沈みゆく太陽の光に長い影を引きながら、一騎の騎馬が駈ける。
規則正しく響く、蹄の音。
ひたひたと迫ってくる夜の気配を振り切るように、前方の森を目指して一直線に駆ける。
馬の背に伏せているのは、茶の革鎧を着て剣を佩き、枯葉色のマントをすっぽりと被った巫女。
マントの端からこぼれてなびく髪は、白い毛の混ざった金茶。
鋭く前方を見据える瞳は、翡翠。
その瞳が、前方の森の中から駆け出してくる一騎の騎馬を見つけ、ふっとほころんだ。
「…おやおや……」
こちらに向かって駆けてくる馬。
その上で、乗り手が立ち上がって、大きく手を振る。
「……ア……レ……ィナー…ッ……！」
切れ切れの叫びに、翡翠の瞳の巫女は苦笑した。
「…リヤンナ…？ ……まったく…あの子は……」
困ったモノね…と呟く言葉に、馬がピクリと耳を動かし、そして、心持ち、脚を速める。
「…悪いわね……」
巫女が、馬の耳に囁いて。

その日最後の陽光を浴びながら、二騎の騎馬は、森の中へと駆け込んでいった。

「まさか、こんなに早く着くなんて……！」
見張りから報告を聞いた時には驚きましたよ…と言うリヤンナに、翡翠の瞳の巫女は、笑みを浮かべて答えた。
「そっりゃあ、急いだもの……。なんたって、薬草は『出来る限り早く』届けてくれって話だったからね」
その言葉に、並んで歩きつつ、リヤンナが頷いて。
「えぇ…。薬草が不足してるのを、ズァインは、ものすごく心配してましたから」
「ふーん……そうなの…」
何やら含みのありそうな返答。
それを、リヤンナが訝しげに見遣る。
「…アレィナ…？」
クスっと笑い、アレィナと呼ばれた巫女は首を振った。
「なんでもないわ。……とにかく、その薬草を、急いでズァインに届けちゃって頂戴。私は……クゥ・リスィア…のところへ、到着の報告に行くわ。引継ぎの話は、それからにしましょ」
「わかりました。……クゥ・リスィア…は、ルドラ達の天幕で、明日の打ち合せをしてますから」
頷きながらそう言い、リヤンナが踵を返す。
それへ、アレィナは急いで声をかけた。
「…あぁっ、ちょっと待って！ 私が来たって事、ズァインには、まだ、内緒にしといて」
後で行って、驚かせてやるんだから…と言うアレィナの言葉に、リヤンナが苦笑する。
「…了解です！」
親指を立てて頷いて。
「では、また後で！」
そう言って軽やかに駆けて行く背を見送り、そして、アレィナはふぅ…っと、溜め息を吐いた。
「…ズァイン…か……」
低い呟き。
（……薬草の不足を心配してる…ってんなら、ま、大丈夫…なのかしらね……）
そうであれば良いのだが…と思い、そして、もうひとりのことを考える。
（…あの子の方は……どうなのかしら…？）
銀の髪と瞳を持った、かつての弟子。
『天地珠の巫女』たる、クゥ・リスィアのことを。

かつてアレィナは、『天の三剣姫』の長として、才ありと思われるモノ達に、様々な技を教え伝えていた。
現在の長を勤めているラィラも、そういった弟子達のひとりだ。
そして、リスィアも。
アレィナの教えた、決して少なくは無い弟子達の中で、リスィアは特異な存在だった。
彼女は、驚くべき早さで、あらゆることを学び取って行った。
敢えて教えるまでもなく、アレィナの傍らに居るだけで、その歩き方からさえも、何かを学んでいくかのようで。
僅か数年で、アレィナに教えられることは、何一つとして無くなり……
己以上に鮮やかに舞うリスィアの姿を目にした時、畏怖にも似た諦めとともに、アレィナは、『天の三剣姫』の座を退くことを決意したのだった。

