Ａｃｔ．５ 一週間 −イッシュウカン−
SIDE A 過ちの代償 −アヤマチノダイショウ−
ウラル山脈ナロドナヤ山中 ライの研究所 → GO TO SIDE A
SIDE B 絶望の腕に抱かれるとき −ゼツボウノカイナニイダカレルトキ−
位置不明 Neo Black Ghost本部
そこは、真っ白い部屋だった。約１０メートル四方の、四角い、白い、部屋。その中心に、椅子がひとつ置かれている。歯科医の診察台のような、これもまた白い、椅子。その椅子に００９は座らせられ、両手両足を椅子に固定されていた。
カチャ……
００９の背後にある扉が開き、誰かが中に入って来る。
カチッ…
鍵をかける堅い音。そして、白衣の男が００９の正面にやってきた。大柄な体躯。短く切った銀の髪。妖しい光を放つ、藍の瞳。
口元に薄笑いを浮かべ、暫し００９を眺めた後、ゆっくりと男は口を開いた。
「おまえが、００９か……」
００９は何も言わない。
くっ…と男が嗤った。
「なるほど。……手のつけようのない強情者…という噂も、まんざら嘘ではなさそうだな」
ちょっと言葉を切り、００９をしみじみと眺め、男は言葉を続けた。
「……最初にいくつか教えといてやろう。まず、おまえは、今、Neo Black Ghost 本部にいる。総裁以外、誰も…ここに居る者でさえも、ここの座標は知らない。従って、助けは来ない」
００９は無表情である。
「次に、おまえの処遇だが……この私に任されている。つまり、私は、いつでも好きな時に、おまえを殺す権利を持っている」
相変わらず、００９の表情に変化はない。男は更に続けた。
「最後に……おまえの命を握っている私の名を、教えといてやろう。クワイト、だ。忘れるなよ」
そして、クワイトは、暫し、黙った。
「さて……」
後ろで手を組んで、００９の周りを大きく円を描くように歩きながら、クワイトは喋り始めた。
「…００９なぞさっさと殺してしまえ、というのが幹部会議の意向だ。確かにおまえは裏切り者だ。組織の敵だ。その上、手に負えん強情者だ。しかし……殺してしまうには、あまりにも惜しい。何故か判るか？」
言葉を切り、少々間を取る。だが、００９は何も言わない。そこで、クワイトは言葉を継いだ。
「……理由は二つある。一つは、おまえの知っている他の００ナンバーの情報。おまえ達に関する情報は少ない。何せ、Black Ghost を筆頭に、おまえ達と戦った組織は、ことごとく壊滅しているんだ。資料の残ろう筈が無い。辛うじて生き残った者達の証言や、崩壊した基地跡に焼け残った僅かな書類だけが、おまえ達を知る数少ない資料だ。これでは、らちがあかん。正確な情報が必要だ」
そう言い、クワイトは００９の真後ろで足を止めた。
「さて、もう一つの理由だが……」
くるりと向きを変え、反対方向に歩く。そして、００９の正面にまわると、再びクワイトは歩みを止めた。
「……試作品とは言え、確かにおまえは優れた戦士だ。無論、サイボーグとしての能力のみに話を限定すれば、当然、今のサイボーグより数段劣る。だが、サイボーグは人間だ。ロボットではない。従って、性能イコール戦闘能力ではない。もしそうであれば、とうの昔に００ナンバーは始末されている筈だ。だが、おまえ達は……いや、おまえは、勝ち続けてきた。性能においてはるかに優るサイボーグを相手に。それは、何故か？」
クワイトはつっと００９に歩み寄ると、顎に手をかけて顔を上向かせ、その目を覗き込んだ。００９がキッとクワイトをにらみ据える。ニヤリとクワイトが嗤った。
「この“目”だ」
楽しげに、クワイトが言う。
「この、目。これを見れば判る。おまえには、戦士としての資質が備わっている。真の戦士は、希だ。殺すには惜しい」
そこでクワイトは００９の顎を捕らえていた手を放した。
「……と、いう訳で我々としては、おまえに協力をしてもらいたいのだが……？ どうだ？」
クワイトが言葉を切り、００９を見遣る。即座に００９は答えた。
「誰が、おまえらに協力なぞするかっ！」
吐き捨てるように言う。
「そうすると、力ずくで……という事になるが…？」
「たとえ力ずくだろうが、何だろうが、きさまらの言いなりになぞ、ならんっ！」
くくくっ……とクワイトが嗤った。実に楽しげに。
「…そうこなくては、な………」
暫しの沈黙。クワイトが椅子の周囲を歩く、コツコツ…という音だけが室内に響く。
不意に、クワイトが００９の真後ろで止まった。室内がしんと静まり返る。
不気味な沈黙。
ニタリとクワイトが嗤う。そして、口を開いた。
「００９……。おまえ、バイスに拷問されたそうだな……」
一瞬、身を堅くし、次の瞬間、００９は慌てて全身の力を抜いた。つとめて平静を装う。だが、その一瞬の動揺を見逃すクワイトでは無かった。
（ふむ……バイスめ…予想通り、やってくれたようだな………）
そう。バイスに００９の拷問を命じたのは他ならぬクワイト自身だったのだ。だが、そんな事はおくびにも出さず、楽しげに言葉を継ぐ。
「…結構、苦しい目にあった筈だが、違うか？」
００９は黙している。クワイトは、ゆっくりと００９の正面にまわった。
