「…な…ぜ……？」
呻きともつかぬ呟きが、彼の唇からこぼれる。
もう、何度繰り返したか判らない問い。
答の得られない、その問い。
けれど。
問わずにはいられない。
「…なぜ……？ なぜ…なんだ…？」

彼の眼前に広がるのは、たいして珍しい光景ではなかった。
燃え上がる家。
逃げ惑うヒト。
それを追いかけて捕らえ、あるいは殺す、ヒト。
地面に転がる死体。
馬の蹄がそれを踏みにじり、鮮血が散って。
悲鳴。
わけのわからない叫び声をあげながら、縄をかけられたヒトが引きずられて行く。
それは、珍しくもない光景だ。
今の、この世界では。
けれども。
「…何故…？」
血塗れた剣を杖に、必死で立ち上がりつつ、彼は呟く。
何故？ と。

何故、ヒトがヒトを狩るのか？
何故、戦いもせず、ただ逃げ惑うばかりなのか？
何故？
何故？
何故？
答えるモノは、居ない。

あの『滅びの日』の後、大多数のヒトは『魔』の支配を受け入れた。
諦めと、そして、絶望をもって。
ごく一部の例外的なヒト達は、いつの日にか魔を打ち倒して世界を取り戻すべく、深い森や山の中へ身を隠したが、それは本当に、ごく僅かの例外で。
殆どすべてのヒトは、魔の支配に屈したのだ。

そして。
あらゆる国が滅び、秩序も失われ、明かりを灯すことすら覚束ないなか、ヒトは、魔の襲撃におびえつつ、生き延びるだけで精一杯な日々を送る事となった。
夜毎、明日の夜明けが迎えられぬかもしれない恐怖に苛まれ続け、そんな夜がいつか終るという希望さえ無い世界。
そこに生きる事に、ヒトは皆、疲れ果てていって。
未来を想う事。
過去を記憶する事。
その総てを諦め、放棄し、ただ、『今』という瞬間を生き延びる。
もう、それ以外に何も考えられなくなり……

数世代を経た頃、ヒトは、二つに分裂していた。
ひとつは、ただその日を生きる事だけを考える、大多数のモノ達。
もうひとつは、魔による支配を積極的に受け入れ、その下僕となり、魔の求めるままに同族であるヒトを狩る、ごく少数のモノ達。
ヒトがヒトを狩る。
それが、魔が支配する世界の、新たなる秩序となった。

同胞に狩られる理不尽を、けれど、誰も嘆かず、誰も憤らない。

襲撃があった途端、ヒトは皆、我先にとげ散った。
一瞬前まで言葉を交わしていた、隣のモノを突き飛ばし、前を行くモノを引きずり倒して。
剣を取って抵抗を試みたのは、彼、ただひとりで。
けれどそれは、いつもの事なのだ。
いつでも、どんな村でも、彼以外には、戦うモノなど居なかった。
ヒトは、皆、ただただ逃げ惑うだけで。
すべてに絶望するあまり、己以外を顧みられないヒト達。
怒りよりも哀しさで、彼は剣をとる。

「やめろっ！」
剣を握り締め、人の波に逆らって駆け、いましも少女の髪を掴もうとした男の前に立ちふさがる。
「何だお前は？」
男の言葉が終らぬうちに、彼は斬りかかった。
「…っ！」
咄嗟に男が身を退く。
剣が肉を斬る感触。
鮮血が散って。
「…ちっ」
彼は小さく舌打ちした。
仕留められなかった。それが、手に伝わってくる感触で判る。
最初の一人で手間取るとは、と思う。だが、最初の一人を倒さねば、二人目にかかれない。
襲撃者達が何人なのかは判らないが、味方の数は分かる。
（俺だけ…だ……）
だから、この村のヒト達を守りたいのであれば、一人で全員を相手にしなくてはならない。
それなのに、最初のひとりですら、一撃で仕留められないとは…っ！
自分の非力さに腹が立つ。
（……くそっ…！）
力が欲しい。
せめて、村一つなりとも護れる力が。
あるいは、村のヒト達が逃げる時間を稼ぐだけの力が。
だが、そんな事を考えているような余裕は、彼には無かった。
「…てっめぇっ…！」
罵声と共に、男が剣を振りかざす。
飛び退いて剣を構え直し、彼は唇を噛んだ。

