「…ズァインっ」
天幕を出た途端に声を掛けられ、ズァインは立ち止まった。
そこに居たのは、短く切った銀髪に薄蒼の瞳の巫女。天の三剣姫が一翼たるレィミアだ。
立ち止まったズァインを見詰め、レィミアが言葉を継ぐ。
「…ズァイン……ルゥアは……っ」
助かるのよね？ と瞳で問う。それを見詰め返し、ズァインは小さく頷いた。
「完治までには時間がかかるでしょうけれど、いずれ、今回のことを経験として生かせるようになるでしょう」
「……あ……」
レィミアが目を見開き、そして、詰めていた息を吐く。
「よ…かった……。ありがとう……」
その言葉に、ズァインはそっけなく首を振った。
「それはケトに言ってください」
「…え…？」
「私は、ただ確認をしただけです。処置はすべて、ケトがやってくれました。彼に任せておけば大丈夫です。ですから……」
と言いながら、レィミアの革鎧へと視線を移す。
「…まずは身を清めなさい。それから、何か少し飲むと良いでしょう」
剣の手入れも必要なのでは？ と言われ、レィミアは自分の体を見下ろした。
（……あ…っ……）
身に着けている薄茶の鎧は、乾いて赤黒くなった血の跡が点々と付いて、まだらに染まってしまっている。それは返り血か、あるいは、抱えて運んだ時についたルゥアの血なのか、いずれにせよ、このままでは革が傷んでしまう。それを言うなら剣もそうだった。ざっと血を拭っただけで。
剣も鎧も貴重な品なのだ。故に、巫女達には、己の技を磨くのと同じように、それらの手入れをし、戦いに備える事が求められる。
まして。今は平時ではない。
いつ次の戦いが始るともしれない状況下なのだ。
勿論、ルゥアを心配すること自体は、悪いことではない。けれど、自分がここに立っていたところでルゥアの容態が良くなる訳では無いのだ。怪我の治療は、医薬の智に携るモノにしかできない。だからこそ、自分達巫女が技を磨き剣や鎧の手入れをするように、ズァインやケトは常日頃から薬草を摘んでは加工し、怪我を負ったモノを少しでも早く確実に癒せるよう、備えているのだ。
そして今。
ケトは、ルゥアの手当てをしてくれた。
ズァインもまた、駆け付けてきてくれた。
それなのに。
その間、自分は何をしていたのか？
ケトやズァインが己の成すべきことを果たしていたというのに、自分ときたら、ただここに突っ立っていただけではないか…と、レィミアは恥ずかしく思う。
「…は…はい、そうしますっ……」
顔を赤らめ、慌てた声で応える。
そのレィミアへ軽く頷くと、ズァインは踵を返し、足早にその場を後にした。

遠ざかっていく紺青の衣に包まれた痩身の背を見送り、レィミアは唇を噛んだ。
（……私……きっと、呆れられちゃった………）
首元に着けた石に触れる。右の翼をあしらわれた、滑らかな水色の石。かつて、姉が身に着けていたそれは、天の三剣姫の一翼を担っている印。それは即ち、一族三強のひとりたる証だ。
これを身に着ける自分を、ズァインは、どう思っているのだろうか？
これを身に着けるのに相応しくないと、思われているだろうか？
（そう…よね……）
レィミアは低く呟く。自分だって、自分がこの証に相応しいとは思っていないのだ。
（…それは…わかってるわ……）
誰も口に出しては言わないけれど、きっと、皆だって、そう思ってるに違いない。
だからこそ、しっかりしなくてはと思い、精一杯やって、何とか…姉には遠く及ばないまでも…それなりに、務めを果たせていると、僅かなりとも思えるようになってきた。今日も、隊を率いて戦って、与えられた任を果たすことができて、少しだけ自信が持てたような気がしたのだ。
しかし。
ズァインの前に出ると、そんな僅かな自信も、一瞬で消え失せてしまう。あの緑の瞳に見詰められると。
（……ズァインは…きっと……）
この自分に姉の姿を重ね、そして、遠く及ばない有様に苛立っているだろうと思う。それなのに、そんな素振りも見せず、ただ黙っていて。先刻も、こんな時だと言うのに、何もせず、ただぼんやりと立っていただけの自分に呆れ怒っていただろうに、成すべき事を指摘してくれただけだった。その口調は淡々として、怒りもさげずみも無く、静かで。
（……ズァイン……私……）
いつの日か、この証に相応しい巫女になった…と、そう思って貰えるだろうか？
（…いつか…私を……）
低く呟いて首を振り、レィミアは歩きだした。
己の成すべき事をするために。