「もう、忘れたか？ それとも……忘れられん…か？」
００９はうつむいて、我知らず下唇を噛んでいた。あの苦痛と恐怖とを、そう簡単に忘れられる筈がなかった。
正面に立って、暫し様子を眺めていたクワイトが、すっと００９に歩み寄った。顎に手をかけて強引に上向かせ、その目を覗き込みながら言葉を続ける。
「…バイスの拷問、思い出させてやろうか？」
００９は息を飲んだ。背中に冷たいものが流れる。
「そ…そんなこと…できるわけ……」
反論する声がふるえる。
「ない、と言い切れるかな？」
残忍な笑みを浮かべるクワイトに、００９は言葉に詰まった。心臓の鼓動が激しくなるのが、自分でよく判る。
「確かに、痛みというのは一時的なものだ。傷が癒えれば痛みも消える。だが……」
ちょっと言葉を切り、クワイトはニタッと嗤った。
「…恐ろしい“苦痛”というのは、たとえ本人が忘れていても、体が覚えているものなのだよ」
００９は首を振って、クワイトの手を振りほどいた。もう、それ以上は聞きたくなかった。だが、クワイトは言葉を続ける。楽しげに。
「しかも、おまえがバイスに拷問されたのは、僅か数週間前だ。そもそも、傷が完治していないんじゃないかな？ ……更に、休養も十分とは言えまい。違うか？」
００９は一言もない。何もかもクワイトの言う通りであった。
不意に、すっとクワイトが右手を上げ、
パチン…
と指を鳴らした。と、同時に、一瞬、室内が真っ暗になる。次の瞬間、００９の座っている椅子を中心とした、半径２メートル程の空間が、丁度スポットライトで照らしたように、パッと明るくなった。
その、光と影の境の辺りにクワイトが立つ。
「もう一度、聞こう。我々に協力する気は、ないか？」
「ないっ！」
００９が叫ぶ。クワイトが楽しげに嗤った。
「そうか……」
そして、もう一度右手を上げ、指を鳴らした。
その途端、００９の頭の上に取り付けられていた幻覚装置が、作動を開始した。
静寂。静寂。静寂。
気の遠くなるような、静寂！
暗黒。暗黒。暗黒。
果てしのない、暗黒！
ここは、地下数百メートルの、地下牢！
（あ………）
００９が息を飲む。
その瞬間。
激痛が全身を駆け巡った！
あげた筈の叫び声が、喉元に届く前に消える。
奥歯を噛みしめて苦痛に耐えようとした途端、体が全く動かないことに気付く。
（……げ…幻覚だっ…！）
００９は必死でそう思った。
だが。
全身を激痛が貫く。紛れもない、死ぬ程の苦痛、が！
００９は悲鳴をあげた。
クワイトが、チラリと時計を見た。そろそろ１０分になる。ニッと嗤うと、装置を止めた。
００９がはっと我にかえり、大きく息をつく。そこへ、クワイトが声をかけた。
「どうだ？ ００９。いい夢だったか？」
００９はゆっくりと顔をあげた。呆然とクワイトを見る。
「な…なにが……？」
「この装置はな…」
と言って、クワイトは００９の真上を指さした。
「……この下に立つ者に、その者の記憶に一番鮮明に刻みつけられている光景を見せる。従って、おまえの場合は、バイスの拷問を見た筈だ。違うか？」
００９は答えなかった。クワイトが楽しげに、嗤う。
「まぁ、いいだろう」
そして、クワイトはつっと右手をあげ、指を鳴らした。
再び、装置が作動する。
００９は悪夢の中へ引き込まれた。
苦痛！ 苦痛！ 苦痛！
引き裂かれるような、あるいは、劫火に焼かれるような。
（…ぁ……ぁ…ぁ…ぁぁあああっ！！）
必死でもがく。だが、体に力が入らない。
全身が、まるで自分の物で無いかのように、重い。
それなのに、苦痛だけは、はっきりと判る。
全身に広がる疲労感。
底無しの恐怖。
（う…うそ…だ……！ …これは、ゆめ…だっ……）
だが、その叫びは、押し寄せる激痛の前に、粉々に砕かれた。
１５分後。
クワイトが装置を止め、００９がはっと我にかえる。
「さて……」
肩で息をする００９を眺めながら、クワイトは口を開いた。
「…そろそろ、事情が判ってきただろう。たとえ幻覚と言えど、その苦痛は、本物だ。死ぬことはないが、死ぬ程の苦しみを味わうことは出来る。どうだ、００９。もう一度悪夢を見たいか？」
００９は、ぞっとした。もう、たくさんだった。
「……我々に協力するか？」
クワイトが言う。その瞬間、００９は自分を取り戻した。顔を上げ、キッとクワイトをにらみ据える。
「Ｎｏ！」
くっくっくっ……とクワイトが嗤った。
「そうでなくてはな。……そうでなくては、面白くない」
そして、すっと右手をあげ、パキッと指を鳴らした。
２０分後。
幻覚から覚めた００９は、うつむいて目を閉じ、肩で息をしていた。体がだるい。
「……３分、時間をやろう。今、おまえが悪夢を見ていた時間は２０分間だったが……次は、２５分だ。それが嫌なら……」
クワイトはその先を言わなかった。が、その先の言葉は決まっている。「Neo Black Ghost に屈せ」だ。そんなことを承伏することが出来る訳がなかった。
「あと、１０秒……」
ニタリと嗤う。
「…時間切れだな」
クワイトは、すっと右手をあげ、指を鳴らした。
室内に、００９の悲鳴が響きわたる。苦悶の、絶叫。
（さぁて、どこまでもつかな…？）
