Ａｃｔ．８ 襲撃 −シュウゲキ−
アファオ山中 Neo Black Ghost本部
Neo Black Ghost 本部には、通常の基地と違って、基地司令は居ない。総裁が、基地の最高司令官なのだ。
だが。実際問題として、基地の防御機構を管制する司令室に総裁が詰めている訳にはいかないのは、当然だった。総裁にはもっと重要な仕事が沢山ある。基地を運営管理するような些末事にかかずらわっている程、暇ではないのだ。そしてまた、本部の構造そのものも、一人の基地司令によって統括されるようには出来ていなかった。
中央区画と、それを取り巻く１２の独立した区画によって構成されている本部は、『組織の集合体』である Neo Black Ghost の構造を反映しているかのようだった。
各周辺区画は、その一つ一つが完全に独立しており、小さいながらも動力室やコントロールルーム等の設備をも有している。また、区画内時刻も各々で異なっており、一口で言うなら簡易版の基地だった。中央区画との出入り口も一個所に限られているから、その気になれば周辺区画の一つにたてこもる事も可能である。もっとも、外部との出入りをするには、どうしても中央区画を通らなくてはならないのだが。
そして、上級幹部は周辺区画のうちの一区画を、自らの支配領域として与えられるのが常であった。独自の組織を持ち、おそらくは本拠地も持っているだろう上級幹部達だが、Neo Black Ghost 内での居城はそこになる。もっとも、ザイラスやクワイトなどの一部を除けば、実際に本部に居るのは全権を任された代理人で、本人が居る事は、まず無かった。
それには、無論の事、理由がある。
彼ら上級幹部達は、己の組織のトップであり、また、多くの拠点をも持っている。そして、自分の組織だけでは成し得ない事を行う為、やむなく Neo Black Ghost に属しているのだ。だから、上級幹部達は、同志であると同時にライバルでもあるのだった。隙あらば他の者を失脚させ、その支配領域を我が物にせんと、お互いに狙いあっているのだ。こういった上級幹部同志の闘争を、総裁は黙認している。無論、Neo Black Ghost としての不利益に発展しない範囲での話だが。
それ故に、本部に居る事は（様々な利点もあったが）、危険を伴った。そこで、大概の上級幹部は、自分自身は己の組織の拠点に居て、本部には代理人を送り込んでいるのである。
では、本部に住み着いているザイラスやクワイトはどうなのかと言うと、彼等は『表の顔』も『独自の組織』も持たない。その為、上級幹部同志の闘争とは無関係でいられるのだった。表の社会から、失踪や死亡という形で姿を消した彼らは、まさに幽霊そのものだ。Neo Black Ghost という組織自体の維持を担う彼らこそを、真の Neo Black Ghost 構成員と言うべきかもしれない。バイスやクライム、ディグ等、組織の軍事面を担当する幹部は、皆、このパターンになる。また、組織が抱える多くの研究者達、ウィッチやアルグ、その配下のスタッフもそう。無論、一般戦闘員達も、こういった『幽霊』組であった。
さて。
そのような事情で基地司令の居ない本部だが、だからと言って、基地司令が為すべき仕事までもが無くなる訳では無い。それに、周辺区画はともかく、中央区画の維持管理の責任者が居ない訳にはいかない。
実際、中央区画には、大会議室や医療センター、動力炉や武器庫、はたまた一般兵士達の居住エリアや外部との出入りをする為の離着陸口など、様々な重要施設がある。防衛機構を管制する司令室もあり、外部からの攻撃を受けた場合には、誰かがそこで指揮を執らなくてはならない。
だが。そうであれば尚更、この中央区画の管理を特定の誰か一人に任せる訳にいかないのであった。故に、司令室には上級幹部の副官（本部に居るのが代理人であれば、その側近の誰か）達が、交代で基地司令代行として詰めるよう定められていた。
そして今、司令官用の椅子に座って、つまらなそうに司令室の中を眺めているのは、ザイラスの副官、クライムであった。
「…現在時刻は？」
誰に、ともなくクライムが問う。それへ、オペレーターの一人が答えた。
「……１４：２１です」
（交替まで、あと半時間強…か。やれやれ…。次は、誰だ……？）
傍らのコンソールを億劫そうに操作し、勤務予定表を眺める。その途端、クライムの表情が変わった。ニッ…と笑う。
（……ほぉ、ジョーか……）
引き継ぎ時に司令官不在の『空白時間』が出来ないようにする為、次の者の勤務開始時間は、前の者の勤務終了の三十分前からと決められている。だから、００９は好むと好まざるとにかかわらず、三十分間、ここでクライムと一緒にいなくてはならないのだった。
（いっちょ、あいつをからかって遊ぶか……）
序列上、００９はクライムより高い地位にある。なにしろ、総裁以外、他に並ぶ者なき組織ナンバー２の副官なのだ。クワイトの許可さえあれば、００９はクライムを射殺することもできる。
だが。００９は何を言われようが、何をされようが、決してクワイトに告げ口しない。クワイトも、表立っての事でさえなければ、００９に対する嫌がらせは黙認している。
（……というよりも、面白がってる風だよな、あの狂人は……）
結局、副官とは名ばかりで、本当のところはクワイトのおもちゃなのだ。
（それにな……）
クライムはほくそえんだ。
（今日は面白れぇネタがあるんだぜ……）
数日前の事だ。クライムの所へ、突然、クワイトがやって来たのだ。何事かと動転するクライムに、クワイトは言った。『この間の礼に、面白いことを教えてやろう』と。
不審と不安の入り交じった表情で立ち尽くすクライムを見つめ、言葉を続ける。
『バイスを殺したのはジョーだ』
『え……？』
『記録には載せてないがな』
くくく……とクワイトが嘲う。
『もっとも、半分はバイスの自殺だったようだが……』
そしてクワイトは、００９から聞き出した一部始終を語って聞かせたのであった。
シャッ……
軽い音を立てて、司令室の扉が開く。そして、黒い服を着、黒いマントを肩から垂らした００９が入ってきた。その背後に続くタイラントの姿に、クライムが内心で舌打ちする。
（……ちっ…オマケ付かよ）
