Ａｃｔ．２ 悪夢のはじまり −アクムノハジマリ−
ヒマラヤ山中 バイスの基地
「…うっ……」
低く呻き、００９はゆっくりと目を開いた。コンクリートが目に映る。
（ここは……）
顔を上げて辺りを見回す。そこは、牢屋であった。前方３メートル位の所に鉄格子がある。００９自身は、牢屋奥の壁につけられた鎖に、膝が床につく高さで両手首をつながれていた。
「気が付いたか？」
不意に声をかけられ、００９は慌ててそちらを見た。
「ディグ……」
心配そうな表情をしたディグが００９の正面に回り込む。
「……ここは、どこなんだ？」
「ヒマラヤ山中にあるバイスの基地、だ」
なんてこった、と００９は思った。これでは皆がゼムリャフランツァヨシファ島に助けに行ってくれても、無駄足を踏ませることになってしまう。しかも、自分が何処にいるのかまでも皆に判らなくなってしまったのだ。
「００９……」
じっと００９の顔を見、ディグが口を開いた。
「……何故、逃げなかった？ 何故、俺なんかの為に戻ってきた？」
真剣な表情で問うディグに、００９はふっと笑ってみせた。
「あんたは僕を助けてくれたじゃないか。自分を助けてくれた人を助けるのは、当然だろ？」
「だ……だが……」
そして、ディグはため息をついた。
「……だが、これでもうおしまいだな。俺も、おまえも……。バイスがここに戻ってきたら、俺は処刑。おまえは……拷問、だ」
ふと００９がディグを見る。そして、問うた。
「今、バイスはこの基地に居ないのか？」
「ああ。ゼムリャフランツァヨシファ基地の始末をしている。おまえの仲間に場所がバレちまったからな、機材と人員を他の基地に移して、あそこは破壊するんだそうだ。バイスの奴はその指揮をするんで向こうにいるが、ま、あと半日もすれば帰って来るだろう。そうなったら……おしまいだ」
そう言ってディグはため息をついた。
「そうか……バイスは居ないのか……」
小さく呟き、そして００９は再びディグに問うた。
「ディグ、あんた、この基地の様子には詳しいのか？」
「え？ ……あ…ああ、まぁそれなりに……ここに配属されてた事もあるから……」
不審そうに００９を見る。そのディグを放っておいて、００９はしばらく考えを巡らせた。
暫しの沈黙。
そして、００９は顔を上げた。
「ディグ……ちょっと、耳を貸してくれ」
「？？？」
眉をひそめつつ、それでも言われた通り００９の傍らに寄る。
「ディグ……ここから、逃げてくれないか？」
００９は小さくささやいた。
「えぇっ？」
ディグが目を丸くする。
「どうやってっ？」
そもそもこの牢から出られる訳がないじゃないか、と００９を見る。
「この牢には監視カメラらしいものは見当たらない。罠かもしれないけど……でも、チャンスだ。僕の左のブーツに電磁ナイフが一本、入っている。それを使えば……」
ディグが言われた通りブーツを調べる。
「これか……？」
「何かの時のために、いつも持ってるんだ。ここの牢の鉄格子位なら、切れる筈だ。何とか逃げてくれないか……？」
ディグが００９をじっと見る。
「それで……？ おまえは、どうするんだ？」
「僕は、ここに残る。というか、それしかない」
「なっ？ ……馬鹿な、そんなことしてみろ、バイスが帰ってきてからどんな目にあわされると思ってるんだっ？」
思わず叫ぶディグに００９はゆっくりと首を振った。
「そりゃぁ、僕だって逃げたいさ。だけど、そのナイフの出力では、この……」
と言って００９は壁につながれた自分の手首を見上げた。
「……鎖は切れない」
「………」
ディグは唇を噛んだ。
「頼む。逃げて……くれないか？ 危険なのは判ってる。けど……僕はここから逃げられないんだ……。だから。だから、僕に代わってここを逃げだして、皆の所へ行って欲しいんだ」
「なっ？」
ディグが息を飲む。それに構わず００９は言葉を続けた。
「ドルフィン号を出る前に、僕は緊急時のランデヴーポイントを００１と打ち合わせておいたんだ。万が一の時のために。その場所は……東経１２５度、南緯２５度、オーストラリア、ギブソン砂漠だ。もしそこを動いた場合には、そこから南へ３キロの地点に通信機を埋めて行くことになっているから、その通信機にセットされてる周波数で呼びかけてくれ。呼び出しの合言葉は……」
００９がいっそう声を潜めてささやく。
ディグは愕然と００９を見つめた。どんなに責められても口にしなかった事を、こうもあっさり喋るとは！
「い……いいのか？ そんなことを俺に言って……俺がそれを組織の奴らに喋ったらどうするんだ？ それを教えれば、俺は命を助けてもらえるかもしれないんだぞ？」
００９がディグの目をまっすぐに見る。
「僕は、あんたを信じる。僕を助けてくれた、あんたを」
暫しの沈黙。
そして、ディグは苦笑した。
「負けたよ、００９。おまえさんの勝ちだ。そこまで信用されちまっちゃ、裏切れない。それに……おまえさんは、俺の命の恩人だからな。俺を助けになんて戻ってこなけりゃ、今ごろは……」
「いいや」
００９がディグの言葉を遮った。
「あんたの助けがなければ、そもそも逃げられなかったんだ。戻るのは当然だよ。そんなことより、バイスが戻って来る前に……」
００９がディグを促す。ディグが小さく頷いた。
「ああ……。必ず…必ず、戻って来る。おまえさんの仲間を連れて……。だから、それまでは……死ぬなよ」
００９がふっと笑う。
そして、ディグは鉄格子を切るべく００９に背を向けた。唇を噛む。
（……バイスに拷問されるんだ…早く死んだ方が……楽に決まってる………）
だが、００９を死なせたくは無かった。
１５分後。
切り開いた鉄格子の隙間から、ディグは牢を抜け出して行った。
☆
「どういう事か、説明してもらおうじゃないか？ クライム」
目の前の男を睨み付け、バイスは言った。
「事と次第によっちゃあ、００９の前に、貴様をなぶり殺しにしてやるぞ！」
殺気立つバイスを憮然と見、クライムと呼ばれた男は肩をすくめた。
「俺だって、来たくてお前の基地に来たんじゃないし、好きでディグの脱走を見逃した訳じゃない」
「じゃあ、何だって言うんだ！」
バイスがダンッと机を叩く。
「そういう、命令だったからだ」
「なに…？」
「俺は、お前の基地に行って、こう伝えるように言われてたんだ。『ディグと００９を監視カメラの無い牢に入れて、暫く様子を見ろ。もし、ディグが脱走するようなら、見逃せ』ってな」
「な…んだとぉ…？」
「で、もしお前がまだ基地に戻ってなかったら、俺が代わって実行しろってな」
「………」
バイスが黙る。疑いのまなざし。それへ、クライムは懐から出した記憶チップを放った。
