Ａｃｔ．３ 間奏 −カンソウ−
日本 ギルモア科学研究所
「ギルモア博士！」
「博士！ ジョーはっ！？」
数時間に渡る手術の後、手術室から出てきたギルモアに、一同は口々に問いかけた。
「死にはせん……死には………」
ギルモアが、ゆっくりと首を振る。
「……じゃがな、神経系がズタズタになっておる。それが回復しなくては、これ以上の手当は……無理、じゃ。これ以上手を入れると、麻酔も鎮痛剤も効かなくなってしまう……。今のままでも、どれだけ鎮痛剤が効くものか……」
そして、ギルモアは深いため息をついた。
☆
００９は、ゆっくりと目を開いた。白い天井が目に入る。
（ここは……どこだ…？）
身を起こそうとした、その途端、全身に激痛が走った。
「……ぐっ……」
００９は低く呻いた。目を閉じて体の力を抜き、ゆっくりと息を吐き、ゆっくりと息を吸う。すぅっと痛みが引いていった。
「目が覚めたか？ ジョー」
不意に声が降ってきた。
「ハインリヒ…！？」
首を巡らせる。ベッドの傍らに００４が座っていた。
「……ここは…？」
「ギルモア科学研究所の、おまえさんの部屋だ」
「…ああ……」
そう言われれば、確かに自分の部屋だ。
「僕は…助かった……のか……」
生きて再びこの部屋に帰って来られるとは思わなかった。
「鎮痛剤は効いているか？」
００４が問う。
「ああ…かなり……」
００９は頷いた。鈍い痛みがあるにはあるが、今までの苦痛に比べれば、たいしたことはない。
「しばらくは、絶対安静だそうだ。鎮痛剤は、今使っているののもう１ランク上まであるそうだが、それはできるだけ使わないように、とさ。強すぎるんだと」
「ん…」
００９が頷いた。それから問う。
「みんなは…？ ……無事？」
「ああ。おまえさんのおかげで…な」
「よかった……」
安堵のため息をつく。それを複雑な表情で見ながら、００４が口を開いた。
「……ジョー………すまなかった…。おまえではなくて、俺が残れば……」
「ハインリヒ」
００４の言葉を００９が遮った。
「僕が、自分で残るって言ったんだ。それに…あの時はそんな余裕は無かったよ。君が決心してくれたから、皆が助かったんだ。あの時、君が決心してくれなけりゃ、もう一度全員で捕まって…今度は逃げられなかったさ。だから、あれで良かったんだよ。あれが正しかったんだ。……現に、全員が助かってるじゃないか」
そして、００９はふっと笑った。
☆
表向きは至って平穏なまま、数日が過ぎた。
夜。研究所は深い眠りについていた。
００９の部屋は、二階の南東の角にある。高く昇った満月に近い月が、半開きになった薄いカーテンを通して、部屋の中に入ってきていた。
ベッドの上で００９はあえいでいた。かすかに呻く。００９は悪夢にうなされていた。バイスの基地でうけた、あの地獄のような拷問……。今だに半分近くが応急処置しかされていない傷の痛みが、その悪夢をいっそうリアルなものにする。
振り上げられる電磁鞭。それが自分に向かってくる。
ビシッ……
全身に激痛が走る。鞭が空を切る音。そして、再び激痛が駆け抜ける。
（ぅ……ぁ……）
全身に広がる疲労感。焼けるような苦痛。そして……
暗転。
気付けば、そこは地下牢。暗闇と静寂。孤独。
全身を貫く苦痛に、悲鳴もあげられない。冷たい恐怖。体の芯まで凍り付くように寒いのに、熱い激痛が全身を切り裂く。悲鳴をあげたつもりなのに、声が出ない。息が苦しい。それなのに、何故死ねないのか？
（……ひと思いに…殺してくれ………！）
耐えられない程の苦痛と恐怖に、００９は絶叫をあげた。
「ぅ…うわあぁっ！」
「００９！ しっかりしろっ！」
自分自身の悲鳴とディグの声で、００９はハッと気がついた。
「…００９？」
「あ……ディグ…？ ……ここは…」
「ギルモア科学研究所、だ」
「……ああ……そうだった……」
ほっと息をつく。
「どうしたんだ？」
心配そうに問うディグに、００９はぎこちなく笑ってみせた。
