Ａｃｔ．７ 交錯する想い −コウサクスルオモイ−
SIDE A 友としてできること −トモトシテデキルコト−
位置不明 Neo Black Ghost本部
SIDE B 真実はどこに？ −シンジツハドコニ？−
ウラル山脈ナロドナヤ山中 ライの研究所 → GO TO SIDE B
「再戦、だとぉ？」
ザイラスは頭を抱えた。
「お前……この前、あれだけ派手にやられて……」
懲りるって事を知らんのか？ と目の前の男を睨む。その視線にひるむ様子も無く、兵器開発部長アルグは言葉を続けた。
「だから、です。確かにあれは予想外でした。特に、あの、誰も使いこなせなかった失敗作を使うというのは、全く計算外でした」
だったら諦めろよ、とザイラスは内心で呟く。
「ですが、これは逆に考えると素晴らしい事です。彼に、戦闘用ロボットの教育をして貰うのです」
「は？」
「戦闘用ロボットの制御コンピュータには学習機能があります。従って、様々な戦闘をこなす事によって、より適切な戦闘行動が取れるようになります。そのデータは、リアルタイムで外部に出力して記録する事が可能ですから、たとえそのロボットが破壊されたとしても、学習したデータは失われません。実戦では、そうやってデータを収集する事が難しく、破壊されずに戻ってこない事にはデータの回収ができないのですが、模擬戦ならそれは簡単です。こうして００９を相手に模擬戦を繰返せば、いつかは００９を倒せるようになる筈です」
「むぅ……」
それは、まぁ、そうかもしれない。だが、コイツは重要な事を全く忘れ去っている、とザイラスは嘆息した。
「クワイトとジョーには、お前達に協力して戦闘用ロボットの開発を手伝う義理は無い……と思うんだがな」
その、もっともといえば至極もっともな指摘を、しかし、アルグはあっさりと一蹴した。
「そんな事はありません。戦闘用ロボットは、Neo Black Ghost の商品ですよ。まぁ、サイボーグに比べては需要はまだまだですが、それでも、れっきとした商品なんです。その商品が洗練される事は、組織としての利益になります」
「………」
（そりゃー、お前の考えだろうが……）
クワイトがそう考えるかというと、どうだろうか、とザイラスは思う。
（うーむ……）
組織全体の利益になる。だがそれがクワイトを説得する材料になるとは……ザイラスには思えなかった。というより、そもそもクワイトが、組織全体の利益などというモノを考えているのかどうか。
（あいつは、やりたい放題…だからな）
気が向けば各種作戦に助言をする。それは、（たとえ、その時はどんなに突拍子が無いと思えても）適切この上もない助言で、クワイトに言われた通りにしなければ、大概が酷い目に合う。また、時折ふらりと研究員達の所へ現れては、行き詰まった研究に示唆を与える。
だが。だからと言って、クワイトが組織の事を考えているかと言うと、そうとも思えない。組織にとって重要な作戦だからと助言を求めても、無視される事だってある。誰が見ても、どーでもいい作戦に、突然、口を挟んできたりもする。
（ようは、気分次第……なんだ、奴は）
けれど。
目の前で演説を続けるアルグを見る。
（……やれやれ………）
放っておくと、いつまでも演説を続けるのだ。この男は。特に、戦闘用ロボットがいかに有効かという話になると、些か常軌を逸した程に熱心に語る。
まぁ、半分はウィッチへの対抗意識なのだろう、とザイラスは思った。
クワイトには遠く及ばないものの（クワイト並の者がもう一人居たら、たまったものではないが）、ウィッチもまた傍若無人で不遜な人物だ。しかも、本部の医療センター長を勤めているウィッチは、下級幹部であるにもかかわらず、多くの部下、すなわち医療スタッフを持つ。アルグが武器開発部長として多くの研究員を、その配下に擁しているように。
その上、何故かウィッチは組織の戦闘員達、すなわちサイボーグ兵士達から慕われていた。ウィッチが直接手を下す事は少ないとは言え、その指揮する医療センターによって改造手術を施され、定期メンテナンスを受けている為なのかもしれない。幹部たちの間ではイマイチ評判の悪い、あの傍若無人ぶりが、何故か兵士達の支持を受けているのだった。
ところで、一般のサイボーグ兵士達になじみが深い幹部と言えば、アルグも同様だった。何故なら、彼らの使う武器防具等の殆どは、アルグの配下で開発／製造されているのだ。だが。ウィッチと違い、アルグの方は嫌われていた。それは、アルグがサイボーグ兵不要論者である事が原因の一端ではあったが、兵士達に対する、あからさまな『使い捨てのモノ』扱いが最も大きな原因であった。
けれど、アルグはそんな事には全く気付かず、サイボーグ兵士達から嫌われているおかげで、益々サイボーグ不要論を声高に主張して一般兵士達を役立たず呼ばわりし、更に兵士達から嫌われる…という状況に陥っているのであった。
そして、アルグの目にはウィッチがサイボーグ擁護派の筆頭と映るらしく、目の敵にしていた。一方のウィッチといえば、こちらもまたアルグを嫌っているようではあった。もっとも、ただ冷然と無視しているだけだったから、結局、ウィッチの方が一枚上手なのは、明らかだったが。
（……そのウィッチとクワイトがまた、浅からぬ関係だからなぁ……）
ザイラスは溜め息を吐く。
これまで直属の部下を持たなかったクワイトが、後にも先にも一度だけ、自分の方から、直属の部下にならないかと誘った相手がいる。それが、ウィッチだ。この話はもう伝説的な語り種になっているが、とにかく、ウィッチはそれを一蹴したそうだ。
噂によれば、ウィッチはクワイトに対して、平然と、そして、キッパリと、言ってのけたという。
『私は、あんたから命令されたくない。でも、あんたの頼みなら、何でも聞いてあげるわ。部下になれ、というの以外だったらね』
絶対に殺される、とその場に居た者達は思った。だが。
クワイトは暫し考え込み、それから、頷いて去っていった……という。
この二人の関係については、様々な憶測が飛交ったが、しかし、誰をも納得させる説は未だに無く、当人たちに事実を確認しようなどという命知らずもまた、いなかった。
（まぁ、それはともかく……）
ザイラスは、相変わらず演説をぶっているアルグを見た。
何と言えば黙らせられるだろうか？
（『うるさい、黙れ』か？）
それで黙ってくれれば苦労は無い。
（いっそ、殺すか？）
出来もしない事を内心で呟き、またも、こっそり溜め息を吐く。
（何だって、俺がこんな苦労を……）
上級幹部として組織内で絶大な権力を持つ自分が、何の因果で配下の男の演説を拝聴しなければならないのか。それには勿論、理由がある。
ようするに、使える奴なのだ。この演説僻と、少々常軌を逸したサイボーグ兵不要論者である点を除けば、とにかく使える奴なのだ。
科学者としても優秀で、研究チームを統率していく能力もそれなりにある。しかも、自ら望んで Neo Black Ghost にやってきただけあって、兵器の開発に対する罪悪感など全く持ち合わせていない。無理矢理さらってきた科学者達をとりまとめさせるには、ぴったりの人材なのだ。なかなか、代わりはいない。
勿論、アルグ自身もその事は十分に承知していて、それ故に、こうやってザイラスに無理難題を持って来るのだ。
「……わかった」
いい加減うんざりしたザイラスは、無理矢理アルグの言葉を遮った。
「お前の主張は、判った」
（もう、辟易する程にな！）
「では……」
「とにかく、依頼だけはする。いいか。依頼するだけだからな。説得する事まで求めるなよ」
だから出ていってくれ、と言いかけ、ザイラスは思い直した。嫌な事は、さっさと終わらせるに限る。
立ち上がって、扉に向かう。
「今から行ってくる」
どうせ断られるだろうがなと思い、だが、とにかく、もうこれ以上アルグと一緒に居たくないザイラスは、さっさと部屋を出ていった。
クワイトは、その申し出をあっさりと受けた。
☆
本部の中央区画、すなわちコントロール施設や大会議室や医療センター等のある区画。その中に設置されている医療センタースタッフ用のラウンジに、白衣姿の男女がいた。普段はそれなりに人の多い筈のこのラウンジは、しかし、今、その二人以外に人の姿が全く無い。これは極めて異常な状態だった。だが、その二人が誰かという事を知れば、誰もが当然の結果と納得しだだろう。
その二人とは、医療センター長ウィッチと、そして、クワイトであった。
「だいぶ噂になってるわよ、クワイト」
カップから立ち上る湯気を透かして、その向こうに座る白衣の男を見つめ、ウィッチは言った。
「いいかげん、あの可哀相なアルグをからかうのをやめたら？」
「ほぉ。お前が奴に同情的とは知らなかった」
楽しげに言うクワイトに、ウィッチは肩をすくめた。
「べつに。同情してはいないわよ。どちらかといえば、ざまみろって思ってるわ……まぁ、あなたにはお見通しでしょうけどね、クワイト」
ウィッチはクワイトの能力を知っている。その性癖も。けれど、それに何らかの警戒をしている気配は、少しも無い。
「ふむ……」
狂気を秘めたクワイトの瞳がウィッチを見る。それを、睨むでも脅えるでもなく、ただ真っ直ぐに見返す瞳。光に透けた氷山のような色のその瞳を、クワイトはじっと見つめ続けた。
こうやってクワイトの狂気を秘めた瞳に見据えられて平然としていられる者は、組織広しと言えどもウィッチだけであった。心の内を見透かされるような（実際、感情は見透かされている訳だが）その瞳。
この二人以外の誰かが同席していたら、とても耐えられないだろう沈黙。
「お前は……お前の感情は……変わっている」
長い長い沈黙の後、クワイトの瞳に不思議そうな色が浮かんだ。戸惑ったような表情は、普段のクワイトを知る者が見たら仰天したに違いない。
「……お前の感情は…ひどく透明だ。感情が無い訳では無い。だが……」
首を傾げる。
「……まるで水に映った映像のようだ」
クスっとウィッチが笑う。
「詩的な表現ね、クワイト」
らしくない、と言いたいのか？ とクワイトは思う。だが、ウィッチの心からは、そんな色は感じられない。
「とにかく」
カップを持ち上げて一口飲み、ウィッチは言葉を続けた。
「兵器開発部への協力は、いいかげんでやめたら？ 最初の一回を勘定にいれると、もう五回。そろそろ…データは十分な筈よ」
「ふむ……」
「大事なおもちゃが壊れても……知らないわよ」
「ほぉ」
クワイトが興味深そうにウィッチを見る。
「という事は、ジョーが負けると思っているという訳か？」
「いいや」
言下の否定。
「アルグがどんなに躍起になっても、ジョーに勝つ事はできないでしょうね」
クワイトがウィッチをじっと見る。
「………なるほど」
ニタリと嗤う。
「では、今回はタイラントも連れて行こう」
そう言うと、クワイトは立ち上がり、背を向けて歩き出した。その背中に、何気ない調子でウィッチが声をかける。
「明日の午後だったかしら？」
「ああ。中央区画時刻だと、そうだな」
振り向きもせずに答えるクワイトに、ウィッチは軽く手を振った。
☆
（……手強い…！）
これまでの相手とは比べ物にならない『敵』に００９は直面していた。
（完全に…読まれている……）
まるで、自分を倒す為だけに造られたようだ……。００９はそう思う。
その通りだった。
（今度こそ…奴を倒す……倒してくれるわ！）
模擬戦の行われている広い実験室には、随所にカメラが取り付けられている。そのカメラの映像が、コントロールルームの壁一面を占めるスクリーンに映し出されていた。幾つにも分割されたスクリーンには、其々のカメラからの映像が映し出されているのである。それを見つつ、アルグは呟いた。
（これまでの四回。ダテにお前に倒されていた訳じゃないんだぞ…００９！）
総ては００９を倒すデータを得る為。００９の攻撃力、パターン、そして僅かな癖。それを掴む為に、再戦を繰返したのだ。
（最早、お前のデータはすべて判っている。どうあがいても……勝ち目はないんだよ！）
戦闘開始から、既に10分以上が経過している。すべては計算通りだった。
こっそりとクワイトの様子を伺う。
そして、アルグは首を傾げた。
クワイトは、薄笑いを浮かべてスクリーンの映像を見ている。その表情からは、何を想っているのか推し量れない。
（うーむ……）
そして今度は、クワイトの後ろに立つ兵士を見る。こちらの反応は分かり易かった。
（ふむ……一応、こっちの兵士には、００９が不利な状況だという事は、分かってるようだな）
だが、クワイトは……。
（所詮、戦いの事は判らん…と言うコトか）
そう考え、アルグは納得した。
（まぁ、いい）
