細い山道を、５人のヒトが登っていく。
先導するのは、おさまりの悪いパサパサの黒髪に黒い瞳の男。それは勿論、『隠されし刃』の一族の一番隊を束ねる、隊長のラダトだ。
その後ろに続くのは、赤茶の髪に茶の瞳の巫女。『天の三剣姫』が一翼たるリヤンナ。決して足場が良いとは言えない道を、歩き慣れているラダトに負けない程の身軽さで登っていく。
時折それを振り返っては、ラダトは内心で感嘆の溜息を吐いた。
（…たいしたもんだ……それに比べて………）
呟きつつ列の後ろへと目を遣り、今度は、意味の違う溜息を吐く。
その視線の先に居るのは、茶の髪に青い瞳の青年だ。
（……大丈夫かねぇ……？）
どうにも危なっかしい足取りのシーア…その青年は、勿論、シーアだった…に、ラダトが苦笑交じりに呟く。
既に何度も転びかけ、その度に、道の脇に生えている木の枝に掴まったり、リヤンナが手を貸したりしているのだ。つい先刻など、道を塞いでいる倒木を乗り越えようとして自分のマントの裾を踏みつけ、見事に転がり落ちてくれて。
（…やれやれ………）
首を振りつつ、残る二人の方を見る。
長い銀絹の髪の女と、最後尾を歩く、灰色の髪の男を。
（…ま、あの兄ちゃんに比べりゃマシか……）
リヤンナ程の身軽さは無いが、特に危なげも無いその足取り。
それを確認し、ラダトは前方へと視線を戻した。

そこは、周囲を木々に取り囲まれた広場だった。
恐らくヒトの手によって作られたのだろう。地面は平らにならされ、石や草などもきれいに取り除かれている。
広場の向こう側に柵があって、その先へと道が続いていることから、住家があるのはその奥で、ここは門前広場といったところだろうと推察される。
（……なるほど………）
ざっと見回し、ズァインは内心で頷いた。
確かに、かつての同族に間違いは無さそうだ…と。
ここまでの道の、木々の枝に結ばれていた細い紐の目印もそうだが、この広場のつくりなども、自分達の里に似ている。
（…不思議なものだ……）
そう呟きつつ、ズァインは、広場に集っているモノ達へと視線を移した。
興味津々といった様子のそのモノ達は、結構な人数にもかかわらず、全員が男だった。年の頃は、概ね、１０代後半から３０代くらいまでのように見える。布の服の上から革の胸当てや脛当て等を付け、腰には剣…というのが基本的な格好だが、中にはベルトにナイフを挿しただけのモノも居る。
髪を短く切っているモノ、後ろで束ねているモノ、髭をのばしているモノ、派手な色の布を巻いているモノ…などなど様々で。
唯ひとつ、全員に共通しているのは、それなりに鍛えているらしい体つきくらいだ。
（……とはいえ……）
実際のところ、その腕前はどうなのだろうか？ とズァインは内心で首を傾げる。そこに集っているモノ達の雰囲気は、どうにも雑然としすぎるように思えてならない。
ズァインの知る『戦うモノ』というのは一族の巫女達だが、彼女達の纏う空気は、常に、凛と張って涼やかだ。それに比べて、ここのモノ達の様子には、あまりにも落ち着きが無く、『これが戦うモノなのか？』と疑問を感じずにはいられない。
ズァインがそんな事を考えているうちに、居並ぶ男達の中から一人の男が前に歩み出てきた。
やや長めの黒髪を後ろでひとつに束ね、額には少々色褪せた橙色の布を巻いている。
不敵な笑みをたたえた瞳は、深い藍緑。
その瞳が、ぐるりと一行を見回す。
案内をしてきたラダトが、ゆっくりと歩を進めて。
「お頭…」
軽く手を挙げ、ニッと笑う。
「…『勇者』ご一行様ッス……」
それへ、ハジスは軽く頷いた。

（女が二人に…男が二人……か）
一行の面々をざっと見回して、低く呟く。
女のひとりは、長い銀絹の髪に銀灰色の瞳で、白の薄布を何枚も重ね、腰のところを色とりどりの紐で縛る…という、変わった服を着ている。
もうひとりの方は、赤茶の髪に茶の瞳。革鎧に剣を佩き、その上から薄茶のマントを纏って。それは、ラダトの報告にあった、今朝、東麓の村に来たモノ達のひとりに容姿が一致する。
