中東基地、医療センター。
つい数日前までは昼夜を問わず閑散としていたそこは、今や、基地内で最も人の出入りが激しい場所となっていた。

エントランスに相当する部屋には検査の為に呼び出された兵士達がひしめき、白衣姿の医療センタースタッフから説明を受けたり、渡された端末を操作して問診票への入力をしたりしている。中には、問診票の質問内容が判らないのだろう、しきりと首を捻りながら隣同士で何事かを言い合ったり、あるいは手を挙げて振りながら医療センタースタッフを大声で呼び、説明を求める者も居る。
前後左右を囲まれて次々と質問を浴びせられている医療センタースタッフが居るかと思えば、誰に質問したものかと困惑顔でうろつき回る兵士が居る。そうかと思えば、問診票への回答が終わったのだろう、手持ち無沙汰な風情で周囲を見回している者や、お互いの回答を覗き込んでは感想を言い合っているような者達も居て、室内は騒然としていた。
その喧騒の中へ、数分おきに奥側の扉から医療センタースタッフが出て来て、何人分かの識別番号を叫んでは兵士を呼び集めて確認し、奥へと連れて行く。そのペースに呼応するかのように、検査が終わったらしい兵士が、ほっとしたような表情で、あるいは些か興奮気味に、一人二人づつ奥の扉から戻ってきて。その間にも、新たな兵士達が次々と医療センターに入ってくる。
これ程の大人数は、流石に医療センタースタッフだけでは捌ききれないからだろう、次々と現れる検査対象の兵士達を整列させ各々の所属と識別コードとを確認しているのは、先に検査が終わった小隊の兵士達。また、検査が終わって奥から出てきた者をひとりづつ呼び止めては隊へ戻る許可が出ているかどうかを確認するのも、やはり、一般の兵士達だ。
それだけではない。エントランスの入口付近に設えられた、簡易受付のような一角の奥側では、何人もの兵士達が端末に取り付いて、医療センタースタッフ達からの指示や端末が示す情報を元に、これから検査の対象となる各小隊の呼び出し時間の確認や変更、該当小隊への連絡等をしている。

それは、あたかも最前線基地の司令室の如き様相であった。

「ウィッチを呼べっ！」
喧騒の真っ只中に、突如として罵声が轟いた。憤懣やるかたないといった声音。室内に居た兵士達の全員が反射的に直立不動の姿勢を取り、医療センタースタッフ達も何事かと動きを止めて声の方を見遣る。
一瞬前までの喧騒が嘘のように静まり返った医療センターの入口に立ち、一同の注目を集めながら室内を見渡したのは、この基地のサイボーグ部隊の責任者。すなわち、部隊長だ。
部隊長は、周囲をぐるりと見回し、エントランスの一隅で端末に向かって作業をしていた（今は端末の前に姿勢を正して立ち並んでいる）兵士達を忌々しげにひと睨みすると、手近に居た医療センタースタッフへと視線を向けた。
「さっさとウィッチを呼べっ！ 聞こえなかったのかっ！」
「は、はいぃっ……」
殺気を込めた怒鳴り声に、視線を向けられた医療センタースタッフが飛び上がる。蒼白になり、慌てて奥へと走ろうとした、その時。不意に部屋の奥側の扉が開くと、小柄な人影が現れた。
「何やってるの。さっさと次を連れて来なさいと言ったでしょう。ぐずぐずしてるんじゃないわよ」
緊迫した空気をものともせず、エントランスに現れるなりそう言い放ったのは、小柄な身体に白衣を纏った、麦藁色の髪に薄氷の瞳の女性。それは勿論、元 Neo Black Ghost 本部の医療センター長にして、数日前から中東基地の医療センター長となった、ウィッチだ。
「ウィッチっ！」
腕を組んで扉の前に立つウィッチを、部隊長が睨み据える。
ところが。
ウィッチは部隊長を軽く一瞥しただけで何の興味も無いかのように視線を外し、室内をぐるりと見渡した。