（…あれから……何年…？…）
リスィアに『天の三剣姫』の座を譲ってから、まだ、そう長い時間は経っていない。目を閉じれば、未だ幼さの残る少女だったリスィアに初めて会った日の事でさえ、まざまざと思い出せる。
だが。
あの頃のアレィナが想像すらしなかった方向へ、物事は動きだしていた。
今やリスィアは、一族のみならず総てのヒトと総てのモノを護り導く、天地珠の巫女となり、『勇者』を見出し、戦いを始めようとしている。
世界を賭けた、預言されし戦いを。
明日にも勇者が正式に起ち、ついに、総てが始まるのだ。
そしてリスィアは、その戦いに臨む総てのモノを…勇者すらも含めた、総てのモノ達を…導いて行く。
ただひとりで、頼る相手すら無く。
（…だから…その前に……勇者が正式に起つ前に……何か……）
師であったモノとして、何か、彼女にしてやれる事は無いのか？
せめて一言なりと、かけてやれる言葉は無いのか？
そう思ったら居ても立ってもいられなくなって、呼び出されたのをこれ幸いと、里を飛び出して来た。
だが。
「……馬鹿ね…私も……」
苦笑。
自分が彼女の師匠であったのは、既に過去の話。
『天の三剣姫』の一翼を退き、その座を彼女に譲った時から、彼女は自分の弟子ではなくなった。
（……いいえ…違うわ。私が、師として彼女に教えた事なんて……）
本当は、何も無かったではないか。
師とはいっても、それは、名ばかりのことで。
ふぅっと溜息を吐く。
「預言されしモノ…か……」
だが。
総ての預言は、成就されるまでは、単なる願いにすぎない。
一族のものは皆、そのことを知っている筈なのだ。
けれど、誰もがそれをあえて忘れ、思い出さないようにしてきた。
預言が成就される事を、ただ祈るばかりで、その為に自ら動きだそうとは、しなかった。
「…そう……私…も……」
自分も、そういう輩のひとりだったのだ…と、アレィナは苦く想う。
『天地珠の巫女』になる為に、資格はいらない。
巫女であれば誰でも、望めば…望みさえすれば…なることができる。
必要なのは、今生の総てを捧げる、その、決意だけ。
（……あの子である必要は…なかった……）
この自分にも、できた筈のことなのだ。
（そうすれば……ズァインも…レィミアも……）
恋人を失うことも、姉を失うことも無かった…と、アレィナは低く呟く。
（…レィミアは、まだいいわ……）
姉妹であろうとも、いずれは、別々の道を歩むことになる。
それが早いか遅いか、レィミア自身に、その準備ができていたかどうか…ただ、それだけのこと。
けれど。
（…ズァイン…は……）
生涯を共に歩もうと、それ程までに想っていた相手だった筈なのだ。
勿論、彼女の方とても、そう想っていた筈で。
その相手を、失った。
（いいえ…失った……なんてモノじゃあ、ない……）
彼女は、捨てたのだ。
ズァインと共に在る未来を。
それは勿論、世界を…未来を…手にする為であって、世界が無ければズァインと共に在る未来そのものが無いから…でもある。
極めて理に適っているし、彼女らしいといえば、確かに、この上も無く彼女らしい。
けれども……。
そう想い、そして、アレィナは溜め息を吐いた。
「駄目駄目駄目…駄目ねぇ、ほんっとに……」
首を振って、苦笑する。
「結局、私には、それができなかった…。あの子のようにすることが…できなかった……」
『天地珠の巫女』になるのが、彼女である必要はなかった…自分でも良かった…と言ったところで、それは空論だ。
自分には、できなかった。
行動すれば良いだけだったにもかかわらず、しなかった。
それが事実。
動かしようの無い、厳然たる事実。
「…『すべての事には、それをする為の才が要る』…か……」
彼女が自ら『天地珠の巫女』たる事を望んだ、そのことこそが、彼女が『天地珠の巫女』たる資質を持ったモノであることの証拠。
長きに渡り、誰にも出来なかったことをする、その才を持ったモノであることの、それこそが証明なのだ。
「…やれやれ…」
大仰に首を振って、アレィナは髪を掻き上げた。
指先に絡まる数本の白髪を睨んで呟く。
「……出来なかったことをクヨクヨ悩むのは、もうちょっと年寄りになってからでも、良んじゃなくって？」
今は、後悔に沈む事が許されるような、そんな場合ではない。
（あの子が、世界の為に捨てたもの…捨てざるをえなかったもの…それを……）
少しでも拾い、補うこと。
（…それっくらいは…しなきゃね……）
苦笑交じりに呟きつつ身を翻し、そして、アレィナは、ルドラ達の居る天幕へと向かった。

