Ａｃｔ．６ 戦士の条件 −センシノジョウケン−
位置不明 Neo Black Ghost本部
その男は、タイラントと名乗った。
「クワイト付の戦闘部隊隊長だ。今日から、あんたの部下になる」
上官に対するとも思えないぞんざいな口調。しかし、００９には咎めだてする気持など全く無かった。
そもそも、自分が Neo Black Ghost の幹部だなんて、どう考えても何かの冗談としか思えない。まして、つい数日前まで敵の捕虜として扱っていた者が、突然、自分の上官だなどと言われたとしたら、言われた方は、とてもじゃないが納得できないだろう。
「クワイトの命令で、あんたを迎えに来た。執務室まで案内して来いってな」
００９が黙ったまま頷く。それをじろりと見、タイラントは先に立って歩きはじめた。
☆
「クワイト様。副官殿をお連れしました」
執務室の中に入り、慇懃な口調でタイラントが報告する。それへ、机に置かれた端末を眺めて何やらやっていたクワイトが、ゆっくりと視線を上げた。
「ふむ……」
Neo Black Ghost 幹部の正装をさせられて目の前に立つ００９を観察する。組織内の階級を示す襟元の刺繍に目を走らせ、クワイトは小さく笑った。適当な服を見繕え、と言っただけにもかかわらず、ウィッチが正確に状況を理解し、正しい服を着せて寄越した事が妙に楽しい。しかも、略装などではなく、完全な正装というのがまた笑わせてくれる。
「…よかろう」
誰にとも無く軽くうなずき、クワイトは立ち上がった。机をぐるりと回って００９の前に立つ。
「さて、ジョー。副官としての仕事や、基地内の決まり事などは、大概が文書になっている。それには一通り目を通しておけ。場所は……タイラント……お前が教えてやれ」
「……はっ」
クワイトの言葉にタイラントが応じる。それへ目もくれず、クワイトは言葉を続けた。
「そういった雑事を除けば、お前の仕事は、主に、私について歩く事だ。そして、私が命じたことを即座に実行する。いいな？」
「…わかりました……」
００９が微かに答える。
しばしの沈黙。００９はクワイトの足元辺りに視線を据え、無表情を装っている。その様子を眺め、そして、再びクワイトは口を開いた。どこか楽しげに。
「それから、ジョー……」
「……？」
００９が一瞬ビクリとする。
「私の副官として、お前が守るべき事が、一つある。それを言っておこう」
そこで一寸言葉を切り、ニタリと嗤った。
「私に何かを報告する場合、私から命令を受ける場合は……必ず、ひざまずくこと」
「…な……」
「！」
００９が思わず顔を上げ、クワイトをキッと睨む。タイラントは息を呑んで身を固くした。
（…おいおい……クワイトの奴……いっくらなんでも、そりゃー……）
馬鹿な要求だ。タイラントは内心で呟いた。儀礼的な場合ならともかく、『必ず』というのは、あまりにも屈辱的だ。それに、意味も無い。００９が了承しなくても、誰も責めはしないだろう。
けれど。
数秒間の睨み合いの後、００９は、つと目を伏せた。唇を噛み、そして、答える。
「……わかりました……」
（な？）
タイラントが思わず目を丸くして、まじまじと００９を見る。
と。不意にクワイトがクッと嗤った。
「……わかっていないようだな、ジョー？」
からかうような口調。００９が顔を上げ、クワイトを見る。戸惑うような瞳。それへ、クワイトが残忍な嗤いを返す。
数呼吸分の間。そして、００９は悟った。クワイトが言わんとしている事を。
（…あ……）
ぐっと拳を握り締める。視線を落とし、奥歯を噛みしめ、心の葛藤に決着をつける。
沈黙。
それから、００９はぎこちなくひざまずいた。頭を垂れ、目の前の床を睨み付けて、うめくように言葉を紡ぎ出す。
「……わかり…ました………クワイト…様……」
「よかろう」
クワイトは楽しげに嗤った。
その様子を呆然と眺めつつ、タイラントは心の中で呟いた。
（なんなんだ…コイツは……。プライドってもんが、無いのかよ……）
こんな奴が上官だなんて、冗談じゃない、と思う。
（まったく…悪い冗談だ……いや、クワイトは冗談をやるような奴じゃない。だから……）
余計にタチが悪い、とタイラントは内心で毒づいた。
☆
本部の一角にある、戦闘員用ラウンジ。
「なあぁんで、あんな奴がクワイトの副官なんだよっ！」
騒々しいラウンジに蛮声が響いた。
「……あんな…あぁんな、裏切り者の、できそこないのサイボーグがっ！」
００９が自分より強いのであれば、裏切者だろうがなんだろうが、タイラントには納得できた。だが。
（組織にとっての最強の敵、だぁ？ あいつが？ あいつの、どこが？）
その外見からも、態度からも、何からも、そんな気配は微塵も感じられない。小柄な体はタイラントが軽く突けば吹っ飛びそうだ。一番下っ端の兵士にだって、もう少しは覇気というものがある、とタイラントは思う。
一週間程前、クライムに連れられてこの基地に来た時。あの時は、タイラントも『最強の敵』だという噂に納得したのだ。厳重に縛り上げられて、銃を突きつけられ取り囲まれているにもかかわらず、決然と頭を上げ、周囲を睨み据えた眼光に。
だが、今の００９にその時の印象は全くない。
（ようするに……単なるハッタリだったって訳か……）
一瞬でも感心しただけに、余計に腹が立つ。
（結局、拷問に屈するようなヤツだったって事かよ……）
プライドも無くクワイトの前にひざまずく、おびえた犬。
確かにクワイトに逆らうのが得策ではないというのは、組織内での共通認識だ。だが。所詮は使い捨ての一般兵とは違い、仮にも幹部なのだ。しかも、クワイト自らの指名による副官。日々こき使われる自分達とは比べ物にならない厚遇をされる訳で、それが、全くクワイトに逆らえないというのでは、やってられない。だったら居ない方がマシだ。間に一人入る分、話がややこしくなるだけではないか。せっかく、たとえ年に何人かは死ぬとしても、それなりに平穏にやってきたというのに。
「ふんっ。だいたい、昨日まで敵だった奴が俺の上官だとっ！？ 一体全体、クワイトは何を考えてんだよっ」
その時。
「聞き捨てならんな」
ラウンジの喧噪がピタリとやんだ。身を強ばらせたタイラントがギクシャクと振り返り、ラウンジの入口に目をやる。
そこには、白衣を着たクワイトが、００９を後ろに従えて立っていた。
「ク……クワイト…様………」
掠れた声で、タイラントが言う。
（馬鹿…な……）
何故、こんな所にクワイトがいるのか？ ここは、戦闘員用のラウンジで、上級幹部であるクワイトが居るような場所ではない。無論、来てはいけないという決まりがある訳では無いが、しかし、タイラントがクワイト付の戦闘部隊に配属されてから約八年。クワイトがここに現れたことは、ただの一度も無い。
何故、今日、今、まさにこの瞬間、クワイトがここにいるのか？
ニタリ、とクワイトが嗤った。
「ジョー、私が許す。そいつを殺せ」
「な……」
００９がクワイトを見る。
（……殺せ…って……！？）
「私の人選に文句をつけるのは、私に対する侮辱だ。この、私に対する、な。死に値する。……殺れ」
クワイトが命ずる。
やむなく００９は銃を抜いた。二、三歩前に出て、ピタリとタイラントの、眉間を狙う。
タイラントがうわずった声で叫んだ。
「あ…クワイト様……あ、あなたを侮辱するつもりはなかったんですっ！ …ど、どうか……お許しをっ…！」
「うて、ジョー」
冷たく、クワイトは言った。
タイラントが目を見開く。
（な…何で…俺がっ……。死にたくない…こんなことでっ……！ ちくしょうめっ）
これまで自分は、それなりにうまくやってきていたのだ。気まぐれで残忍なクワイトの下で。
クワイトは副官を持たなかった。それ故に、クワイト付戦闘部隊の隊長には、他の者の下に配属されるのに比べ、どうしても雑事が多く降りかかってくる。極めて扱い難いのに加えて、そういった各種雑用のオマケ付とくれば、希望者なんぞ居る筈も無い。何人もの戦闘隊長が配属されては転属願をだし、酷い時にはそれが受け入れられる前にクワイトに殺され……そして、タイラントにお鉢が回ってきたのだ。あれから既に５年。副隊長としてクワイト付戦闘部隊にいた３年の間に学んだことを活かして、タイラントはこの役を無難にこなしてきた。コツは、判れば簡単な事で、それは『とにかく逆らわない』の一語に尽きた。とにかく逆らわず、殺せといわれれば目をかけていた部下であろうが、即座に殺す。それがタイラントの方針であった。そして部下たちにもそれを徹底して叩き込んだ。クワイトに目を付けられた者は『運が悪かった』というのが、クワイト付戦闘部隊内での暗黙の了解であった。
だからといって、その運の悪い役が自分に回ってくるとしたら、話は別だ。無論、教育の行き届いている部下たちがクワイトに口答えしたりする事はないだろう。自分が殺される所を黙って見て、後始末をする。それがせいぜいだ。
００９が撃たないということも、考えられない。
（くそ…！）
助かりようが無い。要するに、運が悪いのだ。
（だからって……だからって、納得できるかよっ！）
「どうした？ ジョー。撃たないか」
クワイトに促され、００９は今一度狙いを定めた。
だが。
（……僕のために…クワイトの怒りをかったんだ……彼は……。彼の言い分は…正しい………）
タイラントは率直な感想を言っただけなのだ。昨日まで敵であった者がやってきて、いきなり自分の上官になったのだ。不審に思ったり、頭にきたりして、当然だ。誰もがそう思っている筈である。タイラントは、ただ、それを口に出しただけなのだ。
（つまり……彼を見せしめに殺して、他の者が不満を口に出さないようにさせるつもりなんだ……！）
低く呻く。
（………うてない…僕には……）
００９の様子をしばし見ていたクワイトが、ニタリと嗤った。
「ほぉ。私の命令が聞けない、というのか？」
００９がビクッとした。背筋に冷たいものが流れる。
「いつつ数える。その間に、うて」
嘲りの口調。そして、クワイトはゆっくりと数え始めた。
「ひとつ…」
００９は下唇を噛んだ。
「…ふたつ…」
再々度、狙いを定める。
「…みっつ…」
引金に指をかける。タイラントが目を見開く。憎悪と、そして絶望の瞳。
「…よっつ…」
自分が命に従わぬことを、クワイトは許しはしまい。そして…。００９の瞳に苦痛の色が浮かぶ。
しかし。００９には引金を引くことはできなかった。
しばし間を取り、それからクワイトはニタリと嗤った。
「………いつつ」
００９は目を閉じた。ゆっくりと銃を下ろす。タイラントが、何か信じられないものを見るような目で、００９を見る。
ラウンジが沈黙に包まれた。
不意に、くっ…とクワイトが嗤った。００９とタイラントを除く、その場にいた全員がクワイトに注目する。
