「ジョーっ！」
焦ってジタバタと手足を振り回し、タイラントは飛び跳ねるように起き上がった。顔に付いた氷雪もそのままに、慌てて００９を抱え起こす。
「ジョー、ジョーっ！ おいっ、ジョーってばっ」
頬を叩いて呼びかけても、しかし、００９はぴくりとも動かなかった。
（な……ど……えーっと……？）
何がどうなってて、どうすりゃいいんだ？ という疑問がタイラントの頭を埋め尽くす。その一方で、タイラントの体は無意識のうちに００９の状態を確かめていた。
呼吸、心音とも問題無し。
これといった外傷も見当たらない。
拳が当った時の感触をも併せて考えれば、単に気を失っているだけと見るのが妥当だろう。とはいえ、すぐに気が付くような状態とは考えられない。
動転する気持ちとは別の部分が、冷静に判断を下す。
では、次にすべきことは何か？
その考えが考えとして纏まるよりも早く、タイラントの体は次の行動を起こしていた。
頭を下げて素早く周囲を見回し、００９を抱え直して地を蹴る。間髪を入れず、加速装置作動。
数百メートル先にある針葉樹林の端を目指して雪原を一気に駆け……
巨木の陰に飛び込んで身を伏せ、タイラントは加速装置を切った。
鋭い一瞥を周囲にくれ、続いて、一瞬前まで自分達が居た雪原とその周囲を見据える。
だが、何の異変も見当たらない。
少なくとも、この近くに『敵』は居ない。
全ての感覚を研ぎ澄まして慎重にそれを確認し、それから、タイラントは抱えていた００９をそっと降ろした。ぐったりとした体を、木の幹に寄りかからせるようにして座らせる。
そして。
（えー……っと？ とりあえず……とりあえず……？）
とりあえず、どーすりゃいいんだ？
タイラントは改めて動転した。

とりあえず、００９が目を覚ますまで待とう。
ひとしきり動転し、あれやこれやと考えを駆け巡らせたタイラントは、どうにかその結論に辿り着いた。それで問題は無い筈だ、と。
（もし、それで問題があるようなら……）
もしそうなのだったとしたら、００９が、あんな風に自分に近づく筈が無い。
何故ならば。
ここで００９が目を覚ますまで待っていて問題がある状況とは、すなわち、近くに自分が気付かなかった『敵』が居るか、あるいは、００ナンバー一同を始めとする仲間達……ウィッチやチアフル、ライ一党などなど……の誰かが、何らかのトラブルに巻き込まれているというような状況だ。
だが。
もし本当にそんな状況だったとしたら、００９の様子はもっと違っていただろう。自分に声を掛ける時にしても、周囲に対して十二分な警戒をしていただろうし、そもそも、あんな風な近付き方などしなかった筈だ。
だとすると、近くに『敵』が居る訳でも、仲間達の誰かが危険な状態にある訳でも無いということで、そうであるのなら、とにかく、００９が目を覚ますのを待てばいい。
それが、タイラントの辿り着いた結論だった。

「……はぁ……」
何となく溜息を吐き、それから００９を伺う。しかし、００９は先程タイラントが座らせた姿勢のままで、まるで目を覚ます様子は無かった。
（……やっぱり……完全に落ちちまってるな、こりゃ……）
もう一度、深い溜息を吐いて頭を掻く。
拳が００９に触れたあの瞬間、マズイとは思ったのだ。何しろ００９は、避けるどころか身構えようとすらせず、従って、渾身の一撃は見事なまでに決まってしまった。それはもう、あたかも完璧な模範演技のような会心の一撃。だがそれは、模範演技では決してありえない破壊力抜群の一撃で。いかな『００９』であろうとも、格闘戦用サイボーグの渾身の一撃をまともに食らえば、こうなるのは当然の結果だった。
（あー……ったく……）
ぐったりとしたままの００９を見遣って、タイラントが頭を抱える。
（まいったな……）
周囲は既に、すっかり闇に閉ざされてしまっていた。昼の間ですら低かった気温は、更に下降を続けていて。勿論、二人ともサイボーグだから、ここでこのまま一夜を過ごしたとしても、特に命に別状がある訳でも何でも無い。
けれども。
暗闇の中、意識を失った００９の隣に座っている……という状態は、嫌だった。
（それじゃあまるで……）
あの時みたいじゃないか、と思いかけ、タイラントは慌てて頭を振った。
（……ちっ）
嫌な連想をしてしまった。
立ち上がって大きく息をする。
「とにかく、だ。こんなトコに居たってしょうがない。偵察は終わったんだし、とっとと帰るべきだよな」
わざと口に出してそう言いながら００９を背負うと、タイラントは歩き始めた。