夜更けの静けさが、森を覆っていた。
微かな風の音に、遠く獣の鳴声が混ざる。
それが掠れて消えると、周囲は、更なる静寂に沈んだ。

チリリリ…と、天幕の入口に下げられた鈴が鳴って、客の訪れを告げる。
その音に、一族の里から届いた薬草の袋を広げ、中身の整理をしていたズァインは、いぶかし気な表情で入口の方を見遣った。
もう、かなり遅い刻限で、ヒトが訪ねてくるような時間では無い。
急患というのであれば、勿論、この限りではないのだが、その場合には、緊急用の鐘を鳴らすことになっている。
普通の、単なる来訪を告げるだけの鈴を鳴らすというのは、だから、病気や怪我の治療を求めての事ではなく、ズァイン個人への、純粋な来客だ。
（……こんな時間…に？）
「どうぞ？」
不審気な色を込めた声。
その声に応え、衝立ての影からひとりの女性が姿を現した。
僅かに白っぽい毛の混ざった、金茶の髪。
翡翠の瞳。
目元には皺が刻まれ、くすんだ唇の周囲にも、小さな皺が見て取れる。
けれど。
「……悪いわね、遅い刻限に。でも、こんな時間まで起きてるあなたの方も、良くないんじゃなくて？」
茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべて発された言葉。
その声は、未だ、艶やかな響きを失ってはいなかった。
「…あ……アレィナ…？」
ズァインが目を見開く。
「そうよ。久しぶりね〜、ズァイン。元気だったかしら？」
にこやかに言うのは、勿論、かつて『天の三剣姫』の長であった、アレィナだった。