楽しげに、実に楽しげに、クワイトは呟いた。
２５分後。
クワイトが、うつむいて苦しげにあえぐ００９に近付き、その顎に手をかけて上向かせる。００９は目を開くと、キッとクワイトをにらみつけた。
「ほう…」
ニタッとクワイトが嗤う。
「……まだ、抵抗する気力は残っているらしいな」
しばしの、にらみ合い。
「次は、３０分だ」
そう言うと、クワイトは００９から離れ、つっと右手をあげ、指を鳴らした。
回を追う毎に、拷問の苦痛は、より鮮明に再現されていく。「幻覚だ！」という叫びも空しく掻き消え、００９には、もはや、耐えることしか出来なかった。だが、いつまで耐え続ければいいのか。死ぬまでか？ しかし、これは幻覚なのだ。死ぬ程の苦痛を味わおうと、これは幻覚なのだ。死という安らぎが訪れることは、決して、ないのだ。
（永遠に……？）
自分が屈さねば、永遠に、この苦痛が続くのか？
答えは……。
不意に苦痛が失せた。
「…ぅ……」
荒い息をつき、目を開く。
現実に戻ってきたのだ。
「５分、待とう。…次は、３５分だぞ」
冷笑を含んだクワイトの声。
００９は唇を噛んだ。全身が、だるい。
「あと、１分だが……？」
「……Ｎｏ！」
迷いを振り切るかのように、低く叫ぶ。
そして………。
再び、悪夢。
３５分後。
００９は疲れ切っていた。口の中が、カラカラに乾いている。吐く息が、熱い。
「６分、待ってやる」
嘲りの口調でクワイトが言う。
一分毎に残り時間を告げるクワイトの声を、００９は絶望的な思いで聞いていた。来るべき苦痛にそなえ、息を整え、覚悟を決める。
「時間切れだな」
嗤いを含んだクワイトの声。
「次は、４０分だ」
またもや００９は、悪夢の中に叩き込まれた。
疲れ切った００９にとって、長い長い４０分であった。体力は、根こそぎ奪われた。悲鳴は絶叫に変わっていた。全身を恐ろしいまでの苦痛が刺し貫く。永遠に続くかとも思われた４０分が過ぎた時、００９には、もう、指一本動かす力さえ、残っていなかった。絶望感が広がる。
（さすがに、よくねばる……が、ここまでだな）
００９の様子をつぶさに観察し、クワイトはひとり呟いた。
「８分、待ってやる。そろそろ限界じゃないのか？」
面白そうに、００９を見る。
沈黙が続いた。
瞬く間に、８分が過ぎ去る。
「…時間切れだ……」
そこまで言って、クワイトはちょっと間を取った。００９の様子を窺う。だが、００９は黙していた。目を閉じ、下唇を噛んで。
くっとクワイトが嘲う。
そして、つっと右手をあげ、指を鳴らした。
激しい苦痛を伴った、バイスの拷問の記憶が、００９に襲いかかる。００９は、それに対して為す術が無い。既に体力は底をついていた。休ませて欲しかった。呼吸がままならず、あえぐ。それでも、苦痛は絶え間なく襲って来る。苦しみの絶叫が口をつく。もう限界だった。これ以上は耐えられない。これ以上続けられたら、苦しんで、苦しんで……挙げ句の果ては狂い死にするだろう。
「や……や…やめ…て…くれっ……やめてくれっ！！」
００９は叫んだ。
クワイトが装置を止める。そして、ニタリと嗤った。
「我々に協力するか？」
皮肉っぽい口調の問い。００９は、一も二もなく頷いた。
「何でも…なんでもする……だから……だから、助けてくれ…！ もう……もう…やめてくれっ……！！」
震える声で、哀願する。クワイトはニヤッと嗤った。
「よかろう」
そして、インターフォンで兵士を呼び、００９を適当な牢に放り込んでおくよう命じた。
☆
数時間の休息の後、００９は再び白い部屋に連れてこられた。
同じように椅子に縛り付けられ、同じように室内の明りが消され、椅子の周囲だけが明るくされる。
００９はぞっとした。
そこへ、クワイトが来た。兵士達が出て行き、部屋に鍵がかけられる。そして、クワイトは００９の前に立った。
「では……００９、質問に答えて貰おう」
うつむく００９に残忍な笑みを浮かべつつ、クワイトは言葉を継いだ。
「ライは、何者だ？」
「………」
「普通の人間では、ないな？」
００９は何と言っていいか判らなかった。出来れば、言いたくなかった。クワイトがニタッと嗤う。
「ほぅ……言わないつもりか？」
００９は、うつむいたまま黙っている。
すっとクワイトは右手をあげた。００９がはっとする。だが、クワイトは、あえて、それを無視した。
パチン……。
「ぅわああぁぁっ…！！」
００９は悲鳴をあげた。全身を激痛が駆け巡る。
（さて……どこまでもつかな？）
クワイトは、楽しげに００９の様子を眺めた。
僅か数分で、００９は音をあげた。
クワイトが装置を止め、問う。
「喋る気になったか？」
「……」
００９は答えあぐねた。クワイトがニタッと嗤い、すっと右手を上げる。その瞬間、００９は叫んでいた。
「ま…待ってくれっ！ …言う……！」
クワイトが右手を下ろした。もう一度、問う。
「ライは、何者だ？」
「………テレパシスト……」
（ライ……すまない……）
目を閉じ、唇を噛む。その様子を面白そうに眺めつつ、クワイトは次の問いを発した。
「ディグは、どうしている？」
「……みんなと一緒だ……」