「いや……何でもないんだ…」
つとディグが眉をひそめた。
「『なんでもない』だって？ あんな悲鳴をあげといて、なんでもない、だと？」
「な…なんだよ、ディグ、そんな怖い顔するなよ……ちょっと…変な夢を見ただけだから…さ……」
すっと視線を外し、軽く手を振って笑ってみせる。その００９の顎を掴んで、ディグは自分の方を向かせた。
「なんの夢だ？」
「え…」
まっすぐに目をのぞき込まれ、００９はうろたえた。ぎゅっと手を握りしめる。
「言えよ。何の、夢だ」
静かに、しかし有無を言わさぬ口調でディグは００９につめよった。
「…あ……」
００９の顔から、こわばった笑いの仮面が落ちる。ゆっくりと視線を外し、そして００９はかすかな声で言った。
「……バイスの…拷問……」
ディグが唇を噛む。発狂には至っていなかったと言うものの、あの、名にしおうバイスの拷問が、００９の精神に何の傷も残していない筈が無かったのだ。
（やはり…な）
それにもかかわらず、救出されてからの００９の様子は至って平静だった。泣き叫ぶ訳でも、不安を訴えるわけでもなく。にこやかで朗らかで、以前と少しも変わりなく（と他の００ナンバーが言った訳だが）振舞っていた。皆が安心していた。あとはこれで傷さえ直れば、すっかり元通りだ、と。
しかし。
（隠していたんだ、００９はっ！）
止むを得なかったとは言え、００４と００５は００９を置いて逃げたのだ。その結果、００９が大怪我をすることになったというだけでも彼らにとっては充分につらいのである。この上、００９が精神的に大きなダメージを受けているとなったら、彼らは救われない。しかも。今ここには、００９をそういう状況に追い込んだ張本人であるところのバイスが居るのだ。００９の言によってバイスの身の安全は保証されているとはいうものの、００９の精神的ダメージが明らかになれば、バイスの立場は悪くなる。だから、００９は平静を装い、皆にひた隠しにしていたのであった。
（おまえという奴はっ…！）
うつむいて、両手をきつく握りあわせ、喉元まで出かかった鳴咽を必死で堪えている００９を見おろす。そして、ディグは心を決めた。ゆっくりと口を開く。
「吐けよ」
００９がびくっとした。
「吐いちまえよ。バイスにどんな目に会わされたか。苦しいんだろ？ 一人で胸ん中にしまい込んでちゃ、おまえ、そのうち精神が切れちまうぞ」
「……くっ………」
００９は目を閉じ、耳を塞いで首を振った。うつむいて奥歯を噛みしめて、鳴咽を殺す。ディグは、つと手を延ばし、耳を塞ぐ両手を振り解き、００９の顎をとらえて上向かせた。
「…あ……」
支えを失って、吐息が洩れる。いっぱいにたたえられていた涙が、つっとこぼれ落ちる。
「泣けよ」
半呼吸の間、００９は最後の抵抗を試み、そして……。堰を切ったように泣きだした。
「怖かった……苦しかった………死ぬほど…つらかった………。ひと思いに…殺して欲しかった……！」
唇を震わせて、泣く。
「……蛇の生殺しだ……そんな状態で……放っておくなんて……たった一発の弾……それだけで…楽になれた……なのに……！ なのに……僕は…瀕死の重傷を負い……それでも…死ねず……真っ暗な…恐ろしい地下牢で……たった…たった一人で……もがき苦しんだんだっ……！」
「………」
「バイスが憎い！ 俺をこんな目にあわせたバイスが！ ……バイスに、この苦しみを味あわせてやりたいっ！ ……どんなに…苦しいか……どんなにつらいか……！」
「それなら、なぜバイスをかばった？ なぜ００４のするようにさせておかなかった？」
「……バイスだって人間なんだ…たとえどんなに残酷な事をしたとしても……人間なんだ。……こんな…こんな苦しい思いは……他の誰にもさせたくない。たとえ……それが、バイスでも………！ だけど、俺はバイスが憎い！ バイスを…殺してやりたい！ でも、駄目だ…そんな事は…駄目だ！ ……俺は…俺はどうしたらいい………？ 忘れてしまいたい！ すべて…忘れてしまいたいっ……！」