治療用の天幕が設えられている区画を抜け、急ぎ足に数分ほど歩くと、そこは、リヤンナ隊の作る最終防衛線だ。
暫く前、ズァインが、ハジスを筆頭とする隠されし刃の一族の面々と共に着いた時、周囲に満ちていた物々しい雰囲気は、今は無い。
（…ということは……）
どうやら前線の戦闘は決着したらしいな…と思う。
（そういえば……ハジス達は、どうしたかな？）
ここに着くなり『重傷を負ったモノが居る』と聞かされたので、リヤンナ隊の面々にハジス一行を紹介する間も無く、治療用の天幕へと走ったのだ。リヤンナが隊に合流していたのであればいいが、そうでなければ、双方とも戸惑ったことだろう。
（リヤンナ隊の補佐役か誰かが、ちゃんと、ハジスにも前線からの情報を伝えてくれてればいいんだが……）
そうでなければ、状況が判らずに前線まで行ってしまったかもしれない。そう思いつつ、ズァインはハジスの姿を探して辺りを見まわした。

探すまでもなく、ハジスは見つかった。
陣の西端。
そこで、何人かのモノ達と一緒に話をしている。そのハジスの横に、見覚えのある神官を見つけ、ズァインは目を瞬かせた。
（…あれは……？）
額に、紅く染めた革紐に小さな紅石を編み込んだサークレットをした、金茶の髪の神官。それは……
（……ロレン…？）
呟いて目を凝らし、頷く。確かにそれは、レィミア隊の補佐役を務める、ロレンに間違い無いかった。
（ロレンが戻ってるということは、レィミア隊は、全員が引き上げて来ている筈だな……）
にもかかわらず、治療用の天幕へは誰も運ばれて来なかった。つまり、重傷を負ったのはルゥアだけで、その他のモノの怪我は、軽いものだったのだろう。
（……よかった……）
ズァインは、ほっと息を吐いた。

「…よぉ……どーだった？」
近付いてきたズァインを見つけ、真っ先に声を掛けたのは、ハジスだった。
「だいぶ深手だった…てぇ話じゃないか……」
気遣わしげなハジスの声に、ズァインが軽く頷いて答える。
「大丈夫でした。私が行くまでも無く、ケトが処置を終えてましたから」
その言葉に、ハジスが軽く息を吐いてロレンを見遣った。
「よかったな…」
「えぇ」
ロレンがほっとした笑みを浮かべる。それへ頷きつつ、ズァインは言葉を継いだ。
「隊に戻れるようになるまでには、多分、数ヶ月はかかると思います。詳しいことは、ケトに尋ねてください」
「ありがとう、ズァイン。ケトにも、あとで良く礼を言っておくよ」
その二人のやりとりに、ハジスは、思わず耳を疑った。
（……な……？ 隊に戻れるまでに数ヶ月…って、おいおい……マジか…？）
信じられない、と唸る。
先刻、ロレンという神官から聞いた話からすると、件の巫女の怪我は、かなりの深手のようだった。命を落とさずに済めば良い方だろう…と思ったのだ。
それなのに。
（隊に戻る…ってことは、戦えるようになる…ってことだよな？）
思わず、まじまじとズァインを見てしまう。
静かな深緑の瞳。灰色の髪を後ろで束ね、瞳と同じ深緑の石を埋め込んだサークレットをして。年の頃は、恐らく、自分と大差ないくらいだろう…とハジスは思う。
（治せる…てぇのか……。そんな、酷い怪我でも……）
不意に、先刻の一件を思い出す。
傷薬の製法が違う、こんな保存方法では駄目だ…と言って怒った時の剣幕を。それから、薬作りを担当する専任のモノがいないと聞いて、呆然とした様を。
（……なる…ほど……）
怪我をした巫女の様子をロレンから聞いて、自分は、命が助かれば良い方だろうと思った。けれど、その巫女は完治するという。そして、そのことをロレンが驚いている風は無い。
（なるほどな……）
ハジスは内心で呟いた。
戦うモノだけでなく、それを支えるモノが居る。怪我の治癒を専門とするモノが居る。
そのことの意味が、判った気がする。
（………）
その時。ハジスの脳裏に、ふと、ひとりの男の姿が浮かんだ。
やっと一人前になったばかりのその男は、半年ほど前の戦いで、酷い怪我を負った。辛うじて一命は取りとめたものの、未だに傷が痛み、時には熱を出すこともあり、起き上がれないままでいる。
（……もしかして……ズァインなら………あいつを……）
何とかしてくれるかもしれない。治すことはできなくても、せめて、少しでも楽にしてやれる方法を、知っているかもしれない。
（後で…ちょっと落ち着いたら、訊いてみよう……）
低く呟いて、ハジスはひとり頷いた。

