隣を歩いていた００３が、はっと息を呑んで足を止める。
その瞬間、００９は素早く身構えた。視線を左右に走らせ、全感覚を研ぎ澄ませて周囲の気配を探りつつ、即座に加速状態へと入れる態勢を取る。
しかし。
これといった異変は感じられない。
（……？）
ということは、敵が来たという訳では無いのだろうか？ そう思い、けれど臨戦態勢は維持したまま、００９は００３を見遣った。
「……フランソワーズ？」
そっと問う。
青い瞳が遠くを窺う様を、じっと見詰めて。
鼓動ひとつ分の間。
桜色の唇がきゅっと引き結ばれる。
そして。
遠方の一点に視線を据えたまま、００３は口を開いた。

「ドルフィン号が、居ないわ」
端的な言葉。
「なんだってっ？」
息を呑んで目を見開き、００９は００３の見据える方角を見遣った。勿論、どんなに目を凝らそうとも、００９に見えるのは、ドルフィン号が居る筈の森の遠景だけなのだが。
「戦闘があったみたい。ミサイルの着弾痕が沢山あるわ」
００４のマイクロミサイルのだと思われるもの、ドルフィン号のミサイルのだと思われるもの。それらの着弾痕が、ドルフィン号を泊めていた場所を中心とした円形の範囲内に幾つもある、と００３が言う。
そう言い、そこで言葉を終えた００３に、００９は目を瞬かせた。
「……フランソワーズ？」
それだけかい？ という疑問を乗せた声。それへ、００３が小さく頷く。
「えぇ、そうなの。敵のものと思われる着弾痕は……少なくとも、目に付くような大きなものは、無いわ。それに、ドルフィン号の破片も……」
つまり、敵は、ミサイルや高出力レーザーのような重火器を使っていない。また、ドルフィン号が損傷を受けてもいない。ようするに、そういう事なのか？ と００９は思う。勿論、当たった瞬間に粉々に粉砕されてしまうような兵器であれば、何の痕跡も残らない可能性はあるが。そう考える００９に、００３は小さく首を傾げた。
「でも、ジョー。戦車みたいな大型兵器が通ったような跡も無いの。ということは、その兵器を手で持ってきたか、それとも戦闘機に乗せて空から来たか、ということになるわ……」
ドルフィン号を瞬間的に蒸発させてしまう程の出力のある、小型で軽量の兵器なんて存在しているの？ という００３の問いに、００９は眉根を寄せて暫し考え、そして、首を振った。
「無かったね」
クワイトの副官であった頃に、Neo Black Ghost の保有する兵器のカタログは隅々まで確認した。正式な商品であるものから、未だ開発段階で『特別な顧客』のみに提供される試作品の類に至るまで、総ての兵器のスペックを確認し、頭に叩き込んでいる。だから断言できる。そんな兵器は無い。だいいち、そんなに便利な兵器があったならば、真っ先に本部の防衛用に配備されていただろう。だが、そんなものは無かった。
「それに……」
もし仮にそんなモノがあったとしても、ドルフィン号だけに命中させ、周囲に一切の影響を与えないなどという事は、どう考えても不可能だろう。そう、００９は言う。
「えぇ、そうね。確かに、そうだわ……」
００３が頷き、それから、軽く目を瞬かせると言葉を継いだ。
「でも。でも、ジョー？ そうだとするのなら、どうして……？」
何故、ドルフィン号はこの場から去ったのだろうか？ 敵は、ミサイルや高出力レーザー等の、ドルフィン号にダメージを与えるような重火器類を一切使用していない。そうであるのなら、戦いはドルフィン号側の勝利に終わった筈なのだ。逃げる必要があったとは思えない。
「そう、だね。でも……」
それを言うのなら、そもそも、何故、敵は重火器を使用しなかったのか？
「……もしかして、偵察、だった……のかな……？」
こちらの出方を見る為の強行偵察であれば、重火器を持たずに軽装備で来るということも、考えられなくは無い。
だが、敵が Neo Black Ghost であるのなら……その可能性は著しく高いと思われるが……今更、強行偵察など、する必要があるのだろうか？ そう、００９は思う。
（何しろ、僕達に関する情報は……）
その総てを自分はクワイトに喋った。洗いざらい、何もかも。そして、その情報は、Neo Black Ghost の総ての基地に配布されたのだ。
「……っ……」
唇を噛み、小さく首を振る。
そして、００９は軽く息を吐いて００３を見遣った。
「近くに敵は？」
「……いいえ」
それらしいものは見当たらない、と００３が応える。
「そう、か……」
半呼吸の間、どうすべきか考えを巡らせる。
とはいえ、結局のところ、選択肢は一つしか無い。
「……とにかく、行ってみよう」
ドルフィン号を泊めていた場所に。もしかしたら、何か行き先の手掛かりを残して行っているかもしれない。
そう言うと、００９は００３を抱き上げた。
「掴まって」
００３が頷いて００９の肩に素早く掴まり、瞳を閉じる。
その、瞬間。
００９は加速装置を作動させた。