泣き疲れ、００９は眠っていた。胸の内の思いをすべて、吐き出してしまって少しは楽になったのか、その寝顔は安らかであった。起こさぬように気を付けて、ディグがそっと部屋を出る。ふぅっと息を吐き出し、そして、低い声で鋭く言った。
「出て来いよ」
しん、と静まりかえった廊下にゆっくりと人影が現れる。バイスであった。ディグが鋭い目でバイスを見る。
「ここでは話はできんな。部屋へ戻れ」
そう言うとディグはすたすたと歩きだした。
☆
カチャ……
ディグ、続いてバイスが二人にあてがわれた部屋に戻ってきた。ディグが窓を開けて外を見る。かすかな夜風がディグの茶色の髪を撫でる。
「それで？」
暫しの沈黙の後、ディグは言った。
「それで…って？」
ディグがくるりとバイスの方を向き直る。
「おまえは、００９の本心を聞いたんだろう？ その、御感想は？ 満足か？ 拷問をした張本人としては」
皮肉っぽく言う。
「………」
「二重の罪だぞ、バイス。００９を拷問し、さんざん苦しめ、その上００９がひた隠しにしてきた言葉を盗み聞くとはなっ！」
バイスはうつむいたまま黙っている。
「００９はおまえに拷問されている間、あんな事は一言も言わなかった筈だ。だから、００９が本当はどの程度ダメージを受けているのか判らなかったんじゃないのか？ 結果は……お聞きの通りだ。００９の傷は重傷だ。組織きっての拷問屋とはよく言ったもんだ。さすがだよっ！」
ディグは吐き捨てるように言った。
「……００９があそこまで…ダメージを受けているとは……思わなかった……なのに、あいつは俺を助けた。何故だ？ 何故殺さないんだ？ どうして仕返しをしないんだ？ どうして…あそこまで感情をねじ伏せられるんだっ！」
バイスが叫ぶ。
「……さあな。だが…ああやって感情をねじ伏せているが為に、００９はひとりで苦しんでいるんだ」
いっそ００９がバイスを殺せばいい、と思い、そしてディグは内心で溜め息を吐いた。
（そんな事ができるくらいなら……）
結局００９は優しすぎるのだ。他人を傷つけるくらいなら、自分が傷ついた方がマシだと思っているのだろう。だから、戦いの場でバイスと対峙したというのならともかく、こうして捕らえられ、無抵抗な状態のバイスをどうこうする事など出来ないのだろう。
（難儀な奴だよ、お前は……）
☆
「ここが Neo Black Ghost に発見されるのは、おそらく、時間の問題だろう」
００４が全員を見回して言った。
「俺についでバイスまでやられたんだ、本部は躍起になって、あんたらを捜しているだろうさ」
ディグが００４に同意する。
「……と、いう訳で、ここを引き払おうと思うんだ」
「引き払うって…何処に行くんだ？」
００８が問う。
「それを相談しようと思って、会議を開いたんだ」
そう言うと、００４はぐるりと一同を見回した。
「何か、意見は無いか？」
そこへギルモアが口を挟んだ。
「とにかく、ある程度以上の機材が運び込める場所でないと困るぞ。あと２回は、００９の手術をせねばならんのじゃからな」
暫し、沈黙が続いた。
「あ……」
ふと００２が顔を上げてディグを見た。
「なあ、ディグ。元あんたの基地だった、あそこは……どうだ？ また、あそこに Neo Black Ghost の奴らが戻って来る可能性ってぇのはあるのか？」
「いや……？ 何せ、あんたらに知られたからっていう理由であそこを破棄したんだ。あんたらが片付く前にもう一度あの基地に戻るなんて阿呆な真似はしないだろ、いくらなんでも……」
ディグが答え、それで？ という目をする。
「じゃあ、そこってのはどうだ？ ハインリヒ」
「はぁ？ そこ…って……ゼムリャフランツァヨシファ島の、Neo Black Ghost 基地、か？」
「ああ」
００２が頷く。
