「はい、コレが君のね」
「は？」
ホテルの部屋に戻り、交代でシャワーを使おうということになったところで、００９が荷物の中から引っ張り出して渡してきたモノに、タイラントは目を瞬かせた。
淡い水色の地に、薄黄色で描かれた小さなひよこが散りばめられた、布の塊。
広げてみれば、それは、長袖の上着と長ズボンのセット……ようするに、パジャマだった。
「ウィッチから聞いてない？ もう随分と前になるけど、フランソワーズが、全員分のパジャマをお揃いで作ったから取りに来いって連絡、した筈だけど？」
「……あ……あぁ……」
そういえば、そんな事もあった。ここのトコロちょっと忙しいから、とか何とか適当な返事をしたっきり、そのままにしていたが……。
「サイズは問題無い筈だよ。彼女、ウィッチと何度も相談してたからね」
電話で正確な身体データを聞き、それをもとに起こした型紙をウィッチに送り、チェック結果を反映して修正した型紙から作ったというんだから、まず間違いは無い筈だろう？ と００９が言う。
そして。
「……あの……ジョー…？」
「あぁその柄は、彼女の趣味だから。どうしても気に入らないってんだったら、彼女に言ってみてもいいとは思うけど……。でも、せっかく全員のをお揃いにしたのに、君だけ別にしてくれっていうのは、どうなのかなぁ……？」
首を捻りながら、００９が自分のパジャマを抱えて立ち上がる。
「シャワー、先に使わせて貰うよ？」
「あ……あぁ」
未だ呆然としたまま頷くタイラントの様子に声を殺して笑いつつ、００９はシャワールームへと足を向けた。

００９と交代してシャワーを浴び、さっぱりしたところで、タイラントは００３お手製のパジャマに、恐る恐る袖を通した。
着てみれば、確かにサイズはピッタリだった。襟や肩口なども、十分にゆったりと作られていながら、だぶついた感じは全くしない。デザインはシンプルそのもので、それだけに、一分の隙も無い縫い目の見事さが際立つ。布の柔らかな肌触りも申し分なく、もう、ただひたすら感心するしかない。
しかし。
淡い水色の地に、これまた淡い黄色の、小さなひよこの群れ。
（………）
何となく溜息を吐いてしまうタイラントであった。

「似合ってるよ」
シャワールームから出た途端そう声をかけられ、タイラントは頭を抱えた。
「ジョー……。ホントに、そう思ってるか？」
「うん、ほんとほんと。ハインリヒとかジェロニモとかより、ずっと似合ってるって」
ベッドにうつ伏せに転がって頬杖をつき、クスクスと笑いながらタイラントを見上げて言う００９はといえば、こちらも同じ柄のパジャマ姿。けれど。柔らかな栗色の髪に茶の瞳をした細身の少年の姿には、その淡い水色と黄色のひよこは、見事に似合っていた。
「…………」
「それとも、なに？ ピンクかオレンジの方が良かった？」
００３と一緒に買い物に出たとき、『皆の分お揃いでパジャマを作ろうと思うのだけど、色はどれがいいかしら？』と聞かれて、水色とピンクとオレンジの三色の中から、この色を選んだんだけど？ という００９の言葉に、タイラントは天井を仰いだ。
「うー……」
ピンクの地に薄黄色のひよこ。
オレンジの地に薄黄色のひよこ。
それらに比べれば、確かに、淡い水色の地に薄黄色のひよこの方が、未だいくらかマシのような気はする。
だがしかし。
「……どれにしろ、ひよこなのか？」
「そう。どれにしろ、ひよこ」
他の選択肢は？ と情けない声で尋くタイラントに、００９は妙にきっぱり答えた。
「無い」
「………」
はぁ、と溜息を吐いて隣のベッドに座る。そのタイラントを横目で眺めながら、００９は言葉を続けた。
「いいじゃないか、別に。外に出る訳じゃないんだしさ。誰が見るという訳でも無いんだから、似合ってようがなかろうが……」
気にすることでも無いだろ？ と言われれば、確かにその通りで。とはいえ、何となく釈然としない気持ちは拭えない。
その様子を暫し見つめ、そして、００９は不意に意地悪気な笑みを浮かべた。
「ひょっとして、そういう相手が居るの？」
「へ？」
きょとん、とした表情でタイラントが００９を見返す。
「居るんだ、そういう相手が……」
「は？」
「つれないなぁ、タイラント。僕達、友達同士だろう？ そういう事なら、報せてくれたっていいじゃないか。それとも、君にとって、僕はその程度の存在だったのかな……？」
ふっと俯いて沈んだ声でそう言う００９に、タイラントは焦った。
「え？ あの……ジョー？」
一体何故、いきなりそんなことを言い出したのかさっぱり解らず、おろおろと００９を見る。
気まずい沈黙。
だが、それをどうすることもできず、タイラントは途方にくれてしまった。
（……な……なんなんだよ……俺、何か悪いこと……言ったか？）
俯いたままの００９を見つめ、必死で考えを巡らせる。けれど、何も思い当たらない。そもそも、パジャマの柄の話が、どうして一瞬後には、友達がどうこうという話になっているのか？ その展開に、タイラントはまるでついていけていなかった。
「あ……あの、俺……」
何か言わなくてはと思うのだが、何を喋っていいのかサッパリ判らない。
と。
突然、００９がパタリとベッドに突っ伏した。
その肩が、次いで全身が、小刻みに震えだす。
「……っ……っく……」
「ジョーっ？」
今度は何事かと、タイラントが慌てて腰を浮かせる。
その瞬間。
００９はごろりとあお向けに転がると、堰を切ったように笑い出した。
「……あは、あはは、あははははははははっ！」
「ジョー……？」
もはや、どうしていいのか判らずに立ち尽くすタイラントを見上げ、００９は更に笑い転げた。