無抵抗の００９に対し、タイラントは、その何十倍も剣呑だった。無論、一介の戦闘員でしかないタイラントに、上級幹部の副官に対して無礼な振る舞いをする事が、許される訳はない。
だが。
それもこれも『規則の上』での話。うっかり逆上させて殺されては、後でタイラントが処刑されようが、意味が無い。
無論、クライムとて戦闘員の数の内。ザイラスの護衛でもあるから、それなりの心得も腕前もある。けれど、所詮は生身なのだ。サイボーグ、しかも、あのウィッチが手ずから改造手術を施した、組織内でも屈指の戦闘力を持つタイラントに、太刀打ちする事なぞ到底不可能だ。
実際、既に一度、クライムは殺されかけている。００９が危うい所で間に入ってくれたおかげで怪我一つ負わなかったものの、生きた心地がしなかったのは事実で、それ以来、クライムはタイラントを警戒していた。
（…ったく、一人で来いよな……）
内心で毒づく。だが、一応、口には出さない。何故なら、『規則通り』なのだ。
００９は、『司令室に詰めている間の私用を果たす為、部下一名を伴う事』という規則を忠実に実行しているにすぎない。むしろ、誰も連れずにやって来て、勤務中のオペレータにコーヒーを取りに行かせたりしているクライムの方が、規則違反なのだった。
（……にしても……）
これは、一度ザイラスに進言する必要があるかもしれない、とクライムは思った。クワイト、ウィッチ、００９、タイラント。この四人の関係は、少々警戒を要するのではないか？
組織の『頭脳』と言われるクワイト。軍事力の大半を占めるサイボーグ兵達の密かな支持を集めている、生体学者にして医師のウィッチ。そのウィッチが手がけた『作品』であるタイラント。
そのタイラントが、００９に影のように付いて歩いているというのが、問題だった。
００９は単独でも恐ろしく強い。そして、実は一般兵士達にも人気が高いのだ。これはかなり危険な事だった。ウィッチならいい。たとえ支持を集めたとしても、所詮は戦いを知らぬ科学者。兵達を指揮統率して反乱をする、などという事は不可能だ。だが、００９は違う。実戦経験も豊富だし、少ない人数とは言え、仲間を率いて戦う事を知っている。とはいえ、部隊を指揮した経験はないだろう。ところが。タイラントにはそれがある。実戦部隊からの叩き上げであるタイラントは、戦闘部隊隊長としての指揮能力も高い。もし、００９とタイラントが組んで反乱でも起こしたら……。そして、それがクワイトの指示のもと、ウィッチのサポートを受けての事だったら……。
（現在の Neo Black Ghost の軍事力は、80％以上をこの４人が握ってる…と見ても過言じゃないだろうからな……）
ザイラス配下の勢力なぞ、ひとたまりもないだろう。
（まずい…よな……）
「……ドクター・クワイトの副官、ジョーです。１４：３０より、任務につきます」
型通りの敬礼をし、お定まりの台詞を無表情に言う。それへ、椅子に座ったまま、クライムはぞんざいに頷いた。
「ご苦労」
００９がつとコンソールに歩み寄り、鮮やかな手つきでキーを操作しつつ、データ確認に取り掛かる。タイラントは、クライムを軽く睨みはしたものの、とりあえずは黙ったまま壁際に控えた。
それを視界の端で確認すると、クライムは立ち上がって００９に近づき、声をかけた。
「よぉ。肩の怪我は、どんな具合だ？」
００９は答えない。黙ったまま視線を画面に落とし、データの確認を続けている。
「……ったく、相変わらず愛想の悪い奴だな」
そう言って、クライムは００９の顔を覗き込んだ。００９の視界には、当然、クライムのその動きが入っている。だが、眉一つ動かす事無く、完璧にそれを無視していた。
（取り澄ましやがってまぁ……）
ふん、と内心で嘲う。
（けどなぁ、ジョー……。お前にゃぁ、泣き顔の方が似合ってるぜ）
地下牢に叩き込まれ、泣きながら哀願していた時の姿を思い出し、クライムは嘲う。
そして。
タイラントが壁際でおとなしくしているのを再度確認し、クライムは言った。
「なぁ、ジョー。バイスを殺ったのって…お前なんだってなぁ？」
傍目にも解る程に、００９は身を強張らせた。コンソールを操作する手が止まる。
「知ってたか？ バイスは俺の同僚だったんだぜ」
無論、知っていた。組織上層部の人事情報は、副官として記憶しておくべき事項だったから。
見せられた資料の中には死亡した者や処刑された者のデータも含まれていて、その中にバイスの名前もあった。『００ナンバーとの戦闘時に行方不明』そして『００９の供述により、死亡を確認』と。
誰が殺したのかについては書かれていない。だが、００９はクワイトに吐いている。自分が殺した、と。殺すに至る一部始終も、あらいざらい吐かされた。心の内の葛藤に至るまで、すべて。
（…くっ……）
００９は目を閉じて唇を噛んだ。
バイスの死について問われる事は、仲間の事を問われるのとは意味合いが違っていた。その一件について、口を閉ざさねばならない理由は、全く無かった。
だた、『言いたくない』だけで。
そう。００９は言いたくなかったのだ。それは思い出したく無いからであり、その事を考えるのが恐いからでもあった。冷静に考えれば、アレがバイスの自殺行為だった事は解る。解っていた。
今更、他人の命を奪うことに悔悟の念を抱いても仕方ない。これまで多くの『敵』と戦い、倒してきた。それはつまり命を奪ったという事で、常識的に考えれば、殺人だ。
けれど。それは常に、相手か自分のどちらかが死ななくてはならない『戦い』の中での事であり、何かを守る為であり、誰かを助けるためだった。
だが。バイスを殺した事に何の意味があったのか？
バイスからは、殺気が感じられなかった。つまり、バイスには自分を殺す気はなかったのだ。それが解らない００９ではなかった。そして。バイスがディグを撃った時、彼の持っている銃が単なるパラライザーだという事も、００９には解った。
だが、００９はバイスを撃った。
それは恐怖からであり、憎悪からでもあった。
バイスが自分に銃を向けた。それを『口実』として、自分はバイスを殺したのだ。それを認めるのが恐くて、００９はその一件を無意識に記憶の彼方に押しやろうとしていたのだった。
自分が憎しみのままに他人を殺せるのだという事。その事を、認めたく無かったのだ。
クワイトは言った。『お前は天性の戦士だ』と。
