パチパチと音を立てながら燃える炎。
その上にかけられた大鍋から湯気が立ち上る。
辺りに漂う、ぴりりとした香り。
食欲をそそるその香りに包まれながら、シーアは嬉しそうに…けれど、慎重に…鍋をかき混ぜていた。
ひとしきり混ぜると手を止め、火の様子を確認する。暫く前まで燃え盛っていた炎は、その火勢をやや弱めていた。
（こんなもん…かな……？）
呟いて、首を傾げる。サージャからは、火勢が弱まってくれば概ね完成だ…と言われていた。混ぜた時の手応えも、最初の頃とは違った柔らかな感触で。多分、これで良いんだろう…と思い、シーアは振り返った。
「サージャっ、できたと思うんだけどっ？」
炊事場の反対側に居るサージャに届くように、心持ち強い声で叫ぶ。
すると、同じように大きな声でサージャが叫び返してきた。
「……ちょっと待っててくださいっ。コレやっちゃってから行きますからっ……」
「わかったっ」
そう返事をし、そして、シーアは大きく息を吐くと額の汗を拭った。
空を見上げる。だいぶ藍色を帯びた空は、もうすぐ一日が終わることを示していた。
（……イロイロあった一日だったな……）
けれど、その『一日』は、未だ、完全に終わってはいない。
（とにかく、皆、無事で良かった……）
低く呟き、シーアはもう一度大きく息を吐いた。

夕刻には未だ早い時間、丁度、シーアとサージャが皿洗いを終えた頃に、麓から第一報が入ってきて、レィミア隊が魔の下僕達の一隊を退けたことと、その戦闘でひとりの巫女が重傷を負ったことが伝えられた。
ズァインが行ったから大丈夫の筈だ……と思いつつ水汲みをしているうちに第二報が届き、件の巫女の無事とこの近辺には魔の下僕達は他に見当たらないことが伝えられた。同時に、本陣で隠されし刃の一族と天地珠の一族との相互連絡等について打ち合わせが行われている……との報も。
その伝令に、シーアは自分が本陣に戻った方が良いかどうか？ を尋ねる伝言を託した。本陣で自分が果たすべき事が、今、特に無ければ、ここで手伝いをしていたい……と。
返答を待つ間に水汲みを終わらせ、サージャに教わりながら野菜を切り……ついでに自分の指も切り……その所為で包丁を取り上げられ……鍋の見張りをするように言われたのだった。
視線を下ろして自分の手を見、シーアは溜息を吐いた。
指先の傷は、そんなに大きくは無いし、もう血も止まっている。けれど。
（……ズァイン…怒る…かな……？）
怒るか呆れるか嘆くか、いずれにせよ、叱られることは間違いないと思う。
いっそ黙っておこうかと考え、そしてシーアは首を振った。
（ズァインが、怪我を見逃すわけ無い……）
シーア自身でも気がつかない程の小さな傷でさえ、ズァインは目ざとく見つけるのだ。
一体、いつどこで怪我をしたんだろうか？ と首を傾げるシーアに、ズァインは言ったものだった。
『どんなに小さな傷でも、雑菌が入れば腫れたり膿んだりして、大変なことになるんですからね』と。
怪我をするなとは言わない。そんな事は言っても無駄だ。だが、怪我をしたら即座に適切な処置をするように。怪我をしたことに気付かないなど、言語道断だ。
『あなたは、くだらない怪我で倒れるなど、絶対に許されない立場なんですよ。判っているのですか、“勇者”シーア』
怒りすら込めた口調で、ズァインはそう言ったのだった。

「よぉ、シーアっ」
不意に声をかけられ、シーアは顔を上げた。そこに立っていたのは……
「ディサレ」
それは、隠されし刃の一族の三番隊隊長、ディサレだった。
「……伝令が来たぜ。ダナス…ってぇヤツからだ。今日はいいが、明日の朝、なるべく早いうちに本陣へ戻ってくれ…とさ。チョイと相談ごとがある…と」
「…相談ごと……？」
「あぁ。気になる情報が入った…とさ。明日の朝までに情報を取りまとめるんで、今夜はいい…てぇコトだ」
「…気になる……情報…か……」
何だろうか？ と首を傾げる。それへ、ディサレは軽く肩をすくめてみせた。
「ま、明日になりゃ判るだろうさ……」
その言葉に、シーアがディサレを見上げる。
「………」
「……何だ？」
じっと見上げてくる青い瞳に、ディサレが何となく気押された風に目を瞬かせて。
