『幻想海悠園』
『語部館』
『月光水晶戦記』

第五歌

導きの誓約



我は母たる大地にして、娘なる天

運命の伴侶にして、扉へと導くモノ

されど途は遠く、そは汝に代償を求める

強き想いを抱きしモノ、未来の鍵たる勇者よ

汝、我が導きに応えるか?



大きく伸びをして、胸一杯に空気を吸い、吐く。
草と土と水の香。
「…ふぅ…」
樹の幹に背中を預けて枝を見上げ、シーアは、透けてくる陽光に目を細めた。

起き上がることを許されてから、今日で十日あまり。
最初の頃は、天幕の周りを一回巡るだけで息切れしていたのだが、そんな状態だったのが嘘のように、今、体は軽かった。
それもこれも、ズァインがしてくれた治療のおかげ。
(ほんと…凄いよな……)
しみじみとシーアは思う。
もっとも、ズァインにそう言ったら『私の知る知識など、微々たるモノです』と、にべもなく言い切られてしまったのだが。
(そりゃ…そうなんだろうけれども…さ……)
リスィアの話によれば、かつてのヒトは、膨大な知識と高度な技術とを、持っていた。だが、それらの殆どは、かの『滅びの日』に失われてしまい、辛うじて残った知識を伝え継いでいるのが、リスィア達の一族なのだ。
そしてズァインは、その中でも特に才幹を認められ、『地の三賢師』のひとりとして、医薬の知を伝え継ぐ責任を負っているのだとか。
(ズァイン…か……)
物静かで温和で、それなのに時折、何故か、ひどく思いつめた目をする事のある、ズァイン。けれど、それも瞬きひとつする間の事で、次の瞬間には、いつも通りの穏やかな表情をしている。
(…多分……)
と、シーアは思う。
恐らくズァインは、失われた知識があれば助けられたかもしれないモノ達のことを考えているのだろう…と。
(それと…)
今の、この世界のことを。

とある夕方。
診察に来たズァインは、ふと、こんな事を言った。
『私の知る、この、僅かばかりの知識でも、もっと多くのヒトに伝える事ができれば……』
そうすれば、助かるモノ達も居る筈なのに…と。
『…けれども、今のヒト達は、誰ひとりとして、そんな事を知りたいなどと……思ってはいない……』
今を生き延びるだけで精一杯のヒト達は、誰かを助ける為の知識など、求めてはいないのだ。
呟くような言葉。
哀しい…というよりも、苦しそうなズァインに、シーアは、思わず口を開いた。
『それを、変えれば良いんだろう?』
世界をヒトの手に取り戻し、魔や魔の下僕であるモノの襲撃を恐れる必要がなくなれば。
そうすれば、ヒトはきっと、明日の事を考えられるようになる。
未来に希望を持つことが、できるようになる……。
『そうなるって…勇者が現れて、ヒトを滅びから救うって……そう、預言されているんだろ? その勇者を導く巫女が、リスィアなんだろう?』
そのシーアの言葉に、何故か、ズァインは驚いたような表情をして。
それに構わず、シーアは言葉を続けた。
『だったら、絶対に、そうなる……なるに決まってる! いや、なるようにしようよ、ズァイン。俺も戦うからっ! ………あ……そのぅ……。たいした事は…できない…と、思う…けど……さ…』
ふと我にかえって、かりにも『地の三賢師』のひとりであるモノに対し、何と生意気なことを…と慌てたシーアに、ズァインは、僅かに苦笑しつつ頷いたのだった。