腕を組んで室内を見渡しつつ、何かを思案するように軽く眉根を寄せていたウィッチが、小さく息を吐いてひとつ頷く。そして、兵士達に問診票の記入方法について説明をしていた医療センタースタッフ達に視線を据えた。
「そこの３人、奥へ行って性能テスト結果のチェックに回りなさい。問診票についての説明は、さっき検査が終了した連中がすぐに５人ほど出てくるから、そいつ等に引き継ぐこと。手が足りないんだから、急いで。それから……」
そう言いながらウィッチが視線を動かしかけた、その時。
「ウィッチっ！」
すっかり無視された格好の部隊長の怒鳴り声が、ウィッチの言葉を遮った。
足取りも荒く前進し……それに従って、兵士達や医療センタースタッフ達が左右に避けて道を開け……ウィッチの目の前に立つ。怒りの形相も物凄く、憎しみすら込めた視線でウィッチを見下ろし、部隊長は凄みのある声で唸るように言葉を継いだ。
「……貴様、何を勝手なことをしているっ！」
ところが。それに対するウィッチの答えは、極めて淡白だった。
「ついこの間、通達が行ったでしょう？ 全サイボーグ兵の一斉点検よ。人数が多い上に整備状態が予想外に悪いから、手が足らなくて大変なの。だから、あんたは後回し。順番になったら呼ぶから、司令室にでも居て頂戴」
その言葉に、部隊長はますます激昂した。
「そんな事は判っているっ！ 誰の許可を得て、勝手に兵士達に命令を出しているのかと訊いているのだっ！ 勤務スケジュールの勝手な変更っ。検査の終了した兵士を勝手に医療センターに留めて隊に戻さないっ。あまつさえ、それらの兵士に勝手に命令を下して医療センター業務を手伝わせるっ。どれもこれも、甚だしい越権行為だぞっ！ おかげで基地の警備も覚束ない有様だっ。今この瞬間に何かがあったら、貴様、どう責任を取るつもりだっ」
口角泡を飛ばす勢いで一気に捲し立てる部隊長に、ウィッチは軽く肩を竦めた。
「どっちにしろ、今のこの状態じゃあ、サイボーグ部隊はまともに機能しやしないわよ」
「な、んだと……？」
虚を衝かれたように部隊長が言葉を失う。それを冷めた瞳で見上げ、ウィッチは更に言葉を継いだ。
「軽微なトラブルまで含めたら、検査の合格率は５割にも満たないわ。即刻対応が必要なモノは少ないにせよ、ね。あなた、こんな状態で本格的な戦闘ができるとでも思っているの？ 何かがあったら、ですって？ 何もできやしないわ。何かがあったら、おしまい。まったく、呆れた話ね」
「なっ……」
返す言葉も無く黙り込む部隊長を嘲笑交じりで見上げ、ウィッチが首を傾げて見せる。
「配下のサイボーグ達の稼動状況の把握は、部隊長の責務じゃあ無かったかしら？ こんな状態を放置していたなんて、職務怠慢としか言いようが無いわ。この責任、一体、誰がどう取るべきかしらねぇ？」
「そ…それは……っ」
越権行為を咎めに来た筈が、逆に糾弾の言葉を浴びせられ、部隊長は拳を握り締めた。

Neo Black Ghost 本部が崩壊してからの４年半あまり、サイボーグ兵のメンテナンスが十分に行われていなかった事は、勿論、部隊長も認識していた。だが、戦闘らしい戦闘があった訳でも無く、数少ない戦闘を伴うような作戦行動は、その総てをルシファーが引き受け、たとえ引き連れて行った兵士達を毎度のように全員死なせていようと、結果としては成功させてきていて。それ故、基地付きの戦闘部隊が動かねばならぬような、その戦闘能力が試されるような、そういった事態は、この４年半の間、一度として起きてはいなかった。
また、前任の医療センター長からも、特に兵士達のサイボーグ体に著しい問題が生じているというような連絡も無かった。そして、前任の医療センター長は、何事も無いのにわざわざ顔をあわせたいと思うような相手では無かった（むしろ、可能な限り顔を見ずに済ませたい相手であった）から、何か問題があり向こうから面会を請うて来るのならばともかく、自分からわざわざ面会を申し込んで情報を求めるなど、端から考慮の外で。
それ故、兵士達の間にそれなりの不安や不満がある事は判っていたし、ある程度の人数が不調を抱えているらしい事も把握してはいたものの、それが、何らかの対策が必要な程の状態であるとは、考えていなかった。当然、具体的な対策など何一つ講じてはいなかったのだ。
だが。
ウィッチが、他ならぬ元本部の医療センター長であったウィッチが、言うのだ。この部隊は本格的な戦闘が出来るような状態に無い、と。
それが事実ならば、基地司令への報告が必要になるし、その場合、ここ最近で何か特別な事が起きた訳でも無いにもかかわらず、突然そのうような状況が生じる筈も無いから、何故に今まで判らなかったのか？ という話になるのは自明だろう。
そう考え、部隊長は嫌な汗が背中を伝うのを感じた。