「ほらよ。命令書だ。確認しろよ」
放られた記憶チップを見、クライムを睨み、そして、バイスはチップを取ると、再生用のスロットに差し込んだ。
傍らのディスプレイに映し出された文書を確認する。そこには、クライムの言った通りの事が書かれていた。署名の照合をして、確かに自分の上官であるザイラスのものである事を確認する。
「……どういう事だ……？」
クライムの行動が命令に沿った物であることは分かった。だが、その命令の意図が分からない。
「なんだって、ディグを逃がす？」
「００９は、他の００ナンバーの行き先を知っている」
「そんな事は、判ってる！ だから俺が……」
「まぁ、聞けよ」
「……」
「００９は、恐らく他の００ナンバーの行き先を知っているだろう。だが、奴は喋らないだろう……例え、お前が拷問したとしても、な」
「なにぃ…？」
侮辱とも取れる言葉にバイスがクライムを睨む。それを軽く制して、クライムは言葉を続けた。
「怒るなよ、俺の台詞じゃないんだから……」
じゃあ誰のだ、と言いたいのを堪え、バイスは先を促すようにクライムを見た。
「…で、だ。そこで、ディグと００９を同じ牢に入れ、ディグだけだったら逃げられるようにする。そうすれば恐らく、００９は、ディグに仲間の居場所か連絡方法を喋るだろう。そして、ディグを逃がす。そうすると、遠からず残りの００ナンバーがやってくる。ディグが逃げて、奴等と接触し、ここへ戻ってくるまで、おおよそ５日。お前はその間に００９を拷問しろ、と」
「……？ 何の為に？」
バイスが訝しげに言う。００ナンバーをここに来させて迎撃するのであれば、００９を拷問して聞き出す事など何も無いではないか。
「そんな事は知らん」
クライムは肩をすくめた。
「とにかく、００９に対しては仲間の居場所なりディグの行き先なりを聞けってさ。で、どうせ喋りゃしないだろうから、とにかく徹底的に痛めつけろ、と。ただし、殺すな、と。で、４日くらい経ったら地下牢に叩き込んで……で、奴等が来たら、この基地を放棄しろ、とさ」
「何だとぉ！」
バイスが立ち上がって叫ぶ。
「どういう事だ。それじゃ、００９は仲間に救出されるぞ？」
「知らねぇよ。とにかく、そうしろってんだ」
「俺は、反対だ！ こんな訳の判らない命令に従えるか！ ザイラスにそう言え！」
「ザイラス様じゃ無い」
「は？」
「この命令は、ザイラス様からのじゃあ、ない」
「何だと？」
バイスとクライムは共に上級幹部ザイラス直属の部下であった。Neo Black Ghost では、上級幹部だけが直属の部下を持つ特権を持っている。直属の部下というのは、いわばその上級幹部の私兵であり、たとえ総裁と言えどもそれらの者に上官たる上級幹部を通さずに命令をすることは出来ない。これは、Neo Black Ghost が『組織の集合体』であるというのに起因している掟であった。つまり、各上級幹部は Neo Black Ghost という組織の一員であると同時に自らの組織のトップでもあるのだ。
だから、ザイラス直属の部下であるバイスに命令できる者が、組織内にいる筈は無いのだ。原則として。
「だったら、ますますこんな命令に従う必要は無い！」
「……クワイトの命令でも、か？」
「…な……に………？」
バイスが硬直する。まじまじとクライムを見る。
「ま…さか……」
「その、まさか、なんだよ」
クライムがいまいまし気に言う。
「クワイトの野郎から、ザイラス様に申し入れがあったらしい。俺達を使わせろ…ってな」
そして、ザイラスはそれを承知した、という訳なのだ。
「あいつの…命令なのか……あの狂人の……」
「ああ」
Neo Black Ghost は闇の組織。世の常識や秩序には縛られない。けれど、闇には闇の掟もあれば、無論、組織としての秩序もあった。結局、何らかの制約が無ければ、組織など一瞬で崩壊してしまう。
だが。その組織内にただひとり、ありとあらゆる制約を受けない人物が居た。総裁ですら彼の人物には何一つとして意見できなかった。
神をも恐れず、悪魔の手先を自認する Neo Black Ghost 構成員達の唯一の恐怖の対象。それこそが彼であった。
狂人、クワイト。
悪魔的な頭脳を持ち、Neo Black Ghost 再建計画の殆どを計画したという人物。予知能力があるのではと囁かれる程の『先読み』が、どれ程組織に貢献したことか。
そのクワイトが最も嫌うこと、それは逆らわれる事。うかつにもクワイトに口答えし、世にも無残な最後を遂げた者は、一人や二人ではない。けれど、クワイトは粛正される事もなく、未だ組織内に居る。その意味することろは明白だった。必要なのだ。クワイトの頭脳が。とにかく逆らわず、必要ならば適当に生け贄を与えてクワイトを満足させ、組織の計画への助言を乞う。それが、総裁以下全幹部の出した結論であった。
そのクワイトの命令だ、というのだ。
沈黙。
「……とにかく、００９を徹底的に痛めつけりゃあいいんだな？」
ゆっくりと、バイスは言った。
「そうだ」
「で、００ナンバーが来るだろう４日後まで死なせずにおいて、地下牢に叩き込んめばいいんだな？」
「そうだ」
「で、奴等が来たら、基地を放棄する、と」
「そういう事だ」
「………。００９を生きて救出させろ……と言われてるのか？」
「いいや。そうは言われてない」
「なるほど……」
バイスはニヤリと笑った。
「ようするに、指示通り地下牢に叩き込む所まで、００９が生きていりゃあ、良い訳か」
「…まぁ、そうだろうな」
クライムもニッと笑う。それへ凄絶な笑いを向け、バイスは言った。
「いいだろう。クワイトが何を考えてるか知らんが、言われた条件はクリアしてやろうじゃないか」
だが、思い通りに事が運ぶと思ったら大間違いだ、とバイスは心の中で呟いた。
☆
牢にやってきた十数人の兵士にぐるりと取り囲まれ、００９は目隠しをされた。まず両足に鎖がつけられる。それから、壁に両腕を縛り付けていた戒めが外されると両手を後ろにまわして縛られた。その上で、胸から腰までを腕ごとぐるぐる巻きにされる。
（…厳重な事だ……）
それも当然か、と思う。
（ディグは逃げられただろうか……？）
それだけが不安だった。つかまったり、あるいは殺されたりしていないだろうか？
（無事で…いてくれよ……）
危険な事を頼んでしまった、と思う。しかし、ここに居れば間違いなく殺されただろう。今はもう、祈るしかない。
と。不意に後ろから銃口を突きつけられた。
「歩け」
短い命令。そして、両脇から腕を持たれ、ぐいっと引かれる。歩かなければ、引きずっていかれるだろう。