「……『たいした事はできない』か……ホント、そうだよな……」
呟いて、溜め息を吐く。
自分には、これといった知識がある訳でも、優れた剣の腕がある訳でもない。
誰かを護るどころか、我が身ひとつ護ることでさえも、覚束ないのだ。
リスィアの話によれば、彼女達の一族の者は皆、小さい頃から武術を習うのだとか。
己の身を護り、一族を護り、戦うことのできぬモノ達を、護る為に……。
『あぁ見えますが、ズァインだって、棒術の腕前はなかなかのモノなのですよ』とリスィアは微笑んで言った。
『多分、あなたよりは強いでしょうね…』と。
肩をすくめて足元の石を蹴り、シーアは苦笑した。
(…すごく生意気な事…言ったよな…俺……)
けれど、想いを言葉にしてみたら、どうにも止められなくて。
これまでは、そんな話をしたところで、誰ひとり相手にしてくれなかった。
心の中で呟くしかなかったのだ。
その言葉を、聞いてくれた。
それどころか、頷いてくれた。
それが、すごく嬉しくて。
溢れ出す言葉を、とどめようがなかったのだ。
(………まぁ、いい…か……)
言ってしまった言葉は、今更、戻せない。
ズァインは…多少、呆れたかもしれないが…機嫌を損ねた風ではなかった。
(それよりも……)
今は、考えなくてはならないことがあった。

これからどうするか?
それが、ここ暫くの間の、シーアの悩みだった。
リスィアが、ヒトを滅びから救う『勇者』を導く巫女であると知った時、シーアは、リスィアと共に行って、彼女が導く勇者と一緒に戦いたい…と思った。
無論、その気持ちは今も変わらない。
しかし。
『共に戦う』と言ったところで、実際には何をすればいいのか?
より正確に表現するのなら、自分にできることは何か?
それが、シーアの悩みだった。
リスィアから、彼女の一族についての話を聞けば聞くほど、自分が、いかに何も出来ないかを思い知る。
長い年月、いつか魔と戦う為、知識を伝え、技を伝えてきた、リスィア達。
それらのモノ達と違って、自分は何も知らないし、何も出来ない。
勿論、『一緒に戦いたい』と言えば、リスィアは頷いてくれるだろう…とシーアは思う。
けれど。
いや、だからこそ、シーアは考え込んでしまうのだ。
(ただでさえ…俺……足手まといになっちゃってるからな……)
そう。
今、リスィア達一行がこの森に留まっているのは、他ならぬシーアの為なのだ。
(…俺が…動かせないくらいの、酷い怪我だったから……)
だから、この森に落ち着くことにしたのだ…とリスィアは言った。
(何か…したい……)
どんな些細なことでもいい。世界をヒトの手に取り戻す為に、何かをしたい。
それなのに。
自分に出来そうな事など、まるで思いつかないシーアだった。
それどころか、迷惑をかけるだけになりそうな、そんな気さえしてくる。
(もしかして……)
『一緒に行かない』というのが、自分に出来る唯一のことなのだろうか?
考えたくないその結論の前で、シーアは途方にくれていた。




その天幕には、七人のモノが集っていた。
右に、『天の三剣姫』である三人の巫女達。
左には、『地の三賢師』である三人の神官達。
正面奥に、『天地珠の巫女』であるリスィア。

深い森緑の瞳で一同を見回し、ズァインが静かに告げる。
「……怪我は、完全に治った…と言って、差し支えないでしょう。体力も回復してきておりますし、もう、心配はいらないと思います」
念の為に、あと数日は様子を見ますが……との言葉に、一同が深く頷いて。
そして、天幕の中は静寂に包まれた。
期待と…僅かばかりの不安とを含んだ、沈黙。
木々の枝が鳴る音すらせず。
暫しの後にそれを破ったのは、白金の髪に琥珀の瞳の巫女。『天の三剣姫』の長たるラィラだった。
「クゥ・リスィア……シーア殿には、いつ…?」
いつ、己が勇者なのだという事を告げるつもりか…と問うラィラに、リスィアは軽く首を傾げた。
「…そう…ですね……」
目を閉じ、開き…そして、答える。
「明日……」
ゆっくりと動く薄紅の唇。
それを、一同が息をひそめて見守って。
「…明日、シーアに尋ねましょう…」
己を見詰める、六人。そのひとりひとりを強い瞳で見返し、リスィアは言った。
「……『天地珠の巫女』の導きに、応えるかどうかを」




朝露に濡れた草の葉に、リスィアの細い指が触れる。
丸く揺れる、いくつもの銀の雫。
小さなそれらは、転がるたびに互いにくっつきあい、やがて、大きな粒となって地面へと滴ってゆく。
その様子を暫し見詰め、そして、リスィアは泉へと向かった。