「ところで……」
ズァインとロレンの話が途切れたところで、ハジスは口を挟んだ。
「…これから、どうする？ とりあえず、ここの防衛線はウチの二番隊が預かる事になったんだが、その他をどうするか…ってのを相談する必要があると思うんだが……」
襲撃してきた魔の下僕達は撃退され、現在、戦闘は行われていない。勿論、退いていったモノ達が、援軍を連れて、再び襲ってくる可能性はあるから、引き続き警戒は必要だった。
しかし。いや、だからこそ、今のうちに体勢を整えておく必要があるだろう…とハジスが言う。
その言葉にロレンが深く頷いた。
「そうだね。僕も、その方が良いと思う。何はともあれ、御互いの連絡をどうやって取るかを決めておかないと……」
自分達が得た情報が隠されし刃の一族に伝わらないのも、その逆も、双方にとって望ましくない。
「とりあえず、本陣へ行きましょう。ラダトも、リヤンナも、そこに居る筈です。クゥ・リスィアも……」
ズァインが言い、ロレンが頷く。
「それがいいだろうね。……僕は、隊と合流するよ。ルゥアの容態を、皆、気にしてるだろうからね」
じゃあ…と言うと、ロレンは軽く手を挙げて踵を返した。
その背を見送り、ズァインがハジスを見遣る。
「それでは……私達も、行きましょう」
「おう」
ハジスが応じ、そして、二人は本陣へと向かった。