目隠しをされたまま、重たい鎖を引きずり、００９はゆっくりと歩を進めた。
さほど歩かずに、どうやら目的地に着いたらしかった。腕をぐるぐる巻きにしていたワイヤーが解かれ、続いて後ろで縛られていた手が解かれる。けれど、手首につけられている枷はそのままだ。足元でも何やら人が動いているようだ。
やがて、作業が終わったのか人が離れていく気配がしたかと思うと、不意に両手が上に引っ張られていった。
（……なる…ほど……）
恐らく、両足の枷が床に繋がれ、両手首の枷は左右其々斜め上の方向から垂らされたワイヤーに繋がれているのだろう。そして、その手首の枷に繋がれたワイヤーが巻き上げられているのだ。
００９の両手は徐々に引き上げられ、やがてＹ字型に両手を広げた形になった。足は床についている。
そこで、００９の目隠しが外された。
「いいザマだな」
目の前に立っていたのは、バイスだった。００９がその目を真っ直ぐに睨み返す。
「そんな目をしていられるのも今のうち、だ」
ふん、と鼻を鳴らし、バイスは軽く手を挙げた。
再び００９の手首が引き上げられる。
（…っ……）
００９の足が徐々に床から浮いていく。踵が離れ、爪先立ちになり、ついに爪先が床を離れて、００９は手首に付けられた枷によって釣り下げられる格好になった。
そこでバイスが手を下ろす。手首を引くワイヤーが止まった。
（……く…ぅ……）
全体重が左右の手首のみにかかり、００９は唇を噛んだ。手首と肩とが痛い。
「さて、００９」
バイスが口を開く。
「…ディグは何処へ行った？ ……おまえの仲間の所だな？ そうだろう？ ……どこだ？ 裏切り者どもは、どこにいる？」
その言葉に００９は微かに笑った。ということは、ディグは無事に逃げおおせたのだ。
（よかった……）
囚われているのが自分だけなら、気が楽だ。
その００９の様子にバイスは舌打ちした。
（…ったく……流石は『どうしようもない強情者』と報告書に書かれるだけはある）
Neo Black Ghost 内で出回っている、００ナンバーに関する資料の記述を思い出す。もっとも、大した資料ではない。名前や出身国、おおざっぱな性能が書かれている程度のものだ。けれど、その薄っぺらな報告書の００９の項目には特筆事項としてそう書かれている。
（…ふん……腕のふるいがいがあるってもんだ）
殺すなというのが面倒だが、幸い相手はサイボーグだ。生身の人間と違って、そう簡単に死ぬ心配は無い。
（何としてでも、吐かせてやる！）
クライムのあの台詞。『だが、奴は喋らないだろう……例え、お前が拷問したとしても、な』というアレ。あれは、間違いなくクワイトの言葉だろう。
（見てろよ…クワイトめ……）
００９を睨み付け、バイスは再び左手を挙げた。
両手首が再び引き上げられていく。
（…っ……ぅ……）
体が徐々に引き上げられ、そして、足首に鈍い痛みが走る。枷を床に繋いでいるワイヤーの長さがそこまでなのだ。けれど、手首を引くワイヤーは止まらない。
（く…そ……！）
このまま引っ張り続けられれば、四肢を引き裂かれる。無駄とは思いつつ、００９は腕に力を込め、手首を引くワイヤーを引っ張った。
と。
（…な…に……？）
引っ張られる力が僅かに弱まる。いや、ワイヤーは相変わらず巻き上げられ続けている。だが、力を込めて引っ張ると、まるでゴム紐を引いたかのような手応えがある。ちょっとでも力を抜けば引っ張り返されてしまいはするが。
その様子を見ていたバイスが笑みを浮かべた。
「気が付いたか？ そのワイヤーにはほんのちょっとだが弾性があってな。思いきり引っ張れば、多少は伸びる。まぁ、せいぜい頑張ってみることだ」
その間にもギリギリとワイヤーは巻き取られている。００９は渾身の力を込めて、ワイヤーを引っ張った。だが、少しでも力を抜けば、たちまち四肢を引き裂かれる苦痛に襲われる。
「…ぅ……く……」
バイスが右手を降ろす。ワイヤーの動きが停まった。けれど、００９は力を緩める訳にはいかない。
「さて」
バイスが舌なめずりをする。
「まぁ、最初はこのくらいにしといてやろう。……喋りたくてしょうがない気分にさせてやるぞ、００９」
００９は答えない。が、それはバイスにとっては予想済の反応だった。００９正面の壁際まで下がり、部下に合図をする。
それを受けて、三人の兵士が動いた。一人は００９の前に。残る二人は、左右に別れ、後ろに。正面に立つ兵士の持つ電磁鞭は、猛獣使いが使うような長いもの。後ろに立つ兵士が持つ電磁鞭は、乗馬鞭のような棒状のものだ。
三人が定められた位置に着いたのを確認し、バイスは端的に命じた。
「やれ」
と。
まずは正面側に立つ兵士が鞭を振り上げ、振り下ろす。
パシィという軽い音と同時に、一瞬、電撃が走る。
「…っ…ぅ……！」
その衝撃と痛みにワイヤーを引っ張る力が弱まりかける。が、００９は何とか持ちこたえた。そこへ、左背後に立つ兵士が二撃目を加えた。
焼けるような熱さが背中に弾け、００９の集中力が途切れかける。
「く…ぁ……！」
そこへ、すかさず右背後の兵士が三撃目を加えた。一瞬、頭の中が空白になり、ふっと意識が飛びかける。その途端。
「…ぐぁ…あぁぁああっ…！」
００９は悲鳴を上げた。
引っ張り返す力が弱まった途端、ワイヤーは容赦なく００９の手首を引き上げる。引き裂かれるような苦痛が飛びかけた００９の意識を引き戻した。
「…ぁ……」
しかし、００９に息をつく間は無かった。再び正面の兵士の鞭が飛び、続いて背後に立つ兵士が鞭を振り上げる。途切れる事の無い鞭の雨が００９に降り注ぐ。
その様子を、バイスはじっと見ていた。
☆
休みも与えられず、一体どれほどの時間がたったのだろうか。視界が霞み、頭がもうろうとしてきたところで、やっと小休止が与えられた。
とはいえ、それは鞭を打つ手が止められただけであって、００９には休む事は許されなかった。気力と体力とを振り絞って両手首を引き上げるワイヤーの力に対抗しなくてはならないからだ。
激しくあえぎつつ、必死でワイヤーを引いている００９にバイスがゆっくりと近付いていった。髪をひっ掴んで顔を上げさせる。
「どうだ？ そろそろ喋りたくなったか？」
００９がうっすらと目を開く。強烈な意志を秘めた瞳。
「………」
暫し、にらみ合いが続いた。
「……強情な奴め」
吐き捨てるようにバイスが言う。そして、００９の髪を掴んでいた手を放すと、左手を軽く挙げた。
（…な…に……！）
「ぐ…ぅ……」
手首を引くワイヤーが、ゆっくりと引き上げられていく。渾身の力を込めて引っ張り返すが、それにも限界がある。只でさえ、消耗しているのだ。