「一体…いつ…？」
優雅な仕種で衣の裾を引きながら、ふわりと座るアレィナを呆然と見つつ、ズァインは呟くように尋ねた。
それへ、アレィナがひょいっと肩をすくめて、笑う。
「今日の日没前に、その…」
と言って、ズァインの前に広げられている薬草の束へと視線を送って。
「……薬草の運搬係として、ね」
「運搬係…って、あなたが…ですか？」
あなた程のモノが、そんな事を…と言いかけたズァインの言葉は、しかし、あっさりと遮られた。
「なぁに？ 私に、薬草の運搬ができないとでも？ ちゃあーんと、慎重に運んだんですからね。傷みは少ない筈よ」
「え…えぇ、えぇ、それはもう……」
ズァインが慌てて首を振る。
「…いえ、ですから…そうではなくって……。あなた程の方に、そんな雑事を……」
そう言うズァインを軽く睨み、アレィナは言葉を継いだ。
「なに言ってるの。ついに戦いが…ヒトの未来を賭けた、戦いが…始まろうというのに、里で呑気にお茶なんか飲んでられる訳、ないでしょ？ それに……」
どんなことも、その必要があるからこそ、やるのだ。
それが成されなくてはならない…という点では、どんな任にも、差はない。
「…不要なことに手を割けるほど、私達に余裕があるのかしら？ ズァイン。『雑事』なんて、ひとつたりとも、無い筈よ。すべての任は、間違いなく成されなくてはならないモノ。違う？ だいたい、あなたは『早急に』薬草を届けて欲しい…と書いて寄越したんではなくって？」
それとも、あれは嘘だったのかしら？ というアレィナの言葉を、ズァインは急いで否定した。
「…いえっ。それは…それは勿論っ。……あ…ありがとうございました」
深々と頭を下げるズァインに、アレィナは鷹揚に頷いてみせた。
「そーでしょう、そーでしょう。最初っから、そう言えば良いのよ〜。でもね…」
くすくすと笑って言葉を続ける。
「それは、口実」
「え？」
「勿論、薬草を一番早く届けるには、私が適任だった…ってのは事実だけれど」
私だったら護衛も要らないからね…と言うアレィナの言葉に、ズァインは目を丸くした。
「…ちょっ……ま…まさか、ひとりで……？」
「そうよ」
さらりと答えるアレィナに、ズァインが額に手を当てて首を振る。
「……あなたという方は…なんて無茶を……」
「どこが無茶なの？ それこそ、あなたが先刻、言った通り『わたし程』のモノを護れるようなモノが、居るとでも？」
「…それは……その…」
確かにそうだった。
アレィナは、リスィアに座を譲って『天の三剣姫』を退いて久しいとはいうものの、未だ、気力にも、体力にも、そして勿論、剣技にも、些かの衰えも無い。
経験と、それによって支えられる技の冴えは、現在の『天の三剣姫』達とも、十分に渡り合える程だろう事は、疑う余地も無く。
「…その…それは、それはそう…なのですけれども……」
それにしても、もう少し別のやりようがあったのではないか…と呟くズァインへ、アレィナは静かに言った。
「…あなたの事が、心配だったのよ……」
「え？」
あまりにも真摯な表情。
翡翠の瞳に見詰められ、ズァインがとっさに言葉を失う。
沈黙。
が。
次の瞬間、アレィナの瞳に笑みが弾けて。
「…な〜んてね。嘘よ、嘘」
「は？」
話の展開についていけず、ズァインが固まる。
それをクスクスと笑いながら見遣り、アレィナは言葉を続けた。
「そりゃあ勿論、それも無い訳じゃないけれどもね」
しかし、本当の理由はそれではない…とアレィナは言う。
「リヤンナが泣き付いてきたのよ」
ここには、今、これまでの旅の途上で助けた…そして、その後、共に戦う事を望んで同志となった…一族以外のモノ達が居る。
リヤンナは、それらのモノ達に、身を護る為の技を教えている。
けれども。
基礎の基礎すらなっていない…それは、勿論、無理もない事なのだが…モノ達を教えるのは、並大抵ではなく、また、いよいよ勇者が起つ…となれば、『天の三剣姫』としての努めが優先されるから、そういったモノ達を教えるのに時間を割くような余裕はなくなる。
しかし。
こういった『一族以外の同志』は、この先、どんどん増えていくだろう。何しろ、それこそが当面の目的なのだから。それ故に、そういったモノ達の教育…と、万一の際の護衛…を担当するモノが、どうしても必要だった。
「…で、私が呼び出された…ってワケ」
「な…るほど……」
そうであるのならば納得できる…と、ズァインは我知らず息を吐いた。
その様子を、アレィナがじっと見て。
そして、言った。
「それに……ひと目、見ておきたかったからね…」
「え…？」
何を？ と言いた気なズァインに、アレィナが肩をすくめる。
「…決まってるでしょ。『勇者様』を、よ」
「……あ……あぁ…そう…ですか……」
「それで？ どうなの？ その『勇者様』とは…うまくいってるの？」
「……えぇ…」
ぎこちなく、ズァインが頷く。
「…うまく…いってると……そう…思いますよ。勇者シーアと…クゥ・リスィアは……」
「違う、違うっ」
大きく首を振るアレィナに、ズァインは目を瞬かせた。
「え？」
「クゥ・リスィアと…じゃあ、ないわ」
勇者とそれを導く巫女がうまくやっていけている…というのは、それは、いわば当然のこと。わざわざ尋ねるまでも無い…とアレィナは言う。
「そうじゃなくって、あなたと…よ、ズァイン。あなたは、その『勇者様』と、うまくいってるの？」
アレィナの問いに、ズァインが、ふぃっと視線を逸らした。
「……私は…べつに……」
抑揚の無い声。
「…シーアとは……普通ですよ…」
自分とて『地の三賢師』の一枝。勇者の力となるのが己の勤めなのですから…と、どこか棒読みな口調でズァインが言う。
「…ふ〜ん……」
「……何…か……？」
ズァインが、訝しげに眉をひそめる。
それへ、アレィナは、何やら言いた気な笑みを向けた。
「……『シーアとは』…ね」
「？」
何を言われているのか判らずに、きょとん…とするズァインへ、満面の笑みを浮かべてアレィナは言葉を続けた。
「…ねぇ、ズァイン。仮にも『勇者様』を、呼び捨てにして良いものなのかしら？」
『地の三賢師』の一枝ともあろうモノが？ と言うアレィナに、ズァインが、ハッと目を見開いて。
「…あ……」
しまった…というように俯くズァインを見つめ、アレィナがクスクスと笑う。
そして、言った。
「……ちょっと安心したわ」
「…アレィナ…？」
「正直言って、それが心配だったのよ。だって、勇者を支えるべき『地の三賢師』の一枝たるモノが、勇者と険悪な関係だったら……マズイでしょ、やっぱり」
仲良くしてるみたいで良かったわ…と言うアレィナに、ズァインは諦めたように溜め息を吐いた。
「……そう…ですね……まぁ…それなりに……」
宙に視線をさ迷わせ、呟く様に言う。
「…シーア…勇者シーア…は、ひどく純粋です……。全然、モノを知らなくて…まっすぐで……。ほんの些細な事を教えただけで、いちいち感心して……」
苦笑。
「私には弟など居りませんけれど…でも、そんな感じなのです」
そんな風に思うなど、本来なら、畏れ多いことの筈なのに…と言うズァインに、アレィナは首を振った。
「別に、いいんじゃないの？ 勇者といえど、私達と同じヒトなのだから……」
ただ、果たすべき役目が違うだけで。
「……そう…でしょうか…？」
「そうよ。ただ、それだけのコトよ」
そしてそれは、リスィアも同じなのだ…と、アレィナは心の中だけで続けた。
（…その事を……判って欲しい……）
そう思い、内心で首を振る。
（いや…判らない方が…良いのかしら…？）
どちらの方が、ズァインにとって…そして、リスィアにとって…良いのか？ その答えは、アレィナには、未だ、判らなかった。

