針葉樹林に注ぐ陽の光は、徐々に緋色を帯びてきていた。
日の出に開始された戦闘は未だ決着のつく気配も無く、リミットの日没は刻一刻と迫ってきている。
タイラントに残された時間は、少ない。
（……どうする……？）
『荷物』を両手で抱えたまま木の幹に背中を預け、息を潜めて気配を探りつつ、タイラントは必死で考えを巡らせた。
タイラントの『任務』は二つ。
ひとつは、『荷物』を守ること。これを奪われたり破壊されたりすれば、即、任務は失敗となる。
もうひとつは、日没までに『敵』を倒すこと。倒せれば、その時点で任務は成功だ。
この任務の遂行にあたるのはタイラントひとりだけで、仲間は居ない。だが敵も単独で、性能的にはタイラントよりも劣るサイボーグ。従って、条件は殊更に不利なものでは無い。いや、サイボーグ体の性能差を考えれば、若干とはいえ、タイラントの方が有利とも言える。
相手が００９でさえなければ。
（とにかく、早いトコなんとかしないと……）
タイムリミットの日没になってしまう。
（……いや、それよりも……）
自分の集中力が持たない。そう思い、タイラントは唇を噛んだ。
そうなのだ。
タイラントが００９との『合宿』をはじめて一番最初に思い知らされたのが、長時間の緊張を強いられる状況下で集中力を維持することの難しさだった。
何時間にも渡って断続的に続けられる戦闘。
課せられたタイムリミット。
孤立無援の状況。
その中で集中力を維持し戦い続けるのがこれほど難しいとは、戦場暮らしの長いタイラントでさえ思ってもみない事だった。
だが。
（考えてみりゃ、俺、独りだけで戦った事なんて、無かったんだよな……）
生身だった頃もサイボーグになってからも、タイラントは常に、何らかの部隊に属していた。『仲間』は居なかったが『味方』は常に居た。だから、よくよく考えてみれば、たった一人で戦ったことなど実は一度も無かったのだ。
（それに……俺はいつだって……）
自分が生き延びることを第一に考えていた。形勢が不利となれば、あるいは、自分の身が危ないとなれば、任務を放り出すことも味方を捨石にすることも躊躇わなかった。実際には（特に Neo Black Ghost の一員となりサイボーグとなってからは）そこまで不利な状況に追い込まれることは無かったが、それでも、逃げることのできない……逃げるわけにいかない、そういう気持ちで戦ったことなど、一度たりともなかった。
（そうだよな……いつだって味方が居て、いざとなればその連中を盾にして生き延びればいいと思ってて……命がけでやらなきゃならないなんて、思ったこともなくて……）
それがどんなに甘えた考えだったか。
（それで自分が一番強いと思ってたなんて、まったっく呆れ……っ！）
不意に空気が鳴る。その瞬間、タイラントは荷物を抱えたまま飛び退いた。と同時に、一瞬前まで背中を預けていた木の幹にビシッと亀裂が入る。
（や…ばいっ！）
いつの間に近づかれたのか？ だが、そんな事を考えている暇は無かった。
『荷物』を抱えていては加速装置が使えない。だが、当然のことながら００９の方は加速装置を使って追ってくる。
（ち…っくしょっ…！）
木の陰から岩陰、岩陰から木の陰、そしてまた次の木の陰……と、遮蔽物を間に挟むようにして必死で逃げまわり、辛うじて『荷物』を地面に下ろすことができるだけの時間をかせぐ。
そして。
小さな茂みの上へ放り出すようにして『荷物』を置くと、タイラントは振り返った。
振り返って、息を呑む。
そこに００９が立っていた。
（……くそっ、早ぇ……いや……）
読まれていたのだろう、自分の行動が。そう思い、タイラントは舌打ちした。
（どうする……？）
自分の背後には、放り出した『荷物』がある。当然、００９はそれに気付いているだろう。
『敵』である００９の『勝利条件』は、タイラントが持つ『荷物』の破壊、もしくはタイラントを倒すこと。
この状況から００９はそのどちらを成そうとするだろうか？
（ジョーは……どう出る……？)
乱れる呼吸を何とかして整えようと大きく息を吐きつつ身構えながら、タイラントは００９を伺う。
しかし。
ただ静かに立っている００９からは、どう動くかの予想をすることは出来なかった。
（……く…そ……）
タイラントが睨みつけても、無表情な茶の瞳にはどんな感情も浮かばない。冷徹に任務を果たす、機械のような瞳。日の出から続く戦闘の疲労は同じ筈なのに、それすらも全く感じさせない００９の姿に、タイラントは絶望的な想いが湧き上がってくるのを抑えるすべが無かった。
