小さな丘の手前にある林に辿り着いたところで、レィミアは軽く手を挙げて、自分に従う一隊に停止を命じた。
それに応え、全員が速やかに馬を止める。そして、沈黙のうちに各々の装備の点検にかかった。
出発前に打ち合わせた通りの行動。
その様子にさっと視線を走らせて頷き、一隊から少し離れる。そして、するりと馬の背から降りると、レィミアは背後の山を振り返った。
陽光に照らされた、山。
そこでは、今頃、『隠されし刃』の一族のモノ達との会見が、行われている筈だ。
何代も前に袂を分った、かつての同族との、再会が。
（彼等は…何と答えるのかしら…？）
『共に戦って欲しい』という、勇者の言葉に。
ごく普通に考えれば、承知する訳が無い。ヒトの身で『魔』に抗そうなど、正気の沙汰とは思えないだろう。
けれど。
そのモノ達は、この山麓にある村々を護ってきたモノ達なのだ。
魔の下僕となったヒト達の襲撃に抗して、戦い続けてきたモノ達なのだ。
（そうよ……勇者シーアは……）
シーアは言ったではないか。
『きっと一緒に戦ってくれる』と。
（…姉さま…いえ、クゥ・リスィアだって……彼等は、私達と同じ想いを持っている…って、そう言ったもの……）
だから大丈夫…と、レィミアは呟く。
（…大丈夫……。だから、今は……）
今は、自分の成すべき事をしなくては…と。
こちらに近付きつつある魔の下僕達を撃退し、麓の村を護ること。
それが、今の自分の成すべきことだ。
きゅっと唇を噛み、首元に着けた石に触れる。
右の翼をあしらわれた、水色の石。かつて姉が身に着けていたそれは、一族の中で最も優れた剣技を有する証であり、戦えぬモノ達を護る責を負っている印だ。これを受けることは、一族の巫女達の目標であり、憧れでもある。
（……姉さま……。姉さまにはとても及ばないけど……でも……）
滑らかな石を指でなぞり、レィミアは山を見上げた。
決意を込めて。
と。
「レィミア……」
背後から聞きなれた男声がして、振り返る。
そこに居たのは、短く切った明るい金茶の髪に薄青の瞳の神官だった。額には、紅く染めた革紐に小さな紅石を編み込んだサークレット。それが、彼が、世界についての情報を取り扱う任に就いているモノであることを示している。
「……ロレン」
それは、レィミアの補佐役であり、一隊に属する神官達の取りまとめ役の……そして、レィミアの義兄でもある……ロレンだった。

レィミアには、リスィアの他に、もうひとり、姉がいた。
レリアス家の長女、エレィア。
もっとも、１０歳以上も年が離れている為に、レィミアにとってのエレィアは『姉』というより『もうひとりの母』という感覚に近い。
ロレンは、その姉エレィアの幼馴染であり、つれあいだ。二人は、レィミアが物心ついた頃から共に居た。だから、エレィアを母のように感じるレィミアにとって、ロレンは、父のような存在であった。
エレィアとロレンの方でも、この、年の離れた妹を、娘のように思っていた。
『地の三賢師』の一枝を継ぐモノの候補に挙げられていながら、エレィアとの結婚を期に『妻子と常に一緒に居たいので』と言って神官の列から退いたロレンが、再び、神官の列に戻ったのも、その妻子を里に残してまでこの旅に加わっているのも、ひとえに、『娘』であるレィミアを心配するが故なのだ。

リスィアが、今生の生を捨てて天地珠の巫女となることを宣言した夜、レィミアは二人のところへやってきて、一晩中泣き続けた。
その翌朝。
夜明けとともに神殿から使者が来て、レィミアに、リスィアの後任として『天の三剣姫』の一翼を担って欲しいと告げた。天地珠の巫女が導く『勇者』。その剣たる『天の三剣姫』の一翼となるのに相応しいモノは、レィミア以外に居ない。儀式の準備は整っているから、すぐに来て証を受け取り、そして、旅立ちに備えて欲しい…と。
なんて事を…と、二人は憤った。
姉を失って悲しむレィミアに、戦えと言うのか？ 今すぐに？ しかも、その姉と同じ姿をした、天地珠の巫女と共に？
ところが。そう抗議する二人を止め、レィミアはその任を受けることを承諾した。
姉が、今生の生を捨ててまで世界を取り戻そうというのなら、自分も、姉の願いの為に戦いたい。少しでも、姉の役に立ちたい…と。
神殿へと向かうレィミアを見送り、そして、エレィアは言った。
『お願い、ロレン。あの子について行ってあげて』と。
本当は、自分が行きたい。けれど、身重の今、旅などとてもできない。だから、あなに頼みたい。
そう言うエレィアに、ロレンは頷いた。
『僕にとっても、レィミアは娘のようなものだ。僕が行くことが、どれ程あの子の助けになるかは判らないけれど、何か少しくらいは、できる事があるだろう……』
そしてロレンは、『地の三賢師』の一枝であり友人でもあるダナスを訪ねたのだった。