「あっちこっち破壊されてたけれど、地下深くの辺りは無事なんじゃないかな？ それに敵さんも、自分らが破棄した基地に俺達が入り込むとは、思わないんじゃないのか？」
「た…確かに、意表をついてはいるけど………」
００７が呆れたように言う。
「テキさんの基地、乗っ取るアルか？」
「まぁ……ある程度の設備が無事ならば、手っとり早い手ではあるが……」
００８が呟く。
「そうね。設備がどの程度残っているかに……よるんじゃないかしら……」
００３が００２を見る。
「見に行きゃあ、いいんだよ」
００２があっさりと言った。
「見に行く、ねぇ……」
００４が考え込む。
「だが、誰が行く？ また一人ずつとっつかまるってのは…勘弁して欲しいぜ」
「全員で行くってのは？」
００２が問う。
「とんでもないっ！ ジョーは絶対安静なのよっ！」
００３が叫んだ。
「あ……そか…じゃあ、ジョーを置いて……」
「バイスはどうする？ 連れてくか？」
００８が口を挟む。００４が即座に叫んだ。
「冗談じゃない。あんな奴、連れて行けるかっ！」
「でも…そうすると、研究所にジョーとバイスが残ることになるぜ？」
００８が反論した。
「う……」
「基地の設備がどの程度使えるか見てもらう関係上、ギルモア博士には来てもらわなけりゃならないし……」
一同が考え込む。そこへディグが口を挟んだ。
「良かったら、俺が残ろうか？」
「そりゃ助かる」
００２が頷く。だが００４は渋い顔をしたままだ。
「どうした？ ハインリヒ。まさか、ディグじゃ信用できない…てのか」
それに目を留めて、００２が不満そうに言う。
「違う！」
「だったら……」
言いつのる００２を００８が制する。
「待てよ、ジェット。ハインリヒはディグを疑ってるんじゃない。心配してるんだ。そうだろ？」
「ああ」
「なんで…？」
００２が訝しげな顔をする。
それを放っておいて、００４はディグを見た。
「ディグ……。あんたの気持はありがたい。だが…危険だ」
「…わかってる」
「何が…」
言いかける００２の肩を００５が抑える。それに構わず、００４は言葉を続けた。
「ここが Neo Black Ghost に見つかってないという保証は無い。もう既に監視下にあって、ただ期を見てるだけかもしれないんだ。それに……バイスの事もある。俺達が留守にしたと知れば、奴が何かしでかすかもしれん」
「ああ……」
「最悪の場合、Neo Black Ghost の襲撃を受けて、殺されるか…捕まるか……そういう事態だって考えられるんだ。そして、もしもそんな事になったら……ディグ、お前は…死ぬつもりだろ？」
００４の言葉に００２が息を呑む。
「な…んだってぇ？」
「……あぁ………」
００４の目を真っ直ぐに見返し、ディグは答えた。
「捕まれば、俺はあんた等の行き先を聞かれるだろう。奴等は拷問してでも聞き出そうとするだろうさ。…生憎と俺には耐えられる自信なんて無い。けど、あんた等の行き先を奴等に教えるなんて事はしたくない。万一の時は…そうなる前に、奴等をだしぬいてやる、さ」
「駄目だ！」
００４が激しく言う。
「それが判ってて、あんたを置いては行けない」
「だが、ここが襲撃される可能性と、出かけたあんた等が襲撃される可能性を比べたら、前者の方がまだ低い」
「それは…そうかもしれないが……」
「行き先がどこかを考えろよ、００４。放棄されたとはいえ、Neo Black Ghost 基地なんだぞ」
「………」
「大丈夫だ…と保証はできない。だけど、危険はお互い様だ。違うか？ ００４」
かくして、００９とディグとバイスを研究所に残し、８人の００ナンバーサイボーグとギルモアは、研究所を発った。
☆
軟禁されている部屋の中で、バイスはじっと座っていた。
昨日あたりから、どうも研究所内の空気が変だった。これまでの地上の部屋から地下に移され、部屋から出ることを禁じられた。今までは、まあ行動自由という訳では無かったし、バイスにしても無闇に出歩く気も無く、与えられた部屋の中にいたのが、「部屋から出るな」とは言われていなかった。改めて念を押されたのは初めてだ。