改めてクワイトに言われるまでも無く、００９自身、その事に薄々気付いてはいた。００４から指摘された事もある。いつの事だったか、００９が深い催眠状態に陥った時があった。００４はその状態の００９と遭遇し、殺されそうになった。『ハッキリ言って、絶対に勝てないと思った』と後になって００４は述懐している。総ての禁忌を忘れ、戦う機械になりきった００９は、とてつもなく強く恐ろしかった、と。
『お前にゃ素質があるんだ。敵にまわられちゃあ、堪らんな』
味方で良かったよ、と溜め息を吐く。
『実際、普段からあの半分でも力を発揮してくれたら、俺の出番は、まぁ、無いだろうな』
全身武器の自称『死神』は、そう言って肩をすくめたのだった。
それ以来、００９は益々戦いを忌むようになった。無論、戦わない訳にはいかなかった。だから、００９は自分が戦う理由を厳重に限定した。『守る為』に。それ以外の戦いは、しない。その為だけに戦おう、と。そして逆に、その為の戦いでは、努めて迷いを断つようにした。感傷を捨て、戦う機械になりきるように心がけた。それで少しでも仲間達の負担が減るのであれば、そうすべきだと思ったからだ。
そして、数少ない平時には、『サイボーグ』としての力の使い方について、ひたすら考え、練習した。
そうしてみると、サイボーグである自分の、反則的なまでの強さが分かってくる。
いかに戦いの才に溢れた者でも、生身である限りは、その才能を発揮する前に、まず、己の肉体を鍛えなくてはならない。日毎の鍛練を怠れば、生身の筋肉はあっという間に衰える。そうやって鍛えても、結局、老化は避けられない。
それに比べて自分は、と００９は思う。何一つ努力をしなくても、人工筋肉は必要な時に必要なだけの力を与えてくれる。どんなに怠惰な生活をしても衰えること無く、老化とも無縁だ。望めば望んだだけの（無論、理論的な限界値はあるにしても）力を揮う事ができる。そしてまた、一度できた動きのデータは人工副脳に記録され、忘れる事は無い。生身の人間なら『もう一度』は出来ない様な、極限状態での紙一重の技であっても、サイボーグの自分は、一度できさえすれば、何度でもできるのだ。やり方を自分の脳で覚えておく必要さえ無い。望めば『サイボーグ体』がすべてをやってくれる。
反則だ。
００９は思う。どう考えても反則だ。
だが。そう思ったからといって力が無くなる訳ではない。そしてまた、現実的な問題として、この力が必要でもあった。皮肉にも、それを自分に与えた『悪』と戦う為には。
『サイボーグ』としての戦闘能力を、『人間』としてコントロールする。それは、とてつもなく困難な道だった。目隠しをして断崖を歩いているようなものだ。だから、００９は常に悩み惑い……００２や００４などは、それがもどかしくて仕方が無いようだった。
それでも、００９は悩み続けた。悩まずにはいられなかった。
００９は戦い自体を恐れた事は無い。敵を恐れた事も。苦痛も死でさえも、００９にとって恐怖の対象ではなかった。恐れたのは、守るべきモノを守り切れない事と、守るべきモノを自らが傷つけてしまうこと。
そう。００９が最も恐れたのは、『００９』という名の戦闘用サイボーグだった。
「ま、当時は敵同志だった訳だしな、別にどうこう言うつもりはねぇが……」
さりげなく言いつつ、クライムは００９に詰め寄った。
「どう殺ったんだ？ 教えろよ」
手を伸ばし、甲で軽く頬を叩く。
「嬲り殺しにしたか？ お前がされたみたいにさ」
勿論、００９がそんな事をしていないのは、クワイトから聞かされている。それによれば、殺したというよりも、自殺を手伝わされたと言うのに近い状況だったようだ。
だが。
クワイトは言った『憎しみと恐怖は表裏一体だ。人間は、自分に恐怖を与えた相手を憎むことで、それを克服しようとする。しかし、それは諸刃の剣だ。憎しみは時としてより深く恐怖を刻む。それから開放されない限り、恐怖もまた消える事はない』と。
解るか？ と問われ、クライムは曖昧に頷いた。実は良く解らなかった。それへ『まぁいい。何にせよ、バイスを殺した事は、ジョーにとって苦い記憶なんだ。一部始終を吐かせるのに、だいぶ手間取ったからな』と言い、クワイトは嗤ったのだった。
「隠さなくたっていいじゃねぇかよ。仮にバイスが無事に逃げて組織に戻ってきたとしても、どーせ嬲り殺しだったんだからさ。もしそうなってたら、俺がやってやったさ」
コンソールの上で固まっている００９の指先が小刻みに震えるのを、面白そうに見つつ、クライムは言葉を続けた。
「『組織きっての拷問屋』と言われていた奴を嬲り倒すのは、ナカナカ楽しかっただろうしなぁ」
「……め…て……くれ……」
掠れた声。
「ん？」
００９が弱々しく首を振る。それ以上、聞きたく無かった。
バイスの名前は、苦痛と恐怖の記憶に直結している。考えたくなかった。思い出したくなかった。拷問なぞ、するのもされるのも御免だった。殺すのも殺されるのも。本当は、戦うことだって、嫌いなのだ。
けれど。００９がバイスの事を忘れたいと想う理由はそれだけではなかった。
バイスを殺した事。それこそが、００９が忘れたくてならない事だった。
何故ならば。それは、００９が自らに課した最大の禁忌を破る事に他ならなかったからだ。
だからこそ、００９はその事を忘れようとしていた。その事に気付かずにすむように、考える事を避けていた。
考えれば。自分がした事を突き詰めて考えれば、そこに行き当たってしまう。それを、００９は無意識に怖れていたのだ。
無論、クワイトはそんな００９の心を見抜いていた。心理学者としての知識と、エンパスとしての能力をもってすれば、本人すら意識していない心の動きを推し量る事も、十分に可能だった。
そして。
クワイトは、００９を執拗に責めた。００９が忘れようとしている事を思い出させ、考えないようにしている事を考えさせ、言葉にして喋らせた。
時間こそかかったものの、作業としては簡単な事だった。何故なら、クワイトは００９が自分で自分を糾弾するのを見ていれば良かっただけなのだから。逃げようとする００９を引き戻し、自分自身の内なる闇に直面させる。
『お前はバイスを殺した』憎しみ故に。
『タイラントを撃った』苦痛から逃れる為に。
『裏切者を拷問し、処刑した』恐怖に耐えられず。