陽は、ゆるやかに傾き始めていた。

名を忘れ去られた山の中腹にある、隠されし刃の一族の居住地。そこは、少し前までの喧騒が嘘のように、しんと静まり返っていた。
樹々の馨りを含んだ風が、シーアの茶の髪を撫でながら、ゆっくりと吹き過ぎて行く。
さやさやという枝の葉が鳴る音。
鳥の囀り。
微かな羽音。
それを聴くとも無く聴きながら、シーアは手に持った碗から熱い茶をすすった。
サージャの煎れてくれたその茶は、仄かに苦く樹の馨がする。それは、いつも、リスィアと一緒に飲むものとは、まるで違った味だった。
リスィアが煎れてくれる茶は、どちらかといえば甘く、草花の柔らかな馨がする。ここ暫くで、すっかりその味に馴染んだシーアにとって、だから、この茶はひどく新鮮に感じられた。
（……なんていうか…ハジス達の雰囲気に、すごくあってるよな……）
口をつけた瞬間、舌先に苦みを感じて最初は戸惑う。けれど、それも一瞬のことで、クセがあるけれど爽やかな味は、何となく元気が出てくるような気がする。
もう一口飲んで、空を仰ぐ。
樹の梢に縁取られた、青い空。
うっすらと漂う、細い白雲。
さんさんと降り注ぐ、金の陽光。
（…西は……あっち…かな？）
目を細め、西…と思われる方角…を見遣り、シーアは唇を噛んだ。
その下で戦いが行われるとは思えない、青く澄んだ西の空。蹄の音も、馬の嘶きも、剣戟も、ここからでは、当然のことながら、全く聞こえない。
（大丈夫…だよな……？）
低い呟き。
（……大丈夫だ。きっと……）
リスィアによれば、彼女の一族のモノ達は皆、幼い頃から、様々な武術を教えられているのだという。その中でも特に才を認められたモノが、巫女となるのだ…と。
そして。
先陣を切っているレィミアは、それらの巫女達の中でも、極めて優れた剣の使い手なのだという。
（そう…だよな……）
シーアは、ここへの旅の途上、何度か、リヤンナの練習を見せて貰ったことがあったが、何度見ても、あまりに見事なその剣捌きに、ただ呆然とするばかりだった。
ところがリヤンナは、目を丸くするシーアに、笑いながら言ったのだ。
『これくらいで目を丸くしてたら、レィミアが舞うところを見たら、目が落ちちゃいますよ』と。
レィミアは強い、とリヤンナは言う。ラィラや、ズァインや、その他のモノ達も。
（いや、レィミアだけじゃない……）
リヤンナも、ラィラも、ズァインも、他の誰も彼も、皆、強い。
そして、リスィアも。
（…一番弱いのって…多分…いや、絶対…俺だ……）
ハジスに、まるで歯が立たなかった自分。
そのハジスを、難なくあしらったリスィア。
（凄い…よな……）
目を閉じれば、リスィアの手に握られた長剣が、鮮やかに宙を滑る様がまざまざと思い出せる。
重い筈の、その長剣。
自分の剣だから、その重さは、シーアにはよくよく判っている。
それなのに。
まるで草の葉でできているかのように軽々と舞う、自分の剣。
長い銀絹の髪が、ふんわりと宙に踊って。
（……リスィア……）
強くなりたい…と、シーアは思う。
勿論、今からどんなに練習しても、リスィアのように自分の剣を扱えるようにはならないだろう。レィミアにもリヤンナにもラィラにも、戦う要員ではないズァインにさえ、太刀打ちできるようになれないだろう。
当然のことながら、前線に出て戦うなど許可しては貰えまい。未熟なモノが前線に出れば足手まといになるだけだし、そんな自分を護る為に、誰かが危険な目に遭うかもしれない。
それでも。
（……強く…なりたい……）
戦いになれば、自分は、こうやって皆の無事を願うことしかできない。
それは、今も、そしてこれからも、変わらないだろう…とシーアは思う。
純粋に『戦う』ということに関して、自分は、何の役にも立てない。つまり『勇者』に求められていることは、それでは無いのだ。
だから、自分が強くなる必要は、多分、無い。
（…それでも……）
皆と一緒に戦いに出られるようになる為に、そんな日は来ないと判っていても、それに少しでも近付く為に、強くなりたい。
そうすれば、今よりももっと、皆の強さが判るに違いない。
（……そうしたら……）
今よりももっと、皆の強さを信じられるような気がする。
信じること。
強く、信じること。
多分それが、自分がしなくてはならないことなんだろうと思う。
だから。
（…強く…なりたい……！）
そう呟き、シーアは空を見詰めた。

「…ま……さま……しゃ…さま……」
（……？）
何やらキンキンした声が聞こえたような気がして、シーアは目を開いた。
「勇者さまっ！」
「…あ……サージャ…？」
目を擦り、目の前に立つ赤毛の少年を見上げる。
「目、覚めましたか？」
「あ…あぁ…」
頷きながら見回せば、そこは、先刻まで座っていた樹の下ではなく、住家の中の寝台の上だった。
誰かがここに運んでくれた筈なのに、それに気付かない程、寝入っていたらしい。
「…俺…だいぶ寝てた……？」
おずおずと問うシーアに、サージャが頷く。
「はい。でも、お頭にあれだけやられたんじゃ、無理もない…って思いますよ」
「そう…かな……」
（…それにしたって……）
皆が戦ってると言うのに、呑気に寝てたとは……とシーアは溜息を吐いた。

