められた時刻に医療センターへ出頭すること。一秒でも遅刻した者は、部品棚送りにする」
その言葉に、え？ と室内がざわめいた。
「……部品棚…って……？」
「どういう意味だ？ それってまさか……」
「……いや、でもウィッチって……」
たとえ潜められた声であろうとも、それが一小隊分集まれば、あっという間に大喧騒になる。煩げに顔を顰めて視線を上げ、小隊長は声を張り上げた。
「全員黙れっ！ 私語をするなっ！」
まだ続きがある、という叫びに、とにもかくにも再び室内が静かになる。それを確認し、小隊長は再び手元の端末に視線を落とした。
「……点検の手順は次の通り。１．問診票の記入。２．一般性能テスト。３．動作ログの確認。ここまでは全員が対象。その後、チェック項目が合格基準を満たさなかった者について、精密検査が行われる。また、合格基準を満たした者の中から、各小隊毎に最低１名の抜き取りチェックが行われる。その結果……」
そう言って一つ息を吐き、小隊長は更に言葉を継いだ。
「問診票で虚偽の申告をしたことが発覚した場合、小隊全員が精密検査、虚偽申告者は部品棚送り ……だそうだ」
「え？」
「……それって、つまり？」
「どういう……？」
なにやら不穏な事を言われたことだけは判るものの、具体的にどういう事なのかが理解できず、一同が不安気に顔を見合わせる。それを眺め、小隊長は半ば投げ遣りに補足説明をした。
「つまり、精密検査をして欲しくて調子が悪くも無いのに調子が悪いと問診票に書いたり、精密検査が嫌だからって調子の悪いところがあるのに書かなかったりしたヤツは、バラして部品棚に並べる……と、そういうお達しだ」
判ったか！ という小隊長の言葉に、一同が呆然としたまま顔を見合わせる。
「この一斉点検が終了するまでの期間、全小隊の勤務は特別シフトになる。先週末に配布された勤務予定は総て破棄。新しい勤務予定は作成中だが、一斉点検の進行度合いによって随時変更される。従って、暫くの間、非番は無し。全小隊が勤務か待機のどちらかになる。いいなっ」
ようするに、当面、医療センターがこの基地の中心になるという訳だ。小隊長のうんざり口調の呟きに、一同は納得したように頷いた。

（ウィッチだ……）
間違いない、とタイラントは思う。
（……つーか、コレがウィッチじゃないってんだったら、困るって……）
基地付きの医療センター長に、こんな……サイボーグ部隊の勤務予定を変更させたり、一存で兵士の処分（部品棚に並べるとは、つまりそういう事だろう）を決定したりするような……そんな権限など無い筈だ。いや、本部の医療センター長にだって、流石にそこまでの権限は無かった筈だ。
そうであるにもかかわらず、傲然とそれを要求し、押し通してしまう。そんな事が可能な人物が、ウィッチ以外に居るだろうか？
（居る訳、無いだろ……ってか、そんなヤツがウィッチ以外に居たりしたら……）
この世の終わりだ、とタイラントは呻く。
（でも……）
ウィッチがここに居るということは、００９達がやられたという事を意味する。そんな事はありえない。だから、『ウィッチ』は偽者だ。つい今さっき、自分はそういう結論を出した。
ありえない事があるなど、そんな事がありえるのだろうか？
（……うーっ……）
こんぐらかってきた、とタイラントは溜息を吐く。
（ウィッチが、自分から Neo Black Ghost に戻った……？）
ありえない。
（やっぱり、この『ウィッチ』は偽者？）
もっとありえない。というか、あったら困る。
（ジョー達がやられた……？）
天地がひっくり返っても、それは無い。絶対に無い。ある訳が無い。
（じゃぁ……じゃぁ、一体……）
一体、何があったというのか？ 何があれば、こういう状況になるというのか？
叫びだしたい衝動をどうにか堪え、唇を噛む。
（くそっ……わけ、わかんね……）
自分は何を信じればいいのか？ どれが間違いなのか？ ひょっとして、全てが間違いなのだろうか？ まさか、００ナンバー達は既に全滅し、ウィッチは心変わりして、自ら望んで Neo Black Ghost に戻って来たのだろうか？
（……隊長も……？）
１５年の間にすっかり変わってしまい、心の底から Neo Black Ghost の一員になってしまっていて、自分を簡単に捕らえる為に、ただその為だけに、以前と変わらぬ風に振舞って見せたのだろうか？
つまり、自分はもう、たった一人で、どこにも味方は居ないのだろうか？
（……っ……）
脳裏を過ぎる、恐ろしい想像。だが、それを否定してくれる者は、ここには居ない。もしかしたら、世界の何処を探しても、そんな者は、もう居ないのかもしれない。
瞬間、垣間見る、絶望の闇。
ぞくりと背筋を走る冷たい感触。
（……もし…そうなら……）
正体を暴かれる前に、大人しく名乗り出るべきではないだろうか？ 裏切者であると名乗り出て、もう一度 Neo Black Ghost に忠誠を誓うと、そう言って命乞いをすべきではないだろうか？
勿論、そうしたところで許されるかどうかは全く判らない。許されない可能性の方が高い。だが、このまま何もせず正体を暴かれれば、その先に待つものは、確実な死だけだ。
敵地にたった一人、いや、世界にたった一人では、どうやっても助かりようが無い。
（だったら……）
いいじゃないか、と思う。生き延びる為なら、何もかも捨ててしまっても。自分は一度、そうやって生き延びた。そうやって生き延びて、だからこそ、今、ここに居る。
たった一人で、一体、何ができるというのだろうか。何もできはしない。現に今、何一つできないまま、追い詰められている。
００ナンバー達は倒され、ウィッチは Neo Black Ghost 中東基地の医療センター長となり、ルシファーは基地司令の『番犬』になってしまっている。どうしてそうなったのか、それはまるで判らない。だが、起きるはずが無いと思ったことが起きているのだ。
（……ジョー……。俺は……俺は、何を信じればいい……？）
瞳を閉じ、祈るように心の内で叫ぶ。

