『幻想海悠園』
『語部館』
『月光水晶戦記』

第十四歌

癒しの枝



我は大樹の小枝

強き日差しに影を作り

激しい雨を受け止める

それは一時の宿り

ささやかな安らぎ

遠き旅を往くモノを癒す

我は小さな枝とならん



名を忘れ去られた山の中腹にある、隠されし刃の一族の居住地。
そこは、今、慌しい空気に覆われていた。

装備を取りに、住家の方へ走るモノ。
逆に、住家の方から剣やら革鎧やらをいくつも抱えて走り出てくるモノ。
各隊の隊長とおぼしきモノ達が、隊に属するモノを呼び集める為に叫び、それに応え、男達が駆け集まる。
中には、伝令か斥候の任にあるのか、隊長の下に集合するモノ達を横目に、そのまま広場を突っ切って麓へと下る路に姿を消すモノも居た。
一見、蜂の巣をつついたような大騒ぎに見えながらも、実は、それぞれのモノ達があらかじめ定められた手順に従って動いている。
その有様を、シーアは呆然と、ズァインは冷ややかに、リスィアは静かに見詰めていた。




自分の装備を整え、ひととおりの指示を出し終えたところで、ハジスはシーア達のところへやって来た。
「あんたらは、どうする?」
自分達と一緒に出るか、ここに残るか? 残るんだったら、誰か世話係を付けるが……とハジスが問う。
その言葉に、ズァインは視線を宙にさ迷わせた。

(どう…する……?)
戦いが始まっている。そのことを考えると、ズァインの胸は痛んだ。
全員が無傷で勝利をおさめるなど、有り得ない話だ。幾人か…あるいは、それ以上…が、怪我をすることになるだろう。
勿論、各隊には医薬の智に携わるモノがついて行っているし、後方では、自分と同じく前任の『地の三賢師』から教えを受けたモノ達や、自分の直弟子とも言えるモノ達が、重傷者が運ばれてきた時に備えて万全の受け入れ体勢をとっている筈だ。よほどの怪我で無い限り、そのモノ達で、対処は十分に可能だろう。
けれど。
(万一、彼等の手に…負えなかったら……)
彼等の手腕は、皆、かなりのもので、大概の場合なら自分の代わりが務まる。それは良く解っている…とズァインは思う。
しかし、彼等のことが良く解っているだけに、自分の代わりが務まらない場合のあることもまた、ズァインには、良く解ってしまうのだ。
(……だが……)
チラリとシーアを見遣り、つと唇を噛んで瞳を閉じる。
自分が一番に護らなくてはならないモノ。それは、勇者たるシーアだ。
三剣姫の誰かがシーアの傍に居るというのならともかく、今シーアの傍に居るのは、自分と、天地珠の巫女であるクゥ・リスィアだけ。だが、リスィアは、おそらく麓に下りるだろう。
となれば、自分がシーアの傍らを離れる訳にはいかない。
(……大丈夫…だ……)
必要な指示は、総て、出してきた。
自分が居ないことは、皆、判っている事で。
それに、レィミア隊が、そうそう遅れを取る訳が無いではないか。
(…大丈夫……)
心配も、過ぎれば、自分と同じく医薬の智に携わる神官達や、レィミア隊の巫女達への侮辱になる。
大丈夫だ、と心の中でもう一度呟き、そして、ズァインは口を開いた。