「だからさ、タイラント……」
ひとしきり笑い、どうにか落ち着いたところで００９は口を開いた。
「……パジャマ姿を見せるような……ようするに、一緒に寝るような、そんな女の子とか……君の趣味は知らないから、もしかしたら男の子かもしれないけど……ともかく、そういう相手が居るのかい？ って、そう訊いてるんだよ」
きみって、結構ニブイんだなぁ……と００９がクスクスと笑う。
一方、やっとのことで意味を理解したタイラントは、目と口を丸くしながら一気に赤くなった。
その様子をニヤニヤと笑いながら見遣り、００９は問い詰めるように言葉を継いだ。
「で、どうなんだい？ 居るの？ そういう相手？」
居るんだったら、紹介くらいしてくれてもいいだろう？ と言う。
「な……ば……俺……っ！」
「そんなに慌てるってことは、居るんだ？」
興味津々といった口調で身を乗り出してくる００９に、タイラントはぶんぶんと首を振った。
「い……い、いないって！ そんな……そんなコト、考えたこともないっ」
「そう？」
なんだ、つまらない……と００９が肩を竦める。
「つまらないって……ジョー……っ」
半泣きの態でベッドに倒れ込むタイラントを見遣りつつ、００９は言葉を継いだ。
「４年も経ったんだし、彼女の一人や二人できたかと思ったのになぁ。その所為で、あっちを離れたくないのかな？ って思ってたんだけど……」
違うのかぁ、と００９が溜息を吐く。
「君って結構かっこいいし、強いし、面倒見いいし、頼りになるから、女の子達が放っておかないだろうと思ったんだけどなあ」
妙に妖艶な流し目をくれつつ言う００９に、タイラントは両手を振り回しながら首を振りまくった。
「ななななな何言ってんだよジョーっ。おおおおまえの方が、全然かっこいいし、強いし、おおおおれおおれおれなんかっ」
「君は、強いよ」
不意に００９はそう言った。
「……ジョー……？」
まっすぐに見つめてくる、茶の瞳。射竦めるようなその鋭さに、タイラントが言葉を失う。
「君は、強い。そう思っていないのは、君だけだよ」
氷点下の戸外ですら感じなかった寒気が、首元を掠めるような感触。怒気とも殺気とも違う、威圧するかのような空気に、指一本すら動かせない。
時が凍りついたかのような静寂。
死線の向こう側を知る瞳。それが、ふわっと和らいだ。
「それで？ どんな子が好みなのかな、君は？」
「ジョー……っ！」
にっこりと笑いながらそう問う００９を、タイラントは眩暈がしそうな思いで見遣った。

「ひとをからかうのって、面白いねぇ〜」
上機嫌でカラカラと笑う００９の隣で、タイラントはベッドに突っ伏したまま、くったりとしていた。
「僕、いっつもからかわれる方でさ、皆、ひとをからかって何が面白いんだろうって思ってたけど……」
いやぁ面白いもんだねぇ〜と、００９が満足気に言う。その様はまるで、満腹して陽だまりで毛繕いをする猫のようで。記憶にある００９のイメージとは程遠いのにもかかわらず似合いすぎていて、タイラントはさらに脱力してしまう。
「うー……っ」
「今まではさ、僕が『末っ子』だったんだけど……『弟』が居るのって、いいねぇ〜」
「お…弟ぉ〜？」
どうして俺の方が『弟』なんだよ、と恨めし気な瞳で抗議するタイラントに、００９は澄ました顔で答えた。
「だって、僕の方が年上じゃないか。それともなに、『息子』の方が良かった？」
「息子って……お前が何歳ン時の子だよっ！」
「君こそ、僕が何歳だと思ってるのさ」
「……う……」
ふっと低めた声で不意にそう言われ、タイラントは言葉に詰まった。
考えてみれば確かに、サイボーグである００９は、外見通りの年齢では無い。勿論、それはタイラント自身もそうで、見た目はサイボーグになった当時の二十歳くらいから全く変わっていないが、実際の年齢はといえば、勿論、そうではない。
では、００９の場合はどうか？
（えーっと、確か、Neo Black Ghost の設立が１５年前くらい……だったか？）
『００９』は、その前身である Black Ghost によって造られた。それは当然のことながら、Neo Black Ghost の設立よりも前の事で。ひょっとすると、タイラントが生まれるよりも前の話かもしれず……
今までごく普通にため口をきいていたが、よくよく考えてみれば、実は、相手はものすごい年長者ではないのか？
（……ぅわ……ひょっとして俺、これまでずっと、すっげー失礼な口きいてた……？）
「あー……えと……その……」
脳裏をよぎった己の考えに焦ってしどろもどろになるタイラントに、００９は再びケラケラと笑い出した。
「なーに慌ててるのさ、タイラント。今更そんなの気にする事でも無いだろ？ 大体、君ときたら『上官』に対してだって、思いっきりタメ口だったじゃないか。あれなんて、失礼どころか命知らずだったと思うけど。違うかい？」
「え……？」
「あの頃の僕はクワイトの副官で、君は単なる戦闘員だったんだよ？ それなのに君ときたら、まるで友達口調でさ。ほんと、ものすごい命知らずだったと思うけど？」