何にせよ、決着が付いて００９が倒れれば、どんな素人にだって判る。今はまだいい。アルグはそう思い、スクリーンに注意を戻した。
『敵』の攻撃を次々と躱しながら、００９は考えていた。
（……どう…する……？）
『敵』の形状は、ドーム状。床スレスレに浮いているように見える。内側に足か、あるいは噴射口があるかするのだろうと考えられるが、００９からは判らない。
そして、ぐるりと全方向に触手が生えている。触手の数は、合計１６本。先端が錐のような形状のものと、レーザーを撃つ銃口のものとがある。他になにか能力があるのかもしれないが、今のところ判らない。
装甲は厚く、銃は効かない。少なくとも、００９の持っている銃の出力では、有効なダメージを与える事はできない。無論、長時間に渡って一点に当て続けられれば別だが、それをするには相手の動きが早過ぎた。また、近寄って至近距離から撃つという手段も、触手に阻まれて、不可能だった。
一本でも触手を切り落とせれば、そこが突破口になる。だが。触手の側面は、細かい鱗状になっている為、マントの裾で切る事は出来ない。
（……この裾で切るには…一定以上の角度が必要だ……だが……）
鱗状の側面では、その角度を得る事が出来ない。
（計算の上…だろうな……）
そして。唯一の弱点と思われる『目』も、実に巧妙な位置に取り付けられていた。
各触手の根元。そこに、小さなレンズがある。そして、００９の銃口とレンズとの間には、常に触手があった。各触手は、自分の根元に付けられた『目』を守るように動きが制御されているらしかった。
そうやって一つの『目』が００９を捕らえられなくなっても、それぞれの『目』の担当する範囲が重なりあうように設計されている為、残りの『目』によって途切れる事無く００９を『視界』に捕らえる事ができるのだ。
（…死角…は……ない…）
００９は唇を噛んだ。既に何発か、くらっている。戦闘開始から、既に２０分近い。このまま逃げ続けても状況は悪化する一方だ。
（……相手は…疲労する事は…ない……）
まぁ、延々と続ければいつかは燃料切れになるかもしれないが、自分が疲労困憊する方が、どう考えても先だろう。
それに。今のところは紙一重のところで致命傷を免れているが、いつまでも致命的なダメージを受けずにいられるか……。
（どう…する……？）
間断無く続けられる攻撃を躱しながら、００９は考える。
（……勝機が…ある…とすれば……）
一瞬でも、触手の動きを止めるしかない。その為には……。
（ひとつだけ……方法が、ある）
確実な方法が。
だが。
（……一歩間違えれば……）
確実にやられる。模擬戦とは言っても、実戦と何ら変わらない。唯一の違いは、総てをモニタしているコントロールルームがあり、必要とあれば『敵』を緊急停止できる事だけだ。必要な場合というのは、００９が確実に危ないと判断された場合か、あるいは、００９自身が望んだ場合を指す。
だが。
果たして『確実に危ない』場合、本当に緊急停止がされるのか？
されないだろう、というのが００９の読みだった。そもそも、何をもって『確実に危ない』と判断するのか。それに……。
（…アルグ…という男は、僕を殺したがっているようだし……クワイトは………）
ふと心に浮かんだ名前に、反射的に体が竦む。一瞬の隙。それだけで、触手から殴打を食らう。
「…っ…！」
咄嗟に床を転がり、なんとか次の攻撃を避ける。物思いに沈んでいるような場合ではなかった。
（……考えちゃ……駄目だ！）
きゅっと唇を噛み、その名を意識の外に押しやる。
そして、００９は行動を開始した。
連続して続けられる攻撃を躱し、時には攻撃をくらいつつ、００９は『敵』を誘導していった。
それは、おそろしく手間のかかる、危険で困難な作業だった。それでも００９の思惑通り事が運べたのは、それが『敵』にとって有利な状況への移行に他ならなかったからである。
そして今、００９は部屋の角に追いつめられていた。後ろにも、横にも逃げ場がない。絶体絶命の状況。
先頭が錐のような形状をした触手が、一直線に００９に向かって伸ばされる。
だが。
（……僕に逃げ場が無いと言う事は……そっちだって、正面からしか攻撃できない…という事さ！）
最後の一瞬で僅かに右に動き、触手を左肩で受ける。それは、おそろしく絶妙な技だった。数多くの死線をくぐり抜けてきた経験と、天性の勘。００９にしか成し得ない、まさに命懸けの。
「…っ…う……」
自分の肩を貫いた触手を、左手で掴み、すぐには引けないようにする。
その瞬間。
００９を突き刺した触手の根元に取り付けられている『目』は、完全に無防備になった。００９の銃口を遮る物は何も無い。
ほんの一瞬の、隙。
銃口を上げ、その『目』を撃てば……『敵』は、その内部にかなりのダメージを受けるだろう。完全に伸び切っている状態の今なら、触手を切り落とす事も可能だ。この一瞬で、最低でもそのどちらか、できる事ならその両方をやれば……。
だが。
不意に００９は恐ろしい事実に気付いた。
今ここで、何もしなければ、死ぬ。
と言う事は。
今、ほんの一瞬だけ目を閉じれば……。
（死…ねる……？）
とてつもなく甘美な誘惑。
かつて渇望し、そして、今はもう、望む事すら許されないと……そう、自らに言い聞かせた、『死』。
それが今、手の届くところにある。
（あ……）
戦場では、一瞬の迷いが生死を分かつ。ましてや、自らの死を望むような迷いがもたらす結果は、明白だった。
「ぅあぁぁぁあっ！」
左肩に刺さった触手から高圧電流が流され、００９は叫んだ。霞む視界に、喉元に向かって来るもう一本の触手が映る。
（もう………）
００９は目を閉じ、意識が遠ざかるのに任せた。
「ジョー！」
コントロールルームにタイラントの絶叫が響いた。
（馬鹿な……銃を…手放した？）
気のせいではない。この自分の目は誤魔化せない。第一、００９が戦闘中に銃を取り落とすなど、そんな間抜けなミスをする筈がない。
いや、そんな事よりも。
「…ば…っか野郎！ 止めろ！ あのロボットを止めろ！」
咄嗟に動けないでいる科学者達を押しのけ、コンソールに飛びついて緊急停止ボタンを叩く。
振り仰いだスクリーンの中で、ロボットがピタリと動きを止めた。鋭い触手の先は、００９の喉元から僅か数センチ。
（……た…すかった……）
だが、安堵の溜め息を吐く間も惜しい。タイラントはそのままコントロールルームを飛び出すと、００９の元へと走った。
実験場へ入る扉は、当然、ロックされていた。普通だったら、扉の脇にあるインターフォンでコントロールルームに連絡してロックを解除してもらうのだが、タイラントはそんな悠長な事をしている気分ではなかった。
そもそも、この部屋の目的は、別に何かを閉じ込める事にある訳ではないから、ロックといっても大したものではない。生身の研究者が、ついうっかり間違えて扉を開け、戦闘実験の真っ只中に突っ込んだりするのを防ぐのが主目的なのだ。
従って、明確な破壊目的をもったサイボーグの手にかかれば、ロックなど一瞬で吹っ飛ぶ。
タイラントは、まるで施錠などされていなかったかのように扉を開け、００９に向かって駆け寄った。
「くそっ…」
コントロールルームの科学者達は、まだ混乱しているらしく、ロボットは先刻の緊急停止時のまま、全く動いていない。従って、００９に突き刺さった触手もそのままの状態だ。
００９の喉元まで伸ばされた触手を押しやり、左肩に刺さった触手を握る手を開かせて、触手そのものを引き抜く。そして、ピクリとも動かない００９を抱えて膝を付くと、呼吸と心音を確かめた。
（……よかった…）
生きている。
それから左肩の傷に目をやり、タイラントは眉をひそめた。
急所は見事に外れているとはいえ、かなりの深手だ。
「ジョー……」
ゆっくりと目を開く。
（……？）
一瞬、自分の位置がわからない。
「ジョー！？」
声をかけられて、００９はゆっくりと瞬きした。
（……タイラント……？ 僕は……生きている…のか……）
徐々に現実感が戻ってくる。と同時に、左肩の痛みが意識に上り、００９はうめいた。
「だ…大丈夫か？」
と、その時。
「ジョー」
不意に声をかけられ、００９とタイラントはギクリとした。
声の主は、クワイトだった。
タイラントが００９を腕に抱えたまま振り返り、クワイトを睨む。その視線を無視して００９に近付くと、クワイトはその瞳を覗き込んだ。
「タイラントに感謝するんだな。……それとも」
ちょっと言葉を切って嗤う。
「……恨む…か？」
（え？）
クワイトの言葉にタイラントが目をしばたたかせる。
（一体…どういう……？）
唇を噛む００９を楽しげに見、それからクワイトはタイラントに視線を移した。
「ジョーはな、タイラント。あの一瞬、思ったんだ。『死ねるかもしれない』とな」
（…え？）
まさか…と思い、それからタイラントははっとした。
（あ……！ じゃあ…やっぱり………）
あれは自分の見間違いではなかったのだ。気のせいではなかったのだ。００９が銃を手放したと思ったのは。
「お前が、あと１０秒放っておいてやれば、ジョーの望みは叶った」
くくく……とクワイトが嗤う。
「残念だったな、ジョー」
呆然とするタイラントと、ただ黙している００９を満足そうに見下ろし、クワイトは言葉を続けた。
「当然、覚悟の上…なんだろうな？ 」
００９がはっとする。
「私は言った筈だな？ 『手を抜くな』と」
☆
医療センターに運び込まれたジョーは、治療台の上に寝かされていた。
心配そうに見守るタイラントと、何を考えているのか楽しげなクワイトと、ザイラスから『一緒にいって、とりあえず状況の確認をして来い』と言われてしぶしぶ付いてきたクライム。その三人の視界の中で、医療スタッフ達はテキパキと準備を整えていく。その手際の良さに、クライムは内心で首を傾げた。
（妙に…手際がいい。まるで、判っていたみたいに……）
ひょっとして、判っていたのか？ と思う。００９の『負け』が、わざとだというのは、流石のクライムにも判った。だが、それはクワイトに命じられての事ではないようだ。だが、そうすると、この医療センタースタッフの準備があまりにも整ってるのが解せない。
（クワイトの命令でわざと負けた…てんだったら、事前にクワイトからウィッチへ話が行ってても驚かないが……）
判らない連中だ、とクライムは溜め息を吐いた。
「見事に急所を外してるわね。意図的にやったんなら、大したモノだわ」
傷口の様子を確認していたウィッチが誰へともなく言う。そこへ、医療スタッフの一人が声をかけた。
「麻酔の準備は完了です。すぐにかかってよろしいでしょうか？」
ウィッチが軽くうなずく。
「やってちょうだい」
と。
「その必要は無い」
不意にクワイトが口を開いた。
「は？」
ウィッチがクワイトを振り返る。
「麻酔の必要は無い。そのままやれ」
室内がしんとなる。
そこへ、罵声が響いた。
「…ば…馬鹿野郎、てめぇ…何考えてやがる！」
タイラントだった。クワイトに掴み掛からんばかりの勢いで詰め寄る。
「ジョーは、てめぇのおもちゃじゃねーんだぞ！」
そのタイラントを楽しげに見つめ、クワイトは嗤った。
「私のおもちゃだ」
「…な……！」
「違うとでも思っていたのか？」
くくく…とクワイトが嘲る。
「き…っさ…ま…！」
タイラントが拳を振り上げ……。殴り掛かろうとしたその手首を、何者かが掴んだ。
「やめとくれ」
ビンと響く声。ウィッチだ。
支配的な響きを持つ特有の声音に、タイラントは思わず動きを止めた。
「…ウィッチ……」
「ここで暴れるんなら、出ていってもらうわよ」
じろりと睨まれ、タイラントが黙る。それへ『お下がり』というように手を振って、ウィッチはクワイトに相対した。
「クワイト……麻酔をしなけりゃ、暴れるわうるさいわで、とてもじゃないけど治療なんてできないわよ」
沈黙の中、普段と全く変わらない調子で言う。
「応急処置だけで良い」
「………」
ウィッチがクワイトの目をじっと見る。そして、クワイトもまた、ウィッチの目を見る。薄く嗤いながら。
（……ひっえ〜……）
その様子に、さりげなく隅の方に寄っていたクライムが目を丸くした。
（…あのクワイトと…やりあってるぜ、この女ぁ……）
なんちゅー命知らずな、とクライムは思った。
（しらねーぞ、殺されても。言っとくけど、殺せって言われたら、俺ぁ殺るからな！）
だが、クワイトが『殺せ』と言う事も無く、沈黙が続き……。
ついに、ウィッチが、はあ、と溜め息を吐いた。
「まったく……無理難題を言ってくれるわねぇ」
その言葉に、クワイトが嗤う。
タイラントが硬直した。
（ちょ…と待て！）
