微かな水の音。
岩を伝って流れ落ちるような、冷たい水音。
仄かに甘く青臭い、けれど透き通った、薄荷のような香り。

（……？）
ゆるやかに意識が戻ってきて、彼は、誘われるように目を開こうとした。
けれども。
全身が薄く熱をおびたように重く、だるく、瞼は少しも動かない。
目覚める前のまどろみのように、ひどくもどかしい感触。
（…み…ず……）
柔らかな葉を伝って零れ、せせらぎとなって流れていく水の音。
幾筋もの小さな銀の流れは、やがて、川となる。
そこへ行きたい…と、彼は思う。
冷たい水に浸ったなら、体を被うこの熱が癒されるような、そんな気がして。
それなのに、起き上がるどころか目を開くことすら叶わず。
どんなに必死になっても、指一本たりとも動かない。
（……みず…が…）
水が欲しい。
動けないのだという事を自覚した途端、焼けるような渇きを感じて、彼は喘いだ。
全身を炎で炙られているかのような熱さと、苦痛すら伴う程の激しい渇き。
何とかして起き上がろうとしても、身動きひとつできない。
その事実が焦燥感を煽り、渇きを、いっそう耐え難く感じさせる。
と。
不意に、乾いた唇に硬く滑らかな何かが触れた。
冷たいモノが口の中に流し込まれる。
それが何かを考える余裕もなく、彼は、貪るように飲み込んだ。
舌先を掠める、微かな苦味。
ほんのりと香る、緑の甘さ。
身体の隅々にまで染み渡るような、冷たく澄んだ、水。
火照りを鎮めてくれる、至上の甘露。

やがて、唇に触れていたモノが離れていく。
とても満たされた気分で、彼は小さく息を吐いた。
つっ…と何かが額に触れる感触。
濡れた指先。
ふわりと馨る、甘い香り。
歌声が遠く聞こえて。
ひどく懐かしい、その旋律。
サラサラと砂が零れ落ちるように、彼は再び眠りに落ちた。

その天幕には、一行の中の主だったモノ達が、集っていた。

正面奥に座るのは、紺青の衣を纏った痩身の青年。
灰色の髪を後ろで編んで束ね、深い緑の石を埋めたサークレットをして。
それは、彼が『地の三賢師』のひとりであり、医薬の智を伝え受けたモノである事を示している。
その、額の石と同じ深緑の瞳で一同を見回し、ズァインは、ゆっくりと頷いた。
「大丈夫です。危ないところだったのは確かですが、しかし……」
流れた血の量から想像したよりも遥かに早く、完治するでしょう…と告げる。
その言葉に、天幕の中が安堵の溜め息に満たされた。
「それにしても……」
と、軽く目を閉じて首を振り、ズァインが言葉を継ぐ。
「あれ程の傷を負ってなお、致命傷が一つも無い…というのは、実際、驚くべきことです」
内臓に達する程の傷も、腱を切るような傷も、砕けた骨も、無い。
完治が不可能となるような致命的な傷は、ひとつとして、無いのだ。
意図しての事か、無意識のうちにした事なのか…それは定かではないが…いずれにせよ、並々ならぬ強運と生への執念とが無ければ、およそ不可能な事でしょう、とズァインは語った。
「…確かに彼の御方こそ、運命の流れを変えるほどに、強き想いを抱きしモノ…です」
ズァインのその言葉に、声にならないざわめきが細波のように広がり、やがて、ゆっくりと収まる。
期待を秘めた静寂。
一同の視線を集めるのは、ズァインの右側に座る、黒紫の衣を纏った初老の男。
三賢師の長である、ルドラだ。
指示を求めるような一同をぐるりと見回し、ルドラが静かに口を開く。
「……いずれにせよ、すべては、彼の御方がお目覚めになられてからのこと。今は各々、予てよりの指示に従って、成すべきことをしておくように。勇者が、天地珠の巫女の導きに応えて起つ…と決意された時、即座に従って動きだせるように……」
万事おさおさ怠り無く…というルドラの言葉に、一同は一斉に頷いた。