「……私と勇者シーアは、一段落つくまでここに……」
居させて貰います…と言いかけたズァインの言葉を、不意にシーアが遮った。
「待ってくれ!」
「シーア?」
「ズァインは、彼等と一緒に行ってくれ」
「え?」
虚を突かれたように目を瞬かせるズァインを見つめ、シーアが言葉を続ける。
「戦いが、始まってるんだ。誰かが怪我をしてるかもしれないだろ?」
そんなことになって欲しくはないが、誰かが、ズァインでなくては手当てができない程の大怪我を、してしまうかもしれない。
「俺は大丈夫だから。皆が出撃した後、ゆっくり下りる。なんなら、ズァインかリヤンナか……誰かが迎えに来るまで、ここでおとなしくしてる。だからっ」
とにかく彼等と一緒に行ってくれ…と言うシーアに、ズァインは棘のある口調で言い返した。
「私の第一の任は、あなたを護ることです。三剣姫の誰かがここに居るのならともかく、そうでない以上、私があなたの傍を離れる訳にはいきません」
「………」
シーアが、ズァインを睨む。
沈黙。
そして、シーアは、ゆっくりと口を開いた。
「『地の三賢師』は、『勇者』に仕えるモノだ…って、ズァイン、前にそう言ったよな?」
「………」
「『勇者』としての指示だ。彼等と一緒に麓に下りて、医薬の智に携わるモノとしての務めを果たすんだ。俺は、大丈夫。『隠されし刃』の一族と一緒に居て、何の危険があるって言うんだ? だいたい、彼等の住家に居るのに、ズァインが俺の傍に居て俺を護らなきゃならない…なんて、それはちょっと、彼等に失礼なんじゃないのかな?」
首を傾げるシーアを、ズァインが黙り込んだまま見詰めて……
(………)
自分はどうすべきなのか? と思う。
一番、重要なこと。
『地の三賢師』の一枝として、医薬の智を司るモノとして、一番に考えるべきこと。
(……それは……)
傷ついたモノが、少しでも早く癒されるようにすること。それこそが、何よりも重要なことではないのか?
シーアを護るモノが自分以外に誰も居ない…というのならともかく、そうでない今、己の取るべき行動は、明白ではないのか?
ゆっくりと目を伏せ、そして、ズァインは静かに頷いた。
「……わかりました」

そのシーアとズァインのやりとりを、ハジスは興味津々で見守っていた。
『勇者』を護るのが自分の務めだ…と頑なに主張するズァインを、シーアが強い口調で説き伏せるのを。
(ほぉ……)
自分はここに居れば安全だ。だから、行くべきところへ行って、やるべきことをしろ。ここに居る自分を護らなくてはならないというのは、『隠されし刃』の一族に対して失礼じゃないのか? と、そう言うシーアを、ハジスが驚いたような目で見る。
(……根性だけがとりえ…なのかと思ったら……)
内心で唸り、ふとリスィアを見遣る。
(………)
柔らかな眼差しが自分を見ていて、ハジスは苦笑した。
なるほど、と思う。
目指すモノをまっすぐに見詰め、何モノにも惑わされない、その瞳。
本当に必要なこと、重要なモノを、いともたやすく見分けるのは、おそらく、天賦の才。
(なるほど……姐さんが、コイツが『勇者』だ…と、そう言う訳だ)
ひとり呟き、そして、ハジスは自分の方へと向き直ったズァインに注意を移した。

「私は、あなた方とご一緒させて頂きます。勇者シーアは、暫く、ここに居させてさしあげてください。できれば、戦いが一段落ついたら、麓の村まで送って頂きたいのですが……」
「判った。任せておいてくれ」
答えて頷き、ハジスが後ろに控えていた少年に声をかける。
「サージャ」
「はいっ!」
「勇者様を奥に案内して、茶でもお出ししろ。それから……」
一呼吸の間で考えを巡らし、ハジスは言葉を続けた。
「…ディサレに、状況を見計らって、夕刻までに下りられそうなら、麓の村まで送るように伝えろ。……あぁ、勇者様が麓まで下りるにゃあ、お前等の三倍は時間がかかるだろうから、くれぐれも、そこんトコの計算を誤るな…と言っとけよ」
「はい」
笑いを含んだハジスの言葉に、サージャが苦笑交じりに頷いて。
それを確認し、それから、ハジスはリスィアを見遣った。
「姐さんは……」
その呼び方に、ズァインが眉根を寄せる。ハジスを睨んで思わず口を開きかけた、その途端、シーアがズァインの袖を掴んだ。

「………」
「………」
『必死』といった風情の、青い瞳。
それを冷たく見下ろし、そして、ズァインは小さく溜息を吐いた。
「……放してください……」
力の抜けた口調。
シーアが袖を掴んでいた手を放す。
掴まれていた部分の皺をこれ見よがしに伸ばしつつ、ズァインは低く呟いた。
「私に、事の軽重が判らないとでも思ってらっしゃるんですか、あなたは。まったく……」
「……ごめん…」
謝るシーアを見遣り、ズァインは再び溜息を吐いた。