あまりの事に声が出ない。そのタイラントを見、ウィッチは言った。
「見てられないってんだったら、出てて頂戴」
「…な……！」
「あっちでもこっちでも、ぎゃいぎゃい騒がれたら、とてもじゃないけど集中出来ないのよ」
「…だ……でも……そ…ん…な……」
ウィッチを見る。クワイトを見る。そして、００９を見る。
「外に出てる？」
（…どう…すれば……）
「私が決めてあげようか？」
そう言ったウィッチの手が、白衣のポケットに入れられていた。
（…あ……！）
そう思った時は、既に遅かった。
パン…という軽い音と共に、ひやっしたモノが顔にかかる。
そして、タイラントの意識は白くなった。
「さてと……」
タイラントが完全に昏倒したのを確認すると、ウィッチは立ち上がった。
「クライム。ちょっとコレを壁際にでもやってちょうだい」
「…なんだって俺が……」
当然のように命令され、ごちゃごちゃと反論しようとするクライムだったが、無論、そんな事に耳を貸すウィッチではなかった。
呆然と立ち尽くすスタッフの方に向き直り、次の指示を飛ばす。
「麻酔は無し。拘束用の金具類を持って来て」
「し…しかし……」
反論しようとするスタッフを、ウィッチはチラリと睨んだ。
「さっさとおし」
有無を言わせぬ口調に、スタッフ一同は顔を見合わせ……従った。
「ジョー？ まぁ無理だと思うけど、なるべく動かないようにね」
上から声が降ってくる。姿は見えないが、ウィッチだ。
仰向けに寝かた状態で右側を向かされ、こめかみ、胸、肘、腰、膝……と、動きの基点となるポイントをきっちりと固定され、００９は身動ぎひとつできない状態だった。このうえ『動かないように』と言われても、動ける訳が無いと思う。
「動けないって思ってるだろうけど、これでも、まだかなり暴れる余地があるのよ。こっちの作業の細かさからするとね。特にあんたのは……目眩がする程、細かいからねぇ……」
溜め息交じりの声。
そして。
「じゃあ、やるわ。なるべく手早くするけど……我慢おし」
我慢しろといわれても、できるものとできないものがある。
この場合の苦痛は、明らかに後者だった。救いと言えば、それが治療の為という所なのだが、それでも耐え難い事には違いない。
『まだかなり暴れる余地がある』というウィッチの言葉の意味が、良く分かった。
気が遠くなりかけ、けれど、神経を直接切り裂かれるような苦痛に、現実に引き戻される。
そうやって、どれくらいの時間が過ぎたのか……。
実際には、僅かに５分足らず。それは、驚異的な手並みであった。００９の悲鳴に青ざめていたスタッフが、思わず見入ってしまう程の。
「……終わり…よ」
ウィッチの掠れた声。そして、００９は左肩にひんやりとした感触を感じた。
「…ぁ……」
不意の感覚に息を詰める。それから、００９は安堵の溜め息をついた。冷たく濡れた感触が、炙られるような痛みをすぅっと退かせる。
「…水を……」
ぼんやりとする００９の耳に、ウィッチの声が遠く聞こえる。
「どうぞ」
「私じゃないよ。ジョーに飲ませておやり」
「あ…はい」
医療スタッフが００９の前に回り込む。
「飲めますか？」
ぼーっとしていた００９は突然話し掛けられ、目をしばたたかせた。
「…え……？」
身を起こそうとして、体の戒めが解かれていた事にやっと気付く。けれど。
「…っ…ぅ……」
体を動かすと、途端に左肩に激痛が走る。それでも何とか体を起こし、００９は渡されたコップの水を飲んだ。
冷たい水の感触が、痛みを和らげてくれるようで、００９は一息に飲み干し、目を閉じて息を吐いた。
その様子をじっと見ていたウィッチが、とりあえず大丈夫そうだと判断したのか、小さく頷くと背後のスタッフに声をかけた。
「…悪いけど、私にも、水を」
そう言っておいて、クワイトを振り返る。
「……まったく…こんな面倒な『頼み』は、もう沢山よ」
うんざりした調子のウィッチの言葉に、クワイトは嗤った。
「そうか…。だが、私の頼みは何でも聞いてくれるのだろう？」
「それは勿論だけど、あんまり無茶を言わないで欲しいものね」
「悪かったな」
「思ってもいない事を言うんじゃないわよ」
そして、ウィッチは恐る恐る近付いてきたスタッフの手からコップを取ると一口飲み、言った。
「……まったく。……何にせよ、後でもう一度連れてくるのでしょう？」
「ああ」
「……あまり手間を増やさないでおいて頂戴ね」
「ふむ。それは……」
クワイトがチラリと００９視線を送る。
「…ジョー次第、だな」
ウィッチは軽く肩をすくめただけだった。
☆
「さて、ジョー」
エレベータで最下層まで降り、重い鉄の扉を幾つも抜け、長い階段を……途中から石造りに変わった長い階段を降り、クワイトを先頭とした一行は、鉄扉の前にたどり着いた。００９は、その道のりの途中から、立ち止まってしまって自分から前に進もうとしなくなり、結局、左腕をクライムが掴み、右腕を一人の兵士が掴み、半ば引きずるようにここまで連れてこられてしまった。
クワイトが００９を振り返る。何を言われなくても、その鉄扉の向こうが何か、００９には容易に想像できた。
そっくりなのだ。
バイスの基地にあった地下牢に。あの、独特の雰囲気に。
掴まれている左肩の痛みすら忘れ、００９は必死で身もがいた。
（……嫌……だ……）
００９が本気で全力を出して暴れれば、クライムと兵士の二人を振りほどくくらい、難なくできただろう。左肩の傷は、深手とは言え応急処置はされている。もとより００９自身が『敵』の動きを封じる策として、わざと受けた傷なのだ。急所が外してあるだけでなく、左腕を動かす為に支障となるような部位へのダメージも巧みに避けてある。ようするに『痛いだけ』の傷。００９を取り押さえようとするクライムや兵士達の動きに対処するに、問題など有りはしないのだ。
だが。
恐怖が、見えざる鎖となって００９の体を縛めていた。手足が強ばり、満足に動く事すらできない。いや、そうやって抵抗する事にすら、思い至れない。
「どうした…？」
楽しげに言うクワイトに、００９は弱々しく首を振った。言葉が出てこない。
（い…や……だ……）
必死で後退ろうとする。が、その左腕をクライムがきつく引き寄せ、００９は激痛にうめいた。
「…ぅ……」
苦痛のあまり、思わず目を閉じる。その瞬間、何かが額に触れ、００９ははっとした。
目を開く。
（…あ……！）
目の前に立つクワイトの手に握られているもの。それに視線が凍り付く。
金のリング。
００９の額に嵌められていた筈の金のリングが、今、クワイトの手にあった。それが無ければ自分がどうなるか。００９にはよくよく判っていた。
「ジョー」
目を見開いて硬直する００９に、クワイトがゆっくりと言う。
「………」
「お前は、私に服従を誓った筈だな。だが。これまで、お前は何回、私の命令に逆らった？」
楽し気な口調。
「……数え上げればキリが無い。そうだろう？」
００９は答えられない。ただ、恐怖に脅えた瞳でクワイトの手にあるリングを見続ける。
その様子に微かに嗤い、そしてクワイトは、視線を傍らに控える兵士達に向けた。
「開けろ」
自分の背後の扉を示し、無造作に命じる。兵士達は、弾かれたようにその命令に従った。
ギィィィ……
重い音と共に、徐々に扉が開かれていく。
それを斜めに振り返り、それから、クワイトは二歩程横に動いた。００９の視線の前から退く。
（…あ……）
クワイトが動いた事によって、００９と鉄扉の間を遮るものが無くなった。徐々に開いていく扉の向こうに、闇が見える。微かな冷気が頬を撫で、００９は総毛立った。呼吸が苦しい。クワイトの視線にも気付かず、まるで魅入られたかのように、扉の向こうの闇を見続ける。恐怖のあまり、目を閉じる事すらできない。
クワイトは、その００９の様子をひとしきり堪能すると、００９を支えているクライムと兵士に視線を向けた。扉の向こうの闇を指し、短く言う。
「放り込め」
勿論、クライムには逆らう気など毛頭無い。一瞬ためらう兵士を尻目に、さっさと００９を引きずっていく。
「…あ…や…やめっ…！」
ずるずると引きずられ、呆然としていた００９が我にかえる。何をされるのかに気付いて、必死に暴れる。だが、時既に遅し。扉はすぐそこ。そして、００９が恐怖に麻痺した体で弱々しい抵抗をする間も無く、クライムは、００９を扉の向こうに突き飛ばした。
扉の向こうにある、十段程の階段を、００９が転がり落ちる。
悲鳴。
一番下まで転がり落ち、階段と床にあちこちをぶつける。怪我をした左肩を押え、００９は苦痛にうめいた。
だが。
そんな苦痛にかまっている場合ではなかった。
「…や…めてくれ……出して……」
必死で起き上がり、半ば這うように階段を登る。
見上げた先、階段の最上段にクワイトが立っていた。
「……ク…ワイ…ト…様……」
必死で這い上がってくる００９を満足気に見下ろす。それから、不意にクワイトは階段を数段、降りた。
そして。
クワイトが立つ段に００９が片手をかけた、その時。
無造作に右足を引くと、クワイトは００９の左肩を蹴り飛ばした。
絶叫。
血も凍る、苦悶の絶叫。
もんどりうって、再び階段を転がり落ちる。床まで落ち、００９は全身を震わせた。のたうちまわる事すらできず、ただ、ひくひくと痙攣を繰り返す。
後ろで様子を覗いていたクライムも、さすがに青ざめた。
（…うげぇ……ありゃぁ……痛ぇ…なんてモンじゃねーぞ……）
見てられず、後ろに下がって溜め息をつく。
そんな後ろの動きを気にも止めず、クワイトは冷酷に言った。
「ジョー。私に従うのが嫌なら、無理にとは言わない」
ぞっとする程に酷薄で、楽しげな口調。
「よく考えるんだな」
そして、扉から出ると、兵士に命じた。
「閉めろ」
逆らう事も出来ず、兵士達が扉を閉める。
「…や…やめ…て……く…れ……！」
扉の向こうから、掠れた声。けれど、クワイトが何も言わない以上、兵士達は言われたとおりに扉を閉めるしか無い。
「……や…め………！」
重い音を立てて、扉が閉まる。
それを確認し、閂をかけさせると、クワイトはその場を後にした。
無論、兵士達も。
００９は、一人、地下牢の中に取り残された。
☆
ツンとする刺激臭。目の奥がチクチクする。
（…一体…何だ…ってん…だ……）
そう思い、タイラントは目を開いた。
「やっと起きたね」
「……あ…？」
一瞬、自分がどこで何をしているのか判らず、タイラントは目をぱちくりさせた。目の前に白衣姿の女性。手に小さなビンを持った。
「…ウィッ…チ……？」
という事は、ここは医療センターの筈で……。だが、何で床の上に座っているのだろうか？
ぼんやりとしたタイラントの様子に溜め息を吐くと、ウィッチは持っていた気付け用の薬ビンを白衣のポケットに落とし込み、手を伸ばしてその頬を軽く叩いた。
「しゃんとおし」
「…あ……」
ゆっくりと頭がまわりはじめる。そして、タイラントは慌てて周囲を見回した。
（……ジョー！）
だが、誰もいない。クワイトもクライムも、００９も。医療スタッフ達の姿すら、無い。室内に居るのは、自分とウィッチだけ。
そのウィッチが立ち上がるのを見上げ、タイラントは自分も立ち上がった。
「ジョーは？」
「ここには居ないわよ」
肩をすくめて答えるウィッチに、そんな事は見りゃ判る……と叫びかける。だが、その台詞を飲み込み、タイラントはウィッチを睨んだ。
「……何で…」
「何？」
「…何故…クワイトに味方する！」
タイラントをじっと見、ウィッチが静かに答える。
「何がいいたい訳？ 私が彼に協力して、何か不都合でも？」
「麻酔無しで応急処置をしろ、だなんて…あんな無茶な要求をどうして…！」
激昂するタイラントとは対照的に、ウィッチは落ち着き払っていた。
「戦場じゃあ、別に珍しい事でもないでしょう？ そんな悠長なコトをしてられる余裕なんて……」
「ここは、戦場じゃない！」
「だから？」
「……だから……」
尋き返されて、タイラントは言葉に詰まった。渦巻く想いを言葉にできず、ウィッチを睨む事しかできない自分がもどかしい。
「だから、何？ 終わった事をどうこう言っても仕方ないでしょう？ もう二度とやるな、と？ まぁ、神経擦り減るし、楽しい作業じゃないのは事実だけど、クワイトが望むのなら、何度でもやるわよ、私は」
「何故！」
「何故？ 理由は無いわよ。クワイトが望むから。それだけのコトよ」
黙り込み、けれど、全然納得していない証拠に、ものすごい形相で自分を睨むタイラントを見返し、ウィッチは逆に問い掛けた。
「じゃあ尋くけどね、タイラント。あんたは何だってジョーの味方をするの？」
「それは、ジョーはいい奴だし、第一、あんな酷い目にあわせられるのを、黙って見てられるかよ！」