外に出て空を仰げば、太陽は、既に中天を過ぎていた。夕方というには早い時間だが、それにしても大分長い間眠ってしまったらしい…と、シーアは再び溜息を吐く。
「勇者様、こっちへ……」
サージャに案内され中庭に着くと、そこでは、火を囲んで一同が食事をしていた。
二人の姿を認め、火の傍に居た大きな男が手を挙げる。それは、三番隊隊長のディサレだ。
「よぉ、御目覚めか？」
こっちへ来い…との言葉に従って傍に行き、促されるままシーアはディサレの隣に座った。
「まぁ、食え」
串に刺した肉を渡され、受け取る。
こんがりと焼かれた肉の香ばしい匂いに、シーアは、自分が空腹であることに気付いた。考えてみれば、朝、山に登る前に食べたっきりなのだから、空腹なのは当然だった。
けれども。
（……皆が戦ってるって時に…俺、こんな呑気にしてて…いいのか？）
ぐっすり寝て、起きれば食事をする。
こんなことで良いのだろうか？
串を握ったまま沈黙してしまったシーアに、ディサレが声を掛ける。
「どうした？ 食えよ。腹へってるだろ？」
「あ…ああ……」
歯切れの悪い返事。
ディサレは苦笑した。
「あのな、シーア。食える時に食う、休めるときに休む、これも重要なことなんだぜ？」
「……？」
目を瞬かせるシーアに、ディサレは言葉を続けた。
「お前がここでモノを食わずに居ても、前線で戦ってるヤツ等の足しにゃ、ならないんだよ」
「…………」
「戦いに行ったヤツ等が疲れて帰ってきた時、残ってた俺達まで疲れてたんじゃ、どーにもならない。それじゃあ、そいつ等の世話をしてやることも、代わりに戦いに出ることも、何もできない。ちがうか？」
「…あ……」
シーアが目を瞬かせ、ディサレを見る。
「いいか？ 俺達の戦力は、限られてる。お前だって、いざという時は戦わなきゃならないんだ。どんなに弱かろうと、居るのと居ないのとじゃ大違いだ。その為にも、食えるときに食って、休めるときに休んでおくんだ」
判ったか？ と言うディサレに、シーアは大きく頷いた。
（そう…だ……）
できない事を思い悩む暇があったら、できることをすべきだ。
（…今の俺にできることは……）
体を休め、モノを食べ、備えること。それ以外に無い。
「何をするにも、まずは、食うことだ。だいたい、『勇者様』がヘロヘロしてたんじゃあ、皆だって気合が入りゃしないぞ……ほれ」
もう一本、肉汁の滴る串を差し出される。それを受け取り、シーアは勢い良く肉に齧りついた。

「なぁ、シーア。お前の剣、ちょっと見せて貰っていいか？」
食べるだけ食べ、食後の茶を飲んで人心地ついたところで、ディサレはそう言った。
「え…？」
突然の言葉にシーアが首を傾げ、そして、頷く。
「いいけど……？」
「悪いな」
シーアが傍らの剣を取って差し出す。それを受け取り、ディサレは立ちあがった。
鞘から抜き、しげしげと見、構える。
沈黙。
「………重いな…」
呟くように言い、ディサレは切っ先を下ろした。
鞘に収め、シーアに返す。
「……？」
不思議そうな表情のシーアにディサレは苦笑した。
「…いや、その…な。姐さんが、あんまり軽がると振るうもんだから、どんなもんだろうかと…思ってな」
ひょっとして、見かけより軽いのかと思ったが、そういう訳じゃないんだな……と溜息を吐く。
「つくづく…凄いな……」
「…ああ……」
「……にしても、シーア。お前、なんだってこんな剣を使ってるんだ？」
その体格では、長剣を使いこなすのは難しい。もっと短い剣を使えば良いのに…と言うディサレに、シーアは手に持った剣へと視線を落とした。
「これは……この剣は、父さんの剣…なんだ……」
もう、随分昔に死んでしまった父。その父が使っていたものなのだ、とシーアは言う。
「父さんは、これで…この剣で、俺と母さんを……守ってくれてた……」
「ほぉ……」
ディサレが目を瞬かせ、そして、頷く。
「なるほどな。……しかし、その剣が使いこなせてたんだとしたら、お前の父親は、たいした使い手だったんだな」
「……ああ……」
低く、シーアが答える。
「…よく覚えてないけど……でも……」
ぎゅっと剣を握り締めて。
「……父さんは、強かったよ……」
強くて大きい。ただその印象だけが、鮮明に残っている。
「…ってコトは、だ」
不意に、くしゃ…っと髪を撫でられ、シーアは目を丸くした。
「お前にも素質はある…ってコトだな」
「…え？」
「基礎がなってないからな、今からやって、どのくらいモノになるかは判らないが……」
勇者が自分の剣もまともに扱えないのでは、格好がつかないし……とディサレが呟く。
「ホントは姐さん達に教わる方がいいんだろうが、あれはちょっと優雅すぎて、お前にゃ無理だろうからな……」
いや、俺達にだって無理だが…と呟き、そして、ディサレはシーアの目を覗き込んた。ニッ…と笑って問う。
「強くなりたいか？」
「も…もちろんっ」
「よし。んじゃ、ちょいとハジスと相談して、誰かがお前に剣の扱いを教えるように手配しよう」
「ありがとうっ……」
礼を言うシーアに、ディサレは笑って言った。
「なに、俺達だって、『勇者様』に、そこそこ強くあって貰わないと困るからな。何しろ、戦力は限られてる。お前が自分の身を守れるようになることには、意味がある」
だから、やるとなったらびしびし鍛えるから、覚悟しとけよ…と言うディサレに、シーアは大きく頷いた。