ぞっとするような嗤いを浮かべ、クワイトは言った。
「いい度胸だ。………来い」
そして、クワイトはくるりと背を向けた。００９が、うつむいたままその後に従う。
ゆっくりと、ラウンジに喧噪が戻ってくる。その喧噪の中で、タイラントは一人釈然としない表情で立ち尽くしていた。
（何故、撃たなかった？ …００９……）
命が助かった安堵のため息をつきつつ、タイラントは首を傾げた。
☆
白い部屋の中央に据えられた椅子に、００９は縛りつけられていた。正面には、薄笑いを浮かべたクワイトが立っている。
「ジョー。お前の上官は、誰かね？」
「……あなたです…。クワイト…さま……」
うつむいたまま、低く応える。
「そう、私だ。私がお前の上官だ。従って、お前は私の命令に従う義務がある。それに、だ」
そして、クワイトはニタリと嗤った。
「お前が額にしているそのリング。それをやった時、お前は何と言った？ 言ってみろ」
楽しげに、クワイトが言う。００９は下唇を噛んだ。呻くように言葉を絞り出す。
「……俺は……クワイト…さまに…絶対の……服従を…誓う」
つっ…とクワイトは手を延ばし、００９の顎をとらえた。目を覗き込んで、ニッと嘲う。
「忘れてはいないようだな。では、きこうか。何故、奴を撃たなかった？」
「………」
００９は言い淀んだ。
しばしの沈黙。
クッとクワイトが嗤う。
「まあ、いい。何にせよ、お前は重大な罪を犯した。この私に逆らう、という罪をな。相応の罰を受けて貰おうか」
００９がビクッと身をすくめる。ニタッとクワイトは嗤った。
「…覚悟の上だろう？」
そして、パチン…と指を鳴らした。
室内が一瞬真っ暗になり、次の瞬間、００９を中心とした、半径２メートル程の円形の空間だけが明るくなる。
「さて……私はこれからちょっとした会議に出かけてくる。早ければ３０分程度で終るが、長い時は２時間近くかかる」
（……な………まさか……？）
息を飲む００９に残忍な嗤いを送って、クワイトは言葉を継いだ。
「私が帰って来るまで、たっぷりと地獄を味わうんだな」
そして、クワイトはすっと右手を挙げた。
「…あ……。や…やめてくれっ！！」
００９が叫ぶ。
だが。
パチン……
クワイトは幻覚装置のスイッチを入れた。
☆
恐るべき苦痛が全身を駆け巡り、００９は絶叫をあげた。
この苦痛にいつまで耐えればいいのか。
３０分？
一時間？
（たすけて……たすけて…くれっ……！！）
クワイトはいないと判っていても、助けを求めて叫ばずにはいられなかった。
絶望が、苦痛と恐怖をよりいっそう鮮烈なものにする。
薄暗い部屋の中に、苦悶の絶叫が響き渡る……。
☆
「…あ……」
不意に苦痛が失せ、００９はうっすらと目を開いた。白衣のクワイトが目に映る。
「……ク…ワイト……」
安堵のため息をつく。それへ、クワイトはニタリと嗤った。
「“クワイト”？」
嫌味っぽい口調に、００９がはっとする。
「…ク…クワイト…さま……」
くっとクワイトが嗤い、そして口を開いた。
「ま、よかろう」
つとコントローラーに触れ、００９の戒めを解く。
「行け」
短く言う。
００９はふらふらと立ち上がり、部屋を後にした。
☆
薄暗い廊下の壁を伝い、一歩また一歩と００９は自分にあてがわれた部屋へと向かっていた。呼吸が苦しい。全身を疲労感が覆っている。悪夢の余韻に身を震わせ、肩で息をしながらよろめき歩く。目を閉じて大きく息をつき、下唇を噛んで目を開き、次の一歩を踏み出す。だが、体重を支えきれず、ガクッと膝が折れる。
すっと倒れる００９の体を、何者かの腕が、がしっと支えた。
「な……？」
（…だ…れだ……？）
しかし。誰何の言葉は声にならず、そして、００９の意識は闇に飲み込まれた。
「………」
憮然とした表情で、タイラントは自分の腕の中で気を失っている００９を見下ろした。疲弊しきった表情。その疲労が何によるものか、タイラントには容易に想像できた。
（……クワイトの制裁、だ）
クワイトの手に委ねられた者達が、一体どんな目に会わせられるのかは、長年クワイト付の戦闘員のリーダーをしてきたタイラントにも判らない。どんな時もクワイトは、全ての部下を退け、密室の中で、たった一人で尋問（拷問？）を行うのである。従って、その鍵を掛けられた扉の向こうで、どんなことが行われているのかは、誰も知らないのだ。
クワイトによって尋問された者は、僅か数時間の間に、すさまじくやつれる。あたかも生気を吸い取られたかのように疲労し、口を利くこともできなくなる。そして。もはや何も感じられなくなったかのような、虚ろな瞳をしたそれらの者を、タイラントが始末するのである。
（こうなることが判らなかった訳でもなかろうに……）
総裁ですらひそかに恐れる狂人、クワイト。彼が最も嫌うことは、逆らわれる事なのだ。一週間近くに渡ってその尋問（恐らくは拷問）を受けた００９にそれが判らない訳がない。
にもかかわらず。
（一体全体、何で俺を撃たなかったんだ？）
自己保身の為にならまだしも、他人の命の為に、その上、よりによってクワイトの、命令に逆らうとはっ！！
釈然としない表情でため息を一つつき、タイラントは００９を抱え上げた。少々思案し、それから自分の部屋へと足を向ける。何にせよ００９をベッドに寝かせる必要があるし、本人が気絶していたのでは、００９の部屋のキーナンバーを聞くことはできない。
歩み去るタイラントの後ろ姿を、クワイトは廊下の角から楽しげに見送った。
☆
上着とブーツを脱がせ、タイラントは００９をそっとベッドに横たえた。肩まで布団をかけてやり、自分は傍らの椅子に座る。そして、タイラントはしみじみと００９の寝顔を眺めた。
憔悴しきった表情。苦痛の影。目元には、うっすらと涙の痕。
「一体、どんな目にあったんだ……？」
低く呟く。
すっと００９から視線を外し、クライムから００９を引き取った時のことを思い返す。周り中から銃口を向けられ、がんじがらめに縛り上げられていながら、恐れげもなく自分を見据えた、あの瞳を。見張りの兵士達のみならず、自分の背筋をも寒からしめた、あの気迫を。
再び、タイラントは００９を見下ろした。肩をすくめ、ため息をつく。そして、腕を組んで背もたれに体重をあずけ、目を閉じて眠りに落ちた。
☆
目覚めは、おそらく額のリングのせいなのであろう、唐突であった。深い眠りの底から一気に覚醒し、その不快感に眉根を寄せる。毎度のこととはいえ、慣れるものではない。きつく目を閉じて大きく息をつき、不快感をやり過ごす。
そして、００９はゆっくりと目を開いた。
（……？）
自分にあてがわれた部屋ではないようだ。
（ここは……？）
眠りに落ちる前の出来事を思い返す。
（……クワイトの部屋を出て………自分の部屋に向かって……それから……？）
力尽きて倒れたところを誰かに支えられたような気がするが、さだかではない。ただ、記憶がそこで途切れている以上、部屋にたどり着く前に気を失った事だけは確かだろう。
ゆっくりと身を起こし、周囲を見回そうとした００９の耳に、扉を開ける音が聴こえた。はっとして振り返る。そこには、湯気の立つコーヒーカップを二つ乗せたトレイを持ったタイラントが立っていた。
「…起きてた、か……」
パタンと扉を閉め、テーブルの上にトレイを置き、椅子に座る。そして、００９をチラリと見、向かい側の椅子を示して言った。
「座れ。ちょっと尋きたい事がある」
言われるままに座り、００９はおずおずと口を開いた。
「……あ…あの……廊下で倒れた俺をここへ連れてきてベッドに寝かせてくれたのは……」
「俺だ。正確に言うと、倒れかけた所を、だな」
「そうか……すまない………」
００９が、つと目を伏せ頭を垂れる。
「礼はいい。尋きたい事がある。答えろ」
「？」
そこまで言ってちょっと言い淀み、そして、タイラントは言葉を継いだ。
「……あの時、何故、俺を撃たなかった？ クワイトに逆らえばどうなるか、判らなかった筈もなかろう？ 何故だ？」
語気荒く言い、００９をキッと見据える。
００９はすっと視線を外した。
「答えろ！」
タイラントが叫ぶ。
「……それは……」
００９がうつむいたまま、呻くように言葉を続ける。
「…君の言ったことが…正しかったから…だ……」
「正しい？ 俺の言ったことが？」
「……俺は確かに裏切り者だ。拷問に…屈した者だ。そんな奴が何故、と思って当然だ………」
「それで…？ ……それだけの理由で…撃たなかったのか？ たったそれだけの理由で、あの、クワイトに逆らったのかっ？」
００９はうつむいたまま黙っている。
しばし、沈黙が続いた。
「……信じられん奴だな……」
呟くようにタイラントが言う。そして、ため息をついた。
「………コーヒー、冷めるぞ。飲まんのか？」
「あ……すまない………」
おずおずとタイラントの向かいの椅子に座り、そっと手を伸ばしてカップを取る。そして、００９は熱いコーヒーをすすった。
その００９の挙動を、タイラントが頬杖をつきつつじろじろと眺める。タイラントの視線を意識してか、００９の動きは妙にぎこちない。
しばし、沈黙が続いた。
その沈黙を破ったのはタイラントの方であった。
「おまえ……」
突然声をかけられ、００９の肩がビクッと跳ね上がる。その様子に眉をひそめて、タイラントは言葉を継いだ。
「…変わったな……」
うつむいたままの００９を、いまいましげに見遣る。
「クライムから引き渡された時のお前は、そんな目をしてはいなかった。もしも、視線で人が殺せるとしたら、その場にいた全員が一瞬で殺されてたに違いない。そんな目をしてたのにな。敵ながら凄い奴だと思ったのにな。それが……」
ふん、と鼻先でせせら笑う。
「…今のお前は、犬だな。そんなにクワイトが恐いか？」
あからさまな嘲笑。だが、００９は黙っている。それを眺め、タイラントは下唇を噛んだ。無性にイライラする。腹が立ってしょうがない。そんな自分の心の動きに更にイライラし、タイラントはいきなり立ち上がると、００９に近付き、胸倉をひっ掴んだ。
００９は目を伏せたまま、されるがままになっている。
その様子にカッっとなって、怒鳴る。
「何とか言ったらどうだっ？」
だが、００９はあらがう事すらしない。
しばしの沈黙。
そして、タイラントは大きく息を吐き出し、突き飛ばすようにして、００９の胸倉を掴んでいた手を放した。
「……“クワイト様”が決めた副官だ、文句は言うまい」
ついっと立ち上がり、ついて来い、という身振りをする。
００９はマントを肩にかけ、ややうつむき加減にタイラントの後に続いた。
☆
１ｍ程度の高さの壁で作られた迷路全体を見下ろせるコントロールルームに、タイラントとその部下の兵士一同、そして００９はいた。迷路の入口には、先刻タイラントから指名を受けた一人の兵士が立って、タイラントの命令を待っている。