バイスが手を下ろし、ワイヤーの動きが止まる。そして、再び００９の髪を引っ掴んで顔をあげさせた。
「どうだ？ 喋った方が良くはないか？」
歯を食いしばって苦痛に耐えている００９にバイスが問い掛ける。００９は微かに目を開くと、バイスを睨み返した。
「……それが答えか…」
ふん、と嘲笑い手を放す。そして、バイスは部下に拷問の続行を命じた。
☆
拷問が始められてから、そろそろ三日になろうとしていた。相変わらず屈しない００９にバイスは苛ついていた。
（くそっ…しぶとい…！）
最初の頃は押し殺していた悲鳴が抑えられなくなり、その悲鳴が絶叫に変わり……それでも変わらないのは、００９の目だった。
強い意志を秘めた、その瞳。バイスをキッと睨み返す、その目つき。
（気に入らない…！）
「いいかげん、吐いたらどうだ？」
００９の髪をひっ掴んで顔を上げさせ、もう何度目になるかわからない問いかけをする。しかし、００９は答えない。ただ、強い瞳でバイスを睨み付けるばかりであった。
（…くそっ……気に入らない！）
左手を上げ、００９の両手を引くワイヤーを更に巻き上げさせる。
「…ぅ…ぐ……あ…ああぁぁぁぁっ……！」
引き裂かれるような苦痛に００９が悲鳴を上げ、弱々しく頭を振る。
（ふん…）
ワイヤーの動きを止めさせ、バイスは００９に近付いた。
「どうした？ 喋る気になったか？」
００９がうっすらと目を開く。それを見た瞬間、バイスは拳を握り締めた。
「き…さま……！」
強い瞳。その奥に、嘲笑すら秘めて。
（……吐かせてやる…絶対に……！）
そして、バイスは部下に続行を命じた。
☆
更に、一日。
もはや００９には悲鳴をあげる力も無かった。肩で荒い息をしながら、時折低い呻きをもらす。意識はあるにはあるが、混沌としていた。全身を恐ろしいまでの苦痛が責めさいなんでいた。
「００９、おい！」
バイスが００９の髪をひっ掴んで顔を上げさせ、頬を叩く。しかし、００９は反応しなかった。聞こえていない訳ではなかった。かすかではあっても、バイスの声は聞こえていた。だが、それに反応するだけの、それに注意するだけの余裕は００９にはもはや無かった。責めの手が止められてもなお、絶え間なく襲ってくる激痛に必死で耐えていたのである。
「００９！ おいっ！ ……だめだな、これは………」
しばらく００９の頬を叩き、バイスは諦めた。左の壁際に歩み寄る。そこには００９の両手首に付けられた枷を引くワイヤーの操作盤がある。そこに表示されているいくつかの数値の一つに目をむけ、バイスは頷いた。
（……ゼロ…か）
それは、００９がその両腕を引いているワイヤーに対して一切の抵抗をしていない事を意味していた。ここまで引いた状態であれば、それこそ八つ裂きにされる程の苦痛の筈だ。少しでも力が残っていれば、抵抗する筈だった。いや、抵抗せずにいられない苦痛の筈だ。だが、今、００９は一切の抵抗をしていない。それはつまり、もうそんな力が残っていない事を意味していた。
（……やりすぎた…かな……？）
部下にワイヤーを緩めるよう指示し、バイスは考え込んだ。
喋ることも出来ないのでは、尋問のしようがない。それに、今日は四日目。そろそろ時間切れだ。
（…ち……っ）
忌々しいと思っても、この状態ではどうしようもない。
（どうする……？）
暫し考えを巡らせ、そしてバイスは決断を下した。
（……アレ…を使ってみるか……それで駄目なら………）
それで駄目なら、仕方が無い。いまいましが諦めるしか無い。
（ち……まったく…！）
ぐったりとなっている００９を見据え、バイスは毒づいた。
ゆっくりと００９は目を開いた。先刻までの苦痛が嘘のように、痛みが無かった。
（一体……どうしたんだ…？）
そこへ、バイスの声が響いた。
「どうやら薬が効いてきたらしいな」
不意に髪を掴まれ、顔を上げさせられる。
「感覚神経、特に痛覚系を麻痺させる薬を打った。そんなに長時間は持たないが、な」
成る程、それで痛みを感じなくなっているのか、と００９は納得する。
「さて、００９。いいかげんに喋ったらどうだ？ これが、最後通告だ。もう、おまえは長くは持たん。おとなしく吐けばよし、吐かなければ……地下牢送りだ。一発で楽に死ねるか、何日かかかってのたうちまわりながらじわじわと死ぬか、おまえの返答次第だ」
００９は答えない。しばし沈黙が続いた。
（なんっつー強情な奴だ！）
バイスが吐き捨てるように呟く。そして、憎々し気に００９をにらみつけつつ、部下に命じた。
「００９を地下牢に連れて行く。縛り上げろ」
「はっ」
目隠しをされ、厳重に縛り上げられた００９は、左右から腕を持つ兵士達に引きずられ、地下牢へと連れて行かれた。
エレベーターで一番下まで降り、更に階段を降りる。途中いくつか扉をくぐり、十数分かかって地下牢の前につく。そこで００９の目隠しが外された。
目の前の頑丈な鉄扉がゆっくりと開けられる。兵士の一人が手に持っている明かりが、かすかに地下牢の中を照らした。
岩肌そのままの床と壁。天井は見えない。隅の方に見える黒い塊は、過去ここで死んで行った人の成れの果てであろうか……。００９はぞっとした。地下百数十メートルの重苦しい空気が恐怖心をあおりたてる。
バイスが軽く手を振ると、両腕を左右から掴んでいた兵士達が動いた。
歩く力の無い００９を引き摺るようにして壁際に連れて行く。そして、後ろ手に縛られていた戒めを解くと、壁に背中を付けるようにして立たせた。とは言え、００９にはもう自力で立っているだけの体力は残ってはいなかったので、両腕を広げて壁に押し付けられ、無理矢理立たされた状態であった。
（…何…を……？）
００９がいぶかしむ間に、バイスが背後に控える部下を見遣る。それから、００９の前にやってきて顎を掴んで顔を上げさせると、ニヤリと笑った。
「俺は親切だからな。お前が早く死ねるようにしてやろう」
そう言うと、顎を放して二三歩下がる。その瞬間、左肩に衝撃を感じ、００９は息を呑んだ。薬のせいで痛みは感じないが、その衝撃は尋常ではなかった。
（な…に……？）
視線を動かして左肩を見ようとした途端、今度は右肩に同じような衝撃を感じる。それから、００９の腕を押えていた手が放された。けれど、００９は倒れない。何かが、００９を支えていた。
（………！）
それは、杭だった。金属の杭が両肩に一本づつ打ち込まれ、肩を突き抜けて壁に刺さり、００９を文字どおり磔にしているのだった。
呆然とする間に、更に杭が打たれる。右胸に一本。左脇腹に一本。両足に一本づつ。それから、腕を持ち上げられ、左右それぞれに一本づつ。
再びバイスが００９の前に立つ。