「ふむ……。つまり、正義感からってコト？ 他人の苦しみを救いたいって？ ……馬鹿だねぇ」
ウィッチが笑う。
「タイラント、あんた、ここが何処だか……判っているの？」
突然の言葉にタイラントがキョトンとする。それを見遣り、ウィッチは言った。
「ここは、Neo Black Ghost 本部なんだよ。武器を売り、戦争を煽り、世界を恐怖と混乱の渦に叩き落とす、死の商人達の本拠地。自らの欲望の為には、他人を犠牲にする事をも躊躇わず、善も悪も無い……いや、むしろ世の中から『悪』とされる事を為すのを喜びとする、そういった奴等の総本山なんだよ？ そこに居て、その一員であって、それなのに、何を寝ぼけたコト言ってるんだい？」
嘲笑を含んだウィッチの台詞にタイラントが唇を噛む。確かに、その通りなのだ。けれど……。
けれど、何なのだろう？ 反論する言葉が見つからない。だが、ウィッチの言葉に頷く事もできない。
「それに……以前、あんたは言わなかった？ 私に改造手術を依頼しに来た時だよ。『他人の為に自らを犠牲にする奴なんかいない』って。『だから強くなりたい』ってね。それが何？ ジョーを助けたい？ クワイトに逆らって？ どういう風の吹き回し？ らしくもない」
確かにウィッチの言う通りだった。
だが。
（……違う…。そうじゃ、ない……）
自分の気持を表す言葉が見つからない。どう言えばいいのか、何を言いたいのか、自分でも判らない。
黙り込むタイラントを暫し見つめ、そして、ウィッチは大きく息を吐いた。
「……まったく……」
やれやれ、というように首を振る。
「……思惑通りの反応をしてくれちゃって……」
「な…に……？」
タイラントが訝しげにウィッチを見る。その瞳を見返して、ウィッチは言った。
「なにもかも、クワイトの計算通りってコトよ」
「…なん…だって……？」
言っている言葉の意味が分からず、タイラントは呟くように尋き返した。
（そして、私の予想通りでもある訳だけど……）
ウィッチは腕を組み、呆然と自分を見るタイラントを観察した。話してやろうか、それとも止めとくべきか、と思う。
（……まぁ、いいか）
いい加減、この馬鹿者に、自分自身の行動を自覚させてやってもいいかもしれない。クワイトも、自分がそうする事を半ば予想して（あるいは期待して）、タイラントを置いていったのかもしれないのだ。
心の中で軽く頷き、ウィッチは口を開いた。
「いいかい、タイラント。あんたがジョーに同情的になるだろうってのは、予想の上だったんだよ。……いや、正確に言うならば、クワイトはそうなる事を期待して、色々と手を回してたって訳」
「…な……に？」
「あんた、何故自分が、５年もの間、クワイト付戦闘部隊の隊長を、殺される事も無く、続けて来られたと思ってるの？ 自分の努力の賜物？ まぁ、あんたの努力は確かに大したものだわ。でもね、一番の理由は、クワイトがそれを望んでたからなのよ」
その言葉に、タイラントが愕然とする。
（…望んで…た……クワイトが…？）
「なにをどう間違って、あんたが Neo Black Ghost の一員になったのかは知らない。だけど、一つだけ確かな事がある。それはね、タイラント。あんたが、本来、Neo Black Ghost に属すべき人間じゃない……って事よ」
思ってもみなかった事を言われ、タイラントは何と言えばいいのか判らなかった。
「クワイトは言ったわ。『タイラントは明らかに場違いな奴だ。正義だとか善だとか、そういった、面白い感情を持っている。ただ、奴はそういった自分の感情を、今は否定している。過去に何かあったから、というのは間違いない。ま、それが何かは、私の能力では判らないがな。……だが、何かキッカケさえあれば、結構面白い行動をするかもしれない。だから、しばらく手元に置いておこうと思う』ってね」
呆然とするタイラントにウィッチは静かに言葉を続けた。
「まぁ、クワイトのような能力がなくっても、あんたが場違いだってのは、良く見れば分かる事よ。あんたはよく『他人の為に自分を犠牲にする奴なんていない』とか『クワイトに目を付けられた奴は運が悪いんだ』とかって言うわよね。本当に心からそう思うのなら、何もそんな事を言ったりはしないわ。本当は逆の事を心が感じているからこそ、わざわざ口に出して自分に言い聞かせる必要がある……違うかい？」
タイラントは答えられない。何かが足元から崩れていくようで。
「あんたには、この商売は向かないんだよ、タイラント。まぁ、ジョーに会ったりしなけりゃあ、それなりに上手く自分を騙していけたかもしれないけどね」
「…あ……」
あまりにも、心当たりがあった。そして、自分が何故００９に惹かれるのか、その理由をタイラントは理解した。
（そう…だ……俺は…ジョーに……）
一度は裏切られた真実。信じていたもの。憧れていた姿。
（……そうか……）
かつて自分がそうなりたいと思っていた、理想。現実を知らない子供の夢だと、その理想を捨て去る事こそが、大人になる事なのだと、そう自分に言い聞かせ、生き抜いて来た。
だが。
００９との出会いは、タイラントにとって衝撃だった。他人の為に自らを犠牲にすることを躊躇わず、身も心もズタズタにされてもなお、絶望的な抵抗を続ける。その姿は、タイラントの心を強く揺さぶった。
正義など無意味だと、他人の為に戦うなぞ馬鹿馬鹿しいと、生きる為には卑怯であるべきだと、そうでなくては生き残れないと……そう思い、そう行動してきたタイラントであった。けれど、そう考えるのとは裏腹に、タイラントの心は彼が頑なに否定しつづけた、正義を求めていたのだった。いや、むしろ心の奥底でそういった存在を切望していたからこそ、タイラントは事ある毎に正義を否定してきたのかもしれない。自分自身を納得させる為に……。
そう。００９は、まさにタイラントが無意識のうちに求めていた理想そのものだったのだ。
「目が覚めたかい？」
ウィッチが声をかける。物思いに沈んでいたタイラントは、はっと我にかえった。
「…あ……ああ。そう、だな」
確かに、目が覚めたというのがピッタリだった。タイラントが深く頷く。
それを見、ウィッチは肩をすくめた。
「で？ どうするの？」
問われて、タイラントは言葉に詰まる。
（どう…すれば……）
自分がどうしたいかは判った。それが何故なのかも。
だが、一体どうすればいいのか？
「やれやれ……」
ウィッチが天井を見上げる。どちらにしろ、タイラントの望みは叶わない。叶う筈がない。
（……ジョーを助けるなんてのは、不可能だ。あの子には……救われる道なんて、無い。唯一の方法は……）
そう思い、ウィッチは内心で肩をすくめた。
（ま、それはクワイトの望むところじゃあ無いからねぇ）
今のところ、それをタイラントに言うのは止めておこう、と思う。
「まぁ、好きにおし」
「あ…ああ……」
頷いてみたものの、どうしたらいいのか判らないのは変わらない。その様子に溜め息を吐き、ウィッチは言った。
「……タイラント。ジョーを助けたいって思うんだったら、こんなトコでぼーっとしてる場合じゃないわよ」
「え？」
「馬鹿だね。よく考えな。ジョーは、何でここに運び込まれ、あんたは何で、そこの床で寝る羽目になったの？」
「…あ……」
「で、今ここにジョーが居なくて、クワイトも居なくて……何が起きてると思う？」
「！」
「あんたがココで間抜け面してる間に、ジョーがどんな目にあわされてるか……」
そうだった。
（…俺は……）
こんな所で呆然としている場合ではない。
「さっさとお行き」
そして、タイラントは医療センターを飛び出していった。
☆
００９は暗闇の中に居た。
目を開いても閉じても変わらない闇。ひたひたと押し寄せてくる、恐怖。
左肩の焼けるような痛みが、今は救いだった。
現実の痛みを感じている間は、眠らずにいられる。
だが。
次第に、自分が起きているのかどうか、自信が持てなくなってくる。
眠りに落ち、悪夢を見なくても、思い出してしまえば一緒だ。苦痛と恐怖の記憶は００９を苦しめる。そして、この状況下で思い出さないでいる事など、不可能だった。
いつまで正気で居られるのだろうと恐れ、その一方で、いっそ狂ってしまいたいと思う。
荒い息をつき、必死で首を振り、何とかして平常心を取り戻そうと努力する。
しかし、所詮は無駄な努力だった。
「…や…めて…くれ……」
そこに居ない誰かに向かって哀願する。
「……もう…やめて…くれ……」
無論、応えは無かった。
☆
医療センターを飛び出したタイラントは、まっすぐにクワイトの研究室に向かった。クワイトが尋問を行う時に使う部屋。今のタイラントは、そこで行われているのが尋問などでなく、拷問に間違いない事も、犠牲者が何をされるのかも判っている。
（……クワイトは…そこで……）
００９に悪夢を見せ、苛んでいるに違いない、と思う。
どうにかして、止めさせなくては、と思う。だが、どうやって？ 止めろと言って止めはしまい。
（…一発殴ってやる…か…？）
だが、それも得策とは思えなかった。殴って言う事を聞かせられるのなら、誰かがとっくにやっているだろうし、たかが戦闘員の自分が上級幹部のクワイトを殴ったりしたら、間違いなく処刑されるだろう。死んでしまっては、００９を助ける事ができない。
（…くそっ……）
いっそクワイトを殺すなり、００９を連れて逃げるなり、そういう方法がとれれば良いのだが、そうはいかないのだ。そんな事をしても、００９は救われない。クワイトが居なければ、というか、クワイトの制御下にある、あのリングが無ければ、００９は眠る事もできず狂い死ぬ事になる。
（……よく…考えてやがるぜ…まったく……！）
内心で毒づき、角を曲がったところで、タイラントは慌てて立ち止まった。
（な…っ）
目の前に、クワイトが立っていた。
たたらを踏んで止まるタイラントを見、クワイトがニタリと嗤う。
「何をそんなに急いでいる？」
タイラントはクワイトを睨み付けた。
「ジョーは……」
くっくっく…っとクワイトが嗤う。
「知りたいか？」
タイラントは唇を噛んだ。憎悪の瞳。それを満足気に見つつクワイトは言葉を続ける。
「……地下牢だ」
「な…に……」
「ジョーが最も恐れている場所だからな」
意味が分からない。だが、とにかく助け出してやらなくてはと思い、タイラントは身を翻した。
と。
「待て」
それへ、クワイトが声をかける。
（なんだよ！）
苛々と、だが無視する訳にもいかず、タイラントは振り返る。
「これが何か判るか？」
「は？」
クワイトの手には、金のリングが握られていた。
（何だ…？）
妙に見覚えのあるような気がする、金のリング。眉根を寄せ、じっと見、そして……。
「……あ…！」
タイラントははっとした。
「そ…それ…は……」
００９が額にしていたリングによく似ている。
「ジョーから取り上げた」
クワイトが嗤う。
「な…んだとぉっ！」
唸るように叫ぶタイラントを面白そうに見つつ、クワイトは言葉を続けた。
「私はジョーに『私に服従する』という条件でこれを与えたのだ。だが、ジョーはその条件が気に入らないようだったからな。少し考える時間をやったんだ」
嗤い。
「別に、無理に服従する必要はない、良く考えろ、と言ってな」
（…馬鹿…野郎……！）
良く考えろだと？ とタイラントは思う。何を考えろというのだ。００９に他に為す術が無い事は、クワイト自身が誰よりも良く分かっているというのに。
「…き…さ…ま……」
殺してやりたい、と思う。だが、そうは行かない。
「そう心配するな。ジョーはそう簡単には狂ったりしない。今も…」
くくく…と嗤う。
「……脅えてはいるが、まだまだ大丈夫そうだ」
（…な…ん…だと……）
地下牢といったら、だいぶ下層の方だ。直線距離にしても、１０メートルや２０メートルでは済まない筈で……。
（……それだけ離れてても…感じ取れるってのか？ ジョーの感情を？）
ぞっとする。畏れにも似た想い。
クワイトがニタリと嗤う。
「さて、タイラント。お前に良いモノを見せてやろう」
「…な…ん…だと……？」
クワイトの言う『良いモノ』なぞ、ろくなものじゃない、と思う。
「そう警戒するな……。知りたくは無いのか？ ジョーの『悪夢』がどんなものか」
（…！？）
「付いて来い」
そう言うと、クワイトはくるりと背を向け、歩き出した。
（どう…する……？）
だが。結局、クワイトに従うしか無い。
やむなくタイラントはクワイトの後に続いて研究室の中に入った。
「まぁ、座れ」
スクリーンの前の椅子を示してクワイトが言う。一瞬躊躇ったが、逆らっても仕方が無いと思い、タイラントはおとなしく椅子に座った。
クワイトが何やらコンソールを操作する。