沈黙。
そして、シーアはゆっくりと言った。
「その情報って、何なんだ？ あんたは知ってるんだろう、ディサレ？」
ディサレが目を丸くする。
「なんで……？」
何で判ったんだ…という言葉に、シーアは笑った。
「やっぱりな」
「え？」
「『気になる情報』ってのが何か、あんたが不思議に思わないわけない…って思ってさ」
何故ならば、ディサレは隠されし刃の一族のモノで、留守を預かる一隊の隊長でもあるモノなのだ。そのモノが、魔の下僕達の襲撃があったという日に、『気になる情報があった』と聞いて、その内容を知りたいと思わない筈は無い…とシーアは言う。
「いつだったか、ダナスが言ってたよ。情報は、たとえ些細なものであっても、重要だ……って。多くのモノ達に対する責任を負っているモノは、正確な情報を、少しでも早く、知る必要がある…ってね」
それなのに…とシーアは言葉を継ぐ。
「あんたは『明日になれば判る』なんて呑気なコトを言ってさ。だから、多分、内容の見当がついてるんだろうな……って」
そう思ったんだけれど、アタリだったんだね…と言うシーアを、ディサレは呆然と見下ろした。
「お前……」
暫し絶句し、そして、笑いだす。
「……まいったね。なるほど……『勇者様』だ」
「？」
何やらひとりで納得しているディサレを、シーアが不思議そうに見上げて。
それを放っておいて、ディサレは鍋の方へと視線を移した。
「コイツは、もういいのか？」
「え？ あ…あぁ、多分……」
まだ、サージャに見て貰ってないけど…と言うシーアに頷き、ディサレは炊事場の向こうを見遣った。
「サージャっ！」
「はいっ」
「シーアは用事ができたっ。後はお前だけで大丈夫かっ？」
それとも、誰か手伝いを寄越した方が良いか？ という問いに、サージャが振り返る。そして答えた
「大丈夫ですっ。ここは、俺に任せといてくださいっ」
気合十分の応えに、ディサレがおや？ というように目を細める。そして、大きく頷いた。
「よぉしっ、ここはお前に任せたっ」
「はいっ」
サージャが勢い良く応える。それへ軽く頷き、ディサレはシーアへと視線を戻した。
「さて…じゃ、ちょっと来い……」
そう言って踵を返すディサレにシーアが続いた。

茜色に染まっていく空の下に、二人の『刃』が居た。
ひとりは、やや長めの黒髪を後ろでひとつに束ね、少々色褪せた橙色の布を額に巻いた、藍緑の瞳の男。もうひとりは、茶色がかった黒髪を短く切り、左腕に褐色の布を巻いた、紺の瞳の男。
それは、頭領たるハジスと、二番隊隊長のレウィツだった。

並んで立ち、西空を眺めつつ何事かを話している二人に、三つの人影が足早に近付いて行く。
話し声が聞こえる程の距離に近付いたところで、三人が足を止め、そして、先頭のひとりが声をかけた。
「ハジス……」
呼び掛けられ、ハジスが振り返る。その藍緑の瞳に映ったのは、紺青の衣を身に纏った痩身の青年だった。灰色の髪を後ろで編んで束ね、額には深い緑の石を埋めたサークレットをして。それは勿論、『地の三賢師』の一枝たるズァインだ。
「…あぁ……早かったな」
言いながら、ハジスはズァインの後ろへと視線を向けた。
緑に染めた細い紐を額に締め、薄い水色の衣を纏った神官が二人。
「そいつらが…？」
「えぇ……」
ハジスの言葉に、ズァインは小さく頷いた。

先刻、本陣で行われた話し合いの最中、ズァインからひとつの提案がなされた。
それは、医薬の智に携る神官を何名かづつ、隠されし刃の一族の各隊に配属する……という提案だった。
『彼等の中には、医薬を専門とするモノがいないと聞きました』
底に冷たい怒りを漂わせた声で、ズァインはそう切り出した。
『それ故、薬草類の備えも十分ではないということなのです』
流石に、あんないいかげんな薬を使って……とは口にしなかったものの、しかし、ハジスの方にチラリと向けられた瞳は、明らかにそう語っていた。
『ですから、彼等の隊の怪我人や病人の治癒を担当するモノを、こちらから出すべきだと思います』
今すぐ全ての隊に配属するというのは無理だが、現在、防衛線をはっている二番隊にだけでも、即刻、担当のモノを配すべきだ。そう言って、ズァインはハジスを見据えた。