それに、ディグの姿を見る事が少なくなった。これまでは四六時中…という
程ではなくても、大概は視界の中にディグが居て、自分を監視していたのに。
それを言うなら、００ナンバーの姿も見ない。
（ふむ……）
バイスは考えを巡らせた。
（……００ナンバー達は、今、ここには居ない……のか？）
だとしたら、逃げる好機かもしれない。
だが、とバイスは思った。
（逃げて…どうする……？）
もう、組織には戻れない。それはハッキリしていた。一度敵方に捕らえられた者は、敵に寝返ったものと見做される。ノコノコ戻ろうものなら、処刑されるのがオチだ。そして、その前に尋問とは名ばかりの拷問にかけられ、敵の情報と、敵に何を喋ったかとを吐かされる。
実際、これまでそれはバイスの仕事であった。敵に捕らえられ、そこから逃げおおせて来た者は、どちらにしろ処刑される運命なのだ。だから、手加減の必要も無く、白状したからといって許される事も無い。なぶり殺しにするだけだ。それは気楽な仕事だった。
今、組織に戻れば今度はそれが自分の身にふりかかる。
（冗談じゃない…！）
だが、ここに居てどうなるというのか？ ００ナンバー達に自分を殺す気は無いらしい。いや、００４や００２等は殺したいようだが、００９の命令によって自分に危害を加える事は禁じられているのだ。バイスはそう理解していた。
００９がリーダーなのだ。だが、その００９には自分を殺す気が無いと来ている。
（いや…無い訳じゃない……か……）
あの夜の事を思い出し、バイスは唇を噛んだ。００９は泣きながらディグに言っていた『バイスが憎い』『バイスを殺してやりたい』と。だが同時に『それは駄目だ』とも。
理解不能だった。
憎いなら、殺せばいい。一発で殺ってくれるんなら御の字だ。
だが、００９は自分を殺そうとしない。その他の００ナンバー達も。尋問しようとすらしない。
（くそ…っ！）
ある意味それは、バイスにとって拷問にも等しい苦しい状況だった。
（いっそ…殺せよ…！）
最早、自分が助かりようの無い事は分かっている。組織には戻れない。もしも００ナンバーが組織に負ければ、自分は組織によって処刑される。逆に００ナンバーが組織を壊滅させれば……だが、自分が００ナンバーと敵対する存在である事は変わらない。そんな自分を自由の身にはしないだろう。だからといって、００ナンバーに許しを乞うつもりも、バイスには無い。
袋小路であった。
☆
暖かな昼下がり。とはいえ、地下であるここに、陽は差さない。
けれど、外からやってくる空気には日差しの匂いが混ざっていて、それを嗅ぎながら、００９はうつらうつらとまどろんでいた。
カチャ……
軽い音をたてて扉が開く。その音に、００９はふと目を覚ました。
（……ディグ…？）
ゆっくりと目を開き、扉の方を向く。そこで００９はハッと身を堅くした。
（なっ……！？）
怖いほど無表情なバイスが手に銃を持って立っていた。
「ど……どうしたんだ…バイス………」
震えだす心を必死で抑え、努めて平静な声を出そうとする。バイスは答えず、手に持っていた銃を００９に放った。
「？？？」
「撃て」
「……えっ？」
「俺が憎いんだろう？ 撃てよ」
００９が青ざめる。それを悟られまいと、００９は顔をそむけた。
「……撃たないのか？」
「………」
「それなら……」
バイスは懐からもう一つ銃を取り出した。
「…俺が、おまえを撃つ！」
００９がはっとしてバイスを見た。銃口がピタリと自分を狙っている。
「おまえが撃てないのなら、俺はおまえを殺して…ここから逃げるっ！」
そして、バイスは引金を引いた。
一発の銃声が研究所に響きわたった。
つい先刻、部屋を覗いたディグはバイスが居ない事に気付いた。慌てて研究所内を捜し回るディグの耳に、その銃声が届く。
（まさか……バイスの奴、皆がいないのに気付いて……？）
