大きく伸びをして、胸一杯に空気を吸い、吐く。
草と土と水の香。
「…ふぅ…」
樹の幹に背中を預けて枝を見上げ、シーアは、透けてくる陽光に目を細めた。
起き上がることを許されてから、今日で十日あまり。
最初の頃は、天幕の周りを一回巡るだけで息切れしていたのだが、そんな状態だったのが嘘のように、今、体は軽かった。
それもこれも、ズァインがしてくれた治療のおかげ。
(ほんと…凄いよな……)
しみじみとシーアは思う。
もっとも、ズァインにそう言ったら『私の知る知識など、微々たるモノです』と、にべもなく言い切られてしまったのだが。
(そりゃ…そうなんだろうけれども…さ……)
リスィアの話によれば、かつてのヒトは、膨大な知識と高度な技術とを、持っていた。だが、それらの殆どは、かの『滅びの日』に失われてしまい、辛うじて残った知識を伝え継いでいるのが、リスィア達の一族なのだ。
そしてズァインは、その中でも特に才幹を認められ、『地の三賢師』のひとりとして、医薬の知を伝え継ぐ責任を負っているのだとか。
(ズァイン…か……)
物静かで温和で、それなのに時折、何故か、ひどく思いつめた目をする事のある、ズァイン。けれど、それも瞬きひとつする間の事で、次の瞬間には、いつも通りの穏やかな表情をしている。
(…多分……)
と、シーアは思う。
恐らくズァインは、失われた知識があれば助けられたかもしれないモノ達のことを考えているのだろう…と。
(それと…)
今の、この世界のことを。
とある夕方。
診察に来たズァインは、ふと、こんな事を言った。
『私の知る、この、僅かばかりの知識でも、もっと多くのヒトに伝える事ができれば……』
そうすれば、助かるモノ達も居る筈なのに…と。
『…けれども、今のヒト達は、誰ひとりとして、そんな事を知りたいなどと……思ってはいない……』
今を生き延びるだけで精一杯のヒト達は、誰かを助ける為の知識など、求めてはいないのだ。
呟くような言葉。
哀しい…というよりも、苦しそうなズァインに、シーアは、思わず口を開いた。
『それを、変えれば良いんだろう?』
世界をヒトの手に取り戻し、魔や魔の下僕であるモノの襲撃を恐れる必要がなくなれば。
そうすれば、ヒトはきっと、明日の事を考えられるようになる。
未来に希望を持つことが、できるようになる……。
『そうなるって…勇者が現れて、ヒトを滅びから救うって……そう、預言されているんだろ? その勇者を導く巫女が、リスィアなんだろう?』
そのシーアの言葉に、何故か、ズァインは驚いたような表情をして。
それに構わず、シーアは言葉を続けた。
『だったら、絶対に、そうなる……なるに決まってる! いや、なるようにしようよ、ズァイン。俺も戦うからっ! ………あ……そのぅ……。たいした事は…できない…と、思う…けど……さ…』
ふと我にかえって、かりにも『地の三賢師』のひとりであるモノに対し、何と生意気なことを…と慌てたシーアに、ズァインは、僅かに苦笑しつつ頷いたのだった。
「……『たいした事はできない』か……ホント、そうだよな……」
呟いて、溜め息を吐く。
自分には、これといった知識がある訳でも、優れた剣の腕がある訳でもない。
誰かを護るどころか、我が身ひとつ護ることでさえも、覚束ないのだ。
リスィアの話によれば、彼女達の一族の者は皆、小さい頃から武術を習うのだとか。
己の身を護り、一族を護り、戦うことのできぬモノ達を、護る為に……。
『あぁ見えますが、ズァインだって、棒術の腕前はなかなかのモノなのですよ』とリスィアは微笑んで言った。
『多分、あなたよりは強いでしょうね…』と。
肩をすくめて足元の石を蹴り、シーアは苦笑した。
(…すごく生意気な事…言ったよな…俺……)
けれど、想いを言葉にしてみたら、どうにも止められなくて。
これまでは、そんな話をしたところで、誰ひとり相手にしてくれなかった。
心の中で呟くしかなかったのだ。
その言葉を、聞いてくれた。
それどころか、頷いてくれた。
それが、すごく嬉しくて。
溢れ出す言葉を、とどめようがなかったのだ。
(………まぁ、いい…か……)
言ってしまった言葉は、今更、戻せない。
ズァインは…多少、呆れたかもしれないが…機嫌を損ねた風ではなかった。
(それよりも……)
今は、考えなくてはならないことがあった。
これからどうするか?
それが、ここ暫くの間の、シーアの悩みだった。
リスィアが、ヒトを滅びから救う『勇者』を導く巫女であると知った時、シーアは、リスィアと共に行って、彼女が導く勇者と一緒に戦いたい…と思った。
無論、その気持ちは今も変わらない。
しかし。
『共に戦う』と言ったところで、実際には何をすればいいのか?
より正確に表現するのなら、自分にできることは何か?
それが、シーアの悩みだった。
リスィアから、彼女の一族についての話を聞けば聞くほど、自分が、いかに何も出来ないかを思い知る。
長い年月、いつか魔と戦う為、知識を伝え、技を伝えてきた、リスィア達。
それらのモノ達と違って、自分は何も知らないし、何も出来ない。
勿論、『一緒に戦いたい』と言えば、リスィアは頷いてくれるだろう…とシーアは思う。
けれど。
いや、だからこそ、シーアは考え込んでしまうのだ。
(ただでさえ…俺……足手まといになっちゃってるからな……)
そう。
今、リスィア達一行がこの森に留まっているのは、他ならぬシーアの為なのだ。
(…俺が…動かせないくらいの、酷い怪我だったから……)
だから、この森に落ち着くことにしたのだ…とリスィアは言った。
(何か…したい……)
どんな些細なことでもいい。世界をヒトの手に取り戻す為に、何かをしたい。
それなのに。
自分に出来そうな事など、まるで思いつかないシーアだった。
それどころか、迷惑をかけるだけになりそうな、そんな気さえしてくる。
(もしかして……)
『一緒に行かない』というのが、自分に出来る唯一のことなのだろうか?
考えたくないその結論の前で、シーアは途方にくれていた。
|