今、ここ中東基地は極めて微妙な状況にある。
もはや先が長くは無いであろう、けれど、未だに実権を握っている、基地司令ダクシャ。その後継とされつつも、全くの無能者である、基地司令副官のソレイユ。ダクシャの『番犬』でありながら、主に対する忠誠心の欠片すら無く、何を考えているのか全く推し量れない狂犬、ルシファー。そして、今のところは中東基地と同盟関係にある、しかし、その内心では中東基地を傘下にしたいと考えている事は疑う余地も無い、幾つかの外部勢力。
ダクシャ亡き後、中東基地の実権を握るのは誰か？ 情勢は極めて流動的で、うまく立ち回らなくては、地位どころか命すら失う危険がある。
そう考えた時、自らが掌握している筈のサイボーグ部隊が、実は殆ど機能しない状態にあり、しかも、それを全く把握できぬまま今日に至っていたのだ、などという事をウィッチから声高に糾弾され、それがダクシャの耳に入るというような事態になるのは、部隊長にとって極めて都合の悪いことだった。
だが。
「………」
ならば、ウィッチの口を封じる方法があるかと言えば、そんな方法など無い。
何しろ、Neo Black Ghost 本部が崩壊した現在の状況下において、サイボーグ技術の総てを知るウィッチは、莫大な富と権力に匹敵する程の貴重品なのだ。
たとえ脅しの為であろうとも、迂闊な真似をして怪我をさせるなど、間違ってもする訳にはいかない。いや、よくよく考えれば自らもサイボーグである以上、ウィッチに危害を加える事は、極めて迂遠な自殺行為であるとも言える。
「……っ」
瞬間、脳裏を過ぎった様々な考えに、部隊長はギリギリと奥歯を噛んだ。