脇でのそんなやり取りに気付かず、ハジスはリスィアに向かって言葉を続けた。
「…どうします? 勇者様とここに残るか、それとも、俺達と麓へ下りるか……」
「そうですね……」
ふっと言葉を切り、ハジスの後ろに立つサージャへと視線を向ける。
銀灰色の瞳に見詰められ、サージャは慌てて姿勢を正した。
クス…っとリスィアが微笑んで。
「シーアのこと、よろしくお願いしますね、サージャ」
「………は……はははいっ!」
いきなり呼びかけられ、サージャが目を丸くし、上擦った声で返事をする。
それへ頷き、そして、リスィアはハジスへ視線を戻した。
「私も麓へ下ります。前線までは行きませんけれど……」
とりあえず麓まで下りておけば、ここにいるよりも、状況に応じた素早い対処ができる。そう言うリスィアにハジスが頷いて。
そこへ、ひとりの男が駆け寄ってきた。
「お頭っ、全隊、準備できました!」
「よし……ニ番隊から順次出撃しろ。俺と姐さんと…ズァインも行く」
「了解っ!」
応えて駆け去る男を見送り、ハジスはシーアを振りかえった。
「じゃあ、また後でな、勇者様」
「あ…あぁ。気をつけて、えと……ハジス……?」
伺うようなシーアの言葉に、ハジスが目を瞬かせる。そして、ニッと笑うと、言い直した。
「また後でな、シーア」
「あぁ! 気をつけて、ハジス」
頷いてそう応え、それから、ズァインとリスィアを見る。
「二人とも……よろしく頼む。こういう時、俺は…何も……何の役にも立てないから……」
拳を握り締め、唇を噛むシーアの額に、つとズァインが触れた。
「ヒトには、それぞれに課せられた役目があります。あなたがあなたの役目を果たしたように、私も私の役目を果たすだけです」
「……ズァイン…?」
言われた意味が判らず、シーアが不思議そうな目をする。それをそのままに、くるりと背を向けると、ズァインは麓へ下る道の方へと歩を進めた。
その後に、リスィアが続く。
きょとんとした表情のシーアに、ハジスが笑いを噛み殺して。
その気配に、ズァインが足を止めてハジスを振り返った。
「何をしてるんです、ハジス。頭領が出遅れてどうするんですかっ」
「…お…おうっ」
応え、ハジスが走りだす。
それを、シーアは釈然としない表情で見送った。




剣戟の音。
馬の嘶きと蹄の響き。
男達の怒鳴り声。
鳴き交わす鳥の囀りに似た笛の音。
名を忘れ去られた山の西、勇者一行が“四の丘”と呼んでいるここでは、戦闘開始から半時が経とうとしていた。

側面からしかけた最初の攻撃で、あっさりと前後に分断された魔の下僕達の一隊は、半数以上が斬り伏せられていた。残る半数も、その殆どが進撃する意志を失い、後方に居たモノ達からバラバラと逃走を始めている。
未だに踏み留まっているモノ達の間を駆け抜けるのは、『天の三剣姫』の一翼たるレィミア。右に左にと鮮やかに剣を捌くたび、短く切った銀の髪が宙に踊る。
それに、一隊の巫女達が続いて。
通り過ぎた後には討ち倒されたモノ達が地に転がり、その有様を見て、駆け行く先のモノ達が、我先にと逃げ散る。
その有様は、まるで、一陣の風。あるいは、嵐。
一時を待たずして、既に、大勢は決していた。

レィミア隊が猛威を振っている、そのやや後方。
“四の丘”にほど近い辺りに、ロレンと伝令の任に付く神官の一隊が居た。
「どうやら、追い払えそう……か」
伝令の報告に頷き、ロレンは暫し考えを巡らせた。
(今のところ、別働隊を見つけたという報告は無いし……となると、当面は、これで大丈夫…か?)
退いて…というか逃げて…行ったモノ達がどうするか? は、少々気がかりだが、それは、レィミア隊の任ではない。
(よし……)
内心で小さく頷くと、ロレンは傍らに控える神官を見遣った。
「ラィラ隊へ連絡。“四の丘”での戦闘はほぼ決着。逃走したモノ達については、予定通り、そちらに任せる……と。それから……」
と言って、伝令の神官へと視線を戻す。
「君は、本陣のダナスまで、今の報告を頼む」
「はい」
「承知しました」
ロレンの指示に応え、神官達が其々の方向へと駆け去って行く。
それを見送り、ロレンはレィミア隊が戦っている方へ視線を向けた。
(さて……)
こちらの勝ちに間違いは無さそうだとはいうものの、どれくらい怪我人が出ただろうか? と思う。
(ズァインは、勇者シーアと一緒に山に登っているから……あまり、酷い怪我をしたモノが居なければ良いんだけどな……)
こればかりは、いかに情報を集め、予測を立てようとも、実際の戦いが終わってみるまでは判らない。大局の流れは読めても、その中における、ひとりひとりの運命の帰趨は、どうやっても予想できないのだ。
(本当は、それが……それこそが、一番、知りたいのにな……)
ヒトを個ではなく数として扱い、泡沫の想いを排して事実のみを見る。それが、知を司る神官の中にあって、特に、情報を取り扱う任に就くモノの心得。
けれど、そうやって流れを見極めたいと願うのは、その流れの中にある個を想うが故で。
(……やれやれ……)
小さく溜息を吐き、そして、ロレンは軽く手を上げた。
「レィミア達と合流する。……全員、移動」
指示に応え、神官達が動き始める。
それを確認し、ロレンも静かに馬を進めた。