「迷路の全長は、約３００ｍ。各所に自動照準のレーザーガンが設置してある。無論、出力は最小だが、それでもまともに食らえば火傷をする。銃口の上につけてある板を撃てば、破壊されたと見なされる」
００９を見ようともせず、ぶっきらぼうに説明すると、タイラントは迷路の入口に立つ部下を見遣った。
「行け！」
短く命ずる。小さく頷き、兵士は迷路の中に踏み込んだ。
「あんたもやってみるか？」
８人目の兵士が、３箇所に火傷を負い、息を切らせつつ、迷路から出てきたところで、タイラントは言った。００９が、「え？」というように瞳を上げる。
「部下に実力の程を見せて遣ったらどうだ？」
皮肉な口調。それへ００９が答えようとした途端、嗤いを含んだ声が背後から飛んできた。
「実力の程、な」
００９を除く全員がはっとする。
「…クワイト様……」
くっと嗤って、クワイトは言葉を続けた。
「見せてやったらどうだ、ジョー？」
そして、クワイトはスタスタとコンソールに近付いた。
「…だが、こんな子供だましではお前の実力が泣こうというものだな」
カチャカチャとキーを操作する。それを見て、タイラントが息を飲んだ。
「クワイト様……そ、それは……！？」
ニタリと嗤い、クワイトは００９の方に向き直った。
「モードは実戦モード。レーザーの出力は最大、標的を捕らえた瞬間に、撃つ。それから…お前の体が壁に触れた瞬間に、床に高圧電流が流される。服の一部が触れても同様だ」
兵士達の間を声にならない悲鳴が駆け抜ける。しかし、彼等はまだ、甘かった。
「…だが、それだけじゃぁ面白くない。目隠しをして、やって貰おうか」
絶句、であった。
（クワイトは…００９を殺すつもりか！？）
タイラントが心の中で叫ぶ。
（一体全体、何考えてやがる？）
だが、００９は平然としていた。無表情のままクワイトからアイマスクを受け取ると、絶句している一同に背を向け、迷路の入口へと歩を進めた。
００９が迷路の入口に立ち、アイマスクをつける。それを見、クワイトは無造作に命じた。
「行け」
と。
００９が迷路に足を踏み込むや否や、レーザーが発射される。
全員が、００９が死体になって転がることを疑わなかった。
だが。
「…な……！？」
ふっと００９が身を翻す。次の瞬間、００９のレーザーが壁面に取り付けられた銃を撃つ。ほんの二呼吸の間に、入口付近のレーザーガンが沈黙する。
間髪を入れず、００９は走りだした。
息苦しさを感じて、タイラントは自分が呼吸をするのを忘れていた事に気付いた。
（なんて…なんて奴だ……）
大きく息を吐きながら呟く。
華麗、としか表現のしようがなかった。
一瞬の遅滞もない、流れるような動き。ワンアクション、そしてそれがそのまま次のワンアクションに続く。高出力レーザが紙一重で００９をかすめ、００９の撃ったレーザーはあやまたず標的の中央を貫く。目隠しをしているにもかかわらず、長いマントを垂らしているにもかかわらず、壁に触れもしない。
今、タイラントは、何故、００９が Neo Black Ghost 最大の敵と目されていたのかを理解した。
☆
ラウンジの隅に座り、薄いウイスキーをちびちび飲みながら、タイラントは物思いに沈んでいた。昼間見せ付けられた、００９の実力。あの光景が頭から離れない。タイラントにとって、あれは、本当に衝撃的な光景だった。
タイラントは、サイボーグになってから今までの約十年の間に、三度の強化手術を受けている。総て、自分の希望で。強くなりたかった。誰にも負けない力が欲しかった。その為にサイボーグになり、その為に強化手術を繰り返した。最初の量産型の体から、よりスピードとパワーの出せるものに替えて貰い、その後、更に耐久力と反応速度の速い最新のユニットに交換して貰い、三回目の時にはフルオーダーの体にしてもらった。
格闘戦を好むタイラントの希望で、内蔵武器は取り付けられていない。それは改造手術を担当した医療センター長たるウィッチの方針でもあって『内蔵武器は便利だが、メンテナンスが厄介な上に実戦時には補給の問題もある。重くなるからスピードは落ちるし、第一面倒だ。やっても、せいぜい、隠し武器の一つか二つにするべきだ』というのがその主張だった。
三度目の手術は準備段階からウィッチが総指揮を取り、最終的に自らが執刀した。後でタイラントが聞いたところによれば、医療センターのスタッフ全員が絶賛する程の、それは鮮やかな手並みだったらしい。
実際、ウィッチの手による新しい体の性能はすばらしかった。初めてサイボーグになったとき、生身の体と比べて飛躍的に強化された戦闘力に驚いたが、その時を超える驚きを、タイラントは感じた。量産品と手作りとの違いとでも言うのだろうか？ それとも技術そのものの進歩によるものなのか。
強化手術が終わり、性能テストを総てこなした後、ウィッチは言った。
『現時点でできる、総ての技術を使った。問題は無し。総て良好だ。だけどね、タイラント。あくまでも、あんたはサイボーグだ。そこのところを忘れるんじゃないよ』
意味が解らず訝し気な顔をするタイラントにウィッチはこう言葉を続けたのだった。
『あんたはサイボーグだ。ロボットじゃない。あんたの戦闘性能を決めるのは、生身の部分だ。機械部分じゃあ、ない。その事を忘れるんじゃないよ』
言われた意味がイマイチ良く分からずタイラントは内心で首を捻った。そして、暫し考え、つまり生身の部分がどこまで機械部分についてこられるか、要はそういう意味なのだろうと見当をつけて、曖昧に頷いたのだ。
その様子にウィッチは溜め息をついて『お行き』というように手を振ったのだったが……。
ウィッチの、あの言葉の意味が、今、ハッキリと解る。
（戦闘性能を決めるのは、生身の部分……。それはつまり、機械部分をどこまで使いこなせるのか、という…いわば、戦士としての才能の事だった訳だ……）
サイボーグ体としての性能そのものは、自分より遥かに…とまでは言わなくても、確実に、数段は劣る筈の試作サイボーグである００９が、自分には到底不可能と思われる事を、いとも無造作に、軽々とやってのける。
（できん……とても………）
目の前で見せられ、どうやれば良いのかが解り、そして性能的には可能に違い無いと思っても。あんな、一瞬一瞬が命懸けの事など、とてもできない。ほんの僅かでもミスをすれば、ほんの少しでも恐怖を感じたり迷ったりしたら……勝機は無い。
たかが試作品のサイボーグ共を始末するのに、なんだってこんなに手間がかかってるのか…という認識が大間違いだというのは明白だった。
卓越した戦闘力を持つ天性の戦士がいて、それに率いられた、個々に特殊能力を持った者達の一団。『猛将の下に弱兵無し』『狼に率いられた羊の群は、羊に率いられた狼の群を倒す』という言葉があるが、実際、指揮官の善し悪しによって同じ兵であろうとも全く異なった働きぶりをする事を、タイラントは経験的に知っていた。
（ましてや、００ナンバーは羊ってガラでもなさそうだし……）
特に００４や００２は間違いなく『狼』の部類だろう、と思う。噂に聞く性能だけでも十分に『羊』などというものじゃない。『狼』に率いられた『狼』の集団。
（……そりゃ、勝てねぇよ）
勝てなかった訳だ。
（だが……）
その００９は今やクワイトの副官として、かつての仲間の敵となった。００９を失った００ナンバー達は、果たして……手強いのだろうか？
そう思い、そしてタイラントは肩をすくめた。
（まぁ、当面は関係無さそうだけど…な）
それにしても、一体どうやってクワイトは００９を屈させたのか？ 謎だ、とタイラントは思った。あの戦闘訓練の有様を見れば、００９が一切変わっていないのは一目瞭然だ。クライムに連れられ、ここにやってきたあの時。あの時と変わる事の無い強烈な気迫。戦っている００９からは、あの裂帛の気合とでも言うべき物が感じられた。
それなのに。銃を収め、向き直った瞬間、その見えざる炎は消えて……。何かを恐れているかのような脅えた瞳で俯き加減に立つ様は、とても同一人物とは思えない。
００９がクワイトを恐れているのは明々白々だった。
（いったい…どういうことだ？）
武器を奪われ厳重に閉じ込められていた頃ならいざしらず、今の００９は基地内のほぼ総ての場所に出入り自由で、銃を持つ事も許されている。あの戦闘力をもってすれば、ここから脱出する事も、たやすいとは言わないが、決して不可能事ではない筈だ。だいたい、追手をかけようにも、あの戦闘訓練で圧倒的な力の差を見せつけられた兵士達が、まともに００９に向かって行くとは思えない。遠巻きに銃撃を浴びせるのがせいぜいで、ひと睨みされようものなら算を乱して逃げ散るに違いない。勿論、あの有様を見ていたのはクワイト付の者達だけだが、噂はあっという間に広まっている。つまり、基地内の全戦力の半数である兵士達は、事実上、役立たずだ。となると、００９の相手はガードロボットの類だけ。勝算はあるだろう。少なくとも、試してみる価値があるくらいの勝算は、ある筈だ。
（何故……？）
考えても判らない。判るはずも無い。だが、知りたい。
（いや、それよりも……）
タイラントは、００９そのものに興味があった。自分の理解を越えた、００９という人物そのものに。
（……こうしてたって、何も判らないぜ？）
大体、ものを考えるのに向いていないのだ。自分は。ウィッチの言葉だって、結局、現物を目の前に突きつけられるまで、判らなかったではないか。
（考えてもしょうがないだろ。え？）
決心が、ついた。
☆
「すまなかった」
００９の私室を訪ねたタイラントは、開口一番そう言って頭を下げた。
「対等な立場の敵味方として会えば、俺は間違いなくお前に殺されていた。なのに、そんなことも判らず、俺はお前を侮辱した。すまなかった……」
「謝る必要はないよ……」
やや困惑気味に００９は言った。
「…僕…俺は、裏切り者だ…侮蔑されて…当然だ……」
自嘲的な口調にタイラントがいぶかしげな目をする。
「…なぜだ？ ……なぜ、そうやって自らをおとしめる？ あれだけの実力があれば、お前に逆らえる者はいない。その上、お前はクワイトの副官だ。クワイトと総裁以外、お前に命令できる者はいないんだぞ？ ……それに…あれだけの力があれば、ここから逃げ出すのも不可能では無いんじゃないのか？」
まっすぐに自分を見るタイラントの目を、００９は見返すことができなかった。うつむいて下唇を噛む。
「…僕は……」
呻くように呟く。
感情の波を押し殺そうとしてか、ことさらゆっくりと呼吸をする００９を、タイラントは不思議そうに見ていた。
（一体……？）