「…じゃあ、これで失礼するわね」
明朝は早いんだから、早く寝なきゃ駄目よ…と言って立ち上がるアレィナに、ズァインは小さく頷いた。
「えぇ、なるべく……」
「…『なるべく』？」
「…いえ…その……きっと……」
慌てた様に言い直すズァインを、アレィナが軽く睨む。
「『絶対に』よ、ズァイン。良くって？」
「……判りました。『絶対に』寝ますから……」
「よろしい」
にっこりと笑って、アレィナが踵を返す。そして、衝立のところで、ふと立ち止まると、降り返った。
「……ズァイン…」
「はい…？」
一瞬の沈黙。
翡翠の瞳が静かにズァインを見詰めて。
ゆっくりと、アレィナは口を開いた。
「……ズァイン。…死んでは駄目よ」
「………」
「あなたには、生きて、新しい世界を見て欲しい。だから……約束して。必ず生き残る…と」
「………」
「ズァイン…？」
アレィナの呼びかけに、ズァインは目を伏せ…そして、首を振った。
「それは…できません」
「……ズァイン…！」
咎めるようなアレィナの声を、ズァインが瞳をあげて制する。
「…私は勇者の盾たるモノ。私の命は、勇者のものです。『地の三賢師』の一枝として、必要とあらば……」
命を捨てることもありうる…と言うズァインの言葉に、アレィナが唇を噛んで。
「………」
静かに息を吐き、そして、アレィナは頷いた。
「…そう……よね……」
髪を掻きあげて、苦笑する。
「……わかったわ。じゃあ……敢えてそれを求めないと…自らその『必要』を望まないと……そう約束して頂戴」
「…えぇ」
そう応じ、ズァインは微かに笑みを浮かべて言葉を継いだ。
「大丈夫ですよ…アレィナ。勇者には…シーアには……生きているモノの助けこそが必要だという事は、痛切に感じてますから」
まったく、『勇者』があんなに物事を知らなくて、かつ、手のかかる性格だとは思ってもみませんでした…とズァインが溜め息を吐く。
それを見遣り、アレィナは小さく呟いた。
「勇者が“そう”で…良かったわ……」
確かに、天地珠の巫女は正しい選択をしたのだ…と思う。
（…運命の鍵……か）
扉へ至る道は遠い。
だが、勇者は…そして自分達は…歩き始める。
天地珠の巫女に導かれて。
（終える為には、まず、はじめなくては…ね）
何もせずに過ぎ去った長い年月は、既に、過去となったのだ。
ならば、今は、今すべきことに注意を向けるべきではないだろうか？
その思いにひとつ頷き、アレィナは、改めてズァインを見遣った。
「……ともあれ、今の私達に必要なのは、明日に備えることね…」
もう『今日』かもしれないけれど…と言って、軽く肩をすくめる。
「じゃあ…おやすみなさい、ズァイン。約束を忘れないで頂戴よ」
「えぇ。『絶対に』寝ますから」
その言葉に重々しく頷き、そして、アレィナはズァインの天幕を辞した。