と。
スクリーンに映像が映った。
（こ…れ…は……）
「バイスが、ジョーを拷問した時の記録映像だ」
クワイトが楽し気に言う。
「普通に全部見ると、４日かかるからな。まぁ、適当に送りながら見せてやる」
その言葉にタイラントは愕然とした。
（普通に見ると４日…だとぉっ？）
それはつまり、００９が４日間に渡って拷問を受けたという事だ。しかも、あのバイスの拷問を。
（………）
それで死ななかったのは驚異だ。いや、それ以上に驚異なのは……。
（…屈しなかった……って事だ……）
タイラントは、思わず身震いした。
スクリーン上で繰り広げられる光景に、タイラントは言葉も無かった。
あまりの惨状に、最早、吐き気すら感じられず、まるで心が麻痺してしまったかのように、何も考えられない。
映像の隅に表示されている、時間経過を示す数字は既に８０を越えている。００９の有様は、もう瀕死の状態と言っていい。それでも。バイスの問いかけに、００９はきつい一瞥をくれるだけで……。
（……ジョー………）
見ていられない。だが、目を逸らす事もできない。タイラントは惚けた様に、ただただその光景を見続けていた。
不意に場面が変わる。
薄暗い地下牢。杭を打ち込まれ、壁に磔られる００９。
バイスが最後の問いかけをし、００９は強い瞳で毅然と睨み返し……。
そして。
鉄の扉が閉ざされた。
「この後……」
（あ………）
何も映さなくなったスクリーンを呆然と見詰めていたタイラントは、クワイトの言葉にハッとした。
「…ジョーが助け出されるまで、どのくらいの時間がかかったと思う？」
くくく…と楽しげにクワイトは嗤う。
タイラントの瞳が、純粋な恐怖に揺れる。考えたくなかった。あんな状態で、地下牢に閉じ込められて……来るかどうかすら判らない助けを待って…。
「正確なところは判らないがな。少なくとも、６時間は掛かっている」
（…な…ん…だと……！）
あの状態で、よく６時間も生きていたと思う。いや、それよりも。
（よく……正気で……）
狂いもせずに居られた、とタイラントは思う。
「その間の記録が無いのが残念だがな……」
楽しげにクワイトが言う。
「……ジョーの悪夢は、その、地下牢での６時間だ」
「…あ……！」
「暗闇の中にたった一人閉じ込められ、時間の経過も判らず、助けを求める相手も、許しを乞う相手も居ず、苦痛と恐怖に苛まれながら……」
聞きたくない、とタイラントは思う。想像しただけで、身の毛がよだつ。
だが。
（……実際に…あった事……なんだ…。ジョーは……）
そして、タイラントは愕然とした。
（地下牢！）
クワイトは言った。『ジョーは地下牢だ』と。『ジョーが最も恐れている場所だからな』と。
その意味するところは……。
タイラントは椅子を蹴立てて立ち上がった。クワイトを睨み据える。
「出せ！ ジョーを！ 地下牢から！ すぐに！」
クワイトが嗤う。
「タイラント、 少しは口の利き方を考えたらどうだ？」
「…な……に……？」
「私を怒らせるのが得策かどうか、よく考えてみろ」
（……！）
タイラントは唇を噛んだ。
確かに、そうだった。００９には、クワイトが必要なのだ。クワイトの与えるリングが……。
（……畜生…！）
怒りに震える。だが、どうしようも無い。
「…ジョーを……出してやって…くれ……」
唸るように言う。
クワイトがタイラントをじっと見、ニタリと嗤った。
「ま…お前には、そのくらいが精一杯…か……」
普通の兵士達に比べれば、タイラントはプライドが高い。自身の力に対する誇りもあれば、自負もある。けれど。００９の、何者にも屈そうとしない孤高の精神に比べれば、大した物ではない。どんなに屈辱を与えようとも、頑に自尊心を持ち続ける００９と違い、タイラントは弱い。
（自分自身の無力さを痛感させてしまえば、恐らく、あっさりとプライドを手放して、堕ちる…だろうな）
それでは面白くない、とクワイトは思う。
「……出してやってもいいが、ま、ジョー次第だな」
嘲笑。
「ジョーが、私に服従するより、地下牢で狂い死ぬ方を選ぶというのなら……お前が口を出す事ではあるまい？」
タイラントは答えられなかった。
（……どっちにしろ……最低…だ！）
吐き捨てるように内心で呟く。だが。今の００９に他の選択肢が無いのは、タイラントにも判っていた。
唇を噛んで黙り込むタイラントを楽し気に見遣り、クワイトはコンソールの脇にあるスリットから記憶チップを取り出した。ぽん、とタイラントに向かって放る。
「コピーだが……お前にやろう。時間のある時に、ゆっくり見るんだな」
ニタリと嗤う。誰がそんなことをするか！ と思ったが、投げ返す訳にもいかず、タイラントは記憶チップを握り締めた。
「さて……」
クワイトが軽く首を傾げて宙を見る。それから、ゾッとするような嗤いを浮かべ、言った。
「…そろそろ、行ってやるか……。発狂させてしまっては、面白くないからな」
☆
「ジョー！ ジョー、しっかりしろっ！」
床に倒れ伏している００９を抱え起こし、タイラントは必死で呼びかけた。
「……て……く…れ……」
虚ろな瞳。唇が微かに動いて、何か呟き続けている。
「ジョー？」
「…め…て……れ………も……や…めて…く…れ……」
（……『もう、やめてくれ』…か……くそ！）
つい先刻見せられた、あの映像を思い出して、タイラントは唇を噛んだ。
（あの…悪夢の中に、いるんだ……）
「ジョー！ …しっかりしてくれっ！」
必死で揺さぶるが、反応が無い。
（……発狂した……？）
焦点のあわない瞳で、ぶつぶつと呟き続ける様は、とても正気とは思えない。
（…もう駄目……か……？）
だとしても、当然の結果かもしれない、とタイラントは思う。そう、今まで狂っていなかった事の方が、驚異なのだ。
（だったら……）
クワイトを殺す。最早００９が狂ってしまったのであれば、もう、クワイトは必要無い。
（……殺して…やるっ…！）
そこへ。
「そう殺気立つな」
嗤いを含んだ声音でクワイトが言った。タイラントがキッと見返す。
その視線を軽くいなし、クワイトは言葉を続けた。
「ジョーは、この程度で狂うほどヤワじゃない」
ニタリと嗤う。
そしてクワイトは、つと屈むと手を伸ばして００９を顎を捕らえ、虚ろな瞳を覗き込んだ。
「ジョー…」
冷たい、嘲笑を含んだ声。
その途端、００９の体を支えるタイラントの腕に、微かな震えが伝わってきた。壊れたように同じ言葉を紡ぎ続けていた唇の動きが止まる。
（…な……に…？）
タイラントが愕然とする。今の今まで、何の反応も無かったのに、クワイトの声が、００９に正気を取り戻させようとしているのだ。
「ジョー、私が判るな？」
再度、クワイトが問い掛ける。虚ろな００９の瞳に、恐怖の影が揺らぐ。
（…な…ん…て……！）
恐怖の果てに狂気に堕ちかけた精神を、更なる恐怖によって現実に引き戻す。それは、あまりといえばあまりに残酷な仕打ちだった。
「あ……」
ゆっくりと、００９の瞳に正気の光が戻る。目を閉じ、目を開き、そして００９は言った。
「……クワイト…」
それを確認し、クワイトはニタリと嗤った。００９の顎にかけていた手を放し、立ち上がる。
「さて、ジョー……答えを聞こうか？」
「…あ……？」
００９がクワイトを見上げる。脅えた瞳で。それを楽し気に見下ろし、クワイトは言葉を続けた。
「私に服従を誓うなら、ここから出してやろう。無論、これも……」
と言ってクワイトは金のリングを００９の目の前に突きつける。
「……返してやるぞ？」
クワイトの言葉に、００９は頷いた。
「…誓う…から……だから…もう……」
苦痛と恐怖に震えながら哀願する。その様子に、クワイトが嗤う。
「…ふむ……」
脅える００９の瞳をじっと見据える。その視線に耐えられず、００９は俯いた。
（……ジョー……）
その有様を、タイラントは痛ましげに見ていた。
（もう…限界…だよな……）
変わらぬままであって欲しいと思っていた。屈させたく無いと思っていた。だが。
（……そんなのは、無理だ……）
バイスの基地で００９が受けた拷問の記録映像。それを見せられて、タイラントは自分がどれだけ００９の苦痛を理解していなかったのか、悟った。あんな目にあって、それだけでなく、それを『悪夢』として繰返し繰返し見続けなくてはならないとしたら……。
（…耐えられるようなモノじゃ…ない）
その『悪夢』から逃れる唯一の手段を提供できるのが、クワイトなのだ。総てを捨ててクワイトに絶対服従したとしても、誰が００９を責める事ができるだろう。
「ジョー……」
物思いに沈むタイラントをチラリと見、クワイトは微かに嗤いながら言った。
「…では、裏切者の拷問をしろ、と言っても……従うか…？」
「な…！」
００９がハッと顔を上げた。その瞳に、タイラントが息を呑む。
（……なん…だと…？）
強い意志を秘めた、きつい瞳。殺気すら秘めた、その瞳。
（……まだ…抵抗しようと……する…のか？ ジョー…お前という奴は……ここまでされても、まだ……）
驚異だった。
（信じがたい……精神力だ…ぜ……）
タイラントは内心で呟いた。
クワイトが嗤う。
（やはり…まだまだ、だな）
「どうした？ ジョー……。地下牢の中が気に入ったか？」
「……あ…」
唇を噛み、００９は俯いてしまった。肩で息をし、目を閉じる。
（……い…や……だ……）
どうしようもない恐怖が００９の心に爪をたてる。
（…っく……）
誰かを拷問するなど、そんな事はしたくない。
だが。
抵抗できない。どう頑張っても、押し寄せる恐怖に、体が震える。
「返事を聞こうか、ジョー。私に服従し、どんな命令にも従うか？ それとも……地下牢の中で狂い死にしたいか？」
からかうような口調でクワイトが言う。
００９は答えられない。どちらも嫌だった。だが……。
「ふむ。では……」
クワイトが背を向ける気配。その瞬間、００９は叫んでいた。
「……待ってくれっ…！」
見上げる００９。見下ろすクワイト。そのクワイトがニタリと嗤う。
「答えは？ ジョー」
狂気の瞳に見詰められ、００９は目を伏せた。ギリ…っと歯を食いしばり、両手を握り締める。
そして。
「……従い…ます……どんな…命令…に…も……だから……」
ぱたり…と涙が零れ落ちる。
「…だから……たす…けて……」
不意に００９は顎を掴まれた。
（…あ……）
うろたえる００９の瞳を、クワイトが楽しげに見詰める。目を逸らす事も、閉じる事も出来ず、００９には、クワイトの瞳を見続けるしかなかった。心の内を鋭い爪でかき回されるような恐怖。呼吸すらできない。
長い沈黙。
やっとクワイトが手を放した時、００９のなけなしの気力は尽き果てていた。もう何も考えられない。
「その言葉を忘れるなよ、ジョー」
楽しげな口調でそう言いうと、クワイトは００９の額にリングを嵌めた。
「…は…い……クワイト…様……」
震える声で答える００９を満足気に見下ろし、そして、クワイトはタイラントに視線を向けた。
「ウィッチの所に連れて行け。治療の続きが必要だろう」
ニタリと嗤う。
「今度は、ちゃんと麻酔をしてもらえ」
そして、クワイトは二人に背を向け、その場を後にした。
クワイトの足音が聞こえなくなったところで、００９は大きく息を吐いた。緊張が解ける。その途端、左肩の痛みが意識に上り、００９はうめいた。
「…く…ぅっ……」
左肩を押えて倒れこんでいく００９を、タイラントが慌てて支える。
「…ジョー……」
大丈夫か、と言おうとして思い止まる。大丈夫な訳が無い。もたもたしている場合では無かった。
「ちょっとの間、我慢してくれ……」
そう言うと、タイラントは００９を抱き上げた。
抱いている腕を通して、００９の苦痛が伝わってくる。階段を一段登る度に００９の体が強張り、喉元から微かなうめきが漏れる。
（…ジョー……すまない……）
それにしても、とタイラントは思う。
（……信じられない…精神力…だ……）
もう、気力も体力も何もかもが限界を越えている筈なのに、それでもなお、苦痛に耐え、苦鳴を押え……。
（ちくしょう……！）
助けてやりたい。どうにかして助けてやりたい。
（……助けて…やりたい……！）
タイラントは、きつく唇を噛んだ。
地下牢へ続く階段を登り切り、鉄の扉を開けたところでタイラントは立ち止まった。
「…ウィッチ……」
そこには、担架を持った医療スタッフを従えたウィッチが立っていた。
「どーせこんなコトだろうと思ってね」
タイラントの腕に抱かれた００９を覗き込み、小さく首を振ると、ウィッチは持っていた麻酔器をその首筋に押し当ててスイッチを押した。
「……とりあえず、これでいいわ」