『受け入れて頂けますね？』
否とは言わせないぞ…とばかりの強い口調。それに苦笑しつつ、しかし、ハジスは大きく頷いた。
『あぁ……勿論。実は、こっちから頼みたいくらいだったから……』
実際、ルゥアという巫女の一件……酷い怪我にもかかわらず、時間はかかるものの、再び戦えるようになるという話……を知った今、医薬の智に通じたモノが来てくれるというのは、願っても無いことだった。
『そうしてくれる…ってのなら、すごく助かる……』
そう言うハジスを、少々不審気に見、そしてズァインは言ったのだった。
『判りました。それでは日没前までに、ひとりか…できれば二人、二番隊に配属するモノを選んで、連れて行きます』と。

自分の後ろに立つ二人の神官を見遣りつつ、ズァインは言葉を続けた。
「……この二人が、当面、二番隊を担当することになります。二人とも十分な知識と技術を持っていますし、自分の手に負えるかどうかの判断も、的確にできます。彼等の手に負えないような場合には、後方の私達が対処します。ですから、怪我だけでなく、体調がすぐれなかったりした場合でも、たとえ症状が軽くても、必ず、彼等に診せるよう、隊のモノ達へ徹底してください」
万全の体調で臨むことで、負わずに済む怪我もあるのだ。そう言うズァインに、ハジスは頷いた。
「……わかった。……レウィツ…」
呼びかけられ、二番隊隊長が軽く前に出る。そして、神官達を交互に見つつ、口を開いた。
「二番隊隊長の、レウィツだ」
やや枯れた低い声。
「ウチの隊は、戦いの主力になる。だもんで人数も多いし、当然、怪我するヤツも多い。あんた等がそういったヤツの手当てをしてくれる…ってのは、すごく助かる。……よろしく頼む」
「承知しました……」
「……よろしくお願いします」
交互に答える神官達に頷き返し、ハジスを見遣る。
「他に話しとくコトはあるかい？ お頭」
無いんだったら、この二人を隊の連中に引き合わせに行くが……と言うレウィツに、ハジスが頷いた。
「あぁ、そうしてくれ」
「それじゃ……こっちだ」
レウィツが踵を返し、二人の神官が続く。
それを見送り、そして、ハジスはズァインに向き直った。
「他の隊の方は…どうなる？」
「……四番隊へ配属するモノについては、明日中には調整がつくと思います。とりあえず、そちらにも二人。ですが、すべての隊に配するのは、ここに来ている人員だけでは無理です」
勿論、里にはまだ多くの神官がいる。そのモノ達を呼べば、全隊へ数人づつ配することは十分に可能だ。けれど、今すぐ呼んだとしても、ここへ来るまでには、当然のことながら、時間がかかる。従って、いずれにせよ、暫くの間はここに居る人員だけでやりくりしなくてはならない。
「まさかこんなことになるとは、思ってもいませんでしたから」
治癒を担当するモノが居ないなどとは……とズァインが苛立たしげに呟くのに、ハジスが苦笑する。
「悪かったな」
「えぇ。まったくです」
とりつくしまもない答え。流石に返す言葉が見つからず、ハジスが黙る。
気まずい沈黙。
やがて、ズァインは大きく溜息を吐いた。
「……すみません。あなたのせいでは、ありませんね」
そういった知識が伝承されていなかったのは、ハジスの責任ではない。そして、治癒に関する知識が伝承されていなければ、当然、それを担当するモノが居る筈も無い。何しろ、担当すべき事柄が無いのだから。
「だから、あなたに怒るようなことではありませんでした。すみません」
「あー……いや……」
あまりに率直に謝られ、ハジスは慌てたように首を振った。
「……そ…そうでもないさ。その……そういった知識が伝承されてなかったのは、確かだがな。けど……なんだ」
頭を掻いて空を見上げる。
「……確かに、もうちょっと考えるべきだった。まじめに調べれば、ひょっとしたら、今よりちったぁマシな薬の製法とか……どっかに記録が、あったかもしれないんだよな」
あるいは、麓の村に何か伝わっていたモノがあったかもしれない。
「そうすれば……」
そこで言葉を切り、ハジスは唇を噛んだ。