やってきたロレンに、開口一番、ダナスは言った。
『来ると思った』と。
そして、紅く染めた革紐に小さな紅石を編み込んだサークレットを差し出しながら、言葉を続けた。
『レィミア隊の補佐役に任じる』
ひょっとして、計算づくか？ と苦笑するロレンに、ダナスが、意地悪気な笑みを浮かべてみせて。
『根性の捻じ曲がっているお前の方が、地の三賢師を継ぐに相応しい…と言ったのは、誰だったかな？』
根に持つヤツだなぁ…と肩をすくめ、そして、ロレンはサークレットを受け取ったのであった。

「どうしたんだい？」
心配気にそう問われ、レィミアは慌てて首を振った。
「…なんでも…ないです。その……山の方では、そろそろ会見が始まるな…って思って」
そう言うレィミアに、ロレンは柔らかな笑みを向けた。
「そうだね……彼等の住家は山の中腹あたりという話だったからね……」
もう、着いている頃だろう…と頷きながら、僅かに目を細めて山を見遣る。
（……リスィア……）
仮に話がこじれて不穏な展開になろうとも、リスィアに限って、心配は無用だろう。リヤンナも一緒だし、更に、ズァインまでもが同行している。
それでも。心配せずにはいられないロレンであった。

自分を父とも兄とも慕ってくれるレィミアとは違い、リスィアは常に、自分との間に距離を取っていた。いや、自分とだけではない、姉であるエレィアとも、兄達とも、父母とさえも、幼い頃から距離を取っていた。
いつも一緒にいて、傍目からは仲睦まじい姉妹と思われていた、レィミアとの間にも。
エレィアは、リスィアがレィミアとだけは普通に仲良くする。自分だって姉妹なのに。などと言って拗ねたりもしていたが、ロレンの目から見れば、リスィアとレィミアの関係こそが、一番、姉妹らしからぬものだった。
まるで師弟のような雰囲気で。
そして、確かに、レィミアはリスィアの後を継いだ。
（リスィアは、一体いつから『天地珠の巫女』になる決意をしていたのだろう……？）
自分は、リスィアを小さい頃から知っていると言うのに、彼女が決意を明かすまで、そんなことを考えているなどとは、想像したことすらなく……
そう思い、そこで、ロレンは小さく溜め息を吐いた。
（こんなことを考えている場合じゃあ、ない……）
今、物事は激しく動いている。
ひとたび動き始めた物事というのは、それ自体がひとつの力だ。物事が動いている…という、その事実そのものが、別の何かを動かす力となるのだ。流れは流れを呼び、僅かな間に、驚くほど大きな変化が起きる。
それはまるで、濁流。
その流れに目を配り、行く先を見定め、皆が溺れることのないようにするのが、世界の情報を取り扱う任に就く神官の役目。己ひとりの思いに沈んでいる場合では無い。
（やれやれ……こんなことじゃあ、何をしに付いて来たのか判らないじゃないか……）
内心で苦笑し、ロレンは、ひとつ息をついた。