一陣の旋風と共に、真紅の塊がそこに現れる。ドルフィン号がいた筈の、今は単なる森の中のちょっとした空き地に過ぎない、その場所に。
それは勿論、００９と、そして、その腕に抱えられた００３だ。
「………」
口を真一文字に引き結んだ００９の腕から、００３が地面の上に降り立つ。その間にも、一対の青い瞳は、ほんの僅かの痕跡ですらも見逃すまいというように周囲へと向けられていて。
その様子を横目に、００９はぐるりと四方を見渡した。

木々のざわめき、鳥の鳴声、小動物の足音。陽光を遮る鳥の影、視界を横切る羽虫。吹き過ぎる風の中にも、戦闘の余韻を伺わせるような焦げ臭さは皆無で。戦闘がいつ行われたのかは判らないものの、敵味方双方がこの場を去ってから相当の時間が経過しているだろう事は、まず間違いないと思われた。
（……誰も居ない、か……）
それはつまり、今この場で得られる手掛かりが皆無に近い事を意味する。
（あとは……）
００３の『目』が、仲間達が残していった何らかのメッセージを見つけられるかどうかなのだが。
（………）
視線を００３に戻し、その様子を見守る。
やがて。
ふっと小さく息を吐き、瞬きをひとつして自分へと視線を戻す００３に、００９は唇を噛んだ。