（それにしても……）
雪原を歩きながら、タイラントは首を傾げた。
（何だって、ここにジョーが来たんだ……？）
自分が北海基地跡の偵察に出る事は、勿論、出発前にチアフルが日本に報せていた。だが、日本から誰かが来るというような話が出たとは聞いていない。その後の何回かの定時連絡時にも、そんな話は全く出なかった。チアフルが伝え忘れたとも考え難い。あの軽い雰囲気の言動とは裏腹に、チアフルは恐ろしく細かい。おまけに抜群の記憶力を持っていて、一度読んだり聞いたりしたことは、その内容は勿論、いつどこでどんな状況で……といった事までをも、キッチリ覚えているのだ。
それは、あの徹底した完璧主義者であるウィッチからすらも頼りにされる程で。また、かつてライとその一党が未だ Neo Black Ghost 内にあった頃も、その能力は、様々な局面で彼等を助けてきていたのだ。
（そうだよな、あの時も……）

４年と少し前。
一連の事件の始まりの時。
バイスがウラル研究所を拠点として００ナンバーの捕獲作成を展開していた、あの時。
当時、未だ Neo Block Ghost の上級幹部として振舞っていたライの裏切を警戒したバイスは、部下に命じて基地内のあちこちに盗聴器類を仕掛けさせたのだったが、それら無数の盗聴器類の位置を、チアフルは、殆ど一人で調べ上げて仲間達に報せていたというのだ。
そこいら中を『敵』が闊歩する状況下で、どのようにしてそれをやってのけたのかと言えば、食事や飲み物を運ぶ振りをして基地内を歩き回り、自分が見つけた位置は勿論、すれ違う仲間がそっと伝えた内容までをも全て記憶していったのだ。また、当然のこととはいえ、集めた事柄を情報端末に入力することはおろか紙に書き記すことさえする訳にはいかなかったから、それらの情報の蓄積や整理も、全て、チアフルが頭の中で行っていたのだ。
その能力は、まさに人間データベースとでも言うべきで、ライ一党は、この時に限らず、もうずっと以前から、自分達が知り得た（それを知っているということを組織に知られる訳にはいかないような）様々な情報を、チアフルに覚えておいてもらうことで蓄積してきたのだった。
そして。
それ故に、チアフルの脳内には二系統の起動入力を持った即効性の毒物がしかけられていた。万一の場合に備え、本人の意思もしくは外部……おそらくはライ……からの入力によって起動する、毒物が。
『正気の沙汰じゃないぜ』
その話を聞いたとき、タイラントはチアフルにそう言ったものだった。けれど、チアフルはケラケラと笑って答えたのだ。
『俺はもう、一回死んでんの。幽霊なの。敵にとっつかまってイタイ目にあわされるっくらいなら、幽霊は幽霊らしく、あの世に避難すんのがイチバンなの』
『避難って、死んじまったらそれまでなんだぞっ！』
思わずそう言い返したタイラントに、チアフルはさらりと言った。
『だから？ だって、本来の居場所に行くだけだろ？』
ヒトらしい感情のまるで欠落した声音。
明るい黄玉の瞳が、瞬間、深淵を映し……
凍れる刃が喉元を掠めたかのような風を感じ、タイラントが言葉を失う。
けれど。
次の瞬間、チアフルはニパっと笑った。
『だぁいじょぶだって、よーは、そんなドジ踏まなきゃいーんだからさ。ほら、実際、何も無かった訳だろ？』
あっかるい調子でヘラヘラと手を振ってみせるその様子は、いつもと変わることのない、無敵の明るさを誇るイタリア男そのもので。一瞬前の凍てついた空気など、欠片すらも伺えない。
その勢いに押されて無意識に頷きつつ、タイラントはしみじみと思った。どうして自分は、こうも他人を表面的な態度からでしか評価できないのだろうか、と。
以来、タイラントはチアフルに対して、絶大な信頼を寄せている。

