「さぁて、と……」
００３を背後に庇って立つ００９を見遣り、ルシファーはのんびりと口を開いた。
「……まずは、こっちの用件を言わせて貰いたいんだが……それで構わないか？」
しかし００９は、唇を引き結んで一言も発しない。その様子に微かに苦笑を浮かべ、そして、ルシファーは視線をゆっくりと動かした。
００９から、その背後に立つ００３へと。
藍鉄色の瞳が００３の青い瞳をまっすぐに見詰めて。
刹那の静寂。
自分を見詰め返す００３に軽い笑みを投げかけ、そして、ルシファーはさらりと言った。
「そこのお嬢さん。俺と一緒に来て貰えないか？」

瞬間。
キィンと大気が鳴り、砂埃がフワリと巻き上がる。
それは、加速装置の起動。
だが。
次の瞬間、金属が地面にめり込む鈍い音と共に大気は静まり、浮き上がりかけた埃は静かに落ちた。

ピタリと全身の動きを止め、００９が足元に視線を落とす。
動かしかけた足の、その爪先ギリギリの位置。そこに、深々とナイフが突き刺さっていた。
「……っ」
一瞬でも止まるのが遅ければ、そのナイフは００９の脚を貫いていただろう。
加速装置を使ったにも関わらずのこの有様は、相手も加速装置を装備しているという事を明示している。だが、それだけではない。背筋に冷たいものを感じつつ、００９は内心で呟いた。
（お互いに加速装置を持っている以上、動きのスピードは互角。それなのに……）
そう。スピードという点においては、どちらにアドバンテージがある訳でもない。その筈なのだ。にもかかわらず、この相手は、自分が動いたその瞬間に、足元へとナイフを投げ付けてきた。それはつまり、こちらが動くよりも先に動作を起こしたということだ。
しかも。
（あの瞬間……）
自分が動き出そうとした、あの瞬間、相手の目は自分を見てはいなかった。００３を見ていた。いや、今この瞬間でさえ、相手の視線が向かっている先は００３だ。見なくても、それは気配で判る。
にもからわらず、目の前の相手は、正確に、完璧に、一分の狂いも無く、自分の爪先へとナイフを投げ付けてみせた。
その意味するところは、あまりにも明白だった。
（……読まれて…いた……完全に……僕の、動きが…っ！）
そしてそれは、もう一つの意味を持つ。
（つまり………）
つまり、今この地面に突き刺さっているナイフは、別のところに刺す事も可能だった、ということを示唆している。
（……そう、例えば……例えば、僕の胸……あるいは……っ）
あるいは、００３の。
ただ、何らかの意図があって、それをしなかった。
今この自分が……そして００３が……無事なのは、ただそれだけのことにすぎないのだ。
ギリッと歯を食いしばり、００９はゆっくりと視線を上げる。
背筋を凍り付かせるに十分なその結論に、震えそうになる手を硬く握り締めて。

その一瞬の攻防の間、００３は微動だにせずそこに佇んでいた。
ただ真っ直ぐに、ルシファーの瞳を見詰め返したまま。
絡み合う視線。
深い湖の、さざなみ一つ無く凪いだ湖面のような青い瞳を見下ろし、ルシファーは再び口を開いた。
「俺の希望は、あんたが自主的に一緒に来てくれることだ。勿論、少々無茶なコトを頼んでる自覚は俺にもある。だから、応じるにあたって、あんたから何か条件を出してくれて構わない。流石に何でもってぇ訳にはいかないが、俺に可能なことであれば飲もう。例えば……」
そう言ったルシファーの視線が、ふっと鋼の色を帯びて。
「……例えば、『００９を叩きのめせ』というのであれば、そうしてやってもいい」
事も無げに言い放ち、ルシファーがニヤリと嗤う。唇の端から覗く犬歯。獰猛な肉食獣を思わせる笑み。
それを静かに見詰め返し、００３はゆっくりと瞬きをした。
（この人…だわ。多分……いいえ、間違いなく……。この人が、エカテリーナの言っていた、『あの人』だわ……）