（どう……すれば……）
追い詰められた焦り。タイムリミットへの焦り。長時間の緊張を強いられた精神はもうギリギリで、その自覚が更にタイラントの焦りを煽る。
（……お…ちつけ……っ）
焦ったら負ける。そう自分に言い聞かせて。
（条件は……同じはずだ。ジョーだって……）
日没までというタイムリミットは同じ。長時間の戦闘による疲労も同じ。緊張の連続なのは、００９の方だって同じなのだ。
だが、とてもそうは見えない……とタイラントは思う。
ここまでの戦闘で、かなりのダメージは与えた筈なのに。勿論、自分の方もそれなりのダメージを受けてはいるが、それでも００９程ではない。サイボーグ体の性能や特性からしても、００９の方が辛い筈なのだ。
それなのに。
００９は、戦闘開始時と全く変わらぬ様子で、息ひとつ乱さずに立っている。それが『敵』を精神的に追い詰める為の策だと判っていても、それでも、じりじりと心に湧き上がる焦燥はタイラントの集中力を乱す。
（……くそっ！ おちつけってんだよ、俺！）
惑わされるな、と自身を叱咤して。
とにかく、どうにかして００９をこの場から引き離さなくてはならない、とタイラントは必死で考える。守るべき『荷物』をこんな近くに置いたままで戦闘をするのは、あまりにも危険だ。
（……一瞬でも先に加速して……一撃でも食らわせて……）
何とかして主導権を握り、少しずつでも場所を移動していくしか無い。
（よし……。行く、ぜ）
とタイラントが覚悟を決めた、その瞬間。
（……なっ！）
何の前触れも無く、００９が動いた。
真紅の残像がタイラントの左脇へと流れる。
（……ま…ずいっ！）
自分の後ろ、ほんの数歩の場所に守るべき『荷物』があるのだ。
左側へステップを踏みつつ焦って加速した、その瞬間。
（え？）
目の前から００９の姿がふっと消えた。
刹那の空白。
次の瞬間、タイラントは悟った。００９の選択を。
００９は『荷物』の破壊でなく、タイラントを倒すことを選択したのだ。だとすれば。
振り仰いだそこに、予想どおり、真紅の影。
それを視界に捉えた瞬間、考えるよりも早くタイラントの体は動いていた。
繰り出された攻撃を、間一髪で避けて。
その勢いのまま、踏み込んで反撃。
長年の戦いで培われたタイラントの無意識の動きは素早く、さしもの００９でさえ完全に避ける事はできなかった。
手加減無しの攻撃が、００９に叩き込まれ……。
（……あ……）
拳から伝わる感触に、タイラントは我にかえった。
（ま……ずい……っ！）
折った、と思う。
焦って視線を動かせば、案の定、００９の左腕はあらぬ方へと折れ曲がっていた。
けれど、その表情にも瞳にも苦痛の影すら浮かんでおらず、それどころか、狼狽するタイラントに向かって畳み掛けるように攻撃をかけてきて。
（……しまっ……）
動転して動きの止まったタイラントには、避ける間も無かった。
流れるように素早く容赦の無い攻撃に、成す術も無く地面に叩き付けられる。
次の瞬間。
身を起こす間もなくトドメの一撃をくらい、タイラントの意識はそこで途切れた。

調子っぱずれな『サンタ・ルチア』の鼻歌。
コポコポと湯が煮立つ音。
シャカシャカという、何かを混ぜているような音。
キッチンで夕食の支度に勤しんでいるのは、勿論、チアフルだった。
「ん〜……もちょっと、かなぁ〜？」
鍋を覗き込んで首を傾げた、その時。不意にドサリと何かが倒れるような音がして、チアフルは飛び上がった。
「……なっ？」
慌てて振り返れば、そこには真紅と黄色の塊。
「ジョーっ！？」
叫びざま壁に設えてあるボタンを叩き押し、そしてチアフルは００９に駆け寄った。
「……あちゃ〜……」
ざっと全身に視線を流し、チアフルは溜息を吐く。
（こりゃまた随分と派手にやられたもんだ……）
左腕は折れ曲がり、右足も、恐らくまともに動かないのだろう、引きずったような汚れが付いている。それを言うなら、防護服のあちこちに土が付いていて、おそらくは半ば這うようにして戻ってきたのだとチアフルは思った。
「ジョー？」
呼びかけながら顔を覗き込むと、茶の瞳がゆっくりと開かれて。そこに浮かぶ、隠しようの無い苦痛の色に、チアフルは見た目以上のダメージを受けていると判断した。
（……ったくあのアホ……）
どーして手加減が出来ないんだよ？ と内心で溜息をつくチアフルの耳に、ストレッチャーのローラーが回る音が届く。それを追ってくる軽い足音。
傍らで止まったその音に、チアフルは顔を上げた。