そのチアフルが、連絡をし忘れたりする筈など無い……とタイラントは思う。無論、最後の定時連絡の後で、日本から報せが来たというのなら話は別だが。
とはいえ、最初から一緒に偵察に出るというのならばともかく、特に何事も無く、もうそろそろ引き上げようかという頃になって、わざわざ日本から……しかも００９が……出てくるというのは解せない。
（俺が連絡を絶った……ってんだったらともかく……）
偵察に出てから今日まで、定時連絡は一度も欠かしていないのだ。仲間達の方で何かが起きているという訳でも無いとすれば、一体、何なのか？ まるで見当がつかない。
（……まぁ、いいか……）
何にせよ、００９が目を覚ませば全てが判る。そう思いつつ、未だぐったりとしたままの頭を肩越しに見遣り、タイラントは溜息を吐いた。
（それにしても……）
４年ぶりに顔を見たというのに、言葉を交わすより先に殴り倒してしまう事になるとは。
（ったく、ちょっとっくらい、避けるとか身構えるとか、してくれよな……）
思わず愚痴が出る。他の誰かならばともかく、『００９』なのだ。いくら何でも全く余裕が無かった……なんて、そんな筈は無いだろう？ とタイラントは思う。
（ほんの少しだけでも避けるか、せめて身構えてくれてれば……）
そう思いかけ、そこでタイラントは足を止めた。
（いや待てよ……。そうでも無い、か……？）
格闘戦用サイボーグの、至近距離からの渾身の一撃。それを中途半端に避けたり、あるいは身構えたりする方が、かえって深刻なダメージを受けることになる可能性があるのではないだろうか？ 完全にかわせないのであれば、いっそのこと、綺麗に受けてしまった方が逆に安全、とも考えられる。
（うーん……）
確かにそういう側面はある。ひょっとすると００９は、あの一瞬でそこまで計算して、その上で敢えてこの自分の拳を受けたのだろうか？
そうかもしれない。
だが。
（けど、だからってなぁ……）
仮にそう計算したとしても、それでも、あそこまで無防備に食らうというのは、考えてみれば、なかなか出来る芸当ではない。
（そーだよな。普通なら、反射的に身構えちまうトコロだよな……）
例えば自分だったら。
（…………。できねー…よな……絶対に）
そうする必要があると判っていても。サイボーグ体の特性上、たいした苦痛は感じないと判っていても。だからといって、完全に無防備に攻撃を受けるなど、とても出来ない。そう思う。
「……やっぱ勝てねぇよな……コイツには……」
深い溜息。
と。
「ひとを気絶させといて、よく言うよ」
「ぅうわぁっ！」
不意に耳の後ろで声がして、タイラントは飛び上がった。
「ジョ…ジョーっ！？」
慌てて肩越しに振り返れば、茶の瞳が笑う。
「……久しぶり、だね？」
４年ぶりに聞くその声に、タイラントは、ただ頷くしかできなかった。

「はぁっ？ 俺が、行方不明だってぇ？」
雪原を並んで歩きながら、タイラントは思わず素っ頓狂な叫びをあげた。
「うん。チアフルから連絡が入ってさ。君が北海基地跡の偵察に出たっきり、連絡を絶った……って。それで、僕が来たんだ」
「そ…そんな、馬鹿なっ！ 俺はちゃんとチアフルに定時連絡を入れてたぞっ！」
それなのに、どうしてだっ？ と頭を抱えるタイラントに、００９は苦笑しながら頷いた。
「うん。そうだろうね。多分、そうなんだろうな…って思ってたよ」
「へ？」
きょとん、とするタイラントを見遣って００９が肩をすくめる。
「だってね、タイラント。君が行方不明だ……っていうのに、フランソワーズは知り合いのバレエ公演の手伝いがあるって言うし、張大人とグレートは商店街の大売出しだかなんだかで店が忙しいって言うし、ジェットは野暮用がどーとかって言うし……」
「は？」
「おかしいだろ？ どう考えてもさ」
目を丸くするタイラントを放っておいて、００９は更に言葉を続けた。
「それなのに、皆、僕には『タイラントが行方不明だなんて、とんでもない敵が現れたとしか考えられない。一刻も早く行ったほうがいい』なんて事を言うんだよ？」
もし本当にそうなんだったら、何はともあれ、まずは全員が一刻も早く集まるべきだろうに。違うかい？ と００９が言う。
「で。挙句の果てに、ライから通信が入って『こっちは大丈夫だから、ゆっくりしてきてくれ』なんて言われてみなよ」
「そ…そりゃ……」
変だ。いや、変すぎる。
「とどめはギルモア博士から渡された飛行機のチケットだよ。『すまんがドルフィン号は、どうにも調子が悪くての。飛行機で行ってくれんかな』って言われて……。そのチケットの予約申込日、二月前なんだよ？」
「………」
もはや何と言えばいいのかも判らず、タイラントはただただ呆然としてしまった。
それを見上げ、００９がクスっと笑う。
「これで、君が本当に行方不明になっている……だなんて、信じる方がおかしいだろう？」
「……それは……勿論……。けど……」
一体、何の為にそんな事を？ と言うタイラントに、００９が溜息を吐く。
「そんなの、君の所為に決まってるだろ？」
「は？」
いきなり話が自分に回ってきて、タイラントはつんのめりそうになった。何のことやらサッパリ見当もつかない。
「お…俺……？」
その様子にもう一度溜息を吐くと、００９は、不意に前方を指し示した。
「あそこの街のホテルに、ハインリヒが予約を入れてくれてる。街外れに服を入れたトランクを隠してあるからさ。フランソワーズが『戦闘服で街中をウロウロする訳にもいかないでしょ』って、持たせてくれたんだよ」
勿論、君の分もあるから、さっさと着替えて行こう……と００９が言う。
「あ……あぁ……」
またも突然に話が変わり、何だかよく解らないまま、タイラントはとにかく頷いた。