「お前に打った薬は、あと２０分もすれば切れる」
そこで一瞬言葉を切り、バイスは笑みを浮かべた。
「…そうすれば……どうなるか、は言うまでもないだろう？」
００９は何も言わない。ただ、キッとバイスを睨み返す。その視線にバイスが眉をひそめた。
「急所は外してある。そう簡単には死ねないんだぞ。わかってるのか！？」
００９は答えない。悲鳴を上げる心をねじ伏せ、頑なな表情を保つ。
その様子にバイスは軽く舌打ちし、銃を抜いた。
「……最後のチャンスだ。吐け。そうしたら、一発で楽にしてやる」
沈黙。
睨み合い。
永遠とも思える数秒。
そして、バイスはゆっくりと銃をしまった。
「…せいぜい、苦しんで死ぬんだな」
残酷な嘲笑。
踵を返して出ていくバイスに、兵士達が続く。００９は俯いたまま唇を噛み、それを見ないようにした。
重い音を立てて扉が閉じられる。足音が次第に遠ざかり、ついに辺りは真の闇と静寂に包まれた。
恐ろしいまでの静寂。目を開いても閉じても、変わらぬ、闇。
５分経ち、１０分経ち、次第に恐怖心が大きくなっていく。バイスの言葉が頭から離れない。
『お前に打った薬は、あと２０分もすれば切れる。…そうすれば……どうなるか、は言うまでもないだろう？』
暗闇の中に閉じ込められた００９には、時間の経過を知るすべはない。『あと２０分もすれば…』とバイスは言った。残された時間は、あとどのくらいなのだろう？
（…考えたら駄目だ……）
考えまいと思う。
けれど。
バイスに薬を打たれる直前までの苦痛。全身を駆け巡る、あの、苦痛。
（…考えちゃ……駄目…だ……）
全身に穿たれた八本の杭がもたらすであろう、苦痛。
（……考え…ちゃ………駄…目………）
恐怖を振り払うように弱々しく首を振る。
けれど、暗黒と静寂は容赦無く００９の心を追いつめる。苦痛への恐怖が、００９の心を掻き乱す。
（……あと……どのくらい……？）
どのくらいで、その『時』が来るのか？
その問いは、何度振り払っても、００９の心を捕らえて放さない。
（…駄目だ……考えたら……）
一分、一秒、ゆっくりと時間が過ぎて行く。いつ来るか判らない、しかし、間近に迫った『時』が恐ろしかった。暗黒の闇の中で、たった一人で、苦痛の訪れる『時』を待つのがたまらなく恐ろしかった。その恐怖に神経が耐えられない。
喉元を締められているかのように、呼吸が苦しい。
「……っ……！」
頭を振り、必死で息を整えようとするが、それさえもままならない。
（…だ…れ……か……）
目を開けて、扉の方を見る。だが、そこにあるのは漆黒の闇のみ。
誰かいないのか、と思う。必死に目をこらし、耳を澄ませ、人の気配を感じ取ろうとする。
しかし。
聞こえるものは、自分自身の荒い息遣いのみ。見えるものは、闇ばかり。人の気配どころか、どんな生き物の気配もしない。
誰もいない。
五感の総てと、そして、００９の研ぎ澄まされた直感。その総てが、そう告げる。
誰もいない……すなわち、間近に迫った苦痛から逃れる術は無い、と。
そして……。
恐れていた『時』が来た。
ゆっくりと痛みが襲ってくる。
手足の先から、徐々に。
ゆっくりと、ゆっくりと。
痛みが次第に大きくなる。じわじわと苦痛が広がる。歯を食いしばって耐える。
「…ぅ……ぁ……」
苦痛が次第に激痛へと変わり、全身を貫く。
叫ぶ力も、もがく力も、もう残っていないと思っていた。その筈だった。
が。
「………ぐ…あ……あ…がああぁぁぁぁっ！」
総ての感覚が戻った時、００９は身をのけぞらし、絶叫をあげていた。
闇雲に頭を振り、激しくのたうつ。無論、００９を壁に磔にしている杭は、そんな事では抜けはしない。むしろ、暴れる度に傷口が抉られ、更なる苦痛に襲われる。叫ぶこと、もがくこと、その行為そのものが、より激しい苦痛をもたらす。
それでも。００９は喉元から苦悶の絶叫をあげ、激しくもがきつづけた。
嵐のような激痛に翻弄され、もう、何を考える事もできなかった。自分の意志で自分の肉体を制御する事など不可能だった。体力の最後の一滴が失われるまで、苦悶の絶叫をあげてもがき続ける以外に、００９にできる事は無かった。
（…た…す…け……て……く…れ……！）
多分、今、バイスに問われれば、００９は何もかもを喋っただろう。一発の銃弾によって、この苦痛から開放してくれる事と引き換えに……。
けれど、この地下牢には誰もいなかった。
（……だ…れ…か……たす……けて……！）
助けを求める相手も、許しを乞う相手も、誰も。
漆黒の闇の中に、００９の苦悶の絶叫だけが響き続けた。
一体どれほどの時間が過ぎたのか、００９には全く判らなかった。全身を激痛が刺し貫いている。気力も体力も、最後の一滴まで絞り取られ、最早、悲鳴をあげる事もできず、もがく事もできない。それでも苦痛は００９を苛み続けていた。
「…ぁ……ぅ……」
浅く荒い呼吸を繰り返す。息をする度に、新たな苦痛が全身を駆け巡り、微かな呻きが唇から漏れる。もう、呼吸などしたくなかった。けれど、それは不可能な事だった。００９には、自分の意志で自分の肉体を動かす事は、もうできなかった。そんな力も、気力も、何も残されてはいない。
辺りは真の闇。そして静寂。たとえ敵であってもいい、人の姿が見たかった。たとえ嘲りの言葉であってもいい、人の声が聞きたかった。恐ろしかった。心細かった。「助けてくれ！！」そう叫びたかった。だが、声を出す力なぞ無かった。
００９に耐える力があろうが無かろうが、前と同じように、いや、それ以上に恐ろしい苦痛が襲ってくる。サイボーグであることを、これほど恨めしく思ったことはなかった。死ぬほどの苦痛を味わいながら、００９は死ねなかった。気を失うことすらままならぬ苦痛の中でさえ、機械仕掛の心臓は動き続けた。
苦しみながら死ぬ。これは恐ろしいことだ。だが、苦しみながら死ねないことは、もっと恐ろしいことだった。一分一秒でも早く死にたかった。死ねば、この恐るべき苦痛から逃れられる。死ぬことだけが００９にとって唯一の望みだった。だが、いつになれば死ぬことが出来るのか？ あと一時間か、それとも一日か。
（とどめを……誰か…誰か、とどめを刺してくれっ！！）
絶望的な願い。だが、それは声にすらならない。
そして、００９は真っ暗な地下牢の中、たった一人で苦しみ続けた。今すぐではないが、決して遠くない将来、死ぬことができる。そのことだけが、００９にとって唯一の希望であった。
☆
「その言葉を、信じろ、というのか？」
００４はディグをにらみつけて吐き捨てるように言った。
「信じて……もらわなけりゃならん。００９の命がかかってるんだ」