「ふむ…。……バイスは、どうなった？」
「……」
００９が、びくっと身をすくめる。ちょっと間を取り、クワイトは質問を繰り返した。
「バイスは、どうなった？」
「……死んだ…。俺が…殺した……」
「ほぉお。おまえが、ねぇ……」
嘲りの口調。
（……なるほどな。それで、か…）
ニタリと嗤い、言葉を続ける。
「…なぜ、殺った？」
「……」
００９は答えない。クワイトは無造作に右手を上げると、指を鳴らした。
「わああぁぁっ……！！」
００９が絶叫をあげる。
その途端、クワイトは装置を止めた。００９がはっと我にかえり、大きく息をつく。
「理由は、これか？」
クワイトが嘲う。００９は、かすかに頷いた。
暫し、沈黙が続く。
そして、クワイトが口を開いた。
「００４の弱点は？」
００９が、「え？」というように顔を上げた。クワイトがニッと嗤う。
「００４の弱点、だ。機能上の欠陥でも、精神的な弱味でも何でもいい。何か、あるだろう？」
「………判らない…」
００９は首を振った。００４に、弱味があるなどとは、とても思えない。
「ほおぉ……。判らない、ねぇ……」
クワイトが皮肉っぽい調子で言う。００９はギクリとした。
「ほ…本当だっ！ ……本当に、判らないんだっ！」
必死で叫ぶ。
００９が嘘をついているのでは無い事は、クワイトには判っていた。しかし、クワイトはニタリと嗤うと、非情にも決めつけた。
「嘘をつくな」
「！！」
００９は息を飲んだ。冷汗が流れる。
つっとクワイトが右手を上げる。
「ま…待ってくれ！ 本当だっ！ 本当に判らないんだっ！」
００９は必死で叫んだ。
「判らない筈がない」
クワイトは残忍な笑みを浮かべ、言葉を続けた。
「…一分やる。よーく、考えるんだな」
（そ…そんな……）
００９は、どうしていいか判らなかった。
「あと、十秒……」
クワイトが時計を見つつ、カウントダウンをする。
「五秒……」
「本当にわからないんだっ！」
００９は叫んだ。しかし、クワイトはとりあわない。
そして……。
「三……二……一……」
パチン……。
「ぅわああぁぁっ……！！」
００９は悲鳴をあげた。全身に苦痛が広がる。バイスの基地でうけた拷問の光景が、鮮やかに再現される。
「や…やめてくれっ！」
００９が叫ぶ。だが、クワイトはそれを無視した。
椅子に縛り付けられたまま、００９はもがいた。絶叫を上げ、息が続かずあえぐ。次第に体力が尽き、悲鳴すらあげられなくなってくる。きつく目を閉じ、最後の力を振り絞って、００９は叫んだ。
「……た…の…む……やめ…て…くれ……っ………！！」
ニッと嗤い、クワイトは装置を止めた。
ガクッと００９の体から力が抜ける。そして、００９はぐったりとなった。大きく息を吸っては吐く。とにかく苦しい。目を閉じ、椅子の背に凭れて言葉も無く荒い呼吸を繰返す。全身がしびれたように重く、だるい。
「００９…」
ゆっくりと言い、クワイトは００９に近付いた。顎に手をかけて上向かせ、目をのぞき込む。そして、ニタリと嗤って言った。
「おまえに、一時間、考える時間をやろう。その間に、よく考えろ。００４の弱味を、な」
「そ…そんな……」
００９が弱々しく反論する。それを冷たい嗤いで制し、クワイトは言葉を続けた。
「死にもの狂いで考えろ。…もう一度、地獄を味わいたくなかったら、な」
そして、００９の顎にかけていた手を放す。
（そんな……そんな………）
ガクッと首を垂れ、００９は絶望のうめきを漏らした。
☆
刻一刻と時間が過ぎていく。００９は途方に暮れいていた。
（どうしたら……どうしたらいいんだっ！？）
虚ろな瞳で足元の床を見る。
（ハインリヒの……弱味？ ……そんなものがあるのかっ…？ ……僕よりも強く、氷のように冷静なハインリヒに……？）
仮にあったとしても、それを喋りたくはなかった。しかし。何も言わなければ、あの、恐ろしい苦痛を味わわなくてはならないのだ。それを思っただけで、００９は身震いした。
（これ以上……これ以上……！）
もう、耐えられなかった。気が狂いそうだった。いや、いっそのこと、狂ってしまいたかった。そうすれば、この苦しみから逃れられるかもしれない。だが。
（…ああ……）
チラリと時計を見る。既に、三十分以上経っている。
（…どうしたらいいんだっ！？ ……ハインリヒの弱味を言え…だなんて……！！）
と、その時。ふと００９は、あることを思いだした。
（……ヒルダ……！！）
あの、００４の氷のような心の奥底に秘められた想い人。今は亡き、００４の恋人ヒルダ。ヒルダの死こそが、現在の００４の強さを作り出したのだ。逆に言えば……。
（…彼女の思い出こそが、ハインリヒの唯一の弱点……）
だが。
００９は唇を噛んだ。
（……こんな事を……こんな事を、クワイトに教える訳には、いかないっ！！）
他人の、ましてや仲間の心の傷を喋るなどということをする訳にはいかなかった。そんな卑劣なことをする訳にはいかないのだ。忘れよう、と００９は思った。これだけは、喋る訳にはいかない。
ふっと人の気配を感じて、００９は瞳を上げた。
（！！）
目の前に、クワイトが立っていた。息を飲み、目を見開いてクワイトを見つめる。動けなかった。