「だいぶヤバそ」
その言葉に薄氷の瞳が剣呑な光を帯びて。けれど敢えてそれに答えることをせず、ウィッチはストレッチャーを手早く操作すると高さを床近くにまで下げた。それから００９の傍らに膝をつく。
「ジョー。悪いけど、もうちょっとだけ動いてくれる？」
できれば自分でストレッチャーに乗って欲しい。そう言うウィッチの言葉に、００９の頭が微かに動いて。
すっとウィッチが立ち上がってチアフルを見遣る。それへ軽く頷くとチアフルは００９の右側に回りこんだ。
「肩。つかまれよ」
傍らにしゃがみ、一応は無事に見える右腕に軽く触れてチアフルが促す。それに応えて００９がゆっくりと腕を動かした。
「…っ…ぁ……！」
途端に全身に激痛が走り、００９が動きを止めて低く苦鳴をもらす。けれど、ウィッチは何も言わず、チアフルもただ黙って００９の傍に居て。
しんとした室内に、００９の荒い呼吸だけが響く。
そして。
再び００９は右腕を動かした。
「……ぅ……っ……あぅっ……」
時間をかけても仕方ないと判断した００９が、一気に腕を動かしてチアフルの肩につかまる。反射的に零れる悲鳴。けれど００９は気力を振り絞って、そのまま身を起こそうと足に力を入れた。
すかさずチアフルが００９の動きを助けるように素早くその体を支えて。
「……く…あっ……ぁあぁぁぁぁっ！」
意識を染める苦痛。それがそのまま喉元から絶叫になって迸り……。
００９は倒れ込むようにストレッチャーの上に転がった。
その首筋にウィッチが素早く注射器を当てる。
速効性の麻酔薬に体の感覚がすぅっと遠ざかり、薄れていく苦痛に００９は安堵の溜息を吐いた。目を閉じて、薬のもたらす浮遊感に身を任せる。
「いいわ、あとは任せて頂戴」
支配的な響きを含む静かな声。
「んーじゃ、俺はあの馬鹿を回収してくるわ」
軽い調子とは裏腹に冷たさを含んだ声音。
そして、００９の意識は途切れた。

（やーれやれ……っと）
水と、念のための応急手当キットを入れた袋をぶら下げて歩きながら、チアフルは溜息を吐いた。
（ったくもー、アイツには進歩ってモンは無いわけ？）
勿論、チアフルとて００９がタイラントに与える『課題』が日に日に難度を上げていることぐらい判っている。だが。
（けどなー、難度が上がったからってアレはどーなのよ？）
難度に比例して００９がタイラントから受けるダメージも増しているのだ。
（この調子で行くと、そろそろヤバイだろ……）
今日は、あれほどの重傷ではあっても、未だ何とか自力で戻って来た００９だが、今日以上のダメージとなると戻って来られるかどうか。
（…………）
はぁ、と溜息を吐く。
（ま。戻ってくる、だろーな……。ジョーは。負けない限り）
やれやれと首を振って、チアフルは空を仰いだ。
（ったくホントに。あのアホはっ！ ちゃんと判ってるのかよ）
００９が教えようとしていること。それを、きちんと理解しているのだろうか？
（……いい加減、気付けってぇの）
イライラと内心で呟きながらてくてく歩くチアフルの前方に、地面に伸びているタイラントが見えてくる。
それに近付いて全身をチラリと一瞥し、案の定どこにも怪我が無いのを確認して、チアフルは改めて溜息を吐いた。
（ホント、これだけされて……どーして判らないのかねぇ〜？ それとも、判っているけどできません、なのか？）
その考えを暫し吟味し、そして首を振る。
（それは、無いな〜）
ざっと目を通した二人のサイボーグ体の性能差を考えれば。判ってないか、やる気が無いか。そのどちらかしか有り得ない。
（ま、やる気が無い訳ないんだから、よーするに、判ってないって事だよな）
だから困るんだよ、と呟きながら袋の中から水を取り出して。
「おーい、タイラント〜。起きろよ〜」
などと言いながら、それを顔の上に振りまいた。

手術室の一角で画面に表示された検査データに目を通していたウィッチは、険しい視線を手術台の上に横たわる００９に向けた。
勿論、本格的な麻酔をかけている００９がその視線に気付くことは無い。
それに、仮に００９の意識がありウィッチの視線に気付いたとしても、何を言うかは解りきっている。
役にも立たない謝罪と、断れる筈の無い懇願と、言い分は尤もな無茶苦茶を聞かされるくらいなら、意識不明で転がっててくれる方が百倍もマシだ、とウィッチは思う。
そして。
昨夜、００９と打ち合わせて予想した、最悪のダメージを想定して弾き出した交換部品リストを手に取ると、検査データを見直しながら更に部品を書き加え始めた。