夜明け前の薄明が、世界を仄かに照らしていた。
蒼い空には明るい星だけが点々と散り、露に濡れた草木の葉から立ち昇る馨が、森の中に満ちる。
朝を待つ、期待と予感をはらんだ、清かな風。
もうすぐ現れる太陽の、闇を打ち払う、暖かな光の気配。
天と地の間に満ちる力の気配に、すべての存在が、まるで息をひそめ高鳴る鼓動を抑えているかのように感じられて。
わくわくするような、緊張。
初めて感じるその想いを胸に抱き、天地珠の巫女に従う一行のモノ達は、森の奥にある広場へと集い始めていた。

広場に足を踏み入れたモノは、先に着いているモノ達と視線を交わし、それから、自分の位置を探す。
既に居るモノの邪魔にならず、かつ、自分にも『その場所』が見えるような位置を見つけ、そこに立つ。
そして、他のモノ達と同様に、『その場所』を見詰めて、静かに待つ。
森の更に奥にある泉へと続く道の、その、入口。
そこに現れる筈のモノ達を。

やがて。
うっすらと漂う朝霧の中、ついに、その場所に人影が現れた。

最初に現れたのは、ひとりの神官とひとりの巫女。
向かって右に、初老の神官。
深紫の石を埋め込んだサークレットをし、黒紫の衣を纏って。手には、知を司る神官達の長たることを示す、古木の根で作られた杖。
それは勿論、『地の三賢師』が一枝であり、一族のまとめ役でもある、ルドラ・ダルフォだ。
ルドラの隣に並ぶのは、白金の髪に琥珀の瞳の巫女。
薄茶の革鎧を着、腰には剣を佩いて。首元に輝くのは、藍い石。その両側にあしらわれた二枚の翼が、彼女…ラィラ・ウィアース…が『天の三剣姫』の長であることを示していた。
ルドラとラィラは、広場の中に入ると左右に分かれ、一同の方に向かって立った。
二人が定められた位置に立ったところで、同じように、神官と巫女とが姿を現す。
ひとりは、赤錆色の衣を身に纏い、額に深紅の石を埋め込んだサークレットをした神官、ダナス・ルィーン。手に持つのは、木の幹から削り出した棒。
一方の巫女は、『天の三剣姫』が一翼たる、リヤンナ・ファルヴェ。革鎧を着て剣を佩き、赤茶の髪をきっちりと編んで。そこに挿された小さな花は、首元で輝く、左の翼をあしらわれた石と同じ、蜂蜜色だ。
ダナスとリヤンナが、先の二人と同様に左右に分かれて立つと、その後ろから、三賢師と三剣姫の最後のひとりづつが姿を現した。
深緑の石を埋め込んだサークレットをし、紺青の衣を纏った、ズァイン・ウェルハ。その手に、鮮やかな若木の一枝を持って。
隣に立つのは、革鎧を着て剣を佩いた、レィミア・レリアス。首元に輝く水色の石には、右の翼。それは、かつてリスィアが身に付けていたものだ。
二人は静かに左右に分かれると、各々の列に並んだ。
広場が静寂に満たされる。
全員が息をひそめて見守るなか、ゆっくりと、ルドラは前へ進み出た。
「皆に、報せる事がある」
朝靄の中に声が響く。
「…クゥ・リスィアの導きに従い、我等は、勇者たるべきモノを探して旅立った」
そこで言葉を切り、ルドラは手に持った杖を掲げた。
「今、勇者は我等と共に居る。勇者がここに在ることを、一同、その目で確かめるがいい」
無言のどよめき。
それを見回し、ルドラは三賢師の列に退がった。