かつてウィッチが中東基地に居た頃、サイボーグ化手術を手掛けたという、ある男。
Neo Black Ghost のブラックリストに載りながら、十年近くに渡って、殺されることも捕らえられることも無く、Neo Black Ghost とその顧客とに損害を与え続けた、という男。
男が率いていた部隊は、小規模なものでありながら、また幾度も全滅に近い被害を出しながら、必ず任務を達成し、その結果、Neo Black Ghost とその顧客とは、少なからぬ被害を受け続けていたという。だが、十年近くに渡って続いたその状況に痺れを切らした Neo Black Ghost の顧客は、ついに、その男を捕獲するためだけの作戦を立て、実行に移した。当然のことながら、Neo Black Ghost もそれに協力をし、その結果、男は、何重にも張り巡らされた罠に落ち、総ての部下を失い、捕らえられることとなった。
それでも、男を捕らえるに至るまでの被害は凄まじく、一週間以上も続いた戦闘によって Neo Black Ghost の顧客は三桁に上る死傷者を出すことになった。この予想外の事態に、Neo Black Ghost も何か手を打たなければならなくなり、当初の予定には無かったサイボーグ兵の一小隊を投入する破目に陥った。結局、それによって男は捕獲され、作戦は成功裏に終わったのだが、しかし、その代償として Neo Black Ghost は、投入したサイボーグ兵のうち４人を失うことになったという。
（そのサイボーグ兵達は、加速装置も持たない、Neo Black Ghost の戦力の中では最低レベルの兵士達だった、ということだけれど……）
それでも、その強さは生身の人間とは比較にならない筈なのだ。
（エカテリーナから聞いたので無ければ、とても信じられないわ……）
この、生身の男ひとりを捕らえるにしては大きすぎる損害は、Neo Black Ghost の面目に少なからぬ傷をつけたことだろう。
ともあれ、男は捕らえられた。
そして、Neo Black Ghost の顧客によって処刑されたのだ。
（でも、それは表向きのことだった、と……）
男の戦闘力……生身でサイボーグ兵を４人も倒してのけた、尋常ならざる戦闘力……を見込んだ Neo Black Ghost中東基地の基地司令は、顧客と交渉し、処刑直後の男の身柄を引き取った。そして、ウィッチに命じて瀕死の男にサイボーグ化手術を施させ、その命を繋ぎとめたのだ。自らの『番犬』とする為に。
かくしてその男は、『中東基地の番犬』となった。
とはいえ、そうなってさえ、その男は従順な番犬などではなく、『飼主』である中東基地の基地司令に対する敵意を隠そうともしなかったとか。
だが、『飼主』である中東基地の基地司令と、『飼犬』であるその男の間には、当事者である二人しか知り得ない『何か』があり、それ故その男は、どれほど飼主に対して敵意を見せていようとも、その『命令』に逆らうことは一度として無く、飼主が命じる無理難題の総てを片付け、以って Neo Black Ghost 中東基地の地位を……ひいては飼主である基地司令の地位を……安からしめたのだ、という。

（……肌は明るめの褐色。少し灰色がかった黒髪に、藍鉄色の瞳。体格はタイラントさんとほぼ同じで、少し背が高いくらい。エカテリーナは、そう言っていたわね……）
以前ウィッチから聞かされたその特徴は、今、目の前に居る男に合致する。とはいえ、この描写に合致する身体的特徴を持った者など、いくらでも居ることだろう。だから、それだけで判断するのは早計すぎる。
（でも……）
自分の『目』をものともせず接近を果たしたこと。今この瞬間の００９との攻防。それを見れば、この『ルシファー』と名乗る男が尋常ならざる人物であることは、間違いない。