一応の打ち合わせを終え、ハジスとラダトは本陣の天幕を出た。
太陽は、かなり西に傾き、風に夕暮れの気配が漂いはじめている。
徐々に暮れつつある空。その下を、ハジスとラダトは並んで歩く。
ただ、黙って。
やがて、本陣から十分に遠ざかったところで、ハジスが口を開いた。
「……どう…思う、ラダト？」
「どう…って、何がです？」
気の無い調子の言葉に、ハジスが苛立たし気に声を荒げた。
「何が、じゃないだろう？ 西だ。あいつらは……西に行っている……」
「それで？」
相変わらずの調子で答えるラダトに、ハジスが歩を止める。けれど、ラダトはそのまま歩き続け……
「ラダトっ！」
怒気を含んだハジスの叫びに、ラダトはやっと足を止めた。
「だから何だ…ってんですかい？ お頭」
振りかえりもせずにラダトが言う。
「…西が、どうかしたんですかい？」
「……ラダト、お前……」
だって、西だぞ？ と言うハジスに、ラダトがくるりと振りかえる。そして、言った。
「それが何か？」
「………」
ハジスが、困惑した表情でラダトを見る。
沈黙。
呆然と立ち尽くすハジスを見詰め、ラダトがゆっくりと口を開いた。
「……茜の西空より舞い下りし魔、樹々を焼き岩を砕き、天地は朱に染まる……」
「…っ！」
ハジスが目を丸くし、そして、飛び付くようにラダトに駆け寄ると、その胸倉を掴んだ。
「ラダト、お前っ！」
その詩は禁忌の詩だ。誰もが知っているけれど、しかし、軽々しく口にしてはならない詩。
この山麓に生まれ育つ総てのモノが必ず聞かされるこの詩は、総てのヒトにとっての恐怖をうたった詩だ。
ヒトの恐怖……即ち、魔の襲撃。

この山麓に襲撃をかけてくる魔の下僕達は、常に、西から来た。
そのことが何を意味するかを、どうして考えずにいられるだろう？
魔の下僕達は、いつも西から来る。
それは即ち、西に、ヤツラの拠点がある…ということではないのか？
もしそこを叩くことができれば、ヤツラの襲撃を、永久に…とはいかなくても、かなり長い間…無くすことができはしないか？
そう考えることをせずに、いられるだろうか？
そして、それを試みずにいることが、できるだろうか？
山麓に生きるヒト達を護りたいと、そう思っているモノ達が。

それは、いつとは知れない昔のこと。
時の頭領は、西の平原の向こうに、魔の下僕達の拠点があることを付き止めた。
それから何年もの準備期間を費やし、ある計画を実行に移したのだ。
魔の下僕達の拠点へと、こちらから攻撃をかける計画を。
しかし。
遠征隊が出発して、数日後。
西の方角から、突然、魔がやってきた。
山も、村も、炎に包まれ、ヒトはただ逃げ惑うしかなかった。
魔を相手に、ヒトの身で、一体、何ができるだろう？
多くのヒトが死に、多くの動物達も死に、多くの樹や草が焼き払われた。

