パラパラと頬に当たる冷たい感触に、タイラントはぼんやりと目を覚ました。
（……水……？ いや、雨……か？）
雨ということは外に居るという訳で、だとしたら何で目が覚めるんだ？ と思い、そしてタイラントは眉根を寄せた。何かが違うような、何かを忘れているような、どうにも釈然としない気分。
（……えーっと、何だ？）
遠くから聞こえる、自分を呼ぶ声。聞き覚えのあるその声は……
「おーい、タイラントってば〜。ったくもー、いい加減に起きろってぇのっ！」
突然耳元で叫ばれ、タイラントは飛び上がった。
「わっ！」
慌てふためいて起き上がり、きょろきょろと辺りを見回す。
そこは地面の上だった。周囲には木々。すぐ傍にはバラバラになった何かの残骸。そして、明るい金髪に黄玉色の瞳をした男。
「……チアフル……」
水の入ったボトルを片手にタイラントの横にしゃがんでいるのは、勿論、チアフルだった。
「あれ？ 俺……？」
額に手を当てて目を瞬かせ、そして、改めて周囲を見回す。
地面の上に寝ていた自分。バラバラになった『荷物』の残骸。チアフル。
「あ……そっか……」
やっと事態が飲み込める。
（つまり俺は……）
また００９に負けた訳だ、とそう思い。そしてタイラントはギクリとした。
（ジョーっ！）
倒される直前の最後の戦闘で、自分は００９の腕を折った。けれど００９はそれをものともせず攻撃をしてきて。
（あの状態であんな戦い方をしたらっ……！）
そのダメージは生半では無い筈だ。そう思い、タイラントは焦ててチアフルに向き直った。
「ジョーはっ！？」
掴み掛かかりそうな勢いで尋ねるタイラントに、チアフルがのほほんとした口調で応える。
「ジョーなら自力で戻ってきたよ。んで、今ウィッチが治療中〜」
その言葉にタイラントはほっと息を吐いた。どういう状態であれ、既にウィッチが治療にかかっているというのであれば一安心だ。
それをチラリと見遣り、けれど何も言わず、チアフルは、よいこらせと立ち上がった。
「さ、暗くなる前にちゃっちゃと帰ろうぜ。ライト持ってきてないからさ。アンタは大丈夫だろうケド俺は困るから。夕飯の支度も途中だったし」
今日はせっかく新しいレシピを試したのに、あの様子じゃウィッチとは夕飯を一緒に食べられそうもないなぁ、と嘆息しつつ歩き出すチアフルに、タイラントは黙ったまま続いた。

「……どう、だった……？」
戻るや否や夕食の支度にかかるチアフルに問答無用で手伝わされ（大して役には立たなかったが）、ウィッチからの『先に食べて』という伝言でチアフルと二人で夕食を食べ（新しいレシピというのは日本から取り寄せた、芋と肉の煮物だった）、それから、自信作だと言うパイを食べながらコーヒーを飲み（自慢気に言うだけあってとても旨い）、それでも手術室から出てこないウィッチに、再びチアフルが様子を見に行って。
ほどなく難しい顔をして戻ってきたチアフルに、タイラントは恐る恐る声をかけた。
「ん〜……。明日の朝っくらいまでかかるってさ」
残った料理どうしよう、徹夜明けに食べるのは何がいいかな、日本食は胃にやさしいって言うから肉じゃがの他にもう少し何か作るか？ などと言いながらチアフルが腕を組んで唸る。
その様子を暫しぼんやりと眺め、そして、タイラントは大きく溜息を吐いた。
「どったの？」
「……あ……。いや……」
一瞬、何か言いたげな風に視線を宙にさ迷わせ……けれど、タイラントは首を振って立ち上がった。
「……なんでもない。片付け、手伝った方がいいか？」
「や、いいよ」
二人分だから大した量じゃないし、とチアフルが言う。それへ軽く頷くと、タイラントは悪いな…と呟くように言いながら部屋を出て行った。
その背を、チアフルが無表情に見送る。
そして。
「……へぇ」
人らしい感情の欠落した瞳。それが、僅かに眇められて。
けれど、それもほんの一瞬のこと。
「さぁ〜ってと、何つくっちゃおっかな〜」
などと言いつつ足取りも軽くキッチンへと向かうチアフルは、常と変わらず底抜けに明るかった。