一体、クワイトと００９との間に何があったのだろうか。００９が心から喜んでクワイトの副官になったとはとても思えない。だったら逃げればいいではないか。逃げられるだけの力はある。それは間違い無い。それなのに００９は逃げようとしない。
「ここから逃げる気はないのか？」
率直な疑問を、タイラントはぶつけてみた。答えを期待していた訳ではない。ただ、尋かずにいられなかっただけだった。
だが、その言葉がもたらした結果は劇的だった。
００９が弾かれたように顔を上げる。恐るべき殺気を秘めた瞳がタイラントを射すくめる。
（！！…あの、目、だ…っ！）
強烈な意志を秘めた、瞳。
だが、次の瞬間、その炎は幻のように消えた。
「…そんな気は…ない……」
吐き捨てるように言う。
そして、００９はタイラントに背を向けた。
☆
クワイトに連れられてやってきたそこは、研究室のある区画のようだった。白衣姿の者達が、廊下を足早に行き交う。随分と大勢の人間がいるのだな、と００９は思った。
そして。とある扉の前でクワイトが立ち止まる。扉を開けて中へ入るクワイトに、００９は影のように付き従った。
中は机が四角くならべられた、会議室のような部屋だった。左手の壁が一面透明になっていて、その向こうにかなり広々とした部屋がある。そこは床も壁もコンクリートが剥き出しになっている。と言う事は、ここは何かの実験や観察を行う場所なのか、と００９は見当をつけた。
今、透明な壁を隔てた向こうの部屋では、白衣姿の者達が、何やら作業をしていた。これから何かの実験でもあるのか？ そして、クワイトはそれを見学に来たのだろうか？
だが、まさかその実験を行うのが自分とは思いもしない００９であった。
「クワイト様」
室内に入ってきたクワイトの姿に気付いて、奥の部屋から一人が出てくる。
「実験の用意には、いま少しかかります。が、まずは説明が必要かと思うのですが……」
「そうだな」
クワイトが軽くうなづく。それを確認し、その男は００９に視線を移した。
「では、ご説明をいたしますので、こちらへ……」
そう言ってテーブルの方を指し示す。
（え？）
突然、自分に話が振られ、００９は呆然とした。何の事やらさっぱり判らない。それへ、クワイトが楽しげに嗤い、言った。
「お前専用の武器だ。いや…防具…でもあるか。ま、それも『使えれば』の話だがな」
ますます判らない。
（専用の…武器…？ 防具でもある……って？）
それに『使えれば』というのは、一体どういう意味なのか？
「ジョー様？」
立ち尽くしている００９に、先刻の研究員が不審気に声をかける。
「いいから、そこに座って説明を聞け」
促され、示された場所に座る。その隣にクワイトも座り、それを確認すると、研究員は説明を始めた。
クワイトの言う、武器にして防具。それは、要するに、マントであった。何重もの特殊加工を施された。
「防護服と違う点は、体との間に距離が取れる事です。服の場合は直接体に触れていますから、ダメージを軽減はできても無効にはできません。しかし、マントという形状であれば、間に空間を取る事で、ダメージを完全に防ぐことも可能……です。理論上は。無論、扱いは難しく……」
研究員はため息を吐いた。
「重さの点から、生身の人間では扱えません。サイボーグであれば、そのデメリットは多少なりとも軽減されます。が、問題点が無くなる訳ではありません。また、実際に性能通りの効力を発揮する防具として使うのは、予想より遥かに難しく、メリットとデメリットを考えあわせた結果、割に合わない、と結論づけられるに至り、実際には、誰も使用していません」
そこで少し言葉を切る。
「更に」
最早ヤケクソのように研究員は言葉を続けた。
「先程ご説明申し上げました通り、裾の部分に取り付けられた極小の針は、裾を素早く正確に動かす事によって、鋭利な刃物として機能する……筈でした。設計通りの性能を発揮すれば、戦車の装甲など紙のように切る事が可能で、隠し武器としては最適と思われました」
研究員がコンソールを操作をすると、壁のスクリーンに表示されていた材質データが消え、ビデオ映像が表示された。
映像は、マントを取り付けられたロボットアームとその正面に置かれた鉄の板であった。アームが、取り付けられたマントを素早く左下から右上へと動かす。すると、その前に置かれた鉄板が、軌跡に沿ってスッパリと切れた。
「……実験の初期段階は、ご覧のように、成功しました。しかし、実際に試用して貰ったところ……」
映像が切り替わり、傷がついた鉄板の映像になる。
「最もうまくいっても、この程度でした」
研究員が肩をすくめる。
「この裾を刃物として使用するには、素早さと共に正確さが必要です。つまり、マントの裾が正確に一本の軌跡を描くように動かさなくてはならないのです。研究の結果、その事が解りました。しかし、実際にそれを行うのは困難を極め……」
「使われる事は無かった、と言う訳だ」
不意にクワイトが言った。００９を見、ニタリと嗤う。
「どうだ？ 使えそうか？」
「………」
００９は沈黙していた。言っている事は分かる。要するに、素早く正確に動かせば良いのだ。防具としての使い方も、大体の見当は付く。やって出来ない事では無いだろう。多分。
その００９の様子をじっと見、クワイトは言った。
「まぁ、いい。やってみろ。出来れば良し、出来なければ……。まぁ、真面目にやって出来ないのなら、許してやろう」
「こちらが、実物になります」
研究員が、傍らの箱から黒いマントを取り出して、机の上に置いた。
「ウィッチから貰った、ジョー様の身体データを元に、長さの調整等はしてあります」
促され、００９は立ちあがった。身につけているマントを外して、椅子にかける。
「まずは、これを」
樹脂のようなものでできた、肩パッドを繋ぎ合せたような物を渡される。
（？）
手渡されたそれを、００９はじっと見た。やたらと短い、ベストのような……。
「まず、それを付けてください。その上で、このマントをそちらに固定します。かなりの重量があるので、そうでもしないと、すぐにずり落ちてしまうのです」
なるほど、と思う。
００９がそれを付けおわったところで、研究員は００９に椅子に座るように言った。それから、重たそうにマントを持ち上げると００９の後ろに回り、マントを肩にかけると留め金をしっかりと固定した。
作業を終え、研究員が息をつく。
「装着は完了です。立ってみて下さい」
言われて、立ち上がる。
（………）
そして、００９はこれが使われなかった理由を、なんとなく理解した。
（確かに、重い）
自分にとっては、どうという程でもないが、生身の人間には辛いだろう。まして長時間となれば、疲労してしまって、戦うどころではなくなりそうだ。
「見た目は、変わらんな」
クワイトが感想を述べる。それへ、研究員は頷いた。
「ええ。というか、幹部用正装と同じデザインに仕上げてあります」
「ふむ」
前側は、肩の付け根辺りまでマントに覆われ、まっすぐに立つと両手が隠れる。長さは、くるぶしに付くほど。下に着ている服は襟元と、体の正面側の三分の一程しか見えない。つまり、全身の殆どの部分がマントに覆われている訳で、この布の耐熱防弾等の効果を考えれば、防具としては、かなりの物と言える。無論、それが理論上の話に過ぎないのは、これまでの経緯から判明しているのであるが……。
「ちょっと、端を持って動かしてみてください。ズレたりしないかどうか……」
言われて、００９は右手側の端を持ち、軽く持ち上げて動かしてみた。が、特に、ずれたりする様子は無い。
そう告げると、研究員は頷いた。
「では……」
透明な壁の向こう側の部屋に視線を送る。それに気付いた一人が軽く手を振り、研究員は言った。
「実験の準備は良いようです。どうぞ、こちらへ……」
キン…という軽い音。一呼吸おいて、鉄板が床に落ちる重い音が続く。
研究員達の間から感嘆とも驚愕とも言える声が漏れた。彼らの目の前には、右下から左上へとスッパリと切られた鉄板があった。誰もが目を見開き、信じられないものを見たかのように、彼らの『理論』が実践された光景に立ち尽くした。
一瞬の自失状態から、しかし、研究員達はすぐに立ち直り、たちまちその切り裂かれた鉄板に群がる。
「おお。奇麗に切れている」
「これは、もう少し固いものでも切れそうですね」
「いや、その前に厚さを変えて試した方が……」
「実際に切れたのは、ここからここまでだな。残りは折れたようだ」
「２番から７番までのサンプルは後回し、８番を先にしよう」
てんでに言い合う研究員達を眺め、００９は溜め息を吐いた。複雑な気分だった。
その００９に、クワイトが声をかける。
「やはり、な」
反射的にビクリと身をすくめる００９を楽しげに眺め、クワイトは言った。
「確かにお前は天性の戦士だよ。まったく……」
ククク…と嗤う。
「私の副官たるに、ふさわしい」
全然嬉しくない。だが、勿論、そんな事が口に出せる筈などなかった。
☆
「なぁ、ジョー」
ある日の午後。下っ端兵士の訓練に立ち会っていた００９に、タイラントが話しかけた。
兵士の戦闘訓練は日課である。規則によれば、部隊長の指示で行われ、副官にはそれを監督する義務がある。もっともそれは建前で『副官多忙の場合はこの限りではない』という条項があるのを良いことに、実際に立ち会いを行う者はまずいない。月に一度も見に来れば熱心な方で、大抵は放ったまま。隊長からの報告を適当に聞き流して終わりである。
が、００９は律義にも規則通りにそれを実行していた。クワイトに従って会議等に出席している等の『多忙の場合』を除き、キッチリと訓練場に現れる。とは言え、何をするでも何を言うでもなく、ただ黙ってその場に居、黙って去っていくだけではあったが。
兵士達は、最初のうちこそビクビクしていたが、００９が何も言わないのが判ると次第に慣れたようで、ここ暫くは、もう気にする者もいなくなった。
『ヘンな奴』というのが兵士達の間での００９に対する評価だった。組織内の序列からすると、総裁とクワイトに次ぐナンバー３と言っても過言ではない権限を持ち、一対一では誰も敵わないのではないかと噂される程の戦闘力を持つにも関わらず、その力を行使しようともしない。無口で無愛想で陰気。ところが、話しかければ無視はしない。必要な事以外は自分から話すことが無いのに、困ったような戸惑ったような気弱な態度で、それでもとにかく返事をしてくる。その口調がまた丁寧で、実際『実力の程』を見せ付けられていなければ、兵士達から完全に馬鹿にされナメられていたのは、まず間違いなかった。
「…？」
タイラントの言葉に００９がゆっくりと視線を向ける。それへ向かって、タイラントはここ暫くの間、いつ言おうかと思っていた台詞を口にのぼらせた。
「あのな。ちょっと頼みがあるんだが……」