「レィミア」
改まった声音に、レィミアがロレンを見る。
姿勢を正して立つ様に目を瞬かせてハッとし、そして、きっちりと向き直ると、レィミアは問いを発した。
「斥候隊から連絡が？」
「はい」
務めを果たす神官の声。淡々とした、知に仕えるモノの、静かな声音。
「敵の進路は、ダナスの予想した通り…とのことです。但し、人数は予想より多い…と。恐らく、『隠されし刃』の一族のモノ達が、これまで、かなり酷い目にあわせてきたのでしょう……」
本陣への伝令は既に出してあります…という言葉に、レィミアは小さく頷いた。
「こちらの動きは、手筈通りで良いと考えます」
そこで口を閉じ、ロレンはレィミアの瞳を覗き込んだ。
「……大丈夫…だね？」
柔らかな口調。
「は…はいっ」
大きく頷くレィミアに微笑んで、ロレンは言葉を継いだ。
「頼りにしているよ、レィミア。でも、決して、無理はしないようにね。彼等は、これまでの相手と違って、抵抗されることを予期している。心の持ち方は、その戦い方を大きく左右するから……」
と、そこまで言って、ロレンは苦笑した。
「ごめん。そんなのは、僕が言うまでもなく、君には良く判っている事だったね」
「はい」
レィミアが笑う。
その頭を、そっと撫でて。
「ラィラ隊も動いているし、村の手前ではリヤンナ隊が最終防衛線を作ってる。ダナスは性格の悪いヤツだから、他にもアレコレと対策を考えてるだろう。だから、君が『もしも…』を気にする必要は無いんだからね」
むしろ、遠慮無くダナスの『対策』を無駄にしてやってくれ…と言うロレンに、レィミアはクスクスと笑った。
「ロレンって、ダナスと仲が良いのかと思ってたのに……」
「勿論、仲は良いよ。だからこそ、彼の『心配』が現実のものにならないよう、僕は、いつだって願ってるんだからね」
と、そう言ったところで背後から蹄の音がして、ロレンは振り返った。
肩に伝令の印をつけた巫女が、馬を駆って近付いてくる。
「……来た…みたいだね……」

巫女が二人の前で馬を止め、口を開く。
「報告。魔の下僕達の一隊が、“四の丘”にさしかかりました」
“四の丘”とは、斥候隊の報告を取り纏めて作った地図上での仮の名称で、レィミア達が今居る場所から見える丘の、一つ向こう側にある丘を指す。
「ご苦労。何か変わった点は？」
ロレンの問いに、巫女が首を振る。
「よし。では、そのまま本陣まで頼む」
「はいっ」
巫女が頷くと同時に、馬が駆け出して。
視界の端でそれを見送り、ロレンはレィミアを見遣った。
その視線にレィミアが頷き、ひらりと馬に乗って一隊の者達の前へと進める。
ゆっくりと響く蹄の音に、巫女達が次々と顔を上げて。
馬が止まる。
「みんな…準備は良い？」
巫女達が、沈黙をもって答える。
その様子を見回し、そして、レィミアは手綱を軽く引いて手を掲げた。
無言の合図。
『出撃』。
その瞬間、馬達の蹄が、一斉に地を蹴って。
解き放たれた流れのように、巫女達を乗せた馬は、前方の丘を目指して駆けだした。

名を忘れ去られた山の中腹にある、『隠されし刃』の一族の居住地。その一角に、今、何やら不穏な空気が漂っていた。
「これは、何ですか？」
冷ややかな声でズァインがそう問う。
その言葉に、ハジスは首を傾げた。

話がまとまった後、『とりあえず、シーアの怪我に処置をしたい』とズァインが言うので、ハジスは、くったりしているシーアを担ぎ、ズァインを、住家のひとつに連れて行った。それから、手近に居たモノに命じて、傷薬の入った壷と打身の薬が入った壷とを持って来させたのだ。
ズァインは、渡された壷をしげしげと眺めると、まず、片方の壷の蓋を開けた。暫し中を見詰め、次いで、手を入れて中味を指先に取る。指に取った軟膏をじっと見、匂いを嗅いで。
もう一つの壷にも、同じ事をする。
そして、この台詞が出てきたのであった。
「これは、一体、何なんですか？」
「何って……傷薬と打身の薬……だが？」
質問の意味が良く判らぬまま、ハジスがそう答える。
「……そうですか」
更に冷ややかな声音。
「あなた達は、これを……こんなものを使っていたんですかっ」
イキナリの言葉に目を瞬かせると、ハジスは、むっとしたように言い返した。
「…『こんなもの』って……なんだよ」
それを睨み返し、ズァインは噛みつくように言葉を続けた。
「『こんなもの』だから『こんなもの』と言ったんです。いいですか？ これは、簡易製法で作られたものです。時間の無い時などに使う、略式の製法です。それをこんな壷に入れてっ！ 普通の製法で作ってもそうですが、この製法で作ったものは特に劣化しやすいんです。保存するなら、もっと小さな壷に小分けにしなくてはいけません。だいたい、これを作ったのはいつなんですか？ 半年以上も前でしょう。こんなものを使っていたのでは、治る傷だって治りゃしませんっ！ あなたは……」
びしっ…と壷を指し、言葉を継ぐ。
「…あなた達は、こんなものを使ってて……っ！ 自分の怪我の治療に使う薬でしょうっ？ なのに、どうしてそれに無頓着なんですかっ！」
「えー…っと……？」
「戦うモノに怪我はつきものです。それは仕方が無い。だからこそ、きちんとした処置をする必要があるのです。些細な怪我も、処置を誤れば、後々まで痛むことにだってなりかねません。そんなことになったらどうするんですかっ。あなたの、あなた達自身の体なのですよ？ それなのに、こんなものを使っていて、良い訳がないでしょうっ！」
「…いや…その………」
物凄い剣幕で言いつのられ、ハジスはじりじりと後ろに退がった。
（一体…何だってんだ……？）
どうやら、自分達が質の悪い薬を使っていたことが、気に入らないらしい。だからといって、こんなに怒ることは無いだろう…とハジスは思う。けれど、そんな事を言おうものなら、更にマズイ事になりそうだ。
「わ…悪かった……」
宥めるように手を上げ、とりあえず謝ってみる。
「私に謝る必要はありませんっ」
「………」
じゃあ、どーしろってんだよ…とハジスが天を仰ぐのを睨み、そして、ズァインは息を吐いた。
「……後で、薬の製造を担当しているモノに会わせてください。ちゃんとした製法を説明しますから」
「………」
ハジスが、困ったように視線を宙にさ迷わせる。
それを、ズァインが、何か信じられないものを見るかのような目で見た。
沈黙。
そして、ズァインは静かに言った。地の底を吹きぬける風のような声で。
「……まさかとは思いますが、常任の担当者が居ない…と？」
ハジスが天井を見、床を見、壁を見、ズァインを見る。
「まあ…なんだ……。明日までには…誰か決めとくからよ……」
最早、怒鳴る気力も無く呆然とするズァインに、決まりが悪そうな笑みを向けて。
「あー…っと…その、外にラダトが居るからよ、何か要るモノがあったら、声かけてくれや……」
早口でそう言うと、ハジスは、急いで扉の外に出た。