００９を見詰めたまま軽く手を振ると、背後に控えていたスタッフが動いた。担架を床に置き、タイラントを促す。
「寝かせてください」
「…あ…ああ……」
速効性の麻酔薬に、ゆっくりと目を閉じる００９に安堵の溜め息を吐き、タイラントは言われるままに００９を担架に寝かせた。
「……クワイトの…命令なのか？」
医療センターに向かって歩きつつ、タイラントがウィッチに問う。それへ、ウィッチは首を振った。
「いいや。クワイトは別に何も言ってないわよ。大体の予想が付いてたから、迎えに来てやっただけよ。そうじゃなけりゃ、医療センターに付くまでの間、ジョーは痛い目を見る事になっただろうからね」
（……ジョーの…為に…？）
「あんたは一体、どっちの味方なんだ？」
戸惑ったようなタイラントの言葉に対し、ウィッチはにべも無く言い切った。
「勿論、クワイトの味方よ」
「………」
「私は、クワイトの望みは総て叶える。たとえ、それがあんたやジョーにとってはどんなに酷い事でもね。そして、クワイトが無関心な事については、自分自身の価値基準に照らして判断し、行動する。今回のは…そういうコトよ」
成る程、と納得する一方、やはり釈然としない思いは残る。
「何で…どうして、クワイトにそこまで……」
「それは、あんたには関係の無い事」
タイラントの言葉を遮り、ウィッチはぴしゃり言った。
「クワイトにも関係の無い事。私は私のやりたいようにやってるだけよ」
あまりにも明快な拒絶に、タイラントはそれ以上、何も言えなかった。
☆
銃声。
眉間を打ち抜かれて、哀れな男は絶命する。けれど、延々と苦痛に苛まれた末であれば、死の腕に抱かれるのは、むしろ安らぎだろう。
００９の昏い瞳に苦痛の影が過ぎる。
内心を押し殺して無表情を保ち、００９は銃を収めると、振り返った。
「後の処理は任せる。……いいかな？」
「は！」
答える兵士達へ軽く頷くと、００９はその場を後にした。
黒いマントを翻して去っていく００９の姿がドアの向こうに消えると、残された兵士達は、誰ともなくほっと息を吐き出した。
「結局、一日半、不眠不休の飲まず食わず……かよ」
「やっぱり、そうだったのか？」
「ああ、交代の連中に聞いて回ったケドな」
暇な奴だな、と誰かが揶揄するが、迎合する声は無かった。
「ずっと立ちっぱなしだったってぇのは……？」
「あぁ、そうみたいだな」
「まったく……」
「それじゃあ、一体どっちを拷問してるんだか……」
「ああ、さっぱり判らないって、他の時間帯の連中も言ってたよ」
やれやれ、とお互いに顔を見合わせ、兵士達は溜め息を吐きあった。
「……どうする？」
「ん？」
「隊長に…知らせたがいい…かな」
「…ああ……そ…だな………」
「あれじゃあ、どっかで倒れっちまうかもしれないし」
違いない、と全員が頷く。そして、最初の一人が壁際のインターフォンを取ると、タイラントを呼び出しに掛かった。
☆
もはや、空腹は感じなくなっていた。耐え難いのは、渇き。そして、疲労。泥の中を歩いているように、全身が重い。水を飲み、横になって眠ることを体は求めていた。けれど、００９の精神は、体の求める休息を拒んでいた。
（僕は……）
耳の中にこだまする、悲鳴。絶叫。瞼に焼き付いて離れない光景。振り上げられる鞭。かつては自分に向かって振り下ろされた。
「……っ」
歯をくいしばって、歩を進める。ともすれば、その場に倒れ込みそうになりながら、クワイトの執務室へ向かう。クワイトに最終報告をしなくてはならないのだ。
（最終…報告をして……それから、拷問の様子を記録したビデオをチェックして……この件にかかりきりになっていた間の基地内の動きを確認して……それから………）
呻くように考えつつ、一歩一歩を踏みしめるように歩く。
（…それから……）
考えがまとまらない。大きく頭を振り、００９は歩く事に意識を集中した。
やっとの事でクワイトの執務室にたどり着く。応えを待って室内に入り、００９はひざまずいた。目の前の床を見つめ、口を開く。
「……クワイト…様……。ご指示通り、裏切者は…処刑……いたしました……」
気力を振り絞って言う００９を見下ろし、クワイトはクッと嘲った。
「ジョー……」
クワイトの言葉に、００９がビクリと身を堅くする。
「一日半とは、時間がかかりすぎじゃないのか？ もっと効果的な方法が、あった筈だ。違うか？」
楽しげなクワイトの口調に、００９は唇を噛んだ。
「拷問される者にとって、何が一番『こたえる』のかを、おまえは良く知っていた筈じゃないのか？」
００９は答えない。いや、答えられなかった。冷たい恐怖に支配され、身動ぎすらできない。
その様子を満足気に見、クワイトは、ゆっくりと言葉を続けた。
「それとも……忘れたか？」
からかうような口調。そして、００９の前に屈み、顎に手をかけて顔を上げさせると、恐怖に震えるその瞳を覗き込んだ。
「……あ……」
呼吸さえもままならず、００９が喘ぐ。クワイトが何を言わんとしているのかは、解りきっていた。思い出させてやるというのだ。あの悪夢を。あの苦痛を。あの恐怖を。
耐えられない、と思う。ただでさえ、思い出したくもないものなのだ。それを、立って歩く事さえ苦痛を伴う今、あの悪夢を見せられたら……。
（……や…めて……くれ……！）
悲鳴は、しかし声にならなかった。
「思い出させてやる……」
楽しげに嘲い、クワイトは立ち上がった。
「…来い……」
椅子に座らされ、両手両足を固定された００９は、絶望的な想いでコンソールを操作するクワイトを見ていた。
「…や…やめて…ください……クワイト…様……」
無駄と判っていても、哀願せずにはいられない。
「……クワイト…様……どうか……！」
けれど、クワイトは振り向きもしない。
（…あ……。ど……どう…すれば……？）
これから味あわされるであろう苦痛を思い、００９は身を震わせる。あの苦痛に、どうやって耐えればいいのか？
（……耐えられない……もう……もう、耐えられない……！）
疲労しきった体は、今でさえ悲鳴をあげている。一日半にも渡る拷問を見続けた精神的苦痛。不眠不休の肉体的苦痛。００９の総ては、限界を超えていた。
不意に室内が暗くなり、次の瞬間、００９の座らされた椅子の周りだけが明るくなる。その光と影の狭間にクワイトが立ち、ニタリと笑った。
「さて……」
すっと右手を上げる。その瞬間、００９は叫んでいた。
「…や…やめてくれっ！」
そして、反射的に目を閉じ、歯を食いしばって、次に来るであろう苦痛に身構える。
しかし……。
何も起こらず、数秒が過ぎた。００９が恐る恐る顔を上げる。
沈黙。
「……ふむ」
００９をじっと見、クワイトが右手を降ろす。
「………？」
その様子を、００９は息を詰めて見守った。一縷の望み。けれど、それは次の瞬間、粉々に打ち砕かれる。ニタリと嗤い、クワイトは言った。
「心の準備をする時間をやろう」
（え…？）
恐怖の予感に慄きつつ、クワイトの様子を固唾を飲んで見守る。
「５分もあればよかろう？」
くるりとコンソールに向き直り、何やらキーを叩く。すると、００９の正面にある小さなスクリーンに数字が表示された。
『５：００』
（なにを……？）
クワイトが更に操作すると、コンソールの数字がカウントダウンを始める。
そしてクワイトは００９を振り返った。
楽しげな嗤い。
「５分後に……いや、もう４分５０秒か……装置が作動する」
（……な……？）
「これだけ時間があれば、心の準備をするには十分だろう？」
嘲るような口調。００９は言葉も無い。その視線が、数字に釘付けになる。
その様子を満足気に見、クワイトは扉へ向かった。
（…え……？）
扉の開く音に、００９がはっとする。
「…ク……クワイト様……？」
その瞬間、室内の総ての照明が消される。残った明かりは、カウントダウンしていく数字と、００９の真上に設置されている装置の放つ、幽かな青白い光のみ。
「よく、思い出しておくんだな、ジョー……」
嗤いを含んだクワイトの言葉。そして、扉が閉じた。
「クワイト様っ！」
００９が叫ぶ。しかし、もう遅い。
（あ………）
暗闇の中に取り残され、００９は身震いした。
クワイトは出ていってしまった。つまり、助けを求める相手は居ないのだ。
（……あ………）
吸い寄せられるように、視線は目の前のスクリーンに向かう。見たくなかった。けれど、見ずにはいられない。目を閉じて、いつくるか判らない『その時』を待つのは恐ろしすぎた。
容赦無く減っていく数字を見つめ、００９は絶望の呻きをもらす。恐怖のあまり、呼吸さえままならず、ただ、為す術もなく苦痛の訪れを待つ。バイスの基地の地下牢で、暗闇の中、苦痛の訪れを待った、あの時のように、一人で。
（……やめてくれ……やめてくれ……やめてくれ………やめ…て……くれ……）
００９は苦しげに喘いだ。けれど、助けを求める相手はいないのだ。全身がどうしようもない程に震えていた。瞬きすら忘れて数字を見つめる瞳から、涙が零れ落ちる。
（…た…すけて……誰か…たすけて……くれ……！）
そして、数字が０になる。
００９は悪夢の中に堕とされた。
苦痛。恐怖。孤独。絶望。
助けを求める相手が居ない。その事実が００９の心を追いつめる。
全身を駆け巡る苦痛。これが、いつまで続くのか？
いつまで耐えればいいのか？
答えは無い。
いや。
答えはある。
クワイト。
そう、クワイトの気まぐれだけが総てを決めるのだ。
悪夢から開放され、００９は目を開いた。
（あ……）
その視線の先に、クワイトが居る。００９は、ほっと安堵の息を吐いた。一人ではない。その事が泣きたくなるほど嬉しかった。それが例えクワイトであっても。いや、クワイトだから。クワイトであれば助けを求める事ができる。許しを乞う事ができる。クワイトこそが００９に悪夢を見せている張本人ではある。だが、同時に、００９を悪夢から開放することのできる唯一の存在でもあるのだ。
「いい夢だったか？」
からかうようなクワイトの声。それすらも、心地よい。
００９の精神は、狂気の淵に滑り落ちかけていた。
もう、何もかもがどうでもよかった。たった一人で苦痛を味わう恐怖から開放してくれるのであれば、クワイトの前にひざまづき、神と崇め、どんな命令にでも従える……そう思う。
（ふむ……かなり参っているようだが……どうかな？）
００９の様子を眺め、クワイトは腕を組んだ。
改めて、００９の様子を観察する。ぐったりと椅子に体を預け、言葉も無く荒い呼吸を繰返し、時折、苦痛の余韻に身を震わせているその姿からは、もうどんな抵抗の意志も失われているように思われる。
「ジョー？」
軽く呼びかけてみれば、涙に濡れ、脅え切った瞳が見返す。媚を含んだ、すがりつくような瞳。
クッとクワイトは嗤った。
（……だが、まだまだ、だな。今のこの状態も、結局は一時的なものだろうな）
ここまでに、００９は三度、決定的ともいえる形で屈している。
一度目は、クワイトの前にひざまずき、絶対の服従を誓った時。二度目は、タイラントを撃った時。そして、三度目が今回。
どれ一つ取っても、普通の人間なら決定打だ。完全に堕ち、最早逆らうなどという事を考えることさえもできなくなる。具体的な反応は人によるが、大雑把に分ければ二つに一つ。屈した自分を受け入れる事ができず、現実から逃避してしまう（要するに『壊れて』しまう）パターン。そして、自己防衛の為、それまでの自らを否定し、屈した自分を正当化する（要は『転向』してしまう）パターン。バリエーションは様々だが、結局は、このどちらかなのだ。
だが、００９はこのどちらの道も辿らなかった。屈した自分を受け入れ、けれど過去の自分を否定もせず、自らの罪を認め、それを償おうと、再び抵抗を試みる。絶望的な抵抗を……。
今回もそうだ。今この瞬間は、もう、どんな抵抗もできない。この状況下なら、どんな命令にも従うだろう。そうやって、仲間の情報も喋らせたのだ。けれど、一時の休息さえ与えてやれば、００９は再び無駄ともいえる抵抗を開始するだろう。
（……まぁ、そこが面白いのだがな……）
クワイトは楽しげに思う。
完全に意志を失った泥人形になってしまったのでは、面白味が無い。信念を手放せない００９が、苦痛への恐怖に負けて命令に従う、その葛藤がクワイトにとっては極上の音楽にも優る楽しみなのである。
００９が、自分の前にひざまづく度に屈辱を感じるからこそ、クワイトは００９を手放さないのだ。
（まぁ、今回はこのくらいにしておくか……）
コンソールを操作し、００９の戒めを解く。
「どうすれば、もっと効率よく拷問ができるか、判ったかな？ ジョー」
００９の様子を伺いつつ、クワイトは言葉を続けた。
「今回は一日半かかったが、次からはそんなに手間取るなよ」