「ところで……」
皆が其々に散って行き、残ったのが自分とズァインだけになったところで、ルドラは問いを発した。
「…あの村から助け出したモノ達は…？」
ズァインが小な溜め息を吐いて答える。
「手を尽くしましたが……。結局、助けられたのは八人だけでした。ですが……」
と、ズァインは言葉を継いだ。
「それでも、同じような襲撃に遭った他の村に比べれば、助かったモノは多いのです。おそらく、あの御方が戦って、襲撃者達の注意をひいた為…でしょう」
「そうか……」
「まさしく、彼の御方こそが……」
苦しげな低い呟き。
ふと目を伏せて。
沈黙。
「………ズァイン…？」
気遣わしげなルドラの呼びかけに、ゆっくりと顔を上げ、ズァインは笑った。
「大丈夫です。私の事はご心配なく。…それでこそ……それでこそ、彼女が今生を捧げ、天地珠の巫女となった甲斐があるというものです」
衣の影でぎゅっと拳を握り、立ち上がる。
「天地珠の巫女を補佐し、勇者の助けとなる事こそ、『地の三賢師』の一人たる私の勤めであり…喜びでもあります……」
彼方の一点を見据えて言う。
そして、黙ったままのルドラを振り返った。
「彼女の願いは私の願い。そして、総てのヒトの願い……違いますか？」
深い想いを秘めた、緑の瞳。
「必ず、この世界を我等ヒトの手に取り戻す……。その為に、彼女は今生の総てを捧げたのですから」
あくまでも静かな声音で語るズァインに、ルドラは、ゆっくりと頷いた。

寄せては返す、波のようなざわめき。
遠く、近く、そしてまた、遠く。
ほんやりとした淡いクリーム色に満たされた視界の中を、灰色の影が揺れて。
彼は、それを見るともなく、眺めていた。

ゆっくりと瞬きをする。
（……？）
長い時間をかけ、彼は、視界の中のクリーム色が、陽光に透けた天幕であるという事に気づいた。
その上で踊る灰色は、天幕の向こう側にある、木の枝が作る影。
波のようなざわめきは、木々の葉が風に揺れる音。
（俺…は…？）
目を瞬かせて息を吐き、吸う。
仄かに甘い、薄荷のような香りが、胸の中を満たして。
（ここは…一体……？）
そう考えながらノロノロと視線を動かし、彼は周囲を見回した。
薄茶色の布で造られた、壁と床。
大小の葛篭が、壁に沿って並べられている。
四隅には、小さな木の台。
そこに乗せられている白っぽい器から薄い煙が立ち昇っていて、おそらくそれが、香の源なのだろう…と彼は思った。
足元方向に目をやれば、木枠に薄い茶の布を張った衝立がある。
その向こう側の壁布に人影が映っているのに気付き、彼はハッとした。
（…誰か…来た…っ）
咄嗟に身を起こそうとするが、微かに頭が持ち上がっただけで、起き上がれない。
そうこうしているうちに、衝立の影から一人のヒトが現れた。

（…ぁ……）
水瓶を持って立つ、その姿。
それが視界に入った途端、彼は、自分が身を起こそうとしていた事を忘れ去った。
目を見開き、動きを止めて、目の前に現れたそのモノを見詰める。
音が消え失せ、周囲の風景が消え失せ、まるで、何も無い虚空に自分と相手だけが居るような、そんな錯覚に陥って。

長い銀絹の髪。
僅かに光沢のある、白い薄布を何枚も重ねた衣。
細い腰に巻きつけられている、色とりどりの紐。
茶の皮紐に括りつけた、掌に乗る程に小さな水晶の破片を、首から下げて。
滑らかな白磁の頬。
艶やかな薄紅の唇。
まっすぐに見詰めてくる、銀灰色の瞳。
そこに宿る光に…魅せられる。

「喉が渇いてはいませんか？」
不意に近くで声がして、彼はハッと我にかえった。
いつのまにか、傍らに彼女が居る。
（…え…？）
言われてみれば、確かに喉が渇いていて、彼は頷いた。
彼女が手に持っていた水瓶から碗へと水を注ぎ、彼の口元へ近づける。
「ゆっくり、お飲みなさい…」
その柔らかな声音には、妙に聞き覚えがあった。
それを訝しく思いながらも、彼は注がれるままに水を飲む。
甘い緑の香がする、仄かに苦い、その水を。
（……あ…っ…）
不意に、彼は思い出した。
（…あぁ……そう…だ……）
眠っている間、ふと意識が現実の岸辺を漂った時、遠くから聞こえてきた歌。
その歌声。
それと、同じ声だ。
ゆっくりと視線を動かして、彼女を盗み見る。
（…一体…？）
彼女は何者なのだろうか？
あの、燃え盛る村から、どうやって自分を助け出したのか？
襲撃者達とは遭わなかったのか？
ここは何処なのか？
彼女が治療をしてくれたのか？
他にも誰か居るのか？
あれからどれくらい経っているのか？
知りたい事はいくらでもあった。
疑問が沢山ありすぎて、何から尋ねればいいのかすら、判らないくらいに。