Neo Black Ghost に居た、あの頃。二人の間にあった、組織の序列の差。それが一体どれほどのものだったか？
当時の００９は、組織ナンバー２であるクワイトの副官で、その気になれば Neo Black Ghost の全軍に命令を下すことも可能な程の地位にあった。それに対してタイラントの方はといえば、一応『クワイト付き戦闘部隊隊長』という肩書きはあったものの、所詮は一介の戦闘員にすぎなかったのだ。
クワイトが００９以外に直属の部下を一人も持たないという特殊事情があった為、００９とタイラントの間に入る者が居らず、結果として、００９がタイラントに対して直接に指示を与えることとなっていたが、これがクワイト配下で無ければ……例えば、ザイラス配下などであれば……００９とタイラントは対等に口を利くどころか、直接に会話をする機会そのものが無かっただろう。
それほどまでに、二人の地位には差があったのだ。
にも関わらず、タイラントは００９に対して敬語らしい敬語も使わず、ごく普通に……まるでただの戦闘員同士であるかのように……会話をしていた。その事を、当の００９は勿論、周囲の者達やクワイトでさえ咎め立てしなかったので、タイラントは今の今まで、まるで気にもしていなかったのだった。
だが。
Neo Black Ghost という組織において、それは、命知らずな行動だったと言える。
仮に００９と同程度の地位にある別の者（例えば、クライム）に対してタイラントがそのような口を利いたとしたら、間違いなく懲罰をくらっただろう。相手の気分次第では、その場で射殺されたかもしれない。なにしろ、タイラントを始めとする戦闘員というのは、幹部達とは違い、ただの使い捨ての駒にすぎず、気に障ることがあれば（あるいは特に無くても）一人二人くらいであれば、殺してしまおうと取り立てて問題とされることなど無かったからだ。実際、ちょっとした不服従が原因で、『不良品の処分』という名目をつけられ殺された戦闘員を、タイラントも幾人か目にしたことがあった。
だから、内心はともかくとして、幹部達に対しては神妙な顔で敬礼もすれば、丁重な素振りで敬語も使っていたのだ。
けれど。
考えてみれば、００９に対して『上官』であると意識したことは、実は、一度も無い。上辺だけの恭しさを取り繕っていた幹部達に対してとは違い、００９に対しては畏敬の念も尊敬の念も十分過ぎるほどに抱いていたのにも関わらず、敬礼しようとも敬語を使おうとも、考えたことすら無かった。
それは多分に、この柔らかな容姿と人当たり故なのだろうが……

「いやまぁ、そりゃ……確かにそーだけど……。今更、そんなコト言われたって……」
頭を抱えて唸るタイラントに、００９がクスクスと笑う。
「だろ？ だから、別に気にすること無いって」
さぁもう遅いし、いいかげん寝ようよ……と言う００９に、こういう話題にしたのはそっちじゃないのか？ と内心で抗議しつつ、しかし、タイラントはおとなしく頷いた。
（……だぁめだ……。ほんと、コイツってば手におえねぇ……）
何をやっても勝てる気がしない。
（けど……）
良かった、と思う。『あの頃』に関わる話題を、００９がさらりと口にしたことで、やっと力が抜ける。あれが過去の出来事だったと……すでに過去の領域に押し遣られた事なのだと……あらためて実感できて。
（よかった……）
００９と再会してからこっち、無意識のうちにずっと張り詰めていたものが一気に解ける。
そのタイラントの内心に気づく様子も無く、００９は布団に潜り込むとベッドサイドのスイッチに手を伸ばした。
「おやすみ、タイラント。消すよ？」
００９がそう言って、タイラントを見遣る。
「あ、あぁ……おやすみ、ジョー」
そう応えた瞬間、天井の明かりが消え、仄かなダウンライトだけになる。
ふぅっと息を吐いて目を閉じ……そしてタイラントは眠りに落ちた。