持参してきた薬を使って一通りの処置を施し、ズァインは小さく頷いた。
「とりあえず、今は、これで良いでしょう……」
「ありがとう……」
シーアがそう言って、ほっと息を吐く。体のあちこちが妙な感じにスースーするが、痛みは軽減され、何となくサッパリした気分になっていた。
「どういたしまして」
ズァインがそっけなく応じながら、残った薬を取り纏める。それを横目に服を着つつ、シーアは内心で呟いた。
（……ズァインって……凄いよな……）
先刻までは、体中が痛くて、そのまま寝てしまいたい……けれど、多分、痛くて眠れないだろう……程だったのに、ズァインから手当てを受けた今、驚くほど楽になっていた。
（ほんと、凄い……）
けれど。
そう口に出して言うと、ズァインは困ったような怒ったような態度を取る。それが何故なのかは、シーアには良く判らないのだが、しかし、ズァインを困らせたり怒らせたりするのは本意では無い。だから、シーアは黙ったまま身支度を急いだ。

「よろしいですか？」
シーアがマントを肩にかけたところで、ズァインが問う。
「あぁ」
「では、行きましょう」
そう言ってズァインが扉を開けた、その途端、外に立っていたモノから声が掛けられた。
「ぃよっ」
声の主は、おさまりの悪いぱさぱさの黒髪に、黒い瞳の男だった。人懐こい笑みを浮かべ、言葉を継ぐ。
「大丈夫か？ 兄ちゃん」
「え…あ、あぁ。ありがとう……ラダト」
答えるシーアに、そりゃよかった…と頷き、そして、ラダトはズァインに視線を移した。
「さっきは助かった…ありがとな」
ズァインが不審気に眉をひそめて問い返す。
「…何か…？」
「ほれ、俺が投げたナイフを姐さんが剣で弾いて、それが、そこの兄ちゃんのトコに飛んでったの、防いでくれたろ」
そのラダトの言葉に、ズァインの瞳が剣呑な光を帯びた。
「……少々お伺い致しますが…ラダト殿？」
「は…？」
「『姐さん』というのは、ひょっとして、天地珠の巫女クゥ・リスィアのこと…でしょうか？」
陰々と響く声。
凍るような視線。
「ついでにもう一つお伺いしておきますが、『そこの兄ちゃん』というのは、勇者シーアのことで？」
あからさまに挑発的な言葉に、シーアが、慌てたようにズァインの衣の袖を引く。だが、ズァインは見向きもしない。
沈黙。
ラダトが目を瞬かせ、頭を掻いて溜息を吐く。
「……えーっと、まぁ…その……」
苦笑しつつ、頷いて。
「…ま、そゆコトなんだけども……。悪かったよ、失礼なモノ言いで。……とにかく、さっきは助かった。えーっと…クゥ・リスィア……が弾いた俺のナイフが、勇者シーアに当たりそうになったのを、防いでくれて……」
たいした腕前だ、感心した…というラダトに、ズァインがそっけなく応じる。
「私は、勇者の盾たる任を負うモノ。勇者を護るのは当然の勤めです。あなたに礼を言われるようなことではありません」
「…あ…あのっ！」
おろおろしながら様子を見ていたシーアが、そこで不意に口を挟んだ。
「…あの、えと…その、俺、普通に呼んでくれていいから…その……」
「シーアっ」
咎めるようなズァインの声に、シーアが焦って言葉を継ぐ。
「いや勿論『正式な場』じゃあ、ズァインの言う通りなんだと思うけどもっ。でも、それ以外の時だったら、俺…そんな仰々しい呼び方されない方がいいよ」
そこで言葉を切り、やや声を潜めて。
「……ズァインだって、普段は『シーア』って呼ぶじゃないか……」