「……よっぽど急いでた、ということだね」
「えぇ、そうね」
呟くような００９の言葉に、００３は小さく頷いた。戻って来た自分達に行き先を知らせる為、何らかの形でメッセージを残す。その間すら無い状態で、ドルフィン号はこの場を去った。去らざるを得なかった。それ程までに追い詰められた状況だった、ということだろう、と。
「一体、何が……？」
何があったというのか。
確かに今のドルフィン号は、睡眠中の００１にギルモア、チアフル、ライ、カティサックと非戦闘員を多く抱えている。しかも、『目』である００３が居なかったのだ。危険を冒して戦うよりは、退くことを選ぶというのはありうる。
（それとも、ライが何かを掴んだ、のかな？）
カティサックとライの二人は、能力の協調使用をすることで半径３０キロ程の範囲内に居る者の思考を読めるようになる。ひょっとすると、襲撃してきた敵の思考をライが読んで、何かを掴んだのかもしれない。
（でも、そうだとしたら、何で？）
何故、自分達に連絡をしなかったのか。仮に、そんな時間が無いほどの緊急事態だったのだとしても、いや、そうであるなら尚更、戻って来た自分達が合流できるよう、何らかのメッセージを残して行く筈ではないか。
（それなのに……？）
タイラント、そしてドルフィン号。誰もが何も言わず、自ら姿を消す。
その事実が指し示す真実は、一体、何なのだろうか？
茶の瞳が答えを探すかのように、宙をさまよう。
（………）
しかし、そこには平穏な森があるだけ。ドルフィン号は勿論、タイラントの姿も無い。
（……わからない、よ。タイラント……）
わからない。まるでわからない。
と、その時。
「ジョー？」
怪訝そうな００３の声が００９の耳に響いた。
「……あ……」
物思いに沈みかけていた００９が、はっと我に返る。
「どうしたの？ ジョー？」
「あ……。う、うん」
慌てて首を振り、それから、一つ息を吐いて００９は徐に口を開いた。
「タイラントもドルフィン号も、何も言わずにいなくなっちゃったな……って」
その言葉に、００３が目を見開く。
「……そういえば、確かにそうね……」
考え込むように目を伏せ、唇に軽く指を当てて。
再び瞳を上げ、００３は言葉を継いだ。
「……それを言うなら、エカテリーナも、よね？」
「え？」
虚を突かれたように００９が目を瞬かせる。その００９の目を見詰めたまま、００３は考え考え言葉を継いだ。
「出かけていたチアフルさんが家に帰ったら居なかった、という話だったでしょう？ 状況からして誘拐されたんだと思うけれど、でも、何も言わずにいなくなった……というところは、共通しているわ。そうでしょう？」
「ぁ……。そう、か。……確かに、そうだね……」
００３の言葉に、００９が頷く。
「ひょっとして、同一犯、とかなのかしら？」
「……どうだろう。確かに、状況的に似ているところはあるけど、でも……」
「そうね。ヒントになりそうな気はするけれど、でも、これだけでは何とも言えないわよね」
「うん。でもまぁ……」
敵は、おそらく Neo Black Ghost。であれば、同一犯というのは、ある意味では正しい。大真面目にそう言う００９に、００３はぷっと吹き出した。
「もう、ジョーったら。それはそうだけれど……」
でもそれは、結局何も判ってないと言ってるようなものじゃないの、と唇を尖らせる００３に、００９が苦笑する。
「ごめん」
謝る００９に微笑み、そして、００３は首を振った。
「いいの。ちょっとした思い付きだもの。……それで？」
「……うん」
００３の問いかけに、００９が瞳を閉じる。
そして、ふっと前を見据えると言葉を継いだ。
「簡易診療所の様子を、見に行こう」
「え？ でも……」
Neo Black Ghost 側にこちらとの関係を知られないように……知られることで危害が及ばないように……距離を取ろうという事ではなかったのか。そう問う００３に、００９は小さく頷いた。
「うん。それは勿論、判ってるさ。でもね、フランソワーズ……」
今のこの状況からすると、簡易診療所と自分達の関係が、既に知られてしまっている可能性も否定できない。また、簡易診療所は、行方が判らなくなっている三者……ウィッチ、タイラント、ドルフィン号の一同……と自分達、その全員が共通して知っている、唯一の場所でもある。安易に使う訳にはいかないのは確かだが、しかし、連絡を取る為の最後の手段であることもまた、確かなのだ。
「だから。まずは君の『目』で見える距離まで行って、とにかく、様子を確認しておこうと思うんだ」
そう言う００９に、００３はきゅっと唇を噛んだ。
「……そう、ね……。確かに、そうだわ」
ゆっくりと応える００３に、００９が頷いて。
００９がぐるりと辺りを見回し、００３もまた、今一度周囲を見渡す。
そして。
「行こう、フランソワーズ」
「……えぇ」
さっと視線を交わし、００９と００３はその場を後にした。

簡易診療所から直線距離にして３０キロと少しの地点。丘陵地帯を抜ける最後の曲がり角へと向かう、細い道。切り立った崖をぐるりと廻る、半ば崩れかけたその道を、あとほんの数分も進めば、簡易診療所が００３の『視界』に入る。
時刻は、もう間もなく夕暮れ時になろうかという頃。空は未だ明るいものの、陽光は次第に緋色味を帯び始めていた。
周囲を警戒しながら黙々と歩を進めてきた００９と００３が、何の妨害にもあわず簡易診療所の近くまで来られた事に、我知らず息を吐く。
やや足を緩め、そして、００９は口を開いた。
「そろそろ『見え』るかい？」
その問いに、前方へと『視線』を向けた００３が首を振った。
「いいえ。近くの難民キャンプまでは『見え』ているけれど……」
簡易診療所内部の様子まで確認するには、もう少し近付く必要がある。そう言う００３に、００９は小さく頷きつつ言葉を継いだ。
「難民キャンプの様子は、どんな感じだい？」
「……『見え』る範囲は、この前『見た』時と同じよ。特に……」
変わった様子は無い。と、そう００３が続けようとした、その時。