と、その時。
「責任は、医療センターにある。違うかしら？」
不意にウィッチが放った言葉に、部隊長は目を瞬かせた。
「な、に……？」
訳が判らずに不審気な視線を送ってくるばかりの部隊長を見上げ、ウィッチが言葉を継ぐ。
「この事態の責任は、サイボーグ兵達の点検を怠ってきた医療センターにある。正確に言うならば、前任の医療センター長に、ね」
各基地の医療センターには、基地に所属するサイボーグ部隊の日常点検を行い、一定水準を下回ったモノについて、精密検査と整備を行うよう部隊長に対して勧告する義務がある。にもかかわらず、前任の医療センター長は、その義務を怠り、事態が致命的になるまで放置した。これは明らかな職務怠慢であり、その責任は重大だ、とウィッチは言う。
「その結果、部隊長であるあなたは、配下のサイボーグ兵達の稼働状況を正確に把握することが出来ず、結果として、何らかの対策をすることも出来なかった。つまり、責任を取るべきは、前任の医療センター長、という訳。……そうでしょう？」
「………」
いまひとつ話の流れが飲み込めず眉根を寄せて自分を見下ろす部隊長へ、ウィッチが真剣なまなざしを向けて。
そして、言った。
「大変申し訳なかったわ。責任を取るべき前任医療センター長が既に解任されていて、もう、どんな責任も取れない状態になっているのは、とても残念なことね」
未だ生きていたのなら、相応の罰を与えてやる事ができたというのに。と、そう言って軽く肩を竦めて頭を振って見せ、それから、ウィッチは改めて部隊長を見上げた。
「後任の医療センター長として、事態の打開に向け、全力を挙げることを約束するわ。だから……」
ふっとウィッチがわらう。妖艶なまでの笑み。
「この件については、不問に付して貰えるかしら？」
「……な、んだと……？」
一体何を言われているのか咄嗟に理解できず、部隊長が思わず訊き返す。それへ媚を含んだ視線を向け、ウィッチはゆっくりと言った。
「一斉点検で発覚した問題について、私は基地司令に報告しない。勿論、あなたも報告しない。問題が速やかに解決するよう、私達は全力を挙げる」
「………な、るほど……」
ようやく話が飲み込めた部隊長が、唸るように答える。そこへ、ウィッチは更に言葉を続けた。
「ついては、あなたにお願いがあるのだけれど。いいかしら？」
「……なんだ」
不審気に、けれど、険悪な調子では全く無い口調で、部隊長が尋ねる。
「速やかに問題を解決するには、医療センタースタッフだけでは手が足りないのよ。判るでしょう？ だから、受付やら何やらの雑務をさせる為に、兵士達を借りたいのだけれど？」
「………」
既に勝手に使っているクセに、何を今更と言いた気な目で、部隊長がウィッチを睨む。それへ、口元に微かな笑みを浮かべながら、ウィッチが言葉を継いだ。
「越権行為については謝るわ。状況が状況だったから、慌てていたのよ。本当に失礼したわね。だから、改めて許可を求めているのよ。……どうかしら？」
「………」
「問題を一刻も早く解決する為には、どうしても必要なの。判るでしょう？ この状況が長引くのは、望ましくない。あなたにとっても……」
「判っているっ」
部隊長が若干の脅しを込めた声音で言うのへ、ウィッチが軽く頷いて見せて。それから、ウィッチは更に言葉を継いだ。
「この問題が解決して医療センターが通常の状態に戻れば、私達は次の段階に進めるわ」
「……次？」
「そう。不足している戦力の増強。あるいは、現有戦力の強化。つまり……」
新たなサイボーグ兵の『生産』や、一部のサイボーグ兵達のサイボーグ体のバージョンアップ。いずれも自分にとっては容易なことだ、とウィッチは言う。
それへ、部隊長は僅かに目を見開いたものの、不機嫌そうに口を引き結んだまま、沈黙を続ける。
一方のウィッチはといえば、何の邪心も無さそうな笑みを浮かべて部隊長を見上げ、そして、囁くように続けた。
「勿論、あなたのサイボーグ体に最新技術を使った強化を行うことも可能よ。現在のサイボーグ体をベースに強化するのでも良いし、最強のサイボーグ体を作って交換するのでも良い。どうするにせよ、あなたのお望み次第だわ」
次第に声を潜めながらウィッチが言う。ひどく甘い声音で紡がれたその言葉は、まさに、悪魔の囁き。部隊長が思わず息を呑んでウィッチを見下ろす。
それへ意味深な瞳で頷き返し、そして、ひとつ息を吐くと、ウィッチは言葉を継いだ。
「とはいえ、それもこれも、目先の問題が解決してからの事。医療センタースタッフだけで事にあたっていたのでは、いつまでかかるやら、まるで見当もつかないわ。だから……」
そこまで言われれば、もう、部隊長に否やは無かった。
「いいだろう、許可する」
「助かるわ」
憮然とした表情を保ちつつ頷く部隊長に、ウィッチが軽く頭を下げる。
そして。
ゆっくりと頭を上げた途端、ウィッチは次の要求を口にした。
「……そうしたら、あなたから兵士達に命令をして貰えるかしら？ 医療センター業務を手伝えってね」
「なに？」
「兵士達は、あなたの部下でしょう？ 本来、私には命令をする権限なんて無い。だから、あなたから命令して頂戴」
「………」
どうにも胡乱な気がするものの、しかし、ウィッチの言葉は尤もで、部隊長としては頷くしか無い。ひとつ息を吐いて振り向き、室内に居る兵士達を見回す。
それから。
どこか釈然としない思いを抱きつつ、部隊長は口を開いた。
「当部隊の全サイボーグ兵に命令する。医療センター業務が滞りなく遂行されるよう、医療センター長からの要請に応じて支援を行うこと」
次の瞬間、室内に居た兵士達が一斉に敬礼し了承の返答をする。
それへぞんざいに頷き返し、部隊長はウィッチを肩越しに見下ろした。
「これで良いな？」
「結構。この場に居ない者達にも、間違いなく伝えて頂戴」
ウィッチが満足気に答え、くるりと踵を返して奥の扉へと消える。
それを見送り、何か取り返しのつかないことをしたのではないかという漠然とした不安を感じつつ、部隊長は医療センターを後にした。