事実を突き付けてやる。クワイトがしたのはそれだけだった。
あとは、００９が後悔と自責の泥沼の中でもがくのを、ただ眺めていれば良かった。
そして。
００９が自分で自分の心を切り裂き、ボロボロになったところに手を差し伸べてやる。
お前は当然の事をしただけだ。自分に苦痛を与えた相手を憎むのも、憎い相手を殺すのも、人間として当然の事だろう？ 自分が苦しみから逃れる為に他人を殺して何が悪い？
生き残る事を許されるのは、常に強者だ。お前は強い、だから生きる資格がある。逆らう者は殺せ。弱者になぞ構うな。自分の強さを忌避する事は無い。戦いの無い日々を望むのであれば、むしろそれを誇示すべきだ。刃向かう者は容赦無く殺せ。そうやって強さを示せば、誰もお前に戦いを挑んだりしなくなる。平穏に生きる事ができるようになるのだ。
それが正しいやり方だ。違うか？
苦しむ必要は無い。
悩むのはもうやめろ。
そうすれば、楽になる。
堕落への誘惑。
けれど。００９はその手を拒んだ。クワイトが予想し、期待したように。
「や…めて…くれ……」
掠れた声で００９が呟く。その様子を、壁際のタイラントはハラハラしながら見守っていた。
（どう…する……？）
クライムと００９の間に割って入るか？ とタイラントは自問する。
無論、心の赴くままに行動していいのであれば、とっくの昔にタイラントはクライムをぶちのめしている。だが。ほかならぬ００９から、タイラントは命じられているのだ『おとなしくしているように』と。
それはまぁ、当然と言えば当然だった。タイラントは既に一度、騒ぎを起こしているのだ。
００９が『負けた』模擬戦の一件から数日後。僅か一日の休みしか許されず、傷つけられた肩の神経の炎症が癒える間もなく通常勤務に戻った００９の所へ、ザイラスの使いとしてクライムがやって来たのだ。用件を済ませてさっさと帰ればいいものを、クライムは面白半分に００９に絡んだ。意地の悪い事を言っては００９の反応を見て嘲う。それでも。言葉だけのうちは、まだ良かった。タイラントとて、自分の身分は判っている。内心で『殺す！』と思いつつも、どうにか自制していられた。
だが。
クライムが００９の左肩をわざとらしく掴み、００９が苦鳴を洩らすに至って、ついにタイラントは逆上した。怒りに任せてクライムに殴り掛かったのだ。
一介の戦闘員が上級幹部の副官に手を上げれば、処刑は免れられない。もし、タイラントの拳がクライムに触れていたら、どう転んでも命は無かった筈だった。だが。００９がタイラントを止めた。文字どおり、その拳を受け止め、クライムを守ったのだ。
タイラントを守る為に。
そして、００９はクライムに丁重に謝罪し、許しを乞うた。部下の不始末は自分の責任だと言って……。
クライムは処刑を主張したが、ウィッチの『一応、私の作品なんだけどねぇ』という言葉と、クワイトの介入にあって、渋々ながら退いた。退かざるを得なかった。
結局、本当に殴った訳でないのだからという理由で、一件は不問に付された。
その代償を、００９が何らかの形で払う羽目になったのかどうかは、タイラントは知らない。それを尋ねたタイラントに、００９は黙って首を振っただけだった。それは『何もない』という意味なのか『気にするな』という意味なのか。多分、後者だろうとタイラントは思ったが、だからと言って、出来ることは無かった。
（……くそっ…！）
自分のせいで００９に負担をかけるのは、タイラントとしては全く不本意だった。だから、おとなしくしているしかない。見ているしかない。他の奴を連れて行くと言う００９に泣きつき、『何があってもおとなしくしている』との約束で、付いて来たのだから。
（…ジョー……）
ここでまた騒動を起こす訳にはいかない。タイラントには、拳を握り締めてクライムを睨むしかできなかった。
クライムが、００９の顎を掴み、顔を覗き込む。
００９は、それを振り解く事すらできず、なすがままだった。荒れ狂う感情を抑えるのに手一杯なのだ。
連日絶え間無く加えられる、過剰なまでの精神的苦痛。許容範囲を遥かに超えるストレスにさらされ続けている００９の精神は、正気と狂気の狭間で辛うじてバランスを取っているにすぎない。００９だからこそ、ぎりぎりで正気の側に踏みとどまっていられるのだ。既に限界を超え、食べる事も飲むことすらできない。平静を装って日々の勤務をこなす事でさえも、大変な気力が必要だった。
だから、ちょっとでも動揺を誘うような言葉をかけられれば、００９は、たちまちパニック寸前にまで追いつめられてしまうのだ。
その苦悩の表情を、クライムはしみじみと眺めた。
今にも泣き出しそうな昏い瞳。震える唇。
（いーねぇ〜）
嗜虐心をそそられる。
「お前、そーゆー顔が似合うぜ」
００９をまじまじと見、クライムは笑った。
その時。
「飛行物体、急速接近中！」
オペレーターが緊張した声で叫んだ。
「な…？」
クライムが息を飲む。緊迫した空気に、００９は一瞬で自分を取り戻した。クワイトが見ていれば『まさに天性の戦士』と感想を述べただろう。クライムの手を振り解き、素早く指示を飛ばす。
「数はっ？」
「一機です」
「なんだって？」
オペレーターの言葉に、００９が目を見開く。
（……ま…さか……？）
たった一機で、ここ Neo Black Ghost 本部に向かって来る、未確認の飛行物体。つまり、敵。
「…外部カメラでは捉えられないのかっ？」
震える心を叱咤し、ことさら鋭い声で００９は言った。
「…はっ……今…補足しました！」
「メインスクリーンに入れろ」
「はっ」
青い空に小さな黒いしみ。
やっと我にかえったクライムが舌打ちする。
「倍率を上げろ。これでは判らんじゃないか！」
「はっ」
しばしの間。そして、メインスクリーンに飛行物体の拡大映像が映された。
「……！」
００９が息を飲む。そこに映されたのは、見覚えのありすぎる機体だった。
（…ドルフィン号！……みんなが…みんなが、来た！）
懐かしさが胸を覆う。そして、００９はうっかり自分の立場を忘れた。
「…おい……おい、ジョー！」
クライムの声に、ハッとする。そして００９は絶句した。銃口が、ピタリと自分を狙っている。
「あ……」
「忘れたわけじゃぁ、あるまい？ 今のお前は、Neo Black Ghost の幹部なんだぜ？ 迎撃の指示はどうした？ え？」