（…と、いうことは……）
おそらく、銀髪の方が『天地珠の巫女』で、赤茶髪の方が『天の三剣姫』の一翼…と名乗ったモノに違いない。
（……ふむ、確かに……）
赤茶髪の女の方は、見るからに隙の無い身ごなしで、かなりの使い手と知れる。一族のモノ達の中にも、ここまでの腕前のモノは、そう多くはないだろう。
（とはいえ……）
自分の敵ではないな…と、ハジスは思う。
確かに隙は無い。だが、動きには、まだまだ無駄が多い。それに。かなり鍛えているようではあるものの、やはり、体格の差から来る根本的な『力』の違いは明らかだ。技量が同じなら、力のあるほうが有利なのは常識で。ましてや、その技量に差があるとなれば、結果は言うまでも無い。
とはいえ、油断して良い相手ではないから、常に、注意を向けておくべきだろう。
そう結論づけ、そして、ハジスは男達の方へと視線を移した。
（……それで…？）
この、どっちかが『勇者』ということになる筈なんだが…と思い、内心で首を傾げる。
（……？）
二人とも、まるで『それらしく』ない。
ひとりは、やっと一人前になったばかりか…といった風情の、茶の髪に青い瞳の青年。髪に、木の葉やら小枝の切れ端やらが絡まっているのから察するに、ここへ上がってくる途中の道で、枝を避けそこなったか、転びそうになって枝に掴まるかでもしたのだろう。一応、剣を帯びてはいるものの、見るからに隙だらけで全く問題外だ…とハジスは思う。
だが。
もうひとりの方も、問題外という点では変わりなかった。
灰色の髪を後ろで編んで束ね、深緑の石を埋めたサークレットをした、痩身の青年。剣を帯びては居らず、手に持っているのは濃緑に染められた長棒だ。
どこか超然とした深緑の瞳は、一見、無関心そうな風を装いつつも、確実にこちらを値踏みしているようで、まったく油断がならない。
けれども。
全体的な線の細さや雰囲気から、『戦う』要員で無いのは明らかだった。
勿論、それなりの腕前を持っているのは間違い無い。非戦闘員の数に入れてしまって、うっかり存在を忘れようものなら、確実に、その隙を突いて来るだろう。
それでも。
『勇者』と考えるには、あまりにも無理があった。
（……となると……）
茶髪の方に視線を戻す。
（…コイツ……ってコト…か？）
何やら漠然とした不安を感じる。
だが、とりあえずはそれを脇へ押しやり、ハジスは口を開いた。
「隠されし刃の一族の頭領…ハジスだ……」

「で？ 用件は、何だ？ 俺達を探しに来た…ってからには、目的があるんだろう？」
一通りの名乗りあいが済んだところで、ハジスはそう言った。
ともかく、まずはそれを聞こうじゃないか…と。
その言葉に、シーアがリスィアを見遣る。
問うような瞳に、リスィアが目線で頷き返して。
それを確かめ、ハジスの方へと向き直る。
深呼吸をひとつ。
そして、シーアは口を開いた。

「俺達と一緒に戦って欲しいんだ。『魔』を倒して、世界をヒトの手に取り戻す為に」
広場が静まりかえる。
時が止まったかのような、静寂。
「………は？」
暫しの沈黙の後に聞き返したハジスへ、シーアは、もう一度言った。
「世界をヒトの手に取り戻す為に、俺達と、一緒に戦って欲しい」
「………」
再び、静寂。
耳がおかしくなったか？ と思い、ハジスは隣に立つラダトを見遣った。それから、背後で成り行きを見守っている一族のモノ達を見回す。
だが、誰もが唖然とした顔をしていて。
（…ってことは……）
どうやら、自分の耳が変になった訳では無いらしい。
（するってぇと、これは何かの冗談か…？）
内心でそう呟きつつ、シーアの後ろに立つ三人の方へと視線を向けてみる。
けれど。
（…………）
三人が三人とも、真剣そのものといった表情をしていて、どうも、冗談という訳では無さそうだった。
「……世界を…ヒトの手に…取り戻す……？」