まっすぐ見返してくる瞳にひるみそうになりつつ、タイラントは意を決して言葉を続けた。
「俺と、一戦やってくれないか？」
（…え……？）
００９が戸惑ったようにまばたきする。
「あ……あの……？」
「なるべくなら、素手で。俺の得意は格闘戦だし…。まぁ、敵わないってのは承知の上だけど、お前相手にどのくらい通用するモンだか、試してみたいんだよ」
「あ…え……と……」
思わず身を引く００９に、タイラントが迫る。
「なぁ、頼むって。訓練の一環だと思ってさ……」
こういう場合はどうしたらいいんだ？ と、００９は頭の中に叩き込んだ各種規則の条文を必死で検索した。が、この状況に適用できそうな物はない。
そもそも、００９は戦う事が好きでは無かった。戦わなくては生き残ってこられなかったから、やむなく戦ってきただけだ。仲間の命や世界の人々の安寧の日々がかかっていると思うから、戦ってきたのだ。クワイトは『天性の戦士』と評したが、その才能とは裏腹に、００９の性格は戦士のそれとは程遠い。タイラントのように戦闘を好む気質など、どこを捜しても無かった。
だが。他人の頼みを無下にできない、というのもまた００９の性格であった。
赤の他人の頼みであっても中々断れない００９に、経緯はともかく、毎日のように顔を合わせる、現状では『仲間』であるところのタイラントの頼みを断るのは難しかった。
「あ……あの……」
「駄目か？」
悲しそうにされると、頷けない。
「いや、その……」
「じゃあ、いいんだな？」
「えっと…だから……」
数分に渡る押し問答の末、００９は承知した。
「わかった……。じゃぁ…５分だけ……。決着がついてもつかなくても」
☆
向かい合って立つ二人を、兵士達は興味津々で見つめていた。強い者に対する、一種の憧れというものが、兵士達の間にはある。望んで Neo Black Ghost の兵士になったのかどうかに関わらず、使い捨ての駒にしか過ぎない彼らにとって、強さというのは絶対的な価値基準だった。強ければ生き、弱ければ死ぬ。好むと好まざるとに関わらず、戦いの場に立たされれば、この唯一絶対の掟が総てを支配する。その他の価値基準について語りたければ、まず、生き残らなくてはならないのだ。
「い…いいでしょうか……？」
５分を計る任を与えられた兵士が、やや上ずった声で言うのへ、タイラントがそちらを見もせずに頷く。その様子を確認した００９が、ストップウォッチを手にする兵士を見、言った。
「いつでもいいよ」
「りょ…了解です。では……スタート！」
その瞬間。タイラントは００９に殴り掛かった。一気に間合いを詰め、拳を繰り出す。その拳を、００９は僅かに横に動いて躱した。
（は…はえぇ！）
次々にタイラントが繰り出す拳を、００９は殆どその場に立ったまま、躱す。必要最小限の動きで。
（くそ……加速装置、か）
まあ、当然だな。とタイラントは思う。
（だが、俺にだって､そのくらいは付いてるんだぜ！）
加速装置、作動。タイラントは本格的に攻撃を開始した。
既に４分が経過。しかし、タイラントは００９に一撃すらあびせられずにいた。００９はタイラントの攻撃を、少しづつ、少しづつ、後ろに下がりながら、右に左に躱し続けていた。
（くそっ！）
当たらない。どうやっても、当たらない。ギリギリのところで総て躱される。
（だが……！）
００９の背後に壁が迫る。
（もう、後ろには下がれないぜ？ どうするよ、ジョー！）
と。
ふっと００９の姿が目の前から消えた。
（なにっ？）
視界の上端に何かがひっかかり、タイラントがはっとする。
（上、かっ？）
見上げる。
高い天井。そこに向かって飛び上がっていく００９の姿が、タイラントの瞳に映る。
そして。
００９がくるりと宙返りをする。天井を蹴る、軽い音。
（…しまっ……）
タイラントは動けない。
（………った…！）
確実にくらう。タイラントは確信した。避ける余裕などない。せめて……と、両腕を前で交差させ、衝撃に備える。
だが。
（な…に……？）
瞬きした、その一瞬。００９の姿が再び視界から消え……。
不意に背中に指を突きつけられ、タイラントは硬直した。
「君は、死んだ」
静かな声。その言葉の意味がタイラントの頭に染み込むより早く、ストップウォッチを持っていた兵士が声を張り上げて、言った。
「５分です！」
「あ……」
呆然としたまま、タイラントは振り返った。そこに立っていたのは、無論、００９だった。
「一体…どうやって……？」
天井を蹴った００９は自分に向かって来た筈だ。間違いなく、目の前にいた。それが今、何故、後ろに居るのか？
「……ああいう時に、瞬きなんかしたら駄目だよ、タイラント」
「え？」
「君が目を閉じた時に加速して、体を捻って、そこに……」
と、００９はタイラントの左前の床を示し、言葉を続けた。
「…手を突いて、後ろに回り込んだ」
タイラントが額に手を当てる。
「加速状態のサイボーグが、瞬き一つする間にどれだけ動けるか、知らない君じゃないだろう？」
それは、無論、知っていた。知っていたが……。
はぁ、とタイラントは溜め息をついた。
沈黙が流れる。
「あの……満足して…貰えた……かな？」
躊躇いがちに尋ねる００９に、タイラントは深く頷いた。
「ああ……」
（満足した…ってぇよりも、納得した、だな）
全く相手にならない、という事に。
（ジョーが本気を出したのは、最後の一瞬だけ。あれだけの攻撃をすべて躱しながら、全然、余裕だったもんな、コイツは……）
最初の戦闘訓練時に見せた、気迫の欠片も無く、いとも無造作な動き。多分､００９にとって、これは戦いですらなかったのだろう、とタイラントは思った。
（イキナリ本気を出して、一瞬で決着をつける事もできた筈だ。あのまま躱し続けるだけって事も……）
けれど、００９はそのどちらもしなかった。時間一杯、躱し続け、最後の数秒で決着をつけた。
（それは……）
今回限りにして欲しい。再戦を望まないで欲しい。その意思表示だ、とタイラントは理解した。一瞬で決着をつけたのでは納得できないだろう。かといって、うやむやのままでは、やはり納得できないだろう。そう思って、００９は時間一杯タイラントに攻撃をさせ、そして、最後の一瞬、本気を見せたのだろう。
（……完敗だ）
タイラントはそう思い、溜め息をついた。
（結局、俺が一番、コイツをナメてた……訳か）
最初にあれだけ見せ付けられておいて、それでも自分の得意分野であれば、勝てないまでも、そこそこ互角に渡り合えるのでは、などと思ったのだ。
嘆息。
（身の程知らず…てコト、だな）
☆
なんだって、こんなに厄介な事を承知してしまったんだろうか？ 目の前の男にチラリと視線を向け、こちらを見ているのに気付き、ザイラスは慌てて視線を手元の資料に落とした。
（……ったく、まったくコイツはっ！）
ザイラスは不愉快な気分であった。
クワイトの執務室。椅子に座り頬杖をついているクワイトの前に立ち、部下から依頼された協力要請の内容を説明しながら、内心で悪態をつく。
（いっくらお前が『事実上の組織ナンバー２』と言ったって、建前上は同格なんだぞ！）
それなのに、何だってクワイトの前に立たされて話をしなくてはならないのか。
（いまいましい…！）
だが、とにかく用件は伝えなくてはならない。さもないと、何をしにわざわざここまで来たのか判らない。ザイラスは煮えくり返る思いを押え、言葉を続けた。
全くホントに、なんだってこんな事を承知してしまったのか。ザイラスは、つい数時間前の部下とのやり取りを思い出し、内心で悪態をついた。
数時間前。
ザイラスは、自身の執務室で、部下である兵器開発部長、アルグと面会していた。
「という訳でですな、ザイラス様。あのクワイトに一泡吹かせ、かつ、私の主張の正しさを証明するには、これが一番なのです」
「うーむ……」
クワイトに、彼の副官との模擬戦を申し入れして欲しい、というアルグの言葉にザイラスは唸った。
「戦闘用サイボーグなぞ、最早、時代遅れなのです。これからは、戦闘用ロボットこそが、主力となるべきなのです。しかし、組織内には未だ、それを認めない者が多い。そういった輩には、事実を突きつけるのが最も効果的です。最強と噂されるクワイトの副官、００９。試作サイボーグが最強と言うのもまた馬鹿げた話ですが、まぁ、それはこの際都合がよろしい。その００９を叩いてやれば、サイボーグの効用を信じる者達の考えも、変わるでしょう」
「だがな、アルグ。そうやって簡単に倒せるようなら、組織だって００ナンバーの連中に手を焼いたりしなかったんじゃないのか？」
「これまでは、一対一ではなかったでしょう。地形の問題だってあります。確かに、現時点の戦闘用ロボットには、臨機応変な行動はできません。複雑な地形があり、身を隠したりする事が可能な場所で、しかも複数の者が入り乱れた状態での戦闘は、データも十分でない現在の状況下では不利。それは、残念ながら事実です。しかし、これは開発が進めば解消される問題なのです！」
アルグは力説する。
「模擬戦は、遮蔽物の無い屋内の施設で行います。普段、戦闘用ロボット同士の模擬戦等でも使用している場所ですから、データは十分です。００９のデータも判っています。大したスペックでも無い。内蔵武器の一つも無く、特殊能力といえば、加速装置くらいです。まぁ、銃の使用は認めるとして……それでも、十分に勝てます」
「ふむぅ……」
「ザイラス様。クワイトだって、自分の副官が負けたとあれば、あなたに対してそうそう強い態度にも出ずらくなるでしょう」
そうかな、とザイラスは内心で首をかしげた。その程度でクワイトの態度が改まるとも思えない。だが。
（まぁ、００９が…いや、ジョーが…負けた時のクワイトの顔を見るのは……）
面白そうだ、と思う。
「よし。判った……。まぁ、クワイトが承知するかどうかは判らんが、依頼はしてみよう」
かくして、ザイラスはクワイトの執務室へと足を運ぶこととなったのであったが……。
「……というような訳で、あなたの副官であるジョーをお借りしたい」
沈黙。クワイトの狂気を秘めた目が、ザイラスを見る。それを見るのが嫌で、ザイラスは手元の資料に視線を落した。
気まずい沈黙が続く。いい加減、ザイラスがいたたまれない気分になってきた頃、クワイトはやっと口を開いた。
「………なるほどな」
そしてまた、沈黙。
（…これまで何度も、俺は自分の部下をお前に使わせてやっただろうが！）
ザイラスが心の中で叫ぶ。けれど、口には出さない。
「まぁ、本人の意見も聞いてみるか」
不意にクワイトはそう言うと、傍らのインターフォンを取った。
「ジョー？ すぐに来い」
短く言う。
程なく、執務室の扉が開いた。ザイラスが興味津々にそちらを見る。