椅子に座らされ、きつく縛り上げられたディグが、静かに言う。ドルフィン号のコクピットである。
「Neo Black Ghost の幹部であり、俺達を捕らえ、００９を拷問した奴の言葉を信じろ、というのか？」
００２が叫ぶ。
「信じて、もらわなけりゃならん」
ディグは同じ台詞を繰り返した。
「考えてもみてくれ、少々の拷問で君達の居場所を喋るような男か？ ００９は」
一同が黙る。
「頼む、信じてくれ。さもなきゃ００９が今度こそ本当に殺されてしまうんだ。頼む……早くしないと、手遅れになってしまう。いや……もしかすると、もう……」
（相手は、バイス……だ……）
ディグは小さくため息をついた。
「どうする？ ハインリヒ」
００８が問う。暫し黙ってディグを見据えていた００４が、不意につかつかとディグに歩み寄った。
「ハインリヒ？」
一同が何事かと００４の動きを見つめる。
ディグの目の前で足を止めると、００４はついっと左手を上げた。ディグが００４を見上げる。
一瞬の、間。
そして、００４は一気に左手を振り下ろした。
「ハインリヒッ！」
００７の叫び。全員が息を飲む。
パラリ……
と、ディグを縛っていた縄が解けた。
「？？？」
ディグが不審げに００４を見る。００４の方は、それに構わず、銃を抜くと、銃口とグリップをくるりと反転させ、ディグの目の前に突き出した。
「？？？」
「そんなに信じて欲しけりゃ、それを証明しろ」
「証…明？」
「この銃で自分の頭をぶち抜け。それが出来たら、信じてやる」
００ナンバー一同が息を飲む。
「つまり、命をかけろ、と？」
静かに、ディグは言った。
「そうだ」
００４が冷たく言う。
「そうしたら、信じてくれるか？」
「ああ」
「……俺の言った、バイスの基地の座標は覚えているか？」
「ああ」
暫しの沈黙。
全員が固唾を飲んで成行きを見守っている。
そして、ディグはゆっくりと銃を受け取った。引金に指を掛け、こめかみにあてる。
「どうせ、００９に助けられた命だ。惜しくはない。……必ず、００９を助けてやってくれよ。それと……感謝している、と伝えてくれ」
そう言うと、目を閉じ、覚悟を決めて、ディグは引金を引いた。
カチッ……
沈黙がドルフィン号のコクピットを覆った。
その沈黙を破ったのは、００４だった。
「上出来だ」
ディグがゆっくりと瞳を上げる。
「……不発…？」
「いや」
００４がかぶりを振った。
「最初っから弾を入れてない。……疑って、悪かったな。どういう事情があったのか知らんが、００９の為に命を掛けてくれたんだ。あんたを信じよう」
一同が、はぁ〜っと息をつく。
「だったら、一刻も早くヒマラヤに向かってくれっ！ ００９が、殺されちまうっ！ もう……もう、手遅れかもしれんが……とにかく、はやくっ！」
ディグが叫ぶ。００４が頷いた。
「００２、緊急発進だ！」
「了解！」
００２が、いつもは００９の座っている操縦席につく。
「ここからヒマラヤじゃぁ、着くまでに半日はかかる。その間に、詳しい話を聞かせてくれよ」
００８がディグに言う。００ナンバー一同は一斉に頷いた。
☆
「００９が……よりにもよって、００９が…拷問にその身を晒すことになろうとは……！！」
ギルモアは嘆息した。
「諸君らの誰一人とて拷問にかけられるなどという目には会って欲しくない。だが。だが、もしも、どうしても誰か一人が……というのであれば……００９でだけは、あって欲しくなかった……。せめて、００２か００４か…００５か……君達には悪いが、が、しかし……これが君達であれば、少しは…少なくとも、今よりは……気が楽であったかもしれん……」
深い、ため息。
「それは……どういうことですか？ 博士……？」
００３が問う。顔を上げて一同を見回し、そして、ギルモアは、ぽつりぽつりとつりと語りだした。
「００ナンバーサイボーグは、プロトタイプだ。それは……知っておるな？」
一同が頷く。
「一番初期の頃の Black Ghost のプロジェクトにあったのは、００２、３、４、５の４人だけじゃった。その後、ガモ博士が００１を連れて現れた。そして、彼の提案を入れて００６と００７がプロジェクトに加えられたんじゃ。つまり、００２から００５までが実戦用。００６と００７が工作用という訳じゃな。更にその後、深海及び宇宙空間での活動用により強化されたものを……という上層部からの要求で、００８が造られることになった。００ナンバープロジェクトは、ここまでの筈じゃった」
「じゃ…じゃぁ、ジョーは？」
「なぁんでジョー、サイボーグにされたアル？」
００７と００６が尋ねる。
「００９は……００９は実戦用に造られた訳ではないんじゃ。いや、もちろん、実戦能力は諸君らの中で一二を争う。……こう言った方が正しいな、００９は量産型のサイボーグではないんじゃ。当時の Black Ghost の技術の粋を尽くして造られた、最も人間に近いサイボーグなんじゃ」
「人間にって…生身に！？」
００２が叫ぶ。
「いやいや。とんでもない、００９のサイボーグ化の率はこの９人の中でもかなり高い。そうではないんじゃ。全ての能力がバランス良く強化されているのじゃよ。人間に無い能力がある訳でなく、特定の能力だけが強化されてる訳でなく、全体がバランス良く一様に強化されておる訳なんじゃ」
ここでギルモアはちょっと言葉を切った。ため息をつく。
「そして……そして、００９が諸君らと決定的に違う点は、全ての神経が生身のまま残されていることなんじゃ」
「？？？」
「たとえば……００５。君は、弾が掠ったくらいでは、痛くも何ともないね？」
００５が無言で頷く。
「００８。君は、僅かな風のゆらぎを肌で感じることができるかね？」
「いいえ……」
００８が首を振る。
「つまり、そういうことなんじゃよ」
「？？？」
「君達の体は、様々な衝撃に耐えられるように造られている。そのかわり、君達にはある程度以上の微妙な皮膚感覚は、ない」
全員が頷く。
「しかし、それは利点であると同時に欠点でもあるんじゃ。格闘技の達人は気を感じる事ができるというような話があるじゃろう。剣の達人などでもそう。そういった、気…気配…といったものを感じる力は、長年の経験にもよるが、五感からの情報によるところも大きい。つまり、僅かな風の揺らぎ、温度変化、いわゆる『肌で感じる』そういった感覚によって相手の位置を掴み、次の攻撃を予測する。これは、ある程度以上の微妙な皮膚感覚を奪われた君達には困難だ。そこで、００９が作られた。つまり、００９には……それが、あるんじゃよ。その為に、００９には総ての感覚神経が残されているのじゃ」
「え…？」