（この人のサイボーグ体に、不審なところは無い。設計はごく普通……量産型をベースに加速装置をつけた程度のものだわ。私の『目』や『耳』を誤魔化すような、そんな装備があるようには見えない。つまり……）
この男は最初からここに居たのだ、と００３は思う。
（多分、私達の行動を読んで、彼は、あらかじめここに居たんだわ）
だから、敵の『接近』に注意を払っていた自分には、気付くことが出来なかった。
（言い訳と言ってしまえばそれまでだけれど、でも……）
自分の『視界』には、ありとあらゆるものが入る。その気になりさえすれば、３０キロ四方にある総ての砂粒を一つ一つ『見る』ことすらできる。
（でも、実際問題として、そんなことをしてはいられないわ）
何もかもが見えるということは、何一つ見えないに等しい。『見える』こと、『視界』に入ることと、実際に『見えている』ことの間には、大きな隔たりがある。
（彼は Neo Black Ghost に属している。ということは、『００３』の『性能』を知っている、ということ。それを踏まえて、私がどういう風にこの『目』を使うかを予想した……）
自分と００９の行動を予想し、その行動の中で『００３』の『目』がどう使われるかを予想したのだろう。
（だから、『ここ』なんだわ……）
簡易診療所が自分の『視界』に入り始める、この場所。
ここに来た時、自分達の注意が……自分の『視線』が……簡易診療所へと向けられ、周囲への警戒が僅かに緩む。この男はそう読んだ。そして自分達は、まさにそう行動した。男が読んだ通りに。
（強い人……恐ろしい程に、強い人だわ……）
自信たっぷりのこの態度は、ハッタリでも何でもない。確固とした実力に裏打ちされた、揺ぎ無い本物の自信なのだ。
（この人なら、多分……）
生身でサイボーグ兵を４人倒すことくらい、軽々とやってのけるだろう。
（それに。この人は、自分のことを『中東基地の番犬』と言ったわ……）
勿論、偶然の一致である可能性はある。さほど独創性のある呼び名でも無いのだ。
けれど。
（間違いないわ。間違いなく、この人が『あの人』だわ。……ねぇ、そうでしょう？ エカテリーナ……？）
だとすれば……と００３は内心で呟く。
（この人は『敵』ではない。でも、『味方』でもない。何故ならこの人は、鎖に繋がれている。だから、飼主の『命令』には、逆らえない……）
だがそれは、『命令』に明確に逆らわず済む範囲に限れば、自分達の『味方』として行動して貰える、その可能性があるということだ。
（彼に、私達がそう思っていると気付いて貰えれば……）
とはいえ、この男を繋ぐ『鎖』が何なのかが分からない以上、常にリスクは伴う。そして、自分達がそう考えるだろうことに、この男が気付かないとも思えない。それは、疑心暗鬼のつきまとう、薄氷の共闘だ。
（でも……）
この男は、自分達を不意打ちすることが十分可能だったのに、それをしなかった。００９に怪我を負わせることが十分可能だったのに、それをしなかった。自分の意思など無視して連れ去ることなど容易だろうに、それをしなかった。
それは、何を意味しているのか？
（……ねぇ、エカテリーナ。あなたを誘拐したのは、この人じゃなくて？ この人は、あなたにも今みたいに言ったのではないかしら？ 『一緒に来てくれ』って……）
リビングの壁にあった無数の弾痕。粉々にされた照明や家具調度。にもかかわらず、床には一滴の血痕も無かった。
（つまり、あれは……カムフラージュだった、ということ？ 私達に行動を起こさせる為に、わざわざ派手な『襲撃』と『誘拐』の演出をした……そういうコトだったのかしら？）
ウィッチがそう願ったのか、この男がそう考えたのか、それは判らない。だが、少なくとも実行犯がこの男であるのなら、その意図が那辺にあったかは、推して知るべしと言える。