暫し、００９を見据え、そして、ニッと嗤うと、突然クワイトは言った。
「００９。いいことを教えてやろう」
（な……？ いい…こと……？）
「私はな、エンパス…すなわち、共感能力者なのだよ」
（え…？）
「他人の感情を……見る事ができる」
００９の瞳を真っ直ぐに覗き込み、クワイトは言葉を続けた。
「何に気付いた？ ００９」
（あ……！）
「テレパス…読心能力と違い、エンパスは思考を読む事は出来ない。だから、お前が何に気付いたのかは、私の能力では判らない。だがな……」
楽しげに嗤う。
「だが、利点もある。どんなに強固なブロックでも、感情の色は隠せない。お前が嘘を言っているのか、本当の事を言っているのか、総てを隠さず話したのか、あるいはまだ何かを隠しているのか……私には手に取るように判る。『何を』隠しているのか、知る事は出来ないがな」
（……！）
「能力としては、テレパスより不便だが…その分、吐かせる楽しみはある」
そして、クワイトはくるりと背を向けた。
（あ……）
クワイトの言葉が本当なら、自分が何かに気付いた事をクワイトは確信している。そう思い、００９はぞっとした。
（……駄目だ………）
本当に判らないのであれば、クワイトが、自分をいたぶるのに飽きれば、解放されるだろう。しかし。何か判っているにもかかわらず何も言わなければ、クワイトは自分が言うまで、決して手を緩めないに違いない。どんな目に合わせられるかは、判り切っていた。
（…ああ……）
目を閉じて、絶望的に呻く。
そこへ、クワイトの声が響いた。
「さて…言って貰おうか？ ００９」
☆
既に一時間が過ぎていた。
００９が「やめてくれ！」と叫ぶと、クワイトが装置を止め「喋る気になったか？」と問う。００９が言い淀んでいると、クワイトがニタッと嗤って、再び装置を作動させる。
絶望的な戦いだった。
自らの意志では、もはや、指一本動かすことも出来ぬ程疲労しているにもかかわらず、絶叫が口をついて出る。呼吸すらままならず、モウロウとしていようとも、一秒たりとも休息は与えられなかった。しかも、気を失うことすら許されない。仮に気を失ったとしても、そこへ悪夢が割り込んでくるのだ。００９に為す術は無かった。
☆
（もう…もう、駄目だ……許してくれ………ハインリヒ……）
どれほどの時間が経っただろうか、ついに、００９は戦いを放棄した。もう、耐えられなかった。とにかく休ませて欲しかった。楽になりたかった。
「……００４には…恋人が……いた…んだ……ヒルダ…という……名の……」
言葉が口をついて出てくる。苦痛から逃れたい。ただそれだけが００９の心を占めていた。仲間に対する想いが失われていた訳ではない。だが、恐怖の方がはるかに大きかった。
一言喋るだけでも、今の００９には非常につらかった。だが、喋らなければ、もっと苦しい目にあわされるのだ。苦痛への恐怖に駆り立てられて、００９は必死で喋った。残る気力を振り絞って、あえぎつつ、震える声で、知る限りのことを喋った。
☆
「……僕が……知っているのは……これだけ…だ……」
すべてを語り終え、そう言うと００９は口を閉じた。おびえながらクワイトの返答を待つ。
暫しの沈黙。
そして、クワイトは、ゆっくりと言った。
「…よかろう」
００９は、ほっと息をついた。ともかく、これで、休ませて貰えるに違いない。だが、００９の考えは甘かった。
下を向き、目を閉じて、ほっとしたように息をつく００９に、クワイトが残酷な嗤いを浮かべる。
「……では…次、だ」
００９がはっと顔を上げる。驚愕の瞳。それへクワイトは、ニタリと嘲いを送った。
「…００２の弱点を言え」
冷たく言い放つ。００９の瞳に絶望の色が浮かんだ。
「た…たのむ……。休ませて…くれ……」
震える声で、必死に言う。クワイトが嗤った。
「ほぉ。休ませて欲しいのか？」
「……た…たのむ……！」
すがりつくような、瞳。
クワイトが、くっ…と嗤った。楽しげに。そして、言った。
「駄目だ」
嘲りの口調。
００９は、もはや、言葉もない。
「一時間やろう。よく考えるんだな」
そう言うと、クワイトはくるりと００９に背を向けた。
☆
００９は問われるままに、知る限りの、思いつく限りの、すべてを喋った。気力を振り絞って、あえぎつつ、一語一語喋った。声を出して喋ること自体が苦痛であったが、それでも、バイスの基地で受けた、あの、地獄のような拷問の苦痛を再体験させられるよりはましだった。選択の余地は無かった。一切の抵抗は無駄だった。少しでも言い淀むと、クワイトは情け容赦なく００９を悪夢の中に突き落とした。
苦痛に対する恐怖と仲間達への想いの間で、００９は苦しんでいた。だが、苦痛に対する恐怖はあまりにも大きかった。
かくして、００９は絶望的な思いで喋り続けた。
☆
「よかろう……。では、休ませてやろう……」
十数時間ぶっ通しで責めたて、あらいざらい吐かせたところで、クワイトはそう言った。００９が、安堵のため息をつく。そして、ふっと気を失った。
それへ嘲りの嗤いを浮かべ、クワイトは言葉を継いだ。
「…休めるものならば、な」
