地面に掘られた浅い穴の中で、小さな炎が光と熱とを放っている。
火にかけられた鍋から立ち上る湯気。その向こう側で立ち働いているのは、黒い Neo Black Ghost の戦闘服を着た男。それは勿論、ルシファーだ。
つい先刻までルシファーが纏っていた灰色のマントは地面に敷かれ、未だ気を失ったままの００９が寝かされている。その傍らに座り、規則正しい呼吸に耳を傾けながら、００３はルシファーの様子をじっと見守っていた。

取り出された干肉の塊が、瞬きひとつの間にバラバラになり、鍋へと落ちる。次の瞬間、根菜の類らしきものが手の上に現れたかと思えば、それもまた瞬時に切り刻まれ、鍋の中へと消えてゆく。
何種類かの乾燥ハーブ。それから、いつの間に摘んで来たのか、何枚かの瑞々しい青葉。それらが無造作に取り出されては、鍋の中へと次々に放り込まれて。
流れるような一連の動作は、まるで熟練した手品を見せられているかのようで、見詰めていた００３の唇から、思わず呟きがこぼれる。
「……慣れて、いらっしゃるのね……」
それへ、ナイフで鍋の中をかき混ぜつつ、ルシファーは軽い調子で頷いた。
「まぁなぁ。……とはいえ、このっくらい、ここいらじゃぁごく普通のことだ。あっちにある難民キャンプの生活だって、似たようなモンだろう？」
「……っ」
さらりと言われた台詞に、００３がはっとする。それを見もせず、ルシファーは相変わらずの調子で言葉を継いだ。
「おっと。監視してたのか？ なぁんて勘繰りは、勘弁してくれよ。言っただろ、この辺りは俺の庭みたいなもんだって。庭先に余所者が来て何かやってりゃあ、誰だって様子を見に行く。違うか？」
ふっと向けられた視線。表情を消した藍鉄色の瞳。それを受け止め、００３はゆっくりと瞬きをした。
そして。
「………えぇ。そう、ね……」
「だろ？」
辛うじて平静を保って応えた言葉に、ルシファーが微かに笑みを浮かべて鍋へと視線を戻す。
その様子に、００３は無意識のうちに詰めていた息を、そっと吐き出した。

（……おそろしい、ひと……）
冷たくなった指先を握り込み、今しがたの会話を振り返りつつ、００３は内心で呟いた。深呼吸をする時のように、意識して身体の力を抜きながら、改めて考えを巡らせる。
（つまり。……つまり、このひとは、簡易診療所のことは……あそこに居るのが元 Neo Black Ghost の研究員達であるということから、日常の生活がどのように行われているかの細々したことまで……ひととおり掴んでいる、という訳ね。けれど、それはあくまでも『自分の庭』の状況を確認したということであって、Neo Black Ghost 構成員としての任務で調べたのではない。だから、Neo Black Ghost は……このひとの所属する中東基地は……未だ、簡易診療所についての情報は得ていない……）
こんな重要なことを、何でもない会話の中にするりと混ぜてくるなんて、と００３は震えそうになる吐息を抑える。うっかり聞き流してしまえば、もう、それまでなのに、と。
とはいえ、そうなったとしても、それはそれで良いのだろうとも思い、００３はそっとルシファーを見遣った。
（それも、きっと、このひとの計算のうちなのだわ……）
おそらく今のこの一連の会話には、相手の実力のほどを計る、という意味もあるのだろう。
この程度すらきちんと受け止められなければ、共闘などありえない。ましてやこれから、この自分は『敵地』へと連れて行かれるのだ。その前に、与えられる範囲の情報を与えると同時に、力量を計ろうとしている、という訳なのだろう。
（今このタイミングで食事をするのは、意識を失っている状態のジョーをこの場に放置しないため。そして、移動前に食事をすることで、この先の移動を効率的に行うため。……けれど、それだけじゃない。私への情報提供をし、同時に、私の力量を測る。そういう目的も、あるのだわ……）
たったひとつの行動に、何重もの意味がある。
（ほんとうに……ほんとうに、おそろしいひと……）
流石は、あの『ウィッチ』が『底の知れない男』と評しただけのことはある、と思う。
そして。