頭から冷水をかけられたかのように、一気に血の気が引く。その様子を面白そうに見つつ、クライムは言葉を継いだ。
「まぁさぁかぁ、今更、ヤツラの元に戻る、なぁんこたぁ、言わねぇよな？」
「……」
「幸い、００ナンバーどもはまだこちらの位置を捉えてはいないようだ。迎撃だ。撃ち落とすんだよ。指示はどうした？ ジョー」
笑いながら言う。００９は唇を噛んだ。
（どうする……？）
だが、答えは決っていた。ドルフィン号を撃ち落とす訳には、いや、撃ち落とさせる訳にはいかない。ゆっくりと目を伏せて俯く。だが、その瞳には強い光がひらめていた。
一方のクライムは、００９が俯いたのを、狼狽の為と見てとり、あからさまな嘲笑を浮かべた。余裕が警戒心に取って変わる。銃口が揺らぎ、狙点が、一瞬、００９から外れる。
その瞬間。
クライムの視界に黒いものが舞った。００９がマントを跳ね上げたのだ。
（な……？）
とクライムが思った時、すでに００９の手には銃が握られていた。
抜き撃ち。
一瞬の早業。
クライムには、事態を理解する時間は無かった。そして、司令室にいた８人の兵士達にも。銃を抜く間もなく、全員が倒れ伏す。
００９はコンソールに飛び付くと、総ての防御機構のスイッチを切った。更に、コンソールに銃弾を撃ち込む。
僅か数秒で、司令室はその機能を失った。
それだけの動作を流れるようにやってのけ、銃を収めて００９はタイラントを振り返った。
タイラントは壁際から一歩も動けずに、立ち尽くしていた。
「逃げるんだ」
００９が低く言う。
「ジョー…？」
「これで、君は両方から追われる事になる。だから……逃げるんだ。すぐに」
それだけ言うと、タイラントが何か答える間も無く、００９は司令室を飛び出して行った。
ふぅ…と大きく息を吐いて、タイラントは苦笑した。
あの一瞬、殺されると思った。そして、それも良いかと覚悟を決めた。
だが。００９は自分を殺さなかった。というよりも、あれは、自分が居ることを一切の考慮から外した動きだった、とタイラントは思う。
００９の背後、その気になれば致命的とまではいかなくても、確実にダメージを与えられる場所にいた自分に、００９は一瞥どころか警戒の素振りさえ見せなかった。００９の意識した『敵』の数に、タイラントは入っていなかったのだ。
嬉しかった。
００９が自分に対してそれなりに心を許してくれているという事は、無論、感じていたし、嬉しく思ってもいた。そうでなくては、この自分の前で泣いたりはすまい。
だが。
タイラントにとって、生死を分かつ戦場での評価こそが、最も重要で価値のあるものなのだ。戦いの場で『敵』と見られなかった事。一切の警戒すらされなかった事。それはつまり、００９が自分に命を預けたという事に他ならない。更に。この場合、００９が助けようとしている『仲間』達の命をも預けてくれた事になる。
ほんの数秒間の事とはいえ、００９は文字どおりの総てを、タイラントに預けてくれたのだ。
それは、タイラントにとって、何よりも重要な事だった。
☆
「あった！ 離着陸口だ！」
モニターから顔を上げ、００８が叫ぶ。すかさず００４が指示を下す。
「よし。ミサイル発射用意！ 目標、離着陸口！ ミサイルと同時に、ドルフィン号も突っ込む！」
「了解！」
００２がドルフィン号をぐっと反転させる。
「撃てっ！」
００４が叫び、００７がミサイルの発射ボタンを押す。
「全弾命中！」
レーダーを見ていた００８が叫ぶ。その声に、００３の声が重なった。
「離着陸口のシャッターに穴が開いたわ」
「よし、ジェット！ 突っ込め！」
「おうっ！」
だが、シャッターの穴はそう大きくはない。
「…だ…駄目だ、入れん！グレート！ もう一発ミサイル頼むっ！」
００２がドルフィン号を反転させる。
「よっしゃ」
一旦上空に上がり、再度突入コースに乗る。
「今だ、撃て！」
００４が叫ぶ。と同時に００７が発射ボタンを押す。
「全弾命中！」
「よし、これなら行けるぜ……」
００２が呟き、ドルフィン号を突っ込ませる。
ベキベキベキ……！
シャッターに開いた穴の縁をかすめ、ドルフィン号が離着陸口に突っ込む。
「着陸だ！」
「お…おう！」
００４が言い、００２が応じる。だが、離着陸口の中は、狭い。
「…だぁー、と…止まらんっ！」
００２が叫ぶ。
「何かに掴まれ！」
逃げ惑う兵士達を蹴散らし、奥の管制室らしき所に機体の前三分の一程を突っ込んで、やっとドルフィン号は止まった。
「…だ…だいじょぶか、みんな…？」
「な…何とか……」
「へったくそ！ 何で、止まれないんだよ！」
００７が叫ぶのへ、００２が言い返した。
「こぉんな狭い所で、どうやって止まれってんだよ！ あぁ？」
だったら自分やってみろってんだ！ と息巻く００２に負けじと００７が叫びかえす。
「だけど、いつもはもっと狭いトコにだって、着陸してるじゃないか！」
「ありゃぁ、ジョーがやってんだ。俺じゃない！」
「う……」
００７が言葉に詰まり、００２もまた、はっとした。そこへ００８が口を挟む。
「んな事言い合ってる場合じゃないだろっ？ ……行くか？ ハインリヒ」
「ああ。当然だ。……フランソワーズ、ライ、アイラニはここに残ってドルフィン号を護れ。残りは…行くぞ！」
「おうっ！」
そして一同は銃を手に、飛び出して行った。
☆
「……まさしく、天性の戦士……そう簡単に、牙は抜けん……か……」
そう呟き、クワイトがふっと嗤う。
「…だからこそ、面白い……」
重い爆音が壁を震わせる。突入してきた００ナンバー達によって、基地内の各所で火の手が上がっていた。００９が防御機構を切ってしまったために、総ての防御システムが沈黙し、その結果、Neo Black Ghost 側は苦戦を強いられているのである。
「クワイト…」
扉を開け、白衣姿のウィッチが入ってくる。そして、ひょいと肩をすくめ、ウィッチは口を開いた。
「リストにあった科学者達の退避は、完了したわよ」
それへ、クワイトはニタリと嗤って見せた。
「よかろう。では……この基地は、００ナンバーどもにくれてやるとするか」
「……戦闘員達はどうするの？」
答えは判っていたが、一応、尋いてみる。案の定、クワイトはニッと嗤い、一言でその問題を片付けた。
「放っておけ。必要なら、また揃える」