抜き身の剣を片手に周囲をぐるりと見まわし、自分の一隊の巫女達以外に動くモノが見当たらないのを確認し、レィミアは息を吐いた。
どうやら、勝ったようだ……と思う。
逃げ散ったモノ達は居るものの、それについてはラィラ隊が対処することになっているし、ここの状勢は、ロレンを筆頭とする神官達が、逐一、ラィラ隊に伝えてくれている筈で。
だから、自分は…自分達は…任を果たせたのだ。
そう思い、そこでハッとする。
(……みんな、無事……?)
とにかく、それを確認しなくては。
全員の状態を確認し、怪我をしたモノが居るならば、一刻も早く処置が受けられるように手を打たなくてはならない。呑気にしている場合ではないのだ。
慌てて笛を取り出し、レィミアは『各班点呼』の合図を吹き鳴らした。

笛の合図に応えて、其々の班が点呼を始めたところへ、ロレン以下の神官達が合流してきた。
「状況はどうだい?」
柔らかな声に振り返り、レィミアが、ほっとしたような笑みを浮かべる。
「ロレン……。とりあえず、任は果たせたみたいです。各班の点呼は、今してるところですから……」
怪我人の人数や状態は、すぐに判るだろう…と言うレィミアに、ロレンは小さく頷いた。
「ラィラ隊へはもう伝令を出してあるから、我々の隊は、これで任務完了だよ。あとは……酷い怪我人が、居なければ良いんだけれどもね……」
「はい……」
その時。
「レィミア、レィミアッ!」
切迫した叫び。
レィミアとロレンが声の方を見遣る。
必死で走ってくる巫女がひとり。ただならぬその様子に、レィミアは慌てて駆け出した。

「どうしたのっ?」
泣き出しそうな巫女を抱き止め、問う。そのレィミアを見上げ、巫女は蒼白な顔で首を振った。
「……レィミア…ッ……どうしよう……どうしよう……」
「どうしたの……おちついてっ!」
ただただ、どうしよう…と繰り返す巫女の頬を、レィミアが叩く。
「…あ……」
巫女が、目を瞬かせて。それを見据え、レィミアは強い口調で問うた。
「しっかりして。どうしたの? 何があったの?」
「……あ……。ルゥアが……すごい血が出て…呼んでも…答えないの……。私…私のせいなのよ……私が…剣を落として……」
泣き出すその肩を、レィミアが揺さぶる。
「お願い、おちついてっ! ルゥアは…ルゥアはどこっ?」
「…あ……あっちに……寝かせて………」
震える指が丘の方角を示す。
「ロレンっ……」
見上げるレィミアに頷くと、ロレンは、傍らの神官を振り返った。
「頼む」
「はいっ」
額に緑に染めた細い紐を締めた神官が、答える間も惜しげに駆け出していく。
それを見送り、ロレンはレィミアの傍に膝をついた。
「レィミア…僕の馬を貸すから……」
おそらく、後方に運ばねばならないだろう。君の馬は疲れているから、僕の馬を使うんだ…と言うロレンに、レィミアが頷いて。
「彼女は僕が預かる」
「お願いします……」
そして、しくしくと泣き続ける巫女をロレンの腕に渡した。

馬の方へと駆けていくレィミアを見送りつつ、ロレンは片手を挙げて軽く振った。その合図に応え、一人の神官が、傍に走り寄って来る。
手を下ろし、腕に抱いた巫女の髪を撫でながら、ロレンは静かに言った。
「後方へ伝令を。重傷者が居ると伝えるんだ。それから、各班の状況報告を取り纏めて、僕に報せてくれ。以上」
「はい」
答える神官に軽く頷き、そして、ロレンは山を振り仰いだ。