遠征隊は、帰らなかった。
生き残ったヒト達は、必死で村を再建した。
僅かに残った留守居役の『隠されし刃』達は、魔の下僕達の襲撃を…多大な犠牲を出しながら…辛うじて食い止めた。

以来、西へ行くことは禁忌とされた。

「西は…西は、マズイだろ……」
呟くように言うハジスに、ラダトが問い返す。
「だから、何故ッスか？」
「何故…って、ラダトお前……」
絶句するハジスを見詰め、そして、ラダトはふぅ…っと息を吐いた。
「『西』は禁忌。西へ行けば『魔』が来る……ッスか？」
何か言い返そうとしたハジスを、ラダトが片手を挙げて制する。
「いーッスか、お頭。俺たちゃ『勇者』と『天地珠の巫女』と共に戦うことにしたんッスよ？ 世界を取り戻す為に。それはつまり、『魔』と戦おう…って話ッスよ？」
「……あ……」
言われ、ハジスは息を呑んだ。
「それなのに、今更、西は禁忌だの、魔が来るだの、だから何だってんですかい？」
（…そ…うだ……）
確かに、そうだった。
あのとき、自分は言ったではないか。『ヒトが『魔』に勝てるかどうかなんて、自分にはまるで判らない。それでも、戦い続けている限りは、『負け』と決まってしまう訳じゃ無い』と。
（…俺は……）
自分は、『魔』と戦うと言った。
確かにそう言った。
その時の気持ちに嘘は無かった。
『魔』を倒さない限り、この世界が変わることが無いのは確かで、だから、『魔』と戦うしかないのだと……
だが。
その時の自分は、この詩のことなど、これっぽっちも思い出さなかった。幼い頃に聞かされたこの詩が恐くて、恐くて、それを忘れよう…思い出さないようにしよう…と、そう思っているうちに、本当に忘れ去ってしまっていたのかもしれない。
（どう…したら……）
どうしたらいいんだ？ とハジスは思う。

『茜の西空より舞い下りし魔、
　樹々を焼き岩を砕き、
　天地は朱に染まる。
　ヒトはただ、逃げ惑うばかり』
ハジスが初めてこの詩を聞かされたのは、七つの時だった。
他のモノ達も、そうの筈だ。
この山麓に生まれたモノは、男も女も、七つになると、この詩を教えられる。
何があろうと、西へ行くことの無いように。
詩の描く魔の襲撃の恐ろしさとともに、それは、心の奥深くに刻み付けられて……

（俺は……）
自分は、禁忌に触れようとしている。
そのことに気付き、ハジスは愕然とした。
（…俺は…頭領として、間違った決断を……した…のか……？）
かつて、禁忌の西を侵し、一族と山麓に住むモノ達の殆どを死なせた、あの時の頭領と同じように？
（けど……このままじゃ……）
このままでは駄目だと、このまま、ただただ防戦するだけでは、いつの日か一族は消えてなくなり、護るモノの居なくなった村は魔の下僕達に抗すこともできず、そうやって、滅びの時が来る。
このままではいけない。何かをしなくてはならないと思った。この世界の在り方を変えなくてはならない…と。
だからこそ、『世界をヒトの手に取り戻す』と言う勇者と、共に戦おうと思ったのだ。シーアなら、ひょっとすると、できるかもしれない……と。
たとえ、魔を相手にしようとも。
そう思った気持ちは、間違いなく真実なのだ。
（けど……けど、俺は……）
自分は『隠されし刃』の一族の頭領で、一族全員と、山麓に生きる総てのモノに対する責任を負っているのだ。
その自分が、それらのモノ達を危険にさらすようなことをして、良いのか？
一族のモノ達を、およそ勝ち目の無さそうな戦いに駆り立てても、良いというのか？