（……このひとが、敵でなくて良かった……）
勿論、敵ではないというだけで、味方という訳でもない。更に言えば、この男は敵の鎖に繋がれているのだ。従って、状況によっては、敵として行動することは十分に考えられる。
（でも。一体どうやって……？ どうやって、これほどのひとを縛り付けているの……？）
その『鎖』が何であるのかは誰にも判らなかった、とウィッチは言っていた。けれど、その『鎖』の強固さは、誰の目にも明らかだった、と。
（一体、それは何だというのかしら……？）
この男のサイボーグ体に不審なモノは見当たらない。だから、爆薬や毒物のような、命を脅かす何かを仕掛けられ、それで脅されているという訳ではない。だいたい、そういうモノが仕掛けられているのだとしたら、それを、ルシファーのサイボーグ化手術を行ったウィッチが知り得ない筈は無い。
ならば人質を取られているのだろうか、と考えてみる。けれど、それも違うような気がした。
（エカテリーナの話からすると、このひとが鎖に繋がれて、もう、１０年以上……１５年くらいは経っている筈よ……）
果たして、そんな長期間に渡って、この男から人質を奪還されずにいられるものだろうか？ ほんの一瞬の隙ですら見逃さないような、この男から。
（……無理、じゃないかしら……）
だが、だとしたら、一体、この男にかけられた『鎖』とは、何なのだろうか？
そう考え、そして、００３は小さく溜息を吐いた。
（……わからないわ。でも……）
たった一つ、確実にわかること。それは……
（このひとの『飼主』には、それができた。つまり、そんな事が可能な、それ程までに恐るべき人物、ということだわ。そして、その人物が……）
『中東基地の番犬』であるルシファーの『飼主』とは、つまり、中東基地の基地司令。
（……私達の敵。少なくとも、敵の一人であることは間違いない、ということよ）
ウィッチの居るであろう場所、そして自分がこれから乗り込む中東基地とは、そういう場所なのだ。
そう思い、そして、００３は微かに笑みを浮かべた。
（ねぇ、エカテリーナ……。あなた、怒るかしら？）
自分に会ったら、ウィッチはどういう反応をするだろうか、と考える。
薄氷の瞳に怒気を浮かべ、呆れた口調で『何しに来たの』と言い放つ様が、あまりに容易く想像できる。
その想像上のウィッチに向かい、００３はきっぱりと言い返した。
（でもね。先に無茶をしたのは、あなたの方なのよ？）
とはいえ、その判断を責めるつもりは無い。最善と思う選択をしたのだということを、疑うつもりは無い。
だから。
（私も、戦うわ。だって……）
自分にそれが可能であると、他ならぬ『ウィッチ』が『底の知れない男』と評した人物が、そう判断したのだ。
（……だからこそ、ルシファーさん、貴方は私を連れにきた。そういうこと、なのでしょう？）
呟くように思い、００３は傍らに横たわる００９の髪にそっと触れた。

「ジョー？ 目が覚めた？」
聞き慣れた柔らかな声でそう呼びかけられ、００９はゆっくりと目を開いた。
「……フ、ラン…ソワ……ズ？」
うっかり寝過ごしてしまったのだろうか？ と、そう思いかけたところで、身体の下の感触に気付く。ゴツゴツとした冷たいそれは、自分の部屋のベッドのものではない。
（あ……）
一気に総てを思い出し、がばりと飛び起きる。
その途端。
「よぉ」
声と同時に湯気の立つ椀を鼻先に差し出され、００９は動きを止めた。
（……え？）
目を瞬かせて視線を上げる。そこに居たのは、やや灰色がかった墨色の髪に藍鉄色の瞳の、黒い Neo Black Ghost の戦闘服を着た男。
「……ルシファー」
「予想したよりも、目ぇ覚めるのが早かったな。流石は００９だ。攻撃の受け方も、なかなかのものだ」
陽気な声で褒められ、ほら受け取れと椀を軽く上下される。
「……あ…りがとう……ございます……」
何となく勢いに押された形で椀を受け取り、そして、００９は困惑した瞳を傍らの００３へと向けた。
どういう事なんだい？ と視線で問いかける。
けれど、それをどう解釈したのか、００３は小さく頷くとスプーンを差し出してきた。