（…そうすれば、あいつの怪我を…もうちょっと……なんとかしてやれたかもしれないんだよな……）
戦うモノに怪我はつきもの。だからこそ、きちんとした処置をする必要がある。ズァインはそう言った。それは、言われてみれば、確かに当然のことだ。
それなのに。
（……くそっ……なんだって俺は……）
どうして自分は、そのことに思い至らなかったのだろう？
（…そうだよ……もうちょっとだけ真面目に考えさえすれば……そうすりゃ、ひょっとしたら助かったヤツだって……居たかもしれないのによ……）
今更ながら、自分の考えの足りなさを後悔する。
（俺は……馬鹿だ……。俺が…もっと、考えてりゃ……）
そうやって物思いに沈みかけるハジスへ、ズァインが不審気に声をかけた。
「ハジス？」
呼びかけられ、ハッとする。
「あ……」
「どうかしましたか？」
怪訝そうに問われ、ハジスは慌てて首を振った。
「……いや…なんでも……」
なんでもない…と言いかけ、口を閉じる。
（………）
一呼吸の間。
逡巡。
そして、ハジスは意を決した。
「……あのな、ズァイン。ちょっと、頼みたいことがあるんだが……いいか？」
妙に改まった口調。ズァインが訝しげに眉をひそめる。
「何でしょうか？」
「実はな。診てもらいたいヤツが…いるんだ……」
「………」
黙ったままのズァインを見詰め、ハジスは言葉を継いだ。
「半年程前の戦いのとき、酷い怪我をしたヤツが居て……な。何とか助かりはしたんだが、未だに起きあがれなくって……傷も痛むらしいし……時々熱をだしたりして……だな……」
話しているうちに、ズァインの瞳がだんだんと剣呑な光を帯びてきて、ハジスは慌てて言葉を継いだ。
「今すぐ…ってんじゃなくて良いんだ。時間のある時でいい。もし……」
「あなたは…っ」
激しい声がハジスの言葉を遮った。怒りをたたえた深緑の瞳。それが、射殺さんばかりにハジスを睨み据えて。
「……あなたというヒトはっ！」
いきなり怒りだしたズァインに、ハジスはうろたえた。
「ズァイン……？」
その呼び掛けを無視し、ズァインが踵を返す。そして、物凄い勢いで歩き出した。
「…おい、ズァインっ！？ ちょ…ちょっと待ってくれっ」
ハジスが慌てて声をかける。
それへ、ズァインは苛々と叫び返した。
「何をしてるんですかっ！ 早くしないと、完全に暗くなってしまうでしょうっ？」
「……え？」
「早く、誰か案内のモノを手配してくださいっ」
ここまで暗くなっていたのでは、山中で迷わない自信など無いのだから……と言うズァインに、ハジスが焦って答える。
「ちょっ……今から……？ そんな…今すぐじゃなくても……」
「あなたは……」
足を止めて振り返り、キッとハジスを睨み据えて、ズァインは言葉を継いだ。
「…あなたは……身体の不調を抱えているモノにとって、一夜を越すのがどれほど辛いことなのか、判っているのですかっ！」
叩きつけるようにそう言い、再び足早に歩き出す。
その背を呆然と見送ってしまいそうになり、ハッと我にかえって、ハジスはズァインを追って走り出した。
「……ズァインっ！ 待ってくれ、ズァイン！……案内は…案内は、俺がするっ」

「やあ…」
挨拶ともつかぬ言葉と共に、ダナスの天幕に一人の神官が入ってきた。
来訪を告げる鈴も鳴らさなければ、許しも得ずに。それは、控えめに言っても行儀の良い行為ではなかった。ましてやこの天幕の主であるダナスは『地の三賢師』の一枝であり、世界についての情報を取り扱う神官達の長たるモノだ。一個人を訪れるにしても行儀の悪い行為が、このような身分のモノに対して許されよう筈も無い。
けれど、訪問した方もされた方も、そういった事を気にしている様子は全く無かった。
「遅かったな」
手元の地図から目を上げず、ダナスが言う。
それへ、明るい金茶の髪に薄青の瞳の神官は笑って答えた。
「食べる物を調達してきたものでね。どうせお前、ろくに食べてないんだろう？ 食は、生物の基本だよ、ダナス。ヒトだって生物なんだからね。情報を喰って生きる……という訳には、いかないんだよ？」
喋りながら、勧められもしないのに勝手に座るその神官は、レィミア隊の補佐役たるロレンだった。