そして兵士を呼び、００９を独房へ入れておくよう命じた。
☆
「うわああぁぁっ…！」
自分のあげた叫びで００９は目を覚ました。肩で息をし、唇を噛む。
（どうしたら…どうしたらいいんだ……！？）
一体、これで何度目になるのか判らない。だが、眠れば必ず悪夢にさいなまれた。クワイトに強制的に見させられた、あの、悪夢に。
眠りたくなかった。眠れば、必ず悪夢を見、恐るべき苦痛を味わう羽目に陥るのだ。しかし、００９は疲れ果てていた。眠りたかった。何も考えず、ただ、眠りたかった。
すぅっと眠りに引き込まれかけ、慌てて頭を振る。それでも眠気は襲ってくる。疲労の極に達しているのだ。当然である。
眠らないのも苦痛。眠っても苦痛。一体どうしたらいいのか。
そして００９は絶望的な思いで、再び眠りに落ちた。恐るべき悪夢の待つ、眠りへと。
☆
二日が過ぎた。
００９は発狂寸前にまで追いつめられていた。眠れば苦痛にさいなまれ、さりとて眠らずにいるには疲労しきっていた。うとうとと眠りかけては飛び起き、うっかり眠っては自分の絶叫で目覚める。そんな状態が二日。そろそろ正気の限界であった。
ギィ……。
重い音を立てて扉が開き、クワイトが独房の中に入ってきた。
「気分はどうだ？」
ニタッと嗤って言う。
今度は何をされるのか、と００９はおびえた瞳でクワイトを見た。
「……だいぶ、まいっているようだな…００９」
そう言うと、クワイトはつかつかと００９に歩み寄った。００９が身を堅くする。
くっ…とクワイトが嘲った。
「そう、おびえなくてもいい。今日は、おまえのためになる物を持ってきてやったんだ」
そして、金の輪を取り出すと、００９の頭に被らせた。
「な…なにを…？」
震える声で言う００９に、クワイトがニッと嗤う。
「孫悟空の輪のようなものだ。少々、役目は違うがな。安らかな眠りが欲しければ、外すなよ。もっとも……そう簡単には、外せないがな」
唖然とする００９に、クワイトは残忍な笑みを送り、出て行った。
☆
何者かに起こされ、００９は目を覚ました。深い眠りの底から、嫌々ながら現実に戻ってくる。それにしても、眠りというものがこんなにも甘美なものであったとはっ！ 今しばらくその快楽に身を浸していたかった。だが、何者かが執拗に目覚めを促すため、００９はその思いを断ち切って、ゆっくりと目を開いた。
「やっと起きたようだな」
目の前に立っているのは、クワイトであった。００９がはっと身を堅くする。
「どうだ？ よく眠れただろう…？」
ニタリと嗤って言う。確かに、よく眠れた。頷かざるを得ない。
「……そのリングにはな、レム睡眠もしくはノンレム睡眠を強制する働きがある。つまり、夢を見させたり見させなかったりできるのだ。だから、おまえは夢を見ずに眠れた訳だ」
ちょっと言葉を切り、そして、クワイトは言葉を継いだ。
「…さて、おまえの意識下には悪夢が植え付けてある。従って、そのリングが無ければ、おまえは決して安らかに眠ることはできん。もしリングをつけずに眠れば、必ず、悪夢を見る」
００９は息を飲んだ。
「ま…さか……」
弱々しく言う。クワイトはニタッと嗤った。
「では、試してみろ」
そう言うと、クワイトは００９の額のリングを外した。
「私に逆らわぬと誓えば、このリングをおまえにやろう。その気になったら、私を呼べ」
そして、クワイトは出て行った。
☆
００９にとって地獄のような日々が始まった。クワイトの言葉通り、眠れば必ず悪夢にさいなまれた。しかも、一度甘美な眠りを味わった後だけに、その苦痛は一層耐え難かった。
一日、二日、三日……。
００９はよく耐えた。しかし、もはや先は見えていた。クワイトに屈する以外の道はなかった。
そして、三日目が終わる頃。
ついに００９は絶望に捕らえられた。クワイトの前にひざまずき、決して逆らわぬことを誓う。
それから三日三晩、００９はただひたすら眠りをむさぼった。
☆
本部の一角にある、大会議室。そこでは、臨時幹部会議が行われていた。
「……報告は、以上だ」
そう言って、クワイトは幹部一同を見回し、言葉を継いだ。
「…では、００９をここに呼ぼう」
居並ぶ一同が、かの有名なテストナンバーサイボーグの姿を見ようと、心持ち身を乗り出す。
クワイトがニタリと嗤って振り返った。
「来い、００９」
扉の影から、真紅の戦闘服に黄のマフラーを垂らした少年が歩み出て来る。まぶしい光に一瞬顔をしかめ、そして、００９はゆっくりと瞳を上げた。
すり鉢状に下から上へと高くなっていく座席。その底に、クワイトと００９が立っている。
（こいつらが、Neo Black Ghost 幹部……！）
鋭い瞳で、一人一人を睨むように見る。その、殺気を含んだ瞳に、幹部達が身を堅くする。前列にいた一人が、うわずった声で叫んだ。
「ド……ドクター・クワイト……な、なぜ、００９を縛っていないんですっ！？」
クワイトがニッと嗤う。そして、言った。
「その必要がないからだよ」
ざわめきが会議場を覆う。と、そこへ鋭い声が響いた。
「静まれっ！」
全員が、はっと正面の一番高い段に目を向ける。厚いカーテンの向こうに一人の男が座っていた。