「ハジス…」
不意にそう呼びかけられ、ハジスはハッとした。
「…ラ…ダト…？」
ラダトがハジスのことを名前で呼ぶことは珍しかった。いや、かつてハジスが頭領になる前は、勿論、そう呼んでいた。けれど、ハジスが頭領に就いて以来、ラダトは、皆の前でも二人きりの時でも、常に『お頭』と呼び、名前で呼ぶことは滅多に無かった。
「いいか、ハジス……」
戸惑った様な目をするハジスを見据え、ラダトはゆっくりと言葉を継いだ。
「俺は、俺達は…いや、俺達が、お前を頭領に選んだ。そのお前が、勇者と共に戦うことを選んだ。だからこれは、俺達が全員で決めたことだ。それに……」
とラダトが言葉を継ぐ。
「…お前は、ちゃんと、俺達に尋いたじゃないか。『お前達はどうする？』ってな」
「それは…それはそう……だが……」
「これまでだって、たくさんのヤツが死んでった。最少の被害で目的を果たす為に、あえて誰かを犠牲にしてもきた」
「………」
目を細め、ラダトが西に傾く太陽を見る。
「…けどな、ハジス。『刃』たることを選んだ以上、それは皆、承知の上だ」
「ラダト……」
「……『このままじゃヤバイ。このまま、ただただ防戦を続けても、いつか続かなくなる時が来る』そう思ってたのは、何も、お前だけじゃないんだぜ？」
「…え？」
思わず目を瞬かせるハジスに、ラダトはくくっと笑った。
「他のヤツラだって、皆、多かれ少なかれ、そう思ってはいたさ」
だからこそ、『勇者と共に世界を取り戻す為に戦う』というのに賛同したのだ、とラダトは言う。
「…そう……なのか……」
「そーなんだよ、ハジス。けど、アレコレ言ってお前を悩ませるのもナンだし…ってんで、誰も表立って言わなかっただけさ。そんなコトを言わなくったって、お前が考え込んでるってのは、皆、知ってたしな」
俺達は、とっくの昔に、お前の決断に付いてくと腹を決めていたんだ…と、ラダトは笑って言った。
「じゃなけりゃ、お前を頭領に選んだりしない」
「………」
「…どーした？」
がっくりと肩を落とすハジスに、ラダトが首を傾げる。
「……した……」
「は？」
「……悩んで損した……」
ハジスが、恨めし気にラダトを睨む。それへ、ラダトはぷっと吹き出した。
「……なんだよっ！ 俺は、真剣に…っ」
「わーった、わーった」
「ラダトっ」
「そう睨むなよ、ハジス。それが、頭領の仕事なんだから……」
全員が悩んでても仕方が無い。けれど、誰も悩まないのも困りモノだ。だから。
「お前がちゃんと悩んでるから、俺等は安心して付いてけるんだ」
「………」
はぁ、とハジスが息を吐いて。
「……わかった……」
もういい…と言って歩き出す。
その背にラダトが声をかけた。
「…ハジス……」
「……？」
いつになく固い口調。
ハジスがゆっくりと振り返る。
それを見据え、ラダトは言葉を継いだ。
「ハジス。ついでだから、ひとつ言っとくぜ。……もし、一族が全滅するのなら、最後に死ぬのは、お前じゃなけりゃならない。……わかってるな？」
そうでなければ、お前は、頭領として一族に対する責任を果たしたことにならない。
「………」
ハジスが黙ってラダトを見返す。
長い沈黙。
そして。
「……あぁ」
判ってる、とハジスは頷いた。
ラダトがニッ…と笑って。
「…それを聞きゃ安心ッスよ、お頭」
「ラダト……」
ハジスの肩をぽんっと叩き、そして言葉を継ぐ。
「んじゃ、俺はちょっと本陣へ戻るッスから」
「…？」
訝しげな目をするハジスに、ラダトが肩をすくめる。
「禁忌の『西』の話、姐さん達の耳には、一応、入れといたがいいんじゃないッスか？」
この話が、実際のところ、どこまで本当なのかはともかく、こういう話があることは教えておくべきだろう…とラダトは言う。
「そう…だな……」
確かに、とハジスは頷いた。
「…知ったことで起きる問題より、知らないことで起きる問題の方が、えてして、厄介なモノ…と言うしな」
「んじゃ、そゆことで……」
「ああ、頼む」
ハジスの言葉に軽く手をあげ、ラダトが本陣の方へと戻っていく。
それを見送り、そして、ハジスは西の空を見遣った。
徐々に暮れ行く茜の空を。