越権行為を咎めに怒鳴り込んできた部隊長を言い包め、一般の兵士達を医療センター業務の支援に使う許可を正式に得てから半日あまり。これまで以上に積極的に兵士達を徴用し、可能な限りの業務を片端から手伝わせているものの、未だ、サイボーグ兵達の一斉点検は遅々として進まず、医療センターでは、てんやわんやの大騒ぎが続いていた。
（まったくもう、忙しいったら、ありゃしない……）
椅子に座る時間も惜しんで端末の前に立ったまま検査結果を確認し、次々と矢継ぎ早に指示を下しながら、ウィッチは内心で溜息を吐いた。
（ほんと、これ、いつになったら終わるのかしらねぇ……）
これだけ忙しく立ち働いているにも関わらず、一向に先が見えてこない状況に、自分で始めておきながら、些かうんざりする。
（何にせよ、やらなきゃなんない事が、多すぎるのよ）
尤も、それもまた自らの計画通りであり、従って、誰かに文句を言うような事でもなく、故に、ウィッチはただ内心で溜息を吐くしか無いのであった。

ウィッチ自らが行っている……行うことにしている、あるいは、行わなくてはならない……のは、検査結果の確認だけでは無い。
検査場に赴いては指示した通りの検査が正確に成されているかを確認し、また、診察室へ行っては、兵士一人づつのサイボーグ体を自ら診て確認する。
それらの検査や診察の結果、不具合が発見された者については、その症状に応じた精密検査を医療センタースタッフに細々と指示し、結果が出たら出たで、再びウィッチが内容を確認し、今すぐこの場で処置をするか、一旦隊に戻しておいて後日改めて呼び出して処置をするか、あるいは、隊への復帰を差し止め医療センターに留まらせておくかを決定する。
この場で処置すると判断した者については、当然、処置が必要となる訳で、その内容を本人に説明するのも実際に処置を行うのも、勿論、ウィッチ自身である。
兵士達は、かつての本部医療センター長であるウィッチ自らが診察をし、検査結果を確認してくれる（結果の如何によってはその場で処置までをも施してくれる）ことに感激し、中にはその場に平伏して感謝する者まで居り、検査終了後に医療センター業務を手伝うよう命じられた者は嬉々として従い、率先して立ち働くのだった。
そんな訳で、雑務をこなす人手には事欠かなくなったものの、しかし、結局のところ、検査と治療に関する重要な部分は、その殆ど総てをウィッチが一手に担っているという訳で、それが、やってもやっても一向に終わりが見えて来ない、その主たる原因と言えるのであった。

当然ながら、それには理由がある。
一番大きな理由は、やはり、中東基地の医療センタースタッフ達の知識レベルだ。各基地の医療センターでは日常点検しか行っていなかった為、それ以上の検査をするとなると、そもそも何をするのかすら、ここの医療センタースタッフ達は知らない。それ故、かつて Neo Black Ghost 本部の医療センター長であった頃にウィッチが率いていた者達であれば、簡単な指示だけで（あるいは、全く指示をしなくても）各自で判断と実施ができていた事も、この中東基地の医療センタースタッフ達にはできないのであった。その為、何をするにも一々ウィッチが確認し判断し指示を下さなくては、検査そのものが全く進まないのである。
では、ここの医療センタースタッフ達を教育し、ウィッチ自身が判断したり指示したりする必要のある部分を（徐々にではあっても）減らして行けば良いかというと、そういう訳にはいかない。
何故ならば。
戦闘力を持たないウィッチにとって、己が持つ……己だけが持つ……サイボーグ体に関する知識と技術こそが、最大の武器なのだ。確かに、余人が知らないそれらの知識と技術を持つが故に狙われ、攫われて来た訳ではある。だが、だからこそ、攫われはしても、ただそれだけで、それ以上何らの危害も加えられないのだ。
あらゆる交渉において自らの優位を確保する為の、己の持つ唯一の武器。それがサイボーグ体に関する知識と技術であることを、ウィッチは十分すぎる程に理解していた。
それだけではない。
戦闘用サイボーグは Neo Black Ghost の主要な『商品』であり、同時に、Neo Black Ghost が他の組織に対して圧倒的な優位を保つ為の軍事力でもあった。従って、それを『生産』する為の知識や技術を知る者が増えることは、Neo Black Ghost 復活の可能性を高める。
そんな危険を冒すつもりは、勿論、ウィッチには無い。
故に、ここの医療センタースタッフ達に己の知る知識や技術を知られぬよう、完全には無理としても知られる範囲が最小限に限られるよう、そして、核心に近い部分については絶対に知られることの無いよう、細心の注意を払う必要があるのだ。
つまり、自分の知識と技術をもってしか出来ない事を他の者が出来るようにする訳にはいかず、それが、検査と治療に関する重要な部分の殆ど総てをウィッチ自身がやらねばならない、第二の理由であった。