それからウィッチをじろりと見、薄笑いを浮かべて言葉を継いだ。
「…不満か？」
「いいや」
首を振るウィッチを、暫し、興味深げに見る。
それから、クワイトは脱出艇に向かうべく歩を進め、ウィッチがその後に続いた。
☆
００４がマシンガンを撃ちまくりながら突っ込み、００２、００８がそれに従う。
Neo Black Ghost 兵達は、次々となぎ倒され、ずるずると後退していく。
「００３！ まだ見つからないかっ？」
『…駄目！ …もう少し、待って……！』
「どうせ連中の逃げてく先には、仲間がいる。まず、総裁をやっちまおうぜ！」
気短な００２の台詞に、まあ一理あるかと思い、００４は言った。
「００３、見つかり次第、連絡を頼む！」
『…わ…わかったわ……』
そして、とにかく眼前の敵を倒すことに全力を傾けた。
ドルフィン号に残った００３は、基地の内部を次々と透視し、００９とクワイトを探していた。００３の隣にはライが座り、００３の見た映像をテレパシーで読み取って捜索の補助をしている。だが、なかなか見つからない。
（ここも……だめ……）
００３は小さくため息をつき、次のブロックへと目を転じた。
☆
時限爆弾をセットし終え、動力室を出たところで００９は硬直した。白衣を着たクワイトが、薄笑いを浮かべて立っている。
「…クワイト……」
ため息のような声で、００９は呟いた。クワイトが、ニッと嗤いながら左手首のコントローラーに触れる。
その瞬間。
「…！…」
全身を苦痛が駆け抜け、００９はその場にくずおれた。
冷たい恐怖が背筋を這い登り、悲鳴をあげる。
次の瞬間、クワイトがスイッチを切り、００９は我にかえった。
「来い」
膝を折り、床に両手をついて辛うじて上半身を支え、肩で息をする００９に一言そう言い、クワイトがくるりと背を向けて歩き出す。
逆らえなかった。クワイトに対する圧倒的な恐怖が、００９から気力を奪い去り、抵抗の意志を失わせる。
００９はノロノロと立ち上がると、俯いたまま、その後に従った。
☆
『いたわ！ …ジョーよっ！』
（見つけたっ！ クワイトだっ！）
００３とライが同時に叫ぶ。
『どこだっ…！』
００４達が一斉に聞き返す。しかし。００３は驚きのあまり、答えることができなかった。
（…黒い……Neo Black Ghost 幹部の服……まさか…まさか、ジョー……？）
あの、降伏勧告の映像で見たのと全く同じ服。
（そんな……）
映像だけなら、まだ半信半疑だった。合成されたものであるとか、そっくりのロボットであるとか、そういう可能性に縋っていられた。
だが。
自分の『目』が、事実を００３に突き付ける。ロボットでも何でもない事が、００３には判ってしまったのだ。
『フランソワーズ、どうしたっ？ ジョーはどこだっ？』
００２が叫ぶ。その声も耳に入らず、ふらふらと椅子に倒れ込む。
（……ジョー…そんな……ことって………）
『フランソワーズ！ おい、どうしたっ？』
『ジョーは何処にいるんだ？ …まさか、死……？』
放心したように宙を見つめる００３を痛ましげに見、そしてライは００ナンバーの通信回線にセットされている無線機のマイクを取った。
「……ライだ。００９は生きている。怪我もしていない。………００３がショックで喋れないので、俺が代わりに００９の居場所を言う。お前さん達のいる場所から、三つ下の階層に降りて、左へ行け。直線距離にして、約２５メートル。隔離されたブロックで、非常脱出用の高速艇がある。そこに、００９と…クワイトがいる……急ぐんだ、奴等はこの基地から脱出するつもりだ」
『判った……』
００４が答える。その後しばらくおいて、００２がためらいがちに尋ねてきた。
『……ライ…００３は、何でショックを…？』
ライが唇を噛む。一瞬ためらい、それから、マイクを睨みつけるようにしつつ、ライは口を開いた。いずれにしろ、００９に会えば判る事だ。隠してもどうにもならない。
「…００９は…Neo Black Ghost 幹部の服を着て、クワイトに従っている……」
『………』
沈黙。しばし目を閉じ、ゆっくりと目を開き、静かな口調で言う。
「報告は、以上だ。無事を祈る」
そして、ライはマイクを置いた。
☆
連絡艇の入り口で、クワイトは立ち止まった。その隣を抜けて、ウィッチが中に入っていく。
「ジョー」
ゆっくりと、クワイトは振り返った。
「……かつての仲間の下へ、帰らせてやろう」
（え…？）
突然の言葉に、００９が呆然とする。言われた意味が、咄嗟に理解できなかった。
立ち尽くしている００９に、クワイトがつと手を伸ばす。
（……あ…！）
微かな音。額のリングが外される。
そして。
クワイトは、残酷な嗤いを浮かべて言った。
「お前の恐怖が始まった場所。私はそこに居る」
暫しの自由を与えてやる。好きなようにするがいい。そう言って、クワイトは嘲った。
☆
「よかったの？ ジョーを置いてきて」
そう尋ねるウィッチに、クワイトは軽く頷いた。
「かまわん。どちらにしろ……私の所へ戻って来るだろうからな」
「あなたを殺しに、かもしれないわよ？」
「ふむ。それは…ライの腕次第、だな」
楽し気に嗤う。
「…ライの…ねぇ……」
ウィッチは僅かに眉をひそめた。それを見るクワイトの瞳が不審気に細められ……。
けれど、クワイトはあえて何も言わず、唐突な問いを発した。
「何故、アルグがサイボーグ兵を嫌うか、知っているか？」
あまりにも唐突な問い。だが、ウィッチは驚く様子も無くそれに答えた。
「勿論。曰く『サイボーグは所詮人間、性能のバラツキが多い』それから『人間は、いつか裏切る』でしょ。でもって、『ロボットの性能は安定している』そして『決して裏切らない』と続く訳よ。何度も聞かされたわ」
「ふむ」
クワイトは満足気に頷き、言った。
「サイボーグ戦士の効用について懐疑的な声は、そう大きくはないものの、根強くある。理由は二つ。アルグが指摘しているように、性能のバラつきと、反乱の問題だ。この二つは、一見無関係のようだが……実は深い関係がある。つまり……」
そこで言葉を切り、クワイトはウィッチを見た。判るか？ と視線で問い掛ける。
「…つまり、優れた戦士としての才能のある奴ほど、言うことを聞かせるのが難しい。ジョーのように……って事でしょ？」
「その通りだ」