何かが聞こえたような気がして、タイラントはふっと目を開いた。
（……？）
咄嗟に自分が何処に居るのか判らない。どうやら、珍しいほど深く寝入っていたらしい。けれど、寝ぼけた頭とは全く別に、身体の方は速やかに臨戦態勢を取っていた。
すぐにでも飛び起きられる態勢を整えつつ、周囲の様子を伺う。
未だ半覚醒状態の頭に、辺りの物音が流れ込んで来て……
荒く浅い、不規則な呼吸音。
ベッドのスプリングが軋む微かな音。
それに重なるパサパサという乾いた音は、振り乱された髪がシーツを打つ音。
聞き覚えのありすぎる、掠れた呻き声。
（……あ……）
それが何かに気付いた瞬間、タイラントは跳ね起きた。
同時に、悲鳴。
薄闇を切り裂く、苦痛と恐怖と絶望の叫び。それはかつて何度も繰り返し聞いたもので。
「ジョー！！！」
ベッドに駆け寄って飛びつくように００９を抱え起こし、タイラントは必死で揺さぶった。
「ジョー、ジョー！ しっかりしろっ！ 起きてくれよっ」
「……っ……あ………や、やめ……く……っ……！！」
００９の身体が仰け反り、ガクガクと震えて。息も絶え絶えに喘ぐ唇が、声にならない言葉を綴る。決して聞き入れられる事の無かった、哀願の言葉を。
「ジョー！！」
「……っめて……くれ……っ……たすけ……て……」
焦点の合わない瞳が、銀の髪と藍の瞳を持った白衣の男を探して彷徨う。今はもう居ない、苦痛と恐怖の支配者の姿を。
「ジョー……っ！」
その様子に『あの頃』を思い出し、タイラントもまた恐怖に震える。
忘れていた筈の悪夢。何をすることもできず、苦痛にもがく姿をただ見ているしかなかった絶望。抑えようのない憎しみを抱き、けれど、それを何処に叩きつけることもできず、己の無力さに憤ることしかできなかった、あの日々。
「……ジョー！ 頼むから……っ、起きて……！」
暗闇の中、狂気の淵へと滑り落ちていく００９を抱えて歩いた。それしかできなかった。自分が求め続け、掴んだと思っていた『強さ』が何の役にも立たないものだったのだと痛切に感じ、けれど、何を求めれば良かったのかも判らずに。
「……ジョー、ジョー、ジョー……っ！」
抱えた腕の中で悲鳴をあげてもがく００９を揺さぶり、必死で呼びかける。世界が崩れていく様を最後の一人になって見つめている……そんな錯覚に陥って。
（助けてくれ……誰か……誰か、ジョーを……！）
自分には何もできなかった。００９を助けることも、その苦痛を終わらせてやることも、何も。
忘れたい、けれど、忘れられない、あまりにも苦すぎる記憶。
「……ジョー……っ！」
刻み付けられた絶望に、タイラントは悲鳴のような声で、ただ００９を呼び続けた。

「……っあ……」
不意に苦鳴が途切れた。荒い呼吸だけが、静かな室内に響く。
そして。
ゆっくりと、００９の瞳がタイラントを捉えた。未だ覚めやらぬ苦痛と恐怖に震え、それでもなお強い意思を内に秘めた視線。決して屈さぬと、あの藍の瞳に何度となく無言で告げた、その目がタイラントを見る。
「ジョー……」
かける言葉が見つからず、震えた声でその名を呼ぶタイラントの視界の中で、００９が唇を噛み、微かに頭を振った。ここが何処か、今がいつか、それを思い出そうとするかのように。
やがて。
００９が大きく息を吐いた。震える手がゆっくりと動き、汗で張り付いた前髪を掻き上げる。
「……ひ…さしぶり…に……キツイの……見た………」
色を失った唇に、それでも何とか仄かな笑みを浮かべてそう言いながら、００９はタイラントを見上げた。
「ジョー……」
「……なんて、顔……してるのさ……」
掠れた声でそう言う００９に、タイラントは何を答えることも出来ず、弱々しく首を振る。その有様に、茶の瞳が僅かに苦笑めいた色を浮かべ……。
けれど、未だ纏わりつく悪夢の余韻にその瞳はすぐに伏せられ、そして、００９は呻くような声で呟いた。
「……み、ず……」
その言葉に、タイラントがハッとする。
「ちょ…ちょっと待ってくれ……」
慌てつつも丁寧に００９の身体をベッドに横たえると、タイラントは備え付けの冷蔵庫に走った。

貪るように水を飲む００９の背を支え、その合間に乾いたタオルで額に浮かんだ汗をそっと拭う。そうしているうちに徐々に荒い呼吸が治まっていっても、それでもなお、小刻みに震え続ける００９の指先を見下ろし、タイラントは唇を噛んだ。
（俺の……俺のせいだ。俺に会ったせいで、ジョーは……っ！）
克服できていた筈の悪夢に、再び囚われてしまった。やっとのことで多少なりとも癒えかけた傷を、この自分が抉ってしまったのだ。
（どうして……どうして……っ）
どうして００９はここに来たのだろう？ とタイラントは思う。ここに来て、この自分に会う……それが招く結果を考えなかったのだろうか？ ００９は。そして、その仲間達は。