００９の部屋に向かって走りながら、ディグは懐の銃を確認した。
バタンと扉を開け、ディグは、銃を構えて、００９の部屋に飛び込んだ。バイスが振り向く。
（００９はっ！？）
ベッドの下に転げ落ち、片膝を立てて銃を構えていた。
（良かった…無事だ……）
ほっと息をつく。が。安心するのは早かった。００９の安否を確認するその一瞬を捕らえ、バイスがディグを撃ったのだ。
（！！）
ディグが床に倒れる。
そして、バイスは再び００９の方に向き直った。
「…撃て」
そう言い、ゆっくりと００９の眉間に狙いを定める。００９は震える指を引金に掛け、銃口をバイスに向けた。
ディグは薄れて行く意識を必死でつなぎ止めた。撃たれた瞬間に、それがパラライザーであることに気付いていた。
（バイスは…死ぬつもりか……？）
必死で身を起こそうとするが、体が言うことを聞かない。
「撃て」
バイスの声だけが、部屋に響く。
「撃てっ！」
そして、バイスは引金を引いた。
二発の銃声。
バイスの撃った弾が、００９の耳元をかすめる。一方、００９の撃った弾は、正確にバイスの眉間を貫いていた。
静寂。
「あ……」
００９がゆっくりと立ち上がる。
「……あ……あ………」
手に握りしめていた銃を床に叩きつける。
「あ…あ……ああぁぁっ！」
そして、００９は部屋を飛び出して行った。
「００９！ ……００９！」
ディグが叫び、必死で身を起こそうとする。しかしパラライザーでマヒした体は言うことを聞かない。
エンジン音。
そして、ストレンジャー号が、気違いじみたスピードで走って行く。
「…くっ……なんて…こった……」
そして、ディグは通信室へと全力で進み始めた。ドルフィン号で出かけた００４達に急を知らせるために。
☆
（僕は……僕は…僕はっ！！）
００９はしゃにむにストレンジャー号を駆った。何処か遠くへ行きたかった。一人になりたかった。
（……殺したくは…なかったんだ……殺したくなんか……！）
だが、本当にそうだろうか。バイスを撃ったあの瞬間、憎しみのほとばしりが無かったと、言い切れるだろうか。バイスを殺してやりたいと思わなかっただろうか。
（…いや……僕は…僕は思った！ バイスを殺してやりたいと。僕の味わった苦しみをバイスにも味あわせてやりたいとっ！）
「…くっ……」
未だ癒えぬ傷の痛みに唇を噛む。そして、思いっ切りアクセルを踏み込んだ。
☆
とある海岸にストレンジャー号を止め、ボンネットの上に腰を下ろして、００９は暮れなずむ海をぼんやりと眺めていた。誰もいない海岸に、寄せては返す波の音だけが響く。
（僕は……）
００９は低く呟いた。
（…僕は、忘れられるだろうか……？ あの苦痛を………あの…あの、恐怖を……）
全身がだるい。ギルモアから安静を言い渡された身であるにもかかわらず、銃を撃ち、走り、車をとばしたのだ。当然であった。
００９は深いため息をついた。
（忘れなければ……あの苦痛を……あの…恐怖を………）
だが、バイスの事を考えただけで、あの恐ろしい日々がまざまざと思い起こされる。００９は身を震わせた。激しく頭を振る。
（忘れるんだ、ジョー！ 忘れろっ！！ こんな……こんな弱気で、奴等と戦えると思っているのかっ？）
目を閉じて、大きく深呼吸する。そして、ゆっくりと目を開いた。暗い海をキッと見据える。
（…大丈夫だ。戦える。僕は…戦士、だ！）
自分自身に言い聞かせるかのように低く呟く。
夕凪が終わり、陸から海へと緩やかに風が吹きはじめる。思いのほか冷たい風。傷の痛みに顔をしかめる。
「…帰ろう……」
ディグが心配しているに違いない。悪いことをしたな、と００９は思った。ボンネットから降りて立ち上がる。ドアの取っ手に手を掛けようとした００９の動きがピタリと止まった。ザッと飛び上がる。その足元を幾すじもの光線が走り抜けた。
（し…まったっ！！）