（……あれが、総裁！？）
「クワイト……」
男はゆっくりと言った。
「説明してもらおうか」
クワイトが軽く礼をした。ニタリと嗤って一同を見回し、そして、００９に視線を向ける。
「００９……」
嘲りを含んだ口調。
「…そこに……」
と言って、クワイトはぞんざいに００９の前の床を指した。
「…ひざまずいて、Neo Black Ghost に忠誠を誓う、と言え」
００９がキッとクワイトを睨みつける。全員が息を飲んだ。
クワイトが、ピタリと００９の視線を捕らえ、ニタッと嗤う。
００９は、ほんの数秒間必死の抵抗を試み、そして、ゆっくりと目を伏せた。下唇をきつく噛み、目を閉じて、静かに膝を折る。
声にならないどよめきが会議場を包んだ。
「俺は……」
呻きともつかぬ声。
「…Neo Black Ghost に……」
００９はギリッと奥歯を噛みしめた。両手の拳をきつく握りしめる。最後の抵抗。良心の痛みに身を震わせる。しかし、クワイトに対する圧倒的な恐怖が、００９に言葉を続けることを強制した。
「……忠誠を……誓う…！」
絞り出すように言うと、００９は大きく肩で息をついた。絶望感に、目の前が真っ暗になる。もはや、二度と仲間の…いや、かつての仲間の下へは、帰れない。後悔と自責の念に、００９は低く呻いた。
「いかがですかな？」
クワイトが言う。総裁は重々しく頷くいた。
「……よかろう…。しかし……」
「００９が逃げ出さないか、ということですかな？」
「そうだ」
くっ…とクワイトは嗤った。００９に歩み寄り、その髪を無造作に掴んで、顔を上げさせる。そして、その額のリングを一同に示した。
「これは、小型の催眠装置で、レム睡眠もしくはノンレム睡眠を強制するものです」
ぱっと手を放し、クワイトは言葉を継いだ。
「００９がバイスに拷問されたのは、ご存知ですね？」
『バイス』という単語にビクッと身を硬くする００９をチラリと見、クワイトが嗤う。
「００９の意識下には、その苦痛が植え付けられています。つまり、この装置を使って、強引にノンレム睡眠に落してやらない限り、００９は眠るたびに、死ぬ程の苦痛を味わうことになる訳です。このリングのエネルギーは、この基地のコントロール下にあります。従って、００９は決して一人ではここを出て行けない、と言う訳なのですよ」
そこでクワイトはちょっと言葉を切り、半信半疑の一同をぐるりと見回し、そしてゆっくりと残酷な笑みを浮かべた。
「ご覧になりたいかな？ ００９が一人でこの基地から出て行ったらどうなるか、を……」
００９が息を飲み、顔を上げ、クワイトを見る。恐怖の表情。
クワイトが００９の目を覗き込み、絶望と恐怖と苦痛とを映したその瞳に、残忍な嗤いを返す。
「…や…やめて…くれ……」
無駄と知りつつも、震える声で００９は哀願した。
「見せてもらおうか」
冷たい、総裁の声。クワイトがすっと左手首のコントローラに触れる。
次の瞬間。００９は、その場にくずおれた。
一瞬にして奈落の底に叩き落とされる。思い出すもおぞましい光景が目の前に再現され、そして、純粋な苦痛が００９に襲いかかってきた。
一撃目に歯を食いしばって耐え、二撃目で低い呻きを漏らし。三撃目で、ついに、００９は悲鳴をあげた。次からはもう、００９に為す術はなかった。悲鳴が絶叫に変わる。息が続かない。００９はあえいだ。
「いかがですかな？」
のたうちまわる００９を見下ろして、クワイトは言った。総裁が頷く。
「よかろう……とめてやれ」
クワイトがコントローラーに触れる。
００９の苦鳴がふっと途切れた。ぐったりとして、荒い息をつく。
「さて、総裁。００９から必要な情報を引き出すことが出来たら、望みの物をやる、と言ったことを忘れてはいませんね？」
ニタリと嗤ってクワイトは言った。総裁が重々しく頷く。
「確かに、言った。そして、おまえは成し遂げた。よかろう。何が望みだ？」
クワイトはニッと嗤うと、やっと呼吸を整えて身を起こしかけている００９を、ゆっくりと指した。
「……００９を、私の直属の部下としてもらいたい」
「何とっ！？」
００９を含めた全員が息を飲む。
「頭脳、戦闘能力、共に申し分無い。そして何より、００９は決して逆らわん。理想的な部下だ」
００９が小さく唇を噛む。その様子をチラリと見遣り、クワイトは嘲った。
「危険ではないか？」
「何が、です？ 私が死んで一番困るのは、００９だというのに」
クワイトが嗤う。
暫しの間。
そして、総裁は決定を下した。もっとも、総裁がクワイトの望みを却下した事など一度も無い。だから、この決定は単なる儀式以外の何物でもなかった。
「いいだろう、クワイト。００９をおまえの直属の部下として認めよう」
クワイトが軽く礼をする。その様子を００９は絶望の瞳で見ていた。
☆
とある扉の前でクワイトは立ち止まった。軽くノックして、扉を開ける。
「ウィッチはいるか？」
部屋の中で立ち働いていた白衣の男達が一斉に振り返り、一様に顔をこわばらせる。そのうちの一人が、クワイトの前へ飛んで来た。
「…こ、これは…クワイト様……ど、どうぞこちらへ…。ただ今すぐ、呼んで参ります……」