そこに立っていたのは、栗色の髪をした少年であった。僅かに銀があしらわれた黒い立て衿の服に、肩から床に届く程長いマントを垂らすといういでたちは、Neo Black Ghost 幹部の正装だ。俯きがちな昏い瞳。ほっそりとした体つきからは、とても『最強の敵』であったとは思えない。
（こんなに…小さいのか……？）
ザイラスは驚いた。バイスやクライムの話から受けた印象とは、あまりにも違う。
そのザイラスの視線に気付いているのかいないのか、００９はザイラスの脇を抜けてクワイトの机の前に進み出ると、一瞬立ち止まり、そして、その場にひざますいた。頭を垂れ、押し殺した声で言う。
「……御用は…何でしょうか……クワイト…様……」
（これは……また……）
ザイラスは呆然と００９を見下ろした。
（ここまでさせるとは…ね……）
「そこに居るザイラスの指揮下にある兵器開発部から、お前に協力要請が来ている。新型のガードロボットとの模擬戦をして欲しいそうだ」
そして、クワイトは楽しげに嗤った。
「どうする？ 引き受けるか？」
「……御命令…とあれば………」
押し殺した声。
「ふむ」
（こりゃ…上官と部下…というよりは、主人と奴隷…ってヤツだな）
ザイラスが内心で呟く。
「ザイラス……」
ニタリと嗤い、ゆっくりとクワイトは言った。
「ジョーに依存はないそうだ……。引き受けよう」
☆
「よぉ」
声をかけられて００９は顔を上げた。そこに立っていたのは、自分より一回りは大きいかという男だった。銀糸の縫い取りがされている黒の上下。その衿元の模様から、マントをしてはいないものの、その男が自分と同じ Neo Black Ghost 幹部の一人である事が判る。
「久しぶりだな、００９。いや…ジョーって呼ばなきゃならんか」
ニヤッと笑って言う男を００９は不審気に見返した。
（…誰…だ……？）
見覚えは、ある。相手も『久しぶり』と言ったからには、会った事があるのだろう。しかも『００９』と呼びかけてきたという事は、会ったのは自分がクワイトの副官になるより前に違いない。
黙っている００９に男はクッと笑った。
「覚えてない、か。いや、名乗らなかったっけかな？ クライム、だ。お前をここに連れてきた、な」
（あ…！）
そうだった。ギルモア科学研究所から一人抜け出した００９は、Neo Black Ghost の罠に嵌り、捕らえられ、ライの研究所を経由してここ Neo Black Ghost 本部に連れてこられた。その時００９を護送したのが、目の前の男であった。
「迎えに来た。…って言っても今回は別に縛って連れてこうってんじゃあ無いぜ？ ウチの兵器開発部からの協力要請、受けただろ？ その迎えだ」
なるほど、と納得する。そういえば、ザイラスは『準備が整ったら迎えを遣る』と言っていた。では、この男がその迎えという訳なのだ。
「クワイト…様の所には…？」
「いや、まだ行ってない。とりあえず、先にお前の所に来た」
「……わかった…」
そう答えると、００９は立ち上がった。
再び、クワイトの執務室。
「えー…という訳で、副官殿をお借りしていきます」
傍らでひざまずいている００９を横目でチラチラ見つつ、クライムは言った。
「わかった」
クワイトが軽く頷く。そして、００９に視線を移すとニタリと嗤った。その気配に００９がビクリと身を固くする。
「ジョー…」
「…は…はい……」
何を言われるか、と００９が息を詰める。その様子を楽しげに眺めつつ、クワイトは言葉を続けた。
「手を抜くなよ」
「………はい……」
クワイトが『行け』というように手を振る。クライムは挙手の礼をすると、００９が立ち上がるのを待って、執務室を辞した。
☆
勝負は、ほぼ一瞬でついた。腕を切り落とされ、動力部にレーザーを打ち込まれた戦闘用ロボットが、爆散する。その爆風が徐々におさまっていくと、その向こうに、片膝を付き左手でマントを持ち上げて身を守っている００９の姿が見える。
ゆっくりと立ち上がった００９は、完全に無傷だった。戦闘用ロボットの放った銃撃は、確かに００９に命中した筈なのに。
「……馬鹿な………」
アルグが呆然と呟く。
「あれは……あのマントは………」
かつて開発され、結局誰にも使いこなせなかった失敗作。兵器開発部長であるアルグは、当然、その経緯を知ってはいた。だが、今更そんな物を覚えている奴が居たとは。クワイトがそれを００９に持たせていたとは。しかも、この自分に何の断りも無く。
（いや、そんな事よりも……）
そんな事よりも重要なのは、００９がそれを使いこなしたという事実だ。戦闘用ロボットが放った銃撃をマントで受け止め、その裾で腕を切り落とし……。
（……切り落とし……た……！）
誰がやっても出来なかった事だ。せいぜい傷を付けるくらいで。
「そんな、馬鹿な……」
最早、アルグにはそれしか言えなかった。
☆
００９がクワイトの副官になって、早くも一月が過ぎようとしていた。
「よぉ、ジョー！」
戦闘員用ラウンジの前を通りかかった００９に、タイラントが声を掛けた。００９が振り向き、タイラントの姿を認める。それを確認し、タイラントは手招きをした。００９はちょっと躊躇い、それから、タイラントの席の方に足を向けた。
「仕事は終わりか？」
００９に椅子をすすめつつ、タイラントが尋ねる。
「…あぁ……」
小さくうなずいて、００９はすすめられるままに腰を下ろした。近くの席に座っていた兵士が飛んでくる。
「副官殿、何か、お飲物をお持ちしましょうか？」
「あ…すまない……ジンジャエールを頼めるかな…」
「はっ！」
兵士がさっと敬礼して身を翻す。
その様子をタイラントは面白そうに眺めていた。
「いっつも思うんだが、お前は本当に変わった奴だな」
「え？」
いぶかしげに首を傾げる００９にタイラントは言葉を続けた。
「部下に丁寧語を使う上官なんて、お前以外に知らんぞ」
００９が困ったように視線をさ迷わせる。００９にとっては、自分の立場は全く不本意なのだ。とは言え、自分自身は仕方が無い。何にせよクワイトに服従を誓ってしまったのは自分で、自分の弱さ故の結果なのだ。だが、そんな自分の部下にされた者達はいい迷惑だろう。だから、００９は部下である兵士達には、本当にすまないと、いつも思っているのだった、
そこへ兵士がジンジャエール持って来た。００９の前に置くと、一礼して去って行く。
「始めの“あれ”がなきゃ、完全になめられてたぞ。最初にお前の実力の程を見せつける…とは、クワイトもよく考えたもんだ」
そう言ってしまったところで、タイラントは『まずった』と思った。案の定、００９はうつむいてしまっている。
００９がクワイトを死ぬ程恐れている、ということは、僅か数日のつき合いでよく判った。“クワイト”という単語を耳にしただけで、００９はまるで熱湯に触れたかのように身をすくめる。ほんの一瞬、表情をよぎる苦痛と恐怖の影。
００９のクワイトに対する従順さは、いっそ痛ましい程だ。たしかに、兵士達は皆、自分の上官に対して従順ではある。が、それは上官の目の前での話であって、上官のいないところでは、悪口もいえば、多少の手抜きもする。時には上官に面と向かって皮肉の一つも言う。だが００９は。皮肉どころか、悪口も不満も言わない。クワイトが非のうち処のない上官なのではない。むしろその反対で、クワイトは事ある毎に００９を苛めている。端から見ていてさえそうなのだ。それなのに、００９は何も言わない。
（一体何があったんだ……？）
クワイトは、一体どんな手段を用いて、００９の瞳からあの鮮烈な炎を奪い、そのかわりに、自らに対する恐怖を植えつけたのだろうか？ もう何度となく繰返した自問。
「ところで……」
他愛のない話に話題を変えながら、００９とクワイトの間に何があったかを知ることなぞ、自分には不可能だな、とタイラントはため息をついた。００９が喋るとは思えないし、クワイトが教えてくれるとは、もっと思えない。
しかし、それは、タイラントの誤算であった。
☆
「な……」
００９は息を飲んだ。驚愕の瞳。それへ、クワイトはニタリと嗤い返した。
００９は部屋の中央に立たされていた。左手に手錠をかけられ、天井から垂らした鎖に繋げられている。
そして、００９の正面の壁際に、椅子に座らされて両手両足の自由を奪われたタイラントがいた。
「もう一度言う。タイラントを殺せ」
嘲りの口調でクワイトが言う。
「…な…なぜ……？」
ありったけの勇気を掻き集め、震える声で００９は言った。
その００９の瞳を覗き込み、クワイトがニヤッと嗤う。
「ほぉ、私の命令がきけないのかね？」
００９は目を伏せ、うつむいた。２、３度肩で呼吸をする。
そして、００９は言った。
「…俺には……できません……」
タイラントが目を見開く。それをちらりと見、クワイトは楽しげに嗤って言った。
「いい度胸だ」
そして。
すっと左手首のコントローラーに触れた。
血も凍る、苦悶の絶叫。
それが、００９の喉からほとばしり出る。
（な……！？）
一体何が起こったのか。タイラントは愕然とした。
「ジョーは、悪夢を見ているのだよ」
不意に話しかけられ、タイラントははっと顔を上げた。残忍な笑みを浮かべたクワイトが立っている。
「悪…夢……？」
呆然としたまま、呟くように聞き返すタイラントに、クワイトはニタリと嗤った。
「そう、悪夢だ。……お前、バイスを知っているか？」
夢遊病者のようにタイラントは頷いた。Neo Black Ghost きっての拷問屋、と言われたバイスを知らぬものはいない。以前、裏切りを企て、未遂で捕らえられた者が、「バイスに引き渡すぞ」と脅されて総てを喋った、という事があったくらいだ。そして、その者は、素直に吐いた褒美として銃殺を申し渡されて喜んだ、という。そう、バイスに引き渡される事は銃殺よりもなお悪いのだ。
「００９はな、バイスに拷問されたんだ」
「え？」
タイラントは驚愕した。バイスに拷問されて死ななかった者の話なんぞ、聞いたことがない。
「バイスに拷問され、なぶり殺しにされるよりも悪いことは何かわかるか？」
「…なぶり殺しより悪いこと……？」
しばしの、間。
そして、クワイトはニタリと嗤った。
「…それはな、なぶり殺しにされ、死ぬ寸前に助かることだ」
「…え…？」
「死ぬほどの苦痛を味わって、死なないことだ。死ねばそれまでだが、死ななければ……」
そこでクワイトは残忍な嗤いを浮かべた。
「…死ななければ、もう一度、死ぬほどの苦痛を味わうことができる」
「…な……ま…さか……」
タイラントは息を飲んだ。
（死ぬほどの…苦痛……！？）
００９が苦しげにあえぎ、のど元から絶叫を絞り出す。苦痛と、恐怖と、絶望の叫び。
それは、断末魔の悲鳴にあまりにも似ている。
「…ジョー……」