「では、普段から『勇者シーア』と、お呼び致しましょう」
「ズァイン……」
シーアが恨めし気な目で見る。
それを、ズァインが冷ややかに見下ろして。
暫しの間。
そして。
ふいっと視線を逸らすと、ズァインは大きく溜め息を吐いた。
「……判りました。あなたのお好きなように、シーア。但し……」
「判ってるっ！」
最後まで言わせずに大きく頷き、シーアはラダトの方へと向き直った。
勢い込んで言葉を継ぐ。
「…俺のことは『シーア』で良いから。…っていうか、そう呼んで欲しいから。けど、その…リスィアのことは、『クゥ・リスィア』って呼んでくれ……」
そうじゃないと、色々マズイみたいだから…と、ズァインを横目で気にしつつ早口で言うシーアに、ラダトはニッと笑った。
「りょーかい……シーア……」
そう言うと、ひょいっとシーアの耳元に口を寄せ、お前、だいぶ苦労してるんだな…と囁く。
それへ、シーアは小さく首を振った。
「そんなこと無いさ…ズァインの方が、ずっとずっと苦労してるよ……」
（……ほぉ………）
しげしげとシーアを見、なるほどな…と、内心で呟く。
（なぁるほど…この『勇者』サマのとりえは、根性だけ…ってぇ訳でも無い……か）
上に立つモノには様々な能力が必要で、その種類は、率いる集団によって色々と異なるものだ。しかし、その一方で、どんな集団を率いるにしても有効な資質というのも、実は、あるもので。
（…悪かぁないねぇ……いや、これはナカナカ……）
面白い、とラダトは思う。
「…わぁった。とにかく、普通の時は『シーア』、正式な場ってトコでは『勇者シーア』と呼ぶ、と。でもって、あの姐さん…じゃない…天地珠の巫女サマは、『クゥ・リスィア』と呼ぶ…ってぇので、良い訳だな？」
そう言ってズァインを見遣り、ラダトはニッ…と笑った。
「それで？ あんたのコトは？」
『ズァイン様』か『ズァイン殿』か、それとも、何か特別な敬称があるのか？ と問う。
楽しげなラダトを、ズァインがチラリと見て。
暫しの沈黙。
小さく溜息を吐き、そして、ズァインはどことなく疲れた口調で答えた。
「………ズァイン…と呼んで頂いて結構です、ラダト」
「了解。よろしく頼むぜ、ズァイン」
そうラダトが応じた、その時。
不意に、鋭い笛の音が空気を震わせた。
急を知らせる、特別な、その音色。
ラダトが息を呑む。
「なっ…」
「………来た…か……」
ズァインが低く呟いて。
それを、ラダトが驚愕の瞳で振り返った。
「あんた、知って…？」
「昨夕、斥候隊が、西に不審な影らしきものを見た…という報告をしてきてます。それで、今朝、斥候隊が確認に出たのですが……」
アタリだったのでしょう…と言うズァインに、ラダトはチッと舌打ちした。
「くっそぉ、俺等としたことが、迂闊だったぜ……」
「私達が、あなた方の注意を逸らせてしまっていましたから、これは、やむを得ないでしょう。もっとも、この程度で警戒が緩むのは、誉められたことではありませんが」
そう言うズァインに、ラダトは苦笑した。
「…ったく、ズケズケと言ってくれるねぇ……」
「私は、知を司る神官ですから」
表現を飾ることは、任の妨げにこそなれ、益は無い。にべもなくそう言い切り、そして、ズァインは言葉を継いだ。
「とにかく、皆の所へ。伝令が来てる筈です」
「あぁ」
頷いてラダトが駆け出し、ズァインとシーアがその後を追った。