いつの間にか００９は、黒い戦闘服を着た男達に囲まれていた。Neo Black Ghost のサイボーグ兵達だ。
着地すると同時に脇へ跳び退き、岩かげに飛び込んで、伏せる。荒い息をつき、００９は呻いた。
（どうする…？）
発作的に研究所を飛び出して来た為に、武器は何も持っていない。確か、ストレンジャー号の中に銃があったような気がするが、近づけないのでは話にならない。研究所内に居るときの慣例で、戦闘服を着ていたのが不幸中の幸いだが、しかし、体が思うように動かない状態ではどうしようもない。
（逃げるしか、ない！）
だが、敵もさるもの。巧みに誘導して、００９をストレンジャー号に近付かせない。次第に００９はストレンジャー号から引き離されて行った。
「さて…そろそろ仕上げにかかるか……」
海岸から少し離れた高台に、一台の黒いＶＴＯＬ。その中で一部始終を見ている男がいた。
クライムであった。
無線機のマイクを取ると命を下す。
「第二隊、突っ込め！」
そして、マイクを置くと、今度はＶＴＯＬのパイロットに命令した。
「００９を生け捕りにする。……行けっ！」
黒塗のＶＴＯＬは、ふわりと飛び上がった。
「……なっ！！」
不意に００９の背後から、新手の兵が現れた。
（…謀られたっ！）
しかし、もう遅い。前方には、００９を追い立ててきた一隊。背後には待ち伏せの一隊。そして……。
（ＶＴＯＬ…！？）
上空から黒塗のＶＴＯＬが降下して来る。
そのＶＴＯＬから網が投下された。
「…うわあぁっ」
逃げようがない。００９は網に捕らえられた。そこへ、パラライザーの一斉射撃。ひとたまりもなく、００９は倒れた。
気を失った００９を網ごと収容すると、ＶＴＯＬは一気に高度を上げ、進路を北へ取った。
かくして、００９は再び Neo Black Ghost の虜となった。
☆
「やられた…な」
００４が低く呻く。
海岸に放置されているストレンジャー号を囲んで、一同は深いため息をついた。
「Neo Black Ghost だな」
周囲を見回して００８が言う。
「…ジョー……」
００３が両手で顔をおおった。
沈黙が流れた。
「すまん……俺がついていながら………」
ディグが呟く。
「……しかたないさ………」
００８が小さく首を振った。
「バイスを…殺しておけばよかったんだ……」
００４が呟く。
「ハインリヒ……」
ぐっと拳を握り締め、００４は吐き捨てるように言った。
「ジョーの奴が甘ちゃんだって事は、何も今に始まった事じゃあ無い。あいつに捕虜が殺せるもんか。例え、それがどんな奴だとしても……。だから、俺が……この俺が、バイスを殺しておくべきだったんだ！ 」
右手の拳を左の掌に打ち付け、００４は歯を食いしばった。
「畜生…！ 後で何と言われようが、さっさと殺しとけば……！」
沈黙。
「……すまん……」
ディグが呟く。それをキッと睨み、００４は叫んだ。
「あんたのせいじゃないっ！ この…俺…がっ…！」
「いや！ お前さんは００９に約束していた。バイスを殺さない、と。だけど俺はそんな約束なんかしてなかった。俺がやれば……！」
「やめるアル！」
その００４とディグの間に、突然００６が割って入った。
「ハインリヒ、今はそれどころじゃ無いアルよ」
「そうだよ。とにかくドルフィン号に戻ろう。００１達が心配だ」
００８も口を揃える。
「とにかく、ドルフィン号へ戻って……そして、一刻も早く日本を離れるんだ。ここはもう…奴らの監視下にあるに違いないよ。そんな所にいつまでもいたら……。００９を助ける為には、まず、俺達が無事でいなきゃなんないんだぜ？」
００４とディグが黙る。
「ああ……そう…だな……。すまん………」
「ジョーは……ジョーは、大丈夫…よね……？ 今までだって…大丈夫だったんですもの……」
００３が震える声で言う。けれど、それに答えられる者は居なかった。
「……行こう」
気まずい沈黙を振り払うように、ディグが言う。
そして、００ナンバー達はその場を後にした。