自分は００９に会ってはいけない筈だった。自分に会えば、００９は思い出さない訳にはいかない。あの悪夢の日々を。何故ならば、自分と００９が共にすごした時間は、その殆ど全てが、苦痛と恐怖に支配された悪夢の日々だったのだから。
だからこそ、この４年、自分は００９に会わないようにしてきた。直接に会話することすらも、慎重に避けてきた。００９の仲間達やライ一党、ウィッチやチアフル達も、それに協力してくれてきた。その筈だった。
それなのに。
今回、自分と００９が会うように仕向けたのは、どう考えても彼等だ。彼等の仕組んだことだ。そして、００９はそれが判って……仕組まれた事と承知の上で……ここにやって来た。
再会直後の００９の言葉からしても、それは間違いない。
つまり、こに来てこの自分に会う……それは、００９自身の判断でもあったのだ。
（どうして……？）
どうして、そんな事をしようと考えたのか？
もう大丈夫だと、そう思ったのだろうか？
（だとしたら、それは……）
あまりに軽率ではないか？ と、そう思いかけ、そして、タイラントは首を振った。
（それを言うなら、俺も……だよな）
００９と再会し、言葉を交わし、その態度を見て、もうすっかり大丈夫なのだと思った。
寝る前の会話……クワイト名を何の躊躇いも動揺も無く唇に上らせるその様子……に、安心しさえした。
（いや……。安心、したかったんだ……俺は）
何故ならば。
００９がもう大丈夫ということであれば。そうであれば、何の気兼ねも無くこの再会を喜ぶことができる。
だから、この再会が００９にとって危険な……過去の悪夢を再び思い出させる可能性の高い……ものであると承知しつつ、そんなことは無いのだと、もう大丈夫なのだと、そう思える兆候を無理やり探して、自分勝手に納得してしまっていた。
（……くそっ……！）
相変らず、自分は何て考え無しなのだろうか、とタイラントは思う。
結局、いつだって自分は、００９に負担をかけてしまう。
（そうだよ、あの頃だって……）
と、タイラントが唇を噛んだ、その時。
不意に００９が口を開いた。

「今でもね、見なくなった訳じゃあないんだ……」
「……ジョー？」
ゆっくりと手を握りまた開きしつつ、００９が言葉を継ぐ。
「毎晩って事は無くなったし、もう勘弁してくれ…って思うようなのを見る事も、殆ど無くなったけど。でも、やっぱり週に何回かはね……」
淡々とした口調で話す００９に、タイラントは何と声をかけることもできない。
「それでもさ……久しぶりなんだ。ここまでキツイの見るのは……」
あの頃と、全く同じ悪夢。
寸分違わぬ苦痛と恐怖。
４年の歳月が一瞬で消え去り、あの日々に引き戻される……。
否、この４年こそが儚い幻で、本当は未だ、白衣の男の掛けた灼熱の鎖に繋がれているのではないか？ そして、狂気の淵で、ただつかの間の夢に溺れただけなのではないか？ と、そう思わずにはいられない程、全てが生々しく再現されて。
「今、こうやって喋っててもさ……。それでもまだ……ちょっと、確信が持てない」
ここが何処で、今がいつか、頭では理解していても。それでも。今にもクワイトが姿を現すのではないかと怖れずにはいられない。そう言い、そして一つ息を吐くと、００９は顔を上げた。
「どうしてか、判るかい？」
「……え？」
息を呑むタイラントにピタリと視線を合わせ、００９は静かに言葉を続けた。
「ここのところ、そこそこ大丈夫だったのに、……それなのに、今夜に限ってどうして、あんなキツイの見ることになったのか。判るかい？ タイラント」
「そ…それは……っ」
（……俺の……俺のせい…だ……）
そう思う。だが言葉にならない。
と、その瞬間。
「君のせいだ」
「……っ！」
斬り込むような声音に、タイラントは呼吸すらできず固まった。そのタイラントを真っ直ぐに見据え、００９は再び言った。
「君のせいだよ、タイラント。君が……」
内心を伺わせない茶の瞳。それが、一瞬だけ閉じられ、再びタイラントを捕らえる。
「君が、４年も僕に会いに来ないからっ！」
「……え？」
予想と違う言葉に、タイラントが目を瞬かせる。それを、どこか拗ねたような茶の瞳で睨み付けるようにしつつ、００９は言葉を継いだ。
「こんなのは、もうとっくに終わってた筈なのに！ 君が、もっと前から……ああいうのを未だちょくちょく見てた頃から……僕に会いに来てくれてれば、そうすれば、今頃はもう、君に会ったくらいであんなのを見るような事には、ならなかった筈なんだ！」
それなのに君ときたら……と、００９は溜息を吐く。
「会いには来ない、電話にも出ない。君からの電話だって聞いて代わって貰おうとしたら、途端に『今、急患が来たらしいから』って言って切る。そりゃ、ほんとに急患だったのかもしれないけど、でも、急患が来たからって君がやること、あるの？」
「……う……」
「いっそそっちに行ってやろうかって思ったんだけど、君に会ったらどうなるかくらい判ってたからね」
難民キャンプで夜中にあの悲鳴は、どう考えても傍迷惑だろう？ と００９は言う。
「それに……」
と、そこで不意に言葉を切り、００９は俯いた。
沈黙。
ゆっくりと肩が上下する。
「……それに……、僕はやっぱり……怖かったんだ」
「ジョー……？」
「君に会ったら、多分……間違いなく、あの頃と同じヤツを……見ることになるだろうって……そう思ったら……。そしたら、どうしても……」
自分から会いには行けなかった……と００９は呟くように言った。
「そのうち、君が来てくれるだろうって……そう思って……そう思うことにして……それで……」
そう言ったきり口を閉じた００９に、タイラントは最早、何を言うこともできなかった。