（あ……）
００９の瞳に弱々しいながらも正気の光が戻る。
（……僕は……）
自分が何をしたのか、を思い出す。そう、クワイトに命じられるがままに拷問をした。相手に罪があったのかどうかは判らない。いや、組織に対する裏切行為をしたのだから、今の００９立場……Neo Black Ghost 幹部としての立場から見れば、裏切者には違いない。
だが……。
先刻までの自分の心の動きを思い、００９はぞっとした。あのまま狂気に身を任せていたら、クワイトに言われるがまま、次は何をしていたか……。
いや、今でもそうだ。クワイトには、結局、逆らえない。多分、この先も誰かを拷問する事になるだろう。そしていつか、かつての仲間を殺すのかもしれない。
けれど、だからといって正気を失う事が許されるのか？ そうして罪の意識すら持たなくなる事が、許される事なのか？ 苦痛に耐えてクワイトに抵抗し続ける事ができないのであれば、せめて、正気を失わずにいつづけるべきではないのか？ 己の犯した罪と、これから犯すであろう罪を自覚する事からだけは、逃げてはいけないのではないのか？ いつの日か、己の罪を贖うまで。
「行け」
クワイトの言葉に、００９はのろのろと身を起こした。渾身の力を振り絞って立ち上がろうとする。けれど、疲れきった体は思うように動かない。それへ、クワイトが嗤いを含んだ声をかけた。
「どうした？ まだ足りないか？」
からかうような口調。その言葉の意味するところは明白であった。
（…や……やめ…っ……！）
もう一度あの悪夢の中に堕とされるなど、考えたくも無い。００９は必死で首を振ると、死に物狂いで立ち上がった。残された体力と気力を振り絞って、扉を目指す。
その姿を、クワイトは満足げに見送った。
「ジョー！」
扉から出た途端、名を呼ばれ、続いて、よろめく体を支えられる。
（………タイラント…？）
その声が誰かを理解した瞬間、００９の緊張の糸がふと緩んだ。すうっと意識が遠のいていく。
（…あ……）
いけないと思っても、とうに限界を超えている００９に為す術は無い。
（駄目…だ……これ以上……タイラントに………）
自分にかかわれば、タイラントだって酷い目にあわされるかもしれないのだ。いや、既にあわされている。タイラントは自分に殺された。クワイトが銃からエネルギーを抜いておかなければ、間違いなく死んでいたのだから。
（…だめ……だ…め………だ……）
それでも。一度緩んだ緊張を再び取り戻すのは、不可能だった。
（……す……ま…な……い………）
そして、００９は気を失った。
扉が開き、００９の姿が見えた瞬間、タイラントは慌てて駆け寄った。
「ジョー！」
今にも倒れそうな００９の体を支える。
けれど、それに気付かないのか、００９はのろのろと足を動かし続けていた。
それを半ば抱き上げるようにして、顔を覗き込む。
「ジョー！ しっかりしろ、ジョー！」
何度か呼びかけたところで、やっと００９が足を止めた。
「…あ…………タ……………？」
掠れた声。
「…ジョー……」
ほっと息をつき、そしてタイラントは唇を噛んだ。
（……ひでぇ……）
憔悴しきった頬に、涙のあと。苦痛と恐怖の余韻は色濃く、虚ろな瞳は、開いてはいるものの、もう、何も見えてはいないらしい。乾いた唇が微かに動き、声にならない言葉をつづる。それを読んで、タイラントは小さくため息を吐いた。
（……『すまない』……か……）
００９の体からゆっくりと力が抜けていく。
（………）
完全に意識を失った００９をタイラントは痛ましげに見下ろした。怪我をしている左肩に負荷がかからないように００９を抱え直し、ゆっくりと振り返る。
そこに、クワイトがいた。
「……き…さ…ま……！」
ギリ…っと奥歯を噛みしめ、憎しみを込めて睨み付ける。その視線を、クワイトは心地良さそうに受け止め、ニタリと嗤った。
「言動には気を付けろよ、タイラント」
ククク…と嗤いながらクワイトは言う。
「あまり無礼な振る舞いをすると、ジョーはお前を殺さなければならなくなるんだからな」
「……！」
やむなくタイラントは罵倒の言葉を飲み込んだ。
そう。クワイトは何時なりと００９に命令できるのだ。『タイラントを殺せ』と。それに対する００９の答えは判っている。拒否、だ。００９にそんな事ができる訳がない。そして……。
（…ちっくしょーめが！ ……何もかも……てめぇの思い通り…かよ！）
００９に逃げ場は無い。そして、自分にも。００９を見捨てる事ができない以上、逃げ場は無いのだ。
（くそっ！）
歯を食いしばって煮えくり返る想いを押しやり、タイラントは踵をかえした。クワイトの視線を背中に感じつつ、その場を後にする。
それを見送るクワイトは、この上も無く楽しげであった。
ウィッチから指示を受けていたのか、００９を抱えたタイラントが医療センターに入った途端、見覚えのあるスタッフが出て来た。そして、タイラントを先導して病室に案内する。
「寝かせておいてください。すぐに、ウィッチを呼びますから」
医療スタッフがそう言うのへ頷き、タイラントは、００９のマントを取ると、靴を脱がせてベッドに横たえた。それを確認して、医療スタッフは足早に部屋を出ていった。
肩の傷に注意しつつ上着を脱がせ、まかれた包帯を外してそっと触れてみて、タイラントは唇を噛んだ。
「………」
治療はされているから見た目には何の傷も無い。しかし、そこは熱をもっていた。完全に生身であれば、酷く腫れているところだろう。
と、そこへ扉を開け。白衣姿のウィッチが入ってきた。
「待たせたわね」
短く言って、００９を覗き込む。そして、左肩に視線をやると、ため息を吐いた。
「………。答えの予想は付いてるけど……一応、聞くわ。私が渡した薬を最後にうってから……どのくらい？」
「……そろそろ２日…だ……」
やれやれ、とウィッチが首を振る。そして、壁際のインターフォンを取ると、スタッフに指示を飛ばした。
☆
覚醒の衝撃。体を何かに掴まれて無茶苦茶に振り回されるような不快感。気のせいか日をおう毎に徐々にきつく感じられるようになってきたそれに、００９は悲鳴をあげた。何かを振り払うように頭を振り、寝返りを打つ。
これまでの経験から、じっとしていた方がいくらか耐え易い事は分かっていた。だが。そんな事を思い出す余裕も、黙って耐える余裕も、００９には無かった。
と。
不意に何者かに押さえつけられる。どんなにもがいてもビクともしない。
やがて。徐々に不快感が引いて行き、００９は大きく息を吐いた。
目を開く。
（…こ…こは……？）
「ジョー」
声をかけられ、００９は反射的にそっちを見た。
「…タイラント……」
呟くように言い、半身を起こす。
「だ…大丈夫か…？」
慌ててタイラントがその体を支えた。
そうやって体を起こし、周囲を見回して、やっと、ここが医療センターの病室らしい事に気が付く。それと共に、徐々に現実感が戻ってくる。手足の存在が意識され、左肩の鈍痛と全身のだるさが自覚される。そして、気を失うまでの経緯、クワイトの言葉、悪夢、自分が命じた拷問……。
「…あ………」
（……僕…は……！）
堰を切ったように様々な記憶が蘇る。後悔と絶望と恐怖と……様々な想いが心の内に吹き荒れ、感情の制御がきかない。喉元にこみあげてくる熱いもの。それを、吐き出してしまいたかった。
「ジョー？ どうした……」
心配げなタイラントの声。その声に００９はハッとした。
（…駄目…だ……）
タイラントに取り乱した姿を見せる訳にはいかない。そんな事をすれば、タイラントはますます心配し、そして、この自分の為に危険をかえりみずに行動してくれてしまうだろう。今でさえそうだ。自分を迎えに来て、医療センターに連れてきてくれたのは、間違いなくタイラントの筈だ。だが、クワイトの許可や指示あっての行動とは思えない。
（……駄目だ……！）
「ジョー？」
肩に手をかけて体を支えてくれているタイラントの腕を、右手で軽く押しやり、００９は俯いた。
「…頼む…一人に…させ…て……」
気力を振り絞ってそう言いかけ、けれど、００９は最後まで言葉を続ける事が出来なかった。視界が歪み、ぱたり…と音をたてて涙がシーツの上に落ちる。
「…っ…ぅ……」
００９は歯を食いしばった。これ以上何か言おうとすれば、もう言葉ではなく鳴咽が零れそうで、口を開くことが出来ない。全身が小刻みに震えているのが自分でも判る。けれど、どうしようもなかった。泣き喚かないように自分を抑えるだけで精一杯で、それもいつまで持つか、自信がない。
「……ジョー………」
溜め息のようなタイラントの声。
そして、不意に００９は抱き寄せられた。
（…な……？）
｢…ジョー、俺なんかの前で泣くのが、お前にとっちゃ屈辱的だってのは…判ってる………」
００９の頭を自分の胸にもたれさせ、タイラントは言葉を続けた。
「…けどな……けど、放っておけないんだよ…お前を……悪い……」
（…あ……）
もう、００９にはタイラントの言葉の意味を考える事など出来なかった。抱きしめられる、その安堵感は００９のなけなしの自制を吹き飛ばすのに十分過ぎる程の力を持っていた。
「…ぅ…ぁ…ああああああああ！」
喉元で辛うじて押えていた熱いものが、鳴咽と涙とになって溢れ出る。タイラントに抱きしめられたまま、００９は泣き叫んでいた。何も考えられず、ただ泣きじゃくる。それをしっかりと抱きしめ、タイラントは目の前の壁を睨み続けた。
☆
タイラントの朝は早い。早いと言っても、外界から隔離されたここでは『時刻』はあまり意味が無い。それを言うなら『朝』という言葉そのものが、大した意味を持たない。
それはともかく。タイラントの従う時刻、すなわちクワイトの支配する区画での時刻による『早朝』、００９が起きるよりも早い時刻にタイラントの一日は始まる。
ラウンジへ行ってコーヒーを飲みつつ軽く朝食を食べ、００９の部屋へ行く。教えられたキーナンバーを使って鍵を空けて入り、００９がまだ起きてないのを確認して、タイラントは安堵の溜め息を吐いた。
部屋のキーナンバー。００９にこれを白状させるのは、まったく一苦労だった。『これ以上、君に迷惑をかけたくない』と主張し、頑として教えようとしないのを、脅したりすかしたりすること一時間以上。解っていた筈だったが、こうも手強いとは！ 実際、それなりに親しくしている自分が、こんな些細な事を聞き出すにも苦労するのだから、『敵』が００９から情報を引き出すのにどれほど苦労したかは推して知るべし、などと思ってしまったタイラントであった。
（…結局、泣き落としが一番効く……てぇのが解ったのが、収穫っちゃ収穫だったな……）
どうあっても喋ろうとしない００９に精根尽き果て、途方に暮れ、ヤケクソになって『泣き』の手に出た途端。それまで頑なな態度を貫いていた００９が、一転して困ったような表情を見せ、そして、何度も躊躇いつつも、とにかく教えてくれたのだった。
（……まったく…無茶苦茶甘い奴だよ……）
まぁ、まさかこの手で仲間の情報を聞き出したりはできないだろうが……と思い、タイラントは首を捻った。
（いや…コイツだったら、ありうるかも……）
儚げな少女に涙ながらに訴えられれば、何でも喋りかねない、と思う。たとえ『敵』と解っていても、目の前で泣く者を放っておけるとは思えない。
（強い者には決して屈しないが、弱い者には無条件降伏……か）
それはタイラントをはじめとする、Neo Black Ghost に属する者達の行動規範とは全く逆であった。
（ジョーの一番凄いところは、多分……）
弱い相手に無条件降伏できてしまうという点だ、と思う。強い相手に屈さない。これはこれで凄い事だ。これだけでも十分過ぎるほどに凄い。
だが。
弱い相手に対して、総てを許せてしまう……というのは、それとは次元が違う。
（コイツには、ひょっとすると『敵』とか『味方』とかってのは、無いのかもな）
００９にとって、世界には『弱い者』と『強い者』がいるだけなのだろう。そして、『弱い者』とはどういう者かといえば……自らを守れない者、助けを求めている者、泣いている者、困っている者、不幸な者…およそ、ありとあらゆる者がその対象に違いない。だから、たとえ『敵』であっても、弱い者であれば、それは『守るべきもの』なのだろう。そう思い、タイラントは溜め息を吐いた。
（……難儀な生き方だぜまったく！）
つまり００９にとってはこの自分も『守るべき』相手なのだと思い、タイラントは天井を見上げた。
（今は、お前が一番…助けが必要だろうが！）
押さえつける腕の下で、００９が激しくもがく。それを、怪我をさせないよう、苦痛を与えないよう、細心の注意を払いつつ押さえつけるのは、骨の折れる作業だった。