どうしていいかわからず、タイラントは低く呟いた。
「…ぁ……」
ふっと００９の苦鳴が途切れた。ぐったりとしたまま、荒い息をつく。
「どうだ？ ジョー。命令に従うか？」
クワイトが嘲りの口調で言う。
００９はゆっくりと瞳をあげた。おびえきった瞳。
「……た…たのむ……これだけは…これだけは……！ 俺には…撃てないっ！」
震える声で哀願する。
「撃て」
からかうような調子でクワイトが言う。００９は首を振った。
「…できない……俺にはっ…！！」
クッとクワイトが嗤う。そして、つっと左手のコントローラーに手をやる。
「た…たのむっ！！」
００９が悲鳴のような声で叫ぶ。
「たのむっ！ …やめてくれっ！！」
だが、クワイトはニタリと嗤った。すっとコントローラーに触れる。
そして……。
絶叫。
タイラントは唇を噛んだ。
「俺が気に入らないのなら、何故、さっさと俺を殺さない？ どうして、わざわざジョーに殺させるんだ！？」
００９の苦悶の表情を楽しげに眺めるクワイトの背中へ、タイラントは叫んだ。ゆっくりとクワイトが振り返る。そして、ニタリと嗤った。
「別にお前が気に入らない訳では無い。誰でもいいんだ。奴を服従させるための、単なる道具なのだからな」
残酷な、嗤い。
「…服従…？ どういう事だ？ 今だってジョーはあんたの部下じゃないか。あんたに服従してるじゃないか」
「表面的には、な。だが、心の底から私に服従している訳ではない。表向きは従順だが、しかし、奴は心まで開け渡してはいない。……奴の心はいまだに無垢だ。“悪”に汚されてはいない。だからこそ、お前を殺すことを拒否しているのだ」
クワイトは楽しげに言葉を続ける。
「信念、自己保身の為に他人を犠牲にすることを拒否する心の動き、自尊心……これだけ痛めつけても、奴はこれらを手放そうとはしない」
そして、クワイトは００９を見遣った。ニッと嗤う。
「……だが、な。永遠に苦痛に耐え続けることは不可能だ。いつかは屈する。必ずな。かつて私に服従を誓った時のように……。そして、奴はお前を殺す。自分が苦痛から逃れるために」
タイラントの目を覗き込み、クワイトは嗤った。
「そうやって苦痛から逃れれば、今度は、奴自身の信念が、奴自身を責め虐むことになる。苦痛から逃れるために他人を殺した自分を、奴が許せると思うか？」
タイラントが息を飲む。
（生き地獄…だ……！）
くっ…とクワイトが嗤った。
「奴はサイボーグだ。時間はいくらでもある。ひとつひとつ丹念に逃げ道を塞ぎ、追い詰めていけば、いずれは堕ちる。私が命ずれば、何のためらいもなく、かつての仲間さえ撃つようになる。それでこそ、理想的な副官だ」
タイラントが目を閉じ、下唇を噛む。それを見下ろしつつ、クワイトは言葉を継いだ。
「……ふむ。ジョーに『俺を殺せ』と言ってみる、か？ お前が自己犠牲精神を発揮するとは……驚きだな」
タイラントが顔を上げ、クワイトを見る。驚愕の瞳。クワイトがニタリと嗤った。
「何故判ったか、と言いたいのかな？ ……エンパス…共感能力と言うのを、知っているか？ 他人の感情の波を読むことができる力だ」
（え…？）
「私は、エンパスだ。だから、お前の感情が判る。お前の心は今、何かを決意しようとしている。何か…自らを犠牲にするような決意を……」
呆然と自分を見るタイラントに、クワイトは言葉を続けた。
「勿論、私にはジョーの感情の動きも判る。奴の恐怖も絶望も屈辱も、な」
冷酷な嗤い。
「楽しかったぞ、ガラスの表面のように硬質で無機質な壁に囲まれていた奴の感情が、次第に抑制力を失ってぐらつき、やがて、生の感情が抑えきれなくなってゆくのを見るのは、な」
タイラントが呆然とクワイトを見る。
「苦痛、恐怖、絶望、自虐、屈辱、葛藤……私の意のままに、奴の感情は様々な音色を奏でる。美しい音色をな」
そう言って、クワイトは００９を見遣った。自らの体重を支える事すらできず、左手首に掛けられた鎖に吊下げられ、喉元から血も凍る絶叫を絞り出している００９を、薄笑いを浮かべて眺める。
そのクワイトの横顔を見、タイラントは低く呟いた。
（…狂ってやがる……）
ゆっくりとクワイトが向き直る。その瞳を見まい、とタイラントは目を伏せた。その様子を楽しげに眺め、クワイトが口を開く。
「……タイラント。お前に時間をやろう。ジョーと話す時間を、な」
突然の言葉に、タイラントは身を堅くした。
（何…？）
「お前の感情も、面白い」
くくく…とクワイトが嗤う。
「ジョーと二人きりにしてやったら、お前はどうする？ 自分を殺せ、とジョーに言うか？ それとも……ジョーを連れて逃げるか？」
その言葉にタイラントは唇を噛んだ。
（お見通し…てぇ訳……かよ！）
だが、次のクワイトの台詞はタイラントの予想を越えていた。
「……そうだな、逃げてみても良いぞ」
（な…に…？）
「もっとも……そんな事をしても無駄だがな」
不審気な表情をするタイラントを見、クワイトは言葉を続けた。
「ジョーの意識下には、悪夢が植え付けてあるのだよ。だから奴は、あの額にしているリングが無ければ、眠るたびに悪夢を見る。今、奴が見ているのと全く同じ悪夢を……眠るたびに見るのだ」
楽しげな口調。
「私の元から逃げ出せば……奴は安らかに眠る事はできない。眠る度に悪夢に苛まれ続け……さて、どれくらいの間、耐えられるかな？」
楽しげに、クワイトは嗤う。
「一週間耐えられるか、二週間耐えられるか……。いずれにしろ、ジョーは遠からず、発狂するだろう。まぁ、それも一興だがな」
そう言うと、クワイトは手首のコントローラに軽く触れ、００９を悪夢から開放した。００９を釣り下げていた鎖が伸ばされ、それにつれて００９が床に倒れ伏す。
「タイラント。お前にやる時間は、一時間だ」
００９の取り落とした銃を拾い、クワイトが言う。
そして、タイラントの戒めを解くと、クワイトは出ていった。
「ジョー！」
左手首を天井から吊す鎖を長くされ、床に倒れ伏した００９を、タイラントは抱え起こした。
「おい、しっかりしろ！」
００９が苦しげにあえぎつつ、うっすらと目を開く。訴えるような瞳。震える唇が僅かに動くが、声にならない。
「な…なんだ？」
タイラントが聞き返し、００９の唇を見つめる。００９は目を閉じ、大きく息をつき、もう一度言った。声にはならなかったが。
（…み……ず…を……くれ…）
今度こそ、タイラントは理解した。そっと００９を横たえ、自分用に運び込まれた食事のトレイからコップと水差しを取る。
コップに水を注ぎ、００９を抱え起こしたところで、タイラントは困った。試しにコップを００９の口元に持っていってみる。が、衰弱しきった００９には、自力で水を飲むことすらできず、胸元を濡らすばかりである。
（こいつは…ひどい……）
タイラントは眉を潜めた。水を飲むことすらできないとは。
戦闘員という職業がら、負傷者は随分見てきた。自力で水が飲めないのは重傷者だ。そういった奴等は水分を補給できず、更に衰弱し、やがて死ぬ。
ため息を一つつき、タイラントは水を口に含んだ。コップを傍らに置き、００９を抱え直す。首筋の後ろに右腕をあてて上向かせ、左手で顎を掴み、口移しに水を流し込んで、そのまま口を塞ぎつづける。
（飲めよ……）
嚥下は反射行動だ。それすらできない程に衰弱していれば、タイラントには、もうどうしようもない。医療班の出番だ。しかし、クワイトはそんなことは許可しないだろう。外傷がない以上、水なしでも、何日かはもつ。００９本人は辛いが、死にはしない。
（ようするに、生殺し…だ！）
口を塞がれ、００９が弱々しくもがく。
（飲め…！）
く…っと００９の喉が動いた。水が飲み込まれる。その途端、タイラントは唇を放した。００９が大きくあえぐ。
ふぅ、とタイラントが安堵のため息をついた。一度飲み込めば、あとは簡単だ。一口づつゆっくりと、口移しにする。００９は貪るように水を飲んだ。
「……すまない……僕の…ために………」
ひとしきり水を飲み、何とか喋れるようになった００９は、苦しげにあえぎつつ、言った。
「……僕は…僕は……君を…撃てない……だけど……」
虚ろな瞳から、涙がこぼれ落ちる。
「…だけど……僕は………」
「喋るな！ ……苦しいんだろうが…！」
タイラントはたまりかねて、低く叫んだ。
（クワイトの野郎…！）
今、腕の中にいるのは、かつて、この自分や兵達の心胆を寒からしめた、あの、００９ではない。だが、身も心もズタズタにされ、なおかつ絶望的な戦いを続けようとする、この意志の強固さ！
（変わっては…いないんだ……コイツは、まだ……）
そう、“まだ”変わってはいないのだ。だが、クワイトはそれを変えようとしている。そして恐らく、それは時間の問題なのだ。
唇を噛んで、タイラントは考える。００９に自分が殺せるだろうか、と。答えは……。
（否…だろう、な）
だが。どちらにしても、００９は自分を殺す事になるだろう。耐えられる筈が無い。永遠に続く死ぬ程の苦しみに、耐えられる者など居る筈が無い。
（だから……）
００９が追いつめられ、堕とされ、苦痛から逃れる為に自分を撃ってしまう前に。まだ００９に余裕のあるうちに、００９自身の意志で、００９自身が納得した上で、自分を殺させなくては、とタイラントは思った。
（…苦痛から逃れる為の……その為の最後の手段として俺を殺したのでは……駄目だ！）
そんな事になれば、まさしくクワイトの言う通りになるだろう。００９自身の信念が自らを決して許さず、自らを苛み続ける事になる。そして、その先は……。
（……コイツは、死ぬ。コイツの精神が、だ）
精神が焼き切れて、後に残るのは……。
（クワイトの思い通りに動く、人形……か）
そうなって欲しくない。今のままの００９を殺したくない。今のままの００９に死んで欲しくない。そう思う。
（この、馬鹿正直で、お人好しで、律義で、気弱で、それでいて強い、このままのコイツを……殺したくない…殺させたくない……）
何でそんな事を思うのか。自分自身で不思議に思う。他人の為に自らを犠牲にするなど……そんな馬鹿馬鹿しい事をしようとしている自分が、不思議でならない。
（俺は、一体……？）
気が狂ったのか？ と尋ねる自分がいる。そうかもしれない、とタイラントは思った。
（正気の沙汰じゃない……）
だが。
００９が決して自分を殺さないだろう、と。どんなに酷い目にあわされようと、頑なにそれを拒むだろうと、と。そう思うと……。
（コイツの為に死ぬのなら、惜しい命でもないか…と思うんだよな……）
苦笑。
（まったく、どうかしてるぜ）
そう思う。
（だが……）
もう、今は考えている場合では無い。自分の心理を、不思議がって分析してるような場合では無いのだ。
（どうぜ、考えても判らん）