運ばれてきたルゥアの状態に、ケトは唇を噛んだ。
(これは……)
酷い、と思う。
(……助けられる…のか…?)
着ている服はぐっしょりと血に濡れて、止血の為に縛っている紐布も、紅く染まっている。
「……奥の天幕へ……」
ケトの指示に応えて、神官達がルゥアを運ぶ。
それを追おうとしたケトの袖を、レィミアが掴んだ。
「…ケト…お願い、ルゥアを……」
助かるんでしょう? レィミアが言う。
張り詰めた、薄蒼の瞳。
それに、答えられない。
「ケト……!」
「とにかく、診てみなくては……今ここでは、なんとも言えない」
固い口調で言い、ケトは踵を返した。




ケトは、ズァインと同じく前任の『地の三賢師』に師事していたモノで、いわば、兄弟子にあたる。ズァインがやって来るまでは、弟子達の間でも一番と言われており、師の後を継ぐモノの候補のひとりに名を連ねていた。
けれど。
ある日、ズァインがやってきた。

十二歳になったばかりのズァインは、その年齢に似合わず、無口で無愛想だった。自分から話をすることも笑うことも無く、ひとりで書庫にこもって本を読んでいるか、あるいは、短棒を握って教えられた型を繰り返しているかで。
ケトを始めとする兄弟子達は、可愛げの無いズァインを疎んじた。
けれど。
一年も経たないうちに、彼等は慌てることになる。
ズァインは、兄弟子達が何年もかかって学んだことを、僅かな間に着々と身に付けていった。棒術の上達も、また、めざましく。
次々と投げつけられるズァインの鋭い質問に、兄弟子達は答えに窮した。その腹いせに、棒術の訓練時に打ち負かしてやろうと思っても、巧みな技に却って翻弄される始末で。
知識でも技でも勝てない、弟弟子。
それなのに、それを誇るでも無いズァインの態度に、兄弟子達は憤った。
自分達など眼中に無いのか……と。
冷たい深緑の瞳。
どんなに酷い怪我人を見ようと、手当ての甲斐なく病人が死のうと、泣くことの無い、その瞳。
あからさまな嫌味も御世辞も、ただ冷然と無視し、知識の習得と日々の鍛錬以外に何の興味も示さないズァインを、兄弟子達はいつしか恐れるようになった。
だから、師がズァインを自らの後任に指名した時も、誰も何も言わなかった。
弟弟子の下に付くことへの屈辱よりも、ヒトらしい感情があるのかどうかすら疑わしいズァインへの恐怖の方が、大きかった。
何よりも、ズァイン以上に深い知識と技術を持つものが居ないことだけは、誰もが認めるところだった。
勿論、ケトも。
複雑な思いを抱きつつ、それを認めるしかなかったのだ。




ひととおりの処置を終え、寝台に横たわるルゥアを見下ろして、ケトは唇を噛んだ。
血の気の無い頬。
蒼ざめた唇。
閉じられたままの瞳。
(これで……いい…のか……?)
できるだけの処置はした。
意識が戻らないのは薬のせい。
弱々しいながらも呼吸はしている。
肌は冷たいが、それは流れた血が多いからで。
(……これで…いい……)
その筈だ、と思う。
だが。
手に握った薬草を見下ろす。
(これを……使うべき…か……?)
それは、一時的な身体機能の低下に対処する為の、強い薬。
これで一命を取り留める例は、確かに、ある。だが、強い薬は負担が大きいのも事実で。果たして、それを、今のこの状態のルゥアに処して良いものかどうか?
(どう…する……?)
こんな時、ズァインが居れば……と思う。
(……あいつが居れば……)
ズァインには判るだろう、と思う。
過去の傷病例の殆ど総てに目を通し、怪我人や病人が出れば、師に従って遠方の村までも出かけていっていたズァイン。自分よりも遥かに多くの怪我人と病人を診てきた筈のズァインになら、的確な判断ができる筈だ。そう思う。
だが。
今、ズァインは勇者と共に山へと行っている。
自分が何とかしなくてはならないのだ。
(……どう…すれば……)
これで処置を終わりとし、様子を見ればよいのか、あるいは、まだ何か施すべきことがあるのか。それが、判らない。
今にも止まりそうな細い息に、自分の方が息が止まりそうな気がして。
「……ズァイン………」
ケトが呟いた、その時。
「入りますっ」
不意に聞き覚えのありすぎる声がして、ケトは振り返った。
「……あ……」
見開いた視線の先。そこに居たのは、紺青の衣を纏い、灰色の髪を後ろで編んで束ね、深い緑の石を埋めたサークレットをした、痩身の青年。
「……ズァイン……」
それは勿論、『地の三賢師』の一枝たるズァインであった。