静寂。
木々の梢が鳴る音すらしない。
誰もが息を潜め、目を見開き、耳を澄ませて。
静まり返った朝の空気。
微かに響く、衣擦れの音。
露に濡れた大地を踏む、ふたつの足音。
それが、近付いてくる。
そして。
数多の視線が集まるそこに、天地珠の巫女が姿を現した。
その隣に並ぶのは、簡素な革鎧を着て長剣を佩き、新緑に染めたマントをはおった、ひとりの青年。
やわらかな茶の髪。
澄んだ青の瞳。
その瞳が、一同を見回して。
向けられる、期待を込めた視線に、怯む様子も無く。
「…こちらへ……」
天地珠の巫女が促し、青年が歩を進める。
右に並ぶ『天の三剣姫』と、左に並ぶ『地の三賢師』の間に、青年が立つ。
そして、天地珠の巫女は口を開いた。
「勇者シーアよ…」
涼やかな声。
固唾を飲んで見守るモノ達を、片手を軽く挙げて示しつつ、優雅に一礼して。
「……これに集うは我等が同志。世界をヒトの手に取り戻さんと願うモノ達。彼等が共に行くを望むとしたら、勇者よ、あなたはそれを容れましょうか？」
ゆっくりと、勇者が一同を見まわす。
ひとりひとりを、確かめるかのように。
最後に天地珠の巫女を見遣り、勇者は答えた。
「ああ」
そして再び、その場に集ったモノ達へと視線を向ける。
「俺は、世界をヒトの手に取り戻したい。そして、魔に脅えずに済むように…ヒトがヒトを狩ることが無いように…したい。リスィアは……俺の願いは叶うと…そして、その為に何を成すべきかを、俺に、教えてくれると言った。そうだな？ リスィア…」
勇者が天地珠の巫女の名を呼んだ瞬間、広場の中に無言の細波が広がった。
驚き、そして、畏れ。
そう。
天地珠の巫女をその名で呼ぶことが許されるのは、勇者ただひとりなのだ。
今やヒトでない、世界そのものとも言える天地珠の巫女。その名を呼ぶなど、ヒトの身には許されざる事で。
けれど。
目の前に立つ青年は、それをした。
ごく自然に。
その行動が、一同に、彼が何者であるかを明確に示す。
勇者。
伝承として語り伝えられてきたその存在が、今、目の前に居るのだ。
現実に。
その衝撃に言葉も無く、ただ見詰める一同の視界の中で、天地珠の巫女は、ゆるやかに頭を垂れた。
「……はい、シーア…」
ゆっくりと瞳をあげ、勇者の問いに答える。
「…あなたの願いは必ず叶うでしょう。あなたが、諦めぬ限り……」
天地珠の巫女の言葉に、勇者が頷いて。
「俺は、諦めない。必ず、世界をヒトの手に取り戻す…」
一陣の朝風が、広場を囲む木々の梢を揺らした。
ざわざわと鳴る、無数の葉。
揺れる枝々をすり抜けて、この日最初の陽光が、広場に飛び込んでくる。
その光が、勇者を目指して。
朝陽に照らされた、茶の髪。
明るい青の瞳が、そこに集うモノ達を見る。
「……世界を取り戻す為に、共に戦ってくれるモノは居るか？ 俺と一緒に、戦ってくれるモノは？」
静寂。
そして。
次の瞬間、その場に集ったモノ達は、一斉に応えた。
勇者と共に行き、共に戦う…と。
世界を、取り戻す為に。

遠ざかっていく、勇者率いる本隊を、翡翠の瞳がじっと見送る。
（……ついに…はじまった……か…）
きゅっと唇を噛んで。
次に会うときには、あの中の何人かの姿が無いのは、まず、間違い無いだろう。
けれども。
（…勇者…シーア……）
まっすぐに前を見る鮮やかな青の瞳を思い出し、アレィナは笑みを浮かべた。
何かを求める、真摯な強い瞳。
そこに宿る光が、リスィアのそれに重なって。
（確かに……）
預言の勇者と、それを導く、天地珠の巫女。
あの二人をおいて他に、その役を成せるモノは居ないだろう…と思う。
（……願いを…預言を…真実に………）
祈るように呟き、そして、アレィナは降り返った。
自分に預けられた一隊を。
「さて…と。私達も、少し移動するわよ」
なるべく早く、里から来る別働隊と合流しちゃいましょう…とのアレィナの言葉に応え、彼女に従う一隊のモノ達は、ゆるやかに移動を開始した。