「……ごめん」
長い沈黙を破ったのは、００９だった。
「ジョー？」
「さっき判った。君が、僕に会いに来なかった理由が……ね」
「え？」
突然の言葉に、タイラントが首を傾げる。それをチラリと見上げ、００９は言葉を継いだ。
「僕は、全然考えてなかったんだ。僕に会うことが、君にとってどういう意味があるか。僕は自分のことしか……考えてなかった。……ごめん」
「あの……ジョー…？」
（……俺にとっての、意味……？）
００９の言わんとしていることが判らない。この自分が００９に会う事の、自分にとっての意味。しかも、００９が謝るような。そんな事があるというのか？ そしてそれが、さっき判った…とは、どういう事なのか？
怪訝そうなタイラントの様子を暫し見つめ、そして、ふぃっと視線を外すと、００９は唐突に言った。
「タイラント。君は僕の友達だ。そう、だよね？」
「え？ ……あ、あぁ勿論」
「ありがとう。僕は……僕は、それで十分だよ」
「ジョー？」
再び、沈黙。
黙ったまま自分自身の指先を見つめる００９の様子を、タイラントもまた黙って伺う。
（……ジョー……。何を言おうとしている？）
唐突に話題を変え、そしてまた黙り込む。その様子に不穏なものを感じつつ、けれど、タイラントは００９が言葉を続けるのを待った。
やがて。
「君は僕の友達。それで…それだけで、僕はもう十分だ。だから……」
ゆっくりと顔を上げ、けれどタイラントの方は見ず、真っ直ぐに前の壁に視点を据えて００９は言葉を継いだ。
「……だから、もう、会うのはこれっきりにしよう」
「なっ……」
「僕達が会うのは、これが最後。この先たとえ何があろうとも、僕は、二度と君には会わない」
「ちょ…ちょっと待て、ジョー。何があろうとも、って……」
もし仮に、Neo Black Ghost が復活するようなことがあっても、それでも会わないと……そういうことなのか？ と問うタイラントに、００９は正面を見据えたまま頷いた。
「そうだよ」
「何でっ」
「それが一番いいからだよ」
きっぱりと言い切る００９を呆然と見、そして、タイラントは不意にハッとした。
目を閉じて大きく息を吐き、まずは、昂ぶった気持ちを落ち着ける。
それから、タイラントはゆっくりと呟くように考えを巡らせた。

（……ジョー……。お前がこういう態度をとる時ってのは……）
００９がこういう風に他人を突き放そうとする態度をとる時とは、どんな時か？ それは、その相手を護ろうとする時ではないのか？
（そうだよ……。コイツが、こんな風に妙に強硬な態度をとる時ってのは……）
例えば、クワイトに捕らえられていた頃、部屋のキーナンバーを聞いた時。あの時は『これ以上、君に迷惑をかけたくない』と、頑な態度を取り続ける００９にほとほと手を焼かされた。
あるいは、Neo Black Ghost 本部を００ナンバーが襲撃してきた時。司令室の機能を一瞬で壊滅させた００９は、タイラントに何を言う間も与えず、ただ『逃げるんだ』とだけ言い置いて去っていった。
それから、自分を救い出した『仲間』達と対峙した時。もう自らの死は免れられないと覚悟を決めた００９は、仲間達に対し敢えて『敵』として振る舞うことで彼等に自分を見放させようと……そうやって、自らの死を悲しまないように仕向けようとしたのだ。
つまり。
（……つまり、コイツがこういう態度を取る時ってのは、相手を何かから護ろうとする……そういう時なんだよ）
では、００９はこの自分を、何から護ろうとしているのか？
（一体……？）
再会してからの００９の言葉、態度、それらがぐるぐると脳裏を巡り……。
ひとつの言葉がタイラントの心にひっかかる。
それは……
（……『僕に会うことが、君にとってどういう意味があるか』か……？）
そう、これがキーワードだ。多分。
（俺にとっての……意味？ ジョーに会うことで……俺は……？）
００９に再会できて、嬉しかった。もう大丈夫なのだと思って、安心した。
難民キャンプでの日常を話した。くだらない会話をした。楽しかった。
それだけ。それだけだ。それだけの筈だ。
（他に、何がある……？）
何も無い。ある訳がない。
何かあったのは、自分ではなく００９の方ではないか。
（そうだよ……せっかく忘れかけてたのに、思い出しちまって……。悪夢にうなされて……）
抱え上げた腕の中で苦悶の叫びを上げ、声にならない哀願の言葉を必死で紡ぐ００９の有様を思い出し、タイラントは唇を噛んだ。何をしてやることもできなかった、その絶望。苦すぎる記憶に思わず目を閉じかけ……
（……あ。……そういう…ことか……！）
全てが、繋がった。