自分と００９が寝室に使わせて貰っている部屋に戻って扉を閉め、タイラントは改めて溜息を吐いた。
足取りも重く自分用のベッドに歩み寄り、ドサリとうつ伏せに倒れこむ。
「………」
暫くそのままじっとしていたタイラントだったが、のろのろと寝返りをうって仰向けになると、隣のベッドに視線を向けた。
（ジョー……）
００９が使っているベッドを眺め、もう何度目かも判らない溜息を吐く。
そして、ああぁぁぁぁ、と溜息とも唸り声ともつかぬ叫びをあげ、タイラントはぐしゃぐしゃと頭を掻きむしった。
「……最悪だ……」
（怪我させた上に負けるって……何回やってんだよ俺はっ！）
『合宿』が始まってから一週間以上。未だ、タイラントはまともに『任務』を果たせていない。
お互いに面と向かった状態からの単純な近接戦闘で、『相手を地面に倒せば勝ち』のような条件であれば、何とか五分五分の勝負にはなるのだが、『朝まで逃げ回れ』だの『相手の持っている荷物を奪え』だのといった条件をつけられた長時間の『任務』となると、全く話にならなかった。
けれど。
実戦では、００９が出してくるような条件の下で戦わざるをえない事態は少なくないのだろうという事は、勿論、タイラントにも容易に想像できる。
（いや……多分、今ジョーが出してきてる条件より、もっと面倒な状況が殆ど……だろうな）
それなのに、この程度の条件もクリアできないとは、とタイラントは情けなく思う。
（敗因は、判ってるんだよ）
ひとつは、集中力が持続できないこと。
もうひとつは、００９に怪我を負わせたと思った瞬間の、動揺。
（ようはこの二つ、なんだよな……）
長時間に渡る緊張を強いられているうちに、どうしても自分は集中力が落ちてしまう、とタイラントは唇を噛む。その結果、気づかないうちに周囲への警戒が疎かになり、００９の接近を許してしまい……
（……先制攻撃を食らう、と）
そうやって戦闘に突入してしまえば、どうしても戦いの主導権は握れない。主導権が握れなければ防戦一方とならざるを得ず、追い詰められるのは時間の問題となる。
（そうすると、なんてゆーか、その……）
『スイッチが入ってしまう』とでも言うのか、身に染み付いた戦うモノの本能とも言うべき物が、全ての抑制を振り払い、瞬間、全身を支配して。
（……やりすぎちまう……んだよな……）
あっと思った時には、既に００９の腕を折るか足を折るか……とにかく相当の怪我を負わせてしまっている。
そして。
怪我をさせたという事に動揺して動きが止まった瞬間、そこにつけ込んだ００９の反撃をくらい……次に目を開いた時には負けている、というのが毎度のパターンなのであった。
「うー……」
毎回全く同じパターンということは、これを何とかしろという事だ、とタイラントは理解している。けれど、何度やってもこの二つを克服することができず。
（いい加減どうにかしないと……。だけど、どーすりゃいいんだ？）
天井を睨みつけ、タイラントは必死で考えを巡らせた。

一回目の呼び出し音が鳴り終わらないうちに繋がった電話に、ウィッチは眉根を寄せた。
「待っていてくれたの？ 悪いわね」
『たまたまよ。気にしないで、エカテリーナ』
クスリと笑ってそう応えたのは、日本に居る００３だった。