碗を傍らに置くと、彼女は彼を真っ直ぐに見詰め、ゆっくりと口を開いた。
「あなたが知りたいと思っている事を、教えて差し上げましょう。ただし……」
そこで言葉を切って、身を起こしそうな勢いの…と言っても、実際には微かに頭が動いただけだったのだが…彼を、手で軽く制す。
「…ただし、あなたは未だ、長い話が聞ける程には回復していません。ですから、今、教えて差し上げるのは、少しだけ……。いずれ…あなたが回復したら…詳しい話をお聞かせします。いいですね？」
彼が不満そうに眉根を寄せ、それから、しぶしぶ…という風に頷く。
それへ微かな笑みを浮かべ、彼女は口を開いた。
「あの村からあなたを助け出したのは、私…正確には、『私達』です。あなたの他には、八人が助かっています」
その言葉に、やはりそうなのだ…と彼は納得する。この天幕は、目の前に居る女性が、ひとりで設えられるようなものではないし、何となくここにはヒトの気配…それなりの人数のヒトが居るような気配…があったから。
だが。
彼女の言葉には、そんな事よりももっと重大な事への示唆が、含まれていた。
（…八人が助かって…いる…。 俺の…他に……）
魔の下僕達は、ああやって村に火を放った後、村の外へと逃げ散ったモノ達を狩るのが常なのだ。
馬に乗って追いかける襲撃者達から逃れる事など、およそ不可能で。だから、大概は総てのヒトが狩られ、助かるモノは稀だ。
それなのに。
自分ばかりではなく、その他に八人ものヒトが助かっている…と彼女は言う。
という事は、まず間違いなく、彼女と仲間達は、魔の下僕であるモノ達と遭遇した筈だ。
（……アイツ等と…遭って……そして…今、ここに居る…？）
その事実が指し示す意味。
それは、あまりにも明白で、同時に、信じ難い事でもあった。
（…まさか……）
けれども、そうなのだろうか？
もし、そうなら。
（……もし…そう…なら…っ！）
息を詰めて、彼は彼女を見る。
震える視線で。
続きが聞きたいのに、聞くのが怖い。
先を促す事さえもできず、ただ黙って、彼女の次の言葉を待つ。
その視線をまっすぐに見返し、彼女は淀みなく言葉を続けた。
「ここは…勿論、完全にとは言い切れませんけれども…安全です。少なくとも、魔が直接出てこない限り…魔の下僕であるヒトが襲撃してきた程度であれば、たとえ数十人であろうとも、十分に対応できます」
（…っ！）
目を見開く彼に、ふわりと笑いかけて。
「えぇ、そうです。ここには、戦えるモノ…戦うモノが…居るのですよ」

その言葉。
音の連なりでしかないその言葉が、彼の頭の中で、ゆっくりと意味を形作る。
（戦う…モノが……居る……）
自分の他に、戦うモノが居る。
ここに。
今、自分が居る、この場所に。
「…ぁ……」
目を閉じて息を吐く。
信じていた。
総てが失われてしまった筈は無い…と。
何処かに、未だ、諦めていないモノが居る筈だ…と。
自分と同じ想いを抱いたモノが、必ず、何処かに居る。
戦う事を、未だ、諦めてはいないモノが。
他人を顧みることのできぬヒトを、哀しく想うモノが。
きっと居る。
どこかに。
だから、自分はひとりではないのだ…と。
それを疑った事など、一瞬たりとも無かった。
だが。
（…本当に……居た…！）
限りない安堵と、そして、喜び。
信じる事。
信じ続ける事。
諦めと絶望に満たされた世界で、希望を信じ続ける事。
何ひとつ変えられない自分に憤りつつ、それでも、いつか成し遂げられる時が来ると信じて、生き抜く事。
たったひとりで。
それが、どれほど辛かったか。
今、初めて判った。

「さぁ…今は、ここまでです」
眠くなってきたでしょう？ と言う彼女の言葉に、彼はうっすらと目を開いた。
確かに、全身が重く、安堵のあまり気が遠くなりそうで。
けれども。
もう一つだけ、どうしても尋ねたい事があって、彼は必死で目を開いた。
「…き……ぇ…は…？」
驚く程に弱々しく掠れた声が出て、彼は愕然とした。自分でも聞き取れないような囁き。
これでは何を尋ねたか判らないではないか…と、言い直そうとするけれど、たったそれだけの事が、ひどく難しい。
と。
それへ優しい笑みを向け、彼女は答えた。
「…リスィアです」
（……リスィア……）
「…ぉ……」
彼も、自分の名を言おうとする。
けれど、もう、目を開けている事さえもできない。
軽く髪を梳くリスィアの指。
ふわりと馨る、微かに甘い香り。
「…さぁ、お眠りなさい…シーア……」
（え…？）
何故、自分の名を知っているのだろう？ と彼は思う。
けれど、それを尋ねる事は、もうできない。
すぅっと意識が遠のき、シーアは眠りに落ちた。

歌声が響く。
遠く、近く、また遠く。
懐かしい、その調べ。
ふと目覚めかける度、その歌声が、ひとりではないのだという事を、教えてくれて。
もう長い間、感じる事の無かった、深い安堵。
自分を見守ってくれる天。
支え、癒してくれる地。
世界の鼓動に身を委ね、シーアは眠る。