（さあ……どうするの、フランソワーズ……？）
自分自身に問いかける。
（何が真実か……何を真実だと信じるか……）
それを決めなくてはならない。
（エカテリーナ……私が信じるのは、あなた……）
であれば、それを以ってこの男を測るべきだろう。
ゆっくりと瞬きをひとつ。
そして、００３は口を開いた。

「……質問を、しても良いかしら？」
静かに発せられた００３の言葉に、ルシファーは軽く頷いた。
「無論だ、お嬢さん。あんたには質問をする自由がある。だが……」
そこで一瞬だけ言葉を切り、軽く笑みを浮かべる。
「……俺にも自由があるよなぁ？ 質問に答えない自由ってヤツが」
軽い口調とは裏腹に、触れれば切れそうな程に鋭利な視線。それを受け止め、そして、００３は頷いた。
「えぇ。それは当然のことだと思うわ」
瞬間、ルシファーの視線に微かな笑みが閃く。
「Ok。では何なりとどうぞ、お嬢さん」
その言葉にひとつ頷くと、００３は小さく息を吸い、改めて口を開いた。
「ウィッチを誘拐したのは、あなた？」
「おいおい、いきなり直球だなぁ」
確信を込めた声音に、ルシファーが苦笑しつつ首肯する。
「その通りだ。それから？」
「彼女の家のリビングを滅茶苦茶にしたのは、どうしてなのかしら？」
「………」
ルシファーが僅かに目を細め、じっと００３を見据える。それを、００３の青い瞳が静かに見詰め返して。
沈黙。
そして、ルシファーは答えた。
「『無理矢理連れて行く』ためだ」
「彼女に危害を？」
一切の感情を伺わせない淡々とした声音。それへルシファーは軽く片眉を上げると、質問を返した。
「当て身で気絶させるってのは、危害にあたるか？」
「……普通なら、そうでしょうね」
「なるほど。普通なら、か。『普通』なら、まぁ、そうだろうな。……とすると、答えは、『No』ということになるなぁ」
ククっと笑うルシファーの、笑みの破片すら無い瞳を見詰め、００３は小さく頷いた。
二呼吸ほどの、間。
そして、００３が再び口を開く。
「では、タイラントを誘拐したのは、あなた？」
「あぁ」
「ドルフィン号を襲撃したのも？」
「そうだ」
「どちらも、あなたがお一人で？」
「Yes」
その返答を聞いたところで００３は暫し黙った。
ルシファーの瞳をじっと見詰めたまま、考え込むように瞬きをする。それを、ルシファーが黙って見下ろして。
やがて。
「……ウィッチの誘拐、タイラントの誘拐、ドルフィン号の襲撃……そして、私の誘拐……。これは、あなたの『飼主』が命令したことなのかしら……？」
呟きに近い言葉。それへ、ルシファーが静かな声で言った。
「そいつぁ質問か？ お嬢さん……」
「いいえ。私の独り言よ」
００３がゆっくりと首を振る。
沈黙。
夕暮れの静寂が周囲を満たす。
やがて。
「ドルフィン号の行き先を、御存知かしら？」
ふっと００３が問う。それへルシファーは軽く肩をすくめた。
「いいや」
「そう……」
否定の言葉に頷いて息を吐き、それから、００３はゆっくりと視線を動かすと００９を見た。

ルシファーと言葉を交わす００３を、００９は傍らでじっと見詰めていた。
発せられる００３の言葉を吟味し、そして理解する。
（フランソワーズ、君は……）
この男を知っている、もしくは心当たりがある、そういうことなんだね？ と００９は思う。
（そして……）
少なくとも、この男は『敵』ではない。００３の態度は、そう語っている。
（それなら……）
警戒をしておく必要はあるものの、しかし、敵意を持つ必要は無い。今この場では、未だ。
（でも……）
もし、戦わなくてはならなくなったら、どうすれば良いのだろうか。
（僕に……彼女を……護れるのか……？）