泉の水で身を清め、天と地とに祈りを捧げる。
巫女としての、毎朝の日課。
それを終えたところで、リスィアは小さく溜め息を吐いた。
胸元にある水晶の破片を握り締め、唇を噛む。
(…ついに……)
この日が来た、とリスィアは思う。
総ての始まりとなる日が。
(……来て…しまった……)
勿論、それは判っていたことで。
厳密に言えば、リスィアが天地珠の巫女となった、あの儀式の日から、総ては始まっていたのだ。

(…シーア……)
彼だ、と思った。
間違いなく、彼だ、と。
彼以外の誰が、勇者たりえるだろう?
あれほどまでに純粋で、強い想いを抱くモノなど、他には居ない。
彼が、彼こそが、己が導くべき運命の勇者。
一片の迷いも戸惑いも無く、そう断言できる。
そして。
シーアは、導きに応えるだろう。
その事もまた、リスィアは確信していた。
だから、何も悩むことは無い。
ただ、シーアに告げれば良いのだ。
『預言の勇者は、あなただ』と。
そうすれば、総てが動き始める。
世界を賭けた戦いが、始まるのだ。
だが。
(……シーアは…勇者として、総ての希望を…になう……)
勇者がヒトを救うことを信じて戦い、勇者に希望を託して倒れてゆくモノ達の想い。
その総てを、シーアはその背に負ってゆくことになるのだ。
「………」
目を閉じて、水晶の破片をきつく握る。
(…私は…っ…)
怖い…と、リスィアは想う。
天地珠の巫女が語れば、それは預言で、リスィアが『ヒトは世界を取り戻す』と語れば、ヒトは皆、それを信じる。
それを信じて戦い、その多くは倒れていくことになる。
未来を切り開く、その、代償として。
しかし。
本当は、未来など判らない。
判る訳が無い。
天地珠の巫女に、預言の力など無いのだ。
ただ、この世界に生きるモノたちと、心を重ねることが出来るだけ。
それも、ほんの少し。
指先でそっと触れる程度の、ささやかな感触にすぎない。
それでも。
ヒトは天地珠の巫女の預言を信じ、勇者に希望を託す。
いや。
(……ヒトに、そう信じさせる事こそが……天地珠の巫女の役目……)
そう思い、そして、リスィアは苦笑した。
自分は、総てを承知の上で、天地珠の巫女になった筈ではなかったのか。
それなのに、何を今更、迷う?
(…そう……)
運命は、既に動き始めている。

ゆっくりと瞳を上げ、リスィアは空を仰いだ。
明け染めてゆく、蒼い空を。
暁の風が、銀絹の髪をふわりと撫でて。
そして、リスィアは静かに踵を返した。




リスィアの天幕から少し離れたところに、その樹はあった。
ふた抱えはありそうな、太い幹。
見上げる枝には濃い緑の葉が茂り、吹く風に低く歌って。
その下に立ち止まると、リスィアはシーアを振り返り、ゆっくりと口を開いた。

「私達は、勇者を見つけ出す為に旅立ちました」
リスィアがそう切り出した瞬間、シーアは『ついに来たか』と思った。
そう。勇者を導くのが天地珠の巫女なのだから、リスィアは、当然、勇者と共に居なくてはならない。
だが、ここに勇者は居ない。
(…それは…勇者を探す旅の途中で、俺を助けて……。で、俺が動かせない程の重傷だったから。……だから、旅は、一時中断になってしまってるんだ……)
けれども、今、シーアの傷はすっかり癒えた。
今朝の診察を終えた時、ズァインからも『もう大丈夫でしょう』と言われた。
(だから、リスィア達は……)
旅を再開するのだろう、とシーアは思った。
「その…俺のせいで、旅の邪魔をしちゃって……あの………」
そこでシーアは、言葉に詰まった。
(……『ごめん』かな…? それとも『ありがとう』……?)
どちらにしても、しっくりこない。
と。
クス…っとリスィアが笑った。
「いいんですよ。気にしなくても……」
「…いや…。でも……」
その言葉はありがたいけど…と言いかけるシーアを、リスィアの銀灰色の瞳が制す。
まっすぐに見詰めてくる、その、瞳。
魅せられるように、シーアが口を閉じて。
静寂。
そして、リスィアは静かに言葉を紡いだ。
「勇者には、もう、出逢いましたから」
「え?」
予想もしていなかった言葉に、シーアが目を瞬かせる。
(…逢った…?)
「えぇ…そうです」
リスィアが頷き、言葉を継ぐ。
「私は、今、勇者と共に居ます。私達は……シーア、あなたを探しに来たのですよ」
(………え?)
言葉の意味がよく理解できず、シーアはリスィアをまじまじと見詰めた。
枝の葉をすり抜けて降る陽光が、銀の髪を輝かせる様を、ただ呆然と見続けて。
そのシーアへ、リスィアは静かに告げた。
「…ヒトを滅びから救う勇者は、あなたなのですよ、シーア」