（くそっ！）
００９が、目覚めの度にひどく苦しむ原因が、額のリングだと見当を付けるのに、大した思考は必要としない。そして、そうだと思ったところでタイラントはクワイトに詰め寄ったのだった。『何とかしろ』と。無論、実際にはそんな命令口調で言う訳にもいかず、必死で下手に出はしたが……。
クワイトの返事は簡単明瞭であった。
『不可能だ』
殴り掛からんばかりのタイラントを面白そうに眺めつつ、クワイトは言った。
『やらん、とは言って無いだろう。不可能だ、と言ったんだ』
何故だ！ お前の技術力はそんなものか！ と（勿論、もう少々ソフトな表現で）言いつのるタイラントにクワイトはこう説明した。
『睡眠からの覚醒というのは、脳にとってかなりの衝撃なんだ。だから、本来は深い眠りから浅い眠り、ごく浅い眠りを経て、人は目を覚ます。この、浅い眠りの時間が夢を見る時間だ』
だが、００９には夢を見せるわけにはいかない。見れば、悪夢なのだから。
『あのリングは、目覚めさせる為に、深い眠りから一気に覚醒状態にもっていく。その結果、脳はかなりの衝撃を受ける。やむを得ない事だ。それともう一つ。目覚める直前に、レム睡眠に相当するような作用を及ぼすようになっているのも原因の一端だろうな』
何だそれは、と言いたい気なタイラントに、クワイトは、説明するのは面倒だと言った。どうせ理解できないだろうしな、と。
『とにかく、原因は解っている。だが、その原因を取り除く事は不可能だ。放っておけ。体力や気力があれば多少の不快感で済むし、どっちにしろ、死ぬことは無いだろうからな』
そう言って嗤い、クワイトは付け加えた。
『まぁ、死んだら死んだで、興味深い実験結果だ』
と。
それで、唯一の対処方法というのが『なるべく暴れないでじっとする』だと言われたタイラントは、こうして毎朝００９の部屋へやって来ては、目覚めるまでの数分間、頭と体とを押さえつけているのであった。
微かなうめき声。
抵抗がなくなったのを見計らって、タイラントが手を放す。
「ジョー？」
そっと呼びかける。それに答えて茶の瞳が開き、タイラントはほっとした。
ぼぅっとしている００９をそのままに、用意しておいた栄養剤の注射を打ち、手早く点滴のチューブを繋ぐ。
これも、もう毎日の事だった。
あの日。クワイトの命令に逆らえず、裏切り者の拷問をした『あの日』以来、００９は何も食べられなくなった。水を飲むことすら、できなくなった。事実を知ったタイラントが血相を変えて『死ぬぞ』と叫ぶのへ、００９は『解っている』と答えた。『食べようとしてるんだ』でも『食べられない』と。真剣な表情で。
冗談事では無いらしい、と気づいたところでタイラントは００９を連れて医療センターに駆け込んだ。
呼び出されたウィッチは、タイラントの話を聞き、００９の話を聞き、一通りの診察をした。それからスタッフに点滴を指示すると、タイラントを廊下に連れ出して、言ったのだ。『私の管轄じゃあ、ないよ』と。
『機能的な問題は何も無いわ。とすれば、精神的な問題でしょうね』
戸惑うタイラントに溜め息を吐き、ウィッチは言葉を続けた。
『どこまでニブいんだい、あんたは。まったく、一体どこに目を付けて何を見てるんだか……』
嘆息。
『死にたいのよ、ジョーは』
なんだって？
『違うとでも思ってたの？』
言われてみれば、確かに思い当たることはある。いや。良く考えれば、死にたいと思わない方が不思議なくらいだ。
『だけど、ジョー自身は、その気持ちを否定している。それは許されない事だと、思ってる。で……』
意識と無意識の葛藤。その結果だろう、とウィッチは言った。
『まぁ、専門外だから何とも言えないけどね。クワイトに尋いたら？ 彼のほうが専門よ』
ウィッチが言うのへ、冗談じゃない、とタイラントは呟いた。
以来、栄養剤の注射と水分補給用の点滴をするのはタイラントの仕事になった。００９は自分で出来ると言ったが、ウィッチはそれを却下した。曰く。
『悪いけどね、ジョー。この件については、私はあんたを信用しないわ』
僅かに目を細め、ウィッチは言葉を続けた。
『これは、あなたを死なせたくないと思ってる人間がやるべきよ』
その中に本人は入っていないのだ、と暗に指摘する言葉。一瞬、００９の瞳に動揺の色が浮かぶ。物問いた気なその瞳に、ウィッチが僅かに首を振る。そして。
『とにかく、主治医の決定よ。従いなさい』
きっぱりとそう言って、ウィッチは話を打ち切ったのだった。
「ジョー……」
ぼんやりとした瞳で天井を見るともなく見、されるがままになっている００９に不安を感じてタイラントが声をかける。これもまた、毎朝の事だったが。
「あ…すまない……タイラント……？」
掠れた声。向けられた瞳の中に、相変わらず強い光が潜んでいるのを確認して、タイラントはほっとする。
（いや、ほっとしちゃいけないのか……？）
一体、自分は何を望めばいいのだろうか？ とタイラントは想う。００９が助かる事を望んではいるものの、実際問題として、具体的に何を願えば良いのか？ そして、何をすれば良いのか？
（俺は……俺に…何ができる？）
友として、何が出来る？
その問いへの答えは、タイラントには判らなかった。
☆
タイラントの夜は忙しい。
早い時間に自分の勤務を終え、一旦自室に引上げて軽く休息をとる。それから、００９が勤務を終える時間を見計らって部屋に向かう。これもまた日課だった。
背後で扉が閉まった途端、００９がよろめく。
「…っと……」
前のめりに倒れていく体を、タイラントは手慣れた風に支えた。
ぱたぱたと軽い音がして、床に滴が落ちていく。
涙だった。
「…ぅ…ぁ……あ…」
僅かに緊張が緩んだ瞬間、００９は総てのコントロールを失っていた。虚ろな瞳から、壊れたように涙があふれ続け、そして……。
「ぁぁあああああっ！」
言葉にならない苦悩が鳴咽となって迸る。
弱々しく首を振りながら泣き喚く００９を、タイラントはただ抱きしめていた。
無言で。
掛ける言葉がみつからなかったし、何を言っても、今の００９には届かない。
この瞬間、００９は完全に狂っていた。
なけなしの体力を総て使い果たし、気を失った００９を抱えあげ、ベッドに寝かせる。栄養剤をうち、点滴のチューブを繋ぎ、そして、タイラントは深い溜め息を吐いた。
（……こんな事が…いつまで続くんだ…？）
絶望的に想う。
こうして００９を寝かせるのもまた、タイラントの日課となっていた。その度に思う。今日こそ、完全に狂ったか、と。
それでも。
翌朝目覚めると、００９は正気を取り戻している。そして、部屋を出て勤務に就けば、一分の隙も無く振る舞うのだ。それが痛々しくて、とても見ていられなかった。
ふと気付けば、信じてもいない神に祈っている。
（くそっ……）
自分の方が先に発狂しそうだ、とタイラントは思った。
☆
クワイトの台詞に００９は息を呑んだ。
「……降伏…勧告……」
その００９を楽し気に見つつ、クワイトは言葉を続ける。
「そうだ。いつまでも００ナンバーどもを放っておく訳にもいかないだろう？ まぁ、幸い……と言って良いのかどうかはともかく、居場所は分かっている。そこで、とりあえずは降伏勧告でもしてみよう、という事になった訳だ」
考えておくべき事だった。そう、Neo Black Ghost にとって、００ナンバー達は厄介極まりない『敵』なのだ。当然、何とかして排除しなくてはならない。これまで００９は排除される側だったが、Neo Black Ghost 幹部となった今、００ナンバー排除の任務が自分に回って来たとしても、不思議でもなんでも無い。むしろ、今までそんな話が出なかった方が、考えてみれば、不思議と言える。
「……俺に…その……降伏勧告を………」
しろ、というのがクワイトの要求だった。
（そんな……）
００９は唇を噛んだ。もう戻れないとは言え、かつての仲間の前に『敵』として立つのは嫌だった。
だが。
嫌だと言えば、クワイトがどうするか。それを考えただけで、体が震える。良くても、悪夢の中に堕とされ、悲鳴を上げる事ができなくなるまで苛まれるだろう。悪くすれば額のリングを取り上げられ、地下牢に入れられる。
それでも。
（…嫌……だ……）
クワイトが嘲笑い、藍の瞳が興味深げに細められる。
そして、不意にクワイトは言った。
「怖いのか？」
（え？）
突然な言葉に００９がハッとする。
「かつての仲間に『裏切り』を知られるのが、怖いのか？」
（…あ……）
考えてもいなかった事を言われて愕然とする。言われた言葉の意味が判らずに、思わず顔を上げてクワイトを見る。
その、戸惑ったような瞳を覗き込んで、クワイトは嗤った。
「違うのか？ お前は、かつての仲間から『敵』として認識される事を恐れているのではないのか？」
（……あ………）
徐々にクワイトの言葉が染み込んできて、００９は納得した。
（…ああ……そう…なんだ……）
これまで自分は、Neo Black Ghost に屈する事を、二度と仲間の下に帰れなくなる事としてしか認識していなかった。だが、それは物事の半分だけであって、もう一つの側面があるのだ。残りの半分というのが、つまり、かつての仲間から『敵』と認識されるという事なのだった。
（……僕は…それを…敢えて考えないように…して…たんだ……）
考えれば。ちょっと考えさえすれば、すぐに判る事だ。仲間を裏切って、その『敵』となれば、当然、向こうからも『敵』と見做される。
それが、嫌だったのだ。
（…勝手だ…な……）
自嘲。なんて自分は馬鹿なんだろうかと思う。
（……みんなは…まだ…心配……してるんだろうな……。こんな…僕の事を……）
自分はこうして屈してしまったというのに、仲間達はそれを知らず、この自分を助けようと必死の捜索をしているのに違いないのだ。どんな目にあっているかと心配し、憤り……。
そして、００９は更に恐ろしい事態に思い至った。
（……そう…だ……。Neo Black Ghost 側としては、僕を捕らえていると、僕を殺されたくなければ投降しろと、そう言う事も出来るんだ…！）
そんな事になれば、何も知らない彼等は苦悩する事になるだろう。そして、自分を見捨てる事ができず……。
（駄目だ！ そんな事をさせる訳にはいかない！）
教えなくてはならない、と思う。もう、自分が彼等の仲間ではないと。もう、この自分を助ける為に危険を冒さなくても良いのだと。
「どうした？」
きつく唇を噛み、内心の想いに決着をつける００９に、クワイトが問い掛ける。それへ、００９はゆっくりと答えた。
「……します……。００ナンバーへの…降伏勧告を……」
それが、自分が彼等の仲間としてできる、最後の事だろうと、００９は思った。
☆
「ジョー、出かける。ついて来い」
執務室に呼び出された００９が、ひざまずいて用件を問う間もなく、クワイトはくるりと背を向けて歩きだした。００９が慌ててその後を追う。
（……一体…何を……？）
いつになく楽し気な様子のクワイトに、００９は不安を募らせるばかりだった。
クワイトと００９だけを乗せたオートパイロットの高速ヘリは、何処かへ向かう。
（…どこへ……？）
Neo Black Ghost 本部に連れられて来て以来、外へ出るのは初めてだった。勝手に外へ出る事は、禁じられている。それは無論、本部の位置を知られないようにする為の手段だったのだが……。
（…いいのか…？ こんな事をして……）
頭に叩き込んだ規定のどれをあたっても、これは重大な違反だ。まぁ、クワイトがあらゆる規定に縛られない存在だ、というのは判っているものの、目的がさっぱり判らない。
単なる気まぐれか？ 何しろクワイトのやる事だ。そうであっても驚くにはあたらない。だが、それにしては危険が大きい。という事は、やはり何らかの意図があるのだろうが……。
砂漠の真中に、高速ヘリはふわりと着地した。
クワイトが降りる。やむなく００９も後に続いた。
熱い太陽。
熱い砂。
足元を、微かな風が吹き抜ける。
（ここは…何処だ……？）
００９はぐるりと周囲を見回した。
だが、どちらを向いても、砂、砂、砂……。現在位置の手がかりになりそうなものはない。溜め息を吐き、００９はクワイトの姿を探した。
ヘリから数十メートル離れた所に立ち止まって、クワイトは地平線を眺めていた。地を這う風が、白衣の裾をはためかせる。
沈黙。
そして、不意にクワイトは嗤いだした。
「…くっくっくっ………ははははははは…！」
始めは低い嗤い。やがて、哄笑。
ゆっくりと振り返り、００９の視線を捕らえる。
そして、ニタリと嗤った。
「用は済んだ。帰るぞ」
一体、何をしに来たのか。００９には全く判らなかった。