クワイトが嗤う。
「優れた戦闘能力を持っている者が、自分よりも戦闘能力の劣った上官に従わなくなるケースは少なくない。物理的な力で負けている以上、これをコントロールするのは酷く難しい。一歩間違えれば、第二第三の００ナンバー共が現れる。そうならないまでも、組織の存続を危うくする勢力になりかねん」
そこで少し言葉を切ってウィッチを見、クワイトは話を続けた。
「……とはいえ、対策が無い訳じゃあない。人間であるが故に逆らうのであれば、人間であるが故の弱点を突けばいい。一番簡単なのは、快楽を使う方法だ。実際、サイボーグ化されている一般戦闘員にはこの方法が使われている筈だな」
「ええ」
ウィッチが軽く頷く。戦闘用サイボーグは、その用途上、生身の人間にある機能の中で、戦いに不要なものについては取り払ってしまう。その筆頭は生殖能力で、次が感覚神経系だ。無論、全感覚神経を取り払ってしまったのでは体が動かせないから、適当に間引く。そうやって、あまり苦痛を感じないようにするのだ。こういった処置の結果、物理的に快楽を得るのは難しくなる。言うなれば、これは、戦闘用サイボーグ化手術の副作用だ。
だが。肉体的に快楽を得ることが難しくなったところで、それに対する欲求が無くなる訳では無い。その対策として考案されたのが、脳の快楽中枢に直接刺激を与える方法で、ようするにそれが、一般兵士たちのコントロールに応用されている訳なのだ。
「まぁ、苦痛を使うという手もあるが、これはコントロールが難しい。下手な奴がやると相手を壊しかねない。かといって手加減をしていたのでは、意味がない。結局、快楽を使う方が簡単だし、危険も少ない。だが。優れた才能を持った生粋の戦士は、こんな手では従えられない。苦痛にも快楽にもなびかない。ま、そうでなくては優れた戦士とは言えんのだがな」
クワイトが嗤う。
「では、そういう奴をどうやって服従させるか？ ハッキリ言って、これは難しい。今のところ有効な手段は無い。かといって、手が無いのかというと……そうでもない。どんなに優れた戦士だろうが、結局人間だ。人間である以上、絶対に消せない弱点がある」
「恐怖」
ウィッチが言う。クワイトは楽し気に頷いた。
「その通りだ」
くくく……と嗤う。
「人間が本能的に持っている、闇への恐怖。死の恐怖も、結局はこれにつながるものだ。
強烈な体験によって、この恐怖を意識下に刷り込む。いかに強靭な精神力をもってしても、無意識の領域に刷り込まれた恐怖に対抗する事はできない。そして、その恐怖を操ればいい。私は、そう考えた」
「なるほどねぇ……。つまり、その実験例がジョーだという訳ね」
淡々と言うウィッチにクワイトが面白そうな視線を向ける。
「そうだ。ジョーには一度、死ぬほどの苦痛を味あわせてある。バイスに拷問をさせ、瀕死の状態で地下牢に閉じ込めた。苦痛、暗闇、孤独。これがジョーの心に刷り込まれた悪夢の正体だ。いずれも生物としての人間が持つ、根源的な恐怖に直結している。これを克服することは、並大抵では不可能だ」
狂気を秘めた緑の瞳が、薄氷色の目をじっと見る。
沈黙。
「さて、ウィッチ」
クワイトが、ニタリと嗤う。
「答えて貰おう」
「ライについて？」
ウィッチの応えは静かだった。
「そうだ。先刻、何故、動揺した？ ライについて何を知っている？」
「そうね……」
クワイトの目を怖れ気も無く見返し、ウィッチは言った。
「……最近の事は、あまり知らないわ」
「ほぉ」
「最後に会ってから、もう、どのくらい経つかしらねぇ……」
つと遠い目をし、そして、ウィッチは言った。
「兄よ」
さしものクワイトも、沈黙する。
「……兄…だと？」
「ええ」
再び沈黙。
「何故…黙っていた？」
「誰にも尋かれなかったからねぇ」
なるほど、と頷くクワイト。
「尋かれたら、答えたか」
「さぁ…どうかしら。ま、少なくとも、あなたには答えたわよ、クワイト」
今だって、尋かれて答えたでしょう？ とウィッチは言う。
「……まぁ……な」
しばし考えを巡らし、そしてクワイトは再び問うた。
「では。お前は、私を知っているのか？」
「『クワイト』としてではない、過去のあなたをって事？」
「そうだ。私はライによって脳手術を施され、今の私になった。それ以前の事は知らない」
だが、お前はそれを知っているのだな？ とクワイトは問う。
「ええ」
ウィッチは頷き、そして言葉を続けた。
「でもねぇクワイト。あなた、それに興味があるの？」
過去の自分に。クワイトではない自分に。そう、ウィッチが問う。
「………」
長い沈黙の後、クワイトは首を振った。
「いや。無い」
だが、私の知らない事をお前が知っているのが気に入らない。そうクワイトは言う。ウィッチは頷いた。
「…なるほど……まぁ、あなたらしいわよ、クワイト」
苦笑。
「じゃあ……この連絡艇が何処に行くのかは知らないけど、着くまでの間、暇つぶしに昔話でもしましょうか？」
あなたとライと、そしてこの私が、まだ『幽霊』では無かった頃の話を。
そう言って、ウィッチはわらった。
☆
轟音を上げ、連絡艇が飛び立って行く。００９は、立ち尽くしたままそれを見送ってしまった。
あまりの事に心が麻痺し、体が動かない。
（…僕の…恐怖が………）
その言葉が指し示している場所。それは……
不意に背後で爆音が轟き、００９はハッとした。
（来た……）
聞きなれた、懐かしい足音が６つ。それが、自分を半円形に取り囲んで、止まる。
沈黙。
００９は振り返らなかった。マントの影で、拳を握り締め、唇を噛む。
真後ろから、一歩分の足音。
（…ハインリヒ…か……）
体重のかけ方と気配で、００４が自分に銃を向けている事が判る。それ以外の全員も、とりあえず自分に銃口を向けているようだった。が、その狙点は微妙に外れている。彼等の隙を付いて逃げるつもりなら、不可能ではない。敵は００４一人だろう。
だが。
誰にも怪我をさせずに逃げおおせられるかといえば、それは不可能だと思われた。こうやって囲まれてしまった状態からでは、最低でも、００４と００２の二人を行動不能に追い込まなくては、逃げ切れないだろう。
それは避けたかった。
（ジョー……）
振り向こうとしない背中を睨み、００４は意を決した。
「……お前は…何者だ？」
沈黙。
（…ジョー……頼むから……！）