三つ目の理由は、タイラントの存在だ。
今、この基地にはタイラントが居る。単なる一般兵士として、基地付きのサイボーグ部隊の中に混ざっている。
ルシファーが、一体どうやってタイラントを連れて来たのかは判らない。だが、自分を誘拐しに来た時の言動や、タイラントを連れて来たと伝えてきた時の言動からすると、意図するところは明白だ。うまく連絡を取り、使え。つまり、そういう意味なのは間違いない。
問題は、タイラントの方の意図。一体どういうつもりでルシファーと通じ（叩きのめされて捕獲されたのでは無く、ごく穏便に連れられて来て部隊に編入されたという事は、そういう事であるのは間違い無い）、ここへやって来たのか。
（ややこしい策略を巡らせられるタイプじゃないし、かといって、他人を簡単に信用するタイプでも無いしねぇ……）
今のところ、これといった騒ぎも起きていないから、何はともあれ、部隊の中に紛れて一般兵士として大人しくしている、という状態のように思われる。
（情報収集目的、といったところかしら？）
タイラントに向いている任務とはとても言い難いが、そういう意図で来たという事は考えられなくはない。尤も、そうだとするのならば、一般兵の間に紛れていたままでは重要な情報に触れる機会も少ないだろうから、おそらく、いつまで経っても目的は達成されないに違いない。
（確かに、情報収集には向いていないわね……）
勿論、それ以外の何かが目的なのかもしれないが。
（何にせよ……）
連絡を取らなくては話が始まらない。とはいえ、偶然に会う可能性など殆ど無いし、かと言って呼び出したりしようものなら、目立って仕方が無い。
それ故の、全サイボーグ兵に対する一斉点検なのであった。
タイラント一人を呼び出せば目立つが、基地付きのサイボーグ兵全員を呼び出すのならば、目立ちようがない。全サイボーグ兵に対して自分が直接診察を行うのならば、当然、タイラントに対して直接診察をしても、何ら不自然では無い。
そして。
一斉点検を迅速に行うという名目で、兵士達に医療センター業務を手伝わせる許可を部隊長から得、何十人もの兵士達を医療センターに留め置いて業務の手伝いをさせているから、そこにタイラントを混ぜたとしても、疑われる可能性は極めて低い。
勿論、その為には、一斉点検が極めて面倒で時間のかかる作業である必要があり、全サイボーグ兵に対する診察をウィッチ自身が行う必要があった。
幸か不幸か、ウィッチが殊更に努力をせずとも、一斉点検は極めて面倒で時間がかかり、医療センタースタッフ達は右往左往し、どれだけ兵士達を徴用して手伝わせようとも、総てが遅々として進まず、いつ終わるとも知れない有様となっている。
元々の意図からすれば、願っても無い状況。とはいえ、甚だしく疲れる状況に、ウィッチとしては複雑な思いを抱かざるを得なかった。

だが。
一斉点検が遅々として進まない理由は、実は、これだけでは無い。
もう一つ、ウィッチが予想だにしなかった思わぬ要因が、一斉点検の進捗を著しく妨げていて。その対策をどうするかが、ここ暫くのウィッチの悩みの種となっていた。