「ああ」
呆然と呟くハジスに、シーアが頷く。
「…その為に…戦う……？」
「ああ」
「……一緒に戦って欲しい…って……『魔』…と…ってコトか？」
「あぁ、そうだ」
大真面目に頷くシーアを見、ハジスは溜め息を吐いた。
脱力。
「………あほか？」
勇者だか何だか知らないが、冗談にも程がある…と思う。
「帰れ」
「…何でだ？」
「何でもクソも無い。そんな馬鹿な話につきあえるか。ちゃっちゃと帰って、他をあたれ」
もっとも、そんな話を真面目に取り合う奴が居るとも思えんがな…と言うハジスに、シーアは断固として言い返した。
「嫌だ」
「……あのな……」
溜め息。
「…何だって俺等が、そんな無謀なコトをしなけりゃならないってんだよ。そんな理由が、どこにあるってんだ？」
「理由は…ある」
「はぁ？」
「あんた達だって、同じヒトなのにヒトを狩る魔の下僕達に怒ってるんだろ？ 魔のいない世界だったらいいのに…って、そう思ってるんじゃないのか？」
「……そりゃ、まあな。そうは思う…さ」
確かに、そう想っているのは事実だった。そう想わないモノなど、一族には居ないだろう。
だが。
「だったら…」
言いつのろうとするシーアを遮って、ハジスは言葉を継いだ。
「…だけどな、それとこれとは話が別だ。世の中にゃあ、できるコトとできないコトがあるんだ。ヒトが…たかがヒトが、一体どうやって『魔』を倒す？」
「………それは…」
「お前は『魔』に遭ったことがあるのか？ 一ツでも『魔』を倒したコトがあるってのか？ お前じゃあ……」
ふん、と嘲笑う。
「…魔の下僕の一人も倒せやしないだろうな」
「そ…そんなこと無い。一人か二人くらいなら、俺にだって、何とかできるさ……」
実際、やったことだってあるし…と言うシーアに、ハジスは頭を抱えた。
「……あのな……」
たかだか魔の下僕を一人二人倒せたからって、それが何だと言うんだよ…と呟く。
「ヒトに『魔』が倒せるとでも思ってるのか？ それとも、お前には、不可能を可能にする力がある…ってのか？」
預言の勇者だか何だか知らないが、馬鹿なコトを考えるのはやめろ…と言うハジスに、シーアはキッパリと言い返した。
「可能か不可能かなんて、やってみもしないうちから判るわけ、ないだろう？ 最初から諦めてたら、出来ることだってやれやしない」
諦めないで試み続ける限り、それは『不可能』と決まってしまう訳ではない。
「それが本当に不可能かどうか…なんて、どうして判るんだ？ あんたが不可能だと言うのも、俺が可能だと言うのも、自分がそう信じているだけ…という点では、同じじゃないかっ？」
「いいや、違うな。確かにやってみなけりゃ判らないコトってのはあるさ。それは認めよう。だがな、やる前から判ることってのも、あるんだよ。例えば……」
そう言って軽く首を傾げ、ハジスは言葉を継いだ。
「…例えば、だ。お前の剣の腕じゃあ、俺には勝てない。それは、やらなくても判る」
「そんなことは無いっ」
シーアが言い返す。
「あるんだよ……」
そんなコトも判らないのか？ と、ハジスは溜め息を吐いた。

（……やれやれ……）
いいかげんにしてくれよ…と思う。
自分は一体、『勇者』に何を期待していたのだろうか？
（……何かが変わる…か……）
けれど、今のこの世界で、何かどう変わるというのか。
『魔』が世界の主である事が変わらない以上、世界の在り方が変わる事など無い。
世界の在り方が変わらなければ、世界の構図もまた、変わりようが無い。
確かに、表面的な変化は、ありえるだろう。
だが、根本的な変化が起きる…など、あろう筈も無い事だ。
にもかかわらず『何かが変わる』と期待するなど、どうかしている。
その意味では、先刻までの自分は、目の前の馬鹿者と大差無かったのだ。

（…ちっ……）
内心で舌打ちし、目の前の『勇者』を見る。
さて、どうやって追い返してやろうか…と考えを巡らせ、そして、ハジスは薄く笑みを浮かべた。