「情報を喰って生きる…か。そうできればな……。そうできれば、便利なんだが……」
憮然と呟くダナスに、ロレンが首を傾げてみせる。
「そうかな？ そりゃあ、君ならそれも可能かもしれないけれどねぇ。でも、僕の気のせいかい？ 何だか消化不良でも起こしてるような顔だけれど？」
「………ロレン…」
ダナスが低く言い、黙る。
どう切り出そうか……あるいは、切り出すべきかどうか……迷うように、視線を地図の上にさ迷わせて。
暫しの沈黙。
そして、ダナスはゆっくりと口を開いた。
「実は…な……」
「駄目だよ」
その途端、ロレンがいきなり遮る。
「駄目だよダナス。まずは、これを食べるんだ。話はその後。君が食べてる間に、僕は地図を見せて貰う。今日の報告で、また色々と書き加えただろう？」
「………」
「いいね？」
良くないんだったら、僕は帰るよ？ と言うロレンを、ダナスが睨む。けれど、ロレンは意に介す様子もなく、にこにこと笑うだけで。
「………」
やがて、ダナスは諦めたように溜め息を吐き、頷いた。

「『禁忌の西』ねぇ……。これはまた、ずいぶんと恐ろしげな響きだね」
ダナスが一通りの話をし終えて口を閉じたところで、ロレンはそう言った。ふぅ…と息を吐き、言葉を継ぐ。
「それで、ルドラは何と？」
詩歌伝承は、時として、その奥に何かを隠していることがある。韻律や単語の中に、そのものの直接的な意味とは異なる何かを織り込み、理解できるモノにだけその情報が伝わるような工夫が施されている場合があるのだ。
地の三賢師の長であるルドラは、一族に伝わる様々な知識を伝え継いでいるが、その中には、そういった、秘められた暗号を読み解く為の手順も含まれている。だから、もし、この詩に何らかの……表面的な意味とは異なる……内容が含まれているのだとすれば、ルドラにはそれが判る筈だ。
「何か言っていたかい？」
そう問うロレンに、ダナスは小さく首を振った。
「言葉通りの意味ではないか…と」
勿論、そういった隠された暗号は、聞いたその場ですぐに解るようなものではない。様々な角度から韻律や単語を仔細に検討し、それで初めて明らかになるものだ。けれど。
「ルドラが言うには、そういった詩歌にある、ある種のひっかかり……あるいは、ひっかかりが無いこと……が、この詩には無い、と」
「なるほどねぇ……」
腕を組んで頷くロレンをチラリと見遣り、ダナスが言葉を継ぐ。
「ルドラは、もっと詳しく調べてみる…と言っていた。だから、ひょっとすると、やはり何か別の意味がある……という結論になるかもしれん」
「とはいえ、その可能性は低そう……という訳か」
ロレンが肩をすくめ、そして、天幕の中は沈黙に包まれた。

膝元に広げた地図を、ロレンが気の無い調子で眺める。その様子を、ダナスはじっと見ていた。
（……ロレン……）
本来なら、『地の三賢師』の一枝を担っていたのは、自分ではなく、この男の筈だった。そのことは、九割方、決まっていた。ただ単に、正式な通達と儀式が執り行われていない……というだけの状態だったのだ。
だが。
ロレンはそれを、いともあっさりとくつがえした。神官の列から退く……という方法で。
誰もが仰天した。
勿論、ダナスも。
（師匠の後を継ぐのはお前だと……お前以外ありえないと……思っていたのに……）

ダナスはロレンと同い年で、前任の『地の三賢師』の元に、同時に弟子入りをした。
人当たりが良く温和で朗らかなロレンと、愛想が悪く無口で陰気な雰囲気のダナスは、誰の目から見ても、正反対だった。二人には、食べ物の好みから行動のしかた、果ては異性に対する考えに至るまで、全くと言って良い程に共通点が無かった。
しかし。
たったひとつ、二人には共通の話題があった。
情報。
共に知を司る神官であり、その中でも特に世界についての情報を取り扱うことを任としていること。
それだけが、二人の共通点だった。
けれど。そのことについてさえも、二人は違っていた。だが、その違いこそが、この二人を良友たらしめる結果をもたらした。
一度読み聞きした内容を克明に記憶し、膨大な記録文書のどこに何が書かれているかを正確に覚えているダナス。