ホテルのフロントで薦められた、近くにある小さなバー。
薦めてくれたフロントマンの、ゆっくり飲みたいのなら是非どうぞ、という言葉どおり、そこは落ち着いた雰囲気の静かな店だった。客は、多くもなく少なくもなく。誰もが静かに……けれど陰気な雰囲気では無く……思い思いのグラスを手に、一人で、あるいは数人で、くつろいでいた。
そのカウンターに並んで座り、タイラントとジョーもまた、静かにグラスを傾ける。

「向こうは、どんな感じ？ 特に大きな問題は起きてないみたいだけど……」
アイラニとエストラとが、それぞれ治安状態や簡易診療所の記録を定期的に報せてくれてはいるけれど、そういうのからは、皆の様子までは判らないから、と００９が言う。
「元気でやってるんだな…ってのは判るから、心配…という訳ではないけどさ」
「うーん……そうだな。まぁ、平和っちゃ平和だな。そりゃ、毎日毎日、次から次へと病人やら怪我人やらが運び込まれて来るし、手遅れで死んじまう奴も居るし、近くで小規模な戦闘が起きたりする事もあるし、でも……」
なんていうのかな……とタイラントが天井を見上げる。
「皆、楽しそうでさ。いや勿論、すっげー大変だし、俺達がアレコレ頑張っても、結局、根本的な解決にはならないし、そーやって何とかしてやれるのだって、よーするに一握りの連中に過ぎない訳だし…って、色々やればやるほど思い知らされちまって、皆して暗くなっちまう時もあるけど……」
何て言えばいいんだ？ と首を捻るタイラントを、００９がじっと見て。
「まぁ、なんだ……俺も含めて、皆、自分がいいって思ったことを一生懸命やってる。それが楽しいんだ。そりゃ、いいって思ってやった事が、実は、めちゃくちゃ間違ってた……なんて事もあって、それで凄く後悔することもある訳で、だから『楽しい』っていうと、ちょっと違うとは思うんだけどさ……」
「……そっか。良かったよ」
嬉しそうに頷く００９に、タイラントが照れたように笑った。
「あー……。ま、でも最初の頃は、結構いろいろと笑えない事もあったんだぜ？」
「へえ？」
「ライもそうだけど、エストラとか、出身が北の方の奴が意外と多くてさ。しかも連中ときたら、ここ何年もずっと建物の中にばっかり居ただろ？ で、それがイキナリあんな暑いトコに行ったもんだから……」
体が慣れていない上、強い日差しに対する方法も知らない面々が、地元の人間が出歩かないような昼日中に歩き回って倒れ、診察に行った先の難民の家族に余所の医療チームのテントまで運んでもらっちまったんだぜ？ とタイラントが溜息を吐く。
「もぉ信用ガタ落ち。……まいったぜホント」
とはいえ、その一件があったおかげで、元から居た医療チームのメンバーと一気に親しくなって、情報交換をしたり、診察の分担等の協力体制を作れるようになったから、悪いことばかりでも無かったが……とタイラントは肩をすくめた。
「そんな事があったんだ……」
「あぁ。ま、他にもイロイロな……」
気候も文化も何もかもが違うから、そういう類の小事件には事欠かなかった、とタイラントが笑う。
「さすがに４年も経ったから、皆かなり慣れてきて、最近じゃあコレといった事は起きなくなったけどな」
「そうだね。４年…だもんね……」
００９が呟くように言って。
ふっと会話が途切れる。
グラスに浮かぶ氷が、カラリと軽い音を立てて。
（……ジョー……）
この４年を００９はどう過ごしていたんだろうか？ と思い、けれどタイラントは、その質問を唇に上らせることはできなかった。
（多分……）
クワイトに刻み付けられた悪夢と戦う日々だったのだろう、と思う。