「ジョー」
ゆっくりと、タイラントは００９を呼んだ。だが、００９はピクリとも動かず、ただ、前方の壁に視線を送っている。
それを見下ろしつつ、タイラントは言葉を継いだ。
「……俺、前に言ったよな。たとえ地獄の果てまでだろうと、俺はお前についてく…って」
００９は動かない。
「それなのに俺は、４年もお前から離れて……いや、お前から、逃げてた」
ほんの一瞬、００９の指先が震える。その様子をじっと観察しつつ、タイラントは静かに言葉を続けた。
「最初、ライ達と一緒に中東に行ったのは……お前と一緒に日本に行かなかったのは……別に逃げる為じゃなかった。むしろ闘う為だった。何と闘う為かはわからなかったけど、でも、何かを……何かをする為だった。それは嘘じゃなかったし、今でもそうだよ。だけど……」
そこで大きくひとつ息をつき、タイラントは拳を握り締めた。
声が震えないよう慎重に言葉を紡ぐ。
「……だけど、そうやって過ごして……あの頃の記憶がだんだん遠くなって……そしたら。……そしたら、俺は……」
「もう、いい！」
不意に００９が叫んだ。
「もういい、もうやめてくれ、もう……」
聞きたくない……と、耳をふさぎ、激しく首を振る。
けれど。
一瞬だけ躊躇し、それから、タイラントは耳をふさぐ００９の手を振り払うと、その顎を掴んで瞳を覗き込み、言葉を続けた。
「聞けよ、ジョー。……あの頃の記憶がだんだん遠くなるうちに、俺は、お前に会うのが怖くなった。お前に会えば、せっかく忘れかけてた事を思い出す。だから……」
刻み付けられた絶望。自分は、ずっと、それから目を逸らしてきた。傷を負ったことに気付かないふりをして、ただ忘れさえすれば大丈夫なのだと……そうやって自分を誤魔化してきた。
「……だから、何かと理由をつけちゃあ、俺は、お前に会わないようにしてきた。お前が心配だから……お前が俺に会ったら、そうしたら、あの頃の事を思い出して辛いだろうからって……そんな事を言って……。だけど……」
もう、声の震えを抑えることができない。
「本当は、そうじゃなかった。俺は、逃げてたんだ。……お前に会って、せっかく忘れかけてた事を思い出すのが……」
「やめるんだ……もう……」
弱々しい制止の声を無視し、タイラントは一気に言葉を吐き出した。
「それが、怖かったんだ！」

二人揃って、一体どれくらいの間、ただ黙りこくっていたのか。
沈黙を破ったのはタイラントだった。
「……なぁ、ジョー……。俺……やっぱり、お前の『仲間』にゃ不適格…なのか？」
「……」
「そりゃ……俺が Neo Black Ghost に居た頃にやっちまった事を考えると、どう考えても許されそうにないし、お前にはいつも迷惑ばっかりかけてるし……だから、とてもじゃないけど適格とは言えない…って、そうは思うんだけど……」
タイラントの声は、次第にボソボソとした呟きになっていく。
暫しの間。
それから、００９が静かに言った。
「……もし、『不適格だ』ってそう言ったら……君はどうするんだい？ そうしたら、もう二度と会わないようにしよう…っていう、僕の提案を受け入れてくれるのかい？」
「……」
再び、沈黙。
やがて、タイラントがゆっくりと口を開く。
「そう…だな……。そうする……って、そう答えるべきなんだろうな……。けど……」
そこで言葉を切り、大きく息を吸って、タイラントはキッパリと言った。
「嫌だ」
「……タイラント……」
「嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ……」
ひたすら『嫌だ』を連呼するタイラントに、００９が思わず苦笑してしまう。
「あのさ、タイラント。そんな、子供じゃないんだからさ……」
「いいんだよ。どーせ俺は『弟』なんだから」
拗ねた口調でそう言うタイラントに００９が天井を仰ぐ。
何か考えをめぐらせていらるらしい、沈黙。
やがて。
「判った。じゃあ……テストをしよう。君が僕の『仲間』に相応しいかどうか」
「テスト……？」
「そう。明日の朝、ここのホテルをチェックアウトしたら、僕は日本に帰る。僕が日本に帰りついたら不合格。僕をウィッチの所に連れて行けたら、合格。勿論、僕は黙って君について行ったりはしないからね。つまり……」
「つまり……？」
「君は僕と戦って、僕に勝って、僕を気絶させるなり何なりして、担いで連れて行くしかない……って事」
「……なっ……」
あまりの条件に、タイラントが絶句する。それをチラリと見遣り、００９は更に言葉を続けた。
「それができたら、僕は君を『仲間』と認める。でも、できなかったら……僕はもう二度と君と会わない」
いいね？ と言う００９に頷くことなど、勿論、タイラントにできる訳がない。何しろタイラントは、これまで数回やった模擬戦で、一度たりとも００９に勝ったことが無いのだ。それどころか、殆ど相手にすらならず、軽くあしらわれている。
「ちょ…ちょっと待ってくれよ。そんな……そんなの、無理だって。だいたい、俺がお前に勝てる訳、無いだろ……っ？」
これまでにやった模擬戦を忘れたのかよ？ と、半ば悲鳴のような口調で叫ぶタイラントに、００９は冷ややかに答えた。
「君は強い。そう思っていないのは君だけだ。……僕は、そう言った筈だよ」
そして。
「友達の言う事を信じないんなら、君とは絶交だ」
にべも無い口調でそう言うと、絶句しているタイラントを放って、００９は布団に潜り込んでしまった。

三日後。

朝食の支度をしていたチアフルは、突然、猛烈な勢いでノックされた……というよりは、足で蹴られているのでは無いかというような音に、慌てて入り口のドアへと走った。
「はいはいな〜っと、もうちょっと静かに叩いてくれよ〜…って……ありゃ……？」
勢い良くドアを開けてみれば、そこに立っていたのは、タイラントであった。
戦闘服はあちこち破け、顔には疲労の色も濃く、ぜぇぜぇと肩で呼吸をしている。
鬼気迫るその有様に一瞬目を丸くし、それから、その背に担がれた……おそらくは気を失っているのだろう、ぐったりとしている００９を見遣り、チアフルはひょいっと肩をすくめた。
「なんだ、ジョーの勝ちか」
「はぁ？」
どういう事だ？ と睨み付けてくるタイラントに、チアフルはカリカリと頭を掻いた。
「えーっと。ま、とにかく、中に入んなよ。そんな格好でそんなトコロに立ってられると、こっちも困るからさぁ」
その言葉に、タイラントがとりあえず頷く。
「ジョーは奥の部屋に寝かしてきな。朝飯、すぐにできるから。食うだろ？」
「……あぁ……」