内心で肩をすくめ、タイラントは００９の頬を軽く叩いた。
「ジョー…？」
００９がゆっくりと目を開く。
「…あ……？」
その目をのぞき込んで、タイラントは言った。
「ジョー……クワイトが来たら…俺を撃ち殺せ」
「…え……？」
言われた意味が判らず、００９が、まじまじとタイラントを見る。それへもう一度、一語一語を区切るように、タイラントは言った。
「いいか。クワイトが来たら、俺を、撃ち殺せ」
「そ…そんな……なぜ……？」
やっと言葉の意味を理解した００９が、愕然とする。
「クワイトには、お前が俺を殺すまで、止める気はないんだ。遅かれ早かれ、お前は俺を撃つ」
きっぱりと言い切るタイラントに００９は弱々しく首を振った。
「そんなことは……」
「しない、と言い切れるのか？ それなら、何故、お前はクワイトに服従を誓った？ ……耐えられなかったから…だろう？」
００９がうつむいて唇を噛むのを、タイラントは痛ましげに見下ろした。
「所詮、人間には限界がある。お前に耐えられなければ、他の誰にも耐えられはしない。だから、クワイトに屈したことを恥じる必要はない。いいか、そんな必要はないんだ」
「でも…僕は……」
「いいから、聞け。もう、時間がない。お前がクワイトに屈したのは、しょうがなかったんだ。だから、誰に恥じることもないし、気に病むこともない。そして、だ。お前が俺を撃ち殺すのも、しょうがないことなんだ。クワイトに強制されることを拒否できるやつなんていないんだ。だから、お前は俺を殺す。もう、これは決定事項なんだ。クワイトが望む以上、どうしようもないんだ」
そこでタイラントはちょっと言葉を切った。精一杯やさしい声で言う。
「お前が１時間苦しもうが、１０時間苦しもうが、結果は一緒なんだ。だったら、苦しむ時間は短い方がいい。そうだろう？」
「でも……」
「いいから、撃て」
タイラントが断固としてそう言ったところで、クワイトが部屋に入ってきた。
結局、００９はタイラントを撃てなかった。
クワイトが楽しげに嗤い、タイラントが舌打ちする。
そして、再び、悪夢。
☆
「撃て、ジョー」
楽しげなクワイトの声。それに操られるように、００９はゆっくりと銃口を上げた。脅えきったその瞳が、苦痛に揺れる。
激烈な葛藤。
震える指先が引き金にかけられる。だが、それを引く事ができない。
「どうした？ 撃たないのか？」
嘲るようなクワイトの声に、００９は鞭打たれたように身をすくめた。
「撃たないと言うのなら……」
くくく…という含み笑いに、００９が必死で首を振る。
「…ぁ…ゃ………」
言葉にならない、哀願。その様子を、クワイトが楽しげに眺める。
「……撃て」
クワイトがこれみよがしに左手首のコントローラに触れ……。
「…や……あ……！」
恐怖。
それが、ついに００９の理性を押し流す。
そして……。
「ああぁぁぁ！」
悲鳴をあげ、目を閉じ、００９はついに引き金を引いた。
静寂。
「……あ…」
叫び声が不意に途切れ、室内が沈黙に包まれる。
引き金を引いた。
撃った。
タイラントを。
その事実が、００９を一気に正気に引き戻した。
（僕は……）
しかし、タイラントは、生きていた。
００９の手から銃が滑り落ちる。
「まぁよかろう」
そこへ、クワイトの楽しげな声がかけられる。
００９とタイラントとが呆然と見守る中、クワイトはゆっくりと００９に近づき、床に転がった銃を拾った。
銃座の下にある蓋を、スライドさせてみせる。本来ならエネルギーパックが入っている筈のそこは……。
空だった。
くくくく…とクワイトが嗤う。
「重さで気付きそうなものだがな、ジョー？」
何をどう理解したらいいのか、００９には判らなかった、総てが限界を越えていた。確実な事は、自分がタイラントを撃った事。けれど、タイラントは生きている事。それだけだった。
後悔と自責と安堵と……極度の疲労。
そして、００９は気を失った。
「…何故だ……」
気を失って倒れている００９を抱き起こし、タイラントはクワイトを睨み付けた。
「何故、エネルギーを抜いた！」
クッとクワイトが嗤う。
「死にたかったのか？」
「答えろ！」
憎しみを込めて自分を睨み据えるタイラントを満足そうに見つつ、クワイトは口を開いた。
「言っただろう。お前の感情も、面白い…と」
「な…に……？」
「直接責めれば、お前なぞ半日も持たずに発狂するだろう。だが…苦しむジョーを見せるだけなら、お前が狂う事はなさそうだ。当面は、な」
「き…さま……！」
「それに、な」
クワイトが残忍な笑みを浮かべる。
「死ぬ程の苦痛を味わっても、死ななければ、もう一度、死ぬほどの苦痛を味わえる。……お前を生かしておけば、もう一度ジョーに命令する事ができる。お前を殺せ、とな」
「…な…んだとっ！」
タイラントが息を呑む。
確かに。自分が生きていれば、クワイトは、もう一度、同じ事ができるのだ。
「き…さ……まっ！」
「自殺でもしてみるか？ 私は構わんぞ。別に、お前でなくても良い訳だからな」
気を失っている００９に視線を向け、クワイトは楽しげに言葉を続けた。
「その辺の兵士を連れてきて、『殺せ』とジョーに言ったら……どうなると思う？」
（！）
タイラントは唇を噛んだ。
「お前を殺せと命じた時と、同じ事が起きるとは思わないか？」
ギリ…と歯を食いしばり、タイラントはクワイトを睨み付けた。
その視線を、クワイトが心地良さそうに受け止める。
「憎しみ…か。面白い……少なくとも、ジョーからは得られない感情だな」
そして、クワイトは嗤った。
☆
覚醒の衝撃。
何度味わっても慣れる事のできない、その不快感。いつもは歯を食いしばってどうにかやりすごすそれは、しかし、気力と体力を使い果たした今の００９にはキツかった。
悲鳴をあげ、のたうつ。
それで不快感が収まる訳でもなく、むしろ、暴れる事で余計にキツく感じる羽目に陥るのだが、それでも、じっと耐える事など出来ない。
ベッドから転がり落ちそうになる００９の肩を、不意に何者かが押さえつけた。
「しっかりしろ！ ジョー！」
押さえつけられる力に逆らってもがくが、その手はビクともしない。
そして。
徐々に不快感がおさまっていく。
何度も荒い息をつき、やがて、全身を覆っていた不快感が失せ、００９はぐったりと体の力を抜いた。目を閉じたまま、大きく息を吐く。
「大丈夫か？」
（あ……）
そこで、００９はやっと自分を押さえつけてくれていた人物に思い至った。
（……タイラント…）
はっと目を開ける。
そこにタイラントが居た。
だが。
（僕は……？）
タイラントを撃った、ような気がする。クワイトに命じられ、逆らえず、半狂乱になって……。だが、今、目の前にはタイラントがいる。生きているタイラントが。
（あれは……）
夢、だったのか？
００９は額に手を当てた。
「ジョー…？」
「……僕…は……」
ゆっくりと記憶を辿る。ゆっくりと……。
「僕は…君を……殺し…た……？」
問いかけとも独り言ともつかぬ口調。
その様子をタイラントは黙って見守った。
（ジョー……）
あの時。自分を撃った、あの時。００９の正気は殆ど残っていなかった。現実と悪夢の間を行き来させられ、苦痛と恐怖に翻弄されて、半ば狂っていたようなものだったのだ。
総て夢だった。
そう言ってやりたい。
何もかもが悪夢で、だから、００９は自分を撃ったりしていない、と。
（……そうすれば…少なくとも俺を撃った…殺した……という事で自分を責めずに済む……）
だが。
クワイトがいる。仮にここで自分が事実をごまかして、００９の精神的負担を軽減させようとしたところで、クワイトが本当の事を言えば、それまでだ。
（…どーせ、映像記録くらい撮ってるだろうし…な……）
００９を苦しめる為なら、クワイトは何でもするだろう。
（何しろ、それが奴の楽しみな訳だからな！）
苦々しく吐き捨て、タイラントは００９に意識を戻した。
「ジョー…？」
仰向けに寝たまま、ピクリとも動かない００９に、タイラントが恐る恐る声をかける。額に当てている手のせいで、その表情は判らない。その心の中で、どのような動きが起きているのかを窺い知る事は、タイラントには全くできなかった。
長い沈黙。
ひょっとして、発狂して自らの内に閉じこもってしまったのか？ とタイラントが半ば不安に思う。だが。もしそうなら、その方が００９にとっては良いのかもしれない、とも思う。
やがて。
「……僕は、君を撃った……」
息を詰めているタイラントの前で、００９がゆっくりと額に当てていた手を降ろす。その向こうに、恐ろしいほど張り詰めた、茶の瞳があった。
「僕は、君を殺した……。そう、だな？ タイラント」
真っ直ぐに見つめてくる瞳。果てしなく昏い闇を映した。絶望という言葉すら生ぬるい、冷たく凍った刃のような、その瞳。自らに対する自らの裏切への冷たい怒りを秘めた。
「……ああ………そう…だ……」
タイラントは、やっとの事でそう答えた。もっと何か、００９の心を和らげるような事を言いたかったのだが、言葉が出てこなかった。
再び、沈黙。
００９の視線が宙をさ迷う。
そして。
「……すまない……」
そう言って唇を噛み、００９は絞り出すように言葉を続けた。
「…いや……謝ってすむような…そんな事じゃない……。君は死んだ…僕が、殺した……。僕…が……っ！」
「ジョー！」
たまりかねて、タイラントは叫んだ。
「俺は、生きてる！」
「それは、クワイトが銃のエネルギーを抜いていたからだ。僕が君を撃った事実とは、関係無い。僕は……」
「いいから、聞け！」
００９の肩を掴み、言葉を遮る。
「俺はお前に言った筈だ、俺を撃て、殺せ、と。クワイトが望む以上、俺が死ぬのは既に決定事項だ、と！ お前のせいじゃない。お前が謝る事じゃない。お前が悔やむ事でも無い」
「…だけど……」
言いかけて、００９はハッとした。頬に暖かいものが落ちてくる。
「……っくしょう…！ 俺は……どうすれば…お前を……！」
「タイラント……」
「お前は良い奴だよ。ほんとに良い奴だよ。信じられないくらいの……！ あんな目にあわされて、どうして耐えられるんだ？ どうして、他人の俺の為に……！ くそ！ 見てらんねぇ……。俺は…！」
もう、自分が何を言ってるのか、タイラントには判らなかった。
クワイトに対する怒りと、無力な自分に対する怒りと、頑として屈しない００９に対する憧れにも似た想いと……。
強くなりたい。
そう、タイラントは思う。
強くなりたい。今まで自分が求めていた強さでは無い、何か違う強さ。
「……俺は…くそっ！ どうしたらいいんだ……！」
つと手を伸ばし、００９はタイラントの頬に触れた。
「…タイラント……」
道に迷って泣く子供のようなその瞳を見、００９は言った。
「……ありがとう……」