扉の右手奥にあるソファを示しつつ、仲間の一人に目配せをする。目配せを受けた男は、慌てて頷くと、ウィッチを呼びに奥の部屋へと走った。
クワイトが扉の外を向き、軽く手招きする。
「おい、００９。入れ」
やや、うつむき加減に００９は部屋の中へ入り、扉を閉めた。
待つこと暫し。
奥から白衣を着た女性科学者がやってきた。“ウィッチ”と呼ばれ、クワイトとはまた別の意味で恐れられている、生体学者である。
「あら、ドクター・クワイト。今日は、何の御用？」
基地内の誰もが恐れるクワイトに、平然と話しかける。
クワイトはニッと嗤って、傍らに立つ００９を指した。
「コイツの治療を頼みたい」
「…そりゃぁ、かまわないけど……この子は、例の……？」
いぶかしげに言うウィッチに、クワイトはニタリと嗤った。
「そう。００９、だ。だが、もはやコイツは我々の敵ではない。組織に忠誠を誓った、いわば我々の新しい仲間…という訳だ」
「へえぇ」
感心したようにウィッチが言う。
「……噂によれば、００９というのは、たいした強情者だって言うじゃないの。それを、ねぇ……。見たトコ洗脳された訳でも無いようだけど……あの手を使った訳？」
００９が唇を噛む。
「そうだ」
クワイトは楽しげに嗤った。
「ふ〜ん……」
暫しの、間。そして、ウィッチは大きく頷いた。
「いいわ。引き受けましょ。で、治療が終わったら、どこへ行かせればいいの？」
「連絡をくれればいい。迎えをよこす。……ああ、ついでにコイツにふさわしい服も見繕ってやってくれ。Neo Black Ghost の人間になったのに、いつまでも裏切り者と同じ服装をしてるもの、おかしかろう」
そう言うと、クワイトは立ち上がった。それへ、ウィッチが声をかける。
「で、この子の身分は？」
「私の直属の部下」
ウィッチが目を丸くする。それを後目にクワイトは出て行ってしまった。
「へえぇ〜」
感心したように、ウィッチが００９をしみじみと眺める。
「クワイトの直属の部下、ねぇ。こりゃぁ、驚いた」
上から下までじろじろと自分を見るウィッチに、００９が不審げな表情をする。それに気付いて、ウィッチがくくっ…と笑った。
「あんた、状況が判ってないんだね。ま、無理も無いけど…クワイトの直属の部下ってのがどういう意味か、判ってないんだね」
「…どういう…意味……？」
「クワイトは、Neo Black Ghost 内では、総裁に次ぐ実力者なんだよ。要するに、ナンバー２さね。それほどの者であれば、副官だけでなく何十人って直属の部下を持っていて当然なんだ。現に、最高幹部達は、皆、何十人もの幹部を自分の直属の部下として持っている。そいつらには、たとえ総裁と言えど、直接命令をすることは出来ないんだ。要するに、私兵さ。ところがクワイトには、一人も直属の部下がいない。いらない…って言ってね。クワイト自体はああいう人間だから、皆に恐れられているけど、何せ、組織のナンバー２だ。ぜひとも自分を副官に…って言う奴は、少なくなかった。だけとクワイトはそういった輩を、全員、おっぱらっちゃったのさ。ところが、今、クワイトは、あんたを自分の直属の部下にしたって言った。クワイトの直属の部下はあんた一人。つまり、あんたはクワイトの副官って訳だ。……どうだい？ 事の重大さが、判ってきたかい？ あんたは、多くの幹部達が望んでやまなかった、組織ナンバー２の副官になっちまったのさ。あたしのような下っ端幹部が出られない、最高幹部会議にも同席できる身分だ。クワイトの居ない所では、その代理として組織ナンバー２の権限を行使できる。まったく…たいした出世だねぇ」
（な……！？）
００９は唖然とした。
ウィッチがニッと笑う。
「嬉しくなさそうだねぇ、００９。Neo Black Ghost の者ならば、泣いて喜ぶ出世だってのに……」
いやみっぽく言うウィッチに００９は答えない。
沈黙。
「…くっくっくっ……！」
不意に、ウィッチが笑った。
「たいした坊やだ。……まぁ、からかうのはこのくらいにしておきましょ。何せ、畏れ多くもクワイト様の副官殿だからねぇ。……ついといで」
そして、ウィッチはくるりと００９に背を向けた。
☆
「目が覚めたね」
ウィッチの声。００９はゆっくりと目を開いた。白い天井が目に入る。
「起きて、そこに置いてある服を着てごらん」
そう言うと、ウィッチは出て行った。
ゆっくりと身を起こし、体をあちこち動かしてみる。傷は跡形もなく、痛みも全くない。
傍らの机の上に、服が一揃い置いてある。００９は立ち上がり、服を手にとった。
黒に銀の模様が入ったブーツ。黒いズボン。黒い上着の立ち襟には銀糸の縫い取り。少し大きめの銀ボタン。銀のガンベルト。そして、くるぶしまで届く長い黒マントを肩から垂らす。
Neo Black Ghost 幹部の正装。
「似合うじゃないか」
上から下まで見て、ウィッチは満足気に頷いた。そして、銃を差し出す。
「ま、使うことはあまりないだろうけど、幹部には銃の私有が認められているし……それに、あんたはクワイトの護衛でもある訳だから、ね」
００９は黙って受け取ると、銃をホルスターに収めた。