「で？」
出された朝食をガツガツと食べ、エスプレッソを一気飲みし、カップを些か乱暴に机に置いたところで、タイラントはそう言ってチアフルを睨め付けた。
「さっきの『ジョーの勝ちか』って、あれ、どういう意味だよ？」
「どういう意味って言われても……」
言葉どおりなんだけど、とチアフルが首を傾げる。
「ジョーと賭けしただけだよ。あんたがジョーをここに連れて来られるかどうか？ ってね。で、俺は、連れてこられない方に賭けて、ジョーは連れて来られる方に賭けてたってぇワケ。ちぇ、損したなぁ〜……」
「そ…損したって……。ジョーをここに連れて来られなかったら、俺、もう二度とジョーに会えないことになっちまうんだったんだぞっ！」
それを、損しただなんて簡単に言いやがって！ と憤るタイラントに、チアフルは目を丸くして立ち上がった。
「な、なんだってぇ！？ そんな条件、聞いてないぞ俺は〜！ うわ、そんなん反則だよ〜っ」
「だから、反則とかそういう問題じゃないって言ってるだろうがっ！」
タイラントも負けじと立ち上がる。
その時。
「うるさい。静かにおし」
扉を開けるなり鋭い声で一喝したのは、勿論、ウィッチであった。
その後ろに００９の姿を認め、タイラントがもの問いたげな瞳をする。そのタイラントへチラリと視線を送り、そして、００９はふっと笑った。
「ジョー……？」
「だから言ったろ？ 君は強い…って」
「……う……いや、それは……だけど……そうじゃなくて……その……」
そこで大きく息を吸い、それから、タイラントは思い切って言葉を継いだ。
「俺、合格……だよ、な？」
その言葉に、ウィッチが眉をひそめて００９を見遣る。
「何の話？」
「タイラントが、僕の仲間に相応しいかどうか……って話だよ」
「ばかばかしい」
困ったような口調で００９が答えたのを、ウィッチが一言のもとに切り捨てて。
「ば……！」
あまりの言われように、タイラントは絶句した。
その様子に、ウィッチが溜息を吐く。
「まったく。相変らず、どこに目を付けて何を見てるんだか……」
「うん。そうなんだよね……」
００９までもがそう言うのを、タイラントが呆然と見詰めて。
「……ジョー…？」
「ごめん。テストする…なんて、あれは嘘。ただ、君に本気を出して欲しかっただけなんだ。でも……」
茶の瞳に、一瞬、苦痛の陰がよぎる。
「……でも、それ以外は全部、本当のことだよ」
未だ悪夢にうなされる夜があることも。この４年、何度も会おうと…会わなくてはと…そう思いつつ会うのが怖くて自分からは動けずにいたことも。自分に会う事がタイラントにとってどういう意味かを考えもしなかったことも。そして、もう二度と会わない方が良いのではないかと思ったことも。
「……全部、ね」
「ジョー……」
「けどさぁ、二度と会わない……なんて、非現実的だぜぇ？」
何か事が起きれば、結局、会うことになってしまう可能性が高い、とチアフルが言う。その後を、ウィッチが断固とした声で続けた。
「だから、あんた達は会うべきだった。なのに、４年経ってもお互いに何もしようとしやしない。それで、私達があんた達が会うように取り計らったのよ」
まったく、手間をかけさせてくれて……とウィッチが００９とタイラントを睨む。
「必要な手助けはしたわ。あとは、あんた達の問題。自分達でなんとかなさい」
「うん。ありがとう……」
キッパリと言うウィッチに００９が頷いて。それから、未だ半分くらい呆然としたままのタイラントを眺めつつ、００９は言葉を継いだ。
「ところでさ。悪いんだけど、僕とタイラントを暫くここに居させて貰えるかな……？」
「それは勿論かまわないけれど？」
何をするの？ という視線に、００９がクスリと笑って。
「……合宿、かな？ ライからも『ゆっくりしてきてくれ』って言われてるしね」
「ジョー…？」
何やら不穏な口調に、タイラントが思わず身構える。
「４年ぶりに会ったってのに、イキナリ殴り倒された貸しもあるし……。まずは、僕相手の模擬戦で勝率５割は行くようになってもらわないとね。ああ、その前に、根性を叩き直さないといけないかなぁ……」
『弟』の教育は、『兄』の役目だよね？ などと、にこにこしながら言う００９を、タイラントが眩暈がしそうな気分で見る。その肩を、チアフルがぽんぽん…と叩いた。そして、しみじみと言う。
「ま、がんばれ」
飯は食わせてやるからさ、と。

結局、タイラントが解放されたのは二週間後。
ほうほうの体で中東に戻ってきたタイラントから、『何で、ゆっくりしてきてくれ…なんてジョーに言ったんだよ！』と詰め寄られ、ライはひどく困惑したという……。