「よぉ」

不意に、斜め上から声が降ってきた。
刹那、００３が飛び退くように後ろに下がる。同時に、００９が前に出た。
「何者だっ！」
一瞬にして抜いた銃を声の発生源に向け、瞳を眇めて見上げる。
そして、００９は内心で舌打ちした。
切り立った崖の上。丁度、曲がり角の端。道に居る自分が見上げれば、緋色がかった西の空が背景となり、逆光となる場所。
相手は、そこに立っていた。
（……つまり、こちらに姿を見せる気は無い、と……）
シルエットから判るのは、フードの付いたマントを着ているらしい事だけ。長身であるという事の他は、顔は勿論、その手に武器が握られているのかどうかすら、判らない。
だが。
（……強い……っ！）
武器を持っているかなど関係無い。この相手は、手強い。００９は直感的にそう想う。
まるで空気が一瞬でガラスと化したかのように、身動ぎすらできない。ほんの僅かでも銃口が揺らいだら、ほんの少しでも意識を逸らしたら……

喰われる。

ぞくり、と全身の毛が逆立つような気がする。
（これっ、て………）
まるでタイラントみたいだ、と００９は想う。『合宿』で何度と無く戦った、その最後。中途半端な攻撃しかしてこなかったタイラントが、容赦のない反撃を見せる、その直前。一瞬だけ宙に閃く、強暴な気配。それに似ている。
けれども。
（……似てる……似てる、けど。これは、違う……っ）
本能的な恐怖を呼び覚ます、獰猛な気配。あたかも百獣の王の如き、絶対的な威圧感。咆哮ひとつで獲物を圧倒し、一撃でその牙にかけ、狩るかのような。
だから。
歯を食いしばり、００９は相手を見上げる。
ピタリと銃口を向け、相手の目を……茜の空を黒々と切り取った人影の、こちらに向けられている視線の源と感じる場所を……見据える。
揺ぎ無い意思を視線に込めて。

ふっと気配が凪いだ。
次の瞬間。
「まぁ、そう殺気立つなって。やりあおうって訳じゃぁない。今日のところは、な……」
陽気な、どこか面白がっているような声。
と同時に、崖の上の影が消えた。
「……っ」
００９が息を呑む。
（……な…にを……っ）
何をするつもりだ、と思いかけた、その瞬間。
十メートルほど先で、ザッと地を踏む音がして。
「……ぇ…？」
崖の上に立っていた男が、そこに居た。
マントのフードを無造作に後ろに跳ね除け、男がニッと笑う。
「はじめまして、だよなぁ。００９？」
ひどく楽しげな口調。その唇から覗く犬歯。それが肉食獣の牙を思わせ、００９は、先刻抱いた自分の感想に、妙に納得する。
けれど、いや、だからこそ、油断できない。
（それに……）
そもそもこの男は、どうやって自分達に近付いたのか？ 十分に警戒をしていた筈の００３の、『目』と『耳』。それを掻い潜って接近できたのは、一体、どうしてなのか？
（……まさか、テレポート？ それとも、新兵器……？）
何にせよ、正体不明の敵なのだ。いくら警戒しても、警戒しすぎな訳がない。
そう思いを新たにし、いつでも加速状態に入れるよう、００９は男の藍鉄色の瞳を見据え、言葉も無く身構えた。

沈黙。
張り詰めた空気に、男が苦笑する。
「念のために言っておくが、お前達を知ってるのは俺だけじゃあ無いぜ。ま、判ってるだろうけどな。何しろ、お前達００ナンバーは、有名だからなぁ……Neo Black Ghost では」
Neo Black Ghost。さらりと口に出されたその単語に、００９が僅かに目を細めて。
それへ微かな笑みを浮かべつつ、男は言葉を続けた。
「俺の所属は中東基地。Neo Black Ghost 中東基地の『番犬』だ」
男が、自分の言葉の意味することが正しく伝わったか、それを確かめるかのように、いったん口を閉じる。
「Neo Black Ghost……っ！」
「……中東…基地……？」
００９がギリっと唇をかみ締めて男を睨み据え、その背後に立っていた００３が、何かを思い出そうとするかのように、小さく呟いて。
二人の反応をゆっくりと確認し、そして、男は再び口を開いた。
「俺の名はルシファー。俺の『敵』は俺をそう呼ぶ。味方は別の名前で呼ぶが……まぁ、お前達がそれを知る必要は無いだろう。……当面は、な」
最後の一言を囁きのように付け加え、ルシファーは楽し気に笑った。