「退屈していますか?」
言葉と共に、リスィアが天幕の中に入ってくる。
それをチラリと見遣り、シーアは憮然とした表情で答えた。
「…もう、退屈するのにも飽きてきた……」
溜め息交じりの言葉。
リスィアがクスクスと笑いながら、寝台の傍に歩み寄る。
「それでは…退屈しのぎに、物語でもお聞かせしましょうか?」
シーアが驚いたように目を瞬かせ、そして、期待を込めて頷いた。
「あなたは……かつて、この世界には魔が居なかったのだ…という話を、聞いたことがありますか?」
「あぁ…」
幼い頃、母が歌うように話し聞かせてくれた物語。
それらは総て『昔々、この世界に魔がいなかった頃…』という詞から始まった。
どんな物語だったのかは、よく思い出せない。
けれど、それだけはハッキリと覚えている。
魔がいない世界。
魔の襲撃に怯えなくていい世界。
魔の下僕達に狩られる心配の無い世界。
(…そんな世界…だったら……)
どんなに良いだろうと…そう思いながら、母の語る言葉を聞いていた。
その声も、今はもう、思い出せない程に遠い。
ただ、薄いガラスの鳴るような、ひどく澄んだ感触が、耳の奥に残っているだけで。
その印象が不思議なほどリスィアに似ていて、シーアは戸惑う。
(……母…は……)
声も姿も全く思い出せないけれど、しかし、リスィアに似たところなど、少しも無かった筈だ。それだけは判る。
にもかかわらず、似ている…と思わずにはいられない。
(不思議だ……)
内心でそう呟きつつ、シーアはリスィアの声に耳を傾けた。
「昔々…遠い遠い昔。この世界に、未だ、魔が居なかった頃。その頃の世界には、世界を支える柱たる天地珠がありました」
歌うようにリスィアが語る。
「聖なる地、ソゥ・ルグリィアには天地珠を奉った神殿があり、そこには、数多の巫女や神官が居て、日々祈りを捧げていました。その祈りに応え、天地珠は、大地を潤し恵みをもたらし…ヒトは、世界の主として栄華を極めていたのです……」
そこで言葉を切り、リスィアは軽く目を閉じた。
何かを思い出すかのように。
「…その頃のヒトは、屋根が霞んで見える程に高い塔を建てたり、風よりも早く空を飛ぶ巨大な乗り物を作ったり、山を貫く道を造ることも、海の下を通る道を造ることすら容易く成し、およそありとあらゆる病を癒す知識と薬とを持ち、手や足を失ったモノが新しい手足を得る事すらできました……」
リスィアの語る言葉を聞きながら、まるで夢のようだ…とシーアは思う。
今のヒトには、どんな力も無い。
己自身を守る力すら持たない、無力な存在だ。
そのヒトが、かつて、それほどまでの力を持っていたなど…一体、誰が信じるだろう?
誰も信じはしない。
けれども。
(…本当のこと…なんだ……多分……)
そう、シーアは思う。
何故ならば。
今、リスィアが語っているほど明確にでは無いけれども、こういった物語…かつてヒトが世界の主として栄えていたのだという物語…は、ひっそりと語り継がれている。シーアが母親から聞かされたように、誰もが、子供の頃、そんな話を聞かされているのだ。
馬鹿馬鹿しい作り話だと言い、子供に聞かせる暇つぶしだと言い、語るモノも聞くモノも、誰一人として、その中に一片の真実があるなどとは思わず。
それでも、ヒトは語り継いできた。
そんな事があった訳が無いと…そう言いながら。
何故か?
(…それは……真実だったから……じゃないのか?)
どんなに否定しようと、誰ひとり信じるモノがいなくても、それでも、真実は変わらない。
だからこそ、誰もが、馬鹿馬鹿しいと思いながらも忘れ去ることが出来ず、語り伝え続けてしまったのではないだろうか?
そう思いながら、シーアはリスィアの声に耳を傾ける。
不思議と懐かしい、その声に。
「……地上には数多くの国があって、それらの国々は、時に争い、時に和し、栄えては滅び、滅びては興り……それらの歴史から、あるモノは教訓を得、あるモノは何も学ぶことなく同じ過ちを繰り返し……ヒトは互いに愛しあい、憎みあい、殺しあい、助けあい…それが、悠久の時の果てまで続くと…そう、思われていました」
沈黙。
さやさやと木々の梢が鳴る。
天幕の上を踊る影。
その先を、リスィアは語らず、シーアも尋ねない。
ただ、風の音だけが響いて。
長い沈黙の後、リスィアは静かに言った。
「……さぁ…少し、お眠りなさい……」
あまり起きていて熱でも出たら、ズァインは絶対に、起きる許可をくれませんよ…というリスィアの言葉に、シーアは頷いて目を閉じた。
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