「００９の体は強靭なサイボーグ体だ。少々弾が掠ったくらいでは、ビクともせん。普通の人間ならば死ぬような傷でも、サイボーグ体は数週間はもつ。だが………」
その先を、ギルモアは言えなかった。事態を理解した一同が青ざめる。
「……だが、その間、００９は死ぬ程の苦痛を味わうことになる……と？」
掠れた声で００２が言った。ギルモアがかすかに頷く。
「サイボーグ体がまいるより先に、おそらくは……発狂……するじゃろ……」
「ディグ！ ００９が拷問にかけられてから何日たってるっ？」
００４が鋭く叫ぶ。
「４日……というところだろう……。だが、バイスの手にかかって３日以上生き延びた者はいない。つまり……」
「…つまり、普通の人間なら死ぬような状態になって、既に１日は経ってる……ってことか」
００２がディグの台詞を途中からかっぱらう。
「まだ死にはしないだろうが……ちくしょうめ、正気でいてくれよ、ジョー」
００７が言うのへディグが首を振った。
「いや……早く発狂してしまえば、それだけ早く楽になる。……俺としては、正気でいて欲しくは……ないな」
「くっそぉ〜」
００８が歯ぎしりをする。一同は深いため息をついた。
☆
「ここが、俺と００９の閉じ込められていた牢。その隣のブロックにあるこの一角が、バイスが拷問に使う部屋のあるエリアだ」
ディグが書いたバイスの基地の見取図を囲んで、００ナンバー一同は作戦会議をしていた。見取図の上には、動力室、武器庫、司令室等の位置が書き入れられている。そして、００９のいる可能性のある場所に、ディグは次々と赤丸をつけて行った。
「それから、ここが……地下牢、だ。ここには…いて、欲しくない……」
ペンを置きながらディグはため息をついた。
「地下牢？」
００８が尋き返す。
「……ああ……。拷問が終って用済みになった奴や拷問に屈さなかった者などの重傷者で、バイスが、楽に死なせてやる必要なし、と判断した者が……ここに入れられる。つまり……」
ディグは、一瞬、言葉を切った。僅かに言い淀む。
「…つまり……苦しみながら死ね、という訳だ」
「ひっでー」
００２が呟く。
「以前、バイスの拷問に２日半、耐えた奴がいた。強情な奴で、結局何も喋らないまま、口も利けないような状態になっちまったんだ。で。バイスは怒って、そいつを地下牢へ放り込んだ。そして、勝手に苦しんで死ね、と言って扉を閉めた。そのとたん……。あのバイスの拷問に２日半も耐えた奴が、口も利けないほど弱っていた奴が、半狂乱になって助けてくれと叫ぶと、知ってることを洗いざらいべらべら喋りだしたんだ」
ディグが目を閉じる。
「だが、バイスは出してはやらなかった。結局そいつは３０分で発狂して……２時間後に、死んだ。……地下牢の中へ一度入ってみたことがあるが、五体満足で、明りを持っていて、扉を開け放しておいてさえ、ぞっとする。そんな所へ苦痛にさいなまれている者がたった一人で放り込まれたとしたら………。精神的苦痛は、想像を絶する……な」
「ディグ……あんたは、ジョーが地下牢に入れられてる…と思うのか？」
００７が問う。ディグが深いため息をついた。
「思いたくはない……思いたくは……。だが、４日経っている。可能性は…低くはない」
黙り込む一同に、ディグは言葉を続けた。
「……とにかく、００９を見つけたらすぐに麻酔を打つんだ。何処にいるにしろ……気を失うことすらできないような苦痛に晒されているに違いないから……な。ギルモア博士に頼んで、全員が持っておいた方がいい」
一同が深く頷く。
暫し、沈黙が続いた。
「ところで、ディグ。バイスの基地に着いたら、あんたはどうするつもりだ？」
重苦しい空気を振り払うように、００２が言った。
「俺も、００９の救出に行く」
ディグはきっぱりと答えた。
「危険だぞ？」
００４が眉をひそめる。ディグはふっと笑った。
「承知の上。俺はこれでも一応戦闘員の数だったんだ。自分の身くらい自分で守れるさ。それに……００９との約束は果たした。もう、いつ何処で死んでも悔いは、ない」
「上等だ」
００４がニッと笑うと、腰の銃を抜いてディグに放った。
「預ける。今度は、実弾入りだ」
「感謝する」
そこへ、コンソールを見ていた００３が口を挟んだ。
「あと１０分で目標地点よ」
さっと緊張が走る。
「よし、着陸準備」
００４の声。
「了解！」
００２が素早く操縦席につく。
そして、ドルフィン号は、ゆっくりと着陸体勢に入った。
☆
重い爆音が、かすかに轟く。上では、００４達がかなり派手にドンパチやらかしているらしかった。
「ここだ」
ディグが言う。地下牢の扉の前。
「下がってるアルよ」
００６が言い、思いっきり息を吸って、鉄の扉に炎を吹きかける。太い閂が見る間に赤く溶け崩れていった。
「おっけーアルね」
００６が言う間もあらばこそ、００８とディグが扉を押し開け、中に入る。
「００９！」
「ジョー！」
００６が持ってきたライトを点けて、辺りを照らす。
「……うっ……」
その明かりに照らし出された光景に、３人は同時に絶句した。ある程度の事を予想し、覚悟をしていた筈のディグでさえ、しばらく動けなかった。
正面の壁。そこに、００９が磔られてた。体に打ち込まれた何本もの杭で。
（な……なんて……。ひどすぎる………）
とても生きているとは思えない程の、それは酷い有様であった。かすかながら苦しげに上下する肩が、００９がまだかろうじて生きていることを表している。
一番最初に我にかえったのは、やはり、それなりの惨状を予想し、覚悟していたディグであった。慌てて駆け寄り、ギルモアから預かってきた麻酔用の注射器を取り出し、００９の首筋に当てて、スイッチを押す。
「……ぅ……ぁ……」
その微かな衝撃に、低い呻きを漏らし、００９がうっすらと目を開く。虚ろな、焦点のあわぬ、その瞳。苦痛と絶望とを映した。
（…００９……）
その目を見て、ディグが唇を噛む。
（……正気…か……）
この様子では、００９は発狂してはいないだろう。殆どギリギリの所まで追いつめられているのだろうが。恐ろしい程の精神力だった。
（…救われない……奴だよ……お前は……）
ため息をつくように思う。この傷が癒えるまでに、００９はあとどれ程の苦痛を味わうのだろうか？ そして……。
麻酔が効き、ゆっくりと００９の瞳が閉じられる。ディグは苦い想いを振り切り、未だに呆然としている００ナンバーの二人を振り返った。
「とりあえず、麻酔を打った。００６、００８、この杭を抜いてくれ。俺の力じゃ、どうにもならん」
「…あ……あ…ああ！」
「……あ…そ…そう、アルね」
００８と００６ははっと我にかえると、急いで００９に駆け寄った。