まるで関係なさそうに思われる断片的な情報の類似点を見抜き、その示唆するものを推測することに長けたロレン。
ダナスが情報を集め、ロレンがそれに意味を見出す。
互いが互いの才能を尊敬し、頼りにし、そうやって二人は、決して少なくない知を司る神官達の列にあって、師の後任たるモノの候補と目されるに至ったのであった。

（俺は……。俺は、お前が…お前こそが『地の三賢師』を継ぐべきだと……そう思っていたんだ……）
ロレンの才。
それは、ダナスにとって驚きだった。
無味乾燥な情報の羅列が、ひとたびロレンの手にかかると、鮮やかな色をもったモノとなる。断片的な情報を繋ぎ合わせ、ロレンは世界の姿を語る。はるか彼方の土地の生活も、遠い昔の出来事も、見ていない筈のそれらを、ほんの僅かな情報から、まるでその場に居合わせていたかのように語るのだ。
（そんなこと……俺にはとてもできない……）
けれど、それこそが『地の三賢師』の一枝たるモノに求められることではないだろうか？ 世界についての情報を集め、その真の姿を描くことこそが。
だから、ダナスは思ったのだ。師の後を継ぐべきは、ロレン以外に有り得ない。そして、自分はその補佐をしよう……と。
（……それなのに……。何故……）
ロレンは、突然、神官の列から退いた。『妻子と常に一緒にいたいから』という理由で。勿論、それが理由のひとつであることを疑うつもりは、ダナスには無かった。けれど、それが理由の総てであると信じる程、ロレンを知らない訳でもなかった。
『一体、何を考えている？』と詰め寄るダナスに、ロレンは笑って答えた。
『根性の捻じ曲がっているお前の方が、地の三賢師を継ぐに相応しい』と。
それ以上は、何をどう問い詰めても聞き出すことができず、結局、ダナスは諦めるしか無かったのであった。

「もし、その詩が、言葉通りのことを語っているのだとしたら……」
不意にロレンが口を開き、ダナスは物思いから引き戻された。
「……僕達は、この目で『魔』を見ることが、できるかもしれないね」
笑みすら含んだその言葉に、ダナスが眉をひそめる。
「ロレン……。笑い事ではないぞ。もし『魔』を見たら……その時が、俺の…俺達の…最後なんだぞっ」
思わず声を荒げるダナスに、ロレンは首を傾げた。
「そうかな？」
「……そうかな…って……」
絶句。
『魔』の揮う力に、ヒトが抗すことなどできる訳が無い。断片的な記録の総てが、そう語っている。それを知らぬヒトなど居ない。ましてロレンが、それを知らない筈も無い。
「どうしたんだい？ ダナス」
何をそんなに驚いてるのかな？ と、ロレンが笑う。
目を見開いてそれを見詰め、そして、ダナスは首を振った。
「ロレン……。一体……一体、どういう意味だ？」
「どういう意味？」
首を傾げ、言葉を継ぐ。
「それは僕の方が聞きたいよ、ダナス。まさか君は、僕達に『魔』に対抗する手段が無い…とでも言うつもりなのかな？」
「な…んだと……っ？」
立ち上がりかけるダナスに、ロレンがくすくすと笑った。
「どうしたんだい、そんなに驚いて。君も知っている事だろう？ 『ヒトの想いをひとつに集めることができれば、魔に対して何らかの影響を与える事ができるかもしれない』って事は」
まさか、それを忘れている訳じゃないだろう？ と、ロレンがダナスの目を覗き込んで言う。
「魔の力は『想い』の力。だから、それを凌ぐ程に強い『想い』をもってすれば、魔に抗することは可能かもしれない。……それが、代々の『地の三賢師』達の結論だった。そして君は……君と僕は……その見解を肯定した。忘れちゃったのかい？ ダナス」
共に様々な文献を検討し、再検討し、再々検討し、自分達は、歴代の『地の三賢師』の見解に付け加えるべきことは無いと……そう結論付けるに至った。そのことを、まさか忘れた訳では無いだろう？ とロレンは言った。
「それに……」
そこで言葉を切り、ふと目を伏せる。
静寂。
ゆっくりと瞳を上げてダナスを見詰め、ロレンは言った。
「僕達は、今、勇者と共に在る」
一語一語を区切るように言う。