呆然とするケトに構わず、ズァインが寝台に歩み寄る。そして、ルゥアの頬に触れ、呼吸を確かめると、傷に施された処置を慎重に確認し始めた。
その様子を、ケトが息を詰めて見守って。
緊張をはらんだ沈黙の時。
やがて、ゆっくりとズァインが振り返った。
深緑の瞳を向けられ、思わず身を退きそうになる。
「私でも、同じ処置をしたでしょう」
静かなズァインの言葉に、ケトは目を瞬かせた。
「それを……」
と、ケトが手に持った薬草へ視線を向け、ズァインが言葉を継ぐ。
「…使わない、というのも」
「あ……」
己の手を見下ろし、そして、ケトは大きく息を吐いた。
どっと安堵が押し寄せ、力が抜ける。
(よかった……)
自分の処置は間違っていなかった。
勿論、正しいと思ってやったのだが、それでも、自信が無かったのは確かで。ズァインだったら、もっと違う処置をするのではないか…と、そう思うと不安だったのだ。
「ケト…?」
不思議そうな声に、ケトは慌てて顔を上げた。
「どうしました?」
「…あ……いや……」
首を振り、言葉を継ぐ。
「……来てくれて…良かった……」
そう言い、そして、素直にそう言ってしまった自分に、ケトは驚いた。これまでは、何となくわだかまりがあって、そんな事など口にできなかったのに。
けれども。
(良かった……)
しみじみと思う。
そう。
何よりも重要なのは、怪我人や病人に適切な処置をすることで、その為には、多くの知識と経験が必要だ。
この二つを得る為に、ズァインほど情熱を傾けているモノが、他に居ただろうか?
(……そう…だよな)
どんなに酷い怪我人や病人を前にしても、ズァインは目を逸らすことがなかった。師ですら半ば諦めたような患者にも最後まで付き添い、また、些細な容態の変化までも克明に記録していた。それを整理し、次の患者の治療に生かせるものがないかどうか、暇をみつけては、過去の記録と比較検討して。
そういった努力の積み重ねが、正確な判断を支え、ひいては己の判断への自信となるのだ。
そう思い、ケトは改めて、かつての弟弟子であり、今は自分の上司にあたる『地の三賢師』を見遣った。
「それにしても…何故ここに…?」
勇者と一緒に山へ行っていたのではなかったのか? というケトの言葉に、ズァインが軽く肩をすくめた。
「…シーア…勇者シーアの指示なのです。万一、誰かが大怪我をしたら大変だから……と。けれど、それは心配のし過ぎというものでしたね」
そう言うズァインに、ケトが首を振る。
「……そんなことは無い。本当に………」
どうしようかと思った…という言葉は、しかし、ズァインに遮られた。
「完全な処置でした。このまま明日まで様子を見て、あとは……傷口がひきつって塞がらないように、それだけは、十分に気をつけてください」
「……あ…あぁ……はい」
答えるケトに頷き、ズァインが踵を返して。
出ていくその背を見送って、ケトはひとり苦笑した。
(『ひきつって塞がらないように』か。そんな事まで考える余裕なんて…なかった)
大きく息を吐き、ふと呟く。
「……『遠き旅を往くモノを癒す、我は小さな枝とならん』……か」
医薬の智に携わる神官の、誓詩の一節。
病を癒し、怪我を治し、それぞれのヒトが己の今生を良く生き、まっとうできるように支える。それが、医薬の智に携わるモノの、共通の願い。
自分も、それを願っていた筈なのに、いつの間にか、その事を忘れてはいなかったか?
「もっと…勉強しなけりゃな……」
この先、戦いが激しくなれば、いつも、こうやってズァインが来られるとは限らない。
自分がもっとしっかりしなくては…とケトは思う。
(俺の未熟の代償は、怪我をする巫女達が、払うことになるんだ……)
適切な処置をすることができなければ、些細な怪我も致命傷になり、大きな怪我は命に関わる。
(……当たり前の事……じゃないか……)
戦いが始まる。
その事を、自分は、よく判っていなかったのだ。
(皆を癒す…小枝となる……ならなくては……)
ズァインだけでなく、そしてまた、自分だけでもなく。
(巫女達が己の務めを果たすように、俺達もまた、己の務めを果たす。果たせるよう、努力しなくては……)
そう呟き、ケトはひとり頷いた。




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