「あのっ…」
慌てた様子で走り寄って声を掛けてきた医療センタースタッフが、しかし、その手に何も持っていないのを見て取り、ウィッチは内心で溜息を吐いた。判断や指示を求めて来る場合、検査結果を表示した端末を持って来る。それを持っていないという事は、そういう用件では無いということで、そうなると、考えられるのは一つしか無かった。
（この忙しいのに、まったく困ったものだわ……）
そうは思っても、こればかりは、どうにもならない。やれやれと思いつつ、しかし、その思いを表面には一切出さず、ウィッチは促すようにその医療センタースタッフを見遣った。
「何？」
短く問えば、案の定の答えが返ってくる。
「その、ソレイユ様が……」
「ソレイユ様がお呼びなの？」
「はい。医療センターの入口においでになって、センター長に用がある、と……」
「応接室にお通ししなさい。私もすぐ行くと伝えること」
「判りました」
「それから、紅茶とお菓子を用意して。紅茶の葉は少なめに。砂糖とジャムを添えるのを忘れないで」
「はい」
頷いて走り去る医療センタースタッフを見送り、手元の端末に視線を落とす。幾つかの指示を素早く入力しながら近くに居る者を呼び、自分が居ない間の作業について、最低限の指示を出す。
「いいわね？」
必死でメモを取っている様子を横目にそう言うと、返答を待たず、ウィッチは踵を返した。

「お待たせして申し訳ありません、ソレイユ様」
そう言いながら扉を開き、ウィッチが、応接室と呼んでいる部屋に足を踏み入れる。
その部屋は、元々は病室だったのだが、ウィッチが兵士達を使ってベッドを運び出させ、代わりに、かつては客間として使われていた筈の基地内の空き部屋から見つけさせてきたソファーやローテーブルや調度品を運び込ませ、それなりに豪華な体裁を整えた、ソレイユ用の応接室であった。
「ウィッチ！」
ソファに座り、つまらなそうに周囲を眺めていたソレイユが、ぱっと顔を輝かせる。それへ、ウィッチが優し気な笑みを浮かべつつ頷いて見せて。
その後ろに、紅茶と菓子を乗せたトレイを持って付いて来た兵士が一礼して続き、ローテーブルに歩み寄ると、トレイの上の物を並べる。その様子を眺めながら、ウィッチは落ち着いた足取りで歩を進めた。
ローテーブルの脇をぐるりと廻って、ソレイユの座るソファへと近付く。その間に、トレイの上の物を総て置いた兵士が再び一礼して部屋を辞し、扉を閉じる。それを確認したところで、ウィッチはソレイユの隣へと座った。

「紅茶には、砂糖がよろしいですか？ それとも、ジャムにしましょうか？」
「うん、ジャムがいいな」
紅茶をカップに注ぎながらの問いかけに、ソレイユが弾んだ声で答える。
「承知いたしました」
微笑んで頷き、瓶からジャムをたっぷり掬って紅茶に入れ、ティースプーンでゆっくりと混ぜる。くるくると回る渦を確認するように暫し見詰め、それからスプーンを置くと、カップをソレイユの前へと差し出した。
「さぁ、どうぞ。ソレイユ様」
「うん」
カップを受け取ったソレイユが一口啜り、満足気に目を輝かせる。
「甘い……」
「お菓子もありますからね」
「うん」
促されるがままに手を伸ばし、菓子を頬張るソレイユを、ウィッチが優し気に見守って。その視線に気付いたソレイユが、何かを考えるように軽く目を瞬かせ、そして言った。
「……お前も食べていいぞ。でも、一つだけだからなっ」
「あら。お気遣いありがとうございます。お優しいんですね、ソレイユ様」
笑って答えるウィッチに、ソレイユが僅かに目元を染めて言い返す。
「ぼ、僕は紳士だからなっ」
「さようでございますね」
頷きながら答え、ウィッチが菓子を一つ摘んで口元へと運ぶ。それを横目で見つつ、ソレイユは紅茶を飲み干した。
カップを置き、チラリとウィッチの方を見る。
「もう一杯、お飲みになりますか？」
「……いい」
口を尖らせて答えるソレイユに、ウィッチがクスリと笑う。
「では……」
僅かにソレイユの方へと身を寄せ、ついっと手を伸ばすと、ウィッチがその髪に触れて。
「……こちらの方が？」
柔らかな墨色の髪を梳くように撫で、薄い藍鉄色の瞳を覗き込む。
それに小さく頷くと、ソレイユは、ウィッチの胸にことんと頭を凭れさせた。瞼を閉じ、鼓動に耳を傾けるソレイユの背中を、ゆっくりとウィッチが撫でてやる。

言葉の無い、静かな時間。
奇妙な程に落ち着いた、いっそ厳かと言っても良いほどの平穏な静寂。
ここが Neo Black Ghost の基地内であるとは、とても思えない程の。