「いいだろう。そこまで言うなら……」
ゆるやかに剣を抜き放ちつつ、言葉を続ける。
「…試させてやる」
「え？」
「お前の腕前じゃあ、俺に勝つのは不可能だ。そんなコトは、やってみなくったって判る。俺には、な。だが、お前は『やってみなければ判らない』と言うんだろ？ だったら、試させてやる」
切先を、ピタリとシーアに向けて。
「『勝てない』と納得したら、帰れ」
「………」
シーアが唇を噛む。
自分の腕前が、この男より劣るだろうということは、勿論、シーアにも判っていた。
けれど。
『勝てないだろう』という予測を根拠に、試みることを放棄する訳にはいかなかった。
ヒトの身には、到底、敵う筈も無い『魔』に戦いを挑もうとする自分が、同じヒトを相手に、力の差を理由に『負け』を認めるなど、絶対に、したくない。
『諦めないで試み続ける限り、それは不可能と決まってしまう訳ではない』と言った、その自分の言葉を、証明する為にも。
（…負けを認める訳には…いかないっ！）
剣を抜き、構えて。
あまりにも拙いその動きに、ハジスが内心で苦笑する。
（…ったく……）
きつく睨み据えてくる、青の瞳。
一歩も退かぬ決意を秘めた。
その視線に、一瞬、何かマズい事を始めてしまったのではないか…という想いが、脳裏を掠める。
けれど。
（……どうせ、すぐに音を上げるさ……）
低く呟いてその想いを振り払い、ハジスは軽く手招きした。
「……かかって来いよ、『勇者』様」

何はともあれ、この根性だけは認めない訳にはいかない…と、ハジスは溜息混じりに呟いた。
大きな傷を負わせたり骨を折ったりしないよう、かなり気をつけているから、これといった怪我は…掠り傷を除けば…無い。けれども、実は、そういった掠り傷の方が痛いもので。また、剣の平で打ったり、足で蹴り飛ばしたりはしているし、吹っ飛ばしたり転ばせたりした時に、あちこち打っているのは間違い無く、そういった打身は、さぞ痛いことだろう。
いい加減、体力の限界にも達している筈だ。
それなのに。
未だ、シーアは向かってくる。
何度叩き伏せても、取り落とした剣を掴み、それを杖に立ち上がり、肩で息をしつつ、こちらを睨み据え、覚束ない足取りで向かってくる。
（………）
何やら弱いもの苛めをしているだけのような気がしてならない。
（いや、これはもぉ、完全に、弱いもの苛めだな……）
やっていて情けないこと極まりないのだが、しかし、相手をしない訳にはいかず。
（……いい加減、誰かとめろよ……）
そう思って『勇者』と一緒に来た三人を見遣っても、三人とも、黙ったまま成り行きを見ているだけで。
それが、妙に苛立たしい。
（お前ら…見てるだけじゃなくて、何とかしてやれよっ！）
『天地珠の巫女』とやらはともかく、残りの二人は、どう考えても、この『勇者』よりは腕が立つ筈なのだ。
もう、剣を握るのさえ辛そうなのに、それでも、とにかく必死で立ち上がってくるシーアを見ていると、どうにも理不尽な怒りが湧いてきて。
（…てめーら……自分は関係ねぇ…って思ってんじゃねーぞっ……）
ノロノロと振り下ろされるシーアの剣を軽く弾いて跳ね飛ばし、胸に蹴りを入れて転ばせ、そして、ハジスは剣を地面に突き立てた。
「いーだろう……」
そう言って、勇者と共に来た三人を見遣る。
「…コイツの根性に免じて、ちょっとだけ譲歩してやろう……」
薄く笑みを浮かべて。
「……お前等、コイツと代わってやってもいいぜ？」
２対１でも、なんなら３対１だって構わない…とハジスが言う。
「その代わり、こっちも手加減はしない。怪我しても…最悪、死んでも…文句はナシだ。それが嫌なら……今すぐ、その『勇者』を連れて、帰れ」
沈黙。
リヤンナとズァインが視線を交わし、そして、リスィアを見る。
ふわり…とリスィアが動いた。
ゆっくりとシーアに歩み寄り、剣を握り締める手に触れる。
（……リスィア…？）