足元に滴るのは、返り血か？ あるいは、自分の血か？
それすらも、もう、彼には判らなかった。
一人目を倒した代償に右胸から脇腹を斬られ、二人目を倒した代償に左肩を刺されて。
目の前に立つのは、三人目の候補者達。
ふらつく足を踏みしめ、肩で息をしながら、彼は、己を取り囲む者達を見据える。
ヒトの悲鳴は、聞こえない。
ただ炎の爆ぜる音だけが、うるさい程に響いて。

逃げろ…と、理性が冷静に告げる。
ここに留まれば、死、あるのみ。
死ねば、もう、二度と戦う事はできない。
諦めたくないのならば、まず、生き延びろ。
生きてこそ、何かを成し遂げる事ができるのだ…と。

戦え！ …と、感情は激しく叫ぶ。
この惨状を前に、逃げるのか？ と。
生き延びて、それで、何が変わる？
これまでそうしてきて、今お前は、また、負ける。
所詮、勝ち目の無い戦いなのだ。
ならばせめて、一人でも多くを道連れにしてやれ…と。

何もかもがもう遅い…と、彼は悟る。
最早、逃げる事も、戦う事も、不可能だった。
背後には、轟音を上げて燃え盛る炎。
前方からは、魔の下僕であるヒト達がゆっくりと包囲を狭めて来て。
どこにも逃げ場など、無い。
そして……
ぐらり…と地面が揺れたような気がして、彼は膝を付いた。
勿論、揺れたのは地面などではない。
血の気の失せた唇を噛んでも、痛みすら感じず。
意識が霞む。
もう駄目か…と、彼は思う。
自分は、ここで死ぬのだろうか？ と。
誰一人助けられず、何一つ変えられず、答も判らぬままに？
（…い…や……だ……）
諦めたくない。
認めたくない。
負けたくない。
まだ、何もしていないのに。
ここで死んだら、総てを認めたのと同じではないか。
何ひとつ為し得ぬまま、今の世界を支配している力に押し流されてしまったら、結局、自分の負けではないか。
（……そんな…のは……嫌…だ……）
諦めてたまるか、と思う。
何故、今の世界がこうなのか？
違う在り方は無いのか？
本当に総てのヒトが、絶望のあまり、憤りも怒りも悲しみも何もかもを、無くしてしまったのか？
もう、どんな希望も、その欠片すら、無いというのか？
（そんな…筈が……あるか…っ！）
未だ何かが残されている筈だ、と思う。
総てが、本当に総てが、失われてしまった筈は無い、と。
剣を杖に、何とかして立ち上がろうと、彼はあがく。
けれど。
手足を感じることすら、もう、できなくて。
総ての存在が遠退いていき、そして、彼の世界は闇と静寂に包まれた。

平原を駈ける白い鹿。
その背から後方へと銀の髪がなびく。
銀灰色の瞳が見据えるのは、炎に包まれた村だ。
「……」
急いで…と言うようにリスィアが鹿の背に触れると、その想いに応えるように、白鹿はいっそう足を速めた。

その後方。
ひと呼吸毎に差を広げられながらも、三頭の馬達が必死で白鹿を追う。その更に後ろには、十数騎が長い列を作って続いて。
それぞれの背に乗るのは、旅装束に身を固めた、巫女や神官達。
（間に合う…のか……？）
一同の胸中を不安が掠める。
しかし。
今、彼等に出来る事は何も無かった。ただ馬の背に身を伏せ、落ちないように、馬の邪魔をしないように、しているより他には。
馬を急かす必要は無い。
急がねばならぬことは、馬達にもよく判っていたから。
この世界に生きるすべてのモノと心を重ねられる、天地珠の巫女クゥ・リスィア。彼女の想いを、馬達も共有しているから。
早く…少しでも早く……。
炎に包まれた村へと、馬達は駆ける。