「……お前……母さま、みたいだ……」
暫しの沈黙の後、不意にソレイユが呟くように言った。
「それは光栄ですわ、ソレイユ様」
ゆっくりと髪を撫でながら、ウィッチが甘い声で答える。
そうしながら、ウィッチは内心でヤレヤレと溜息を吐きつつ天井を仰いだ。

（やってられないわ、まったく……）
基地司令の副官という現実的な権限を持ち、けれど、実際には単なる『坊や』にすぎないソレイユを懐柔することは、中東基地内での有利な立場を得る為には、最も簡単で確実な方法だと思われた。実際、その考えは的中し、ソレイユの権限を後ろ盾に、ウィッチは医療センター長の地位を奪い取り、更には（一時的かつ限定的ではあるものの）兵士達を自由に動かすこともできるようになった。
だが。
いとも簡単に篭絡できたソレイユが、今、ウィッチにとって極めて厄介な存在となっているのだった。
（まさか、こんな事になるとは、流石に予想外だったわ）
すっかりウィッチに懐いてしまったソレイユは、何か気に入らない事がある度に、いや何も無かろうと、医療センターへと来るようになった。その度に、お茶とお菓子を用意して、まるで子供の駄々のようなソレイユの話に頷きながら耳を傾け、あるいは隣に座って一緒にお菓子を食べたり、抱き寄せて撫でてやったりしなくてはならない。
勿論、その程度で機嫌が取れるのだから、簡単といえば簡単極まりない訳ではあるのだが、生憎と、現在の医療センターは全サイボーグ兵に対するサイボーグ体の一斉点検の真っ最中なのだ。全医療センタースタッフと、徴用した多くの一般兵士達を動員して手伝わせてはいるものの、それらの者達に可能なのは、所詮、枝葉の雑務のみ。重要な部分については、当然のことながら、ウィッチが直接やるしかない。
それなのに、一日に何度もソレイユが医療センターにやって来るのだ。その都度、ウィッチは作業の手を止め、少なからぬ時間をソレイユの相手をして過ごすことになる。これでは、終わるものも終わらない。
（いい加減、何とかしないと……）
一斉点検にある程度の時間がかかるのは無理からぬことではあるし、それはそれでウィッチにとって望ましい状況ではある。だが、そうは言えど、やはり、モノには限度というものがある。
（いくらなんでも、１０日も２０日もこんな事をしちゃ、いられないわよ）
しかし、今のこの状況が続けば、そうならないとも限らない。いや、確実にそうなりそうな気すらする。
とはいえ、だからと言ってソレイユを邪険にする訳にはいかない。今、ウィッチが医療センター長の地位にあるのは、『基地司令の副官』であるソレイユが任命したからなのだ。逆に言えば、それだけが根拠であり、従って、ソレイユの機嫌を損ねる事は、絶対に避けねばならなかった。
（となると……）
玩具を与えるか、別のお守り役を用意して、当面の間、ソレイユの気を逸らさせるのが得策だろう。勿論、その玩具ないしお守り役は、自分の支配下にある者でなければならない。そうでなければ、今度はその者がソレイユを操って己の欲しい侭に振る舞い、それが自分の不利となる危険がある。そうウィッチは考える。
（つまり、候補者は一人だけ、という訳ね）
だが、適任かどうかという点については、若干、いや、かなりの不安があるのは否めない。
（ま、それについては、もう少し考えてみましょう……）
『候補者』が医療センターに来る順番になるのは、まだ少し先のこと。それまでには、考えを巡らせ段取りを決められるだろう。
（それにしても、ほんと、厄介な事に巻き込んでくれたものね）
いずれルシファーには、この貸しをキッチリ返させなくては、と考え、そして、それ以外にも幾つか問い詰めるべき事があるのを思い出す。
そのルシファーはといえば、全サイボーグに対するサイボーグ体の一斉点検を行う、という宣言を出した途端、基地を出て行方をくらましてしまい、今どこで何をしているのかは、少なくともウィッチには、全く判らない。
（ま、どうせどこかで何かやらかして、物事を更にややこしくしているんでしょうけれどね……）
戻ってきたら、何はともあれ、一度つかまえて話をしなくては。
そう考え、それまでにはこの忙しさは一段落しているのだろうか、と思い、ウィッチはもう一度溜息を吐いた。