ラダト、ズァイン、シーアの三人が駆け付けた時、広場は沈黙に包まれていた。
肩に伝令の印を付け、額に紅く染めた細い紐を締めた神官が、良く通る声で報告をしている。その言葉を、一同が固唾を飲んで聞いて。
広場の入口で足を緩め、大きく息を吐くと、三人は、なるべく足音を立てないように気を付けつつ、ハジス達の方へと近付いた。

「……レィミア隊が先鋒に、ラィラ隊はその側面に待機、リヤンナ隊が村の西に最終防衛線をはっています。それで。ダナスが、話がまとまっているようであれば、『隠されし刃』の一族から誰か、特に地理に詳しいモノに来て欲しい…と」
昨日今日と、かなりの人数を動員して地図を作っているものの、細かなところまでは、まるで描ききれていない。敵の方がはるかに地理に明るい訳で、それは極めて危険な状況だ。
「…ですから、できれば、本陣に来て手伝って貰いたい……と」
そう言って神官が口を閉じる。
間髪を入れず、ラダトが声をあげた。
「俺が行きましょう」
言いながら歩み出て、ハジスを見遣る。
「イイっすよね？ お頭」
「……ラダト……」
何となく不満そうなハジスに、ラダトは肩をすくめた。
「こっちだって出撃するでしょう？ となると、お頭が行くってな訳にゃ、いかないじゃないッスか」
「それを言うなら、お前だって……」
「一番隊は、隊長不在でも、大丈夫ッス。……だよなぁ〜？」
ラダトの問いかけに、あちこちから肯定の声が上がる。
「……と、まぁそゆ訳ッスよ」
得意気に言うラダトへ、ハジスが苦笑交じりに頷いて。そこへ、リヤンナが口を挟んだ。
「本陣への案内は、私がするわ」
状況がこうなった以上、自分も本陣に戻ったほうが良い訳だし…と言うリヤンナに、伝令の神官が頷く。
「ダナスも、できればそうして欲しい…と言っていました」
「判ったわ」
リヤンナがラダトを見遣り、何か準備は要る？ と問う。
ラダトはニッと笑って答えた。
「いや、俺はこれで十二分だ」
「じゃあ、急ぎましょう。……勇者シーア、一足先に、本陣へ戻らせて頂きます」
いきなり声をかけられ、シーアが慌てて頷く。
「あ…あぁ。気をつけて……」
その言葉に、リヤンナは笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。勇者シーアも、お気をつけて。帰る時は下り坂ですから、うっかり転んで、そのまま麓まで転がっちゃわないようにしてくださいね」
「気をつけるよ」
大真面目に頷いてみせるシーアに、満面の笑みを向け、そして、リヤンナは踵を返した。
「んじゃ…」
ラダトが手を振って続く。
その背を見送りながら、ハジスは声をあげた。
「よし……。こっちも準備を急げっ」

「ところで、馬には乗れる？」
山道を駆け下りながら、リヤンナは前を行くラダトに声をかけた。
「乗ったことくらいはあるケドな、特に芸はできねぇぜ」
「…そう……」
考えを巡らせながら倒木を飛び越え、そして、言葉を継ぐ。
「じゃあ、私の馬を貸すわ。あの子なら、私の後に続くように指示すれば、そうしてくれるから」
でも、かなりのスピードで走るから、振り落とされないようにね…とリヤンナが言う。
それへ、ラダトは軽く笑みを浮かべて答えた。
「じゃじゃ馬に乗るのは、得意なんだ」
「そうなの？ だったら、いいけど」
真面目に答えるリヤンナに、ラダトが内心で苦笑する。
（子供だねぇ……ま、それはそれで退屈しなくって良いか……）
そう思いながら、肩越しに振り返って。
「チョイと近道するケド、いいか？ つっても、道とは言えないよーなトコロを通るんだが……」
「いいわよ。だって、私がついて行けそうだ…って思うから、そう言うんでしょ？」
その言葉に、ラダトがくくっと笑う。
「まぁな。俺とあんただったら、問題無い」
何となく浮き立つような気分でそう答え、ラダトは前方の目印を確認した。
小さく頷いて。
「んじゃ…行くゼっ」

木々の間を軽々と摺り抜けながら、二つの人影が、麓を目指して駆け下る。