４年前、ウラル研究所でタイラントが００９に別れを告げた時。
その時の００９は、ウィッチとエストラ以下のスタッフの尽力によって肉体的にはすっかり回復していたものの、精神的な傷は、未だ、全くと言っていい程に癒えていない状態だった。
昼の間は特に問題無く、ごく普通に生活し、勿論、食べたり飲んだりすることも出来ていて、一見、何もかも元通りであるかのように見えた００９だったが、しかし、夜、時計の針がとある時刻に近づくに従って、次第に平静を失っていったのだ。
その時刻とは、クワイトの副官であった頃の００９が、一日の最後の定時報告の為、クワイトの執務室へと行く、まさにその時刻だった。
クワイトの副官であった当時の００９は、日に数度、定められた時刻に、その執務室へ行かねばならなかった。勿論、００９にとって、その一回一回が苦痛と恐怖を伴うものではあった。だが、一日の最後のそれは、他の時刻とは比較にならない程に、恐ろしいものだったのだ。
一日の最後の定時報告とは、つまり、その日最後の仕事という訳で、それが終われば他に何もすることは無い。あてがわれた部屋に戻り、翌朝までの間、休むことができる。
しかし。
それは勿論、クワイトが許せば…の話だ。
何らかの事件があった時……例えば、些細なミスを犯した兵士をクワイトが『殺せ』と言い、００９がそれを拒んだ時など……は当然のことながら、何も無い時でも、クワイトが黙って００９を下がらせることは少なかった。
何故ならば。
『昼』は、００９にもクワイトにも、其々に様々な『仕事』があった。００９を『副官』として扱っている以上、『昼』の間、『副官』である００９を長時間に渡って傍に留めて苛む…というのは、それなりに色々と不都合があった。けれど、そういった『仕事』が無い『夜』の間であれば、好きなだけ（その気になれば翌朝までだろうと）００９を拘束し、存分にいたぶることができるからだ。
悪夢の中に叩き落され、二度と思い出したくもない凄惨な記憶を再体験させられ、悲鳴をあげることすら出来なくなるまでに追い詰められ……それでやっと、自室へと帰ることが許される。時には、最早、立ち上がることすらできずに崩れ落ちる００９を、呼び出されたタイラントが運ぶ事もあった。
それ故、００９にとって『その時刻』は、苦痛と恐怖の始まりを意味していたのだ。

今、『その時刻』はとっくに過ぎている。けれど、００９に特に変わった様子は無かった。
それが、４年の年月を……そして、その間に００９が積み重ねただろう密かな戦いを……思わせる。
（……ジョー……。大丈夫……なのか？ それとも……）
手に持ったグラスから一口飲み、タイラントは００９をチラリと見遣った。
「……なに？」
その瞬間、ふっと００９がタイラントを見る。
「どうかした？」
まっすぐに見つめてくる茶の瞳に、タイラントは慌てて首を振った。
「あ……いや、その……えーと……」
もう大丈夫なのか？ などと尋く訳にもいかず、タイラントが口篭る。それに首を傾げ、そして、００９はクスリと笑った。
「そろそろ、ホテルに戻ろうか？ ちょっと疲れたしさ……」
何しろ、誰かさんに思いっきり殴られたからね…と言う００９に、タイラントが首を竦める。
「わ、悪かったよ……」
「いいさ。この貸しは、そのうちキッチリと返してもらうからね」
どこか楽しげな口調で言って、００９が席を立つ。その様子に、勘弁してくれよ…などと呟きつつ、タイラントも立ち上がった。