そう考え、００９は唇を噛んだ。
一瞬の攻防だった。けれど、完敗だった。
確かに、あの瞬間の自分が正真正銘の全力だったかといえば、それは否だ。だが、それは相手も同じことだろう。だとすれば、双方全力での戦いになった場合、果たして自分に勝ち目はあるのだろうか。
（……僕は……）
『００９』は強い。そう思っていた。いや、それは間違いない。けれども。
（この男は……）
何かが違う。自分とは、そして、これまで自分が戦ってきた者達とも。
ほんの一瞬の攻防だけで明確に判る、格の違いとでも言うべきそれは、肉食動物と草食動物との違いにも似ている。未だかつて出会ったことの無い、圧倒的な威圧感。まるで、武器という概念そのものが人の形を成したかのような。
強いて一番近いものを挙げるのならば、それは……
（……タイラント、だ）
どこが近いのかと訊ねられても困るし、何故そう感じるのかも説明できない。しかし、何かが、どこかが、似通っているような気がする。
（君が此処に居れば……）
そうすれば、どう思うか訊けるのに、と００９は小さく溜息を吐く。
（それに……）
二人なら、もし戦わなくてはならなくなっても、何とかできるかもしれない。
（君が……君が此処に、居てくれれば……）
何故、どうして、何も告げずに姿を消してしまったのか……。
（どうして……っ）
そう考え、そこで００９はハッと我に返った。
（駄目だ、こんな事を考えたら……！）
タイラントにはタイラントの考え方があり、やり方がある。それに従い、タイラントは彼なりの方法で、今回の件に対処している筈なのだ。
何故ならば。
（この男は、タイラントを誘拐したのは自分だ、と言った……）
恐らく、その『誘拐』というのは、本人が自主的にこの男について行った、という事なのだろう。今この場でこの男が００３に対してしようとしているように。
タイラントは、この男の誘いに乗ることがこの件の解決に繋がると判断した。自分達００ナンバーとの合流より、そちらを採る方が良いと、あるいは、それはタイラントにしか出来ないことだと、そう考えたのだ。また、タイラントがそう行動したとしても、自分達００ナンバー側に問題が起きる事は無く、いずれどこかで合流できる。だから大丈夫だ。そう考えたのだろう。
（だから……。だから、僕も……）
自分のやり方を貫かなくてはならない。タイラントがそうしているように。
そうでなければ、自分は、タイラントの信頼に応えられないことになってしまう。
（負ける訳には……いかないよ、ね……タイラント？）
そう思い、ひとつ頷き、そして００９は００３を見た。

「……ジョー？」
「……うん」
００３の呼びかけに、００９は小さく、しかし断固とした決意を込めて頷いた。
それを見詰め返し、そして、００３も頷く。
それから。
ゆっくりとルシファーに向き直り、００３は言った。
「あなたの希望通り、私は自主的にあなたについて行きます。但し、条件が二つあります」
まっすぐルシファーを見詰めたまま、００３は淡々と言葉を継ぐ。
「……ひとつ。ドルフィン号の行き先を言い当てること」
「なるほど。それから……？」
「ふたつ。『００９』を叩きのめすこと。但し、彼に怪我をさせずに」
きっぱりとそう言ってのけ、００３は口を閉じた。そのまま視線を逸らさず、じっとルシファーを見詰め続ける。
沈黙。
やがて。
はぁ、とルシファーが溜息ともつかぬ風に息を吐いた。
苦笑。
「あんた、無理難題を考える名人だなぁ……」
言いながら、視線を００３から外し、００９へと向ける。
深い決意を秘めた茶の瞳。それを、鋼の視線が射る。
「……了解だ、お嬢さん。順番に片付ければいいかな？」
「えぇ」
００９へと視線を向けたままの問いに、００３が短く応え……
その返答に、ルシファーはゆっくりと頷いた。