戸惑う瞳に微笑みかけ、そして、リスィアは静かに言った。
「剣を…お借りしますよ、シーア……」
（……え…？）
必死で握り締めていた剣が手から離れ、シーアがよろめく。
それを、いつの間にか傍に来ていたズァインが素早く支えた。
「…ズァ…イン……？」
「大丈夫です…」
成り行きが飲み込めず、シーアが不安気な表情でリスィアの背を見詰める。
それへ、ズァインは小さく肩をすくめた。
「心配なさることはありません。それよりも、よく見ておくことです。滅多に見られないものなんですからね……」

シーアの長剣を持ち、自分の前に進み出てきたリスィアに、ハジスは眉をひそめた。
（…まさか…とは思うが……）
この女が相手になる…というんじゃないだろうな？ と呟く。
そのハジスへ、リスィアは静かに言った。
「私が、お相手致します」
「お…おいおい……」
冗談じゃないぞ…と思う。
もう一人の女…『天の三剣姫』のひとりと名乗っている方…ならともかく、この『天地珠の巫女』が戦えるとは、ハジスには、とても思えなかった。
まして。全員で…というのならともかく、ひとりで…というのは、一体、どういうつもりなのか？
（一体全体、何考えていやがるんだ？ コイツ等はっ？）
と。
まるでその言葉が聞こえたかのように、リスィアは笑みを浮かべた。
「私ひとりで、十分ですから」
その言葉に含まれた挑発の響きに、ハジスが思わずカッとなる。
「…ふざけるなよ、女ぁっ」
怒鳴りざまに剣を掴み、真横になぎ払う。
切っ先が、ひゅっ…と鳴って。
目の前を刃が掠め、銀絹の髪がふわりと宙を舞う。
しかし。
リスィアは微動だにしない。
（……ほぉ…？）
ハジスがすっと目を細め、唇を舐める。
「なるほど…度胸はある…って訳か……？」
ゆっくりと剣を構えて。
「……さっきも言ったが、手加減はしないからな。怪我したくなけりゃ、今すぐやめろ……」
その言葉にクス…と笑い、リスィアは優雅に一礼した。
「…剣の舞を、ご覧にいれましょう」

僅か数合で、ハジスは理解した。
リスィアが『私ひとりで十分』と言った、その理由を。
（つ…強ぇ……いや…そんなモンじゃない……格が…）
格が違う…とハジスは唸った。
あまりにも実力の差がありすぎて、それ故に、リスィアの力が、全く推し量れなかったのだ。今更ながら、そう悟る。
だが、その事に愕然とする余裕すらも、ハジスには無かった。

シーアの手にあった時は、いかにも重たげに見えた長剣が、まるで草の葉でできているかのように、軽々と宙を滑る。
切っ先の描く銀の軌跡は、あたかも流れ落ちる滝の飛沫。
閃いては消える、幻のような陽光の煌き。
捉えたと思った瞬間、そこにそれは無く……
鈍い音とともに、ハジスの振り下ろした剣が受け止められ、するりと流される。
それは、降りかかってきた花びらを、ただ払いのけたかのような何気なさ。
全く力を入れていないとしか思えない、優美で、いっそ無造作にすら見える動き。
それなのに。
「…っ……」
腕に伝わってくる重い衝撃に、ハジスは歯を食いしばった。
（…っくしょっ……）
振り下ろされる剣の重心。
その一点を、正確に…寸分の狂いも無く正確に…打ち返してきているのだ。
手首から肘、肩までもが鈍く痺れてきて。
息を詰めて辛うじて持ちこたえ、何とか間合いを取って呼吸を整えようとする。
だが。
影と影とが縫い合わされてしまっているかのように、退いても退いても、リスィアとの距離は変わらない。
（どう…する……？）
だが、どうもこうも無かった。
リスィアが、ふわりと間合いを変えると、一転して攻撃に出てくる。
体勢を立て直す間など無い。
恐ろしい程の鋭さで切っ先が身体を掠め、ハジスは焦って飛び退いた。
慌てて剣を構え、次の一撃を防ごうとする。
けれど。
上げかけた剣を難なく払われ、次の瞬間には、まるで違う方向から斬りかかられる。
それは、気まぐれに吹き抜ける秋風。