『それで、どう？』
単刀直入な問いかけ。その言葉に、手元の紙束をパラパラとめくりながら、００３は小さく首を振った。
「送ってもらった部品リストは一通りチェックしたわ、でも……」
今すぐに渡せるのはほんのいくつかだけだ、という００３の言葉にウィッチが溜息を吐く。
『まあ……そうでしょうね。そうだろうとは、思ってたけど……やっぱりね』
この一件を始める前、それなりに最悪の事態を想定し、００３とも相談して、日本にある００ナンバー達のメンテナンス部品のストックから、相当な量をウィッチの元に移した筈なのだ。
けれど。
想定を遥かに上回る事を００９にやられ、ウィッチの手元にある交換部品は、最早、尽きかけている。
「ここのストックを全部出す訳にはいかないから、博士に作って貰うしかないけれど、そうしたとしても、全部揃うまでには早くても半月はかかると思うわ」
『その前に、そのリストを見たらギルモア博士が卒倒するでしょうよ』
苛々とした、どこか投げ遣りな声音。それに、００３ははっと息を呑んだ。
受話器を握り締め、ふと目を伏せて。
「……ごめんなさい。彼、あなたに甘えているのね……」
自分の治療をするのがギルモアだとしたら、００９は決して今のような真似をしないだろうと００３は思う。
（自分の治療をするのが、エカテリーナ……いえ、ウィッチだから……。だから貴方は、心置きなく無茶をする。そうなのでしょう？ ジョー……）
身勝手とまでは言わないけれど、でも、酷な事をしている自覚が彼にあるのだろうか？ と００３は思う。
（いいえ……それは私も同じね……）
こうなることが……流石にここまでとは思わなかったものの……判っていながら、自分は００９を止めもせず、むしろ、その背中を押したのだから。
「……ごめん…なさい……私……」
そう言いかけ、けれど何と続けていいのか判らずに口篭る００３の耳に、盛大な溜息が聞こえて。そして、不意にウィッチはきっぱりと言った。
『悪かったわ。八つ当たりよ。忘れて頂戴』
「エカテリーナ……？」
『ここのところ殆ど寝てないのよ、だから……苛々してて。言い訳ね。やれやれだわ、我ながら……』
あぁもぉ、と呟くウィッチに００３は目を見開いて……わらった。
「いいのよ……。ありがとう、エカテリーナ」
『自業自得って言って頂戴。実際そうなんだから、私はね。それに……タイラントはこっちの管轄な訳だし。……ったく、アレがあそこまで馬鹿じゃなけりゃあ、もうちょっとはマシだっていうのに……』
ホントにまったく、どうしてああまで馬鹿なのか、と毒づくウィッチに００３が微笑んで。
「いいひとだわ、ジョーに少し似てる」
『それが最大の問題点だね』
にべもなく言い切るウィッチに、００３はふきだした。クスクスと笑いながら、話題を変える。
「そういえば、送ったレシピどうだったかしら？ チアフルさん、判ったみたい？」
『あぁ、大丈夫そうだったわよ。食べられるモノが出てきたから。肉じゃがと、あと、リゾットみたいな……』
「雑炊？」
『多分それかしらね。食べやすかった。徹夜明けには丁度いい。助かったわ』
「どういたしまして」
『じゃあ、私はちょっと寝るわ。部品は……』
考えるような間。けれど答は決まっていたのだろう、すぐにウィッチは言葉を継いだ。
『……いいわ。こっちで何とかする。ジョーにも、もう打ち止めだって言ってやるわ』
きっぱりと言うウィッチに００３が瞳を閉じて。
ゆっくりと目を開くと、背筋を伸ばして前方を見据え、００３は口を開いた。
「よろしくお願いします……ウィッチ」
『任せて頂戴』
静かに、けれど断固とした口調でウィッチがそう答え、そして言葉を継ぐ。
『……あなたは、大丈夫なのね？』
「えぇ」
確認するような声音に、００３が間髪を入れず答えて。
『結構。なら、あとはあの二人次第だわ』
それだけ言うと、ウィッチはそのまま電話を切った。

ゆっくりと受話器を置き、００３は手に持った紙束に視線を向けた。
膨大な交換部品リスト。それが示すのは、勿論、００９の受けているダメージの壮絶さで。
「……ジョー……」
彼は理解しているのだろうか？ タイラントの事を、と００３は思う。
（……違うわよ、ジョー。タイラントは……貴方とは違うの。多分……）
確信は持てないが。
（でも、きっと……）
何故ならば。
（彼には、貴方にここまでのダメージを与えることが出来る。貴方には出来ないけれど、彼にはできる。だから……）
息を吐いて首を振り、００３はその考えを振り払った。
（これは、あの二人の問題よ、フランソワーズ。あなたが考えることでは無いわ）
いずれにせよ、遠からず答は出るだろう。答を出さないことをウィッチが許すとは思えないから。
（私は、大丈夫）
ウィッチにもそう答えたではないか。
そう思い、００３は踵を返した。ギルモアの目に触れる前に、手に持った紙束を何とかするために。