男が地面に倒れ伏したのを見て、遠巻きにしていた襲撃者達は視線を交わし合った。互いの胸中を探り合うように。
近付いてとどめを刺すべきか、それとも、放っておけば良いか、あるいは、捕らえて連れて行くべきなのか。
（どう…する……？）
いつも通りの簡単な仕事だった筈なのに、既に二人が殺られていて。
三人目になりたいモノなど居なかった。
沈黙。
その時、大地を蹴る蹄の音が襲撃者達の耳に届いた。
（？）
振り返った視界の中を、白銀の光が通り過ぎて。
はっと気付けば、襲撃者達と倒れた男の間に、一人の女性が立っていた。
「な……」
火の粉を散らす風に舞う、長い銀絹の髪。
白磁の頬に、薄紅の唇。
微かに光沢のある白い薄布を幾重にも重ね、色とりどりの紐で腰のところを結んだ服。
足元を吹き抜ける風が衣の裾をはためかせると、布の間から白い足が垣間見えて。
あまりといえばあまりに場違いな姿に、襲撃者達は息を呑んだ。
まっすぐに見据えてくる銀灰色の瞳。
その視線に宿る光が、先刻まで彼等を悩ませていた男と重なる。
「速やかに、去りなさい」
燃え盛る炎の轟音すら圧倒する、凛とした声。
「……さもなくば…」
言いかけて、リスィアはクスっと笑った。
「…遅かったみたいね……」
（？）
何の事か判らずに呆然とする襲撃者達の耳に、複数の蹄の音が届いた。
同時に、馬の嘶きと男の悲鳴。
「な…っ？」
「…ぅあっ！」
そして。
「遅くなりましたっ、クゥ・リスィア」
「三賢師も、もう間もなくの到着かと」
「この場は我等が」
馬の背から舞い降りたのは、薄茶色の革鎧に身を固め、抜き身の剣を携えた三人の巫女達であった。
天地珠に仕える巫女達の中でも、特に剣舞を極めた三人。かつてリスィアもその一人であった『天の三剣姫』。それが、彼女達だ。
その背に、リスィアが声をかける。
「追い払うだけで結構です」
「はいっ」
「解りました」
「承知」
答える声が重なって。
それへ頷くと、リスィアは地面に倒れ伏している男を振り返った。

数え切れない程の傷。
血に濡れた茶の髪。
その傍らに膝を付き、呼吸を確かめる。
（……よかった…）
生きている。
自分達は、間に合ったのだ。
（天地珠よ……）
短く祈りの言葉を呟いて。
気を失ってもなお剣を握り締めたままの手に触れ、リスィアは静かに囁いた。
「…お迎えに参りました…勇者・シーア……」

未だ衰えない炎に包まれた村を後にして、騎馬の一隊が離れていく。
中央の一騎を護るように囲み、先頭を走る白鹿に導かれて。
その後方を、追手を警戒しつつ追うのは、三剣姫。

「……ついに、始まる…のね」
「えぇ」
「…はい……」
一人の呟きに、残りの二人が頷いて答える。
「運命を変える…勇者……」
そのモノが、今、自分達と共に居る。
勇者を導く巫女と共に。
まだ、たったそれだけなのだ。
自分達は、今やっと、出発点に辿り着いただけだというのに。
それなのに……
「……不思議だわ…」
「え？」
「未だ、何ひとつとして始まってすらないのに、それなのに……」
「何とかなるような気がしてきた？」
「えぇ」
果たして、ヒトが魔に敵うのか？
本当に、世界を取り戻すことができるのか？
自分達は、最後まで生き残る事ができるのか？
魔のモノを相手にして。
何の保証も無い。
魔とヒトとの間にある、圧倒的な力の差を考えた時、恐ろしくならないモノが居るだろうか？
けれども。
「…勇者が共に在る限り……」
「……彼のモノが諦めない限り…」
「ヒトが、滅びの路を辿ることは無い」
希望。
もう永い間、ヒトが忘れていた、希望。
たとえ自分が倒れようとも、勇者が、必ず、世界をヒトの手に取り戻してくれる。
その確信が、恐怖を鎮め、力を与えてくれるのだ。
おそらくそれが『勇者』という存在なのだろう。

視線を交わしあい、三人の巫女達は微笑む。
「さぁ…」
「行きましょう」
「…えぇ…」
前方に見えてきた森を目指し、馬達は足を速めた。