敵だと言わないでくれ、と００４は思う。
（お前さんが…敵だと言ったら…俺は……！）
００９を捕らえ、捕虜として扱わなくてはならなくなる。そんな事はしたくなかった。
ギリ…と歯を食いしばる。そして、００４は低く叫んだ。
「答えろ！」
００４の台詞に、００９は目を閉じた。答えを、決めなくてはならない。
（…どう……する……？）
何と答えるべきか。
そう想い、００９は微かに嘲った。
（……馬鹿だな……僕は……）
答えなんぞ決まっている。
目を開き、前方をキッと見据え、００９はゆっくりと振り返った。
静かに自分達を振り返る００９を、その場の全員が息を詰めて見守る。
（ジョー！）
だが。
００９の瞳に浮かぶ表情を見た時、一同は思わず身を退いてしまった。
（…ジョー……）
言葉も無く見詰める一同に冷たい一瞥をくれ、００４に視線を向ける。
そして、００９は００４の問いに答えた。
「Neo Black Ghost 上級幹部、ドクター・クワイトの副官、ジョー」
「……つまり、俺達の『敵』という訳か」
００４が、射るような視線を向ける。
それへ００９は嘲笑ってみせた。
「そうなるだろうな」
重い沈黙。
そして、００４はゆっくりと言った。
「では……手をあげてもらおうか」
（ジョーの奴……）
物陰から様子を伺い、タイラントは首を振った。
タイラントがやって来たのは、丁度、００４達が００９を取り囲んだ所だった。とりあえず物陰に隠れて様子を見るタイラントだったが、成り行きに、溜め息を吐く。
（…あの…馬鹿……）
どうやら、かつての仲間達に対し、あくまで『敵』として振る舞うつもりらしい。
（それにしても……何があったんだ？）
００９は額のリングをしていない。と言うことは、あの後、クワイトに会った筈だ。あのリングを外す鍵は、クワイトが左腕につけているコントローラーだという話なのだから。
だが、この場にクワイトはいない。このブロックに来た事は無かったが、周囲の様子からして、ここが小規模な秘密の離着陸口なのは間違いない。
（……てことは、クワイトの野郎はジョーを置いて逃げた…て事だよな）
一体、何を考えてるんだ？ と思い、タイラントはその思考を追いやった。『狂人』の考える事が判る訳が無い。判ったら、それは自分も狂ってると言う事だ。
（そんな事よりも……）
そう。そんな事よりも、００９がリングを取り上げられたという事の方が重要だった。そして、クワイトがここに居ないという事が。
あのリングが無ければ、００９は眠ることが出来ない。眠れば、悪夢の中に堕ちる。
以前、クワイトは言った。『一週間耐えられるか、二週間耐えられるか……。いずれにしろ、ジョーは遠からず、発狂するだろう』と。
（一週間も…もたない……だろう）
今の００９では。タイラントは唇を噛んだ。
☆
「待てよ」
００９から銃を取り上げ、両手を頭の上で組ませ、銃を突き付けて『連行』する一同の前に、一人の男が現れた。００４と００２がすかさず銃を向ける。
だが。
目の前の男は両手を上げていた。とりあえず敵意はないらしい。
（……タイラント！）
００９が目を見開く。それへチラリと視線を向け、タイラントは笑った。
「てめぇ…何者だ？ 一体、何のつもりだ？」
００２が叫ぶ。
「クワイト付戦闘部隊隊長の、タイラントだ」
で？ という様に００２がタイラントを睨む。
「俺もつれてけ」
「はぁ？」
イキナリの台詞に００２が面食らう。
「お前等が捕まえてるジョーは、俺の上官なんだ。一緒につれてくか、ここで俺を殺すか、どっちかにしてくれ」
「な…んだって……？」
００２が目をしばたたかせ、００４を見る。
（…どう…するよ、ハインリヒ……？）
問い掛ける瞳に００４は唇を噛んだ。
またかと思う。また、自分が決断しなくてはならないのか、と。
（ちくしょうめ……）
タイラントと名乗った男を睨み据える。
（コイツは…一体、何を考えてやがるんだ？）
殺すか連れて行くか。そんな二択なんぞ、願い下げだった。
「放っておけ。行くぞ」
無視して通り過ぎようとする。
「そうはいかないぜ」
その００４の前に、タイラントが両手を広げて立ち塞がった。
「殺すか、連れてくか、どっちかにしてくれ……」
真剣な瞳が００４を見る。死をも恐れぬ、固い決意を秘めた瞳。ふと既視感を覚え、００４はハッとした。
（あぁ……）
００９の目だ、と思う。戦いを決意した時の、迷いを断ち切った時の、そういう時の００９が、こんな目をする。
小さく溜め息を吐き、００４は００２に視線を向け、言った。
「……つれてけ」
☆
『おとなしくしててくれ』という、命令とも依頼とも付かない言葉と共に、扉が閉じられる。
ドルフィン号内の一室。
００９と引き離すんだったら殺せと主張するタイラントと、捕虜の自覚があるのかと主張する００２との間で一悶着あったのだが、呑気に口論している暇は無く、結局、００９とタイラントは同じ部屋に監禁される事になった。
「……ジョー？」
扉の前で立ち尽くしたままの００９にタイラントが声を掛ける。だが、００９は答えない。それへ近づき、タイラントはそっと肩に手をかけた。
「座れよ。体力を温存した方が良い。……わかってるだろ？」
沈黙。
そして、００９は低く言った。
「何故だ……」
「？」
「逃げろ、と…言っただろう……？」
感情を排した硬い声。
小さく苦笑し、タイラントは答えた。
「あれは、命令だったのか？ ジョー」
００９がビクリとする。
「あの時のお前は、もう、俺の上官じゃなかった。……だろ？」
Neo Black Ghost に逆らう行動に出た瞬間、組織内での上下関係は失われる。そうじゃないのか？ とタイラントは言う。
その通りだった。
「お前の好意を無にしたのは、悪かったよ。けどな……」
放っておけなかったんだ。そう言って、タイラントは笑った。
００９がゆっくりと顔をあげる。そこには、さっきまで『仲間』達に向けていた凍るような瞳はなかった。不安に揺れる頼りなげな瞳。
「……ごめん……僕は………」
何を言えばいいのか判らない。
それへ首を振り、タイラントは言った。
「とにかく、座れよ。無駄な体力を使うな。あくまでも彼等の『敵』として振る舞うつもりなら……」
小さく頷き、００９は椅子に座り、軽く目を閉じた。
ドルフィン号は、北へと飛ぶ。