「どうぞ。……おいしいわよ？」
でも熱いから気をつけて。そう続けられた言葉にどう返したものやら判らず、００９は黙ってスプーンを受け取ると、椀の中身をそっと掬った。
おそるおそる口に運び、それから、目を円くする。
「……っ。ほんと、だ……」
すーっとするような、甘いような辛いような、それはとても変わった、まるで馴染みの無い風味だったが、しかし、疲れた身体に染み渡るようで、確かにおいしい。
思わず性急に二口目を口に運び、００９は小さく悲鳴をあげた。
「ぁ…っつ……！」
「もぉ、だから言ったでしょう。熱いから気をつけて…って」
「ぅ…うん……」
そのやりとりに、いつの間にか火の向こう側に戻っていたルシファーが、楽しげに笑った。
「面白いなぁ、お前達。それに、なかなかの大物っぷりだ。悪くない」
「………」
クツクツと喉元で笑うルシファーに、褒められてるのか貶されてるのか判断がつかず、００９が戸惑ったような瞳を向ける。それへ、ルシファーが軽くウィンクを返して。
「ま、口にあったんなら良かった。未だ少し残ってるから、それも食っちまってくれ」
視線で火の横に置かれた鍋を示し、そして、ルシファーはふわりと立ち上がった。
「チョイとそこいらを見てくる。ま、この辺りは最近じゃかなりの安全地帯ではあるし、夜盗の類が出るには早い時間だが、面倒は避けるに越した事は無いからな」
（……え？）
その言葉に、００９が目を瞬かせる。
「……あ、の……」
そういう事であれば００３に『見て』貰えばいいのではないか、と言い掛けた言葉は、しかし、素早く触れてきた００３の手によって遮られた。
（……フランソワーズ？）
はっと００３を見遣り、その青い瞳に、００９は言わんとすることを瞬時に理解する。
そこへ、からかうような調子のルシファーの声が降って来た。
「ま、火傷しない程度に急いで食えよ」
「……あ。はい……」
思わず素直に頷いてしまえば、再び、押し殺した笑いが降ってきて。
「食い終わったら……」
次の瞬間、すっと空気の温度が変わる。
「……休憩は、終わりだ」
何の感情も含まない静かな声音に、００９が小さく頷く。
その気配を背中で確認し、ルシファーは音もなく姿を消した。

灰色のマントを頭から深々と被った長身の男。そのやや後ろに続く、赤い戦闘服に黄のマフラーを巻いた、見慣れた姿。
遠ざかっていく二人の影は、星明り以外に光源の無いここでは、あっというまに闇に紛れて見えなくなる。
（フランソワーズ……）
ぐっと拳を握り締め、その姿が消えた方角をひたすら見据える。
（……フランソワーズ……っ！）
今すぐその後を追って、連れ戻したい。けれど、何重もの意味で、それは不可能だった。
第一に、００３自身の意思。
（君が…そう決めたのなら……）
それは正しいのだ、と思う。
第二に、ルシファーの強さ。
（今の僕に、彼を倒すことは……彼を倒して君を取り返すことは……できない……っ！）
歯を食いしばり、呻くようにそう呟く。
第三に、得られた情報の重要性。
ウィッチの行方、タイラントの行方、Neo Blck Ghost 中東基地の存在、ルシファーの存在。未だ判らない事だらけではあるが、しかし、それでも色々なことが判った。
（皆と合流して……）
この先どう動くかを、考えなくてはならない。今ここで００３だけを取り戻したとしても……仮にそれが出来たとしても……それでは解決に繋がらない。
「……フランソワーズ……っ」
目を閉じてそっと呟く。
自分には、もう、彼女がどこにいるか判らない。けれど、この声は『聞こえ』ている筈だ、と００９は思う。
「フランソワーズ……。君は、正しい……」
いつだって君は正しい。そう想い、００９は目を開けて空を見上げる。
「だから、僕は大丈夫だ。心配、しないで……」
虚空へとそう告げ、００９はくるり踵を返した。
（まずは……）
簡易診療所。そこに居る、エストラ。ルシファーから貰った座標情報を解析して貰い、ドルフィン号の位置を特定するところから始めなくてはならない。
（……急がないと）
キッと前方を見据えて唇を噛む。
そして。
深呼吸を一つすると、地を蹴って００９は駆け出した。