脳裏に浮かぶのは、茶の瞳。
涙に濡れ、苦痛と恐怖に震え、それでもなお強い意志を失わず。
狂気の淵を臨んでなお、揺るぐこと無く、まっすぐに向けられた視線。
その隣に立ち、共に行くこと。
自分は、それを望んだのでは無かったのか？

（そう……だよ……。ジョーが……）
００９が、００ナンバー達が、倒される筈が無いではないか。およそ勝ち目の無い戦いに、何度となく勝利してきた者達なのだ。
戦うべき時と退くべき時、その辺りの判断の勘所は、長年の戦いで十分に培われているだろう。だから、たとえ一時的には敗北を喫しようとも、それで終わる筈が無い。
（それに、ウィッチ……）
自ら望んで Neo Black Ghost に戻るなど、絶対にありえない。
そして、もし仮に虜囚の身になってしまったとしても、ただ大人しく囚われの身に甘んじているとも思えない。
（……隊長だって……）
Neo Black Ghost に屈するなど、絶対にありえない。そして、Neo Black Ghost のような手合いを倒す為ならば、どんな無茶苦茶でも平然とやってのけるだろう。
（そう、だよ……）
だから、とタイラントは想う。
（何も間違ってない……ってことだ……）
何一つとして間違っていない。
００ナンバー達は倒されてなどいない。ウィッチは心変わりなどしていない。ルシファーも自分の知るあの頃のまま。それでも、この基地の医療センター長は本物のウィッチだし、ルシファーは基地司令の『番犬』となっている。
どれも皆、真実。全部が同時に起きるなどありえなそうに思えるが、それは、自分には判らない何かが起きたという、ただそれだけのこと。そう、タイラントは考える。
（だから……）
自分は一人では無い。
仲間達は、皆、戦っている。
お互いに状況は掴めていないが、しかし、それは問題では無い。
（目的は、同じなんだからな……）
各々が各々のパートをこなしていけば、道は自ずと開け、いずれ交わるだろう。
（まぁ、ウィッチとは早々に会えそうだけど……）
そうなった時にどうするか、考えておかなくてはならない。勿論、今日の騒動で聞き集めた情報についても、もう少し頭の中を整理しておく必要がある。
（……ジョー、ごめん……。俺、ほんと、まだまだ全然駄目だ……）
こんなことでいちいち動揺し、弱気になっていたのでは、とても００９の隣には立てない。
（強く、ならないと……）
ゆるぎない強さ。それは、仲間を信じる強さ。
（俺は、一人じゃ…ない……！）
今は隣に居なくても、それでも自分は００９と共に戦っている。
（……ジョー……）
だから、大丈夫。
いつか本当に隣に立って戦う時には、今より少しでもいい、強くなっていたい。そう想い、タイラントは拳を握り締めた。