切っ先が腕を掠めたかと思えば、次の瞬間は、目の前に迫ってきて。
ハジスは、ただただ防戦一方で、もう、何をどうすることもできない。
危ういところで、どうにか攻撃を防いでいるだけで。
いや、防げているのか、それとも、手加減されているだけなのか、それすらも判然としない。
（…どう…すれば……）
一撃を受けとめるたびに、剣を握る手が痺れる。
そして。
（……っ…！）
衝撃を受け止めきれず、ついに、剣を取り落とす。
次の瞬間。
喉元に触れる冷たい感触に、ハジスは身を強張らせた。
（……あ……）
視線だけを動かして、見る。
突き付けられた、剣。
その向こうに、微かに笑みをたたえた銀灰色の瞳。
「………」
ハジスは動けない。
静寂。
と、不意にリスィアが剣を退いた。
切っ先をくるりと下に向け、地面に突き立てる。
（……な…にを…？）
目を見開いたままのハジスに、艶然と微笑んで。
ふわり…と銀絹の髪が宙を舞った。
（…な…にっ…？）
リスィアが踵を返し、ハジスに背を向ける。
隙だらけの、その背中。
まるで無防備な。
誘われている…と考える余裕は、ハジスには無かった。
身に染み付いた、戦うモノの本能とでもいうべきものが、体を支配する。
何を考えることもできず、まるで操られるかのように、手が、目の前に突きたてられた剣を取って。
振りかぶり、叩きつける様に振り下ろす。
宙に踊る、銀絹の髪。
耳元に響く、クス…という笑い。
（…はめられた……）
やっとのことで、ハジスがそう思った瞬間。
空を切った剣が、その勢いのまま、深々と地面を穿つ。
痺れる手首。
バランスを崩す体。
その腕に、細い手が添えられる。
踊るように腕を引かれ、体は、前のめりに倒れていく。
（…え…？）
ふっと離される手。
トン…と背中を押されて。
瞬きひとつより短い、半瞬の浮遊感。
身構えるどころか、心構えの間すら無いまま、うつ伏せに地面に叩きつけられる。
目の前に火花が散って、瞬間、意識が途切れ、そして、金属がぶつかり合うような音が遠くで響いた。

リスィアが剣を地に突き刺して背を向け、ハジスがその剣を取って切りかかった瞬間、ラダトは息を呑んだ。
（……や…ばい…っ）
実力の差は誰の目にも明らかで、こんな反撃が効く訳がない。
というよりも、既にハジスは相手の術中で。
（…駄目だ、ハジスっ…！）
案の定、振り下ろした剣はあっさりとかわされ、ハジスの体は前のめりに倒れていく。
地に突き刺さった剣を、リスィアが引き抜いて。
（…殺られる……！）
反射的にそう思った時、既に、ラダトは腰のナイフに手を伸ばしていた。
引き抜きざま、リスィアへと投げつける。
だが。
（……なっ…！）
甲高い音。
ラダトの投げたナイフを、リスィアは、一瞥すらせずに剣で弾き飛ばす。
（…馬鹿な……）
見開いたラダトの視界の中、弾かれたナイフはシーアとズァインの方へ、まっすぐに飛んで。
（……あっ……）
まずい…と、ラダトが思う間も無かった。
シーアが驚いた様に目を見開く。
瞬間、何かが空を切る音がして。
カッ…という硬い音とともに、ナイフは地面に落ちた。
（………え？）
きょとんとした表情で、シーアが目を瞬かせる。
（あ…れ…？）
今、何かが飛んで来たような気が…と思って見下ろせば、そこにナイフが転がっていた。思わず手を伸ばそうとした途端、濃緑の棒が、そのナイフを向こうへと押し遣る。
「迂闊に触ってはいけません」
やや棘を含んだズァインの声に、シーアは伸ばしかけた手を引っ込めて、頷いた。
その様子に、ラダトが、信じられない…というように首を振る。
（…コイツぁ……）
とんだ食わせ者だ。いや、それを言うのならば『天地珠の巫女』もそうなのだが。
（……弾き飛ばされたナイフを…棒で叩き落とす…とは。まいったね…こりゃ……）
そう呟き、ラダトは苦笑した。
（エライことに…なってきたもんだ……）
確かに、これは『嵐』だ。
間違いなく。