「君は勿論、預言を知っている。『いつの日にか最後の天地珠の巫女が現れ、勇者を導き、ヒトを、滅びから救うだろう』という預言をね。僕達は、その預言の勇者と、そして、天地珠の巫女と共に在るんだよ？」
「……だが……ロレン……」
預言は、所詮、願いに過ぎない。事実を語ったものでは無い。未来の事実を語ったものでも無い。ただの願いに過ぎないのだ。
「そう。勿論、預言は事実とは違う。けれどね、ダナス。それを真実にしたいという『想い』が、預言を語り継がせてきた。そうだろう？」
「……それは……。それは、無論、そうだ」
言葉を語り継ぐのは……ヒトに言葉を語り継がせるのは……強い想いだ。強い想い故に、ヒトは言葉を語り継ぐ。
そして。
語られた言葉を聞いたモノが、その言葉を語ったモノと同じだけの強い想いを抱いた時、その言葉は、再び語り継がれるのだ。
だから、長い年月を語り継がれて来た言葉は、それだけ多くのモノ達の想いを乗せていると言える。
想いと、そして、願いを。
「ダナス。かつてヒトは、天地を何度も滅ぼせる程の破壊力のある武器を持っていた…と伝承にはあるね。そして、それらの武器を以って『魔』に抗した…と。けれど、『魔』に敵わず、ヒトの世界は滅びた……」
目を閉じ、息を吐く。
そして、ロレンは再び口を開いた。
「……かの『滅びの日』から、長い時間が過ぎた。長い長い時間がね。けれどヒトは……僕達の一族は……預言を語り継いで来た。想いを…願いを…重ねてきたんだ」
「………」
「そして今、勇者シーアとクゥ・リスィアが居る。長い年月、多くのヒトからヒトへと受け継がれてきた想いの先に」
そこでロレンが言葉を切り、促すような視線をダナスに向ける。
一呼吸分の間。
そして、ダナスが口を開いた。
「……だから、俺達は『魔』に対して無力では無い…と？」
連綿と積み重ねられてきた想いと共に在るのだから…という訳か？ と言うダナスに、ロレンは笑って頷いた。
「そういうことだよ」
「………」
（そんな…ことが……？）
確かに、強い想いの積み重ねが、預言を今に伝える力だったと言える。それは、換言するなら、預言が今に伝わっているという事実が、その預言に力を与えている……ということだ。
長い年月伝えられた預言は、それを語り継いできたモノ達の想いを内包している。
重ねられてきた想い。
今を生きる自分達の想い。
その先に居る、『勇者』と『天地珠の巫女』。
（……この総てが重なれば……『魔』の持つ『想い』の力に抗せる……か？）
判らない。
だが…と呟いて、ロレンを見る。『魔』の襲撃を受けるかもしれないというのに、全く恐れる気配のないロレンを。
考え込むダナスに笑みを向け、ロレンは口を開いた。
「考えてみたまえ、ダナス。預言が成就される為には、僕達がここで全滅する訳にはいかないんだ。何しろ、ここには勇者シーアとクゥ・リスィアがいらっしゃるのだからね」
勿論、全員が無事に済むかどうかは判らない。けれど、少なくとも、勇者と天地珠の巫女がここで命を落とすことは、絶対に、ありえない。ロレンはそう断言する。
「預言が成就される為には、そうでなくてはならないんだからね」
「ロレン……」
それでは話が逆だ…と、ダナスは溜息を吐いた。
「…逆じゃないさ。僕達は、預言が真実になることを願っている。そして、僕達が、預言を真実にするんだ。リスィアがそうしたように……」
「…ロレン…？」
ダナスが驚いたような目をする。
「……リスィアは、自分の手で『最後の天地珠の巫女が現れる』という預言を真実にした。今生を捨て、天地珠の巫女となることで……ね。そして、勇者シーアもまた、ご自身の手で預言を真実とされた。天地珠の巫女の導きに応え『勇者』として起つことで。勇者シーアは、預言の存在などご存知無かった……というのに」
「………」
「違うかい？ ダナス」
ロレンが首を傾げて。
沈黙。
やがて、ダナスはゆっくりと頷いた。
「そう…だな、ロレン。預言は……預言の言葉は、単なる願いにすぎない。誰かの手によって実現されて初めて、預言は預言となる」
語り継ぎつづけられた遠い願いは、それが真実となった時、初めて『預言』となる。
「そして僕達が、その『誰か』になるんだよ、ダナス」
勇者と、天地珠の巫女と共に。