「……あ……俺…が……?」
長い沈黙の後、シーアはそう呟いた。
「…俺…が……?」
息を吐き、吸い、俯いて首を振る。
「……だって………だって、俺……俺は…何の知識も無いし……剣の腕だって…全然だし……」
そこまで言って、そして、シーアは黙った。
(…そうだよ…俺は……俺には……どんな力も…無い……)
それを認めるのは、とても辛いことだったけれど、しかし、それが事実だった。
(……何か…したかった…………)
世界をヒトの手に取り戻す為に、何かをしたかった。
どんな些細な事でもいいから、自分も、何かをしたいと思った。
そう思い、必死で考え、辿り着いた結論は『一緒に行かない』だったのだ。
(だから……。諦めよう…諦めるしかない…って……)
それしかないと、覚悟を決めたのだ。
だが。
(……俺が…勇者……?)
それはつまり…とシーアは呟くように思う。
(俺にできる事がある……世界を取り戻す為に、リスィア達と共に戦える…って……)
そういう意味なのか? と。

シーアが、ゆっくりと瞳を上げる。
ただ黙って自分を見詰めているリスィアを、まっすぐに見返して。
「俺…何をすればいいのか、全然、わからないけど……」
一語一句を噛み締めるように、シーアは言葉を継いだ。
「でも…俺に出来ることがあるなら……世界をヒトの手に取り戻す為に、俺に出来ることが、何かあるというのならっ……」
教えてくれ…と。
それへ、リスィアは静かに頷いた。
「…えぇ、何なりと。私は、勇者を導く巫女なのですから」
そこでふと言葉を切り、リスィアは僅かに目を細めた。
「…ただし、シーア……」
強い響きを含んだ声音。
「…あなたは、代償を払わなくてはならない」
リスィアの声に、木々の葉の低いざわめきが重なる。
「あなたは、勇者であるあなたを信じ、あなたに従って共に戦うモノ達の命を、犠牲として捧げなくてはならない。多くのヒトの命を…時には、勇者であるあなた自身を守る為に…共に戦うモノ達の命を…犠牲にしなくてはならない」
そして、そうやって倒れていったモノ達の想いを、すべて背負って行かなくてはならなくなるのだ…とリスィアは言う。
「ひとたび勇者として起てば、あなたには、もう二度と、諦めることが許されなくなる。あなたが諦めない限り、ヒトが滅びの途を辿ることはない。けれど、あなたが諦めれば、ヒトの滅びが決まるのです。それでも……」
目を閉じ、目を開き、シーアを見る。
そして、リスィアは問いかけた。
「それでも、あなたは『天地珠の巫女』の導きに、応えますか? 勇者たるべきモノ、シーア・グラツィアよ」
「…あぁ……」
睨むようにリスィアを見詰め返し、シーアが即答する。
「それで…世界が取り戻せるのなら。誰もが、魔の襲撃に脅えず眠れる…そんな世界にできるというなら。その為なら…っ!」
その為に、自分に出来ることがあるのなら、どんな事でもする…と。
一瞬の静寂。
そして。
静かに頷くと、リスィアはシーアに歩み寄り、その額にそっと口付けた。
「…私はあなたの巫女。あなたを、開くべき扉へと導きましょう」
囁くような、声。
けれどそれは、天と地の彼方から響いてくるようにも感じられて。
「勇者シーアよ。あなたの願いは、必ず叶う……」
ふわりと笑みを浮かべ、リスィアは言葉を継いだ。
「…これが……私の、最初の預言です」




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