飛びかけたハジスの意識は、剣の切っ先で背中を押さえられる感触と、上から降ってきた涼やかな声で、現実に引き戻された。
「続けますか？」
呼吸ひとつ乱していない、落ち着いた声音。
勝者の傲慢さも、驕りも無い、ただ静かな、その声。
それへ、ハジスは微かに首を振った。
「………いや…」
完敗だ、と思う。
悔しさはない。
それは、生まれて初めて山の端から地平線を見た時のような、新鮮な想いで。
「俺の…負けだ……」
静かに言う。
一瞬の間があり、背中を押さえていた剣が離れた。
「お立ちなさい、ハジス」
柔らかに響く声。
言われるがままに立ち上がり、そして、ハジスは改めて、目の前に立つ『天地珠の巫女』を見た。
流れ落ちる、長い銀絹の髪。
銀灰色の瞳。
滑らかな白磁の肌。
薄紅の唇。
たおやかなその姿は、あれほどの剣技を操るモノとは、とても思えない。
だが、それはまぎれもない事実で。
自分の力では推し量れないモノが、世界にはあるのだ…と、ハジスは痛切に感じる。
けれど。思えばそれは、当たり前の事ではないか。
天と地は彼方にまで続いているというのに、ここを動かない自分が、どうしてその果てを推し量れるというのか？
見たことの無いモノが、何故、判るのか？
来てもいない未来が、何故、判ると言えるのか？
チラリと『勇者』を見遣り、ハジスはゆっくりと口を開いた。
「…確かに、何事も、やってみなけりゃ判らない。やらなくても判る…なんて、それは判ってる『つもり』になってるだけ…か。よく……よく、解ったぜ」
とは言うものの、『世界をヒトの手に取り戻す』というのは、どうにも無茶な話だとは思うが…と苦笑し、まあいい、と頷く。
「いいぜ、俺は。あんた等と一緒に…戦ってみようじゃないか……」
ヒトが『魔』に勝てるかどうかなんて、自分にはまるで判らない。それでも、戦い続けている限りは、『負け』と決まってしまう訳じゃ無いんだしな…と。
そして、ハジスは一族のモノ達を振り返った。
「…お前等、どーするよ？」
問いかけ。
その言葉に、固唾を飲んで成り行きを見守っていたモノ達は、はっと目を瞬かせた。
「……え…？」
「あ……」
夢から覚めたように周囲を見まわす。
互いに目を見合わせ、ハジスを見、リスィアを見る。
ひそひそと交わされる言葉。
何やら頷きあうモノ達。
そして。
「姐さん、カッコイイ〜！」
「すげーっ！」
「俺、一生ついてきますっ！」
「お頭、カッコわりー！」
「やーい、弱いもの苛め〜！」
リスィアに手を振るモノ、口笛を吹くモノ、投げキスをするモノ……
「お…お前等なぁ〜っ！」
ハジスが頭を抱えて怒鳴る。
「いーんじゃないッスか〜？」
「…ラダト……」
ひょい…と肩をすくめ、ラダトは言葉を継いだ。
「何もしなければ何も変わらない。何かをすれば……何かが変わる…かもしれない」
勿論、変わらない可能性もあるのだが。
「けど……」
と言って、ラダトがシーアを見遣る。
「…あの兄ちゃんの諦めの悪さからすると、何かが変わるまでは、どーあってもやめなさそーに思えるんですがねぇ……」
「……ま、確かにな……」
苦笑。
確かにその通りだ…と思う。
（とすると、それが『勇者』の資質…ってヤツなのか？ 諦めの悪さ…ってのが？）
なるほど…とハジスは思う。
自分が漠然と考えていた『勇者』とはかなり違うが、しかし、その『諦めの悪さ』が、結果的に、自分の心を変えさせることにつながったのだ。
『勇者』が最初から試みずに『負け』を認めていたら。
諦めずに立ち上がり続けなかったら。
こんな展開には、絶対に、ならなかった筈で。
（……『勇者』…か……）
呟いてひとつ頷き、一族のモノ達を見渡す。
「よし…じゃあ、俺達は『勇者』と『天地珠の巫女』と共に戦う。それでいいか？」
異議のあるモノは？ というハジスの問いに、一同が顔を見合わせ、互いに頷きあう。
そして。
「なしっ！」
一斉に上がった返答が、樹々の枝を震わせた。