「ディグ、ジョーを支えておいてくれ」
「わかった」
ディグが００９を支え、００６と００８が手早く杭を抜いていく。
総ての杭を抜き、００８が００９を背負う。
「さぁ、急ごう！」
ディグが言い、一同は地下牢を後にした。
「薄気味悪い…所だな、ほんとに……」
００８が誰に言うともなく呟く。ここに００９は一体どれくらいの間いたのだろうか。たった一人で、苦痛にさいなまれながら。
「ジョー……死んだら駄目アルヨ……」
００６が泣きそうな声で言う。
上の方では、重い爆音が轟いている。この基地が崩壊するのも時間の問題だろう。
「とにかく、一刻も早くギルモア博士に……」
ディグの言葉に頷き、一同は足早に階段を昇った。
☆
ドルフィン号のコクピットは重苦しい沈黙に包まれていた。
麻酔を打たれて眠っている００９は（応急手術の準備がまだ整っていない為）操縦席のシートをリクライニングさせてそこに寝かされていた。００９の惨状を一目見、あまりの事に半狂乱になった００３は、鎮静剤と睡眠薬を投与され、００３自身のシートに寝かされている。そして、普段なら００４が座っている筈の席には、なんと、気を失ったバイスが座らされ、厳重に縛り上げられていた。爆風に吹き飛ばされたらしく、肩と足に怪我をして失神していたのを００５が発見し、連れてきたのである。
「こいつ…目ぇ覚ましたら、ただじゃおかねぇぞっ」
００４が低く呻くように言う。それは、その場にいる全員の総意でもあった。
そして、約半時間後。バイスが目を覚ました。
「……う……あ………ここは……？」
頭を振って、目をしばたたく。
「お目覚めのようだな、バイス」
バイスがはっと顔を上げる。そこに、腕を組んで自分をにらみ据える００４がいた。
「ゼ…００４……」
そして、慌てて周囲を見回した。
「……００２……００５………ディグ！？ ……この、裏切り者めらがっ！」
「どうやら、状況が判ったらしいな」
「き…きさまら、何のつもりだっ！」
バイスが叫ぶ。
「何のつもりもかんのつもりもあるかいっ」
００４がかみつくように叫んだ。
「よくも、ジョーを…００９をえらい目にあわせてくれたなっ！ その礼をしてやるぜ、たっぷりとな！」
「な……！」
バイスが青ざめる。助けを求めるように周囲を見回したが、周りは敵ばかりである。
「てめぇに、００９の苦しみを教えてやるっ。このっ！」
００４が今しもバイスを殴ろうとした、その時。
「やめてくれっ！ ……ハインリヒ……やめろ…よ………」
あえぎあえぎの声。００９が意識を取り戻したのだ。
「なっ…」
００４が振り返る。
「ジョ…ジョー………」
ディグが慌てて駆け寄り、身を起こそうともがいている００９を抑えた。
「駄目だ…００９、寝てるんだ……」
全員が息を潜め、００９と、そしてその傍らに歩み寄っていく００４に注目する。
「な…なんで止めるんだよっ！ こいつは、バイスは、おまえをひどい目にあわせた張本人なんだぞっ！」
「周りが……敵…だけで…捕らえ……られている……だけ…でも……恐ろしい…もの……なんだ……そのうえ………拷問…され…るのは……つらい……もの…だ……だから……たとえ……敵…でも……こんな…おもい……誰にも…させ……たくない……から……だから………」
「こいつは、敵だぞっ！ 敵にそんな情は、必要ねぇっ！」
００４の叫びに００９がかぶりを振る。息が荒い。
「駄目…だ……そんなこと…すれば……僕達も……Neo Black Ghost と同じ……こと……したことに……なる………」
「だ……だが………」
「……たのむ…ハインリヒ……約束…してくれ……バイスに…何も…しない……と…」
「………」
００４は答えない。拳を握り締め、唇を噛んでいる。
「…た…の……む……」
「わ……わ…かっ…た……」
００９がほっとしたよう目を閉じる。
そこへ、手術の準備が終ったギルモアが入ってきた。ギルモアに指示された００５が００９を抱えて、手術室へ入って行く。
その様子を、バイスと一同は呆然と見送った。
しばし、沈黙が続いた。
気が抜けたように立ち尽くしている一同を見回し、ディグが口を開く。
「バイスの手当をしても……いいかな？」
不意に一同は、はっとした。
「あ……ああ…頼む………」
００４が半ば無意識のまま、答える。それから、ふと我にかえって、言葉を継いだ。
「となりの部屋が開いている。そこを使ってくれ。必要なものは…言ってくれれば渡すから……」
「判った」
そして、ディグはバイスを連れてコクピットから出て行った。
「００９に助けられるとは……思わなかったろ」
バイスの手当をしながら、ディグが言った。
「あ…ああ……」
「捕まえた敵は、どんな手を使ってでも有効利用する……ってのが、Neo Black Ghost の方針だからな……」
「ディグ。おまえ、なぜ裏切った？」
バイスが問う。そのバイスの目をちょっと見、そしてディグは口を開いた。
「俺は別に裏切ろうと思って裏切ったんじゃないんだぜ？ ただ、００９があんたの手にかかってなぶり殺しにされるのが、あんまりにも可愛そうだと思って、バレないように逃がしてやろうとしただけだ。まぁ、出来心って奴だな。ところが、そんなちょっとした出来心で助けただけの俺を助けるために、奴は命を掛けてくれたんだ。俺を見捨てれば、逃げられたっていうのに。その上、たった一度、しかも出来心で助けただけの俺を信頼して仲間の居場所まで教えてくれたんだ。ここまで信頼されて、それを裏切れるか？ Neo Black Ghost は一度も俺を信頼してくれなかったじゃないか。信頼してくれてもいない相手ってのを『裏切る』事って、できるのかね？」
「それで、００ナンバーの側についた、と？」
「ああ。……００ナンバーについたっていうより、００９に、だな。奴に助けられた命だからな。奴の為なら、いつどこで死んでも悔いはない」
キッパリと言いきるディグを、バイスはまじまじと見つめた。
「ディグ……おまえ…変わったな」
「変わった？」
「ああ。身の安全の為なら何でもする…そういう奴だと思ってたのにな。だから、本部もおまえの様な奴を基地司令に起用したんだ。妙な考えを起こす心配が無いからな。だが……」
そして、いま一度バイスはディグを見遣った。
「…００９の為なら死んでもいい、ねぇ……おまえの口からそんな言葉を聞くことになるとは、な」
「俺が変わったんじゃないさ。００９が、俺を変えたんだ」
☆
００９の応急処置が済んだところでドルフィン号は、日本のギルモア研究所へと急ぎ戻った。あまりにも損傷がひどすぎて、研究所へ戻らねば、応急処置以上の手当のしようが無かったのである。